熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

鎌倉だより・・・明月院の秋は如何に その壱

2017年11月30日 | 鎌倉・湘南日記
   東慶寺を出て、明月院に向かった。踏切を渡って小川沿いに上って行くとすぐなのだが、綺麗な山道風の雰囲気で、このあたりから古社寺散策ムードになる。
   まず、銀杏が3本並んでいて、山茶花や紅葉が彩を添えており、その奥に明月院の山門が見えてくる。
   
   
   
   
   
   
   
   さて、明月院の典型的な絵ハガキ風景は、本堂の一室の円窓から望む本堂後庭園の風景である。
   観光客は、長い列に並んで、本堂前に立って部屋越しに、窓に向かってカメラやスマホのシャッターを切っているのだが、紅葉の季節には、後庭園が公開されるので、園内の人が邪魔になって、まともな写真が撮れない。
   私も庭に居て、逆方向の写真を撮っていたので、邪魔をしていたのであろう。
   まず、後庭園から撮った丸窓のショットを紹介する。
   
   
   
   
   

   しからば、後庭園に邪魔な人のいない写真を撮るのには、どうしたら良いか。
   後庭園の公開が、3時に終わるので、その後、閉園の4時までの間に、その頃には、写真取りの列も短くなっているので、多少、辛抱して並んで順番を待って撮ればよいのである。
   しかし、この写真を撮ったのは平日の午後だったので、休日は、そうもいかないかも知れないが、芋の子を洗うようなアジサイの頃と比べれば、マシであろう。
   それに、シーズンでなければ、人はいないし、この部屋に上がってお茶のサービスを受けられるので、ここから写真が撮れて良いのだが、逆に、部屋や、外の縁側、すなわち、円窓の外に、人が居たりして、ぶっ壊しになる心配もないではない。
   
   
   
   
   
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鎌倉だより・・・東慶寺の秋を楽しむ

2017年11月29日 | 鎌倉・湘南日記
   穏やかな秋日和、久しぶりに、北鎌倉を歩こうと思った。
   何度も訪れているので、古社寺巡りでも観光でも何でもない、要するに、カメラをぶら下げて歩きながら、秋の気配を感じれば、それで良いのである。
   大船に出て、そこから、鎌倉駅行きのバスに乗ったのだが、始発ではなかったので、混んでいた。
   明月院下車のつもりだったが、一つ手前の北鎌倉で降りて、東慶寺に行くことにした。
   ところが、JR北鎌倉駅で降りた観光客の大半は、円覚寺に入って行く。
   踏切の向こうに、円覚寺の山門があって、石段の両翼にもみじが、綺麗に紅葉している。
   

   北鎌倉に来ても、円覚寺と建長寺のような大寺院には、余程のことがなければ入ることはないので、暫く、観光客に交じって、山門前の紅葉を眺めながら、シャッターを切っていた。
   まだ、少し早いのか、緑が勝っていて、紅葉は、それ程、鮮やかではなかった。
   
   
   
   
   
   
   

   普通、北鎌倉を訪れた人は、まず、円覚寺に入って、建長寺に行くようであるが、途中の東慶寺から明月院を経由する場合も、結構あるようなのだが、この日は、東慶寺は、何時ものように空いていた。
   

   この東慶寺には、背後の山も含めて、特に、もみじなど綺麗に紅葉する木が少ないので、秋の風情は、それ程、強烈には感じられないのだが、本堂の内外の紅葉は、種類があって紅葉すると美しい。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   東慶寺は、境内に、色々な草花が植えられていたり、苔が蒸すなど古寺の雰囲気が充満していて、私など、いつも、ハッとするような自然の静かな営みに感動することがある。
   小菊やリンドウ、そして、十月桜やボケが咲いている。
   野葡萄や百両などの実が、微かに光って美しい。
   
   
   
   
      
   
   

   
   
   
   
   
   
   風情があるのが、苔の上に落ちたもみじ。
   
   
   

   山門越しに、円覚寺の鐘楼あたりが遠望できる。
   円覚寺へ行く時間はなかったので、明月院へ向かった。
   昨年も出かけたのだが、本堂後の庭園が解放されていて、紅葉が美しいと思ったのである。
   
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ビル・エモット著「なぜ国家は壊れるのか イタリアから見た日本の未来」

2017年11月28日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この本のタイトルは、
   Good Italy, Bad Italy: Why Italy Must Conquer Its Demons to Face the Future
   日本版のタイトルのような書名に、どうしてなるのか、
   翻訳本では、このように、売らんかなの意図が強くて、著者の本意をスキューしているタイトルが多いのに驚いている。

   本書のタイトルは、「なぜ、国家は壊れるのか」ではなく、「グッド・イタリア、バッド・イタリア、イタリアは、将来に直面するために、なぜ、デーモンを克服しなければならないか、すなわち、イタリア国家を不幸に陥れているバッド・イタリアを克服して、本来イタリアが持てるグッド・イタリアを再興喚起して、イタリアを再び幸せな国家として再生すべきだと言うことで、ビル・エモットは、国家の崩壊と再生を論じながら、未来への処方箋を説こうと試みたのである。

   まず、この日本版のプロローグが、「驚くほど重なる日本とイタリア」と言うタイトルで、著者は、
   日本とイタリアには、違いはあるものの、・・・両国の不幸の原因には共通するところが少なくない。イタリアは、・・・先進国が、将来抱えうる問題を提起しており、特に日本とは驚くほど共通点が多い・・・不幸な国は、実際は同じ理由から不幸であることが多い(ので)、イタリアから改めて多くを学んでほしいと思う。と言ってはいる。
   しかし、本書を読んでの感触だが、著者の言う両国の深刻な共通点の存在や、その不幸を克服するための処方箋の共通性などについては、落ちぶれた国は、どこも同じだと言う視点は同意するにしても、特に、経済面では、それ程似ているようには感じられないのである。

   尤もかも知れないのだが、このプロローグで、真っ先に述べている類似点は、両国の政治の利己的行動。
   両国の政治家の大半は、自分自身の金儲けのためと、政治力を駆使して、自分たちの後援者と支援企業に対して、資金援助をするために職についていたのである。
   両国の政治家は、その職が家族の遺産であるかのように、親族へ引き継がれ選挙区も譲り受け、腐敗スキャンダルや政党の金融スキャンダルは、日常茶飯事である。
   派閥の方が政党よりも、お金がイデオロギーや政策よりも、さらに個人の利益の方が国益よりも一層大切なのである。このことから、過去10年間、日本とイタリアが自国を改革し、再興させるのに失敗したことがよく分かる。
   政治家は、改革についてお互いに同意できないし、同意することにも興味がない。選挙民が怒っていないように見えるのは、政治家に期待が持てず、彼らに何も求めていないからである。
   と、ビル・エモットは、極めて辛辣。
   イタリアレポートで、コテンパンに糾弾して追放の憂き目にあった悪徳政治家ベルルスコーニと、日本の安倍政治も全く同じであって、こんな状態を続けている限り、日本も再生不可能であるから、どうしようもないイタリアの現状をよく見て、わがふりを直せ、と言っているのである。

   ビル・エモットは、日本の既得権の力や腐敗度だけではなく、政治的負担と非競争的な保護産業が重視された結果、かって勝利を収めていたグッドの勢力を低下させたので、政策決定者の任務は、このバランスを元に戻すことであり、トップからボトムに国家を変えることではない、と言っており、けだし至言。
   日本の政治を、これほどまでに見下されると腹が立つのだが、子供でさえ分かるような安倍政権と森友・加計との恐ろしいほどお粗末な関係が、現に存在すると言う現状を考えれば、日本は、エモットの言うようにイタリア並の政治的後進国だと言うことであろう。
   
   それ程、遠くない過去において、イタリアは、人も羨むダイナミズムと急速な経済成長を謳歌して発展し続ける経済大国であったのだが、一気に、最も硬直的な経済に転落してしまって、今や、EUでは、ギリシャに次ぐ深刻な問題国家に成り下がってしまった。
   イタリアは、日本と同様に、ダイナミズムと進歩的で開かれた「グッド・イタリア」と、反面、利己的かつ閉鎖的で、保守的な力があり、腐敗と犯罪行為を行う「バッド・イタリア」が共存しているのだが、1990年以来、「バッド・イタリア」が、強力となり優勢となって、イタリアをスポイルしてしまったと言うのである。

