熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

晩秋のロシア紀行(16)ロシア旅を振り返って

2014年12月24日 | 晩秋のロシア紀行
   7日のロシア旅であったが、機内泊や移動があったので、実質的なロシアでの観光時間は、正味4日と言うことで、サンクトペテルブルグとモスクワの2都市を、正に、駆け足で回り、あっという間に終わった。
   しかし、15人の小人数の団体旅行で、JALパックのベテラン・ツアーコンダクターが全行程同行し、有能なロシア人ガイドが、アテンドすると言った体制であったので、かなり、効率的で充実した旅が出来て、期待以上の勉強が出来たので、喜んでいる。

   まず、一番心配をしたのが、-4°C~-9°Cと言う厳寒の気候であった。
   オランダでは、かなり、寒い冬を過ごしており、-21°Cとなって、凍って開かない車のドアーのカギ穴に熱湯をかけたら瞬時に凍りついた経験もしているのだが、毎日、日本では経験のないような氷点下の寒さを、どう乗り切れるのかであった。

   結論から言うと、ロングのダウン・コートを買って持って行き、帽子を被れば、戸外はこれで十分であり、むしろ、美術館やレストランや劇場など室内では、日本での生活と殆ど変らないので、逆に、ヒートテックの下着が災いして、暑くて困るほどであった。
   全日、晴天に恵まれた所為もあるのだが、持って行った沢山のホカロンは、一度も使うことはなかった。
   ロシア人たちも、日本の東京で歩いているような普通の防寒具で街を歩いていて、-20°や-30°くらいになって、初めて、映画に出て来るような毛皮の防寒具になるようで、氷点下程度では寒い部類に入らず、今は、まだ、秋だと言っていた。

   もう一つは、治安の問題だったが、ツアーを離れて、自由行動を取ったのは、サンクトペテルブルグのマリインスキー劇場とモスクワのボリショイ劇場でのバレイやコンサート鑑賞に出かけたその前後だけだったので、何とも言えないが、長年の海外生活から得た感じでは、それ程、心配はいらないように思った。
   もっと危険だった頃のアメリカでも生活していたので、本人の注意次第だと思うのだが、とにかく、晩秋であり緯度が日本より北故に、朝夕長い間、外が暗いので、その間、自由がきかないと言う所にも問題があった。
   それに、英語が殆ど通じず、ロシア語が分からないので、いざと言う時には、対応が難しいので、短期間の旅では、注意が肝要かも知れない。
   また、現在なら、大変な経済危機で、物価の異常上昇や品不足などで国民生活にもかなり逼迫感や不安が広がっているようで、大変であろうと思う。

   さて、食事だが、朝は米系ホテルのバイキングで、世界共通であり、ロシア料理を食べたのは、団体行動をした昼と夜で、ボルシチやピロシキ、キエフ風カツレツ、シチーと言った典型的だと言うロシア料理を頂いたが、パックツアーの限界でもあり、ツーリスト・メニューとは言わないまでも、それ程、高級なレストランでの食事ではないので、何とも言えない。
   私は、これまで、ヨーロッパ各地を歩き回っていた時には、ミシュランの星付きのレストランを意識して廻っていたのだが、やはり、それなりの店で、それなりの地元料理を頂かないことには、その国の料理やエスニック料理については、大きなことは言えないと思っている。
   その典型は、イギリス料理で、不味いと誰もが云うのだが、まともなレストランに行って食べると、びっくりするほど美味しいことに気付く筈である。

     
   土産物だが、ルーブルが、年初から比べてかなり割安だったので、買い物にはよかったのかも知れないが、特に欲しいものもなく、孫に、ロシアの陶器製のチェスと、ムーミンのマトリョーシカなどを買ったくらいである。
   ロシア陶器も、ロマノフ王朝窯だと言うのだが、これまで買ってきたマイセンやヘレンド、アウガルテンなどから比べれば、それ程でもないので止めた。

   今度、もう一度、ロシアに行く機会があれば、やはり、マリインスキー劇場やボリショイ劇場で、じっくりとオペラを観、モスクワ芸術座などで、プーシキンやチェーホフなどのロシア演劇などを鑑賞したいと思っている。

   今度の最大の収穫は、ロシアを実際に訪れたことによって、ロシアへの関心なり考え方なりが少し変わって来たと言うことであろうか。
   ただ、大きな国であり人口が多いと言うだけで、BRIC'sをコインしたジム・オニールにのせられて、ブラジル、ロシア、インド、中国にアプローチしてきたが、突っ込めば突っ込むほど、その違いが見えてくる。
   夫々、奥が深いので、おいそれと理解など無理な話だが、日本人の常として、アメリカ経由でものを見ているので、ロシアに対する見方が、一番、スキューしているように感じている。

   何もロシアに限る話ではないが、ウクライナ問題。
   例えば、日本と国境を接している某国に、日本人が住民の半数以上を占めている自治区があって、その某国が、住民の意向とは違った政策を推進しようとしていて、それに承服できない日系住民が某国を離れて日本に帰属したいと願って行動を起こしているとした場合には、日本、そして、我々日本人は、どう対応するのか。
   ウクライナの場合には、ロシアには、政治的戦略的かつ意図的な思惑もあるであろうし、ソ連崩壊時に政策的に線引きされた国境なので、もっと、現実としては、熾烈な軋轢の渦巻きなどホットだとは思うが、そう言った視点も、時には、必要なのかも知れない。

   ロシアへの経済制裁だが、利害関係の少ないアメリカは、自国の国益を優先してイデオロギー主体で押し通せるが、ヨーロッパ諸国は苦慮しており、これを見れば分かるが、日本としても、独自のロシアへの対応があるのではないかと思っている。
   (完)

(追記)本ブログの左の欄のカテゴリーの中の「晩秋のロシア紀行」をクリックして頂くと、全16稿が、降順ですが、一覧表示されます。
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晩秋のロシア紀行(15)モスクワの街歩き

2014年12月23日 | 晩秋のロシア紀行
   モスクワでには、19日昼にサンクトペテルブルグから飛行機で入って、21日の午後に、空港から日本に発ったので、丸2日の滞在で、その内、半日は、郊外の黄金の環に出て行ったので、殆ど、観光する時間は、なかったと言えよう。
   19日、モスクワに着いた午後、モスクワ大学などをバス観光して、その後、地下鉄駅を、見学方々乗りついて、赤の広場へ出て時間を過ごして、近くのレストランで夕食を取った。
   翌20日は、朝、郊外の黄金の環の古都セルギエフ・パッサートに行き大聖堂などの観光と、マトリョーシカの工場で絵付け体験、
   その後、モスクワに取って返して、中心街に出てアルバート通りなどでショッピング。
   私は、ボリショイ劇場のガラ・コンサート鑑賞があったので、グループから離れて、単独行動であった。
   21日は、午前中は、クレムリンで過ごして、昼食を取ってから、空港へ向かった。

   ミシュランの緑本(英語版)の最新版が出ていないので、日本のガイド・ブックを使ったが、地球の歩き方とか、るるぶの「ロシア」程度しかないので、極めて情報は貧弱であった。
   しかし、赤の広場やクレムリン、それに、博物館や劇場などの情報くらいで、他に、モスクワ大学のある雀が岡や文学散歩程度で、後は、教会などの説明くらいなので、それ程、観光スポットとして魅力のある古都ではなさそうであり、JALパックのスケジュールで良かったのであろう。

   モスクワ大学は、あの巨大な逆三角形様の建物を遠望しただけだが、町中にある同じような形をした巨大なアパートが、スターリン時代の典型的な建物として残っている。
   良くも悪くも、戦中戦後を統べたスターリンは、今では、歴史から消え去ってしまっているのだが、ロシアは、上下、大ブレに揺れる運命を背負っているのであろうか。
   途中で、ノヴォテヴィッチ修道院を遠望した時に、公園を散策したのだが、冬季が長くて公園に彩りがないので、花壇の表面にペンキが塗ってあり、遠くからは花が咲いているように見えた。
   モスクワ市内の道路の路肩の斜面ににも、芝生様の装飾が施してあって、面白いと思った。
   
   
   
   
   

