熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

エリック・カロニウス著「なぜビジョナリーには未来が見えるのか? 」

2018年05月31日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   エリック・カロニウスの「なぜビジョナリーには未来が見えるのか? 成功者たちの思考法を脳科学で解き明かす」と言うこの本、
   原題は、Ten Steps Ahead: What Separates Successful Business Visionaries from the Rest of Us
   10歩先へ:成功した企業のビジョナリーが我々とに差をつけているものへは何か
   と言ったところであろうか。

   この本の特色は、スティーブ・ジョブズなどの偉大なイノベーター経営者の成功譚の語り口が、従来の経営学的な分析とは違って、ダニエル・カーネマンやエイモス・トヴェルスキーなどに触発されて、認知心理学など脳科学や現在脚光を浴びている行動経済学的な視点からアプローチして、ビジョナリーの誕生の秘密を分析していることである。
   ビジョナリーの秘密開陳から脱線して、脳科学の説明や、行動経済学の解説書のような記述にのめり込む部分もあるのだが、この斬新な視点からのアントレプレナー解説は、非常に啓蒙的である。
   
   カロニウスの略歴なりバックグラウンドについては、インターネットで、英文資料を調べても何も分からないのだが、ウォール・ストリート・ジャーナル、ニューズ・ウィーク、フォーチュンと言った名だたる経済誌の記者や編集者を経験しており、この本でビジョナリーとして登場しているウォルト・ディズニー以外は、スティーブ・ジョブズ、ジェフ・ベゾス、リチャード・ブランソン、アンディ・グローブなどと言った多くの巨人アントレプレナーには実際に親しく会ってインタビューしており、後追いながら、脳科学や行動経済学的理論で分析しながら、個人的な逸話なども交えて興味深く語っているので非常に面白い。


   「脳」が、「ビジョンをもたらす装置」であると言う発見が重要で、脳には、思考に「像」をもたらし、実在しないものの青写真を作る機能が備わっており、顕在意識では解決できない問題を無意識下で解決しようとする傾向があり、絶えずパターンを探し求め、自分を取り巻く世界を作り変えていることも明らかになったと、まず、ビジョナリーが、アイデアを思いつく方法について、物や考えを頭の中で視覚化して自在に動かす能力から説き起こしている。
   ジョブズのような最も卓越した企業家は、未来に、そして、逆境の時に、如何にして、大胆かつ途轍もないビジョンを生み出し得るのか、と言う問題意識である。

   さて、著者は、どんな障壁をも突き破り、物事の本質を見抜く力、これが、「ビジョン」であって、このビジョンの持ち主が、「ビジョナリー」であり、普通の人が見落とすものを見つけられる人のことだと言う。
   例えば、ジェフ・ベゾスは、ウェブ人口が年に200%前後増加していると知って、アマゾンを立ちげ、フレッド・スミスは、翌日配達に商機を見出してフェデックスを創業し、スティーブ・ジョブズは、ゼロックスのパロアルト研究所でマウスとGUIを見た瞬間に、パソコンの未来を見出したのである。

   ところで、タレブの「ブラック・スワン」を随所に引用して、本当に大きな驚きとなる出来事など誰にも予測できないと言っている。
   プロの投資家さえ、その戦績は、猿がダーツを打った銘柄の株式投資の結果と殆ど変わらないと再説しているのだが、もっと、敷衍すると、エマニュエル・トッドの経済予測が的中したとしても、それは、経済学の知識によるのではなく、人口動態学や家族制度研究の結果であり、それに、歴史的には、経済学者の経済予測など殆ど当っていないと言われているのであるから面白い。

   「ビジョナリーには未来が見える」と言うのは思い込みであって、「直観」の大切さ、常人とを分かつ「勇気」、「EI(心の知能)」の働き、仲間や協力者を引き寄せる親和力やカリスマ性、夢を実現させる「運」など、ビジョナリーをビジョナリーとしている所以を、詳細にわたって分析していて非常に面白くて、なるほどと思わせるところが、この本の良さである。
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宝生能楽堂・・・能楽祭:能喜多流「小鍛冶」ほか