   ビル・エモットは、第1章で、今回のイタリアの経済苦境を更に複雑化している要因として、3点を挙げている。
   一つ目は、政府の大半の指導者が汚職のために裁判にかけられ、主要政党が崩壊すると言う政治危機を経験し、新たな政治上のくらい道に、夢遊病の様に入り込んだベルルコーニによる膨大な富とメディの力の合体。
   二つ目は、1990年以降、持続不可能な膨大な政府債務の重荷を積み上げてきていたにも拘わらず、真実を語らずに対処しなかった広範な失敗と責任。
   三つめは、当初の経済危機は、イタリアだけの問題だったが、20年後に、単一の通貨を共有するユーロ圏全体に関連してしまったこと。

   あの鉄の女サッチャーでさえ、イギリスを改革するのに、多くの既存利益団体や抵抗勢力と戦うのに、10年もかかったのであるから、それよりはるかに混迷が深まり複雑に錯綜した腐敗度の高いイタリアを、どのようにして再興させるのか。
   ビル・エモットは、最終章で、グッド・イタリアの覚醒のために、国有企業の民営化、二大政党制への移行、若者の負担を減らす労働法の改正、事業拡大を促す司法制度の改革、男性支配社会からの脱却、反トラスト法よりも既得権の粉砕、大学改革等々、果敢に、再生への処方箋を提言している。

   この本がイタリアで読まれているのかどうか分からないが、イタリアは、世界を制覇したローマ帝国を築き上げ、壮大なルネサンスを開花させた世界一の文化文明国であった筈。
   メディチが、フィレンツェを文化文明の十字路にして超一級の学者や芸術家を糾合して、輝くばかりの学問芸術の中心地として、人類の歴史を高みに昇華させた偉大な足跡を残した故地である。
   眠っているとは言え、創造性豊かでイノベイティブなDNAが内在している筈であり、ビル・エモットの言うように、イタリア人としてのアイデンティティを確立することであろうと思う。
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国立演芸場・・・十一月国立名人会

2017年11月27日 | 落語・講談等演芸
   今月の「第413回 国立名人会」は、トリが上方落語の鶴光、東京ベースながら、上方落語と言うためかどうかは分からないが、いつもなら、早々にソールドアウトとなる「国立名人会」なのだが、直前まで、満員御礼ではなかった。
   私など、上方落語であるから、文句なく真っ先に予約を入れ、あの映画「後妻業の女」のバッタ屋のおやじの何とも言えない惚けた雰囲気を味わいたくて、楽しみながら出かけたのである。
   プログラムは、次の通り。
   落語「子ほめ」   立川談洲  
   落語「紋三郎稲荷」  柳家小せん
   落語「反対俥」      立川生志
   落語「一人酒盛」    柳家小里ん
        -仲入り-
   落語「愛宕山」      三遊亭 笑遊
   曲芸               ボンボンブラザース
   上方落語「竹の水仙」 笑福亭鶴光

   鶴光は、開口一番、客席を眺めて、「高齢化社会だんなあ」。
   女は長生きするので、奥さんを大切にせなあかん、運転手や、ウンソウ、ハイソウ。
   高齢化社会になると、脚光を浴びるのは、落語家で、定年がない。
   門戸は解放されているが、大切なことは、師匠を選ばなあかん、と言って、入門時代の逸話を語り始めた。
   入門の時、当時の四天王の一人松鶴に決めたのだが、直接訪問せずに、「入門を認めるなら○、認めないなら×」と書いて送ってくれと往復はがきを郵送した。勿論、返信など来るはずがないので、直接松鶴を訪れて弟子入りを直訴したのだが、師匠たる人物の名前の笑福亭の「笑」が「松」に誤っていたので、ドアホ!と怒られた。しかし、その時来ていたチラシも同じ間違いをしていて、プロでもこうだからと言うことで入門を許されたと言う。
   ところが、師匠の松鶴は、秋田の👹のような厳つい顔。母に、顔の怖いのは心が優しいと言われたのだが、心も顔と同様に酷く、絶対服従で、一寸したことでも殴られ続けて苦難の連続。
   面白いのは、青いマジックを買って来いと言われて、空色を買って帰ったら空色やないか、紺だと思って買って帰ったら空色が濃いだけやないかと言って拒絶したので、困って店主に言われて青系統のマジックを全部持って帰ったら、選んだのは、グリーン。これは、緑でんがな、と言ったら、信号は、あれが青やないかえ、と言ったと言う。

   こんなマクラを語っていたので、本題の左甚五郎の人情噺「竹の水仙」が長いのかと思ったら、端折ってはいないが、ほぼ、時間通り30分で終わった。
   3年前の年末名人会で、歌丸の「竹の水仙」を聴いているのだが、この時は、
   歌丸は、甚五郎の修業時代から、竹の水仙を献上して宮中よりひだり官の称号をうけた話や、三井家から運慶の戎像の対として大黒像の彫刻を依頼されて、その手付金30両で、今回の旅の序奏となる江戸への旅に出立する話など、40分しみじみとした味わい深い話術で楽しませてくれた。

   左甚五郎を主人公にした落語は、他に、「ねずみ」「三井の大国」がある。
   「ねずみ」は、歌丸で一回聴いており、正蔵でも二回聴いており感激したのだが、「三井の大国」は、まだ、聴く機会がない。
   信じられないような姿の立ち居振る舞いで現れる甚五郎が、素晴らしい彫刻を彫って感嘆させると言う心温まる人情噺であり、可笑しみ笑いと言うジャンルの落語ではないが、実に味があって、私は、この方が好きである。
   鶴光の「竹の水仙」は、同じ話でも、歌丸とは随分ニュアンスも語り口も違ってはいるのだが、大阪弁の上方落語としての味があって、それなりに、楽しませて貰った。

   柳家小里んの「一人酒盛」は、酒乱の酒好きが、客に上がりながら、主人にカンをさせて、一人で酒を飲みながら独り言を延々と語る話で、よくこれだけ、次から次へと酒飲みでしか分からないような御託を並べられるなあと思って、感心しながら聴いていた。
   その老成した顔の表情や仕草が、親しかった同僚に生き写しで、懐かしさも加わって、しみじみとした感慨に耽っていたのだが、話術の冴えも勿論だが、噺家としての年輪と年季の深さを感じて感動して聴いていた。
   この話、上方落語のようで、鶴光の師匠六代目松鶴の十八番だったと言うのだが、まだギラギラしている鶴光には、向かない話かも知れない。

   三遊亭笑遊の「愛宕山」も上方落語だったようだが、
   京都の旦那と幇間が、愛宕山参りをして、「かわらけ投げ」をした旦那が、かわらけの代わりに、懐から小判を30枚取り出したて投げたので、拾ったらやると言われた幇間の一八が、傘を広げて飛び降りて金を拾い、長襦袢を裂いて縄を綯い、その先に石を結わえ、谷の斜面の大きな竹の上部めがけて投げて縄を巻きつけて引っ張り、旦那たちが待つ崖の上に着地すると言う奇想天外の話。
   オチは、「小判はどうした?」「あああ…忘れてきた」

   落語「反対俥」を語った立川生志は、持ち時間が25分だが、話は10分で終わるのでと言って、マクラに、大宰府で多少縁があると言って、日馬富士のことどもについて語っていた。
   「反対俥」は、上野駅に行きたい客が、無茶苦茶老いぼれた車夫と、無茶苦茶威勢が良くて速い車夫の俥に乗って駅に向かう話で、後者の俥では、障害物に出くわして何度も飛び上がるので元気な噺家でないと語れない噺だと言うのが面白い。
   上野を通り過ぎて遠くまで行ってしまうので、終電に間に合わず、オチは、「大丈夫、始発には間に合いますから」ということのようだが、生志のオチは、青森の弘前まで行ってしまい引き返して上野について、「どこまで行くのか」「弘前まで」
   とにかく、この噺も、奇天烈は噺であった。
 
  柳家小せんの「紋三郎稲荷」 は、初めて聴く噺で、
  駕籠屋に「紋三郎稲荷」の狐と間違えられた牧野家の家臣の山崎平馬が、松戸宿本陣でも騙し通して、夜明けを待たずにこっそりと江戸へ出立。祠の下から2匹の狐が出てきて平馬の後姿を見送り、「へぇ~。人間は化かすのがうめえや」 


    前座の立川談洲は、お馴染みの「子ほめ」。
    パンチが聞いていて、若さが光っていた。

   私は、まだ、繁華街の寄席には行ったことがないのだが、国立劇場の名人会は、よくプログラムされていて、いつも、楽しませて貰っている。    
   
   
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国立劇場・・・歌舞伎「坂崎出羽守」「沓掛時次郎」

2017年11月26日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   11月の国立劇場の歌舞伎公演は、次のとおり。