   ところで、マトリョーシカ工場だが、郊外の鄙びた寂しい集落が、工業団地のようになっているので、普通の田舎であり、それとは分からない。
   殆ど廃業したと思えるような工場に入って、職人の作業を見たり、白木のマトリョーシカの彩色を試みたが、子供の頃のように上手く筆が進まない。
   日本のこけしや入れ子細工から想を得たようだが、ぴったりと嵌め込む職人の技術に感心して見ていた。
   ところで、モスクワやサンクトペテルブルグの土産店に行けば、素晴らしくディスプレイされた沢山のマトリョーシカのオンパレードなのだが、実際の制作の現場は、貧しい(?)中小企業のようである。
   高級なマトリョーシカよりも、もっともっと美しく細密で繊細に絵が描かれたシュカトゥールカと言う小箱は、謂わば、高度な民芸芸術品で、高いものは、何十万円もするが素晴らしい。
   
   
   
   
   
   
   
   

   口絵写真は、クレムリンのすぐ傍で、モスクワ河畔に建つ白亜の教会・救世主キリスト大聖堂である。
   周りを散策しただけだが、紆余曲折があって、1990年代、ソ連崩壊後に、細部まで忠実な形で19世紀の大聖堂が再建されたのだと言う。
   流石に、宗教をアヘンだとして弾圧し続けたスターリンで、1931年に、ソヴィエト宮殿を建設するために爆破したのだが、跡地から地下水が噴出したので、ソ連時代には、巨大な温水プールであったと言う。
   再建されたのが、せめてもの幸運かも知れないが、元は1883年の完成と言うから、神田のニコライ堂と同じような歴史なので、随分、新しいのである。
   高台から見るモスクワ河畔の夜景は、旅情を誘う。
   
   
   
   
   
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晩秋のロシア紀行(14)モスクワ・シティ・プロジェクト

2014年12月21日 | 晩秋のロシア紀行
   モスクワの街を、観光バスで走っていると、丁度新宿のような、一群の近代的な高層ビル群が、時々、車窓から見え隠れする。
   実際には、この場所には行ってはいないが、ロシア経済なり、ロシアの今後について、大変重要な示唆を与えているように思えるので、後追いの情報知識を含めて考えてみたいと思う。
   この高層ビル群は、「モスクワ・シティ」と称されるモスクワ最大の近代的都市開発プロジェクトである。
   インターネットで得た現状の写真なり完成図は、次のとおりである。
   
   
   

   この開発プロジェクトは、クレムリンの西方の旧工業地帯であったモスクワ川北岸に計画されて実施され、進行中ながら現在中断されているのだが、サンクトペテルブルグでもモスクワでも、私が旅行中にバス等で走って見た限りでは、近代的な建物群が存在するのは、これ以外にはなかった。
   単発のかなり大規模の中高層のアパート建設は散見されたが、BRIC'sと騒がれ急成長を遂げていた筈のロシアの二大都市で、不思議にも、現在進行中、ないし、最近開発済みの近代的な建物群は殆ど見当たらないと言うことは、ロシアの近代化が、どこかで止まっているのではないかと言うことであろうか。

   取りあえず、ウイキペディアを引用すると、
   ”モスクワ・シティは、ロシア及び東欧において最初の大規模商業・業務・住宅・娯楽コンプレックスの建設が目標である。いわば「都市の中に都市を作る」ともいうべきこの計画は、1992年モスクワ市政府によって企画・立案された。
   開発地区の総面積は約1平方キロメートルで、計画から15年経った現在でも多くの工場やコンビナートが立ち並んでいるものの、ゆっくりとではあるが、多くの高層建築の林立する新市街へと変貌を遂げようとしている。”と言うことである。
   しかし、ロシアNOWによると、
   ”2008年の経済危機により、シティ建設に携わっていた建設会社は資金繰りが苦しくなり、建物が一時作業中断を余儀なくされたり、膨大な建設資金が行方不明になったりするケースも出てきた。
   118階建てで高さ612mの超高層ビルであり、完成すればヨーロッパでは最高、世界でもドバイのブルジュ・ドバイに次ぎ2番目に高いビルとなると鳴り物いりで喧伝されて着工された「ロシア・タワー」建設は、とりあえず2016年まで凍結されている。”のである。

   「モスクワを世界の金融センターの一つにする」ことを目指して計画されたモスクワ国際ビジネスセンターの象徴であった超高層ビル「ロシア・タワー」が頓挫し、これに次ぐ高さの「フェデレーション・タワー」を建設中の会社も怪しくなったと伝えられており、象徴を欠いた形のこのモスクワ・シティ開発プロジェクトが、どのように進行するのか、予断を許さない状態になっている。

   計画では、全体の完成は2020年を予定していると言うことだが、ロシア経済は金融危機と原油価格の急落で失速し、不動産バブルの崩壊に伴いオフィス需要が減少、投資先に資金の拠出を拒否されるなどして、資金繰りに行き詰まり、 建設工事を続行できなくなっている現状に加えて、
   今回、更に、石油価格の大幅下落と欧米のウクライナ制裁によってルーブルの大暴落によって、ロシア経済が最大の危機に突入してしまった以上、お先真っ暗と言う以外に言いようがなくなってしまった。
   プーチン大統領でさえ、今回の経済危機からの回復には2年はかかると国民に耐乏生活を乞わざるを得なかったと言う状態である。

   モスクワNOWは、「大株主はエリツィン・ファミリー」として、
   ”モスクワ市政府も参加する資産運用公開株式会社「シティ」が創設され、インフラの保障、「セントラル・コア」の建造、摩天楼の建設用地の販売を手掛けてきた。同社の株は、元大統領府長官ワレンチン・ユマシェフ氏が 49 ・ 58 %、その娘婿である「ロシア・アルミニウム(ルサル)」社社長オレグ・デリパスカ氏が 34 ・ 34 %保有している。”と述べている。
   前述の建設会社の経営悪化とどう言う関係にあるのかは不明だし、この「シティ」と言う組織が、どのような権能なり役割を持っているのかも分からないので、何とも言えないが、この中核となる会社が、政府主導ならともかく、民間組織(?)が、株の圧倒的部分を保有しているとすると、恐らく、資金繰り等財政面で、暗礁に乗り上げるのではないかと思う。
   政権上層部や利害関係者等の利権が絡んで、先のオリンピックの総コストが何倍にも膨れ上がったと言うお国柄であるから、先行きは不透明と言うべきであろうか。

   私が、疑問に思ったのは、このプロジェクトの推移と言うよりも、ロシアの国家としての発展なり近代化、経済成長が、疎かにされて来たのではないかと言うことである。
   前述したように、サンクトペテルブルグもモスクワも、あの近代的な高層ビルが林立して活況を呈している中国や東南アジア諸国の大都市と比べて、殆ど変らず、正に、世界遺産の様相を呈していると言う不思議である。

   急カーブで高騰する石油と天然ガスによって稼ぎ出した膨大な外貨を、無尽蔵だと思われるほど大盤振る舞いをしてバブル成長を謳歌し、また、BRIC'sと騒がれて世界の注目を集めて、一等国に上り詰めたと思った瞬間の世界的金融危機で急転直下。
   1998年のロシア危機では、殆ど国家経済崩壊の危機に直面しながらも、2005年にロンドンに行った時には、街に、ロシア人が溢れて、高級不動産が飛ぶように売れ、毎夜の如く超高級ホテルでは、ロシア関係の大宴会が催されていると言った状態で、飛ぶ鳥落とす勢いであったが、これもあれも、総て、石油と天然ガスのお蔭。

   イソップのアリとキリギリスの話や、仏教説話の「雪山の寒苦鳥」を思い出した。
   潤沢な天然資源の輸出によって国家が繁栄して製造業が成長発展せずに衰退して行くと言う「オランダ病」と言うべきか。
   いまだに、世界に冠たる先進的な工業力の萌芽さえ見えず、近代的な都市開発さえ殆ど行われおらず(?)、その虎の子の「モスクワ・シティ」さえ、財政危機で暗礁に乗り上げていると言う現状をどう見るのか。
   BRIC'sとは、一体何だったのか。
   これまでに、ロシア経済について、このブログで何度か触れたが、今現在、現実のロシア経済をよく理解しないままに、この文章を書いているので、少し、真剣に、ロシアの政治経済社会などを勉強しなければならないと思っている。

