パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

鳥の声

2020年05月18日 08時38分23秒 | 徒然なるままに

かつてNHKのラジオ番組に「早起き鳥」があった
母は朝になるとこれを聞いていた
それは祖母(母方)の習慣そのもので
遺伝子はこんなところで間違いなく伝わっているのか
と不思議に思ったものだ

自分が父の遺伝子を引き継いでいると感じられるのは
朝になるとくしゃみをすることだ
子供の頃から、朝になると父がくしゃみをするのが
不思議で仕方なかった
それを今自分が同じようにしている、、
一年中何かの花粉が飛んでいるが、
父も何かのアレルギー反応を起こしていたのか

涼しいうちにウォーキングすると、鳥の声が聞こえる
鳥は早起きだな、、早くからご苦労さん、、、
そういえば昼中はそんなに鳥の声を意識することはない

不意に鳥たちは夜中はどこで眠るのだろう
台風の時などはどこに避難するのだろう
などと気にかかった

だがそれも直ぐに意識から離れて、
鳥の声が体全体に感じられ幸福感に満ちた記憶が蘇った

それはドイツのハイデルベルクでの出来事
そこにあるフルトヴェングラーのお墓に、あることを確かめに37年ぶりに訪れた(2013年)
初めてそこを訪れた時(1976年)、お墓の前で突然、ものすごく充実して
奏者が必死になっていると感じられるベートーヴェンの第五交響曲が聞こえてきた
半端ない必死さや、それが生み出すスリリングな印象
その印象は強烈だったので、それは幻聴ではなく、本当に聞こえたのだとずっと思っていた

しかし時が経つにつれ、それはやはり幻聴だったのだろう、、
と理性が考えるようになった
だが気になって仕方ないので、それならばもう一度現場にいって
確認してみようということで再訪問したわけだ

再訪問したその場所は静かだった
何も聞こえなかった
聞こえてきたのは鳥の声だけだった
でもそのかわり今度は鳥の声が、フルトヴェングラーのお墓の前で
音楽を奏でているような気がした(ゆっくり眠るようにと)
耳が慣れると鳥の鳴き声がいくつもあることに気づく
そのお墓の前にあった長椅子に座って、時を忘れるように
鳥の鳴き声を聞き続けた
「鳥は最高の音楽家だ」と言ったのは現在音楽の作曲家のメシアン
「その通りだ!」と思う
なにか難しい会話をしているのではない
ただただ勝手なことをしてるだけかもしれない
でも、その鳴き声に一旦身を委ねると時を忘れる

鳥の鳴き声を楽譜に残したメシアンは「鳥のカタログ」という
ピアノ独唱曲を残している
愛鳥週間は終わってしまったが急に聴いてみたくなって
何年かぶりに引っ張り出してみた


集中して聴くというよりは、リラックスして野原に寝そべっている感じで
勝手なおしゃべりを浴びるように聞く、、、
それがこの曲集の聞き方(自分の)
(ウトウト寝てしまったらその時はその時で、それもあり)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

多数決の正当性の条件は果たされたか

2020年05月16日 08時40分54秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

何かの問題を半か丁かを決める場合、
神とは違う不完全な存在の人間は、どのようにしたら確率的に
間違いを起こさないようになるか、、との課題を数学的に考えたのが
「陪審定理」というらしい
(岩波新書の「多数決を疑う」坂井豊貴著に紹介されている)

半々の確率で出るコイントスで決めることと比べると
人の理性による判断のほうが優れているのではないかと仮定し
人間の理性による判断が正しい確率をvで表すと
その値は1よりは低いが、0.5よりは大きい
間違える確率は1-vとなる