   山本有三生誕百三十年 山本有三=作 二世尾上松緑=演出
   坂崎出羽守(さかざきでわのかみ) 四幕
       
   長谷川伸=作 大和田文雄=演出
   沓掛時次郎(くつかけときじろう) 三幕
      
   二演目とも、新作歌舞伎で、新国劇を観ているような感じで分かり易く、ストーリー展開も現代感覚で進行するので、ストレートに楽しめてよい。

   「坂崎出羽守」は、
   大坂夏の陣での大坂城落城の時、家康(梅玉)から千姫(梅枝)を救出した者に、千姫を嫁がせると言われて、猛火の中から決死の覚悟で千姫を救い出し、顔に火傷を負った坂崎出羽守(松緑)だったが、千姫を江戸へ護送する途中、桑名の七里渡しの船中で、千姫は、本田平八郎忠刻(亀蔵)を見初めて、家康は約束を反故にして、平八郎に輿入れさせることになったので、千姫の嫁入り行列を目の当たりにして、憤懣やるかたなく慙愧の思いで行列へ乱入して、意を決して切腹すると言う悲惨な末路を辿る悲劇である。
   千姫を護送する船中で、何事も優れた本多平八郎に嫉妬心を抱いて対抗意識を燃やす姿が行く末を暗示しつつ、
   坂崎を憎んで平八郎に恋に落ちた千姫に手を焼いた家康が、対策を金地院崇伝(左團次)に依頼して、困った崇伝が、千姫が出家すると偽って、坂崎を諦めさせたのだが、尼になるはずの千姫が本多家に輿入れすることになったので、行列に乱入して、「今夜にも討手の者が向かうであろう。そうしたら、この火傷の首を上使の者に渡してやれ」と悔しさを滲ませながら、静かに切腹の座に就き、幕が下りる。

   この千姫事件については、諸説あって定かではないのだが、山本有三は、逸話を取捨選択して、素晴らしい創作劇を生み出し、武士としての坂崎出羽守の悲劇的な生き様を浮き彫りにしていて感動的である。
   天下人の家康と孫娘の千姫との関係は、現在のファミリー関係と全く変わらない会話が交わされていて、結構モダンであり、
   船中での坂崎出羽守に対して、千姫救出と言う勲功を鼻に掛ける嫌な奴と言った感じで、小姓や家来たち、千姫の対応が露骨に表現されていて、面白い。
   良識派の家臣三宅惣兵衛(市村橘太郎)と、主君思いの熱血漢松川源六郎(歌昇)が、坂崎を思って働きかける忠臣ぶりが、せめてもの救いであろうか。

   この舞台は、松緑あっての芝居。
   メリハリの利いた松緑の一世一代の大芝居で、全力投球の演技が光っている。

   「沓掛時次郎」は、
   一宿一飯の義理で、已む無く六ッ田の三蔵(松緑)を斬った博徒の沓掛時次郎(梅玉)は、博徒たちに命を狙われた三蔵の女房おきぬ(魁春)と息子の太郎吉(市川右近)を助けて旅に出る。
   中仙道熊谷宿で、極寒の中を、時次郎は、貧乏に泣きながら、おきぬと太郎吉を連れて門付けをして回っていたのだが、やがて三蔵の子供を宿す身重のおきぬが病床に就いたので、博徒の世界から足を洗った時次郎だったが、貧苦に迫られて金策のために、密かに喧嘩の助っ人を引き受て、産気づいて苦しむ姿に後ろ髪を惹かれながら、必ず無事に帰ってきて欲しいとすがる病床のおきぬを残して出かけて行く。
   無事帰ったものの、赤子諸共おきぬは亡くなってしまっていて、時次郎は、太郎吉を連れて再び旅に出る。
   母恋しく泣く太郎吉に向かって、時次郎は、おきぬを追慕し、「俺も逢いてぇ、逢ってひと言、日頃思ってた事が打ち明けてえが―未来永劫、もうおきぬさんにゃ逢えねえのだ 」と哀愁を漂わせまて慨嘆する。
   真人間になって幸せを掴みかけていた時次郎の悲しい恋の終わりであった。

   沓掛時次郎、名前だけは知っていたのだが、この歌舞伎を見る限り、実に、感動を呼ぶ渡世人、博徒である。
   ローマの傭兵と同じように、雇われれば私情を排して、その使命を全うすべく、全く恨みも辛みも勿論なければ、何の関りもない三蔵を殺害せねばならず、妻子まで殺そうとする博徒の非情に激怒して、今わの際の三蔵に頼まれて、愛情を感じて、おきぬと太郎吉を守り抜く。
   おきぬと時次郎のなさぬ恋ながら、抑えきれない思慕と慕情、梅玉と魁春の兄弟役者であることを忘れさせる、しみじみとした人情と純愛の疼きが、感動を呼ぶ。
   こう言う芝居になると、流石に、歌右衛門の後継者、実に上手い。
   松緑の長男・太郎吉を演じた左近の成長が著しい。
   
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「相曽賢一朗&濱倫子デュオ・リサイタル 」を聴いて 

2017年11月25日 | クラシック音楽・オペラ
   恒例の相曽賢一朗の秋の日本公演は、「 相曽賢一朗&濱倫子デュオ・リサイタル」。
   会場は、「浜離宮朝日ホール」、室内楽には格好の劇場であった。  

   プログラムは、
   相曽賢一朗(ヴァイオリン) 濱倫子(ピアノ)
   曲目・演目:
     ベートーヴェン:ヴァイオリンソナタ第1番ニ長調作品12-1
     ブラームス:ヴァイオリンソナタ第2番イ長調作品100
          インターミッション
     イザイ:無伴奏ヴァイオリンソナタ第3番ニ短調「バラード」作品27-3
     シューベルト=リスト:水車職人と小川「美しき水車屋の娘」より 
        愛の便り「白鳥の歌」より(ピアノソロ)
     ブラームス:ヴィオラソナタ第2番変ホ長調作品120-2

   予告のプログラムを変更して、ブラームスのソナタを前後に入れ替えて、アンコールには、実に情感豊かな、天国からの音楽の様に美しい「アベマリア」を奏でて、観客を魅了した。
   ヴァイオリン・ソナタは、聴く機会があったような気がするが、ヴィオラ・ソナタ 第2番は、初めて聴いたが、二人の奏者の演奏が素晴らしく、福与かなサウンドが心地よい美しいソナタであった。
   スークとパネンカなどのCDがあるようだが、聴いてみようと思っている。

   私自身は、欧米中心に、かなり、長い間、集中してクラシック音楽やオペラの鑑賞のために劇場に通っていた。
   最初に、フィラデルフィア管弦楽団のシーズンメンバーチケットを買って、アカデミー・オブ・ミュージックに通い続けていた時に、巨神戦は、やはり、後楽園か甲子園で見てこそだと言う思いになったことがあり、アムステルダムに移ってから、コンセルトヘボウでのハイティンクの演奏はまさに格別であり、オペラは、その土地のオペラハウスで聴く至上の喜びを味わった。

   うまく表現できないが、これに近い感慨と言うべきか、相曽賢一朗のコンサートを聴いていると、彼の場合の音楽の教育と演奏の大半は、米国から英国、最近では、米国と殆ど活躍の場は、欧米であり、日本主体のクラシック演奏家と違って、その音楽を生み育んだ故郷の命の叫びや息吹などが濃厚に息づいていて、正統派の厳しさ奥深さが滲み出ているような気がして、実に感慨深いのである。
   しかし、その相曽賢一朗が、春の海の尺八パートを、あの不安定ながらかすれた尺八のサウンドそっくりにヴァイオリンを奏でて居たのを覚えており、それは、宮城道雄とシュメーの「春の海」同様に感動的であった。
   若い頃、相曽賢一朗と話していて、彼が、徹頭徹尾、日本男児の誇りと自負を胸に秘めて、ロンドンで、最高峰の学び舎で最高の成績を上げるべく、必死になって奮闘努力していたことを知っているので、正に、相曽賢一朗の紡ぎ出す音楽には、和魂洋才とはニュアンスが大分違うものの、日本人演奏家として、しかし、日本人離れした欧米の魂と文化、風土の香りを濃厚に体現したクラシックサウンドが息づいている。
   この絶妙なバランス感覚と豊かな感受性と感性が、相曽賢一朗の音楽を限りなく素晴らしいものにしているのである。

   日本での演奏機会が限られているので、これだけの凄い相曽賢一朗サウンドを、十分に鑑賞できないのは、非常に惜しいと思いながら、2時間の貴重な時間を楽しませて貰っている。

