当たり前の現実だが、世の中には真面目な人もいれば、そうでない人もいる
大概のことは真面目な人がいてくれることで円滑に過ぎていく
たまたま地方議会の「議会改革フォーラム」なる組織やら投稿動画を見た
そこに登場する人物は知っている方で、一人は我が家のすぐ近くで育った
他の自治体の議員になっている女性
もうひとりは、ある行政訴訟でお世話になった弁護士の方で
この弁護士はオンブズマン活動でも有名な人物だ
その動画では議会(本会議・委員会・全員協議会など)の中継(インターネットを含む)
傍聴の可否、議事録の公開など、(県内の)自治体の議会の姿が点数化され、
ランク付けされて明らかにされていた
気になるのは地元の評価だが、上にも下にも入っておらず喜んでいいのか、悲しむべきか
議会の中継は我が市では一般質問だけテレビ、インターネット中継が行われている
各委員会については、一時期、ネット中継を!との声が上がったが、その後進展はない
委員会ですらこうだから、あれこれ問題で紛糾する全員協議会などは中継はもちろん
議事録の公開はない
ただこのランク付けの評価に少し疑問を感じたのは、高評価されていた他地区の一般質問を
様子見に行った時、それが我が市のそれと比べて、ものすごくつまらなかったからで
ここでの議会(改革)の評価と実態は違っている気がした
(これは分析していた方々も自覚していたようだ)
我が市の議会は少しばかり問題が多い
それはもしかしたら必要以上に議員に高潔な人格を求めすぎていることから生まれているかもしれない
議員は一般的には、立派な人格で、専門知識も豊富で、優れた判断力の持ち主とイメージされる
ところが、ここ数年彼らを見続けていると、それは幻想だと実感する
彼らは特別な人間の集団ではなく、人としての弱さをもつ存在の集合だ
自己承認欲求もあれば、誰々には負けたくないといった感情もある、当たり前のように怒りを覚える時もあれば
気心が通じると思い仲間をつくることもある
市民の代表とされているが、議員に渡される細かな資料を読み込むのは面倒と感じる人もいる
でも彼らが特に悪いというよりは、人が集団をつくる時はだいたいこのような傾向が入り混じってしまうのではないか
こうした統計的な「働かない蟻」(市民から見て真面目に見えない)存在があるのは現実だが
問題はそうした彼らに議決権があるということだ
議決は「多数決が民主主義」の概念で正当化される
でも、多数決は本当に民主主義の決め方か?
常々これには疑問を持ち、個人的には「多数決を疑う」などと言った本を読んだりした
その疑問を払拭するように今回登場したのが、お世話になった弁護士のかたの
「多数決は最悪の決め方」との発言だ
本来ならば多数決に適さない問題(例えば犯罪に類するもの)も多数決で決められて
それで正当化されるとなると、それは数の暴走になってしまう
現在の国会などは、強硬採決のオンパレードで、この数の暴走に終止している
(一見時間をかけて審議しているように見えても、聞かれたことには真摯に答えないで
議論が十分になされているとは思えないのに、審議は尽くされたとして採決を強行する)
議員は我々大衆の代表とされているが、現実は少数者の代表になっていることが多い
地方議会はそれほどではないかもしれないが、国会などは明らかにロビー活動のさかんな人たちの
意図にそった議決に終止する
そしてそれは「多数決は民主主義」のお題目で、疑問視されることがない
多くの人だったら、そうは決めなないかもしれないことを、選ばれた代表者たちは違う選択をする
その選択は一般人の思いよりも実行の権限を持つ
この例で思い出す具体的な例が、我が市の新庁舎建設に関する住民投票にまでなってしまった議員と市民の意識の違いだ
市民の代表で議決権を持つ人達が、結局は市民感情を把握できずに数の暴走と思えるようなことを行う
