パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

静かな迫力

2022年01月23日 09時52分50秒 | あれこれ考えること

迫力のあるシーンとはどんなものか?
そんなことを感じたのがNetflixのドラマ「新聞記者」だった
またもや肝心なことではなくて、枝葉末節な部分に気がいってしまうのは情けないが
ドラマは決して大声にはならず、効果音もなく、淡々とゆっくりの台詞の連続で
そこに流れる緊張感は一種の迫力と言うしかない

大きな音、場面が頻繁に変わるスリリングな映像、実生活では見ることのない世界
映画の予告編はそうした迫力のあるシーンがオンパレードだが
最近はそれをを見るだけでどこか辟易としてしまう
だがこのドラマは全然違い、音は極力押さえられている

静寂の緊張感、その迫力を実感するのは音楽だ
生の演奏に接すると、徐々に弱音になり聴衆が耳をそばだてる瞬間は
まるで闇の中に入り込んでいくようで息詰まる
それは武満徹の音楽にしばしば体験する感覚だ

外的な刺激で与えられるものではなくて、実は人の中に潜む想像力を呼び起こすもののほうが
より迫力のあるシーンとなりそうな気がする

「新聞記者」は映画のそれとは少し違っていて、実際の主人公は官僚さんたちだ
フィクションの断り書きがあるが、それが何を現しているかは誰でも分かる
(そう言えば赤穂事件を扱った歌舞伎の忠臣蔵は、時代は室町時代、大石内蔵助ではなくて大星由良之助で
 フィクションとなっているが、江戸時代の人はそれらが誰で何を現していたか知っていた)
例の公文書改ざんを手伝わされて自死された赤木さんの苦悩が前半のメインとなっている
彼の結末を知っているので、見ているのが辛くなる

この映画は、誰が誰を演じているかを想像することでより興味深くなるし
それを意図して作られているが、表向きはフィクションと言うしかない
この映画は映画故にフィクションゆえにデフォルメされているが
それでも「現実社会のほうがもっと酷い」と感じる人は少なからずいる
その手の人からは評価が高い

史実よりもフィクションのほうが支持されることが多いのが人の世で
坂本龍馬も司馬遼太郎のフィクションの「竜馬がゆく」が彼の実態と思っている人が多そうだ
それはフィクションのほうが感情移入しやすく、頭にすんなり入っていくからと思われる
それらについて、ベルグソンは人には「作話機能」があると表現し
トーマス・マンは小説家は嘘つきの詐欺師の才能があるとも表現している

フィクションは大きな影響力を持つ
この影響力の大きな作品をより効果的に表現するには、必ずしも大げさな演出をしなくても
恐怖を感じさせることができるということだ
むしろ淡々と過ぎていくことのほうが、本当は怖いと言えるかも知れない
(受け手の想像力の有り無しに差が出るが)

「新聞記者」は映画もドラマも深刻な問題提起的な作品だが
「これはフィションです」と冒頭に文字を入れているが、見方によって
あのことかとか、あの人のことか、、、と容易に想像できる映画がもう一つある
それは三谷幸喜の「記憶にございません」で、見る人が見ればそれと分かる
これはお笑いの要素が高く、迫力はないが、ハードルが高くないので容易に人の中に入っていく

Netflixの「新聞記者」は多少エモーショナルな要素が多すぎて
個人的には少しひいてしまう面もあったが
この作品も「見ないより見たほうが良い」の一つだと思う

それにしても静寂の迫力ってのはあるものだ、とつくづく感じた次第


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映画「香川一区」を見て、あれこれ思うこと

2022年01月22日 10時52分59秒 | あれこれ考えること

映画「香川一区」を全国一斉公開の昨日、豊橋のユナイテッド・シネマに見に行った
オミクロン株の感染急拡大で心配だったが、見たい気持ちが押さえられず
とりあえず足を運んでみた
安心して良いのか、がっかりすべきか、観客は自分を含めて7名
これだけの数なら心配することはない(ように思える)

「新聞記者」を見るためにNetflixに加入したが
そこで「なぜ君は総理大臣になれないのか」が見られることを知って
急遽、映画の予習として見ておいたが、結果的にこの行動は良かった