   さて、濱倫子のピアノは、初めて聴くのだが、
   相曽賢一朗と同じ東京芸大で学び、渡独して高度な音楽教育を受け、現在、ドイツを中心にヨーロッパで活躍しており、
   ”その演奏は「見事に浮遊する歌心」「魅了されずにはいられないその深さ、そして信じられないほどの明晰さ」「濱倫子はピアノを弾くことが出来るだけではない。彼女はピアノを歌うことが出来るのである」など、ヨーロッパの各紙でも高い評価を受けている。”
   と言うことで、相曽賢一朗と同様に、ヨーロッパベースで活躍する演奏家である。
   美音で定評のある相曽賢一朗の紡ぎ出すサウンドと共鳴すると、ヴァイオリンやヴィオラのソナタが、多くの物語を連綿と語り続けて、生きる喜びと感動を、かくまで、豊かに美しく歌いあげることができるのか、正に、至福の境地であった。

   来年11月に、東京文化会館で、再び、「相曽賢一朗&濱倫子デュオ・リサイタル」が公演されるとのことで、楽しみにしている。  
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「井上道義&村治佳織 with 都響」を聴いて

2017年11月23日 | クラシック音楽・オペラ
   大田区民ホール・アプリコで、「井上道義&村治佳織 with 都響」があったので、出かけた。
   久しぶりに、村治佳織のギターを聴いて、「アランフェス協奏曲」を聴きながら、スペインの思い出を反芻したいと思ったのである。
   何度か、仕事や家族旅行で、スペインを訪れていたので、このギター協奏曲を聴いていたく感動したのを覚えている。

   本日の「井上道義&村治佳織 with 都響」は、

   指揮/井上道義 ギター/村治佳織
   曲目
   ロドリーゴ:小麦畑で(ギター・ソロ)
   ロドリーゴ:アランフェス協奏曲
   チャイコフスキー:交響曲第5番 ホ短調 op.64
   アンコール:フランシスコ・タレガ:アルハンブラの思い出
   
   随分前のことになるが、ロンドンにいた時、指揮者は、コリン・デイヴィスだったか、チルソン・トーマスだったか、誰だったか覚えていないが、ロンドン交響楽団で、ジュリアン・ブリームのアランフェス協奏曲を聴いた。
   その次に聴いたのは、6年前の都響定期で、アラン・ブリバエフの指揮で、この村治佳織の「アランフェス協奏曲」そのものであった。
   村治佳織は、2013年7月22日、舌腫瘍に罹患していることを公表し、治療のために長期休養に入っていたが、今回は、全快しての復帰公演で、初めて、井上道義との共演が実現したと言うのだが、益々、円熟味の増した艶のある感動的な演奏で、観客を魅了した。

   切戸から颯爽とギターを持って現れた村治佳織は、グリーンがかった濃いシックなコバルトブルーの腰がキュッとしまった丸首のゆったりした衣装に、白いバレリーナ風のふんわりとしたスカートを身に着け、三連の真珠の首飾りが微かに光る、短く切りそろえた髪型が実に優雅で、(このあたり、知識不足で上手く表現できないのだが)、とにかく、実に美しいのである。
   殆ど終曲に及び始めた頃、左足をベンチに置いてギターを抱えて夢心地で華麗なサウンドを奏でる村治佳織の姿が、弁財天の彫像に重なったような錯覚を覚えて、はっとした。
   前方、やや、右手の座席にいたので、都響楽員の演奏よりも、村治佳織のギター演奏と、華麗な井上義道の指揮ばかりを観ていたのだが、曲そのものは、イエペス(ナルシソ) やウィリアムス(ジョン) のレコードやCDを聞き込んでいたので、正に、懐かしさを反芻しているような感じで聴いていた。

   私は、クラシック音楽ファンとして、殆ど半世紀で、欧米を含めて随分コンサート行脚を続けてきたが、音楽については、音楽の”お”も分からない程音楽音痴だが、その音楽を聴くと、偶々、海外経験が長いので、その背景の風土や故地への思いなど、想像の世界で鑑賞しようとしてしまう。
   
   アンコールで、タレガの「アルハンブラの思い出」を演奏した。
   アランフェス協奏曲もそうだが、このギターの音を聞くと、色々な苦衷に喘ぎながら激しくも奮闘していたヨーロッパ時代を思い出して、何故か、無性に胸を締め付けられるような郷愁に似た気持ちに襲われて、不覚にも、つい涙してしまう。
   実際に、企業戦士として戦っていたのは、英仏蘭なのだが、私には、何故か、スペインの風土が無性に郷愁を誘う。
   このアルハンブラには、何度か訪れており、このグラナダからコルドバまでタクシーで走ったり、コルドバからマドリードまでTEEに乗ったり、マドリードからサラマンカやセゴビアまで車で走るなど、田舎を見る機会があったし、都会もそうだが、とにかく、スペインは、他のヨーロッパとは違った異様な地形やエキゾチックな風景が随所に展開していて、たまらなく、胸に迫るものがあった。

   全く、関係ない話ながら、
   信じられないのだが、アフリカに近いグラナダの背後のネバダの山の中で、「ドクトルジバゴ」の極寒のシベリアのシーンのロケをしたと言う。
   南アメリカを征服して、金銀財宝を無尽蔵に持ち込み世界最強の国家として君臨しながらも、経済発展を遂げられないような体たらくの後進国に成り下がったスペイン。
   米国や南米にいたので、よく知っているが、スペインの中南米に残した足跡の凄さを思えば、スペインのチグハグぶりは、驚異ででさえある。
   今、バルセロナで揉めているが、私は、そんなスペインが、無性に好きなのである。
   
   さて、井上道義の「チャイコフスキー:交響曲第5番 ホ短調 op.64」
   凄い演奏で、指揮者会心の演奏とも言うべき素晴らしいチャイコフスキーであった。
   ギター協奏曲では、華麗にタクトを振っていた井上が、この5番になると指揮棒なし。
   とにかく、握りこぶしを振り上げて仁王立ち、激しくロコモティブの様に腕を前後に振り回したり・・・激しい全身運動で指揮を取るのであるから、指揮棒があっては、指揮できるはずがない、と言うことであろう。
   しかし、終曲に近くなり、ダイナミックに移り始めると、穏やかな指揮姿に戻って、都響を頂点に導いて歌わせていた。
   以前、カラヤンが、ベートーヴェンの運命の指揮途中で、指揮棒が折れて吹き飛んで、その後、指揮棒なしの華麗なタクト裁きを続けた演奏会を見たことがあるが、最近では、小澤征爾もそうだが、指揮棒なしで演奏する人が多くなった。
   これも、井上とは違って、昔、エルネスト・アンセルメが、殆ど指揮棒を振らずに直立不動に近い姿勢で、スイスロマンドを華麗に歌わせていたのを見たが、指揮者夫々であって面白い。

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顔見世大歌舞伎・・・「夜の部」

2017年11月22日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   顔見世興行だけあって、昼夜とも、歌舞伎座のプログラムは豪華である。
   この日観たのは、「夜の部」で、演目は次の通り。

   仮名手本忠臣蔵 五段目 六段目
   山崎街道鉄砲渡しの場
   同   二つ玉の場
   与市兵衛内勘平腹切の場
    早野勘平 仁左衛門
    女房おかる 孝太郎
    斧定九郎 染五郎
    千崎弥五郎 彦三郎
    判人源六 松之助
    母おかや 吉弥
    不破数右衛門 彌十郎
    一文字屋お才 秀太郎

   恋飛脚大和往来 新口村
    亀屋忠兵衛 藤十郎
    傾城梅川 扇雀
    孫右衛門 歌六


   真山青果 作 真山美保 演出
   元禄忠臣蔵 大石最後の一日
    大石内蔵助 幸四郎
    磯貝十郎左衛門 染五郎
    おみの 児太郎
    細川内記 金太郎
    吉田忠左衛門 錦吾
    赤埴源蔵 桂三
    片岡源五右衛門 由次郎
    久永内記 友右衛門
    堀内伝右衛門 彌十郎
    荒木十左衛門 仁左衛門

   仮名手本忠臣蔵の五段目六段目については、仁左衛門と孝太郎、秀太郎が出演するので、上方バージョンの舞台を期待したのだが、そうではなく、決定版となっている五代目菊五郎の編み出した音羽屋型であった。
   勘平が猪に向かって打つ二つ玉についても、与市兵衛の殺害シーンについても、勘平が切腹の時に、「色にふけったばっかりに」で血糊で顔を汚すところも、浅葱の紋服に着替えて切腹するところも、江戸バージョンであったように思う。
   浅葱の紋服に着替えるところは、13代仁左衛門も、その方が良いと言うことで上方版でも取り入れており、仁左衛門が、多少江戸版に傾斜しても、不思議はないのだが、前に観た舞台では、多少、折衷版に近かったような気がするのだが、記憶は定かでないので分からない。
   いずれにしろ、私は、仁左衛門、と言うよりは、松嶋屋の仮名手本忠臣蔵なら、上方版を観たかったので、残念であった。