   (追記)この写真は、モスクワ大学のある丘から、プロジェクトを遠望したものだが、右方の赤っぽいロシア・タワーが、工事途中であることが分かる。
   
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晩秋のロシア紀行(13)クレムリン

2014年12月17日 | 晩秋のロシア紀行
   クレムリンと言うと、何となく、強大な権力の象徴のような印象が強いが、プーチン大統領の公邸や大統領府などが存在するにも拘らず、一般に公開されていて、観光客の人気スポットの一つになっている。
   まず、クレムリンは、12世紀に基礎が築かれたほぼ三角形の堅固な赤茶色の2.2㎞の城壁に囲まれた区域で、赤の広場に隣接している。
   グーグル・アースとウィキペディアの写真を借用すると、次の通りの眺望である。
   
   

   高い城壁に囲まれているので、外周からは良く分からないのだが、赤の広場からやバスの車窓から垣間見た情景は、
   
   
   
   
   
   
   
   

   鳥瞰図の中央右側上方の三角形の建物(壁を隔ててレーニン廟に隣接)が、元元老院の建物でプーチン大統領の公邸、その右下の方形の建物が、大統領府である。
   大統領がいる時には旗が立っていると言う。
   左側中央の長方形の建物は、クレムリン大会宮殿で、共産党時代に建てられた党大会や国際会議が開かれた所だが、モダニズムの建物であるため、ここだけ世界遺産から外されている。
   あっちこっちに骨董の大砲がディスプレィされているのが興味深い。
   
   
   
   
   

   鳥瞰図底辺中央のオープンスペース聖堂広場に、教会群の建物が残っている。
   時々、セレモニーが行われるようだが、今は、博物館のようである。
   共産党政府にとっては、王制や教会などは、革命の敵であり、否定の標的であった筈なのに、そして、権力組織の心臓部に存在しながら、何故、これ程までも完璧に保存されて来たのか、散策しながら驚異に感じていた。
   
   
   
   

   時間の関係で、我々が入場したのは、ウスペンスキー大聖堂だけ。
   1479年の再建建物のようで、かってはロシア帝国の国教大聖堂で、ロシア皇帝の戴冠式やモスクワ総主教の葬儀が催されてきたと言う。
   イコンとフレスコ画で飾られた典型的なロシアの教会の雰囲気で、ロシア人は、これ程美しい世界はないと言うのだが、実際のミサなどが行われれば、そう見えるのであろうか。
   出入り口横から見える宮殿の建物の屋根から飛び出たネギ帽子が面白かった。
   
   
   
   

   鳥瞰図三角形の左下頂点の位置に、武器庫と称した博物館がある。
   こので小1時間ほど鑑賞に時間を費やしたのだが、写真撮影が許されなかったので記録はない。
   ロマノフ王朝の遺産と言うか宝物殿と言った位置づけの博物館で、13世紀から18世紀の武具・武器、14世紀から19世紀の王冠、宮廷衣装や宝飾品、ロマノフ家の馬車などが展示されているのだが、ガイドの説明では、ロマノフ王家が、外国から贈られた献上品やプレゼントや外国への発注品が大半のようで、MADE IN RUSSIAは少ない。
   やはり、相当遅くまで、先進ヨーロッパ諸国やトルコから後れを取っていたのである。
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晩秋のロシア紀行(12)黄金の環・セルギエフ・ポサード

2014年12月16日 | 晩秋のロシア紀行
   モスクワの北東に環状に連なる古都群があって、モスクワから70キロと最も近くて素晴らしい宗教都市が、セルギエフ・ポサードである。
   近づくと、16世紀に構築された城壁の向こうに、教会の丸屋根などが見えてくる。
   壁画の古風なゲートをくぐると、教会の建物が目に飛び込んで来る。
   
   
   

   街の中心にあるのは、トロイツェ・セルギエフ大修道院で、聖セルギエフが、1345年に修道院となる僧院を建てたのが始まりで、15~18世紀に建てられたと言う。
   メインは、1585年に建てられた4つの青いドームの中央に金色のネギ帽子の屋根を頂いたウスペンスキー大聖堂で、真っ白な壁面が光り輝いていて美しい。
   鐘楼や小さな教会堂が周りを取り囲んでいて、絵になっている。
   時々、300人いると言う聖職者が、そばを横切る。
   
   
   
   
   
   

   目を見晴らされるのは、ウスペンスキー大聖堂に入ってからで、堂内の装飾は、正に、豪華絢爛と言うか、17世紀の壁画で鏤められた堂内の雰囲気は他のロシアの教会と同じだが、ヨーロッパに良くある教会堂を、巨大な金色のイコノスタなど、もっともっと緻密に精巧に彫刻を施して金色に装飾して、天井壁画を豪華に描いた感じの、正に、煌びやかな宮殿のような教会堂である。
   モスクワのクレムリンの中にあるウスペンスキー大聖堂を模したと言うのだが、けばけばしい壁画で装飾されたそれよりも、遥かに豪華で素晴らしいと思った。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   この教会堂は、博物館のようだが、トロイツキ―聖堂は現役の教会のようで、祝福を受けている信者や熱心に祈っている人々もいて、宗教はアヘンだとして弾圧していた共産党時代には、どのようにして信仰を保ってきたのか、考えさせられた。
   かっての日本のように廃仏毀釈や戦後の混乱期を潜り抜けて来て、寺院や文化財が、破壊されながらも、どうにかそれなりに維持されてきたが、ロシアでも激しい教会破壊があったようだが、タリバン同様、過激な宗教弾圧思想が、人類の偉大な文化遺産を破壊し続けてきた。
   
   
   

   面白かったのは、堂内の大広間の祭壇で、修復作業している人々の様子を見たことである。
   時間がなかったので、暫く見ていただけだが、絵画を外したり、装飾柱を削ったり、5~6人の男女が根気よく仕事をしていた。
   昔、バチカンのシステナ礼拝堂のミケランジェロの壁画や、ミラノのダ・ヴィンチの最後の晩餐の壁画の修復を、修復前と途中と完成後を見ていて、その素晴らしい仕事の重要さを実感しているので、非常に、興味深いひと時であった。
   
   
   
      

(追記)石油価格の大幅な下落で、ロシア ルーブルが、急激に下落している。
交換レートで行くと、最高時には、1ルーブル3.2円くらいだったが、今や、1.8円、ほぼ、半分の値打ちである。
私が旅した先月は、両替所で、1ルーブル3円くらいであったのが、今では、2円、正にバーゲン価格だが、果たして、ロシア経済はどう動くのであろうか。
   
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晩秋のロシア紀行(11)S・P、モスクワの交通事情

2014年12月14日 | 晩秋のロシア紀行
   サンクトペテルブルクやモスクワの公共の都市交通は、何本かのメトロと、路面電車、トロリーバス、バスで、他の地方とは飛行機と鉄道で繋がれている。
   やはり、人口が1000万人や500万人と言った大都市にしては、インフラが貧弱で、昼夜の交通渋滞は、甚だしく、市内の移動もままならず、我々の観光バスの運転手にとっては、「目的地に何時着くのかとと問われるのが一番嫌だ」と言うことである。

   我々の泊まっていたモスクワのホテルは、少し、都心から離れていて、メトロの駅があって、路面電車もトロリーバスもバスも駅があるので、比較的便利なのだが、メイン道路が走っているので、朝晩のラッシュ時には、郊外からの通勤用の自動車の波に巻き込まれて、大変な渋滞になる。
   一枚目の写真の左側中央の黄色い箱型の建物がメトロ駅で、バスなどの停留所は、交差点左右にある。
   
   
   

   この写真は、SPのホテルの側の交差点だが、まだ、朝暗いうちから、郊外のプーシキン市からの通勤車で、渋滞になっている状態である。
   

   一枚目の写真は、郊外のメトロ駅入り口である。大きなショッピングセンターが、そばにあった。
   ところで、バス停だが、厳寒のモスクワもSPも、極めてシンプルで、これで、いつ来るか分からないバスを待ち続ける苦痛は如何ばかりか、心配になった。
   車道からみた鉄道駅だが、やはり、大陸横断と言うか、凄い迫力である。
   
   
   

   市内の渋滞の最大の問題は、沢山の車の乗り入れだが、東京やニューヨーク、ロンドンなどの先進国の大都市のように、郊外と都心を結ぶ高速鉄道網や有効な私鉄などがないので、殆ど自家用車に頼っていて、一気に都心に乗り入れようとするから渋滞する。
   それに、古い石やコンクリートの建築物が大半で、自動車交通を意図して開発された都市ではないので、駐車施設が存在せず、殆どの車が、空き地や道路などに路面駐車している。
   パリでも、狭い道路に犇めくように路面駐車の車が並んでいて、警官が切符を切り続けていたのを見ていたが、ロシアでは、違法駐車などがあるのかどうか知らないが、とにかく、所狭しと車が放置されている。