2018年05月29日 | 能・狂言
   恒例の第7回の能楽祭。宝生能楽堂で開催された。

演目詳細は、次の通り。

解説 金子敬一郎

舞囃子 金剛流「邯鄲」 シテ廣田幸稔
           笛 杉信太朗
           小鼓 大倉源次郎
           大鼓 原岡一之
           太鼓 大川典良
           地謡 種田道一他

独吟 宝生流「松風」  前田晴啓

仕舞 金春流「笠ノ段」 辻井八郎

一調 観世流「勧進帳」 浅見真州
            大鼓 柿原崇志

狂言 和泉流「杭か人か 謡入」
            シテ 野村又三郎
            アド 奥津健太郎
            後見 野口隆行

能 喜多流「小鍛冶 白頭」 シテ 中村邦生
            ワキ 宝生欣哉
            ワキツレ 野口能弘
            アイ 大藏彌太郎
            笛 一噌隆之
            小鼓 成田達志
            大鼓 國川純
            太鼓 桜井均
            後見 香川靖嗣他
            地謡 粟谷明生他
              附祝言

   能「小鍛冶」は、次のようなストーリー、
   銕仙会の解説では、”天下を治め、民を安んずる神の加護。その霊力をもつ王権の宝器”御剣”をめぐる物語。”
   刀鍛冶三条宗近(ワキ)のところへ、勅使橘道成(ワキツ)が訪れ、霊夢を見た一条天皇の命を受けて新しく御剣を造れとの勅命を伝える。宗近は、自分と同等の技量を持つ相鎚が居ないので無理だと返答するが、重ねての勅命に断り切れず、氏神である稲荷明神へ参詣する。一人の童子(前シテ)が現れて、剣の威徳を称える中国の故事や日本武尊の草薙の剣などの不思議な力を持つ剣の故事を語り、宗近を励まして、「祭壇を築いて刀を打つ準備をして待て」と告げて姿を消す。宗近が祭壇を築いて神に祈っていると、稲荷明神の使いの霊孤(後シテ)が現れて、宗近と力を合わせて天下無双の剣を打ち上げて、霊孤は、完成した御剣を勅使に献上して、稲荷山へと飛び去って行く。

   この能では、後場で、正先に、注連縄を張り、幣、鉄床、槌、刀身を置いた一畳台がおかれて、稲荷明神の相槌で宗近が宝剣を打ち上げるのである。
   「白頭」の小書きのある演出で、後シテは、白頭で白装束の颯爽たる出で立ちで登場して勇壮に舞い、迫力十分。喜多流独特の狐足を用いて、足音を立てずに敏捷に動いて、流れるように美しい。
    後シテは、輪冠に狐戴をつけているのだが、この狐が、普通とは違って、後ろ向きで尻を上げてしっぽの先が膨らんでいて狐らしからぬ姿をしていて印象に残っている。
   満を持しての「小鍛冶」の舞台で、感動的であった。

   狂言「杭か人か」は、
   太郎冠者を、本当は臆病者である筈だと思っているのだが、いつも空威張りや強がりを言っているので、主人は、その真価を確かめようと、太郎冠者に、留守番・夜回りを命じて出掛けるふりをし、観察していると言う話。
   大きな屋敷に一人残されて留守番を頼まれたのだが、何をしても内心怖くて仕方なくて落ち着かず、夜回りに武器を持って恐る恐るあっちこっちを歩くのだが、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」で、とうとう、家に帰ってきて立っていた主人を見て、「杭か人か」と問いかけて、「杭、杭」と応えられて喜ぶのだが、主の声を聞き違えた報いで、追い込まれて幕。