こうしたことを防ぐための手段として、住民投票やら住民監査請求やらの直接民主主義的な手段が法的に整備されてしようだ
しかしそれは大事(おおごと)だ
多数決が民主主義!と開き直る前に、熟議をすべきだとされる(最近はこの言葉をよく目にする)
この熟議は究極的には「全会一致」を目指すものと考えるのが良いとオンブズマン弁護士は解説する
確かにそうかも知れない
熟議とは、相手方に説得されて考えを変える可能性をもって討論に向かうことで
そうすることで双方の十分な考えの認識や妥協ができるようになると言うものだ
ということで、「多数決は民主主義!」と安易に考えないほうが良いということ
特に最近はこれを悪用した採決が多すぎる(国も市も)
緊急事態宣言が延長される事態になり、それどころか対象地区も増えている
そんな中オリンピックが粛々と準備されている
医療体制はもちろんのこと、インドの悲惨な状態を見れば人道的な観点から
無神経に開催して良いものだろうか、、との思いは誰しもが持つ
(しかも準備は万全なのかと不安もある)
世論調査では中止、延長が7割を超えている
問題は、誰が大きな声で「中止・延期」を言い始めるかという点
何でも反対ばかり!と思われそうな人ではなくて、常識的な判断力をもった人物
しかも発信力のある立場の人が、覚悟を決めて言い出せば良いのに、、と期待したいのだが
言い出しっぺになる、、というのは意外と難しいようだ
「傍観者効果」という言葉がある
他者に対して援助すべき状況にあるのにも関わらず、周囲に多くの人がいることによって
援助行為が抑制されてしまう集団心理のことで、その場にいるのが自分だけだったら
援助行動する確率は高いが、周囲に人が多ければ多いほど援助行為は抑制されてしまうという傾向ことだ
それは、自分がしなくても誰かが行うだろうと思いこんでしまう傾向(責任の分散)
行動を起こして失敗した時の他者のネガティブな評価に対する不安から行動を抑制する(聴衆抑制)
周囲の人が何もしないのだから、援助や介護に緊急性はないのだろうと誤って判断すること(多元的無知)
が原因と分析されている
つまり、ひとが目の前の困っている人を救わないのは、冷たいからではなくて
「多くの人が気づいていたために行動しない」という心理的的傾向があるためしている
(他に、日本人の心理的傾向が気になるが)
オリンピックの中止を声を大にして訴える
それを行う個人の社会的な(評価の)危険性や不安は、上記の3つの要素をクリアしないとできない
これなどは、何も知らないパルジファルや恐れを知らないジークフリートなら難なくできるかもしれない
でも社会で他人との関係で生きている人は、その関係性故に行動は窮屈になる
でも、そんなことを小難しく考えるよりは、直感的に変だなと思えることは
ストレートのNO!と宣言すべきだと思う
現在の自分の中にあるモヤモヤは、これが大きな要因だ
心理的な傾向はわかった、、でも、その上で、覚悟を決めて声を大にして言う
だが、誰かがやってくれないかな、、と思っているだけなのは、ちょいと情けないか
自分にできることして、オリンピック中止の署名活動にサインした
この署名は短期間に10万集めたらしい
巣ごもり生活をしていると、話す相手は限られるし生活もパターン化して
どうしても内省的な傾向になりやすい
そこで見聞きするニュースは楽しいものよりは、少しばかり真面目な深刻なものが気になる
先日、アメリカでアジア系の女性がハンマーを持った女性から暴力を受けたとの報道があった
いわゆるヘイトクライムに当たるが、そのシーンの映像を見て奇妙に思えたのが
それを行っていたのが黒人の女性だったことだ
黒人の方々はアメリカでは差別される側で、BLM運動で差別のない世界を望んでいるはずだ
その当事者がよりによってアジア系の人に暴力を奮った
何故なのだろう?
普通は差別される側同士で一体化して社会にあふれる不公平に立ち向かう!