「香川一区」の最初の方のシーンに50歳になった小川淳也氏の
決断の表明について迷う姿が描かれていたからだ
東大から官僚の道を選んだ小川さんは、そこでの経験を踏まえて政治家の道を選ぶ
それは「政治家になりたい」のではなく「政治家にならなくちゃならない」
という使命感に襲われたからだ
彼の経験した官僚の世界は省の利益、出世、および退職後の心配等が優先事項となって
国民の方を向いて仕事をしていないと感じた
一本気な彼はそれを直すには政治からとの思いに至る
32歳で香川一区から出馬した小川さんは、大谷翔平のように未来の自分の姿を予想・目標にあげた
そこには順調に地位の制作も達成していき50歳になれば引退するとされており
その節目になった50歳の現在、このことに触れずスルーしてこのまま政治家を続けるか
それとも何らかの形で昔の約束(予想)のことに触れるか、どのような態度を取るべきかが
彼らしい真面目な悩みとして映像化されている

その些細なことに悩む姿は冒頭にふさわしいシーンで、これは前作を見ていなかったら
このシーンの意味はわからなかっただろう

もう一つ最初の方のシーンで印象的なものがある
議員宿舎の窓に大根を植えた鉢が2.3ある
小さなものから少し伸びたものがあり、彼は子供のように驚きの声をあげる
「これ、スーパーで葉のついた人参を買って、その葉を植えたらこうなったんですよ
 (生き物は)すごいです」(こんなニュアンスのこと)
こうした生き物はすごいという感覚は自分も感じる
(例えば時々出かける豊橋のお墓の草取り、冬の雑草は上に伸びずひたすら根っこを
 延ばすことに集中して、その知恵(?)は健気というか驚きを覚える)

そのシーンに同席した奥さんが、
「農業政策などと壮大な話をする前に自分で人参を植えて
育ててみなさい(それを言ったのはお母さんあったかも知れない)」
と冗談半分に指摘したら、彼は家でそれを行ったらしい
でも、できたのはヒョロヒョロの人参ができただけ、、

このシーンは小川さんの性格をよく現している
岸田さんではないが、人の話をよく聞くということにおいて
(だが、チョンボが多い)

政治家を「先生」と呼ぶことが当たり前のようになっているが
この人は「先生」という言葉が似合わない
小川さんという呼び方がふさわしい
それは映画の真ん中あたりの、少しばかり深刻な山場のようなシーンで
極めて情けない人間風なところが見られるからだ

香川一区から維新候補が急遽出馬することになった時、彼は彼の理屈
(与党に対抗するには野党がまとまって戦うしかない
 つまり一本化するしかない、、もちろん、出馬の自由はあるのだが
 そこをよく考えてほしい、、)
を伝えるために維新候補のところまで出かけたのが
それが「卑怯にも出馬の邪魔をした!」とのニュースとなって
この一方的な評価はSNS上でも拡散してしまった
これには彼も相当落ち込んで、イライラして、彼は家族にその都度話をする
だが、それを聞いた家族は夜寝られない状況を作ってしまった
(本人は家族に話すことで救われて、眠れたらしい)

このイライラは度々付き合いのある表敬訪問をした田崎史郎氏にも向けられる
選挙区の候補者としての当事者意識と、客観的な(無責任な)意見とは
その真剣の度合いが違う、、と捨て台詞のように言い放つ

これは流石にマズかったと思い直して、その後で謝罪の電話を入れていたが
確かに言い方は節度を欠いていたが気持ちはよく分かる

少し話は逸れるが、田崎氏とは監督の大島さんと定期的に会合をしてシーンがあった
(前作だったか今回だったか忘れたが)
そこで田崎氏はアルコールを口にしなかった
だが彼は安倍さんや菅さんの時もアルコールを口にしないのだろうか?
と勘ぐってしまった

この映画は小川さん賛歌ではないとしても、結果的にはそうなっている
ただし良いところばかりでなく情けないところも映像化している
ただそれだけでなく、日本の民主主義を考える切っ掛けにもなっている
(自らが主体的に活動することの目覚めを呼び起こしている)