   本格的な上方版の五段目六段目を観たのは、5年前の四月の歌舞伎座公演で、猿之助が亀治郎の頃の舞台で、亀治郎の勘平に、いたく感動した。
   藤十郎の「鴈治郎芸談」で、
   江戸版と上方版の主要な違いは、勘平の人間像の解釈の差で、浅葱の紋服に着替えて応対し、形容本位に運び、武士として死んで行く音羽屋型に対して、上方はすべて丸本本位で、武士に戻りたい一心の勘平が、ついに武士に戻れないままに死んで行く哀れを描くことに力点があるのだと言う。
   おかやが、紋服に着替えようとする勘平の紋服を取り上げて許さず、はじめて、死に行く勘平の後ろからおかやが武士の象徴である紋服をかけてやることによって、死んで初めて、武士の姿に戻れたと言うことであろうか。

   音羽屋型で、最も脚光を浴びる一場面は、仲蔵が編み出した斧定九郎(染五郎)が、与市兵衛を殺害して50両を奪い勘平の弾に当たって死ぬ一連のシーンで、黒羽二重の着付け、月代の伸びた頭に顔も手足も白塗りにして破れ傘を持つという拵えにしたので、絵の様に様式的で絵画的な舞台となり、これまでに、海老蔵や松緑など若手の名優の格好良い芝居を楽しんでいる。
   しかし、この定九郎の与市兵衛の殺害場面は、丸本踏襲の文楽の舞台では、もっと泥臭い人間的な芝居が演じられており、私は、この方が面白いと思っている。

   いつも、この舞台を観ていて、勘平が、一応、定九郎の懐の財布をそのままにしてその場を去って、もう一度現場に帰って財布を取って、その金50両を持って、京へ向かう千崎弥五郎(彦三郎)に追い付いて手渡す、すなわち、他人の金を着服して、仇討に加わろうとする、このことに対する罪の意識が、作者にはなかったのかと言う疑問を感じている。

   この時の50両を包んだ財布だが、終幕に近い泉岳寺での「早野勘平の財布第二の焼香」のシーンで、
   一番焼香は、柴部屋から師直を見つけ出した矢間十太郎重行だが、二番焼香に押された由良之助が、懐中より、碁盤目の財布を取り出して、「これが忠臣第二の焼香。早野勘平がなれのはて。」と言って、勘平の死の経緯を語って、六段目の勘平切腹の場で、自分の指示で、折角の拠金を、数右衛門と弥五郎に突っ返させたことについて、さぞ無念であろう口惜しかろう、ふびんな最期を遂げさせたのは、由良之助が一生の誤り、片時忘れず肌身離さず、今宵夜討ちも財布と同道。と語って、妹婿の平右衛門に焼香を命じる。
   財布を香炉の上に着せ、「二番の焼香 早野勘平重氏」と、高らかに呼ばわりし。声も涙にふるはせれば、列座の人も残念の、胸も、張り裂くばかりなり。
   となるのだが、尤も、あの六段目のストーリーがなければ、この場面も生きてこないのだが、しかし、いつも引っかかってはいる。

   「恋飛脚大和往来 新口村」は、近松門左衛門の世界。
    亀屋忠兵衛の藤十郎と傾城梅川の扇雀のコンビは、望み得る最高のキャスチングであろう。
   絵のように美しい詩情あふれる情感たっぷりのシーンの連続。
   孫右衛門の歌六が、哀切極まりない心情をギリギリまでセーブしてしみじみとした老父を演じて泣かせる。
   曽根崎心中など近松門左衛門の文楽の死への道行きシーンもそうだが、美しくも切ない男女の慟哭忍び泣きが走馬灯のように絵になった舞台は、上方の和事の世界であろうか。

   真山青果 作 真山美保 演出の「元禄忠臣蔵」は、どの舞台を、何時観ても感動する。
   「大石最後の一日」は、浪士の磯貝十郎左衛門とその許婚のおみのの純愛が、最も感動的なサブストーリーだが、
   吉良家の家名断絶を聞き満足し、初一念を貫きとおした内蔵助は、従容として威儀を正して切腹の場へ歩みゆく。
   幸四郎のこの舞台を何回観たか、とにかく、決定版であろう。
   磯貝十郎左衛門の染五郎は、幸四郎襲名の前哨戦で上手いのは当然だが、おみのを演じた児太郎が、実に感動的な舞台を見せて秀逸である。
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わが庭・・・椿タマグリッターズ咲き始める

2017年11月21日 | わが庭の歳時記
   玉之浦を改良して、アメリカのヌチオズナーセリーで作出された八重牡丹咲きのタマグリッターズが、咲き始めた。
   昨年より遅れたようで、今年は、花付きも少し少ない感じである。
   玉之浦の変種は、何種類か植えてあるのだが、今年は、タマアメリカーナが色づき始めており、後、蕾をつけているのは、たまあけぼのくらいである。
   花弁の先端が白覆輪の椿に愛着を感じて、千葉では、最初に、玉之浦を植えた。かなり、大きくなったら沢山花を咲かせて、落ち椿が豪華であった。
   
   
   
   もう一つ、三河雲竜が咲き始めた。
   まだ、随分小さな、地面を這うような雲竜型の苗木で、鉢植えである。
   侘助椿のような花弁をしている。
   ハイカンツバキも、今盛りである。
   椿ではなく、山茶花のようだが、こじんまりとしているので、庭木にしている。
   
   
  
   面白いのは、先日咲き始めた久寿玉だが、次に咲いた花は、似ても似つかぬ淡いピンクの八重咲椿である。
   奈良市の白毫寺の椿が有名だが、五色椿があって、一本の木に、淡いピンクにピンクの縦絞りで、白色や紅色、白覆輪など変わった花弁が咲くので、絞りや斑入りなどが、消えることも結構あって、花の装いの微妙な変化を楽しめるのもよい。
   
   

   さて、やつでの花、線香花火のようで綺麗である。
   しかし、昔から便所の傍に植えられていることが多いので、アオキ同様に、イメージが悪いのだが、私は、気にならず、適当にアクセントとして植えている。
   実を小鳥が食べて種を運ぶので、庭のあっちこっちに自生して、成長が早いので、すぐに存在感を示す。
   子供の頃、水鉄砲の玉として、重宝したのを思い出す。

   
    

   さて、秋を感じさせるのはキク、ススキ。
   ゆずも色づき始めた。
   
   
   
   
   
   
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映画・・・「海賊とよばれた男」

2017年11月19日 | 映画
   見損なっていた映画「海賊とよばれた男」を、WOWOWで録画して見た。
   沢山映画を録画していても、見ることは殆どないのだが、この映画は、珍しく、途中で途切れず最後まで見た。
   石油の輸入・精製を手がける大手石油会社ながら、外資参入を拒否して民族資本で押し通した出光興産の創業者の出光佐三をモデルとした映画で、主人公国岡鐡造(岡田准一)の波乱万丈の人生と、時代の奔流にかく乱されて浮沈を繰り返す国岡商店の発展成長を活写した素晴らしい映画である。

   悲惨な戦争が終わって廃墟と化した東京の焼け残った建物の中で、生き残った僅かな社員を前にして、鐵造が、「愚痴をやめよ、愚痴は亡国の声である。戦争に負けたからと言って、大国民の誇りを失ってはならない。すべてを失おうとも、日本人がいるかぎり、この国は必ずや再び立ち上がる日が来る」と檄を飛ばして社員を鼓舞し、「誰も首を切らない」と解雇拒否を宣言する。この感動的なシーンから、この映画は始まる。

   神戸高商を出ながら、従業員3人の神戸の酒井商会に入って丁稚として大八車に小麦粉を積んで神戸の町を歩くと言うのも驚きだが、鐵造の商売魂に共鳴した資産家・日田重太郎(近藤正臣)が、京都の別荘を売った大金・6000円を無償で提供すると言う信じられないような奇跡が、鐵造の起業をサポートする。
   下関の漁業会社山神組に軽油を売ることになり、鐵造は、船首に仁王立ちして、社名を染め抜いた大幡を振り回して、伝馬船(手漕ぎ船)を使って船に接舷して、海の上で、山神組の漁船に軽油を納品する。当時、元売りの日邦石油の門司の特約店は対岸の下関では商売をしない販売協定で、下関では売れないのだが、「海の上で売っているので、下関では売っていない。」と言い張って押し通し、黙認をよいことに、関門海峡を暴れて売りまくるので、国岡商会の伝馬線は「海賊」と呼ばれたと言うのである。