これでいろんな状況をシミュレーションしていくと
その結果は、一人で判断するよりは多数で判断したほうが
間違いは少ないと言う結果になる

例えばvを0.6としてA.B.Cの3人で判断する状況では
1.3人全員が間違える そこで得られた多数決は間違い
2.Aだけが正しく、他の二人は間違える これで多数決をすれば1対似なので多数決の結果は間違い
3.Bだけが正しく、他の二人は間違える このときは1対2なので多数決の結果は間違い
4.Cだけが正しく、他の二人は間違える このときは1対2なので多数決の結果は間違い
5.A.Bが正しく、Cが間違える このときは2対1なので正しい側が勝って多数決の結果は正しい
6.A.Cが正しく、Bが間違える このときは2対1なので正しい側が勝って多数決の結果は正しい
7.B.Cが正しく、Aが間違える このときは2対1なので正しい側が勝って多数決の結果は正しい
8.3人全員が正しい 多数決の結果は正しくなる

このように8つのケースが考えられるが各ケースの確率を求めると
正しい多数決の結果が出たのは後半の4つ
そこで正しい結果が出る確率を求めるには
後半の4つの確率の和となり、計算をすると0.648となる
この数字は当初の仮定した数字の0.6よりも大きい
だから、複数の人間で判断したほうが正しい確率が上がるということだ

容易に想像できるように参加する数が多くなれば
それだけ正しいとされる確率はあがっていきそうだ
これが根拠になって、多数決の間違いの無さを保証している

ところが、これには条件が満たされている必要がある
1.情報が適切に与えられており、理性を働かせ、偏見や思い込みで判断しないこと
2.自分の頭で考えて判断すること。投票の前に討議の機会はあってもよいが
 その場の雰囲気に流されたり、勝ちそうな方を予想してそちらに投票しないこと

問題はこの条件が人間社会ではなかなか守られそうにないことで
過去の人たちもこれで苦労したようだ

これは私自身ではなく、全員にとっての問なのだ。
つまり私は、私にとって良いと思うものを選ぶべきではない。
自分自身の意見から抜け出た上で、
何が理性と真理に適合するか選ばねばならない(コンドルセ)

ここで「自分自身の意見から抜け出た上で、」とは
「自分だけの利益から抜け出た上で」と解釈するとわかりやすい
と「多数決を疑う」岩波新書では解説している

今回、長々と抽象的なことを挙げてきたのには理由がある
それは先日新城の臨時議会で行われた議決が
このような自己抑制された判断が求められたにもかかわらず
それが行われたと思えなかったからだ

多数決が正しいとされる理屈とか制度は分かる
しかし、先日市議会で行われた採決は、損得が関わった人たちが多数いて
本来ならばこのような当事者は採決に関与しないのが適切と思われるが
議会運営の手続き上(の欠陥?)で、そういうわけにはいかず
結果的には問題を多く抱えた人たちの多数によって、予想されたとは言え
納得し難い結果になってしまった

だがこのような結果は最初から予想できたことだ
もしかしたら、誠実に自分と向き合い良心的な判断をするひとが出てくる
と思いながらも
自分の身を守るために一致団結して不利益な採決には反対するだろう、、、と

ならば、何故そのような行為(議案提出)に至ったのか、、
予想するにそれは「記録」されることに意味あるとしたのではないか
既に市議会のホームページの議案内容と結果がアップされており
ホームページを見ない人にも「議会広報誌」に掲載されるだろう
この恥ずかしい議案は自分が公にするのをためらうことだったが
これを見た人たちは、何が起きてるかはわからないが、なにか異様なことが
起きている実感はもつだろうと思われる
それにしても、、、、、

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

終わったのは午後8時半(昨日の臨時議会)

2020年05月15日 10時35分06秒 | 市政、市議会に関することなど

新城市の話
以下あちらの方のコピペ

山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。  
智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情(じょう)に棹(さお)させば流される。
意地を通(とお)せば窮屈(きゅうくつ)だ。とかくに人の世は住みにくい。

夏目漱石の「草枕」の有名な冒頭部分だが、昨日はまさにそれを実感するような1日だった
そしてその現実に悲しい気持ちになった

昨日は臨時の新城市議会が行われた
ところが終わったのは何と午後8時半
これまでに新城市議会は時々夜遅くまでのなることがあった
残念ながら、そのいずれもがみっともない理由だ
(ある議員の議場全体が騒然とする発言事件、政治倫理審査会の事情聴取、打ち合わせ不足の動議提出など)
そして今回も例に漏れずみっともない出来事が理由だった