いったい監督の大島新さんは、なぜ小川さんの映画を撮ろうとしたのか
きっかけは大島さんの奥さんと小川さんが高校の知り合いで
そこから何の気なしにカメラを回していたらしい
ところがそうこうするうちに、このクソ真面目な直球一本槍の人間が
このまま埋もれているのはもったいないと感じて
前作「君はなぜ走路大臣になれないのか」編集したらしい

何の気なしに撮りためておいた映像とか記録
決して表には出ないそうした物
それらは、実はとても大事な資料となりうるのではないか
先日NHKの番組にこれと繋がりそうな番組があった
それは戦前にかかれていた庶民の日記とか記録をいくつか集めて
その中にかかれた言葉をAIで分析し、時代の雰囲気がいつから変わったのか
を類推する試みを紹介するものだった
当初は厭戦気分が広がっていたが、ある時から庶民の日記にも
戦争に対する肯定的な言葉が増えていく
それは何がきっかけだったのか、庶民はどう感じていたのか
庶民の日記・記録が今の時代に役立っている
(この意味で自分のこうしたものの、きっといつか役立つと思う)


話は戻って、小川さんの「本気」を、少し信じがたいと思うのはごく自然のことだ
政策秘書の方も最初はこの「本気」がそのまま受け入れなかったようだ
彼は職業としていろんな代議士をいくつか仕えてきたので
言葉には表向きの言葉と実態があるのは理解している
ところが一緒に時間を過ごすうちに、この人は「本気」なのだと
実感するようになる
それは感情から入っていく共感で、彼は政策秘書の最後の数年を
小川さんと充実感のある仕事に取り組むことになる

映画の印象はどうしても断片的になる
香川一区は映画だけでなく、テキスト媒体として和田静香さんの
「選挙活動、ビラ配りからやってみた、香川一区」もある
こちらも経験済みだが、さらに選挙期間中は小川さんのSNSチームの
配信する動画もよく見ていたので、自分の選挙区より詳しくなった
それらが一緒くたになって頭に浮かぶので、どれがどこからの情報だったのか
頭の中の整理ができていないでいる

テキスト媒体と映像媒体の違いなのか
それとも制作者の視点・感性の違いなのか
同じ香川一区を扱ったものでも和田静香さんのとは少し違う視点なので
これは映像・書籍に2つ経験したほうが良い

和田さんの本の最後の方に書かれた「妻です」「娘です」のタスキの問題
選挙終盤のタイミング的には「この時いうか?」で
和田さんのその指摘も少なからず家族にもショックを与えたようだし、
その時の話し合いは決して穏やかなものではなかったらしい

だがその後がすごい
緊張感が支配したその後の予定には、
小泉今日子、和田静香、小川淳也のライブ中継が入っていた
自分はそれをライブで聞いていたが、そのような出来事があったとは
少しも感じさせないものだった

結局タスキの問題は、妻(娘)の文字の下に個人名を入れた映像が
流れることになった

このタスキ問題は当事者だけでなく、多くの人の関心をひいたようだ
少し前、小川さんと同級生のジャーナリストがツイッター上でアンケートを実施した
それは「妻です」「娘です」のタスキをどう思うか?
という問で、自分もアンケートに答えた

こうした答えがないような問題は、お互いが相手の立場も考えながら進めていくしかない
そして、そういう過程こそが自分たちが自分たちの手で何かを変えていったり
作っていくことに繋がる

そこまで大げさでなくても、この映画とか書籍は、多くの人の目に触れると良いな
と切に思う







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神無月にかこまれて

2022年01月20日 09時21分57秒 | 子どもたちのこと

昨日の出来事  あちらからのコピペ

再開したブラジルの子たち(弟とお姉ちゃん)とのzoomでの勉強タイム
前回はこの時期らしくお正月絡みの話題
挨拶・初詣・お参りの仕方・食べ物など
日本の普通の家庭で行われていることを伝え
そこで使われている漢字などを覚えてもらった