   米国石油会社の強烈な圧力にも屈せず、合弁協定を一切拒否して民族資本を守り抜こうとする国岡商店に対して、「セブン・シスターズ」を中心とする国際石油カルテルは、一切の石油供給を停止したので、窮地に直面した国岡商店は、イランに、自社の2万トンタンカーを直接送り込んで、原油輸入を画策する。
   ところが、当時、イランは、悲惨な経済状態から抜け出すために、石油国有化を実施したので、利権を失ったイギリスの国営会社アングロ・イラニアンは猛反発し、イギリス政府は、イランの原油を積んだイタリアのタンカーを拿捕するなど、イランの石油を購入した船に対して、イギリス政府はあらゆる手段で対処すると宣告し、セブンシスターズも、「イランの石油を輸送するタンカーを提供した船会社とは、今後、傭船契約を結ばない」と通告しており、イランに入港するタンカーは皆無であった。

   イランの苦境は、国岡の苦悩であると檄を飛ばす鐵造の意気に燃えた日章丸(盛田辰郎船長(堤真一)は、イランを目指して日本を出港して、歓迎の出迎えでアバダンに入港して原油を積み込むが、帰途は、イギリス軍の基地のあるシンガポール経由のマラッカ海峡を避けて、遠回りしてスンダ海峡経由で日本に向かうのだが、途中で、英国軍船に停船命令を受けて突き当られながらも、無事に、川崎港に入港する。
   この歴史を塗り替えた一連のシーンは、非常に淡白に淡々と描かれているのだが、当時の緊迫した国際情勢を反映していて、正に、感動的である。

   この部分を、銘記するために、ウィキペディの出光佐三から、引用する。
   1953年(昭和28年)5月9日 イラン石油輸入{日章丸事件:日章丸二世(1万9千重量トン)が、石油を国有化し英国と係争中のイランのアバダンから、ガソリンと軽油を満載し、川崎へ入港}。英国アングロイラニアン社(BPの前身)は積荷の所有権を主張し、東京地方裁判所に提訴したが、出光の勝訴が決定し、日本国民を勇気付けるとともに、イランと日本との信頼関係を構築した。このとき、佐三は、東京地方裁判所民事九部北村良一裁判長に「この問題は国際紛争を起こしておりますが、私としては日本国民の一人として俯仰天地に愧じない行動をもって終始することを、裁判長にお誓いいたします。」と答えた。

   この当時の欧米の多国籍企業の帝国主義的な経営戦略と言うか、国家をも巻き込んだ傍若無人の経営姿勢は、正に、利益追求のためには、進出先の経済社会を犠牲にしてでもと言った熾烈なものであった。
   今日、多くの企業が、CSR(企業の社会的責任)に意を用い始めており、企業が追求する経済的価値(利益)と社会的価値を同時に実現する経営戦略を提唱するマイケル・E・ポーターの「CSV(共通価値の創造)」理論などは、いわば、驚天動地、青天の霹靂と言うべきであろうか。
   とにかく、時代は変わったのである。

   振り返ると、私が、ウォートン・スクールで学んでいた時、1970年代前半だが、インターナショナル・ビジネスの授業で、利益送金が困難なメキシコへの進出企業が、米国へ利益を送金するために、中古機械を子会社に送ってコストを水増しして回収すると言った手法など移転所得の問題なども含めて、強烈な米国流のMNC戦略を教えていたように思う。
   それ以前の話であり、アメリカが世界制覇を実現した直後であり、多国籍企業でも最も強力で傍若無人なセブンシスターズ相手の戦いであったから、国岡商店にとっては、如何に熾烈で困窮を極めた戦いであったかは、追って知るべしであろう。
   それに、新規参入を排除したい既存企業や国策会社の嫌がらせ抵抗は、もっと激しかった筈で、この映画では描き切れなかった多くの試練があった筈で、国岡鐵造、すなわち、出光佐三の果敢な経営者魂とその経営手腕に、深く敬服せざるを得ないと思って、映画を見ていた。

   私自身は、日本がJapan as No.1の恵まれた時代に、欧米で戦っていたのだが、それでも、色々苦しいことがあったのを思い出しながら、当時を反芻していた。
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大倉源次郎の能楽普及論に思う

2017年11月18日 | 生活随想・趣味
   先の大倉源次郎師の本で、著者は、能楽普及について、如何にすべきか、熱烈に思いのタケを語っている。
   これについては、全く異存がなく、私もそのようにできればよいと思う。

   画家たちに、税制面で優遇措置を取ったことによってパリが絵画の一大ブームを引き起こして芸術文化の華が咲いたように、能楽の故郷である奈良に住めば、能楽に対する税の控除が得られるなど、奈良で能の主要な活動をして、世界への能楽発信基地にしたらどうか、と言う提言など面白い。

   著者も、「能は難しい」、勿論です。と言っている。
   しかし、そのことにこそ気づき、さらに深めようと志す人と心を育てるのが、教育の現場であり、先人からの本当の文化継承であるべきです。と言って、実際に、小鼓に触れて欲しいと仰る。
   あの能よりも比較的理解しやすい世界文化遺産の文楽でも、文化音痴の大阪府知事後に市長が、補助金を叩き切ってしまった現実を見ても、古典芸能に対する日本人の意識が分かろうと言うもので、現実には、凄い落差がある。

   問題は、能狂言ファン人口を積極的に増やす方策を考えることだと思う。
   国立能楽堂の客席数は、627席。
   国立能楽堂企画の公演で、たったの一回限りの一期一会の舞台であっても、そして、最後は殆ど満員御礼になるのだが、特別な場合を除いて、即刻チケットが完売と言うことにはなっていないし、満席になるのは、この国立能楽堂だけで、他の能楽堂の集客は苦しいと聞く。
   それ程、観能人口は少ない。
   何日も興行を打つ歌舞伎や文楽とは大違いである。

   能が、これだけ昇華されて高度な古典芸能に育った最も重要な要因は、徳川幕府が、能楽を式楽に制定したことである。
   同じような形態は取れる筈もないが、可能なのは、学校教育のカリキュラムの中に、何らかの形で繰り込むことだと思う。
   とにかく、能狂言ファンの裾野を広げることで、鉄は熱いうちに鍛えるに越したことはない。

   いずれにしろ、子供の時に、能狂言の世界を、何らかの形で、叩き込む機会を作るべきだと思っている。
   以前に、子供のテレビ番組で見たが、野村萬斎の「ややこしや ややこしや」を、子供たちが嬉々として演じていた。
   一度、国立能楽堂で、子供たち向けの能狂言の公演に接した機会があるのだが、子供たちは、小鼓や太鼓など、お道具に触れたり、見所で、能楽師に合わせて舞って見たり、とにかく、興味を持って楽しんでいた。
   なんでもそうだが、日本の古典芸能が、如何に大切であっても、感受性の強い子供の時代に、日常生活なり学習の場で、接する機会がなければ、意識の中から脱落するのは当然であるので、チャンスを与えるのは、早ければ早い方が良いと思う。
   子供の能・狂言鑑賞の機会を増やすために、この推進のために、積極的に補助金を出して援助すべきであろうと思う。

   何故、子供の時、あるいは、若い時に、能狂言の世界に接すべきかと言うことについて、私自身の反省がある。
   私が、パーフォーマンス・アーツ、それも、実演に接したのは、20代の中半からで、最初は、クラシック音楽とオペラであり、その後、欧米に出てからは、これに加えてシェイクスピア、そして、20数年前から歌舞伎・文楽と続いている。

   しかし、能・狂言は、まだ、6年弱で浅い所為もあって、随分難しい。
   一応、能楽堂に出かける前には、岩波講座の能・狂言の鑑賞案内と角川の「能を読む」などの解説や詞章を読んでおり、それに、これまでにも、結構、能楽師の著書を読んで周辺知識の涵養には努めている。
   国立能楽堂の企画舞台には、殆ど欠かさず通っているから、他の公演を含めれば、月平均4回は能楽堂に行っている計算であるから、200回以上にはなり、鑑賞した能・狂言は、かなりの数になる。
   それに、私の場合には、大学が京都で、古社寺巡りなど歴史散歩に明け暮れていたので、奈良で生まれて京都で大成した能・狂言の故地や舞台を訪れており、結構知っている。
   それでも、歳を取ってから鑑賞を始めたので、いまだに、狂言は楽しめても能は、非常に難しくて、すんなり、オペラやシェイクスピアのようには楽しめていない。