   これは、一人残された太郎冠者の一人芝居と言った趣の狂言で、怖い怖いと思いながら、庭石にも平身低頭這い蹲っての命乞い、ああでもないこうでもないと激しくアップダウンを繰り返す心の動きを、豊かな感情表現と喜怒哀楽綯い交ぜに演じる、正に、野村又三郎の独壇場の世界である。
   人間皆こんなものだと言うアイロニーと諧謔、
   モリカケ問題も、日大アメフト問題も、クロをシロと言い続けて、上から下まで、罪の意識さえ欠如してしまったこの世の中、
   杭か人か、問うているこの狂言の世界かも知れない。

   舞囃子、独吟、仕舞、一調、
   このように、能本来の姿から、もっと、削ぎ落されて昇華された舞台を観て聴いていると、私には、益々、神性を帯びて迫って来る。
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わが庭・・・ツユクサ咲き始める

2018年05月28日 | わが庭の歳時記
   いつの間にか、木陰に、ツユクサがひっそりと咲き始めた。
   アジサイと同じで、わが庭では、この花が咲くと梅雨になる。
   雑草なので、いつも途中で間引いてしまうので、邪魔にならないところに残ったツユクサだけが咲くのだが、そんなに邪険にしながらも、自分では、好きな花だと思っている。
   
   
   
   
   

   ところが、この花は、朝に咲いてスグに萎む。
   花おりおりによると、花弁の中はドロドロに溶けて成分は吸収されて、次の花へ回されるリサイクルの花だ言うのである。
   写真になる無傷の花は少ないのだが、夏には貴重なやや濃い目のスカイブルーが優雅で良い。
   ブラジルでよく見ていたアクアマリンの濃い色のブルーは、少しこのブルーに似ていて美しい。

   私の田園生活の思い出は、幼少の頃から阪神間で過ごした高校時代に終わっているのだが、殆どは、宝塚での中学校時代までである。
   子供の頃は、日が暮れるまで野山や田畑を駆け巡って、くんずほぐれつ、くたくたになって家に帰ってバタンキュー、勉強などした記憶がない。
   童謡の故郷や赤とんぼ、七つの子などの世界にどっぷり、ドジョウすくいやザリガニ釣り、モズの巣から雛を取ったり、とにかく、自然の野山が遊び場であり、小動物たちが、友達であった。
   しかし、その時、群れ咲いていたこのツユクサが、殆ど消えてしまい、軒下に巣を作って、毎年の訪れを楽しみにしていた燕の数が、一気に減ってしまったと言う。
   地方に行くとまだ残っているのであろうが、前にいた千葉でも、この鎌倉の田舎でも、小川に入って小鮒を取ったり、蛍を追う子供の姿は皆無になってしまった。
   種の消滅のみならず、自然からどんどん隔離されていくこの不幸。

   ところで、西洋アサガオのヘブンリーブルーを意図して、種を蒔いたのだが、一株しか芽を出さなかった。
   咲くのかどうか分からないが、育ててみようと思う。
   

   昨年、挿し木した椿が根付いたので、小さな鉢に移植した。
   至宝、シュプリームシャンパン、シュプリームエレガンス、

   それに、種まきしていた実生の苗も移植した。
   どの木の種だったか忘れたが、どうせ、雑種だから、どんな花が咲くか、咲いての楽しみである。
   どちらにしても、花が咲くのは、4~5年先の話であろうが、気の長い話である。
   
   
   
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国立能楽堂・・・5月狂言の会 舟渡聟・清水・禰宜山伏

2018年05月27日 | 能・狂言
   この日の狂言の会は、三演目夫々に、人間国宝が出演し、禰宜山伏には、前の人間国宝茂山千作の長男千五郎宗家も京都から、そして、野村又三郎も名古屋から出演し、実に充実した舞台を展開した。