神社は二礼二拍手一礼で行うことを教えたが
神社の中には二礼四拍手一礼のところもあって
出雲大社はその一つだとお姉ちゃんに説明する

そこで話は出雲大社について話題になった
「10月は日本中の神様が出雲に集まってしまうので
 神様がいなくなる場所は神無月
 出雲は神様が集まるので神在月というのだよ
 面白いでしょう、、
 神様が集まってどんな相談をするのかと言えば、縁結びの話
 〇〇ちゃんの恋人は誰が良いかな、、なんて話し合うんだよ」

ここまでは前回の話で、昨日はここから
 「ここが神様の集まる場所(ネットで調べた十九社【じゅうくしゃ】)だよ」
 「ふ~~ん」
「出雲はここ。(グーグルマップで示す)」
「何県?」
「島根県だよ、、住んでた新城とは少し離れてるね
 少し前、頭が八つある蛇を退治した話をしたことがあったけど
 その舞台がこのあたりなんだよ」
「ふ~~ん、面白い」
「神無月と〇〇ちゃんの生まれた6月の水無月だけ覚えたと思うけど
 実はね、この2つの月がタイトルにある歌があるんだよ」

勉強が始まる前にこのように少し脱線して
歌を聞いてもらった
井上陽水の「神無月にかこまれて」と「水無月の夜」だ
画面共有でYoutubeでこの二曲を流す

聴き終わってお姉ちゃんに聞いてみると
「神無月にかこまれて」は聞いたことがあったそうだ
あの年齢の子が聴くような曲ではないので尋ねると
「おじいちゃんが昔聴いてたから」
なるほど、それならわかる
と同時に、おじいちゃんは自分と同じくらいの世代なのか?
と少し驚きを覚える

この話題、勉強前の脱線だが「面白かった、、」
と言ってくれて少し安心

一方弟の方は、弟はまだまだ幼い(9歳)
そこで彼の勉強前の脱線は「鬼滅の刃」絡みの鬼について
「鬼瓦」の画像を見せて、そのいわれも伝えた
そしてなんとか覚えていた節分の豆まきと
その時の掛ける言葉「鬼は外、福は内」を書き取ってもらった

最近はこちらから連絡しなくても、時間になればzoomに参加のメッセージが届く
そして終わる時も「また来週ね」と楽しく別れる
彼らには少しでも日本にいて良かったと思ってもらいたい

ところで「神無月にかこまれて」はこんな曲
 

「水無月の夜は」こんな曲
 

彼女の年代では「神無月にかこまれて」のほうが好きだそうだ

 

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「新聞記者」を見たくてNetflixに加入した

2022年01月19日 12時21分19秒 | あれこれ考えること

「新聞記者」が見たくてNetflixに加入した
同じような人が多いらしい
映画の「新聞記者」は見たが「よくやるな!」と思わされたが
今回のそれは更に上を行く
最後に「このドラマはフィクションです」の但し書きがあるが
多くのこれを見ようとする人は、ネタの元が何であるかを知っている
(実際に国会で使われた言葉がそのまま使われたりして)

登場人物の背景やらイメージ、その人の運命まで知っている
そのせいか、エピソード1を見ただけでも画面は緊張感に溢れている

正直なところ見る前は評判は聞いていたが、ネット配信の番組では
それほど丁寧に作り込んではいないと勝手に思い込んでいた
ところが空撮やら取材先やら出演者やら想像以上の力の入れようだ
これを見るとテレビの地上波の存在は風前の灯火だと実感する

テレビ局の中の人が心底危機感を持って本気になって立て直そうとしているのか
現在のテレビ番組表を見るとかなり疑わしい
テレビは誰も助けてくれないから当事者たちが必死にならない限り衰退すると
思われるが、そのことはこの国のことに関しても同じかも知れない

イギリスのガーディアン紙にもこの番組の寸評が載っていたらしい
お涙頂戴のエンタメから脱するようなところも見られるとあるらしいが
「こんなことをして(悪いこと、改ざん)人は夜、寝られるのだろうか?」
とシンプルな、それゆえに誰もが思う問を発している

普通なら悪いことをしている自覚があるなら、心が重い
だがそう感じないと思われる人々が世の中には多く存在する
(ドラマでも実社会でもそういう人は出世する)
それは自らの生活を守るため、野心を果たすためなのかも知れないが
「悪いやつ程よく眠る」といった少しも罪悪感を感じない人が
当たり前のように存在するとはどこか思いたくない