   勿論、政府当局も、事情は分かっているようで、あっちこっちで、高速道路などの建設現場が目につく。
   オランダなどでは、冬季に入ると地面が凍結するので地下工事は止まる筈なのだが、もっと凍結が厳しい筈のロシアなのに、あっちこっちで掘り起こしている。
   
   

   因みに、タクシーだが、マリインスキー劇場やボリショイ劇場への行き帰りに、ガイドの手配で利用したが、メーターがあるのかないのか、定額制であったように思う。
   ボリショイを出る時に、沢山の運転手が、タクシー、タクシーと寄って来たが、危ないと言われていたので、近くのホテルに行ってフロントで手配を頼んだ。
   何しろ、外人観光客プライスと言う悪弊がまかり通る国であり、言葉が通じない場合が多いので、タクシーは使わなかった。
   ボリショイの場合には、メトロを使えば、便利だと思ったのだが、ガイドの注意もあり、タクシーにした。

   さて、駅が宮殿のように綺麗だと評判のモスクワのメトロ駅だが、確かに、壁画や彫刻が駅舎を飾っていて、素晴らしい。
   欧米の鉄道駅のターミナルは、あのオルセー美術館を見ても分かるが、素晴らしい建築が多いのだが、確かに、地下鉄駅を飾っているのは、モスクワのメトロだけであろうか。
   入場の時だけ、改札機にタッチするのだが、出口は自由である。
   とにかく、吹きさらしの入り口を入って切符を買って、改札ゲートを入って、プラットフォームに至るまでの地下が深いので、エスカレーターの長さは、ロンドンなどの比ではない。
   メトロの客車も乗り降りも、乗客の様子も、ニューヨークやロンドンと全く同じで、違和感はない。
   
         
   
   
   
   
   
   
   
   
    
     

   新興国や発展途上国の最大の問題は、インフラの未整備・不備で、特に交通事情の悪さは突出しており、これが惹起する経済損失は莫大である。
   公共投資の拡大による経済需要促進効果はあるだろうが、実際に国民経済を正常に起動させ、発展に導くためには、更に、膨大な富と時間の投入が必要となる。
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晩秋のロシア紀行(10)ボリショイ劇場でガラ・コンサート

2014年12月05日 | 晩秋のロシア紀行
   モスクワのボリショイ劇場で、オペラを観たいと思ったが、チケットはソールド・アウト。
   たった2日の滞在なので、期待しても無理な話なのだが、幸いにも、出発少し前に売り出されたガラ・コンサート「モンゴルのゴールデン・ヴォイス」のチケットを、インターネットで取得して、ボリショイ劇場で観劇する機会を得た。
   大阪万博で来日したボリショイ・オペラの「イーゴリ公」の素晴らしい舞台に感激して、その後、欧米のオペラ・ハウスを歩きながらも、ボリショイは憧れであり、2011年に改装されて美しくなったと言う劇場を是非見たいと思っていたのである。
   

   当日の演目は、「Golden Voices of Mongolia」
   Gala Concert with soloists of the Mongolian State Academic Theater of Opera and Ballet, to include works by Puccini, Verdi, Rossini, Donizetti, Saint-Sans, Mozart and Tchaikovsky.
   モンゴル国立アカデミー劇場のトップ・ソリストたちが、プッチーニやヴェルディなどオペラの名アリアを、熱唱すると言うのである。

   オーケストラは、ロシア・ナショナル管弦楽団。
   まだ、創設後四半世紀の歴史ながら、ロシアを代表するトップ楽団の一つで、指揮は、マリインスキー歌劇場専属指揮者として活躍しているAlexander Polyanichko(アレキサンダー・ポリャニチコ)だと言うから、文句なしである。
   期待に背かずに、素晴らしく華麗なサウンドを堪能させてくれた。
   

   さて、この劇場だが、1823年に建てられ、火災や戦争による改造・改修を経て、広い広場をバックにして堂々たる姿を今日に伝えている。
   ところが、入ってみると、一階ロビーは、手荷物チェック・カウンターと空港並みのレントゲン・ゲートが出迎えると言う殺風景極まりない状態で、横の階段から階下に下りてコート手荷物預けを経て、上階の客席に向かうのだが、極めて階段や廊下が狭くて、パブリックスペースは、非常に貧弱である。
   尤も、二階には貴賓席が中央にある所為であろうか、かなり広い装飾された立派な広間形式のオープンスペースがあり、風格十分である。
   時間がなかったので、他の階の状況は分からないが、1859年に建てられたマリインスキー劇場と同様で、パブリック・スペースが貧弱なのは、当時の生活や文化を反映していて、今日のような利便性を考えた設計ではなかったからであろう。
   あのロンドンのロイヤル・オペラ劇場も、結局、旧劇場は殆ど手を付けずにそのままにして、隣接して巨大な建物を接続して素晴らしいオープン・スペースを作り上げたのだが、古い立派なオペラハウスは、歴史遺産としての本体の建物そのものを触らない限り、改造は不可能なのであろう。

   客席空間は、正に、素晴らしいハレの舞台を現出して光り輝いている。
   構造なり造りは、ヨーロッパの古い伝統あるオペラ劇場と殆ど同じで、馬蹄形のサークル状に客席が積み上がっていて、2階中央に立派な貴賓席がある。
   天井から下りたシャンデリアが豪華で、ストール平土間の客席は、マリインスキー劇場と同じで、一脚一脚の木製椅子席であるのが面白い。
   
   
   
   
   
   
   
   この劇場では、マリインスキーとは違って、舞台袖のボックス席はそれ程ではなく、客席バックの中央貴賓席を支える柱やその周りが、綺麗に装飾されている。
   
   
   
   
   

   「モンゴルの黄金のヴォイス」は、モンゴルの歌手を知らないので、興味津々であった。
   プログラムも、モンゴル語とロシア語なので、歌手の名前も曲目も全く分からなかったのだが、殆どは、ヨーロッパ・オペラの名アリアなので、素晴らしい歌唱を存分に楽しむことが出来て幸せであった。
   プッチーニのトーランドットやラ・ボエーム、ヴェルディのアイーダやリゴレット、ロッシーニのセビリアの理髪師、モーツアルトのフィガロの結婚等々、最後は、全歌手総出演で、お馴染みのヴェルディの「椿姫」の乾杯の歌で感動的なフィナーレを飾り、天井から、激しく金粉が舞い落ちると言う華やかな舞台となった。
   METやウィーン、ロイヤルやミラノ等々で、今を時めく大ソリストの多くが、東欧や南米などコスモポリタン、必ずしも伊独仏英米の出身者とは限らないのがオペラの世界で、モンゴル歌手の水準の高さに圧倒された素晴らしいガラ・コンサートであった。

   この劇場の演出で素晴らしかったのは、曲が変わる毎に、照明やバックのスクリーンが、その曲の背景や雰囲気にマッチしたシーンに変わることで、映像が素晴らしいので、舞台セットがそのまま変わった感じがして全く異質感がなかったことである。
   モンゴル賛歌と言った感じの曲であろうか、全歌手が登場して、ヒマラヤであろう、峻厳な真っ白の高山をバックに、朗々と歌い上げた歌声の素晴らしさが印象的であった。
   
   
   
   客席には、かなりのモンゴルの人びとが来ていたが、大半はロシア人で、何故か、私自身、久しぶりに、アジア人であることを感じた夜であった。
   興味深いのは、新興国ロシアの初期を支配し、タタールのくびきでロシアを苦しめ続けていたのが、かってのチンギス・ハーンの国モンゴルであり、いわば、モンゴルは、ロシアの宗主国であった。
   観客は、どんな思いで、モンゴルのゴールデン・ヴォイスを聞いていたのか、歴史に思いを馳せていた。
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晩秋のロシア紀行(9)赤の広場

2014年12月03日 | 晩秋のロシア紀行
   ロシアと言えば、必ずと言ってよい程、テレビなどに映る映像は、赤の広場である。
   特に、何本かのネギ帽子のような丸屋根を頂いた聖ワシーリー寺院の印象が強烈である。

   ところで、この赤の広場に出て、最初に持った印象は、この広場が、ロシアの心臓部であるクレムリンに直接隣接しているにも拘わらず、隔絶された特別な広場ではなく、町の中心街に隣接し、かつ、聖ワシーリー寺院(ボクロフスキー聖堂)のそばにはビジー・ロードが走っていて、すぐ、モスクワ川に傾斜していると言った街の雑踏の中にあることである。