   プログラムは、次の通り。
   ◎家・世代を越えて
   狂言  舟渡聟(ふなわたしむこ)  野村 万作(和泉流) 
   狂言  清水(しみず)  野村 萬(和泉流)
   素囃子  羯鼓(かっこ)  成田 寛人・森 貴史・佃 良太郎
   狂言  禰宜山伏(ねぎやまぶし)  山本 東次郎(大蔵流)

   興味深いのは、「舟渡聟/船渡聟」で、和泉流では、「舟渡聟」だが、大蔵流では、両用だと言う。
   ふねの漢字が違うのみならず、内容も、聟入りに向かう聟が、舟に乗って川を渡り、その時、酒好きの船頭に所望されて舅への土産の酒を飲まれると言うストーリー展開まではよく似ているのだが、その後の舅宅での違いが面白い。

   今回のは和泉流の舟渡聟。
   婿が、上等な酒を持ち込んだので、酒好きの船頭が飲ませろと、舟を揺すったり舟を流したりと聟を脅すので、仕方なく船頭に酒を飲ませて下船する。舅宅に着くと舅は留守で姑が応対して、暫くすると舅が帰って来たのだが、聟の顔を見て仰天。酒を強請って飲ませたので面目なくて会えない、こんなブ男ではなかったと言って返せと言うのだが、姑は髭を剃らせて対面させる。袖で顔を隠して対面するのだが、聟が顔を見せてくれと袖を外して見ると先ほどの船頭。面目ないと舅は謝るが、元々舅のために持ってきたものと慰めて、名残惜しさに、謡になって相舞いして、ガッシ留メ。

   これに対して、大蔵流は、舟で船頭にねだられて祝儀の酒樽を開けてしまうのは同じだが、聟も一緒になって酒盛りをして酒を飲みほしてしまう。空の酒樽を持って、舅宅を訪れて、固めの杯になって、舅が聟の持参した酒を飲もうと主張して譲らないので、とうとう、空酒だと分かって面目を潰した聟が逃げ出して、舅がその後を追いかけて幕。取次に太郎冠者が出演している。
   先年、逸平の聟、あきらの船頭、七五三の舅、の面白い「船渡聟」を観ており、印象に残っている。船の中では、聟と船頭が、舟の揺れに合わせて、器用に左右にリズムを取って揺れ動いていたのが、秀逸。

   一寸した小道具の違いだが、大蔵流では、聟は酒樽代わりに、葛桶を手に持って出てきて、この蓋を酒盛りに使う。
   ところが、和泉流では、聟は、角棒に、笹の枝につけた鯛と杉手樽とをぶら下げて担って登場して、乗船時に、船頭が大事そうに受け取って舳先に置く。そのために、船頭が酒を飲むときに杯がないので、腰に挿した淦取を川の水で洗って飲む。
   
   シテの船頭と舅とのキャラクターの落差、酒好きで良い酒に巡り合えた千載一遇のチャンスをどうしても満たしたい一心であった、しかし、聟と対面すれば面目なく男が廃る・・・庶民の悲しいさがを万作は淡々と演じているが、その優しさとほのぼのとした温かさが、身に染みる。
   婿の直球勝負の高澤祐介の爽やかさ、又三郎のアイロニーと諧謔の入り混じった女房が味があって笑わせる。