個人の判断、、人には一生それがついてまわる
職務上の命令であれ、最終的には責任を持つのは判断力をもつ個人とされる
これは日本人にはすんなりと理解されないようだが、ドイツ人は当たり前のことらしい
例のアイヒマンの裁判でもこの「個人の判断力」の部分にフォーカスが当てられて
審判が下されている

だが、ここで少し考えることがある
このドラマを見ようとする人々の特性は、与党を支持する人たちの特性とは明らかに違う
結局のところ情報に対する接し方は自分好みのものだけに触れるというのが最近の危険性だ
現実的な中立公平などは存在し得ないから、最初から対立構造を明らかにして意見交換をしたほうが
現実的と考えることができるが、先程の自分好みの情報にしか接しない心理的傾向を思うと
どちらかの立場だけの情報だけでは世の中は上手く回らないかも知れない

それにしても、立場の違いからと、無関心からの情報格差は「分断」を生んでしまう
とつくづく感じてしまう
知っていれば違う判断をするはず、、と思われることが、
知らないため(知りたくないため)に判断が安易にされてしまうこと、、
それをこのドラマを見るようになってまず感じたこと

この番組を見るだけでもNetflixに加入した意味はあるかも知れない
この番組は映画より時間に縛られていないから、丁寧な作りになっている
これを楽しむということは、日本人にとって良いことなのだろうか?
と思えてしまうところが情けない
明らかに言えるのは「見ないより見たほうが良い」ということだ

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思い出したのは『白い想い出』 だった 

2022年01月18日 08時58分59秒 | 徒然なるままに

窓から外を見ると雪が降っていた
不意に「雪が降ってきた」と歌い初める曲を思い出した

それは「白い想い出」だった
懐メロを好むようになってきた最近
覚えられない今の歌、、
昔は良かったのか、、
老人には振り返る権利はあるのです、、
と優しく説いたのはヘッセ

何かを無理して考えないようにしてきたこともあった
でも不意に訪れる過去の思い出
過去は人の心を優しくしてくれる
そんな気持ちになれた時は、その感情の流れに身を委ねるもの悪くない

『白い想い出』  ジョーン・シェパード

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プログラムと同じ曲を聴いてみた

2022年01月17日 16時09分32秒 | 音楽

コロナが心配で聴くのを諦めた小菅優のピアノリサイタル
(16日 しらかわホール)
少しばかり悔しいので、プログラムと同じ曲のCDを引っ張り出した

プログラムは以下のようだった

セザール・フランク
プレリュード、コラールとフーガ

武満 徹
雨の樹 素描

クロード・ドビュッシー
前奏曲集第1巻から 「野を渡る風」「西風の見たもの」「沈める寺」
前奏曲集第2巻から 「霧」「花火」

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
ピアノ・ソナタ第8番 ハ短調 op.13「悲愴」

フランツ・シューベルト
幻想曲 ハ長調 D760「さすらい人」

フランクのピアノ曲のCDはすぐ見つかったが
武満徹はあるはずなのだがどこかに隠れて探し出せない
ドビッシーは誰の演奏で聴こうと迷ったが、次のベートーヴェンを考えて
クラウディオ・アラウにした(アラウは豊かな音色で好き)
シューベルトもあるはずなのだが、これも見つからない

久しぶりに聴くフランク
だが以前も今回もあまり印象に残らない
ヴァイオリン・ソナタ、ピアノ五重奏曲は良いのに、、この曲はイマイチ

武満徹は独自の音色(武満トーン)
一発で彼の作品と分かる
でも彼のは覚えられない曲ばかりだ

ドビッシーは生で聴いたほうが圧倒的に良いだろう
家のオーディオもそれなりと思うが、生で聴いてこそあの響きの醍醐味を味わえる

このプログラムはどのようなコンセプトなのだろうか?
と頭に浮かんだが、フランクもドビッシーも最初の細かな音形、音色が似てるかも知れない

ベートーヴェンになると一気に聴きやすくなる
起承転結があるということが、こんなにも落ち着くものかと思える
ベートーヴェンは時間の前後関係と縦の構造の充実で、何かを考えていたり
何かを主張しているように思える