   
   
   この航空図は、グーグル・アースから借用したのだが、
   東西斜めに走っている道の左上の長方形の一角が赤の広場である。
   左下の赤壁で仕切られた三角形の広大な部分がクレムリンで、右端の赤サークルが聖ワシーリー寺院、上部の赤サークルの長方形の大きなビルが国営グム百貨店、左端の方形の建物が国立歴史博物館で、これらに囲まれたところが、赤の広場である。
   クレムリンに隣接した小さな赤サークルが、レーニン廟で、何かの儀式の時には、この廟の高台に政府高官が並ぶ。

   聖ワシーリー寺院の斜め下は自動車道路で、右下角のモスクワ川に直結している。
   日によって、場所によっては、交通事情が悪化し、この日は、大変な渋滞で、2~300メートル進むのに30分以上を要していた。
   ロシアの交通事情については、別稿で論じてみたいと思っている。
   
   
   
   赤の広場の左上角の右側すぐに革命広場があって、それに隣接して、ボリショイ劇場やマールイ劇場のある劇場広場があり、このあたりに地下鉄も集中していて、モスクワの中心のようである。
   広場の片隅に、東京の日本橋のように、道路元標がある。
   
   
   

   さて、革命広場から、赤の広場に向かい、国立歴史博物館を右手に見て近づくと、左手に電飾にふちどりされたグム国立百貨店が現れて、その遠方に、聖ワシーリー寺院の丸屋根群が見えてくる。
   広い広場に出て、全体像を展望できると思ったが、残念ながら、広場にスケート場を造るとかで、板囲いに囲まれた工事現場が邪魔をした。
   

   こんなところに、スケート場を設営すると言うのであるから、何の不思議もないのだが、広場にメリーゴーラウンドがあり、そのすぐ横にロシアの聖地とも言うべきレーニン廟があると言う、このチグハグなアンバランスが、流石にロシアだと興味深かった。
   クリスマス休暇を前にして、一寸した遊園地を、赤の広場に作り上げるのであろう。
   

   聖ワシーリー寺院には、入らなかったが、電光に映えて美しかった。
   テレビの映像で見ると、何となく旅情を誘う懐かしい姿なのだが、実際に眼前にすると、何か、グリムの童話かディズニーの世界を彷彿とさせて、カラフルに装飾され過ぎたおもちゃの建物のような感じがして、不思議であった。
   この寺院の前あたりに、布告を読み上げたり、そこでステンカ・ラージンなども処刑をされたと言うロブノエ・メストと言う円形の台石があったようだが、意識にはなかった。
   この後の3枚目の写真の右端の段が、その一部だが、それとは気付かなかった。
   ガイドブックや参考文献は事前に読むのだが、現地に行けば、目に入るものだけで、総て忘れてしまっている。
   寺院の背後は、一気にモスクワ川に向かってダウンしていて、右手の広場に出ると、交通の雑踏が良く見えて、生きているロシアを感じさせる。
   
   
   
      

   振り返って、反対の方を見ると、右手に大きな赤レンガの国立歴史博物館、右手に、レーニン廟。
   この写真の右手は、工事で塞がってはいたが、赤の広場は、とにかく、巨大であり、ここなら国家行事は、何でも、十分に行えるであろう。
   ギリシャのアゴラに始まって、世界の国々には、色々な広場があるのだが、その前に立ってみると、その国や国民性、そして、その国の歴史や伝統・文化などが彷彿として来て、非常に興味深く面白いと思っている。
   
   
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晩秋のロシア紀行(8)世界歴史遺産サンクトペテルブルグ

2014年12月02日 | 晩秋のロシア紀行
   サンクトペテルブルグは、ピヨートル大帝が建設した都市なので、たった300年の歴史しかない。
   しかし、街全体が、正に、パリやロンドンのように、ヨーロッパの街そっくりの印象を与える歴史遺産そのものである。
   短い滞在なので、歩いたのはほんの僅かで、バスの車窓から覗き見て、街の雰囲気を感じ取った程度だが、これが、ヒットラーの猛攻撃に堪えて生き抜いた歴史的な試練を潜り抜けた大都市だと思うと、正に、感慨無量であった。
   それに、とにかく、この街も、京都と同じで、キリスト教会が多い街で、宗教はアヘンだと豪語した共産党政権の破壊に堪えて、良く残ったものだと思う。

   私たちが入場して、かなり、長い時間を教会内で過ごしたのは、「血の救世主寺院」別名「血の上の救い主聖堂」など極限られていて、この教会も、今や、博物館として利用されている。
   何故、血の上の・・・と呼ばれるのかだが、農奴解放令を出して「解放者」と呼ばれた改革派の皇帝アレクサンドル2世が、1881年に、テロリストの爆弾で命を奪われた場所に、息子のアレクサンドル3世が建てたからである。
   赤の広場に面して建っている有名なワシーリィ寺院とよく似た恰好をしているが、完成は、1907年で、共産革命直前なので新しい。
   私は、ギリシャでギリシャ正教の寺院に入っていないので良く似ているのかどうかは分からないのだが、今回、ロシアで見た教会は、他の欧米の寺院と全く違って、柱は勿論のこと壁面は壁画などで覆われていて、立錐の余地もない程に極彩色に彩色されていて、綺麗いことは綺麗のだが、別の意味では、気が狂いそうなほど衝撃的なのである。
   ドイツやフランスの高いゴチックの教会のように、森の中にいるような静けさ静寂さは、微塵もないのが、不思議であった。
   それに、床面も一面のモザイクで荘厳されている。
   
   
   
   
   
   

    街の中心から、エルミタージュと旧海軍省の間に抜けているいるネヴァ川にかかる宮殿橋を渡って、対岸の2棟の燈台のたもとに行くと、ネヴァ川を挟んで、エルミタージュの長い冬宮が遠望でき、巨大な建物であることが分かる。
   そして、燈台の後方に、サンクトペテルブルグの基礎が築かれたうさぎ島のペトロパブロフスク要塞が、良く見える。
   ネヴァ川に落ち行く夕日が、北国の光そのものである。
   
   
   
   

   取って返して、旧海軍省の建物を右に見て、デカプリストの乱所縁のデカプリスト広場の外れに、エカテリーナ2世が建てたと言うピュートル大帝の騎馬像が、ネヴァ川の方向を向いて立っている。
   その公園越しに、巨大なドームを頂いたイサク聖堂が聳えている。
   ドーム外壁に展望台があって、サンクトペテルブルグの眺望を楽しめるようだが、我々は、公園を散策しただけで後にした。
   ここで面白かったのは、カラスの姿で、灰色と黒のツートンカラーの所為か、あの嫌な日本のカラスとは違って、何となく、鳩のような大人しい雰囲気を感じたことである。
   イサク聖堂を回り込んで反対側に出て、ニコライ1世像のある広場に立つと、聖堂を右に見て、右手に古風なホテルが見える。
   このホテルが、ヒトラーが凱旋入場した時に、記念大宴会を催そうとして果たせなかったと言うホテルで、ロシア人ガイドは、力を籠めてこれを説明していた。
   
   
   

   最後に案内されたのは、電光に映えて美しい小さな教会ニコライ聖堂で、ロシア革命後にも壊されずに残った数少ない現役のキリスト教会である。
   1753年に建てられたバロック様式とロシア伝統建築様式折衷の調和のとれた美しい建物で、殆ど真っ暗であったのだが、裏表で面白い写真が撮れた。
   誰もいない教会の敷地に入って、回り込んで教会内に入ったのだが、礼拝に来ていた何人かのロシア人信徒が、夫々の祭壇の前で祈りをささげていた。
   この教会の内部は、他のヨーロッパの教会に近く、ごてごてしたロシア風の教会の雰囲気はなく、堂内も静寂であった。
   
   
   
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晩秋のロシア紀行(7)エルミタージュ美術館:その2

2014年11月29日 | 晩秋のロシア紀行
   エルミタージュ美術館で、やはり、圧巻は、レンブラントであろう。
   ピヨートル大帝が、オランダ遊学時に持ち帰ったものに加えて、エカテリーナ2世が、ベルリンで一気に買い集めた絵の中にも多くのレンブラントがあり、この美術館のレンブラントの間には、10点以上の作品が、展示されていて壮観である。

