熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

NHKBSP4K:バイロイト「トリスタンとイゾルデ」

2024年09月23日 | クラシック音楽・オペラ
   NHKBSP4Kで、2024年7月25日に収録されたバイロイト祝祭劇場バイロイト音楽祭2024 楽劇「トリスタンとイゾルデ」が放映された。
    ワーグナー 作曲   
   演出:ソルレイフル・オーン・アルナルソン
    出演:トリスタン:アンドレアス・シャーガー 、イゾルデ:カミッラ・ニールント 、国王マルケ:ギュンター・グロイスベック 、クルヴェナール:オウラヴル・シーグルザルソンほか、
   合唱:バイロイト祝祭合唱団  
   管弦楽:バイロイト祝祭管弦楽団   
   指揮:セミョーン・ビシュコフ  

   私が初めて見た最初の本格的なオペラが、このワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」。
   大阪国際フェスティバル1967でのバイロイト祝祭劇場の引っ越し公演で、4月の某日に、月給1か月分を叩いてチケットを買って出かけたので、よく覚えている。(ピエール・ブーレーズ指揮、NHK交響楽団)
   丁度、直前に、カール・ベーム指揮のバイロイトのレコードが出て、イゾルデがビルギット・ニルソン、トリスタンがウォルフガング・ヴィントガッセン で主役が同じなので、何度も聞いて予習をした。
   しかし、ロンドンに5年居たので、ハイティンクがロイヤルオペラで振ったお陰で、ワーグナー・オペラの舞台は殆ど観ているが、このトリスタンとイゾルデを、実際の舞台で鑑賞したのは、
   先述のウイントガッセンとニルソンのバイロイトを皮切りに、ロンドンで、ウエールズ・ナショナル・オペラとロイヤル・オペラ、それに、ウルトラウト・マイヤーのベルリン・オペラだけで、あれだけレコードやCDを聴いてワーグナー節が頭にこびりついているのに、鑑賞機会は非常に限られているのである。
   最も最近に聴いたのは、METライブビューイングの舞台で、もう、随分前になり記憶は殆どないのだが、
   大阪フェスティバルのワーグナーの孫・ウイーラント・ワーグナーの演出は、幽かに原色のバックが浮かび上がる殆ど真っ暗で何もない舞台の奥の、全くと言って良いほど動きの止まった空間から、延々と歌手達の歌声とオーケストラのうねるようなコワク的な音楽が迸り続けると言う感じは、今でも覚えている。
   今回の舞台は、演出のソルレイフル・オーン・アルナンソンによる新演出版 で、船底ようの舞台に擬古的な芸術品や装飾品で飾った趣向を凝らした舞台で、なかなか趣があって興味深い。

   このオペラは、ワーグナーには珍しく神が登場しない至上の愛の物語。
   コーンウオールのマルケ王に嫁ぐ為に帆走されてきたアイルランドの王女イゾルデが、それが嫌で、着船間際に死のうとするのを、侍女のブランゲーネが避けるために、毒薬と愛の妙薬をすり替えて与えた。マルケ王の甥で迎えの使者として来た自分の許婚を殺した憎いトリスタンと一緒に飲んでしまった二人は、たちまち恋に落ちてしまう。
   王妃ながら王の目を盗んで密会していた二人の愛の絶頂に、マルケ王達に踏み込まれ、禁断の恋が露見する。トリスタンは、裏切った忠臣メロートに刺されて重態となり故郷に帰り養生するが良くならず、会いに来たイゾルデの前で息絶える。
   こんな話を、ワーグナーは3幕ものの4時間以上のオペラに仕上げたのだが、主要登場人物も限られていて、心情描写の微妙な対話が延々と続き、殆ど舞台にも動きがなく、壮大な合唱もなければスペクタクルもない息詰まるような重厚なオペラ。
   
   私が一番気に入っているのは、第二幕の、トリスタンとイゾルデが、禁断の恋に酔いしれて歌い続ける「愛の二重唱」。
   長大な螺旋を上りつめて行くように延々と続くあまりにも甘味で美しいトリスタンとイゾルデの愛の交歓で、これを聴きたくて出かけて行くようなものである。
   


   ウィキペディアによると、この長大な「愛の二重唱」は、実演では「愛の二重唱」前半の「昼の対話」部分が342小節に及びカットされる場合がある。約15分間にわたるこのカットは、第3幕のトリスタンの長丁場のために、スタミナを温存させる配慮からなされたものである。1951年のバイロイト・ライヴ以降、こうした短縮は基本的に禁じられた。という。
    ところが、今回の演出は、短縮版で、トリスタンとイゾルデがサワリを歌うだけで、急にマルケ王とメーロトたち従臣が踏み込んでくる。 
   全くの拍子抜けで期待外れであった。
   

   コンサートなどで、「前奏曲と愛の死」が、演奏されることがあり、素晴らしい録音も多いが、傑出したワーグナー歌手が歌う終幕のイゾルデの「愛の死」は、感動的である。
   
イゾルデの愛の死

   さて、カミッラ・ニールント は、 1968年生まれのフィンランドのソプラノで、世界中で活躍しており、レオノーレやヴェルディのエリザベッタ、ワーグナーのエリザベートやジークリンデと言ったリリックードラマチックなロールで国際的名声を博している。バイロイトでは、2011から14まで、タンホイザーのエリザベートを歌っており、祝祭デビューは、2017年のワルキューレのジークリンデ。
   「トリスタンとイゾルデ」を始めて歌ったのは、2018年4月のカーネギーホールでのアンドリス・ネルソン指揮のヨハネス・カウフマンとのボストン交響楽団の演奏会だったという。

   アンドレアス・シャーガー は、オペレッタのテノールからキャリアーをスタートしたオーストリアの歌手で、ワーグナーのトリスタン、ジークフリートやパルジファルと言ったヘルデンテノールに進み、ベルリン国立歌劇場の歌手として、スカラ座やバイロイトなどの国際舞台で活躍している。
   バイロイト祝祭でのデビューは、2016年にさまよえるオランダ人のエリクで、2017年と18年に、パルジファルを歌っている。

   指揮者のセミョーン・ビシュコフは、ロシア出身の卓越した指揮者で、レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団の指揮を打診されるが、政治信条を理由に公演が流れ、1974年にソ連から亡命して、欧米で活躍。数奇な運命を辿りながら、 現在はチェコ・フィルの音楽監督であり、カラヤンを尊敬していたというから、膨大なクラシック音楽要素が結集した指揮者なのであろう。
   
愛の妙薬を握りしめながら
カーテンコール

指揮:セミョーン・ビシュコフ
   
   

   
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NHK BS:ウィーン国立歌劇場「トゥーランドット」

2024年08月05日 | クラシック音楽・オペラ
   昨年12月に上演されたウィーン国立歌劇場の歌劇「トゥーランドット」(プッチーニ) アスミク・グリゴリアン&ヨナス・カウフマン スター歌手の競演!を、NHK BSが7月に放映した。

   NHK解説の番組内容は、
   ウィーン国立歌劇場 歌劇「トゥーランドット」(プッチーニ) 当代きってのスター歌手がタイトル・デビュー。役になりきった圧巻の歌唱は必見! 出演:アスミク・グリゴリアン(トゥーランドット)、ヨナス・カウフマン(カラフ)、イェルク・シュナイダー(皇帝)、クリスティーナ・ムヒタリヤン(リュー)他 管弦楽:ウィーン国立歌劇場管弦楽団、指揮:マルコ・アルミリアート 演出:クラウス・グート

   プッチーニが、「トゥーランドット」を未完で世を去ったので、「リューの死以降」を補筆したのが、フランコ・アルファーノだが、初演を指揮したトスカニーニが大幅に削除を要求して、以降このカット版で上演されてきた。しかし、今回は、完全版の上演だという。

   それに、古代の中国ムードたっぷりのエキゾチックな従来のような舞台ではなく、今回は、
   ファシズムの影が差す、初演時のヨーロッパの連想から、演出家グートは、舞台から中国趣味を排除して、カフカとジャック・タチ「プレイタイム」をヒントにスタイリッシュな不条理空間を創造するという。
   衣装も、口絵写真のとおりで、合唱団はもちろん殆どの出演者は背広や洋服姿であり、セットもシンプルで、時空を超えた中性の演出。
   時代考証のしっかりした演出のオペラが好きだし、
   これまでの、中国趣味の「トゥーランドット」の舞台の印象が刷り込まれているので、華麗なプッチーニ節はそのままとしても、やや、戸惑いを感じた。

