昨年、源氏物語を読んで、あの時代は病気を治すには加持祈祷に頼っていたと知った
確か、枕草子にも病気平癒のための加持祈祷が書かれているところがあったような
(イケメンの祈祷師とか退屈で船を漕いでる人とかいるとか書かれていた記憶)
今なら、科学的でなくバカバカしいと笑い飛ばしてしまうのだが
それでも、頼るものがそれしかないとしたら、、それは無意味と断言できるのだろうか
ドーキンスは祈ったところで効果はない、、と一刀両断している(「神は妄想である」の中で)
しかし科学的に考えうることをしつくした先に
人が頼るのは幸運とか、超自然的な何かに至るのは心情的に理解できる
効果はないとしても、祈った人の気持は、自分ができることをやりきったと
いう実感を持つのではないか
人が何かを理解したり納得するというのは、果たして理性のみに依存するのだろうか
理性に基づく討論・議論は、精緻な分析とか深い見識を生み出す
それはある意味一種の到達点でもある
しかし、議論はまた議論を招いてしまうような気もする
カラマーゾフの兄弟の有名な「大審問官」の章で、圧倒的な大審問官の話の前で
キリストと思われる人物は「何も言わず」ただ大審問官に口づけをして去る
議論による理解以上の何かがそこにはあるとして(?)
確かこのようなシーンは、ゾシマ長老とかアリョーシャにもあったような疎覚え
人に理解とか納得を得たい場合
理屈のみの説得は用をなさない、、、と感じざるを得ない
最近の我が市の市議会で起きている出来事
筋からすればウンもスンもなく正当性は片方にあると思われる
だが、理屈は新たな理屈を生み出して、あるいは感情に障り
素直に受け入れられない状況を作り出してしまう
自分が損になると解っていても、従うべき理屈に従えるか
これは思いの外難しい
そうすべきだと強制されても、素直には従えないのが人の常
とかく人の世は住みにくいってことか