   真っ先に目に飛び込んで来るのが、有名な「放蕩息子の帰還」である。
   随分前に、グランドボーンで、ストラヴィンスキーのオペラ『放蕩者のなりゆき』を見たのだが、これは、ホガースが基になっていて違うストーリーのようで、レンブラントは、新約聖書ルカ伝15章にあるイエスの語る「放蕩息子」の物語の方で、ブリテンのオペラ「放蕩息子」の方であろう。
   かなり大きな絵で、右側の窓の光が乱反射して、全体像は見難い。
   帰って来た放蕩息子を、父親が優しく抱きかかえている。
      

   私が、エルタミージュ美術館で最初に記憶したのは、レンブラントとは思えないような、ドラマチックで美しく蠱惑的な「ダナエ」である。
   先日、触れたティツィアーノのパッシブで美しい「ダナエ」と比べて見れば、歴然だが、このレンブラントの「ダナエ」には、ゼウスを暗示する雲も金の滴も何も描かれてはいないが、右手を上げてはっきりとゼウスを受け入れる強い意志が表現されていると言う。
   ところが、この絵が、精神病のリトアニア人青年によって、硫酸を浴びせられ2回刃物で切り付けられて致命的な損傷を受けた。
   直後から12年間にわたって専門家の修復を受けたが、完全修復は不可能だったと言う。
   ルーブルの「モナリザ」は、頑丈な囲いで防御されているが、この絵は、今でも、額縁ながら、他の総ての絵のように、簡単に手の届く位置に置かれている。
   もう一つ、日本にも来たと思うが、ここにも、妻のサスキアを描いた「フローラ」の絵があった。
   
   
   

   余談ながら、あのモナリザも、1911年に盗難にあっているし、戦争となれば、必ず、最初に襲われるので、疎開させられるのは、美術館博物館の絵画などの重要文化財で、例えば、ヒットラーとスターリンの絵画争奪戦は熾烈を極めており、また、ナショナル・ギャラリーの美しいベラスケスの「鏡のヴィーナス」が、1914年に過激婦人参政権論者のカナダ人女性に切り刻まれる等、とにかく、素晴らしい人類の遺産とも言うべき絵画の悲劇は、後を絶たないのである。

   エカテリーナ2世が買い集めた絵の中で、やはり、異彩を放っているのは、ルーベンスやヴァン・ダイクなどのフランドル絵画の素晴らしさであろう。
   ルーベンスの「ペルセウスとアンドロメダ」や「大地と水の結合」など大作がならんでいて、とにかく、絵が色彩豊かでドラマチックであり、それに、巨大なキャンバスに展開されているので、見ていて、想像を掻き立てられて興味深い。
   
   
   
   
   
   
   

   スペイン絵画は、多少、希薄だが、エル・グレコの「ペトロとパウロ」や、ゴヤの「女優アントニア・サラーテ」などをはじめ、ヴェラスケスやムリーリオなど珠玉の作品が並んでいる。
   
   

   この日、最初に訪れたのは、「ダイヤモントの間」で、豪華なダイヤモンドが展示されているのかと思ったら、トルコのスルタンから贈られた馬具一式と言うか、特に、馬の背にかける何千何万と言うダイヤモンドや宝石で飾られ縫い取られた目を見張るような豪華絢爛たる装飾カバーであった。
   飾り刀は勿論、馬具一式の贅を尽くした装飾の凄さは、流石である。
   本場のトルコのイスタンプールで見たトプカピ宮殿の宝物殿の凄い展示品を思い出した。
   しかし、私が、この部屋で興味を持ったのは、スキタイの黄金細工など、中々、見る機会のないスキタイの文化遺産がかなり展示されていたことである。
   この部屋での写真撮影は禁止されていたので、記録は残せなかった。

   さて、この美術館の呼び物である印象画の作品は、新しい展示場に移転していてピカソだけが数点残されていただけであった。
   そのほか、彫刻や黄金の孔雀時計、騎馬のはく製、等々面白い展示品を駆け足で回ったのだが、他にも、中国の敦煌の壁画など東洋美術の充実した展示があるのだが、とにかく、駆け足で、一寸かすっただけと言うことであった。
   あの大英博物館やナショナルギャラリーにしても、ペンギン・ブックなどを小脇に抱えて、一つ一つ、何日もかけて見て回ったのだから、今回のエルミタージュ散策は、極めて有意義であったと言うべきであろう。
   
   
   
   
   
   
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晩秋のロシア紀行(6)エルミタージュ美術館:その1

2014年11月28日 | 晩秋のロシア紀行
   サンクトペテルブルグのエルミタージュ美術館は、収蔵数から言ってもその質においても、世界最高峰の美術館ではあるが、イギリスの大英博物館とナショナルギャラリ―、ルーブル博物館、メトロポリタン・ミュージアムなどと比べて、偏りがあって、例えば、エジプトやメソポタミア、ギリシャなどにおいては、かなり、貧弱である。
   今回は、JALパックツアーなので、3時間と言う短時間のエルミタージュなので、欲は言えないのだが、私の目的であった盛期のヨーロッパ絵画を鑑賞することであったので、良くアレンジされたガイドツアーであり、ほぼ、満足であった。
   美術館は、ロマノフ王朝の冬宮なので、建物も内部の装飾も、他のヨーロッパの名だたる美術館や博物館と比べて、遥かに高級で素晴らしい。
   2階展示場に上る大使の階段など、目を見張るくらい煌びやかで豪華である。
   祖国戦争の間には、戦いを記念する大作が掲げられており、広い玉座の間には、深紅の玉座がセットされている。
   
   
   
   
   

   さて、レオナルド・ダ・ヴィンチの作だが、2点展示されている。
   「リッタの聖母」と「ベヌアの聖母」で、幼子のキリストをマリアが抱いている優しくて慈愛に満ちた絵である。
   特に、前者の「聖母子」のマドンナの眼差しの優しさ温かさは格別で、よくもこれ程までに精緻に描き、魂を吹き込めるのか、しばし、茫然と見つめていた。
   かなり小さい作品であり、油絵そのものが光り、ガラスの額縁に収容されているので乱反射しているが、無造作に架けられており、真近まで接近できるので、十分に楽しめる。
   やはり、ルーブルやウフィツィやナショナルギャラリーのダヴィンチの作品と比べると、質もスケールも違うが、私にとっては、これで、殆どのダヴィンチの作品を見たことになるので、感激であった。
   
   

   更にタリア絵画で注目すべきは、ラファエロの2作品、「コネスタビレの聖母」と「聖家族」である。
   ウフィツィにミケランジェロの凄い「聖家族」があるが、ラファエロの聖家族は、実に優しくて愛らしい。
   バチカンの雰囲気を真似たのであろう、素晴らしい「ラファエロの廻廊」が創られている。
   余談だが、ミケランジェロの「うずくまる少年」は、貸し出しで見ることが出来なかった。
   
   
   

   もう一つ興味深いのは、ティツィアーノの作品で、「悔悛のマグダラ」、そして、プラドにもあるのだが「ダナエ」である。
   ティツィアーノは、ウフィツィにも「ウルビーノのヴィーナス」と言う作品があるのだが、このダナエのように豊満な女性の絵が上手い。
   
   

   勿論、イタリア絵画関連室には、他にも注目すべき絵が沢山あり、特に、キリスト絵画が多くあるのだが、ギリシャ正教を継承して、独特なイコン絵画を発展させたロシアにおいて、どのような位置づけにあるのか、調べたかったが、とにかく、短時間で、延長22キロメートルもあると言うエルミタージュを、それも、さわりだけを見て回るのであるから、そのような余裕はない。
   とにかく、フラッシュなしの写真撮影なら許されているので、シャッターを切るのがやっとであった。
   今は、ロシアの観光シーズン・オフなのであろう、客が少なくて自由に写真が撮れたのだが、夏は、盛時の銀座並の込みようで、写真の前でポーズをとるなど不可能だとか、幸せであった。
   

      
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晩秋のロシア紀行(5)EU経済制裁を感じさせない

2014年11月26日 | 晩秋のロシア紀行
   ロシアのウクライナ進行など領土問題のために、欧米など自由主義諸国が行っている経済制裁が、どのように、ロシアの経済に影響を与えているのか、特に、消費財など品不足に困っているのではないかと言うことに、多少関心があった。
   NHKのワールド・ニュースでは、困っているのは、輸出が出来なくて苦しんでいるフランスの農家やドイツの工業などの報道はあったが、ロシア国民の生活を圧迫していると言った報道はなく、私にわかることは、ウクライナ問題と石油価格の低落などによって、ロシア・ルーブルが大幅に下落しているくらいであった。