新城市以外でも新コロナウィルス感染対策のため緊急に補正予算とか
専決処分の了解のための臨時会が開かれている
でもそれに要する時間はきっと夜の8時半までかかることはないと思われる
何故、新城市議会はそんなに時間がかかったのか

その前に、専決処分とか補正予算の議案についての議案に対して
通告書を提出して質疑を行ったのは、丸山・山口・山田・澤田・浅尾・滝川市議の6人だった
この6人は「市民を守る議員ネットワーク」のメンバーで、市に対していくつかの要望を
いくつか提出している
通告を提出し質疑を行ったのが偶然この6人だったのか
それとも打ち合わせをして何らかのイメージアップ(?)を図ったのかはわからない
だが質問が被っている部分が多かったので、それぞれが独自に行動したと思われる

何故、夜遅くまでかかってしまったのか?
その兆しは、臨時会が開会された直後に見られた
10時に会が開かれ、さあこれから質疑が始める、、と待っていると
いきなり議長から「一旦休憩と再開は11時から」の宣言

驚いたのは傍聴者だけでなく市の幹部職員も
「鳩が豆鉄砲を食ったよう」とはこういうことを言うのだろう
怪訝な表情で席を後にした

議会のメンバーは部屋を移動して、ある問題について会議を行った
この問題というのが夜8時半までかかることになった原因なのだが
この問題をここで公にするのは、とても恥ずかしくて気が進まない
とにかくみっともない状況が発生し、その問題は最終的には
その後の会議を経て議決を要する手続きとなった

5時近く、本来の臨時会の目的の議案についての議決が終わり
幹部職員もやれやれお役目御免となるはずだったのが
それがすんなり終わるわけにはいかなかった
新たに、この日のうちに審議する案件が追加されたのだ

この新たに追加された議案というのが、朝から議員同士で討論された内容で
市の幹部職員の方々は、何がなんだかわからない状態で
ただただ市議会場から開放されることはできなくなった

このみっともない問題については、おそらく別の(誰かの)何かで知ることになるだろうし
後日各家庭に配布される「議会だより」にも、少なくともその結果だけは掲載されるだろう

とにかくその新たに提案された議案は、議案提案理由の発表、賛成・反対討論
そして採決という段取りを何度か繰り返すことになった
(新たな議案は6件あった)

ここで問題なのは、この議案に対する賛成・反対討論を聞いていたのは
市の幹部職員と傍聴者数名に過ぎなかったという事実
幹部職員は、言葉の戦いとしての討論を目前で聞いて
それに対する議員の賛成・反対の判断も確認できたわけだが
どちらの言い分に正当性があるか、どのように感じたのか
(絶対言わないだろうが)聞いてみたい気がする

賛成・反対の票分けは、結果的に「市民を守る議員ネットワーク」対、他の議員
の構図が繰り返された(6対10 議員一人は欠席)
だが、不意に思い浮かんだのは
「もし傍聴者が数多くいたならば、議員は同じ選択を下しただろうか」ということ
傍聴している立場から判断するならば(多少偏っているかもしれないとしながらも)
筋道が通って感情的にも納得できたのは圧倒的に少数の意見の方

何も知らない人たちがあの場にいて、知らなかった情報を初めて耳にして
その上でどうすべきか、、、との選択を我がことのように感じたならば
多くの人は、これらの結果を了として受け入れられるだろうか
(個人的にはそうとは思えない)
自分たちが投票した議員が、その判断力を試される議決という
その現場を見聞きした時、投票した人は
「もしかしたら誰それに投票した行為は間違いだったかもしれない」
と思ってしまわないだろうか
つまりは議員は自分の支援者が多くいる中、あるいは何も知らない人が多くいる中と
見てるのが少ししかいない場合と、同じ選択をできるのだろうかということ

ところで、割りを食ったのは議場に長い時間を拘束されることになった
市長を始めとする幹部職員たち
議会終了のあと、コロナ対策に忙しい中でこのような長い拘束を強いられた
ことに関して市長から不満の言葉が出たらしいが、それには納得(同情)する