   さて、この「トゥーランドット」は、ペルシャなどの「謎かけ姫物語」の一類型。
   先祖の姫が異国の男性に騙され、絶望のうちに死んだので、世の全ての男性に復讐を果たすために、絶世の美女トゥーランドット姫 は、言いよる王子たちに三つの謎を与えて解けなかったので総て斬首する残忍な話。ところが、一目ぼれしたチムールの 王子カラフが謎解きに成功して氷のように冷酷なトゥーランドットを陥落させる。勿論、カラフの愛をすぐに受け入れる姫ではなく、拒絶して逃げるので、カラフが自分の名前を言えば許すという。
   ここで、名前を探索するために布告を出す有名なアリア「「誰も寝てはならぬ」Nessun dorma 」の舞台。トゥーランドットは、唯一名前を告白できるチムールの娘リュー(カラフに密かに想いを寄せる召使)を痛めつけるが、自殺する。
   この舞台では、秘密を守り抜いて喜びさえ感じて死んでゆくリューに、何故それほどまでに強いのかと問い詰めて、「愛」だと応えられて、自殺にショックを受けて思いつめるトゥーランドットを描いていて印象的であった。
   終幕に、玉座の前に進み出た姫が、「彼の名は……『愛』です」と宣言する のだが、このオペラのメインテーマは、「愛」であり、氷の女トゥーランドット姫の謎解きの熾烈さ冷酷さと対比させたのである。
   トスカニーニが削除した部分がどこか良く分からなかったが、カラフに接吻されて一変したトゥーランドットが、最初会ったときからカラフに英雄の姿を感じて愛を覚えたと心情を吐露していたので、このあたりであろうか。

   オペラで、最も好きなキャラクターの一人がリューなのだが、このオペラでも、第1幕の、「「お聞き下さい、王子様」Signore, ascolta 」から、第3幕のトゥーランドットへ歌いかける「心に秘めた大きな愛です」Tanto amore, segretoと「氷のような姫君の心も」Tu che di gel sei cinta 等々、切々と歌い上げる美しい愛の賛歌ともいうべき素晴らしいアリアを歌って感動的であり、クリスティーナ・ムヒタリヤンはすごい歌手である。

   さて、次の写真は、主役のアスミク・グリゴリアン(トゥーランドット)とヨナス・カウフマン(カラフ)の二人。
   文句なしに、感動的な素晴らしい舞台を見せて魅せてくれた。コメントなどは蛇足なので止める。
   美しいプッチーニ節を連綿と情感豊かに歌わせるマルコ・アルミリアートの指揮の冴え。
   とにかく、久しぶりの「トゥーランドット」。感激頻りであった。
   


  

   さて、ビデオも含めて随分「トゥーランドット」の舞台を観ている印象だが、このブログの記録によると、ニューヨークのMETとロンドンのロイヤル・オペラで1回ずつ、それに、イタリア・ヴェローナのローマ時代の野外劇場で 鑑賞して、最も最近は、ウクライナ国立歌劇場の来日公演であるから、随分前の話である。

   やはり、一番印象的であったのは、ヴェローナのローマ時代の古代劇場の舞台で、記録を再録すると、
   ヴェローナ野外オペラは、世界屈指の夏のオペラフェスティバルなので、その壮大なスケールに圧倒されるのだが、兎に角、舞台そのものが巨大なアリーナの一角に設営され、横幅の長さは端から端まで大変なもので上は観覧席の最上階までを使っての公演であり、開演前に場外に置かれている舞台装置や道具を見ても巨大な高層ビルほどの大きさもあり度肝を抜かれる。
   トゥーランドット(アンドレア・グルバー)を載せて舞台を動くドラゴンの迫力も凄いが、広大な舞台を埋めつくす多くの兵士や群集の数など大変なもので、その群衆たちが舞台を縦横無尽に移動しながら合唱やバレエを演じるのであるから、そのスペクタクルは特筆に価する。
   片隅に設えられた舞台で、ホセ・クーラのカラフが「ネッスンドルマ 誰も寝もやらず」を歌い始めると巨大な場内も水を打ったように静かになる。
   このローマの野外アリーナは非常に音響効果が良いのである。
   グルバーのトゥーランドット、ホセ・クーラのカラフ、マヤ・ダシュクのリューの素晴らしさは言うまでもないが、イタリアのコーラスの途轍もないサウンドの凄さ、バレエの迫力、とにかく圧倒的なトゥーランドットの舞台であった。

   翌日観たのは、壮大なスペクタクル演出の「アイーダ」。
   「ロメオとジュリエット」の故郷、ヴェローナは素晴らしい古都である。
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NHK BS4K スカラ座「ドン・カルロ」

2024年05月11日 | クラシック音楽・オペラ
   5月5日、NHK BS4Kで、ミラノ・スカラ座 ヴェルディ作曲 歌劇「ドン・カルロ(1884年ミラノ4幕版)」 が放送された。
   収録:2023年12月7日 演出:ルイス・パスクワル
  <出演>は、次の通りで、凄い布陣である。
  フィリッポニ世:ミケーレ・ペルトゥージ
  ドン・カルロ:フランチェスコ・メーリ
  ロドリーゴ:ルカ・サルシ
  大審問官/修道士:パク・ジョンミン
  修道士(カルロ五世):イ・ファンホン
  エリザベッタ:アンナ・ネトレプコ
  エボリ公女:エリーナ・ガランチャ ほか
  合唱:ミラノ・スカラ座合唱団
  管弦楽:ミラノ・スカラ座管弦楽団
  指揮:リッカルド・シャイー

   さて、2年前に、METライブビューイングの舞台をレビューして書いたが、私がドン・カルロの実演を観たのは次のたった一度だけで、
   1989年4月3日、ロンドンのロイヤルオペラの舞台であった。
   5人のトップ歌手が揃わないと上演出来ないと言う至難のオペラで、鑑賞するチャンスが極めて希有だと言う。
   指揮 リチャード・アームストロング 演出セット衣装等 ルキノ・ヴィスコンティ
   ドン・カルロス:デニス・オニール フィリップ2世:サミュエル・レイミー ロドリーゴ:ジノ・キリコ
   エリザベート:カーティア・リッチャレッリ エボリ公女:アグネス・バルツァ
   これも素晴しいキャストで、感動したという記憶だけは残っている。登場のオペラ歌手も、すべてロイヤルオペラで聴き続けて知っていたので、イメージが湧いていたし、特に、リッチャレッリとバルツァは、憧れの歌手であった。

   今回の舞台は、冒頭の第1幕の、カルロと許嫁のエリザベッタが愛を育む「フォンテンブローの森」が省略された短縮版で、
   既に父王フィリッポ二世の王妃になったエリザベッタを諦めきれないカルロの苦悩からスタートする。後半、国王は、二人の関係に苦しみ王妃に愛されない悲哀と孤独に苛まれ続ける。
   カルロは、唯一の理解者で親友の、ポーザ侯爵ロドリーゴに励まされ、カトリック教のスペインに弾圧されて虐げられているフランドルの民を救うため、戦いに加わることで愛の苦悩を忘れるよう促される。
   全編を通じて、カルロとエリザベッタの愛の交流が主旋律だが、副主題として、カルロに思いを寄せる王妃の女官エボリ公女の恋の鞘当てが絡み、運命を翻弄する。
   国王を賛美する大聖堂前の大広場では、異端者が火刑に処されるところへ、王子カルロがフランドルの使節たちを連れて現れ、フランドルの救済を願い出るが、国王は聞く耳を持たない。興奮して思わず剣を抜いたカルロは、反逆罪で捕らえられて投獄される。
   ロドリーゴは、反逆者はカルロではなく自分だということにして身代わりになって、カルロの独房にやってくる。フランドルの救済をカルロに託し、自らは暗殺される。このとき、カルロの解放を求めた民衆の暴動が起きて、その騒ぎに紛れて、エボリがカルロを牢から逃がす。
   静かな修道院で、昔の幸せを思い出しながらエリザベッタが待っているところへ、カルロが現れ、スペインを捨ててフランドルへ行き、自由のために戦うのだと告げエリザベッタも唱和して、二人は天上での再会を約して永遠の別れを告げる。
   フィリッポ2世がやって来て、カルロを捕らえようとしたが、そこへ先王カルロ5世の亡霊が現われて、カルロを連れ去る。
   
   私が注目したのは、マドリードの王宮の王の書斎の場での国王の独白で、ウィキペディアをそのまま引用すると、
   妃に一度も愛されたことがなく、今や息子にも裏切られた国王は、王として生きることの苦難について瞑想し、孤独にアリア「ひとり寂しく眠ろう」を歌い悲しみ吐露する。感情的な疎外感からの自己憐憫(弦楽器による執拗な音型の繰り返しを伴い「彼女は私を愛したことがない」という激しい感情の発露で頂点に達するアリオーソ)から死についての暗澹たる瞑想を経て自からの権力についての再認識し、最後には感情の高揚で終結するアリアとなっている。
   ところで、歴史上は、フィリッポ2世は、
   スペイン絶頂期に君臨した国王で、絶対王制の代表的君主であり、その治政はヨーロッパのみならず、中南米・アジアにも及ぶ大帝国を支配し、その繁栄は「太陽の沈まない国」と形容されたほどの史上屈指の権力者であった。
   その偉大なフィリッポ2世が、シラーの作とは言え、このオペラでは、悲哀の限りを慨嘆して泣くという落差の激しさ、
   何度かスペインを訪れて、その偉大さを実感しているのだが、歴史の虚実の不可思議さをを感じながら、素晴しいミケーレ・ペルトゥージのアリアを感慨深く聴いていた。
   それに、オランダに3年間住んでいたので、フランドルの歴史を反芻して、往時の世界史に思いを馳せた。

   このオペラでは、感動的なアリアが鏤められているのだが、終幕のエリザベッタが歌うアリア「世のむなしさを知る神よ」が胸を打つ。プーチン支持でMETを干されているアンナ・ネトレプコだが、情感豊かに切々と歌う、千両役者の貫禄である。
   軽く手を叩きながら、シャイーは、拍手の鳴り止むのを長い間待ってからバトンを振った。
   