ベートーヴェンの悲愴の最終楽章で、不意に低い音で(中間くらいの高さの音)
フランクの曲のテーマに似たようなフレーズが耳に入った(気がした)
プログラムの統一感はこれか!
と一瞬思ったが、単なる思い込みかもしれない

シューベルトはバーンスタインは好きでなかったようだが、
自分も積極的に好きとは言えないので聴く回数は少ない

それにしても残念だった
仕方ないと納得しようしても、どこか後悔が残る






 

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紫の上(源氏物語の登場する人気の女性は?)

2022年01月16日 17時15分39秒 | 徒然なるままに

読んで良かったと思えるのが源氏物語
もちろん現代語訳だが、ストーリーのみならずその時代背景が面白い
これは「源氏物語解剖図鑑」ですっきり纏められて
暇つぶしに眺めることができる

ところで源氏物語に登場する女性の中で誰が好きか?
とのアンケートが行われた
自分は参加しなかったが答える権利があったなら「紫の上」と答える

光源氏が藤壺に似た少女を、自分好みの女性に育てたのだが
彼女は子どもを産めなかった
かわりに明石の君の子どもを育てた

おっぱいから乳が出ないのに赤ちゃんに乳を吸わせるところは
かわいそうやら切ないやら、、感情移入して
光源氏の残酷さに怒りを覚えそうだった

可愛そうだった、、
それが彼女を推したい気持ちに拍車をかける
想像上の人物だが、幸せだったか?と気になる存在だ

藤壺も気になる存在だ
お母さんの桐壺に似ていてマザコンの光源氏が
やっちゃいけないことをやってしまった(不義の子を生む)のだが
その罪悪感とそれから開き直るところが、女性の強さを感じさせる
それは人の成長を感じさせる

特異なキャラクター(物の怪として活躍する箇所がある)の六条御息所もなかなか魅力的だ
特に娘を伊勢の斎宮に送るあたりからは、藤壺と同様に成長(気持ちの持ち方の変化)
を感じさせて、その気持も理解できる

ということで、紫の上、藤壺、六条御息所が好きかな
あとは朧月夜も好きかもしれない、、夕顔よりも、、


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レスポンスがあったツイート

2022年01月15日 19時08分06秒 | 徒然なるままに

ツイッターを利用しているがフォロワーは多くない
フォロー数も多くないので、そんなものだと思う
(あまり多くフォローするのは情報過多で消化しきれないから)
だがこの2日思いの外、リツィートとか良いねのアクションが多い
それはこの本を紹介したときだ

まっとうな事実とか意見が通じないのは何故か?
誰しもが悩む問題だが、そんなタイトルの本だ
それが唯一の答えではないが、その説明(説得)の仕方も考えるべきとしている
真面目な人はどうしても上から目線で攻撃的に言いがちになるが
それでは支持を受けられない
話を聞いた人が自ら気づくように話さないとアカンとしているが
実際はそれが難しい
それに最近は分断が激しく、一方の考え方しか認めない傾向が多いから
冷静に話してもなかなかうまく行かない
これは気長にやるしかない、、かな
これにレスポンスが多いのは、やはり同じ様に感じている人が多いと言うことか

もう一つの本は



外国人(フィンランド人)が書いた清少納言についてのエッセー(ブログ)だ
共感は時間と空間を超えてもたらされるようだが、内向的なミア・カンキマキさんの
筆致は現代の我々も共感できる
外国人が日本の古典を読んで面白いと感じてくれていることが嬉しいが
同時に、我々日本人も「枕草子」を読まないとダメかなとも思わされた
この本はデザインも印象的だからひょいと手に取る人も多いかも知れない

ということで、妙にツイッターでウケたので驚いたという話

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仕方ない、諦めるか

2022年01月15日 09時11分09秒 | 徒然なるままに

予想されていたものの想像以上のペースで拡大しつつあるオミクロン株
我が市でも夜の防災無線でこの2日ばかり3人、4人と陽性者があったとの報告がある

どうしようかな?と悩んでしまうのが、16日にしらかわホールで行われる
小菅優さんのピアノリサイタルだ(スタジオルンデ主催)
チケット注文したのは陽性者が低い数字に収まっていた時で
これなら久しぶりに生の演奏が聴ける
多少の不安はあったが、大丈夫だろうと思い込み申し込んだ

