正月太リが心配でここ2日ばかり歩いている
2日は桜淵公園まで、昨日は全く逆の方向に
冬は体が固くなるから腰が痛い
特に朝は休んでいたはずなのに冴えない
少し体が温まると良くなるような気もするが、気のせいかも知れない
歩き始めて調子が出来きた頃、家からマスクをした知り合いが見えた
挨拶をしようとしたが、彼はこちらが誰かわからないようだ
そこで瞬間的に帽子とマスクを外した
「おお、あんたか、、まあ寄っていきん」
ということで、温かい部屋でしばらく話すことに
「去年は大変だった」
それはそうだろう、道路を挟んで前の家と彼の組からは市会議員選挙に
立候補者が二人出てその応援に困ったというのだ
昔、我が家の地区でも、近所に三人の市議会議員立候補者が出たが
みんな知ってる人なので、投票を祖父母、父母がそれそれ割り振って
投票したことがあった
市議会議員選挙の現実は、知ってる人を、あるいは近所の人に投票する行為のようだ
地元の気持ちをくんで声を届けてくれるとか、市政のあるべき姿を実現するための
意志や意欲があるかどうかは、選挙期間の短い間ではわからない
つまりは容易に想像できるように、人物の実態を知らないまま投票しているのが実態
もっともこれは今に始まったことではなく、ずっとそうだったと思われる
だが、最近が特に市政(市議会)がトラブル続きになっているのは少し問題と彼も考えている
「結局、みんなが何も知らないからだ」
最終的にはいつもこの答えにたどり着く
だがこの先が難しい
知らないから正しい投票の選択ができていないとしても、知ってもらうにはどうすべきか
知りたいという気がない人に、いくら大事なことだからと説得しても
それは馬耳東風となりそうだからだ
知る気がない人(多くの一般の人)も、いざ身の回りに切実な問題が起きると
何らかの解決を政治的に行うことを考える
そこで瞬間的にはいろんなことを思う
(問題解決法とか、市の予算とか、市長の方針だとか、市議会議員の姿勢とか)
だが、それらが一区切りつくと、いつまでも記憶に保存しておくことは
効率が良くないかのように顕在的な意識から離れてしまう
これは脳の働きにそうした傾向があるのかもしれない
要は、自らが経験した出来事が他の地区で起きていても
想像力を働かせて我がことのように共感することは難しいようだ
ATIという言葉がある
それはA=圧倒的 T= 当事者 I=意識の略で
物事を考えるには「圧倒的当事者意識」が必要というのだ
当事者意識を持つのも、社会階層によって差ががありそう!
と考えられるのはブルデューの「ディスタンクシオン」の影響だが
現実的には、気づく人に頑張ってもらうしか手はないかも知れない