   
   カルロの「美しい夢を見ました」に続いて、二人の二重唱「天国で会いましょう」と、別れの悲しみをうたい上げる二重唱「永遠にさらば」が、悲劇の終幕を純化して感動的である。
   

   タイトルロールのドン・カルロのフランチェスコ・メーリを凌ぐほどの歌唱の魅力を示すのはロドリーゴのルカ・サルシ、
   それに、アリアが多くて起承転結の激しい役柄を器用に熟して性格俳優ぶりも演じきるエボリ公女のエリーナ・ガランチャも凄い。
   METライブビューイングで、ネトレプコとガランチャの舞台に魅了されてきたが、今回も素晴しい舞台に接して感動した。
    
   指揮者のリッカルド・シャイーは、オペラを聴いた経験はないが、コンセルトヘボウの指揮者であったので、結構聴いている。
   ハイティンクからシャイーに変って、一気に重厚なコンセルトヘボウのサウンドが明るくなった感じがした。

   この舞台は、特に衣装が当時を再現した豪華な出で立ちで素晴しく、それに、合唱団も多くて、舞台セットも、大聖堂やエスコリアルなどをイメージしたクラシカルでシックなので、まさに、打って付けの演出効果であった。
   もう一度、METライブビューイングの録画を観ようと思っているが、流石に、ヴェルディの凄いオペラである。
   
   
   
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NHK:バイエルン国立歌劇場 喜歌劇「こうもり」

2024年04月18日 | クラシック音楽・オペラ
   NHK BS4Kで、バイエルン国立歌劇場 喜歌劇「こうもり」(ヨハン・シュトラウス作曲)。歌劇場管弦楽団創設500年を記念した豪華な公演。を鑑賞した。

   演出:バリー・コスキー 出演:ゲオルク・ニグル(アイゼンシュタイン)、ディアナ・ダムラウ(ロザリンデ)、アンドリュー・ワッツ(オルロフスキー公)、ショーン・パニカー(アルフレート) 、マルクス・ブリュック(ファルケ) 、ケヴィン・コナーズ(ブリット) 、カタリーナ・コンラーディ(アデーレ) 、ミリアム・ノイマイヤー(イーダ) 、バイエルン国立歌劇場合唱団 、合唱指揮:クリストフ・ハイル 、バイエルン国立歌劇場管弦楽団 、 指揮:ウラディーミル・ユロフスキ、
   とにかく、全編、華やかなワルツに彩られたヨハン・シュトラウス節に紡がれたウィーンを舞台にした楽しい喜歌劇で、第二幕のオルロフスキー公爵邸での豪華絢爛たる舞踏会の様子など特筆ものである。

   「こうもり」を、最近レビューしたのは、2021年末のウィーン国立歌劇場のライブ配信の舞台だが、私が最初に観たのも、1974年のヨーロッパ旅行の時に、大晦日の夜にここで観た舞台。
   元旦のニューイヤーコンサートの前日で、観客も全員正装していて、豪華な宮殿のような劇場が、王朝時代のような華やかさで匂い立つ。
   「こうもり」の舞台は、比較的少なくて、ロンドンに居た時に、ロイヤルオペラで2回、2008年8月に、小澤征爾の「こうもり」、2015年5月に、ウィーン・フォルクス・オーパーの来日公演、
   他には、新日本フィルのコンサート形式の演奏などだが、各舞台ともワクワクしながら愉しませて貰った。

   さて、この喜歌劇がなぜ「こうもり」なのか、
   3年前ファルケとアイゼンシュタインが仮面舞踏会に出かけた帰りに、アイゼンシュタインが、酔いつぶれたファルケを公園に放置して帰ってしまったので、朝方目を覚ましてこうもりの変装のままだったので散々嘲笑されて恥をかかされたので、こうもり博士と言われ続けたファルケの仕返し。
   ファルケは、ロシアのオルロフスキー公爵邸で開かれた大舞踏会を、どんでん返しの喜歌劇に画策。極めつきは、仮面を付けて現われたハンガリーの貴族の淑女に、アイゼンシュタインがゾッコン惚れ込んで口説き落としたつもりが、実は、妻のロザリンデであったという話。
   侮辱罪で収監される直前にパーティにトンズラしたアイゼンシュタイン家に、ロザリンデに思いを寄せているアルフレートが忍び込んできて、口説いているところに刑務所長のブリットが現われて、アイゼンシュタインだと勘違いして逮捕。第3幕の刑務所の場で、二人がかち合わせて、大混乱。夫妻の不実が分かり仲直りで大団円。
   
   ダムラウのハンガリアン「チャルダッシュ」のコケティッシュな魅力や、カウンターテナーのワッツのロシア公爵の艶やかさ、ニグルの軽妙洒脱な演技や達者なステップの確かさ、狂言回し師としての策士然としたブリュック、小間使いながら女優を目指すコンラーディの絶好調の歌唱、それに、
   とにかく、コナーズの型破りの女性趣味の刑務所長や牢番のタップダンスなどが、これまでの刑務所の雰囲気をがらりと変える演出で面白い。

   オーストリーやドイツの歌劇場では、大晦日に、この「こうもり」を上演して古い年を、笑い飛ばして送り、新年を迎えるという。
   何となく、年末年始を、ヨハン・シュトラウスのワルツで送り迎えする気持ちが分かって興味深い。
   
   
   
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インバル/都響:マーラー「交響曲第10番 」でコンサート鑑賞卒業 そして 小澤征爾

2024年02月23日 | クラシック音楽・オペラ
   2月22日の都響C定期公演は、
出 演 指揮/エリアフ・インバル
曲 目 マーラー:交響曲第10番 嬰へ長調(デリック・クック補筆版)
   マーラー未完成の最後の交響曲であり、73分の大曲である。
   インバルによると、この曲は「別れ」を告げていて、死後に彼が復活し、人生や死について回想しているかのようだと言う。

   私にとっては、このコンサートが、シーズンメンバーチケットを購入して定期会員として、コンサートホールに通う最後の演奏会であったが、素晴しい1日であった。
   傘寿を超えて大分経つと移動が不自由になって、鎌倉の田舎から池袋の芸術劇場への往復が苦痛になり始めて、今期で定期会員権を放棄したのである。
   昔のように、トップ公演のコンサートと雖も全く食指が動かなくなったので、特別な公演でない限り、劇場に通うことはないであろう。

   定期会員権継続は、アメリカ留学寺に、フィラデルフィア管弦楽団の2年間に始まって、アムステルダム・コンセルトヘボウ管、ロンドン交響楽団、ロイヤル・オペラ、新日本フィル、都響と、ほぼ半世紀の長いクラシック行脚だったが、それとは関係なく、ウィーン・フィルやベルリン・フィル、METやミラノ・スカラ座やウィーン国立歌劇場、そして名だたるソリストなどと言ったトップ公演にも頻繁に出かけていたので、クラシック音楽には愉しませて貰った。
   帰国してから、小澤征爾を聴きたくて新日本フィルに通ったが、出場しなくなったので、都響に鞍替えしてもう10数年になるが、N響の定期券を持っていたこともあった。
   ステレオレコードが出始めた頃から、LPレコードに入れ込み始めて、ビデオ、レーザーディスク、CD、DVDなどと集めた音源も膨大な量で、NHKやWOWOWなどから録画したDVDも溢れるばかり、
   60年以上もクラシック音楽に付き合っていると色々なことがある。マーラーも随分聴いてきたと思う。

   さて、先に逝った小澤征爾には、数々の思い出がある。
   小澤征爾の演奏に最初に接したのは、1974年だったが、ウォートン・スクールで勉強していた頃で、フィラデルフィアのアカデミー・オブ・ミュージックで、ブラームスなどを聴いた。サンフランシスコから、ボストン交響楽団の指揮者に移った直後の遠征公演であった。
   この時、オーマンディの部屋を借りたのであろう、あの「小澤征爾の指揮棒」で書いた指揮棒を借用したのかも知れない。
   その後、ロンドンで、サイトウ・キネンで一回、他にも何回か機会があったが、出張していたりキャンセルがあったりで機会を逸し、
   日本では、ウィーン国立歌劇場の来日時と小澤征爾音楽熟オペラ「こうもり」と「カルメン」やサイト―・キネン・フェスティバル松本など、それに、新日本フィルの定期会員券を持っていた。最初は、定期公演8回の内、2回は振っていたので、結構、小澤の演奏を楽しめたが、その後、1回となり、振らなくなってしまったので、都響に切り替えた。

   昔、小澤征爾のドキュメントをテレビで見ていて、早朝真っ暗な時間に起きて総譜を勉強しながら、毎日が、このエッヂを歩いているようなもので、何時、奈落に転落するか分からないと、机の縁に指を這わせていたのを強烈に覚えている。
   カラヤンの弟子になった2か月後、バーンスティンのオーディションがあって合格して、一年間と言うことで出かけたが、帰れず、カラヤンのところに居たのは4か月だったが、カラヤンは死ぬまで、小澤を弟子だと人に言って何くれと面倒を見てくれたと言う。これも、テレビのドキュメントだが、小澤が、カラヤンの前に跪いて、オペラの指揮が上手く行かないのですがと聞いたところ、何回やっているのだとたしなめられていたのを覚えている。

