本は付箋を付けておくかページの端を折り曲げておいて
読み直すのに便利ようにしているが、ワードに書き起こしたものもある
それらを集めたフォルダの中に、丸山 眞男の残した文章があった
どこから抜き出したのか書き残していないのが自分らしいが
なかなか印象的な内容だった
以下がその部分
近代生活の専門的分化とは機械化は人間をますます精神的に片輪にし、それだけ政治社会問題における無関心ないし無批判性が増大します。簡単にその重要な契機を例示しますと、まず技術的専門家に特有なニヒリズムがあげられます。おおよそ特殊分野のエキスパートに通有の心理として、自分の技術なり仕事なりを使ってくれさえすれば、それを使う政治的社会的な主体が何かということについては全く無関心で、いわば仕事のために仕事をする。毎日仕事に謀殺されるということそれ自体に生きる張りを感じる。これは単に自然科学の技術者に限らず、官庁とか大会社のような膨大な機構のなかで1つのデスクを持っている事務のエキスパートにも多分に見られる精神的傾向で、これが結果的にはいかなる悪しき社会的役割にも技術を役立て、いかなる反動的権力にも奉仕するということになりやすい。
現代政治の技術的複雑化からして、政治のことは政治の専門家でないと分からないから、そういう人に万事お任せするというパッシブな考え方が国民の間に発生しやすい。専門家に対する度を超えての無批判的信頼が近代人の特色の一つだとエーリッヒ・フロムも指摘していますが、これが政治の分野まで及んで、政治的無関心を増大させ、デモクラシーを内部から崩壊させていくのであります。一体、デモクラシーとは、素人が専門家を批判することの必要と意義を認めることの上に成立しているものであります。アリストテレスが「政治学」の中で、「家の住心地がいいかどうかを最終的に決めるのは建築技師ではなくその家の住人だ」ということを言っていますが、まさにこれが民主主義の根本の建前です。同じように料理がうまいかどうかを決めるのも、腕自慢のコックではなくて、それを食べる人です。どんなに最新の技術的知識をふるって作った料理でも、主人やお客さんがまずいと言えば、コックはその批判に従わなければなりません。「そんなはずはない。それはあなた方の嗜好のレヴェルが低いからだ」とか「文句があるならお前が作ってみろ」というような言い方は通りません。デモクラシーもその通りで、政策を立案したり実施したりするのは政治家や官僚でも、その当否を最終的に決めるのは、政策の影響を蒙る一般国民でなければならぬというのが健全なデモクラシーの精神です。
さらに現代生活において国民大衆の政治的自発性の減退と思考の画一化をもたらす大きな動力があります。それは言うまでもなくマス・コミュニケーションの発達によるわれわれの知性の断片化、細分化であります。現代の新聞・ラジオ・映画・大衆雑誌等は、多かれ少なかれ人々の知性を原子化する作用をします。いわば質的知識が量化されると申しましょうか。一例を上げますと、ニュース映画などで、最初に、朝鮮戦争でのナパーム弾による凄惨なシーンが出ると、忽ちその次には「今年のパリの流行は」というようなテーマで華やかなファッション・ショウの場面に変わる。議会の問答がちょっと出るとすぐフットボールの試合場面が続くといった具合です、こういうふうに全く無関係な印象を次々と短時間に押し付けられると、一つの事柄については持続的に思考する能力というようなものは段々減退して、刹那刹那に外部からの感覚的刺激に受動的に反応することに神経を使ってしまう。ある事件や事柄の歴史的社会的な意味というようなことはますます頭から消えていくのです。こういう知性のコマギレ化に並行して、思考なり選択なりの画一化が進行します。今日のマス・コミュニケーションは必ずしも露に画一的な結論を押しつけない。むしろ素材そのものを巧妙に取捨して、人があたかも自主的に一つの意見を選択したかのように信じ込ませる。これは近代の広告技術などに最も端的に現れています。
中略
現代の最も進んだ広告は、非常に間接的な方法をとります。例えば、何々石鹸が一番いいとは露骨に言わないで、良い石鹸と悪い石鹸を見分ける基準を教えたり、美人に石鹸を持たせたり、「20歳以下の人は使ってはいけません」というような逆説を用いたりして、購買者が暗示や自己欺瞞によって、自主的な判断でもってある商品を選んだかのように錯覚させるのです。現代のマス・コミュニケーションとそれに支えられた政治権力は、基本的に全くこれと同じ手段によって国民の政治的思考を類型化し画一化し、いわゆる「世論」を作り出していくと言えるでしょう。
官僚さん、あるいは政治家の仕事、それに任せっぱなしの状況、そして人の感じ方を左右するメディアの影響
時代的には少し前の人だが、まるで現在のことのように書き残している
あれから少しも人は進歩していない、、
東西冷戦の終わったことに書かれた「歴史の終わり」では、人はあるべき姿に進歩していく
と楽観的に捉えていたが、それは幻想に過ぎないことが明らかになったのが現在の状況
少しばかり絶望的な気分になりそうだが、それでも、ずっと昔よりは良くなっている
と思い直すことにして、今できることを地道に続けるしかないか