ところが直近は愛知県で1300人を超えて、しかも名古屋が多い
家には年寄りがいる(自分も年寄り?)
マスクを二重にしても漠然とした不安は拭いきれない
行き帰りの電車の中も心配だ

仕方ない、、諦めるか
チケット代は無駄になるが、不安を抱えながら行っても楽しめそうにない
そんなふうに話すと家族は安心した様子

チケット購入済みはこの他にも2月の豊橋での大阪フィルのコンサートがある
こちらは行き帰りは車なので安心、、と思いたい
それまでに一旦収束できていれば良いのだが


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訂正は伝わらない

2022年01月14日 09時32分04秒 | あれこれ考えること

ツイッター上では問題になっているが、ツイッターに接しない人たちには
大した問題ではなさそうなのがNHKBS1の番組「河瀬直美が見た五輪」の
「お金をもらって五輪反対デモに参加した」という字幕のいい加減さだ

NHKは慎重に慎重を期す企業のはずだが、五輪反対のデモをしている人に
インタビューをして(申し訳ないがその人は胡散臭そうな雰囲気)
「デモはお金で動員されている」と字幕で答えているシーンがあったのだが
なんとその人物は実は反対のデモに参加などしていなかった
そこでNHKは謝罪と訂正に追われた

まるでオリンピック反対のデモをしている人はみんなお金で動員されているような
印象を与えかねないような報道は、公平で中立だったのか以前に
報道は事実だったのかが問題となり、単なる謝罪で済まされることではなさそうだ

NHKの番組制作に参加したことのある人たちは、何重にもチェックする制作の
経験から今回のようなことはありえないと口にする
NHKは字幕を確認せずに入れたことを謝罪しているが
はたしてそれで解決するのだろうか

先日も取り上げたが、そこには「デモをするのは騒がしい人たち」
という印象づけの意図はなかったのか?といらぬ心配をしてしまう

ところで今日のテーマはNHKの問題ではなく、一旦広がってしまった情報はいくら訂正しても
最初の報道のインパクトが大きいために、人々の頭の中をアップデートできないということ

思い出すのは湾岸戦争の時の油まみれの水鳥のニュースだ
水鳥はフセインが製油所の油を放出したためにひどい目にあっていると報道されたが
油まみれの水鳥の映像は、全く違う場所の、しかも時期も違う映像を何故か引用されていた
これは後にその事実が明らかにされ、この件は片付いた様に思われたが
人々の記憶に有るのは「フセインが行った暴挙」の印象だ

報道とか一般的な知識は、最初のインパクトが大きいためにそれが違っていても
なかなか人々のなかに修正されにくい
特にインパクトを与えるために、大げさっだったり極端な表現が使われたりすると
その表現のパワー故に人々の心に強く蓄積される
そしてその情報は一旦終了というかたちで処理され、その知識は過去のものとなる

一旦固定化された知識とか考え方を変えるのは難しい
まずは既に終了している事柄に再度クセスして情報のアップデートをするのは
人には面倒すぎる
そして訂正(アップデート情報)は最初の刺激的な報道と違ってひっそりと
行われるので人々に気づかれにくい

結局のところ、最初のインパクトを変えることは難しく
ある意図をもってそのような報道をした場合は
「やったもん勝ち」で終わってしまいそうだ

問題は人の心のこのような傾向を熟知している人が意図的に
「やったもん勝ち」の戦術をとったらどうなるかという点だ

爆弾三勇士のエピソードも最初に報じられた勇ましい行動と
よくよく調べた結果の彼らの行動とは、随分意味合いが違う
結局、爆弾三勇士のエピソードは都合よく利用されたとも言える

ということで、無料で入ってくる情報、それらはよくよく気をつけないと
そして自発的に情報のアップデートをしないと
無意識にコントロールされることになりそう、、
と思うのは考え過ぎか





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