   次の「清水」
   主人から、茶会用の水を野中の清水へ汲みに行けと命じられた太郎冠者は、面倒なので、鬼が出るから嫌だと断るのだが、主人は承知せず家宝の桶を持たせて追い出す。太郎冠者が鬼に襲われて桶を取られたと言って帰ってくきたので、主人は家宝の桶を惜しみ、みずから清水へ行くと言う。先回りした太郎冠者が鬼の面をかぶって脅すと、主人は命乞いをして逃げ出すのだが、太郎冠者に都合の良いことばかり言う鬼の言葉や、鬼がどう言ったかと聞いたら、「捕って噛もう」と言う太郎冠者そっくりの鬼の声などに不審を抱いて再び清水へ確かめに行き、もう一度鬼に扮した太郎冠者の正体を見破って、追い込む。
   若い颯爽としたいい男の主人の三宅右矩を、老長けたベテランの鬼の萬が、口から出まかせで体を上手くかわそうと嘘を並べて器用に応戦しようと四苦八苦するユーモアのセンスと仕草の巧みさが、何とも言えない笑いを誘う。 87歳とは思えないほど、芸が細かく滋味深い。
   解説には、人使いの荒い主人に、鬼に化けたチャンスに、蚊帳を吊ることや酒を飲ませろと、悲しい程些細な待遇改善を訴えていると書いてあるが、今の働き方改革法案もそうだが、「せまじきものは宮仕え」なのであろう。

   禰宜山伏は、
   禰宜が、旦那回りの旅の道中、街道の茶屋に立ち寄って一服しているところへ、山伏が通りかかり、茶屋の主人や禰宜に難癖を付けて、帰り際に、肩荷の箱を禰宜に持てと押し付けて家来同然に扱おうとする。見咎めた茶屋の主人は、自分が所有する大黒天を、双方の祈祷で祈り比べて、影向した方を勝ちとして勝負するよう提案したので、両者了解して祈り始める。大黒天は、禰宜には応えて、山伏にはそっぽを向くので、山伏は、袖を引いたり自分の方を向かせたりするが言うことを聞かず、山伏を槌で打ちながら追いかけるので、禰宜や茶屋も後を追う。

   狂言共同社の解説では、「一見大人しくも伊勢神宮の威光を背景に持つ芯の強い禰宜と、難行苦行の末に得た能力ゆえ、傲慢な態度をとる山伏の対比がくっきりと描かれている演目で、神仏信仰の表れとともに権力に抑圧された時代背景も捉えた作品です。」と書いてあるのだが、
   禰宜は、伊勢神宮の御師で、地方の信者のために暦やお祓いを配り、また祈祷もして歩いた下級の神官であり、山伏は、出羽の羽黒山出身で大峰・葛城で修業しての帰途と言うことで、別に、宗教と言うか祈祷の甲乙をつけたと言うことではなかろう。
   狂言では、山伏狂言は比較的少ないのだが、殆ど、いい加減な山伏しか登場せず、祈りも、「ぼろろん、ぼろろん、イロハニホヘト・・・」と言った調子で数珠を揉むだけで、結果は最悪。

   ところで、今回は、居丈高で傲慢な山伏を東次郎、気の弱い誠実な禰宜を千五郎が演じているのだが、何時もながら歳を感じさせない東次郎のエネルギッシュな迫力抜群の山伏は、非常に魅力的であり、それに負けじとイメージとはちょっと違った馬力のある骨太の禰宜を千五郎が演じており、東西両雄の揃い踏み。同じく東西の松本薫の茶屋と山本則重の大黒天が、彩を添えていて面白い。
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国立演芸場・・・立川流落語界初日

2018年05月26日 | 落語・講談等演芸
   「立川流落語会」の初日を聞きに行った。
   この日は、ソールドアウトであったのだが、前には、談春と志の輔の登壇した日に行ったのだが、今回は出ておらず、志らくと談笑、談四楼を聞きたいと思って、 先に予約を入れていたのである。
   
   プログラムは、次の通り。

   25日(金)
   落語「真田小蔵」  只四楼
   落語「松竹梅」 立川三四楼
   落語「たらちね」 立川志ら玉
   落語「幇間腹」 立川こしら
   落語「短命」 立川志らく
   ―  仲入り  ―
   落語「粗忽長屋」 立川談笑
   落語「大安売り」 立川左平次
   江戸の唄 さこみちよ
   落語「一文笛」 立川談四楼