そう考える方が自然なのに、そうはならなかった
そこで思い出したのが、少し前放送されたNHKの「100分de名著」の「黒い皮膚・白い仮面」
著者のファノン氏は、アフリカからこの地に連れて来られた奴隷を祖とする黒人だ
その彼は叶う限り白人のフランス人に同化しようと努力した
その時彼は、いつのまにか自分が黒人に対して白人の視線で見ていることに気づく
白人が感じるような黒人に対して少し引いた感情をもったと告白している
アメリカでアジア系の女性に暴力を奮った黒人たちは、このファノン氏と似たような感覚を持ったではないか
自身をアメリカ人と実感できていない人物が、自分より劣っていると思いこんでいる(思い込みたい)アジア人を
白人が自分たちにするように差別を行う(暴力を奮う)
これは何故?というよりは、心理学的によくありえることかもしれない
自分よりも弱者をいじめる、けなす、バカにする
そうすることによって現在自分が抱えているストレスを少しでも解消する
この傾向はアメリカに限らず日本でも見られるのではないか
日本に生まれただけで特別と思い込み、本来ならば仲良くすべき隣国の人たちに
何かと難癖をつけてバカにしてけなす
だがその人達の立ち位置は、実は不安に満ち満ちているのではないか
社会的に(経済的に)中間層と言われる部分が縮小して、今まではみんなと一緒と感じられていたのが
いつの間にか一人だけ放り出されてしまったかのような思いに至る
その不安な人々は(ハンナ流にいえばアトム化された人々)自分たちの拠り所として
民族とか国籍とか氏素性などに頼るようになる
そして手っ取り早く弱者をいじめる
そういう人たちは、自分たちが弱い立場ではなく強い立場の人間であると思い込む
いや思い込もうとしている
実はいじめている本人たちが不安を抱える弱者なのだが、彼らはそれを認めたくない
彼らは自身を強い立場にいる特別な存在と思いたい
だからこそ彼らは上から目線で断定的な言い方をする
心理学的な問題を経済的な視点から解決しようとするのは、正しい方法ではないかもしれないが
豊かな中間層、格差のない社会をつくるのは自信喪失した人々を救いそうな気がする
(気持ちの余裕も生まれて)
みんなと一緒、頑張った人はもちろん、頑張れなかったひとも、そこそこ暮らせる世の中がいいな
と感傷的に思ったりする(ロマンティストすぎるか)
チームの完成度と個々の能力差、それにツキの差もあって数日前に0−4と
フロンターレに完敗したグランパス
2連戦の興味はグランパスがどのような戦い方をするかに絞られた
勝負は時の運というものの、前回の印象からはそこまで行ける可能性は少ない感じだったので
プロとして現実的にどう戦うか、つまりどう考えたかが、自分だったらどうするか?
と想像しながらネットの試合をみた
先発は先の試合の後半のように、長澤、稲垣、米本を中盤に置く守り主体のシステム
その分どうやって点を取るのかは難しそうだが、これは仕方ない
U24のアルゼンチン戦のように、前の試合で相手のスピードとか攻撃パターンの体感ができて、
少しは対応ができるかもしれないと期待したが現実は甘くはなかった
それでもゲームの始めは勇気のある戦いをした
先の試合よりもボール奪取にトライして、球際の個々の戦いは面白かった
いい試合というのは両チームが気合が入ってこそ完成する
実力差があるものの、フロンターレは前回も今回もこの試合が優勝を左右する戦いと全員が自覚した
一方グランパスは如何に失点を防ぐかといった視点でしかなかったような気がする
いい戦いをしていたが、前半の終わり近くのコーナーキックからのヘッドで失点
これはキッカーの質の高い技術が褒められるべきで、こうした質の高いプレーは
より緊張した大事な試合にこそ見られる
後半はじめの2点目も緊張感のある試合だからこそ生まれた得点で
個々の選手の質がひかるものだった
確かにチームの完成度とか個々の質に差はあったが、あれだけ活躍した三苫が
U24のアルゼンチン戦では彼のプレイも想定範囲内といた感じで読まれていて
あまり活躍できなかったのを思うと、グランパスもチーム全体の体感として
フロンターレのスピード、攻めから守りの切り替えの速さ、パス交換のリズム、ボールの置所
そういったものを直に経験して身につくまでにはなっていなかったと思われる
(結果は2−3)
ところで、こうなるとフロンターレを破るのはどのチームか?
