「Yの悲劇」を再読した
こんな内容だったのか、、と記憶の欠如にがっかりするが、
この古典が現在、その扱いをされていないのもわかる気もした
「あと味が悪い!」
ミステリーは謎が解けてスッキリとなることが多いが
この作品は残念ながら、そうとはいかなかった
元俳優で推理力の優れたドルリー・レーンは
ホームズとかポワロを彷彿とさせる人物で
発売された当時はこの手のキャラクターが主流だったのかもしれない
いろんな作品の「あと味」とても大事な要素で、その毒のためにいつまでも印象に残る
ことはあっても、気分的には落ちこんでしまう
あと味の悪い映画に「ダンサー・イン・ザ・ダーク」がある
これは最後の1シーンのせいで、強烈な印象を受けるが、それ故にもう見る気はしない
あと味と言えば、大好きなブルックナーの音楽はどうなのかと想像してみた
彼の音楽は最終的には神への讃歌っぽいところがあって、全肯定的に輝かしく終わる
聞いてると、またやってる、、しょうがないなあ、
このひとの一番言いたいことだから仕方ないか、、、と許してしまう
(ロマンテックの最終楽章の最後の部分、徐々に輝きを増していく音響
それはワンパターンでも彼が望んでいる世界観)
宮本輝の小説も、あと味が悪くないことが保証されているようで
安心して読める(最近は読んでないので違ってるかもしれないが)
やっぱり、自分は全肯定的なあと味のほうが好きだな
投票は(国民・市民の)義務なのか、権利なのか?
先日テレビでインタビューに答えて「義務」と口にした人がいたので
「おいおい、義務じゃなくて権利だろう」画面に向かってツッコミを入れた
せっかく先人たちが苦労して手に入れた投票という権利を
義務と勘違いしているならはイヤイヤでも投票するかもしれないが
正しく権利と理解していて、その上で面倒だからと放棄するのは
もったいない!と思ったりするが、現実を見てみるとこれが思いの外
簡単な話ではないことに気づく
国政と同時に新城市では月末に市長・市議会議員の選挙が行われる
そこでいろんな人に「市長に立候補している人をどのくらい知ってる?」
と聞いてみると、圧倒的に多いのが「よく知らない」という答えだ
せいぜい知っていること言えば、片方は鳳来地区の人、もう片方は新城地区の人
ということくらいで、もう少し知ってる人はふたりとも市議会議員経験者と言うことぐらいだ
よく知らない人のどちらかを選ぶ、、というのは、まるでくじ引きのようだ
知らないままでの投票ではまずい、、ということで、公開討論会が行われているが
10月2日のYoutubeの再生回数は1516回
10月7日は782回
10月14日は515回
となっている(10月22日現在)
この数字がリアリティのあるものかどうかが気になって
「Youtubeの動画を見たことがあるか?」
と合わせて聞いてみると
「見方がわからない」「見なきゃいけないけど、つい後回しに」
となっていて、自ら働きかけてチェックするというのは
なかなかむずかしいように思われる
制度的には権利の行使によって、正常な民主主義ができるようになっていても
その実態は、かなりいい加減なところで進んでいるように思える
いい加減でも、最終的には多数の意思は間違いの少ない方を選ぶということが
確保されればいいのだが、それは必ずしも保証されていないのも現実だ
最近、頭に浮かぶのは
「大衆は正しい(この定義がむずかしいが)選択をしうるものなのだろうか?」
という疑いだ
と言っても、この壮大な問に一人であれこれ考えていても生産的ではないので
今個人としてできることを行うしかない(何をしたらいいのか?)
「知らない人を、知らないままで選ぶ」という行為は恐ろしいことに思えるが
そのように感じていない人が多いのも事実(これが一番の問題かも)
とりあえず、国政の方は腹は決まっているが、市政の方は困った
(市長の方は決めてるが、市議会議員の方は全体のバランスを考えて選ばねばならないので)