それにしても、新城市議会は依然としてピンチのようだ
そしてそれは悲しい

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

霜ではなくて朝露だった

2020年05月14日 08時33分52秒 | 徒然なるままに

 日の出の時刻が4時台になって、目が早く覚めるようになっている
「涼しいういちにウォーキングに行っといで!」
の半ば命令のような声に、ここ二三日は素直に従っている

今朝も昨日と同じ人達と出会った
それもだいたい同じ場所で
同じようにあいさつと、ちょっとした世間話をして
また自分の時間に戻っていく

田舎道は気持ちいい
空気も朝は心なしか澄んでいる
田んぼの所々からカエルの声が聞こえる

行く手の東側、雑草(?)が生えている畑が目に入る
あれっ!
逆光に照らされて草・地面がキラキラと、
まるで霜が降りているように光る
そんなはずは、、、
それは朝露だと冷静な頭が働いたが
その前に浮かんだのは
かささぎの渡せる橋におく霜の 白きを見れば夜ぞ更けにける
(百人一首 大伴家持)

この歌の意味とか情景ではなく単に「霜」という言葉に
引っかかっただけだが、昔の人は自然と一体化した感覚を
持つことができたことに少し羨ましく感じる

百人一首も万葉集も古今和歌集も新古今和歌集も
そんなに真面目に読もうという気はないし、根性なしだから
百人一首を覚えようという気は端っからない
でも、どういうわけか家にあるそれらの本を適当に開いてみると
季節とかその移ろいとか、その感じ方とかが
今はとても素直に心に入っていく

自分も季節の変化に物思う日本人だなあ、、と感じるわけだが
同時に平安とか江戸時代の貴族社会はこのような歌がうまく
詠めることが必須となっていたことは、何かを感じる心を
大事にしていた社会のように思われて、それはとても重要なことと思われる

日本が好き、、と公言して、(ツイッターの)プロフィールにはゲームキャラクターの
写真を無頓着に使って、個人攻撃の好きな人たちは
本当に日本が好きなのか、、と思えてしまう
少なくとも彼らからは、季節の移ろいに心動かされるようなメンタリティを
感じることができない
同時に責任重大な立場にありながら、言葉が軽く
とんでもない判断(マスク二枚)をするあの人にも
リベラルアーツの要素は少しも感じられない
それで究極の判断がまともにできるのか不安を覚えて仕方ない
(困ったものだ)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

譲らない人たち

2020年05月13日 09時46分47秒 | 市政、市議会に関することなど

市議会の全員協議会を傍聴にいった
素人には「全員協議会」の位置づけがわからない
全員で行うのは分かるが、そこで何かを決めるのか
それとも共通認識を確かめるだけなのか

男同士の会話は、なにか結論を出さないと互いに落ち着かないが
女同士の会話は、感情の交流あるいは共通認識の確認で満足する
と言われているが、昨日の長く時間のかかった「全員協議会」は
女性同士の会話のパターンだった

最近は国会でも、討論が裁判のようになっていると言われている
妥協点、あるいはより良い解決策を求めて、自分の意見も修正しながら進める
というよりは、一旦自分の意見を譲ったら「即負け」で何が何でも
主張は譲らない、、、その光景は裁判のようだと例えられるのだ

そのような場面がここでも見られた
ある問題に対立が生じた
長く時間がかかると結局は双方同じことを繰り返す
そこで何かを決めようとすると、
今回の場合は問題となっている当事者に権限があるので
それで進めていくのは奇妙なことになってしまう

要はそこでは決められない状態だったということで
仮に決めることのできる判断材料をを持っているのは
この全員協議会を傍聴していた人々、、ということになりそうだが
現実的には傍聴している人たちもある方向性を持っているので
完全に客観的にとはいかない

いつも思うのだが、市議会は一般質問よりは
生身の人間性が垣間見られるこのような会議を見たほうがいい
そこでは理詰めで話す人、役職の割には何を言ってるかわからない人
何もしゃべらない人、人の話してる最中に茶々を入れる人
本当に粘り強く訴える人、、
それらの話す内容のみならず、表情・態度も見られるので
素の人間性が垣間見られる