と注目はそちらに向かう
プロの勝負の世界は厳しくて、少しでも手を緩めるとそれが元でリズムを崩してしまうことがある
この意味でフロンターレの後半、活躍した選手を休ませるのはいいとしても
少しばかり流れを悪くしたような気がいないでもない
リズムを崩すかもしれないのはグランパスも同じ
毎試合緊張感を持って戦うのは人として難しいが
それらを含めてチーム力と言える
一番いいのは勝ち癖をつけることだが、グランパスは気を取り直すことができるか
ところでいつも頑張っているキャプテンの丸山が、あのゴールへのパスのようなオウンゴール
彼に責任はないとは言えないが、これで個人としてリズムを崩さないで欲しい
いい意味で、こんな日もあるさ!と開き直るのもプロには必要かもしれない
頭ではわかっているつもりでも、実際に行ってみると改めて凄い時代になっていることに驚く
今朝、ブラジルに帰ったAくんとMちゃんとZoomを使っての勉強をした
ブラジルとの時差は12時間、日本では子どもの日の朝だが、ブラジルはその前日の4日の夜
寝る時刻を確認して負担の無いようにした
何よりも気になったのは元気で変わりないか?ということ
ディスプレイに写った姿は相変わらずのように見える
(彼はルービック・キューブが完成したのを自慢気に見せる)
近くで親御さんの声も聞こえる
ブラジルではコロナが広がっているので勉強はリモートで行っているそうだ
日本語も少しは使う機会があるようで、忘れてしまわないか不安だったが少しホッとする
(お姉ちゃんには彼女の日本語は自分の外国語よりずっと上なので
忘れてしまうのは勿体ないといつも言い続けている)
とりあえず以前やっていたものの続きを行う
簡単な文章を読んでもらうのだが、改めて日本語は難しい言語だと再確認
音読み、訓読みがあって覚えることが多い
でもこれは慣れるしかない
勉強の始めにこどもの日の柏餅の話をしてみた
Aくんは柏餅は記憶になかったようだが、お姉ちゃんは覚えていた
「先生(先生じゃないが彼らはそう言ってくる)、なんで葉っぱに包まれているのですか?」
チコちゃんの問ではないが、改めて聞かれると答えに詰まる
「ごめん、今度までに調べておくね」
そんなこんなで、久しぶりのZoomの勉強はまずまず
少し驚いたのは音の遅れがあまりなかったこと
テレビでは遠方と音やり取りに音声のズレがあるが、今回は気になることはなかった
うまくいった!
と言うよりも久しぶりに元気な顔が見られたことが何よりも良かった
「どうする、これからも続ける?」
試しに行ったこの勉強、彼らは嫌がっていないようで、とりあえず次も行うことにした
それにしても、、凄い時代だ
そして、その時代は彼らの時代だ
槍ヶ岳の飛騨乗越で滑落事故が起きたとニュースにあった
あの場所かな、、と頭に浮かんでグーグルマップで位置を調べた
やはり、そうだった
さほど山屋ではない個人的な印象だが、山は下りが怖い
登りは上ばかり見ているから体はしんどくても怖さは感じない
だが下りはしっかり見えすぎて、思いっきり緊張する
スリルを感じる人もいるようだが、子どもの頃、高所恐怖症だった自分はそんな余裕はない
電力会社に勤めていた方から聞いた新人時代の訓練の話を思い出した
最初に鉄塔に登ってメンテンスの仕方を覚えるらしい
鉄塔は赤と白で色分けされているが、一つの色は10メートルだそうだ
その色が少なくとも2、3あったから、相当な高さになる
その訓練で新人は登ることはできても、下りになると足がすくんで降りれない人が
毎年何人かはでてくるのだそうだ
わかる気がする(自分もその中に入りそう)
山の下りでいやなのは、大きな岩のある場所の下りだ
自分のペースで降りれないし膝への負担も大きい
途中でイライラしてしまう
白馬から天狗原経由で栂池に下るときとか、奥穂から岳沢に降りるときも
ゴロゴロした岩にストレスが溜まったような記憶がある
これとは少し違うが徒然草に「高名の木登り」の段がある
木登りの名人は、地面まであと少しといった高さになるほど注意すべしと
声をかけたという話だ
どうも下りは色々と気をつけねばならぬようだ
我が国も高度成長を終えて下り坂になっているが
つい下り方をよく考えねば!と思ったりする
ある本「それを、真の名で呼ぶならば」(レベッカ・ソルニエット)からの抜き出し
フーコーからの引用の部分があって、そこにあるのが
フーコーは「人は自分が何をやっているのか知っている。多くの場合は自分がなぜやったかも知っている。
知らないのは、自分がやったことの影響だ」と述べた。
あなたは自分にできることやる。あなたがやったことは、これから何世代にもわたって、
あなたの想像を超えたことを成し遂げるかもしれない。あなたは種を植え、その種から木が育つ。
その木は、実をつけ、木陰をつくり、鳥たちのすみかになり、さらに多くの種を生み出し、森になり、
ゆりかごや家をつくる木材になるだろうか?あなたにそれを知るすべはない。
木は、あなたよりもっと長生きするから。同じように、真実あるいは正しさについての新しい発想を
受け入れることがもたらす変化も、時には世界を作り変えるかもしれない、あなたは自分にできることをする、
自分のベストを尽くす。それがもたらす影響は、もはやあなたの責任ではない。
この文章に、どれだけ勇気づけられることだろう
市井の人間が良かれと思った事を行う
壮大な意図や計画があるわけでもなく、ただ気がついたちょっとしたことを行う
そのちょっとしたことは、誰かの心に残って、その人は何かを行う
そしてそれは、知らないうちに世間の常識的な考えや行動になる
こうした考えの有名な例に「ハチドリの一滴」がある
でも大半はそんな夢みたいなことは起きない
ただ忘れられるエピソードで終わる
それでも何故か、何かをしようとする人はいくらかの確率で世の中に現れる
その人物は自分の残す未来はわからない
わからないからできることだけを行う
大衆と一括にされる存在の中には、こうした考えを持つ人がいる
自分の知っている中にもそういう人はいる
そういう人を知っているということが、どれだけ世の中を肯定的に捉えることができるか
災害ユートピアとか、渡る世間に鬼はなし!を実感する人と
渡る世間は鬼ばかり!と実感するのとはどちらが幸せだろう
どうせなら最後まで前者でいたい
連休中は真面目な話題より、そんなのもありかといった話題を!
