何かの問題を半か丁かを決める場合、
神とは違う不完全な存在の人間は、どのようにしたら確率的に
間違いを起こさないようになるか、、との課題を数学的に考えたのが
「陪審定理」というらしい
(岩波新書の「多数決を疑う」坂井豊貴著に紹介されている)
半々の確率で出るコイントスで決めることと比べると
人の理性による判断のほうが優れているのではないかと仮定し
人間の理性による判断が正しい確率をvで表すと
その値は1よりは低いが、0.5よりは大きい
間違える確率は1-vとなる
これでいろんな状況をシミュレーションしていくと
その結果は、一人で判断するよりは多数で判断したほうが
間違いは少ないと言う結果になる
例えばvを0.6としてA.B.Cの3人で判断する状況では
1.3人全員が間違える そこで得られた多数決は間違い
2.Aだけが正しく、他の二人は間違える これで多数決をすれば1対似なので多数決の結果は間違い
3.Bだけが正しく、他の二人は間違える このときは1対2なので多数決の結果は間違い
4.Cだけが正しく、他の二人は間違える このときは1対2なので多数決の結果は間違い
5.A.Bが正しく、Cが間違える このときは2対1なので正しい側が勝って多数決の結果は正しい
6.A.Cが正しく、Bが間違える このときは2対1なので正しい側が勝って多数決の結果は正しい
7.B.Cが正しく、Aが間違える このときは2対1なので正しい側が勝って多数決の結果は正しい
8.3人全員が正しい 多数決の結果は正しくなる
このように8つのケースが考えられるが各ケースの確率を求めると
正しい多数決の結果が出たのは後半の4つ
そこで正しい結果が出る確率を求めるには
後半の4つの確率の和となり、計算をすると0.648となる
この数字は当初の仮定した数字の0.6よりも大きい
だから、複数の人間で判断したほうが正しい確率が上がるということだ
容易に想像できるように参加する数が多くなれば
それだけ正しいとされる確率はあがっていきそうだ
これが根拠になって、多数決の間違いの無さを保証している
ところが、これには条件が満たされている必要がある
1.情報が適切に与えられており、理性を働かせ、偏見や思い込みで判断しないこと
2.自分の頭で考えて判断すること。投票の前に討議の機会はあってもよいが
その場の雰囲気に流されたり、勝ちそうな方を予想してそちらに投票しないこと
問題はこの条件が人間社会ではなかなか守られそうにないことで
過去の人たちもこれで苦労したようだ
これは私自身ではなく、全員にとっての問なのだ。
つまり私は、私にとって良いと思うものを選ぶべきではない。
自分自身の意見から抜け出た上で、
何が理性と真理に適合するか選ばねばならない(コンドルセ)
ここで「自分自身の意見から抜け出た上で、」とは
「自分だけの利益から抜け出た上で」と解釈するとわかりやすい
と「多数決を疑う」岩波新書では解説している
今回、長々と抽象的なことを挙げてきたのには理由がある
それは先日新城の臨時議会で行われた議決が
このような自己抑制された判断が求められたにもかかわらず
それが行われたと思えなかったからだ
多数決が正しいとされる理屈とか制度は分かる
しかし、先日市議会で行われた採決は、損得が関わった人たちが多数いて
本来ならばこのような当事者は採決に関与しないのが適切と思われるが
議会運営の手続き上(の欠陥?)で、そういうわけにはいかず
結果的には問題を多く抱えた人たちの多数によって、予想されたとは言え
納得し難い結果になってしまった
だがこのような結果は最初から予想できたことだ
もしかしたら、誠実に自分と向き合い良心的な判断をするひとが出てくる
と思いながらも
自分の身を守るために一致団結して不利益な採決には反対するだろう、、、と
ならば、何故そのような行為(議案提出)に至ったのか、、
予想するにそれは「記録」されることに意味あるとしたのではないか
既に市議会のホームページの議案内容と結果がアップされており
ホームページを見ない人にも「議会広報誌」に掲載されるだろう
この恥ずかしい議案は自分が公にするのをためらうことだったが
これを見た人たちは、何が起きてるかはわからないが、なにか異様なことが
起きている実感はもつだろうと思われる
それにしても、、、、、