   日大のアメフトがホットニュースであったので、マクラに日大。
   志らくは、開口一番、日大出身ですと言うと、「頑張れ!」と掛け声。
   辛辣な日大風刺の後、談志の声音で、談志の逸話をひとくさり、
   談志の公演の5千円のチケットが、ヤオフクで、8万円となったと聞いて、チケットを買って(当然来ている筈の)聞きに来たお客さんに、後悔するような噺をするからと言って、ひどい話だったとか。
   談笑は、高座を降りた後、布団返しに登場した只四楼の後から駆け込んできてタックル、舞台を横滑り。

   これとは、違うが、さこみちよが、江戸の唄で、しっぽりとした艶唄の合間に、子供に、
   「嘘ばっかりついてると、首相になっちゃうよ」
   粋な唄いにかまけて、もっと、これまでに、人生いろいろ、忖度しておくべきだったとも。

   談四楼は、日大の学長の会見について語り、
   理事長は出てこないが、保釈金を払って鴨池は出てきて、首相は逃げた・・・
   マクラを、早々に切り上げて、「一文笛」を人情噺風に情感豊かに語っった。

   さて、志らくの「短命」
   色っぽくて器量よしの伊勢屋の娘のところへやってきた婿養子が、入れ替わり立ち代わり、3人も死んだと言う話を隠居のところへ持ち込んだ八五郎が、何故だと聞く。隠居は「伊勢屋の婿たちは房事過多で死んだのだろう」と言いたいのだが露骨には言えないので、それとなく匂わせて語るのだが、解せぬ八五郎が頓珍漢の受け答え。身をくねらせて色っぽい仕草で説く志らくの説明が秀逸。”ご飯なんかを旦那に渡そうとして、手と手が触れる。白魚を5本並べたような、透き通るようなおかみさんの手だ。そっと前を見る。……ふるいつきたくなるような、いい女だ。……短命だよ”
   茶碗を渡すときの指と指の触れあうシーンを再現したくて、家に帰った八五郎が、嫌がるがらっぱちの女房に命令して、飯を持った茶碗を受け渡しさせるが、女房の顔を見て、「ああ、俺は長命だ」。
   ウィキペディには、隠居が、以下のような川柳で説明を試みると書いてあるのが面白い。
   その当座 昼も箪笥の環(かん)が鳴り
   新婚は夜することを昼間する
   何よりも傍(そば)が毒だと医者が言い

   この「短命」は、これまでに、何度か聞いているのだが、夫々の噺家によって、バリエーションがあって面白い。

   「一文笛」は、はじめて聞く落語だが、米朝の新作落語だと言う。
   それも、スリを主人公とした「情けが仇になる」と言う噺だが、しみじみとした人間の弱さ優しさが滲み出ていて、可笑しさの中に温かみを感じて面白い。

   スリの親分が、商家の旦那の腰に下げた煙草入れをネタに財布を掏った鮮やかな手口を、手下に開陳して指導しているところへ、足を洗った兄貴分がやって来る。
   兄貴は、このスリの軽はずみが子供の命を危うくしてしまったと語り始める。
   このスリが、駄菓子屋の前で、一文の笛が買えないみすぼらしい子供が、店の老婆に追い払われているのを見て、自分の子供時代を思い出して可哀相になって、駄菓子屋から笛を失敬して子供の懐へ入れた。子供が懐の笛をピーピー吹いたので、老婆は、笛を盗んだなと思って、浪人になっている病気の親のところへ連れてきて怒った。元武士なので、盗人をするような子供に育てた覚えはない出て行けと叱ったので、子供は泣く泣く井戸に身を投げた。
   命は取り留めたが、医者には大金が掛かるが、病気の親にはそんな金はなく、長屋中探しても無理で、子供が可哀相だと思うなら何で一文の金で笛を買って子供に与えなかったのか、それを盗人根性と云うんだ。子供が死んだらどうするんだ?と叱りつける。兄貴。堪忍してくれと、匕首を出して右手の人差し指と中指を落とし、もうこれで盗人やめると言う。子供はまだ生きていて入院に金が要ると聞き、その後、酒屋の前でいい酒を飲んでいる医者の所へ行って、ぶち当たって懐から金を奪う。
  兄貴。何にも云わずにこの金使ってくれ。どうせ医者に戻る金だ。
  指を二本落としたのにまだこう云う仕事が出来るのか? わしはギッチョ。