   小澤のイギリスでの評判は大変なもので、ロイヤル・フェスティバル・ホールでのロンドン交響楽団の演奏会でのこと。直前になって、小澤がボストンから来られなくなって代役指揮者で演奏会を行うことになった。ソリストは、世界的チェリスト・ロストロポービッチ。演奏会当日、係員がホールの戸口で、入場者の一人一人に、詫びながら「マエストロ・オザワが来られません。ご希望なら払い戻しいたしますが如何でしょうか?」と聴いていた。50センチしか離れていない後の家内にも言っていた。指揮者やソリストの変更は日常茶飯事でオペラやクラシック・コンサートの宿命、5年以上ロンドンの劇場に通い詰めていたが、後にも先にも、こんな光景は見たことがない。

   先日、小澤征爾の追悼番組で、2002年のウィーン・ニューイヤー・コンサートが放映されていた。バーンスティン譲りであろうか、華麗な指揮ぶりが強烈な印象を醸し出して感激。色々な番組に接して、欧米で最高峰の指揮者に上り詰めた中国生まれで日本人の巨大なコスモポリタン音楽家の偉大さを改めて感じた思いであった。
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NHK:ザルツブルク音楽祭2023 歌劇「マクベス」

2023年12月28日 | クラシック音楽・オペラ
   ザルツブルク音楽祭2023▽歌劇「マクベス」(ヴェルディ)鬼気迫る歌唱と演技は必見! 出演:ウラジスラフ・スリムスキー(マクベス)、アスミク・グリゴリアン(マクベス夫人)他 演出:クシシュトフ・ヴァルリコフスキ と言う番組を、NHK BSで鑑賞した。

   舞台は中世スコットランド 勇敢な武将とその妻は 魔女の予言に翻弄され 国と己を破滅させて行く 物語である。

   さて、冒頭に語るべきは クシシュトフ・ヴァルリコフスキの演出、
   映画をはじめとする 文化的象徴を大胆に取り入れ 作品解釈の更新を迫るポーランドの鬼才 と言うのだが、
   解説では、彼は、
   マクベス夫妻に子供が育たなかったと言う原作を設定を元に「医師に赴任を知らされた夫妻の絶望」をすべての発端とした
   また、パゾニーニ監督の映画や のちに恐怖政治をもたらした フランス革命の母体 ”球戯場の誓い”の室内テニスコートを導入し 政治システムと独裁者との関係を問い直す と言うことで、冒頭の舞台セットは、室内テニスコートで 普段は陰鬱で暗い魔女の登場も、舞台下手から賑やかな魔女集団が移動舞台で接近すると言う状態。

   ヴェルディの台本は、1865年のパリ版をベースにしているのでオリジナル通りに上演されているのであろうが、これまで見てきたオペラの舞台やシェイクスピア戯曲の舞台とは殆どかけ離れた公演で、時代考証などあったのかどうか、とにかく、意表を突いた舞台で、「マクベス」を観た聴いたと言った感じがしない不思議な感覚である。
   舞台セットがシンプルで、衣装が現代風であり、舞台展開が殆どないので、シーン展開のメリハリがなく、戯曲をよく知らない観客には、ストーリーを追い難いであろう。
   本来、シェイクスピアは観るではなく、聴くと言うパーフォーマンス・アーツなので、原点に戻ったと思えば何でもないのであろうが、通常、タップリとストーリー展開豊かな舞台に慣れた観客には、フォローに苦労しよう。

   さて、マクベスが、宴会途中で、殺害した盟友バンクォーの亡霊の幻影を観て狂乱するシーンだが、この演出では、マクベスがなぐり書きした風船がそれに見えて怯えると言う演出になっているのだが、ヴェルディは、本番前の演出指導で、亡霊は地下から現われるべきで、それは、バンクォーを演じた同じ人物でなくてはならず、人形ではなくて、生身の人間でなければならないと釘を刺している。
   ヴェルディは、オペラを総合芸術と考えて、音楽だけではなく、音楽と視覚の両方から総合的に表現される効果を追求していたというのである。

   もう一つ、強気一点張りの妻もダンカン王暗殺の罪に苛まれて狂い死にするのだが、この舞台では、何故か生き返って死ぬはずのマクベスににじり寄って行き二人一緒に電源コードでぐるぐる巻きに縛られて幕となる。
   確か、蜷川幸雄の舞台で、栗原小巻の鬼気迫る感動的な狂乱の場を観た記憶があるのだが、今回は、すっぽ抜けの演出であった。

   舞台の背後にモノクロの映像スクリーンがあって、隠れた舞台の情景などが映されていて面白い。例えば、ダンカン王暗殺のシーンでは、舞台ではカーテンで仕切られた内部で行われていて客席からは見えないが、カーテンの中のカメラがそのシーンをスクリーンに映し出す。

   ところで、マクベス夫妻が不妊だったという件に付いては、これまで、シェイクスピア関係の本を結構読み、舞台も結構観てきたが、聴いたことも見た記憶もない。舞台にバンクォーに似た子供が随所に、そして、最後の舞台にも現われたが、この舞台で、どう描かれたのか良く分からなかった。

   ヴェルディの歌劇でありながら、ベルカント、美しいアリアもなければ感動的な愛の二重唱もない、重厚な悲劇的な心理劇に徹したオペラであるが、流石にウィーン・フィルの演奏で、指揮者フィリップ・ジョルダンの冴えたバトン捌きが、感動的なシェイクスピアの物語を紡ぎだす。
   何故か、イングリッシュ・ナショナル・オペラの舞台だけ、微かに印象に残っている。

   余談ながら、ザルツブルグには、二回訪れており、最初に訪れた1973年の年末に、このザルツブルグ祝祭劇場で、モーツアルトの「ドン・ジョバンニ」を鑑賞した。

   それはそれとして、マクベスとマクベス夫人を演じた、ウラジスラフ・スリムスキー(マクベス)、アスミク・グリゴリアン(マクベス夫人)は、実に素晴しい歌手で感激した。
   ウラジスラフ・スリムスキーは、ベラルーシのバリトンで、ザルツブルグでは、2018年に、Tomsky (Pique Dame)でデビュー、
   アスミク・グリゴリアンは、リトアニア出身のドラマティック・ソプラノ、2022年ザルツブルク音楽祭の目玉プッチーニ「三部作」3役を歌い上げてニューヒロインとして話題になったという。

   二人の玉座を得た驚喜するシーンを転写しておきたい。ラストは、正気に戻った第2幕への転換のファースト・ショット。
   
   
   
   
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相曽賢一朗 & ヴァレリア・モルゴフスカヤ デュオ・リサイタル 2023

2023年11月23日 | クラシック音楽・オペラ
   恒例の相曽賢一朗 のヴァイオリン・リサイタルが、昨年同様「相曽賢一朗& ヴァレリア・モルゴフスカヤ デュオ・リサイタル」として、
    2023年11月22日(水)19時開演で、東京文化会館 小ホールで開催された。
   プログラムは、次の通り。

出演
ヴァイオリン:相曽賢一朗
ピアノ:ヴァレリア・モルゴフスカヤ

曲目
ラヴェル/ヴァイオリン・ソナタ(遺作)
エルガー/ヴァイオリン・ソナタ ホ短調 Op.82
田中カレン/Ocean
バルトーク/ラプソディー 第2番 BB96a
バルトーク(セーケイ編曲)/ルーマニア民俗舞曲 BB68

   若かりし頃には、随分、デュオ、トリオ、カルテット、オクテットと言った調子で室内楽のコンサートにも出かけてクラシック音楽を楽しんでいたが、もう、随分昔の話で、今回のプログラムは、聞いたことがあるのかないのか、相曽賢一朗は、最近特に、玄人受けするというか、真っ向勝負で舞台に挑んでいる感じなので、全く新鮮な感じで聴いている。
   ラヴェル、エルガー、バルトークについては、半世紀以上もクラシック・コンサートに通い続けていても、いまだに良く分からないので、今回は、相曽賢一朗の美音に感動しながら聴いていたということに留めたい。
   以前に、1743年のガダニーニを弾いていると聞いたことがあったが、今回は何を弾いていたのであろうか、秋晴れの晴天に恵まれて澄み切った空気に共鳴したように、今夜は、特に、相曽のヴァイオリンの暖かくてピュアーな美しいサウンドが鳴り響いていて感動的であった。

   今回、注目したのは、田中カレンのOcean、
   ベルゲンのアウトゥンナーレ音楽祭から委嘱された作品とかで、East Beach, Hendry's Beach-Sunset, Butterfly Beachからなる小品だが、素晴しい海岸の絵画を見ているような実に美しいサウンドで奏で始めて、引き込まれて行く。パリで学んだと言うから、その音楽性とノルウェーの美しい自然とが調和した曲想であろうか、真夏に訪れたフィヨルドやベルゲンを思い出しながらノルウェーを懐かしんでいた。黙想して聴いていると、おそらく、脳裏に走馬灯のように風景が展開して、さながら、映画音楽のように聞こえてくる感じである。
   田中カレンさん、相曽賢一朗に促されて舞台に登場して挨拶した。コンサートの後も、二人の演奏者に寄り添っていた。