   謡を習っていたと言う友人知人などがいるので、囃子、または、謡に興味を持って能鑑賞を楽しむ方も多いようで、能狂言ファンの楽しみ方は色々なのであろうが、私の場合には、やはり、舞台なりストーリーを楽しもうと言う姿勢なので、印象が掴み難いのかも知れないと思っている。

   パーフォーマンス・アーツと言っても、鑑賞への姿勢なり仕方なり、随分違っていて、私のように絞らずに何でも劇場に行って観たり聴いたりすると言うものにとっては、それなりに器用さが必要なのであろうと思っている。
   いずれにしても、今現在、一番能楽堂に通っている回数が多いので、歳を取っても、何かの拍子に能・狂言ファンになる人間もいると言うことなのである。
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大倉源次郎著「大倉源次郎の能楽談義」

2017年11月16日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   能楽師の著書は、かなり読んでいるが、殆どシテやワキや狂言方の著者のもので、小鼓の大倉源次郎師のような囃子方の本は初めてであり、非常に興味を感じた。
   何となく、能楽の世界の切り取り方が、違っていて面白いと思った。
 
   私など、国立能楽堂には結構通っており、能は、頼む方からの判断で、指名制だと言うことだが、今や、若き人間国宝であり、絶頂期の大蔵流十五世宗家の大倉源次郎師の舞台をよく見るので、楽しみながら読ませて貰った。

   まず、冒頭、「能の来た道」で、「謎の翁」と言う形で、「翁」の話から始められているのだが、
   能の始まりに演じられる「翁」は、一秒先の未来を笑うための知恵であり、そののち「能」が始まる。
   「翁」が上演される後に、神・男・女・狂・鬼と言った「翁付き五番立て」で過去の物語が上演されるが、その能の演目には、実は悲しい作品が多い。なぜ、悲しい作品が多いかと言うと、泣いた記憶を忘れないために、「泣くようなことをしたらダメですよ」と教えている。
   それが、能の役目だと言ってよく、そして、笑える未来を作りましょうと言うことを語るのである。
   一秒先を笑えるように皆で努力しましょうと、そのために、「翁」を最初に演じると言うことである。と語っている。
   「翁」は、「未来から微笑む姿」で、それは、「弥勒信仰」を下敷きにしているからであり、老人が微笑む姿は、生き神様、生き仏様そのものであり、「翁」の面は、微笑んでいる。と言う。

   面白いと思ったのは、徳川幕府が政権を握ってすぐに行ったのは、参勤交代と能楽を式楽にしたことだと言って、能楽の普及を、施政に活用したと言う話である。
   式楽にして、全国の藩に、能楽団を作らせて能楽師を抱えさせて、藩主たちにそれを習うようにさせて、武士の嗜みにした。
   日本は、地方に行っても、民度が高くて、教養のある神主や僧侶や庄屋と言った知識人がいたので、それらを超えて統治する力を、殿様に与えるために、能の文化と教養を藩主に義務付けた。これが、日本全国を治て行くのに、大変な効果を発揮した。と言うのである。

   なぜ、笛や太鼓が、必要になったのか。
   それは、集団労働となった水田稲作の辛い仕事を、村々から早乙女や若い衆が集まり、囃子に乗って歌を歌い踊るように田植えをすることで、楽しいダンスパーティのようになり、農作業が心躍るイベントと化した。
   桜井は、大和における水田稲作の始まりの地だと言われており、東に下居村と言う鼓の故郷、西に葛城山の麓に笛吹神社があるので頷けると言う。
   稲作の広がりと、翁芸能と、神社の伝播が時代的に重なって、笛や鼓が、それに乗っかって全国に広がって行った。能楽が全国に広がる下地は、中世の時代に、既に出来上がっていたと言うのである。

   「鼓という楽器」と言う章で、鼓の歴史や伝播など興味深い話が開陳されており、非常に面白い。
   鼓のことについてはよく分からないのだが、能は間の芸術だと言うところで、
   能は、音を聴いてもらうのではなく、「間」を聴いてもらうために音を出す。聴く人の心に、次に聴くであろう一番良い音(間)を響かせるための役割である。と言うのだが、分かったようで分からない。

   「旅する能」の章は、まず、能の曲を日本の歴史や地域の伝承などを絡ませながら、その故地や舞台を語る旅物語風の解説で、自説を展開するなど、非常に面白い。
   冒頭、大和を京に繋ぐ物語として、「加茂」を語っている。
   「加茂」の能は、実際は、大和の伝説物語なのだが、京都に移ったのだから奈良を消したいのだが、作者は、本当の物語を残したいので、カモフラージュしたと言う。
   三輪、土蜘蛛、絵馬、と続くのだが、その後の「歴史の謎にせまる能」や「海をわたる能」の蘊蓄を傾けた語りが冴える。
   
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わが庭・・・ジョロウグモの糸張り

2017年11月15日 | わが庭の歳時記
   椿のタマグリッターズの蕾が色づいたので見ていたら、葉裏にぶら下がりながら、ジョロウグモが、長い足を不器用に伸ばして、這い上がろうとしているのに気が付いた。
   長い8本の足を、2~3本を葉に引っ掛けて体を支えて、他の足を上に伸ばして、登ろうとするのだが、長い足の先の引っ掛けがうまく行かないので、何度も同じ動作を繰り返しており、ダメだと分かると方向転換する。
   観ていてまどろっこしいのだが、クモにとっては、ルーティンワークなのであろう。

   ところで、蜘蛛の糸が張られているのは、このように高さ1メートル一寸の低いところではなく、もっと高いところの筈なので、この椿から下りて、隣の高いところへ上って行くのであろうか。
   それにしても、このひょろひょろ足では、そう簡単に移動できるとは思えない。
   しかし、生きるためには、無駄な動きをする筈もなく、庭には、立派に、幅2メート以上の大きな巣が張られている。
   

   気づかなかったのだが、後で、写真を見ると、蜘蛛の尾の先端や足の先から、白い糸が伸びている。
   後で、ところどころ、葉の端に糸が絡んで、次の枝の葉っぱまで、糸が張っているのが分かった。

   蜘蛛は移動する時には、必ず「しおり糸」という糸を引いて歩くと言うことで、網を張っているのだけではないようである。
   私など、邪魔になって、よく蜘蛛の網を壊すのだが、網から落ちる時に、エレベーターの様に、糸を引いてゆっくりと落ちて行くのは、この糸のためであろう。
   
   

   以前、千葉に住んでいた時に、わが庭に、大きな蜘蛛が網を張っていた。
   2階の廂から、5~6メートルも離れた庭の楠に糸をかけ渡して、その間に網を張っていたのである。
   昔、蜘蛛は、風に吹かれて、その反動で揺れに乗って、別の高みに達して糸を引くのだと聞いていたので、そうだろうと思ったものの、人間でさえ梯子をかけても厄介なところに、どうして、糸を繋げられたのか、今でも、不思議で仕方がない。

   いずれにしろ、子供の時に、宝塚の田舎で、蜘蛛の網を張っている様子を見ていたことがあるのだが、わが庭のこの小さなジョロウグモの張った蜘蛛の巣は、中々精巧にできていて立派である。
   蜘蛛でさえ、この巧手ぶり、
   昔、パラグアイのチロルで、素晴らしいレンガ造りのホテルを訪れた時に、このホテルは、ドイツ移民の素人が作ったのだと言われて、びっくりしたことがあるのだが、創造主の偉大さを垣間見た思いである。
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自動運転はグーグルの世界なのであろうか

2017年11月14日 | 経営・ビジネス
   ジョン・マルコスの「人工知能は敵か味方か」を読んでいて、当然のことだと思うのだが、自動車は、最早、自動車メーカーが主導権を握れる産業ではなくなったのではないかと気づいたのである。
   電気自動車が脚光を浴び始めると、イーロン・マスク率いるテスラモーターズが、一気に、躍り出たを見ているので、驚くことはないのだが、基幹産業である自動車産業さえも経営コンセプトが大きく変わる時代となったと言うことである。
   グーグルが開発を進めている自動運転によって、カメラがパソコンの周辺機器に成り下がってしまったように、自動車メーカーも下請けになってしまう可能性があると言うことである。

   異なる事業構造をもつ企業が、全く異なるルールで、同じ顧客や市場を奪い合う競争、いわゆる、異業種間競争が当たり前になってしまった今日、予想もしない分野から突然新しい競合企業が現れて、成長産業を、一瞬に葬り去る下剋上の出現も珍しくはない。