   今回、ロシアに来て、真っ先に感じたのは、8年間暮らしたEU,特に、イギリスやオランダでの生活と、殆ど異質観がなく、ロシアも、ヨーロッパの一員だと言うこと、そして、サンクトペテルブルグとモスクワの街を歩いていて、大変な大国であると言うことである。
   日本で我々が接するロシアに関する情報なり知識は、プロアメリカ過ぎると言うか、正確なロシア情報が入っておらず、どうも一面的なような気がしたのである。

   今回、私が行ってみたのは、モスクワの国営百貨店グムとガレリア風のショッピングセンターと4個所のスーパーだが、商品は、どの店にもふんだんにあって、品揃えも、日本の店と、全く遜色がない。
   スーパーなど、日本よりダイナミックで、
   外国製なのかどうかは、外国企業がロシアで製造販売しているのもあるので銘柄だけでは分からないのだが、私がオランダで愛飲していたハイネケンやアムステル・ビールなどが並んでいて、500ミリ缶が250円くらいであったから、まずまずの価格だし、フランスやイギリスの高級酒も並んでいて、ロシアで良いと言われているグルジア・ワインの影が薄いくらいなのである。
   
   

   野菜や魚、肉などと言った生鮮食料品から、加工品まで、食料品はないものがない程で、外国人への入場料や土産物品など外国人価格のものは異常に高いが、普通のロシア市場の商品の価格は、日本並のような気がした。
   多少違いがあるとすれば、日本のスーパーよりは、客が少ないような気がするのだが、一般的な商店の状況を見ていないので、庶民の生活実態は分からない。
   
   
   
   
   
   
   
   
   キャッシャーのところは、次の通りで、サービスの感覚は多少希薄かも知れないが、それ程悪くはない。
   

   一方、ショッピングセンターは、細長い4~5階建てで中央吹き抜けのビルなのだが、一階の一部がスーパーになっていて、電気関係の量販店や外国の専門店などが並んでいる。
   スターバックスやマクドナルドなどレストラン階もあって、一応、買い物が出来るようになっている。
   この日は、スーパー以外は、客数が少なかった。
   
   
   
   
   

   さて、昔から、よく知られている国営百貨店グムは、赤の広場のレーニン廟の対面にあって、夕刻には電飾で飾られていて、ロビーや吹き抜けには、クリスマスの飾りつけがなされていて華やいである。
   ロシア人ガイドが、ここは非常に高いので、買い物は、スーパーなどでやれと忠告していた。
   パリやロンドンの百貨店や高級ショッピング街と全く同じ雰囲気で、出店しているのは、殆ど海外のブランド店である。
   KENZOやSONYの店舗があった。
   ロシアでは、免税店などがないので、空港の店が貧弱なので、外国のブランド品を買いたければ、このグムで買うべきなのであろう。
   街の中心に、歩行者天国のショッピング街アルバート通りがあるようだが、行けなかった。
   店舗には、殆ど客が入っていなかったが、簡易なレストランコーナーなどは、かなり混んでいたので、モスクワ中心街には、適当に寛げるレストランが少ないのであろう。
   この日、制裁問題で閉鎖されていたマクドナルドの1号店が、オープンしたとモスクワ・タイムズが報じていた。
   
   
   
   
   
   
   
   

   さて、EUなど欧米の経済制裁問題だが、閉鎖されればされるほど、私は、むしろ、ロシア経済にとっては、自国経済の近代化や高度化のためには、千載一遇のチャンスだと思っている。
   広大な国土を有し、天然資源は何でもあるのだから、豊かな潜在力と、かなり高い人的資源をフル活用して、現在導入可能な科学技術を駆使して、これまで、手を抜いていた経済成長政策を果敢に推進すれば、国力を一気に引き上げられるのではないかと思っている。
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晩秋のロシア紀行(4)マリインスキー劇場でバレエ「ジゼル」

2014年11月25日 | 晩秋のロシア紀行
   このマリインスキー劇場の起源は、1783年にエカテリーナ女帝によって開設された帝室劇場だが、現在の劇場は、農奴解放令を出したアレクサンドル2世が、妻マリアのためにと1860年に建設されたロシアきってのオペラ・バレエ芸術の殿堂である。
   残念ながら、夜に直行したので、昼の劇場の雰囲気は分からないのだが、劇場の内部は、非常にシックでクラシカル、風格のある落ち着いた雰囲気が、実に良い。
   座席は、木製ビロード布張りの変哲もない一脚一脚の椅子で、移動自由であったが、中々、歴史を感じさせる雰囲気にマッチしていて悪くはない。
   幸い、私たちの席は、ストール・ボックスの一番センター寄りの良い席を予約できたのだが、当夜は、満席のようであった。
   

   ニューヨークのMETは、巨大なオペラ劇場だが、このマリインスキーも、ロイヤルオペラや古いパリのオペラ座やスカラ座などと同じで、客席が馬蹄形に積み重なったかなり小規模な劇場で、贅を凝らした内装が実に美しい。
   前方と後方の情景は次の通りである。
   ロイヤルの場合には、正面ではなく、二階の一番左側の舞台に近いところに女王の席があるが、この劇場は、多くの劇場と同じように、中央二階に貴賓席がある。
   
   
   
   
   

   ストール席の横から舞台を見た写真だが、座席の状況が良く分かる。
   また、桟敷席のサークル線が、光に映えると綺麗である。
   舞台正面の左右の柱の彫刻が美しい。
   
   
   
   

   さて、当夜のプログラムは、アドルフ・アダン作曲のバレエ「ジゼル」であった。
   1841年にフランスで初演されたバレエ作品だが、翌1842年に、この劇場でも初演されたと言う由緒ある作品である。
   病弱な村娘ジゼルが、身分を隠した貴族のアルブレヒトと恋に落ちるのだが、ジゼルに思いを寄せる村の青年ヒラリオンに身分を暴かれ、アルブレヒトの婚約者バティルドが村を訪れたるに至って総てを知り絶望して息絶える。
   ここからが、結婚前に死んだ娘達が妖精ウィリとなり、夜中に森にきた男性を死ぬまで踊らせるというハインリッヒ・ハイネのオーストラリアの伝説が基となるのだが、ヒラリオンは踊り殺されてしまう。
   ジゼルを失って傷心のアルブレヒトが彼女の墓を訪れ、亡霊となったジゼルと再会するのだが、ウィリの女王ミルタにつかまって瀕死の状態に追い込まれるまで舞い続けるので、ジゼルはミルタに許しを乞う。
   その内、鐘がなり夜が白み始めるとウィリたちも消えて行くので、アルブレヒトは命拾いするのだが、ジゼルも消えてしまう。
   

   そんな、実に切ない話なのだが、アダンの美しくて流れるような音楽に乗って、優雅で華麗な夢のようなバレエが展開される。
   ジゼルを踊るオレシア・ナヴィコワ、そして、アルブレヒトのイゴール・コルプも、夫々、マリインスキー劇場のトップソリストで、ロシア功労芸術家であり、素晴らしいテクニックと人間業とも思えないような華麗な舞が魅了して止まない。
   それに、白鳥の湖のように、あるいは、それ以上であろう、白衣のウィリたちの群舞が、息を呑むほど美しくて感動的である。
   もう、何十年も前に、METやロイヤルオペラで、バレエを楽しんでいたことがあり、どちらかで、ジゼルを観た記憶があるのだが、あの頃感激した優雅なバレエの世界を思い出した。
   指揮者は、ロシア人民芸術家のボリス・ブルージンで、期せずして、願ってもない素晴らしい経験を、この華麗なマイインスキー劇場で体験することが出来た。
   問題は、マリインスキー劇場は、やや中心街から離れたビジーロードに面したところにあって、交通事情の悪いサンクトベルグでの冬季の帰路の交通が非常に不便であり、今回は、JALパックのコンダクターのMさんに、大変お世話になった。
   
   
   