   アンコールで演奏したのは、ウクライナの作曲家ミロスラフ・スコリクの「メロディ」、  
   Melody, for Piano Soloだったが、今回は、ヴァイオリンとピアノに編曲されたデュオ。
   冒頭から、涙が出るように美しい曲で、現下の悲惨なウクライナ戦争のイメージが重なって、胸に迫って来て、実に切ない。
   貴公子の相曽賢一朗は威儀正しく淡々と弾いているが、ウクライナ人のヴァレリア・モルゴフスカヤは、おそらく、万感胸に迫る思いで、故郷の平和を希いながら鍵盤を叩いていたのであろう。
   スコリクは、2020年にキーウで亡くなったのでウクライナ戦争は知らないが、大戦後シベリアに追放されたり、クリミア併合などウクライナの悲惨さを痛いほど知り尽くしているので、平和への思いを、民族的な叙情性を哀調を帯びてメランクリックに歌わせたのであろう。相曽は、何も語らなかったが、ウクライナを思っての選曲であり、今、一番必要な貴重な曲であると思う。

   相曽賢一朗が、ロンドンに留学したのは1992年、その時、リバプールから電話してきて数日間寄宿して付き合いが始まり、我が家でミニコンサートが持たれてフアンになったキューガーデン在住の日本人小学校の生徒の親たちが、帰国後、1997年から始まった相曽のコンサート時に集まってロンドン会を開いている。この日も、相曽の新しいCD「追憶~ジョージアの調べ」に、婦人たちはこもごもサインを貰って、その後、二人の演奏者を挟んで記念写真を撮った。その同窓会メンバーも、いよいよ、後期高齢者で、いつまで続けていけるか、それが、問題でもある。

   相曽の海外生活も、既に、40年近くなっていて、昨年、いつも会場に来られていたご両親が亡くなられて、寂しくなった。
   芸大とアメリカとイギリスの最高峰の音楽教育を受けて、確固たる日本魂をバックボーンにして、クラシック音楽の故郷欧米にしっかりと地歩を築いて音楽を追究し続けている、これこそが相曽の真骨頂とも言うべき特色であり強みであり、余人を持って代え難い。益々の精進と活躍を祈っている。
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都響の会員権の継続について

2023年11月12日 | クラシック音楽・オペラ
   今日の都響の定期演奏会Cは、次の通り 素晴しい演奏会であった。

第986回定期演奏会Cシリーズ
日時:2023年11月12日(日) 14:00開演
場所:東京芸術劇場コンサートホール

出演
指揮/ジョン・アクセルロッド
ヴァイオリン/アレクサンドラ・コヌノヴァ

曲 目
シルヴェストロフ:沈黙の音楽(2002)
シベリウス:ヴァイオリン協奏曲 ニ短調 op.47
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番 ニ短調 op.47
【ソリスト・アンコール】
J.S. バッハ : 無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第3番より「前奏曲」
 (ヴァイオリン/アレクサンドラ・コヌノヴァ)

   冒頭のシルヴェストロフはウクライナの作曲家で、2002年の作曲であるから、現代曲だと思っていたが、「沈黙の音楽」は、沈黙のワルツやセレナーデで、実に優雅で美しい曲であった。現下の悲惨極まりないウクライナ戦争の対極にあって、平和への祈りを切々と奏でる清浄なサウンドが胸に迫る。

   シベリウスのヴァイオリン協奏曲は、欧米でも何度か聴いた有名曲。私には、森と湖に囲まれたムーミンやサンタクロースの国と言うよりも、ウクライナ同様に、ロシアの圧政に苦しんでいたフィンランドの時代で、上空に飛来した敵機に向かって、自動小銃を構えて撃ち落とそうとするシベリウスの姿をイメージさせてくれる素晴しい曲である。
   華麗なヴァイオリンに感動しながら、アレクサンドラ・コヌノヴァの美しい容姿の、正に絵になる素晴しい演奏姿に魅せられていた。

   ショスタコーヴィチの交響曲第5番は、レコードもCDも持っていないのだが曲想を覚えていているので、ヨーロッパなどでも結構聴いた曲なのであろう。第3楽章最後のハープの素晴しいサウンドから第4楽章の冒頭にかけてのサウンドが印象的である。
   良く分からないが、「ムツェンスク郡のマクベス夫人」で、厳しく批判され絶体絶命の危機に陥りながら、この曲で名誉回復したという。 硬骨漢のショスタコーヴィチのことであるから、スターリンに迎合したはずはなく、「苦悩から歓喜へ」をテーマにした輝かしいフィナーレに、スターリンの途轍もない圧政に対する批判を叩き込んだような気がしている。

   いずれにしろ、今回の演奏会は、信じられないような悲惨なウクライナ戦争やパレスチナ戦争への限りなき批判と、平和への祈りを呼び起こして胸が熱くなった。
   指揮者ジョン・アクセルロッドの卓越したタクト捌きと素晴しい都響サウンドの響きが脳裏に焼き付いている。

   さて、先月、都響から定期会員券を継続するかどうか案内があった。期間が短かったし、大分どうするか考えたのだが、老齢故の体調を考えて、今までのように、元気で鎌倉から池袋の芸術劇場へ通える自信がないので、退会することにした。
   いつから都響の定期会員になったのか記憶はないのだが、15年は続いていると思う。
   と言っても、途中で途切れたこともあるが、クラシックの楽団の定期会員権の継続は、50年ほど続いていて、都響は、その最後のケースなのである。
   いずれにしろ、定期会員権の取得継続で、クラシック音楽を存分に楽しんできた私にとっては、非常に残念なことである。

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   残念なことではあるが、諦めざるを得ない。

   さて、一番最初の会員権取得は、N響の東京文化会館ホールのシリーズで、それから、海外に出たので、フィラデルフィア管、コンセルトヘボウ管、ロンドン響、ロイヤル・オペラ、その後帰国してからは、小澤征爾を聴きたくて新日本フィル、そして、今の都響である。
   定期会員権の取得の必要性を感じたのは、フィラデルフィア管の時で、定期会員権は、孫子の代までと言うか、会員の家族が代々継承して、市場に出ないので、非常に取得が困難であって、偶々、運良く直前にキャンセルがあったので、取得できたのである。それと同じことは、アムステルダムのコンセルトヘボウでも感じて、これも幸運に取得できたので、ロンドンに移ってからも継続していた。
   勿論、定期公演以外にもコンサートがあったのでチケットは取得可能なのであろうが、定期公演には特別の配慮があるのであろう、非常に質の高い意欲的な公演が多いのだが、チケットが品薄で取得が非常に難しくなる。
   したがって、フィラデルフィア管やコンセルトヘボウ管などの素晴しいコンサートを聞き逃さないためには、定期会員権の取得維持が必須だったのである。

   これからは、行きたいコンサートを選んで、個々にチケットを取得することになるし、近くの鎌倉芸術館へ行くことになろう。
   しかし、膨大なレコードやCDやレーダーディスク、それに、DVDが残っていて、その上に、最近録り溜めたオペラやクラシック音楽が、2Tのパソコンや3Tの付属ディスクに残っており、これをどうするか。
   ただ、不思議なことに、ウィーン・フィルやベルリン・フィルやと言って目の色を変えて追っかけていた若かりし日の意欲は消えてしまって、クラシック音楽に淡泊になってしまっている。これも、歳の所為かも知れない。
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都響:第983回定期演奏会C

2023年10月14日 | クラシック音楽・オペラ
   今日の都響のコンサートは、
第983回定期演奏会Cシリーズ
日時:2023年10月14日(土) 14:00開演
場所:東京芸術劇場コンサートホール

【ジェイムズ・デプリースト没後10年記念】
出 演
   指揮/大野和士
   ヴァイオリン/イザベル・ファウスト
曲 目
   マグヌス・リンドベルイ:アブセンス-ベートーヴェン生誕250年記念作品-(2020)[日本初演]
   シューマン:ヴァイオリン協奏曲 ニ短調
      ソリスト・アンコール ヴァイオリン/イザベル・ファウスト
         ヴェストホフ:無伴奏ヴァイオリンのための組曲 イ長調より サラバンド
   ベートーヴェン:交響曲第7番 イ長調 op.92

   デブリーストがトップの時には、都響ではなく、小澤征爾を聴きたくて新日本フィルの定期会員であったので、全く聴いたことはない。
   今回のプログラムでは、リンドベルイのアブセンスは、初演なので勿論初めてで、作者が「極めて現代的な「不協和音」が雄弁に語り、起こるべくして音楽の対話が起こる」と語っているので、全く印象が違っていて身構えて聴いていた。
   昔、アムステルダムに居た時に、コンセルトヘボウの定期会員権を3つ持っていて、その一つが現代音楽で、途中でコンサートが苦痛になったことがあったのを思い出した。
   しかし、今回は、シェーンベルクを聴いたときのような拒絶反応を起さずにそれなりに楽しめたのは、年期の所為であろうか。
   ベートーヴェンのメロディが組み込まれていたようだが、気付かなかったし、何故、この曲が、ベートーヴェン生誕250年記念作品なのか分からない。

