「自由の欲求については、イギリス人の如く具体的の事柄について常識的にそれを見るのと
フランス人の如く合理主義的・抽象的にそれを考えるのと、まだドイツ人の如く理想主義的に
それを取り扱うのと、国民の性情によってそれぞれの違いがある如く、個人の人物や地位に
よってもまた差異があることを知らなねばならぬ。
しかしそういうはっきりした概念を持たないのが明治中期までの日本人であり、
そこから考え方の混雑と曖昧さとが生じるのであった」
これは先日取り上げた「明治維新の研究」(津田左右吉)からの抜き出し
コモンセンスを重視する保守的なイギリス人
因果関係を追求し、理性の暴走をも招きかねないフランス人
あるべき理想のなかに何かを求めるドイツ人
同じものに対しても向かい方が違うとしている
問題は日本人だが、明治中期ははっきりした概念を持っていないと
津田左右吉は断定している
気になるのは、明治から100年以上経過した今はどうなのか?だ
そこで、独断と偏見で判じてみれば、
日本人の傾向は「権威主義的な、、、」の表現のなかに収まるのではないか
「長いものに巻かれろ」とか「よらば大樹の影」をごく自然に選んでしまいそうな日本人
つまりは「権威に圧倒的に弱い」ことを現しているのではないか
もしくは、少しニュアンスは違うが、多くの人のいる考えに馴染むとか
(それは数多くいることが権威になっているからのように思えてしまう)
最近の個人的な関心事は「支配と従属」だ
支配に代表される命令を人はなぜ安易に受け入れてしまうのか?
例えば、選挙における各種団体の投票指示になぜ従ってしまうのか
良くないと直感では感じていながらそれをしてしまう官僚とか
ドイツ人なら「個人で考えること、判断すべきこと」が
誰かにいわれて思考停止して行動に移すことを平気でしている
ここの部分がどうしてもスッキリしない
権威に弱いのは、ほんと何故なんだろう