   さて、自動車産業では、今、自動運転が最大の話題となっており、製造販売が、間近と噂されている。
   しかし、興味深いのは、既存の自動車会社が、自動運転に注目し始めたのが、それ程早くなくて、むしろ、研究機関やICT企業が、人工知能の開発と言う切り口で先行していたと言うことである。
   
   自動運転は、元々、DARPA(国防高等研究計画局)が先行していて、DARPAチャレンジ競技でのグーグル・プリウスの快進撃に、アメリカ自動車産業の揺り籠であるデトロイトにさざ波を立てたと言う。
   自動車産業は、車は人間がドライブするもので、自動走行すべきではないと言う従来のポジションを守っていて、自動車産業はほぼすべてコンピューターテクノロジーに抵抗していて、「コンピューターにはバグがある」と言う哲学に固守していた。
   2010年春、実験的なグーグルカーのうわさがシリコンバレーで聞かれるようになったが、グーグルは、AIや世界を変える未来的な技術による奇抜なプロジェクトを推し進めている、名目上は、インターネット検索を提供する会社が何を、当初はばかげた話に聞こえた。と言うのである。

   しかし、グーグルは、2008年に、全米のあらゆる通りに建つ建物やビルのデジタル画像をシステマチックに撮影するストリートビューカーを作り、翌年には、公道やハイウェイを走る走行車を作り、自動走行システムを踏査し下小さなトヨタ・プリウスを走らせていた。
  360度回転するライダーが1台、屋根から30センチの高さに着けられた奇妙な外観のこのトヨタ車は、よく走っているグーグル・ストリートビユーカーと勘違いされたので気付かれなかったと言う。

   自動車業界は、車にコンピュータ・テクノロジーやセンサーを搭載させてはいたが、その取り組みは極めて緩慢で、グーグルの大躍進に震撼したデトロイトは、かって、マイクロソフトがウインドウズが業界スタンダードとなって、業界の利益は殆どマイクロソフトに流れて、ハードウェア・メーカーの製品は低マージンのコモディティに成り下がったのと同じ脅威に晒されていることを悟った。

   特筆すべきは、グーグルのグローバル・マップのデータ・ベースが、グーグルのアプローチに随分役立っていると言うことである。
   グーグルは、自走車プログラムの開始から、自動車業界では不可能だと思われる領域でも、大変な距離を自動走行してきたが、インターネットでバーチャルなインフラを作ってこれを行なった。
   「スマート」ハイウェイには膨大なコストがかかるが、その代わりにグーグルは、グーグル・ストリートビューの精密な世界マップを使ったのである。

   2013年末までに、6社以上の自動車メーカーが自動走行車の開発を発表し、今日では、はるかに、自動走行事業は進展しており、自動運転車の実現も間近だが、このAIを駆使した自動運転は、所詮、ICT技術の世界であり、自動車メーカーが、果たして、グーグルに勝てるのかどうか、破壊的イノベーションの擡頭とその帰趨を浮き彫りにしているようで、非常に興味深い。
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国立能楽堂・・・黒川能「井筒」「土蜘蛛」「節分」

2017年11月12日 | 能・狂言
   黒川能が、国立能楽堂で行われ、私は、最後の第三部だけ鑑賞した。
   プログラムは、次の通り。

   第3部 11月11日(土)午後6時
   能(上座)井筒(いづつ)
   狂言(下座)節分(せつぶん)
   能(下座)土蜘蛛(つちぐも)

   「式三番」や「鐘巻」などにも大変興味があったのだが、都合がつかず行けなかったものの、よく知っている「井筒」と「土蜘蛛」、そして、狂言「節分」であったので、非常に興味深かった。
   五流の能とどのように違って演じられるのか、同じ伝統でも、式能として昇華された(?)能と、農と芸と信仰が一体となって育まれてきた庶民の能との違いに興味を持った。

   まず、「井筒」も「土蜘蛛」も、ストーリー展開としては、特に、違っているようには思えなかったし、詳しく調べてはいないが、詞章も同じであったような気がする。
   しかし、随所に、微妙な違いとか新しい発見があって、非常に楽しませて貰った。

   能楽師の謡だが、どこかで聞いた懐かしいサウンドだと思ったら、これまでに、何度か観て聴いた沖縄の組踊の役者たちの台詞回しと非常によく似ているのである。
   非常に、平板で抑揚に乏しく流れるように流麗に謡われる。
   しかし、時には、地謡に目立つのだが、上下に波打つように謡われて迫力を増す。

   また、謡に、東北訛りが加わっているようで、土の香りがして感激したのだが、私の様に能楽初歩のものにとっては、能楽堂常備のディスプレィが役に立った。
   また、小鼓と大鼓の掛け声にも、かなり、差があったようで興味深かった。

   何よりも興味深いのは、出だしから威儀正しく、能楽師たちの登場から違っていて、揚幕から、地謡方を先頭にして、囃子方が、しずしずと、
   小鼓、大鼓は、左手をすっくと伸ばして捧げ持ち、太鼓は、両手を伸ばして捧げ持ちながら登場し、地謡方は、やや、地謡座の切戸よりに、笛方は、地謡と小鼓大鼓の中間くらいに着座する。

   最も、感動的なのは、演能前に、神事能の神事能たる所以であろうか、囃子方と地謡方が、一斉に手をついて深々と長い間拝礼することで、終演後の退場前にも繰り返される。

   能楽師、シテもワキもアイも、舞台上では、揚幕から、両手を斜め前にやや下し気味に開いて登場し、左手に扇などを持つ時には前腹に当てて手を曲げて、右手に何かを持つ時には手を横に突き出したままの状態で持ち、何も持たない時には、人差し指だけを常時伸ばしていて、舞ったり何か振りを行なう時以外は、全く同じ姿勢で舞い続けているのが、非常に、神がかり的な印象を感じて不思議であった。

   ところで、先に観た九州の神楽の様に、この黒川能も、春日大社の氏子は、約240戸で、上座と下座に分かれているのだが、能役者は、囃子方を含めて子供から長老まで約140人だと言う途轍もなく小さな小集団の黒川の住民たちが、非常に質の高い高度な、能面230点、能装束400点、演目能540番、狂言50番を伝えて来たと言うのであるから、驚嘆すべき事実である。

   脇正面前方で観ていたのだが、能面や装束については、五流の能とも遜色のない素晴らしいものであった。
   女面や井筒の娘の霊の面は、非常に優雅で美しかったし、土蜘蛛の前シテの僧のコミカルタッチの異様さや後シテの土蜘蛛の精のヒンズー教の神のような奇怪な面も上手くデフォルメされていていた面白かった。
   能「節分」の、鬼がゾッコン惚れこんで口説きにかかる女の面の可愛らしさは秀逸であった。

   私は、伊勢物語を題材にした「井筒」に興味を持ってみていたのだが、前シテの剣持一行師は、非常にスマートで顔にぴったちと小面がフィットしていて実に美しく、
   そして、後シテの剣持博行師の優雅な舞に、感動を覚えた。

   「土蜘蛛」は、やはり、頼朝頼光(清和幸輔)を狙う前シテの僧や土蜘蛛の精(蛸井栄一)の活躍であろうが、今まで観た能と比べて、糸を投げつける回数や派手さが、少し弱かったような気がした。
   尤も、その分、土蜘蛛の精と独武者たちの戦いが優雅に流れていた。
   糸投げは、最初は、前場で、舞台中央から頼光に向かって、二度目は、頼光と入れ替わって一畳台の上から頼光に向かって、次は、切られて退場間際に橋掛かり端から、頼光に向かって、・・・この時は、すっぽ抜けで、塊だけが、囃子方に飛んだ。
   後場では、独武者と従者に一人ずつ、投げつけたが、これは、優雅に開いて二人を押さえつけて効果的であったが、後は、五流の派手な糸投げと比べて、大人しかったような気がした。
   他の流派と違って、歌舞伎の様に、舞台上の蜘蛛の糸の始末を多少気にして片付けていたのが、面白かった。

   狂言「節分」も、大蔵流や和泉流の狂言と、殆ど違わなかったのだが、最後は、女(清和祐樹)が鬼(小林貢)に撒く豆の代わりに、小袋に入った菓子を客席に投げた。
   それに気を取られているうちに、いつの間にか、鬼が消えていた。
   鬼の世間離れした惚けた台詞回しが客席を喜ばせていた。

   やはり、能役者が少ない所為もあったのか、演者が若くて、多少粗削りながら、はつらつとしていたのが印象的であった。
   いずれにしろ、多くの能楽師や識者たちも注目したと言う黒川能の一端を垣間見た思いだが、つくづく、日本人の民度の高さと芸術に対する大変な能力とその途轍もない素晴らしさに感動している。
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