   シューマンのヴァイオリン協奏曲は、シューマン自身はこの曲を、「天使から教えてもらった曲だ」と語っていたと言う。美しい曲である。
   席が少し後方であった所為か、ヴァイオリンの音色が、オーケストラに同化しすぎた感じで、ピュアーで美しいサウンドが、時折印象的に奏でる。派手なカデンツァがあるわけでもなく、独奏ヴァイオリンのサウンドが傑出するような曲でもなさそうであったので、ムード音楽の雰囲気で聴いていた。
   イザベル・ファウストのヴァイオリンのサウンドを楽しませてくれたのは、アンコールの無伴奏ヴァイオリンのサラバンド、
   民族衣装の雰囲気であろうか、舞うように演奏する美しいファウスト、熱狂的な拍手。

   ベートーヴェンの第7番は、欧米でも頻繁に聴いてきたお馴染みの曲、
   解説では、ワーグナーが、この曲を「舞踏の聖化」だと言ったとかで、「輝かしさ」や「陽気さ」を象徴するイ長調が基本だという。
   指揮者は、第3楽章から、殆ど間髪を入れずに第4楽章へ、熱狂的なフィナーレ。凄い都響サウンドの咆哮、圧倒的な演奏。
   私は、演奏の感動を噛みしめるために、大野和士が、指揮台を下りて楽屋に消えると、すぐに、席を立って会場を出た。

   都響の2024年度楽期のプログラムが出て、会員継続申し込みが始まった。
   魅力的なプログラムだが、もう一年、鎌倉から池袋へ、杖をついて通えるかどうか、考えている。
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クラシックコンサートは楽しいのだが

2023年09月23日 | クラシック音楽・オペラ
   今日、都響の第982回定期演奏会Cシリーズを、東京芸術劇場コンサートホールに聴きに行った。
   プログラムは、           
   出 演
      指揮/ローレンス・レネス
     ヴィオラ/タベア・ツィンマーマン
   曲 目
     サリー・ビーミッシュ:ヴィオラ協奏曲第2番《船乗り》(2001)[日本初演]
     ラフマニノフ:交響曲第2番 ホ短調 op.27
       ヴィオラ/タベア・ツィンマーマンのアンコール曲は、
        1.ヴュータン:無伴奏ヴィオラのためのカプリッチョ op.55
        2.ヒンデミット :ヴィオラ・ソナタ op. 25 第1番より 第4楽章
 
   18日のサントリーホールでの都響公演と同じ出演者で、曲目が違う。
   しかし、曲が変ると印象が全く変ってくる。
   今回演奏された曲は、二曲ともコンサートでは初めて聞く曲であった。そんな時、私にとっては、何か特別な感興を覚えれば別だが、聴いたときに、何か違和感のようなものを感じて拒絶反応を起すか、すんなりと曲想に乗って楽しめるかと言うことであって、今日の二曲とも、極論すれば、ムード音楽を聴いている感じで楽しませて貰った。
   尤も、これも経験によって変ってきており、モーツアルトやベートヴェンばかり聴いていた初期には、リヒャルト・シュトラウスにさえ拒否反応を覚えていたのだが、もう、60年以上も聞き続けていると、不思議にも、最近では、どんな新しい曲を聴いても、それなりに楽しめるようになって来ている。

   ところで、私のクラシック音楽行脚だが、始めて本格的なコンサートを聴いたのは、もう60年ほども前のことで、ゲオルグ・ショルティ指揮ウィーン・フィル、京都会館であった。
   その後、カラヤン指揮ベルリン・フィル、バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィル、ハイティンク指揮コンセルトヘボウとどんどん広がっていって、欧米生活が長かったので、クラシックもオペラも、聴くべきものは殆ど聴いてきた。

   さて、そんなことは別にして、最近、歳の所為で、コンサート会場に出かけるのが、シンドイというか億劫になり始めてきたのである。
   ウィーン・フィルやベルリン・フィルやと言って浮き足立っていた昔と違って、今は、都響の定期に東京へ出かける程度なのだが、年間、お仕着せプログラムで、8回、
   14時開演の午後のコンサートで、それなりの意欲的なプログラムで楽しませて貰っているので、文句はないののだが、
   2時間のコンサートに、江ノ島にほど近い鎌倉の片田舎から、バス、JR、東横線、メトロを乗り継いで、往復5時間、
   杖をついているので、席を譲って貰えて助かっているのだが、しかし、青天の日ばかりではない。

   今期のC定期の公演は、まだ、5公演残っており、行けるかどうか、
   来期の定期継続をどうしようかと思っている。

   ここで、脳裏をかすめるのは、先日書いた「海外旅行は若くて元気な内にやるべき」と言うことと同じで、とっておきのクラシック・コンサートも、無理をしてでも若くて感受性の豊かな時にこそ聴いておくべきだと思っている。
   尤も、体力気力が伴う旅行と違って、ただ座っていて聴くだけのコンサートは、歳とは関係なさそうだが、それが、大いに違うのである。

   もう一つ、定期公演のシリーズ券を買うべきかどうかと言うことだが、普通2割くらい安いし、単発の公演が少なくて、その都度、チケットを手配しなければならないので、プログラムに五月蠅くなければ、取得するに超したことはない。
   私は、海外で、代々メンバーが孫子の代まで継承して市場に出ないので取得が難しいと言われていたフィラデルフィア管弦楽団やアムステルダムのコンセルトヘボウ、それに、ロンドン交響楽団のシーズンメンバー・チケットを取得していたので、大いに助かった。普通には取得困難なチケットが含まれていることが多くて、単独では、中々チケットが買えなくてミスることが多かった。

   今日は、何となく、こんなことを考えてしまった。
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都響:プロムナードコンサート9月

2023年09月18日 | クラシック音楽・オペラ
   久しぶりに、サントリーホールへ都響の演奏会に出かけた。
   私は、C定期の会員で、このプロムナードの演奏会は、振り替え公演である。
   概要は次の通り
   
都響:プロムナードコンサートNo.404
日時:2023年9月18日(月・祝) 14:00開演
場所:サントリーホール

出 演
指揮/ローレンス・レネス
ヴィオラ/タベア・ツィンマーマン

曲 目
モーツァルト:クラリネット協奏曲 イ長調 K.622(ヴィオラ版)
プロコフィエフ:バレエ《ロメオとジュリエット》より
  ~ローレンス・レネス・セレクション~
  :噴水の前のロメオ/情景/朝の踊り/少女ジュリエット/モンタギュー家とキャピュレット家/マスク/ロメオとジュリエット/僧ローレンス/タイボルトの死/別れの前のロメオとジュリエット/ジュリエットのベッドのそば~ジュリエットの葬式~ジュリエットの死

  今回、聞きたかったのは、モーツァルト:クラリネット協奏曲、
  この曲は、私がクラシック音楽を聴き始めて、一番最初に魅了されて好きになった音楽で、同じモーツアルトのクラリネット五重奏曲と共に、レコードを聴き込んで、クラリネットの音色が脳裏に染みこんでいる。
  演奏会で、コンセルトヘボウだったと思うが、ホールで一度だけ聴いたくらいで、その後、聴く機会がなかったので、若かりし頃から、殆ど半世紀を経ての出会いであるから、無性に懐かしい。

   殆どメロディは、覚えているのだが、やはり、私の記憶の世界は、クラリネットであるので、いくら素晴しい名手の演奏でも、ヴィオラのサウンドでは、どこか異質で、私の耳には違和感が邪魔して、スンナリとモーツアルトの世界に入り込めない。

   私は、モーツアルトのヴァイオリン協奏曲を聴くような気持ちで、モーツアルトのヴィオラ協奏曲を聴いているような錯覚に陥って、タベア・ツィンマーマンの演奏をじっと見ながら聴いていた。
   この日は、最前列の中央右寄りの席で、指揮者とダブって視界から消えることもあるが、直近であるから、最弱音のサウンドまで聴こえて、ボーイングの子細まで手に取るように分かって、興味深かった。
   聴き始めは、少し戸惑ったが、文句なしにモーツアルトの音楽であるから、ドップリと懐かしい青春時代のモーツアルトの世界に引き込まれて感動した。

タベア・ツィンマーマンのアンコール曲は、
クルターグ:イン・ノミネ

   ~ローレンス・レネス・セレクション~プロコフィエフ:バレエ《ロメオとジュリエット》は、1時間弱の素晴しいドラマチックな演奏で、実に楽しい。
   映画やテレビでお馴染みの劇的な悲劇の舞台音楽の連続であるから、曲想が舞台イメージを増幅して目まぐるしく展開する。
   私は、映画は、フランコ・ゼフィレッリが脚色・監督、レナード・ホワイティングとオリヴィア・ハッセー主演の作品しか見ていないが、この音楽の元のバレエは、ロンドンのロイヤル・バレエで観ているので、そっくり、作品のイメージが湧く。
   しかし、もっと、それより前のシェイクスピアの戯曲の世界を、RSCの舞台で、何度か観ている。そして、イタリアのベローナに何回か行って、ジュリエットの邸宅など実際の世界を訪れている。
   私の頭の中には、ロメオとジュリエットの世界が幾重にも重なって、走馬灯のように駆け巡っている。
   音楽の難しいことや、演奏の醍醐味や良さなど何も分からないが、こう言った中途半端な聴き方も、コンサート行脚の楽しみの一つではなかろうか。
  
