パンセ(みたいなものを目指して)

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「新聞記者」を見たくてNetflixに加入した

2022年01月19日 12時21分19秒 | あれこれ考えること

「新聞記者」が見たくてNetflixに加入した
同じような人が多いらしい
映画の「新聞記者」は見たが「よくやるな!」と思わされたが
今回のそれは更に上を行く
最後に「このドラマはフィクションです」の但し書きがあるが
多くのこれを見ようとする人は、ネタの元が何であるかを知っている
(実際に国会で使われた言葉がそのまま使われたりして)

登場人物の背景やらイメージ、その人の運命まで知っている
そのせいか、エピソード1を見ただけでも画面は緊張感に溢れている

正直なところ見る前は評判は聞いていたが、ネット配信の番組では
それほど丁寧に作り込んではいないと勝手に思い込んでいた
ところが空撮やら取材先やら出演者やら想像以上の力の入れようだ
これを見るとテレビの地上波の存在は風前の灯火だと実感する

テレビ局の中の人が心底危機感を持って本気になって立て直そうとしているのか
現在のテレビ番組表を見るとかなり疑わしい
テレビは誰も助けてくれないから当事者たちが必死にならない限り衰退すると
思われるが、そのことはこの国のことに関しても同じかも知れない

イギリスのガーディアン紙にもこの番組の寸評が載っていたらしい
お涙頂戴のエンタメから脱するようなところも見られるとあるらしいが
「こんなことをして(悪いこと、改ざん)人は夜、寝られるのだろうか?」
とシンプルな、それゆえに誰もが思う問を発している

普通なら悪いことをしている自覚があるなら、心が重い
だがそう感じないと思われる人々が世の中には多く存在する
(ドラマでも実社会でもそういう人は出世する)
それは自らの生活を守るため、野心を果たすためなのかも知れないが
「悪いやつ程よく眠る」といった少しも罪悪感を感じない人が
当たり前のように存在するとはどこか思いたくない

個人の判断、、人には一生それがついてまわる
職務上の命令であれ、最終的には責任を持つのは判断力をもつ個人とされる
これは日本人にはすんなりと理解されないようだが、ドイツ人は当たり前のことらしい
例のアイヒマンの裁判でもこの「個人の判断力」の部分にフォーカスが当てられて
審判が下されている

だが、ここで少し考えることがある
このドラマを見ようとする人々の特性は、与党を支持する人たちの特性とは明らかに違う
結局のところ情報に対する接し方は自分好みのものだけに触れるというのが最近の危険性だ
現実的な中立公平などは存在し得ないから、最初から対立構造を明らかにして意見交換をしたほうが
現実的と考えることができるが、先程の自分好みの情報にしか接しない心理的傾向を思うと
どちらかの立場だけの情報だけでは世の中は上手く回らないかも知れない

それにしても、立場の違いからと、無関心からの情報格差は「分断」を生んでしまう
とつくづく感じてしまう
知っていれば違う判断をするはず、、と思われることが、
知らないため(知りたくないため)に判断が安易にされてしまうこと、、
それをこのドラマを見るようになってまず感じたこと

この番組を見るだけでもNetflixに加入した意味はあるかも知れない
この番組は映画より時間に縛られていないから、丁寧な作りになっている
これを楽しむということは、日本人にとって良いことなのだろうか?
と思えてしまうところが情けない
明らかに言えるのは「見ないより見たほうが良い」ということだ

コメント
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