マーラーとブルックナーの音楽の比較第二弾
彼らが死を意識しだして作曲した音楽で、比較するのは以下の2つ
マーラーは完成した最後の交響曲となった9番の第4楽章
ブルックナーの方は未完成で終わった9番の交響曲の第3楽章
冒頭の出だしはなんとなく似てると感じるが、直ぐに彼ら独自の世界を体験することになる
これらを聞くと彼らの達した世界観とか考え続けたことが如何に違うかを感じざるを得ない
マーラーのそれは人間が必死に生きた感情を含めた長編小説の最後(総決算)のようで
ブルックナーのは感情というよりは、もう少し抽象的な世界で、神とか自然とか音自体の交響といった感じ
根拠のない確信だが、ブルックナーはガス灯のもとで作曲し、マーラーは蛍光灯の下で作曲したに違いない
といった思い込みがずっと続いている
で、好きなのはブルックナーの方
彼はアンケートによると嫌いな作曲家のトップの名誉を何年も受けている
その気持はわからないでもないが、もう少し我慢して音に身を委ねるとハマってしまうに違いない
と思ったりする
マーラー 交響曲第9番ニ長調 第4楽章 カラヤン
Bruckner: Symphony No.9 In D Minor - 3. Adagio(Langsam, feierlich)
日記風の極めて個人的な話
早死したモーツァルトは勿論のこと、ベートーヴェンやフルトヴェングラーの生きていた年齢を超えてしまっている
父の一生の時間も、だいぶ前に済ませてしまっている
彼ら(父以外の)残したものと今の自分を比べると、つくづく成長していないと感じざるを得ない
何かを残すとか創作するということは、ハンナ・アーレント流に言えば労働でも仕事でもなく活動をしていることになりそうだが
それほどの才能や実行力のない普通のおっさんは、ただただ時間の経過を感じているに過ぎないのかもしれない
幸か不幸か自分には中学3年から書いていた日記がある(今はブログという形で続けている)
何かを意図的に残そうとか創作しようとした訳ではない
単に一種の感情のはけ口のようなもので、書くことによって気分転換を図っていたように思う
だがそれを読み返すと、がっかりしてしまう
流石に中学時代のは読み返さないが、もう少しあとの、あるいは最近のこのブログ等を読み返しても
普通のおっさんの精神的な熟成とか高度な知識の獲得などは、ほとんどなされていないことに落ち込みそうになある
以前、四捨五入をしてショックをおぼえた時があった
切り上げると50か!
生きていればやってくるその年令に、もう若くないのだ!と驚きと悲しみと少しばかりの自嘲を覚えたものだ
それでも今思うとまだ余裕があった
四捨五入すると60となるともっと印象は違ってくる
子どもの頃、残酷にもおじいいさんと認識していた人たちに入るからだ
それが更に進み、四捨五入すると70となると、シニア料金でいろんな施設利用が可能になるが
それが素直に喜べない気がしてくる
そして振り返らないようにしていた過去も、心のなかに静かに懐かしさを伴ってやってくる
ヘッセに言わすれば、過去を懐かしむ権利がある、、とでもなるのだろうか
特別な才能とか、存在とか、立場にない、ごく普通の人は、感じることそれを味わい尽くす
それがハンナ・アーレントの活動に該当することになるかもしれない
などと自分自身を慰めたりしている(というか、そう思い込もうとしている)
赤塚不二夫流に言えば「それで良いのだ!」ってとこかな
(でも好奇心はまだまだ健在のような気もする)