   
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都響C定期「ブルックナー生誕200年に向けて」

2023年06月25日 | クラシック音楽・オペラ
出 演 指揮/マルク・ミンコフスキ
曲 目 ブルックナー:交響曲第5番 変ロ長調 WAB105(ノヴァーク版)

   今日のブルックナーは、第5番。
   重層的に構築された気宇壮大なスケールの中で、神と大自然を畏敬の心を持って照覧すると言った特色を持った交響曲だと解説されているが、理屈抜きで、地響きがする壮大なサウンドが肺腑を直撃する。
   休憩なしの70有余分の長大な大曲で、第4楽章の壮大なフィナーレは圧倒的で、感動した観客の拍手が鳴り止まない。
   演台から下りたミンコフスキは、譜面台の分厚い楽譜を取り上げて、閉じてから胸にいだいて、また、静かに元に戻す。
   
   ところで、今でこそ、ブルックナーの交響曲が大曲としてコンサートで良く演奏されるが、もう半世紀も前のことになるが、マーラーさえ稀で、プログラムにも載らなかった。72年から74年までフィラデルフィア管弦楽団のシーズンメンバーチケットを取得して通っていたが、ニューヨークでも、ブルックナーを聴いた記憶がなかった。
   気になって、このブログのレビューで2005年以降ブルックナーの演奏会の記録を探したら、
   エリアフ・インバル指揮都響、交響曲第2番
   小泉和裕指揮都響、交響曲第3番「ワーグナー」
   アラン・ギルバート指揮都響、交響曲第4番 「ロマンティック」
   リッカルド・ムーティ指揮ニューヨーク・フィル、交響曲第6番
   ヴォルフ=ディター・ハウシルト指揮新日本フィル、交響曲第7番、交響曲第8番
   ヨーロッパに居た頃には、ブルックナーのコンサートに接する機会が多くなって、1980年代から90年代にかけて、コンセルトヘボーやロンドン響などコンサートに通いつめていたので、おそらく、オイゲン・ヨッフムやザバリッシュなどでブルックナーの交響曲を聴いているはずで、全曲を聴いているであろうと思う。
   聴いたと言っても、その瞬間の経験だけで忘れてしまうので、何の記憶も残っていない。

   マルク・ミンコフスキは、都響の「作曲家の肖像」シリーズで、ビゼーの交響曲「ローマ」と「アルルの女組曲第1番&第2番」を聴いている。フランス人でありながら、バロック音楽を中心に、古典派やロマン派の音楽も積極的に取り組むなどレパートリーは広く、仏独両刀遣いであり、先日レビューしたベルリン国立歌劇場:歌劇「ポントの王ミトリダーテ」の指揮者でもある。
   フランス人指揮者のシャルル・ミュンシュやピエール・ブーレーズのドイツ音楽への凄い傾倒に鑑みれば、ミンコフスキのブルックナーの素晴らしさも分かるような気がする。

   アムステルダムにいた頃、夏の休暇でオーストリアに出かけたとき、ウィーンからドイツ国境を越えるのに、ドナウ川沿いにリンツに車で走った。
   ブルックナーの故郷を尋ねてみようと思ったのである。
   寅さん映画に出てきた教会を過ぎて鄙びた河畔を数時間走ると、リンツの郊外の片田舎に、セント・フロリアン大修道院がある。ここがブルックナーが生まれたアンスフェルゼンに近く、ブルックナーが、教会音楽を学びオルガニストとして成長した教会なのである。
   修道院や美術館などは見学出来たが、残念ながら教会は閉まっていて入れず、ブルックナーが演奏していたオルガンは、入口の鉄扉の隙間から薄暗がりを通して少し見える程度であった。

   ブルックナーの故郷への思い覚めやらず、ウィーン音楽院の教授まで勤めながら故郷に帰る事を望んだので、このオルガンの下に埋葬されていると言う。
   何の変哲もない静かな田舎で観光客なども全くいない。恐らくブルックナーが住んでいた一世紀半前と少しも変わっていないような気がした。
   リンツがどのような街であったかにもよるが、田園地帯の鄙びた田舎でのセント・フロリアン大修道院の存在は圧倒的で、ブルックナーの素朴で敬虔なカトリック信仰に基づく生来の村人気質の原点なのであろう。
   穏やかで平和な佇まいを心地よく味わいながら小休止して、田舎道を抜けてドイツとの国境を越えた。ベルリンの壁が崩壊してしばらく後の頃だが、今でもブルックナーを聴くと懐かしく思い出す。
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都響プロムナードコンサートNo.386

2023年06月17日 | クラシック音楽・オペラ
   2月のC定期に行けなかったので、振り替えのプロムナードコンサート、
   随分クラシックコンサートに通ってきたが、歳の所為で、この頃では、夜を避けて殆ど昼の公演に限っている。

   プログラムは次の通り、
   出演
指揮/小泉和裕
ヴァイオリン/クララ=ジュミ・カン
   曲目
ブルッフ:ヴァイオリン協奏曲第1番 ト短調 op.26
ベルリオーズ:幻想交響曲 op.14

   欧米を含めて、半世紀以上も、クラシックコンサートやオペラに通い続けてきたので、ブルッフもベルリオーズも何度も聴いているのだが、忘れてしまうので、その都度新しい感覚で、それぞれに感激して楽しんでいる。
   ブルッフのヴァイオリン協奏曲は、レコードもCDも持っていないにも拘らず、曲想を覚えているので、コンサートで何度か聴いているということであろう。韓国系だという綺麗でスマートなクララ=ジュミ・カンは、朱色の鮮やかな羽衣状のロングドレスを踊らせながら、幻想的で叙情的な美しいサウンドを奏でて、聴衆の感興を呼ぶ。
   小泉の指揮する幻想は、事前に曲のイメージを叩き込んで聴いたので、理屈抜きでドップリと演奏にのめり込んで、気づいたらフィナーレと言った感じで、珍しくサウンドに飲まれてしまっていた。
   指揮後の小泉の上気した感激極まった表情、そして、熱狂的な聴衆のカーテンコールが、その成功を物語っている。

   私が、記憶に残っている幻想交響曲の素晴しい演奏は、1970年、大阪万博で来日したニューヨーク・フィルのコンサートで、レナード・バーンスタイン指揮の「幻想交響曲」。
   第2楽章「舞踏会」の華やかな美しいワルツの演奏で、指揮台のバーンスタインは、男性ダンサーのスタイルで踊り出すような仕草で華麗な指揮をしたのを強烈に覚えている。
   バーンスタインがタクトを下ろすと熱狂的な万雷の拍手、突然、「ブラボー」と叫ぶ大声、
   振り向いて見ると、貴賓席あたりで起ち上がって熱狂しているのは青年のような若かりし頃の小澤征爾、
   小澤征爾が我を忘れるほど、称讃したのだからバーンスタイン会心の演奏であったことは間違いなかろう。
   最晩年、自作の「キャンディード」をロンドン交響楽団で振った時には、痛々しかったが、あの当時のバーンスタインは、カラヤンにも負けないほどスマートな美男子で、指揮界きってのインテリであった。
   ニューヨークなどでニューヨーク・フィルを聴く機会があったが、忘れられないのは、コンセルトヘボーで聴いたシューベルトの「未完成」、
   最高級のビロードのような滑らかさ、最高級の赤ワインの芳醇さ、言葉では表現できないが聴いたことのないような美しい天国からのサウンドであった。
   名指揮者や巨匠を殆ど聴いてきたが、バーンスタインは忘れられない。
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METライブビューイング・・・「ばらの騎士」

2023年05月28日 | クラシック音楽・オペラ
   リヒャルト・シュトラウスの作曲したオペラ「ばらの騎士」 Der Rosenkavali  18世紀ハプスブルグ王朝ウィーンの貴族の館を舞台にした華麗な作品である。

今回の舞台のキャストは、次の通り、

指揮:シモーネ・ヤング
演出:ロバート・カーセン
出演:
元帥夫人(マルシャリン)陸軍元帥ヴェルデンベルク公爵夫人 ソプラノ:リーゼ・ダーヴィドセン、
オクタヴィアン ロフラーノ伯爵・元帥夫人の愛人 メゾソプラノ:サマンサ・ハンキー、
オックス男爵 貴族・元帥夫人のいとこ バリトン:ギュンター・グロイスベック、
ゾフィー ファーニナルの娘 ソプラノ:エリン・モーリー、
ファーニナル 金持ちの新興貴族 バリトン:ブライアン・マリガン

