「韓国語でお兄ちゃんはオッパって言うらしいよ。」「もしもしはヨボセヨって言うみたい」
2002年の春(まだワールドカップが始まる前だ)テレビで秋の童話を観始めた頃は、知っている韓国語といったら「アンニョンハセヨ」だけだったので、ちょっとでも新しい単語を知るととても面白かったのだ。そんな時ハングルをちょっと覚えようかなと思ったのは、ハングル表記ばかりで一つも分からなかった新大久保で、CDやDVDを買うときに便利かもしれないと、物欲と結びついての単純な動機だった。
NHKのラジオ講座のテキストを購入して音読してみたり、日本語字幕を見ながらドラマを観たりして「覚えては忘れ、また一からやり直し」と何度も同じことを繰り返しながら2年ほど一人で勉強していた。ただラジオ講座よりは、ドラマを観ていたほうが何倍も面白く「ウリ ヘオジョ(私たち別れましょう」だの「チョアハヌン ナムジャチング イッソ?(好きな彼氏はいるの?」等恋人同士のどうしようも無い会話は覚えたのだが、「5000円になります」だの「明日の天気は晴れのち曇りです」だの生活に必要な会話は一つも覚えられない。さすがにこれでは仕方がない、せっかくだからもう少し実のある勉強をしようと思い立ち、2月からご主人が日本人という韓国女性から韓国語を習い始めた。
今日は「何々みたいですね。」という言い方を勉強したのだが、「今日は気分がよさそうですね」というテキストの例文を無視し「馬鹿みたいですねは パボンガバヨでいいですか?」と暢気な質問し「その言い回しはドラマを観て覚えたんですね」と笑いながら指摘されてしまった。
(幼い子は汚い言葉を直ぐに覚えるというが、それは大人も一緒のようだ。誉め言葉よりも罵り言葉などのほうが印象に残るような気がする)
今の私にとって、韓国語を覚えても韓国ドラマを楽しむことくらいにしか役に立たないが、知らないことが分かるというのは無条件に楽しいものなのだ。そんなシンプルな喜びを感じられることは、日常生活ではありそうでなかなかないのではないかと思う。
いつもテキストとは関係ない質問をしているにも関わらず、「自分では気が付かないかもしれませんが、ちょっとずつ上達していますよ。私も教えがいがあります。」などと嬉しいことを言ってくれる誉め上手な先生のおかげで「会社員のチョ・ナンカンを目指します!」などと調子に乗って毎週楽しく練習をしている。
2002年の春(まだワールドカップが始まる前だ)テレビで秋の童話を観始めた頃は、知っている韓国語といったら「アンニョンハセヨ」だけだったので、ちょっとでも新しい単語を知るととても面白かったのだ。そんな時ハングルをちょっと覚えようかなと思ったのは、ハングル表記ばかりで一つも分からなかった新大久保で、CDやDVDを買うときに便利かもしれないと、物欲と結びついての単純な動機だった。
NHKのラジオ講座のテキストを購入して音読してみたり、日本語字幕を見ながらドラマを観たりして「覚えては忘れ、また一からやり直し」と何度も同じことを繰り返しながら2年ほど一人で勉強していた。ただラジオ講座よりは、ドラマを観ていたほうが何倍も面白く「ウリ ヘオジョ(私たち別れましょう」だの「チョアハヌン ナムジャチング イッソ?(好きな彼氏はいるの?」等恋人同士のどうしようも無い会話は覚えたのだが、「5000円になります」だの「明日の天気は晴れのち曇りです」だの生活に必要な会話は一つも覚えられない。さすがにこれでは仕方がない、せっかくだからもう少し実のある勉強をしようと思い立ち、2月からご主人が日本人という韓国女性から韓国語を習い始めた。
今日は「何々みたいですね。」という言い方を勉強したのだが、「今日は気分がよさそうですね」というテキストの例文を無視し「馬鹿みたいですねは パボンガバヨでいいですか?」と暢気な質問し「その言い回しはドラマを観て覚えたんですね」と笑いながら指摘されてしまった。
(幼い子は汚い言葉を直ぐに覚えるというが、それは大人も一緒のようだ。誉め言葉よりも罵り言葉などのほうが印象に残るような気がする)
今の私にとって、韓国語を覚えても韓国ドラマを楽しむことくらいにしか役に立たないが、知らないことが分かるというのは無条件に楽しいものなのだ。そんなシンプルな喜びを感じられることは、日常生活ではありそうでなかなかないのではないかと思う。
いつもテキストとは関係ない質問をしているにも関わらず、「自分では気が付かないかもしれませんが、ちょっとずつ上達していますよ。私も教えがいがあります。」などと嬉しいことを言ってくれる誉め上手な先生のおかげで「会社員のチョ・ナンカンを目指します!」などと調子に乗って毎週楽しく練習をしている。