本来はこうしたぼんやりとした抽象的なことではなく
事実の羅列のほうがいいのだろうが、今回のことは
自分でも公にすることがためらわれることなどで
どうしてもこのような形に、、、

自分に正直になればいいのに、、
世間のしがらみとかプライドとか、、、
議員さんは疲れそう、、、
(会議は予想通りの結果だった)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

正直過ぎる感情の発露は、、、

2020年05月12日 08時42分31秒 | あれこれ考えること

年齢を重ねて変化してきたことに音楽の好みがある
若い頃はマーラーの正直な感情の発露のような音楽が
生理的にもフィットして好ましく思っていた

ところが最近はあまりにも感情的過ぎる(と感じる)ので
少しひいてしまい、聴くことは少なくなっている

感情の正直過ぎる発露は下品で
それとなく想像させたり、技巧的に暗示する表現のほうが
奥ゆかしいとする京都人(あるいは平安人)の気持ちが
今は何となく分かる気がする

だが、世の中によくある「誰々が悪い!」
というシンプルな感情的な主張は
それが正当性のあるなしに関係なく
まどろっこしい暗示のような表現よりも力を持っているのは事実

そして、そこではものごとの極端な単純化がなされる

年齢を重ねると「世の中は単純ではない」と感じるようになる
単純で美しいとされるe=mc2  の公式も
それを理解するのにどれだけの複雑なことを知らねばならないか
知れば知るほどゾッとする
つまりは、簡単に単純化され得ない、、ということ

人は感情と理性の生き物と言われるが、この2つが戦うと
いつも感情のほうが勝利をおさめる気がしている
静か過ぎる理性の世界より、熱気のある感情の世界の方が
親しみやすいのは分かるが、それが限度を超えると
やはりひいてしまうな、、

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

美女のポスター

2020年05月11日 17時18分23秒 | 徒然なるままに

寝室に美女のポスターがかかっている
同居人が見たら文句を言いそうなセクシーなものではなく
ただ普通に着物を着ているだけの女性がそこにいる

美女の定義は人それぞれだが、自分はこのポスターの女性を見ると
憧れの気持ちを禁じ得ない
正確にはこの女性ではなく、この女性の映画で演じた役の女性が
最高に美しいと感じている

その映画は始めるやいなや、ぼんやりと一人の女性が浮かびあがる
セピア色で思い出のように、それが映画のその後を暗示させる、、
森田芳光監督、夏目漱石の「それから」がその映画で
その美女は三千代役の藤谷美和子だ

映画は衣擦れの音、サイダーの音、百合の花の香り、明治時代の佇まい
物静かな会話は奇妙な緊張感を醸し出している
松田優作演じる代助は思いを隠している
藤谷美和子演ずる三千代はそれを感じ取っている
口に出して言いたいことが言えない、、そのもどかしさ

この映画をテレビ番組で見るのは辛い
緊張感がCMで途切れてしまうからだ
抑えた演技が見る方の想像力を掻き立てる

藤谷美和子は、かっぱえびせんのCMで知られる存在になった
その後は知らないが、この「それから」での存在感は
ワーグナーが女性による救済とか
ゲーテの永遠に女性的なるものによる救い(?)
と言った言葉を思い出させる
この女性の有り様(一緒に道徳を外れる覚悟)は
救いという言葉しかふさわしくないような気がする

それにしても、この慎ましやかさは、、たまらない
(藤谷美和子はその才能を発揮せずに生きているのがもったいない)

そのポスターの女性は





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

どの視点でそれに向かうか

2020年05月10日 09時05分58秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

 面白いか面白くないかで比較するのは適切ではないだろうが
国会のやり取りは政府対与党のやり取りよりは
政府対野党のほうが圧倒的に興味深い
対立点がはっきりするので議論への理解が進む

野党は政府から提出された資料なり法案に対して
もう少し良いものはないかとか疑いとの視点があり
その姿勢で資料等も読み込む
そうすると必然的に提出者が意図した理解ではなくて
別の理解への可能性にも思い浮かぶ
つまりは最初から疑ってかかると見えるものが違って見える
ということだ

