本を読んでも情けないくらい覚えていないが
昨日、すこしホッとすると言うか安心できる文章を見つけた
それは「近代の超克」の中から林房雄の論文 「勤皇の心」の一箇所
相変わらず本質と関係がないところに関心がいって、これもまた情けないが
少し抜き出してみると
勢い私たち中学生の読書欲は、春陽堂と新潮社、「中央公論」と「文章世界」が
指導し広告する方向に盲の馬のやうに駆けて行った。読んでは忘れ、読んでは忘れる。
全く忘れてしまうのなら、影響は少ないはずだが、文学という色の濃い水は読者の心に
流れこみ、たちまち流れ去るとはいえ、必ず何かの沈殿物を残す。一冊二冊なら、
沈殿の量は少ないのであるが、月に十冊、年に百冊、五年に五百冊と重なるに連れ、
感受力と吸収力の強い少年の心は、この沈殿物に厚く蓋われ、時には精神の構造が
変化されてしまう。
確かに 何かが自分の中に残っていると感じることは多いし、またそう思っていたい
多分、いろんな判断をする上でこの何かが大きなウエイトを占めているに違いない
(と思う)
「近代の超克」に話が飛んだので、いまだ読書中のこの本について少し
ほんの何十年前の文章なのに読みにくい。
漢字が今とは違うし、前提となる歴史の知識も違う。
(そう言えば戦前、戦中の新聞記事もとても読みにくかった)
それらはさておき、「近代」とは参加した知識人の間では
欧米のこととして認識して、それをどのように超克するかが各人が
それぞれの専門分野の立場からあれこれ述べるのだが
ざっと読んだところ共通しているのは、日本が西洋やアメリカの文化
知識を取り入れる時、日本人はその器用な取り入れからをして
柔軟に日本流に加工している、それはそれで分かりやすく実践的なのだが
西欧やアメリカが試行錯誤してその知恵にたどり着いた本質を理解していないために
行き詰まっている、とした点は誰もが同じような発言をする
それは今でも感じる
結局はわかりやすい方面からの捉え方をしがちで、根本からじっくり考えていく
というのは、いつになっても得意じゃないのがこの国のようだ
しかし、これがずっとむかしからのこの国の他の文化の捉え方だったのか
現実的な役立つことのみ、おいしいとこのつまみ食いのような取り入れ方をしていたのか
これは、また別の歴史家の話を聞かないとわからないかもしれない
でも、歴史の転換点にいるような現在
「そもそも」の原点に立ち戻って考えることは、現実的な対応に応じるのと
同様に大事なことではないか
と言っても、結局、あの時代「知識人」は結局のところ何もできなかった
何もできなかった歴史を踏まえて、ならば人は今何をするかを考えて
行動しなければならない
いろんなことは始まってしまうと立ち止まったり、中止することは難しい
(豊洲市場の移転問題も、新城市庁舎の問題も、新東名バスの運行も
スタートしてしまったら、今まで使った金額がもったいないということで
そもそもの段階に戻しにくい)
事が起きる前、そのときこそじっくりとそもそも論から話し合わねばならない(きっと)
しかし、それを誰が(みんなで?)行うか!ということになると
これまた別の難しい問題となりそうだ
話は元に戻って、
本は消化不良でもきっと何か何処かに残っているはず、、
でも人に説明できるくらいの理解したいのも本音
人に話すことによって自分の理解も深くなっていく
だから聞いてくれる人を探そうとするが、、、
(でも自分の話は面白くない、、きっと)