   さて、この「ばらの騎士」の同じカーセンの演出の舞台が、17年のMLで放映されていて、オクタビアンはガランチャ、マルシャリンはフレミングだが、オックス男爵とゾフィーは代わっておらず、何となく雰囲気が殆ど同じ感じがして、楽しませてくれた。私は、録画で観ているのだが、勿論、主役が頂点を極めた二人の最後の舞台だと冒頭でゲルプが紹介していたので謂わばこれが決定版だとすれば、今回の舞台は満を持しての公演なのであろう。
   脂の載りきったグロイスベックとモーリーの老練な味のある演技に加えて、匂うように美しい元帥夫人のダーヴィドセンと初々しくてパンチの利いたオクタヴィアンのハンキーの魅力満開の舞台で素晴しい。ダーヴィドセンは、このMLの19年の「ナクソス島のアリアドネ」のアリアドネの美しい舞台が印象に焼き付いている。
   ハンキーは、松竹のHPをそのまま引用すると、
   マサチューセッツ州出身。豊潤な歌声、独創的でドラマティックなパフォーマンス、舞台映えする容姿で注目株の若手メゾ。2017年METナショナル・カウンシル・オーディションに優勝し、翌年《メフィストーフェレ》のパンタリス役でMETデビュー。欧米の主要な歌劇場や音楽祭で次々とデビューを果たし、オクタヴィアン役は昨年バイエルン国立歌劇場でも歌い好評を博した。
   17年デビューと言うから、非常に若くて、アメリカのメゾでありながら、バルセロナやグラインドボーンやバイエルンなどヨーロッパでも活躍し、 not only the handsomeness of hankey's rich mezzo, but also its power,で尊敬されていると言う。ガランチャのように年の功は出せないが、若々しくて一途に入れ込んだパワーの効いた演技が感動的で、タイトルロール演じきった。
   グロイスベックとモーリーの好演は言うまでもなく、ホーフマンスタールと同郷のウィーンの諧謔笑いを共有したオックス男爵のろくでなし貴族、
   モーリーの美しくて響き渡るソプラノの美しさ、
   指揮は、オーストラリアの女性指揮者シモーネ・ヤング、30年以上も振っていると言うから超ベテランの冴え。

   歌劇場で観たのは、入場に遅れてイタリア人歌手のパバロッティを見損なった苦い記憶があるので、METでの1回は覚えている。
   このブログでも書いたが、第1幕は客席に着けず、暗い地下の小部屋の貧しい白黒ディプレイで観た。
   METのデータベースで調べると、その時のキャストは、
   DER ROSENKAVALIER October 2, 1982
Octavian.....................Tatiana Troyanos
Princess von Werdenberg......Kiri Te Kanawa
Baron Ochs...................Kurt Moll
Sophie.......................Judith Blegen
Faninal......................Derek Hammond-Stroud
Italian Singer...............Luciano Pavarotti
   凄い歌手陣である。余談ながら舞台で一番多く観て聴いたソプラノは、キリ・テ・カナワであることを思いだした。
   アンネ・リーゼ・フォン・オッターのオクタビアンが記憶に残っているので、ロイヤル・オペラのデータベースにはないので、どこかの劇場で観たのであろう。
   リヒャルト・シュトラウスのオペラは、「サロメ」「エレクトラ」「ナクソス島のアリアドネ」「アラベラ」「影のない女」「イドメネオ」などを歌劇場で観ているが、やはり、この「ばらの騎士」が一番興味深くて、ウィンナワルツの軽快なサウンドにのった美しい音楽が流れていて楽しい。
   このオペラは、若くて溌剌としたオクタヴィアンの恋の成長物語だが、マルシャリンの徐々に忍び寄る老いを感じながらの恋との決別という陰影のある心理描写も秀逸で、主役の二人が実に上手い。その集大成の終幕真際の三重唱が素晴しい。

   ところで、この演出は、18世紀のウィーンを第一次世界大戦前に移した現代劇だと言うので、オックス男爵が軍人として描かれていて、軍服姿で押し通しており、今までの品の悪い俗人丸出しの年配の貴族姿と全く雰囲気が違うので、印象がそっくり変る。
   しかし、華麗な古いウィーンの雰囲気を彷彿とさせる舞台設定で、セットや衣装など細かいところにも色々工夫が熟されていて非常に美しい。
   興味深いのは、第3幕の「ウィーンの居酒屋の部屋」が、娼館にアレンジされていて、一気に卑猥な雰囲気となり、オクタビアンも娼婦姿でオックスに対応する砕けたいたぶりが面白い。ところで、騒ぎを聞いて警官が駆け込んできた時のシーンでの次の注意書きが意味深、
   Content Advisory: This production contains scenes that include nudity.
   ヌードと言うよりも、舞台の後方で、何組もの男女が乱交パーティ紛いで組んず解れつ、
   その方が気になって、真面目腐って取り調べに右往左往する当事者たちの演技が、まさに、カリカチュア、喜劇である。

   松竹のHPから写真を借用すると、
   
   
   
   
   
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NHK BS4K ベルリン国立歌劇場:歌劇「ポントの王ミトリダーテ」

2023年05月15日 | クラシック音楽・オペラ
   NHK BS4Kのプレミアム・シアターの ベルリン国立歌劇場:モーツアルトの歌劇「ポントの王ミトリダーテ」を観た。
   深夜の放映なので、録画映像であるが、画像も鮮明でハイレゾなのでサウンドも良い。

   このオペラは、モーツァルトが14歳の時に作曲した作品で、紀元前1世紀、小アジアの国ポントの王ミトリダーテをとりまく戦争と愛憎渦巻く人間模様が描かれた、繰り返される戦争と復讐の連鎖の物語。
   今回の特色は、SPAC芸術総監督で演出家の宮城聰が、このオペラを演出することで、ベルリン国立歌劇場が日本人演出家を招くのは同歌劇場278年の歴史上初めてだと言う。宮城は、この物語に、第二次世界大戦末期の日本を重ねた。殺伐とした復讐の連続を、「死者たちの鎮魂の儀式」としてこの作品を描くことによって、希望というあらたな光が見えてくる。というのである。

   指揮:マルク・ミンコフスキ
   演出:宮城 聰
   出演:
   ミトリダーテ:ペネ・パティ
   アスパージア:アナ・マリア・ラービン
   シーファレ:アンジェラ・ブラウアー
   ファルナーチェ:ポール・アントワーヌ・ベノ・ジャン
   イスメーネ:サラ・アリスティドウ 
   管弦楽:レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴル

   ポントの王ミトリダーテは、ローマとの戦争に、婚約者アスパージアを、2人の息子シーファレと兄ファルナーチェに託して出陣する。しかし、二人とも、アスパージアに思いを寄せていて、ことにファルナーチェが積極的でアタックするが、アスパージアはシーファレと相思相愛である。ミトリダーテは、ファルナーチェの花嫁としてイズメーネを連れて帰ってきたが馴染まない。王は、自分を裏切った2人の息子:ローマと通じたファルナーチェと許嫁と相愛のシーファレを殺す決心をするが、イズメーネが諭す。ローマ軍が上陸したので、応戦にでたミトリダーテが瀕死の状態で運ばれて来る。ミトリダーテは、改心して協力した二人の息子を許し、薬をあおいで逝く。
   ローマとの戦争と、息子たちの自分の許嫁への恋情に、ミトリダーテが激情して嫉妬し復讐する連鎖が主テーマだが、暗い雰囲気ながら、美しいモーツアルト節が延々と続くので、陰鬱さは全くない。
   

   モーツアルトの得意とするジングシュピールではなく、アリアというのか歌唱の連続で、各歌手とも大変だと思えるほどの長台詞で聞かせてくれる。
   各歌手とも相当な実力者で、堪能させてくれたが、詳細なデータが探せないので、感想は控えたいと思う。
   このオペラの特色は、テノールのミトリダーテ以外の主要人物は、すべて女声で、シーファレはソプラノ、兄のファルナーチェはアルト、今回はカウンター・テナー、ニンフェアの領主アルバーテはソプラノ、
   最初は一寸戸惑ったが、能舞台のことを考えれば不思議でも何でもないので、気にならなくなって、シーファレのアンジェラ・ブラウアーの美声に聞き惚れていた。
   
   さて、宮城 聰の演出だが、蜷川幸雄のシェイクスピアの舞台を結構観ているので、それを思い出しながら観ていたのだが、舞台設定や衣装などは、歌舞伎の影響など日本の美意識が随所に見られたが、オペラとしては、最近の奇を衒ったモダンなデカダン的な印象は全くなく、シックリト馴染んだ、美しい素晴しい舞台であった。
   セットは、極めてシンプルで、正面舞台からややセットバックして、左右に階段をセットした長方形の4階建て舞台で、バルコニーは廊下舞台、
   各階、6つのコンパートメントに仕切られていて、それぞれ回転ドアーで出入り口となり、裏表の転換で二面のバック・スクリーンが表われる、
   3幕全舞台とも、このセットで通して、舞台は4面のバックスクリーンの転換とコンパートメントのバックの舞台利用などで演出し、
   小道具は、幡や布、ダンサーたちの移動や演技で代用して、無駄は一切ないのが凄い。
   
   

   ビックリしているのは、この2時間半に及ぶ複雑な人間模様をオペラにしたのが、14歳のモーツアルトだと言うこと、
   小澤征爾さんが語っていたが、神がモーツアルトの手を取って作曲させたとしか思えない。
   ベルリン国立歌劇場は、東ベルリンにあって、ベルリンの壁崩壊の少し前に、警戒の厳しい国境を鉄道で越えて出かけて、オペラ「ホフマン物語」を観たことがある。入場券は、西ドイツマルクで支払った。
   壁崩壊直後に、ベルリン・コーミッシェ・オーパーで、軍国ムード演出の「魔弾の射手」を観たが、下りたとは言え鉄のカーテン越えのオペラ鑑賞なので、心穏やかではなかった。懐かしい。
   
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