国会などと大きなことを言わず、市議会でも同じことが言える
予算や新規事業などの重要なテーマについても
疑問の視点があってその説明を聞いたり資料を読んだりすると
ただ単に提出されたものに反応するのとはだいぶ違ってくる

何か変だな!
同じものを見たり聞いたりしても、こうした直感が働く場合(人)
と働かない場合(人)がいる
その直感は、その人の経験や知識によって得られるものであって
人によって直感の働く方面(分野)は違ってくるのは仕方ない
ただ、言えるのは疑問をもってそれに向かうのと、意識しないで
向かうのとはだいぶ違ってくるということ

ノーベル賞の本庶佑さんは、ある時「教科書すら疑う」
的なことを述べられたと記憶している
一般の人なら無条件に信じてしまうことを
果たしてそうだろうか、、と考える
そして自分なりの答えを出す
その結果教科書のとおりであったとしても、それは最初から
盲目的に教科書を信じたのとは違う

最近、判断のプロとされる(議決が需要な役目の)「議員」さんは
その判断の基となる資料をどの視点で読み込んでいるのだろう
と不安になることがある

いちいち全てに疑いの目を持って立ち向かうのは現実的ではないが
それでも、直感を働かせて、センサーに引っかかるくらいの
資料の読み込みをしてほしいと思ったりする

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

何故、言われたままでいるのか!

2020年05月09日 09時06分58秒 | あれこれ考えること

何種類の色のビブスを同時に用いてミニゲームを行い
選手にはパスの相手を限定するなど、頭をつかう独特の
練習方法が話題になったのが、サッカーのオシム監督

その中で記憶に残っているエピソード(記事)がある
それは5対5くらいの人数でミニゲームをしていた時のこと
オシムさんは急に片方のチームに一人参加するように指示した
するとゲームは6対5の戦いになるのだが
ミニゲームはそのまま続けられた

終わった後だったか、途中でだったかは覚えていないが
オシムさんは怒りながらこう言った
「何故、少ないチームはもうひとり入ろうとしなかったのか?」

彼が言わんとすることは、明らかに不公平になっている状況を
誰かの指示とはいえ無条件で守っていることは、サッカーをする
人間として正しい判断なのか、ということだ
戦っているチームの人間は、もうひとり入ることを要求したり
自発的に入ったりする、、そういう行動を何故しないのかというのだ
要は選手自身の臨機応変の判断力が必要なのではないのかと、、

日本人は何事も言われたことはするが
言われないことはしない傾向がある
それではダメだ
自分の頭で考えて判断を行う
この癖をつけないと更に上にはいけない(とオシムさんは説いた)

この話、サッカーに限らないような気がしている
自分の頭で考えて判断する
判断は必然的に責任を伴う
多少の苦痛を感じるかもしれないが、それは慣れでクリアできる(多分)

こんなことを思い出したのは、最近の官僚さんの思考停止状態を
見せつけられているから
彼らが自発的な倫理感に基づいて判断をするようになれたなら、、、と思う
(それはそれで新たな問題が生じるかもしれないが)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

気になったこと

2020年05月08日 09時14分02秒 | あれこれ考えること

戦争が終わったあと、ドイツ国内にはあれだけいたナチス党員や
支持者が一気にいなくなった
との記述(報告)がハンナ・アーレントの「責任と判断」の中ある

何故?
と思う前に
きっとそうだろうな!
とも想像ができる

大衆はそんなもの、、
誰に責任があって、どうしてそのような事態になったのか、
誰かブレーキをかける人間はいなかったのか、、
との問は、結局のところ曖昧なまま放置されてしまいそう

現在の日本のことを想定すると、これと同じことが
起きてしまうだろうと危惧する
毎日毎日優先される現実(今だけ、お金だけ、自分だけ)に
仕方ない、、と思考停止し、結果的に現状を支持したことになるが
事態が変わると、そんなつもりはなかった、、、
といい出す人たちは、急にいなくなったドイツにおけるあの人たちと同じだ

不意にもう一度「大衆の反逆」を読み直してみようか
との気になった、、ステイホームが推奨されてるし、時間はあるし

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする