チコちゃんに叱られそうだが、ボーッとしてるのが好きだ
10年ほど前、東北新幹線で新青森まで行ったときには、
退屈するだろうと本を持参したが、移り変わる景色をみて、
それこそボーッとして飽きることはなかった
思い出にふけったり、あのときこうすればよかったと後悔したり
景色に触発されて連想の輪が繋がったり、、そして多少の諦めも
感じたりして、、、自分との対話をした
朝の散歩も同じコースを歩くと、いつの間にかコースの景色よりは
自分との対話の時間が多くなっている
実はあのときKさんの気持ちは分かっていたんだ、、それなのに、、
結構残酷なことをしてしまったのかも(仕方ない、、時間は戻らない)
自分は自分の望むようにしてきたのか、、
思いのほか振り回されて今に至っているようだが
それでもしぶとく道を外さずに(?)生きられているのは
誰に感謝すれば良いのだろう、、、とか
次々と湧いてくる思いにふけりながら歩くのは、
健康のためのウォーキングというよりは精神の健康のための時間のようだ
田舎の道は退屈だ
しかし、自分との対話の間に不意に気になる景色が目に入る
田んぼに映る山と人家
こうした何気ない風景に何故か心動かされる
また早くも太陽を背に受けて歩いていると、長く伸びた自分の影が目に入った
こんな風に影が長く感じたのは、槍ヶ岳に登ったとき以来かもしれない
夕日に照らされた自分の影は、記憶の中では槍ヶ岳の影より長くなっている
(そんなことはありえないのに)
座禅をしたことはないが、座禅はどんな精神状態になるのだろうと思ったりする
何も考えないようにすると言っても、最初はそんなことは無理に違いない
開き直って連想に身を任せ、、それが尽きる頃になって、初めて座禅の境地なのだろうか
孤独と孤立は違う
ふとそんなことを思う
こうしたボーッとした時間、、好きだな
特技はボーッとした時間を過ごすことができること、、
(電車が好きなのはそのせいだ)