   
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晩秋のロシア紀行(3)ロシア美術館

2014年11月24日 | 晩秋のロシア紀行
   サンクトペテロブルグのミハイロフ宮殿を改修して、ロシア美術を集積したのが、このロシア美術館。
   王宮の面影を残しつつ、ロシア美術の最高峰が集められている。
   王宮や美術アカデミーにあった収蔵作品やエルミータージュ美術館からの移管、そして、革命後に国有化された個人所有の作品から成り立っている。
   
   

   まず、最初の作品は、ビザンチン時代のイコンや教会などの宗教絵画で、かなり年代を遡る。
   しかし、多くの作品が、ロシア草創期の首都キエフにあった作品なので、ロシア人ガイドは、ウクライナの事を語らざるを得ないので、何となく歯切れが悪く、期せずして、国際問題の複雑さを感じて、興味深かった。
   ヨーロッパのどこの国も、日本のように、国境がはっきり画定しておらず、取ったり取られたり、国が一時消滅したり、入り組んだ複雑な歴史を辿っているので、自国だけのまともな国内史は著し難いのである。
   EUでは、「ヨーロッパの歴史―欧州共通教科書」が発行されているが、当然であろう。
   歴史認識などと中韓から言われる日本の場合と、次元が桁違いなのである。
   
   
   

   18~19世紀前半の美術の部屋に来ると、正に、ルーブルに居るような威容で、素晴らしい巨大な作品が壁面を飾っている。
   ブリューローフの「ポンペイ最後の日」の凄い迫力は圧倒的。ドラクロワの絵を見ているような錯覚を覚える。
   もう一つ、巨大なカンバスに描かれた荒れ狂う大海原で、木端のように漂いながら、死闘を繰り広げる人びとを描いたアイヴァゾフスキーの「第九の波」。
   この写真は、人物部分の一部だが、所詮死を待つのみの運命に翻弄される人間の断末魔を描いて凄まじい。
   
   
   

   この美術館の収蔵品で注目を集めているのは、やはり、レーピンの作品で、私は、「ザポロージェ・コサック」が、一番好きである。
   当時、ウクライナ南部にまで勢力を張っていたトルコのスルタンが、ロシアの自由の民コサックに臣従するようにと迫った最後通告に、コサックは、罵詈雑言を書き連ねて嘲り蹴った返書を書いたのだが、正に、その手紙を書いている瞬間を描いた絵である。
   様々な服装や恰好をした誇り高き軍師たちの表情が実にリアルで、迫力抜群の作品であり、圧政から逃れて自由民となって辺境地帯で暗躍していたコサック武装集団の面目躍如である。
   

   レーピンの有名な絵「ヴォルガの舟引曳き」は、横長のかなり小さな絵だが、貧しい舟曳き人夫を活写していて、当時の農奴の悲しさを実感させる。
   搾取に搾取を重ねて築き上げたロマノフ王朝の繁栄は、一体何だったのか、得体のしれないロシア史の暗部を覗き見た思いである。
   もう一つレーピンの大作は、「帝国枢密院設立100周年記念の儀礼」。
   最後の皇帝ニコライ2世の姿が見える。
   
   
   

   後進国ロシアは、モンゴルやトルコ、スエーデンやポーランドと言った強敵と国境を接していたので戦争の絵が多い。
   川を挟んで熾烈な白兵戦をダイナミックに描き切ったスリーコフの「エルマークのシベリア征服」の凄さは圧倒的で、日本画の侍の戦闘絵と迫力の差は歴然。
   もう一つ、スリーコフの絵で、興味深いのは、「ステバン・ラージン」、歌にもあるステンカ・ラージンの絵である。
   小町文雄氏によると、カスピ海を暴れ回ってペルシャで拉致した美姫を、「女にうつつつをぬかすのか」と部下に揶揄され、腹を立てて水の中に放り込んだので、その直後で浮かぬ顔だと言う。
   ステンカ・ラージンも人の子、恋をしたのであろう。
   
   
  
   荒涼とした荒野に馬上で佇む兵士を描いたヴァスネツォーフの「岐路に立つ騎士」。
   スリコフの「スヴォーロフ将軍のアルプス越え」。
   トルストイやニコライ2世の絵画等々。
   このロシア美術館の散策は、私自身が、良く知らなかったロシア絵画の大作が目白押しで、ロシア芸術の奥深さを体感した重要な経験であった。
   
   
   
   
   
   

   なお、人が少なくて、絵画写真は自由に撮れたが、位置を工夫しても、額縁のガラスなどの乱反射で、偏光フィルターがなかったために、残念ながら、写真に霞がかかってしまった。
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晩秋のロシア紀行(2)エカテリーナ宮殿・琥珀の間

2014年11月23日 | 晩秋のロシア紀行
   サンクトペテルブルグから南へ25キロ離れた郊外に、ツアールスコエ・セローと言う「皇帝の村」があって、壮大な「エカテリーナ宮殿」がある。
   ナチスドイツに壁面の琥珀を剥離されて、行くへ知れずとなり、最近修復された有名な「琥珀の間」がある宮殿である。
   この宮殿は、ピヨートル大帝の娘エリザヴェータによって18世紀中葉に建てられた母帝エカテリーナ1世の名を冠した宮殿で、後のエカテリーナ大帝もこよなく愛したと言うから、ロシア史における女帝の権威の凄さが分かろうと言うものである。

   ブルーの壁面に、真っ白な列柱などの枠組みと浮き彫りで華麗に装飾荘厳された310メートルのバロック建築の威容は、流石に、盛期のロマノフ王朝を忍ばせる燦然たる遺産である。
   鋳物製の門扉も美しいが、朝日を浴びて輝く5本の礼拝堂のドームが素晴らしい。
   
   
    

   ところで、このエリザヴェータだが、紛れもないピヨートル大帝とエカテリーナ女帝の子供であり帝位継承者でありながら、結婚前に生まれたので庶子扱いとなり、枢密院が即位を拒否し姉のアンナに冷遇される等、「陰鬱な10年間」を過ごしたと言う。 
   治世20年間に、ドイツ人重用からロシア人重視に改め、著しい商工業に発展につくし、この時期に、エルミタージュの基礎となる冬宮など豪華な建築が始まった。
   晩年には、政治への情熱よりも、観劇や舞踏会などあらゆる贅沢に身を委ねるようになり、フランス文化と思想の影響が高まったと言う。
   このエリザヴェータの精魂傾けて築きあげた宮殿であるから、凄くて当たり前なのであろう。
   私の印象では、ヴェルサイユ宮殿やウィーンのシェーンブルン宮殿など、当時の先進ヨーロッパの宮殿とも遜色ないと思っている。
   広大な大広間に入ると、ヴェルサイユ宮殿の「鏡の間」を彷彿とさせる。
   この間で、エカテリーナ2世に、大黒屋光太夫が謁見を許されたと言う。
   

   金ぴかに壁面を荘厳された煌びやかな部屋を経由して、ずっと奥まったところに「琥珀の間」がある。
   ここだけは、写真撮影が禁止されているので、ロシア人ガイドは、部屋に入る前と後に、ドア越しにシャッターを切れと言う。
   琥珀は何種類かあって、白っぽいものから濃い琥珀色までバリエーションがあり、壁面一面を飾って、金色の内装とマッチして光り輝いている。
   第二次世界大戦で、レニングラードに迫ったナチスドイツ軍が、総て剥がし取って略奪してしまったので、最近、復元されて、観光客で溢れかえったと言うことで、今でも、夏の観光シーズンには、見学が大変だと言う。
   プロイセン王が、ピョートル大帝に贈った琥珀のモザイクで飾られていたと言うから、ドイツ人が持ち帰ったと言えないまでも、行方知れずと言うのは、昔、アメリカに送られる途中に消えた北京原人の骨や、台湾への移動の途中に多く消えた故宮博物館の宝物などを思いださせて、悲しい。
   
   
   

   壁面一面の「絵画の間」、豪華な食器をセットした「緑の食堂」、布地の壁面の「青の客間」等も美しい。
   とにかく、夫々の部屋が、色々なデザインで作り上げられていて、その創造性に舌を巻く。
   
   
   
   
   

   欧米の美術館や博物館には、子供たちの野外移動教室が盛んで、この宮殿にも何組かの小学生のグループが来ていた。
   ニューヨークのメトロポリタンなどでは、子供たちが床に座って模写をしたり記録を取っていたが、勉強には格好の場所なのであろう。
   
   

   入り口を入って、踊り場に二つの天使像があり、手前に「目覚める天使」、奥側に「眠れる天使」の可愛い大理石彫刻が置かれていて面白い。
   
   
   
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