   知らなかったが、流石に、米朝の作であり、胸にジーンと響く人情噺が、素晴らしい。
   好々爺然とした丁寧で味のある談四楼の語り口が、素晴らしかった。

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わが庭・・・アジサイが咲き始めた

2018年05月25日 | わが庭の歳時記
   庭のフェンス越しに外部に突き出して植えてあるアジサイは、色づいて綺麗に咲いているのだが、庭の中のアジサイは、まだ、やっと、数株が、漸く色が浮き始めた。
   5年前に千葉から移植したアジサイは、かなり、大きくなって、今年は結構、蕾をつけていて、色づき始めた。
   昨年、挿し木苗を10株ほど植えたので、今年は、アジサイを楽しめそうである。
   明月院や長谷寺などのアジサイは、6月に入ってからのようであるが、鎌倉はアジサイの街なので、人込みを避けて、梅雨の雨の日に、ひっそりと咲いている静かな古社寺を歩いてみたいと思っている。
   
   
   
   

   ばらで、最近買った鉢苗で、咲き始めたのは、イングリッシュローズのモリニューとベンジャミン・ブリテン。
   苗木を育てるために、花を間引いたのだが、イングリッシュローズは、秋にはあまり咲かないので、木を育てて植え替えて、来年に備えようと思っている。
   
   
   

   わが庭で咲き始めたのは、ビヨウヤナギとクレマチス、コモンマロウ。
   ホタルブクロ、それに、鉢植えのミニばらなど。
   トマトも、花が咲いて結実し始めている。
   
   
   
   
   
   
   
   

   わが庭のシャクヤクは、少し、遅いのか、まだ、何輪か咲いている。
   それに、今、モミジも、獅子頭の新芽が美しく、鴫立沢の葉も優雅である。
   しかし、今一番うれしいのは、椿が、新芽を伸ばして成長を始めていて、新鮮な新しい幼葉が、輝いていることで、来春の開花を楽しみにしている。
   
   
   
   
   
   
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国立劇場・・・文楽「本朝廿四孝」吉田玉助襲名披露公演

2018年05月24日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   早くからソールドアウトになっていた吉田玉助襲名披露公演の文楽「本朝廿四孝」。
   信玄と謙信の確執に想を取った作品で、今回は、よく上演される前半の武田勝頼と八重垣姫が主人公のメロドラマ風の「十種香」や「狐火」ではなくて、軍師山本勘助の二人の遺児の確執と二代目山本勘助誕生をテーマにした舞台である。

   本来の「廿四孝」は、中国の話であって、歴代中国王朝は、儒教を重んじて孝行を特に重要な徳目としていたので、後世の範として元代郭居敬が編纂した書物で、この浄瑠璃にも引用されている子供を捨てる郭巨や筍掘りの孟宗や、有名な理想の天子舜など、孝行が特に優れた人物24人を取り上げていて、非常に興味深い。
   この歌舞伎では、母が、足利義晴公の遺児松寿君を救って守護し将軍家を救ったのは、父の名を上回り、中国の廿四孝にも優ると言って、勘助に、軍法の一巻を与えるところで、この廿四孝が言及されており、このくだりが、「本朝廿四孝」のタイトルの謂われであろう。

   口上の後、「景勝下駄の段」と「勘助住家の段」が演じられており、
   人形は、兄横蔵後に山本勘助を、襲名した玉助が遣い、弟慈悲蔵実は直江山城之助を玉男、勘助の母を前勘十郎・後簑助、女房お種を和生が遣っており、華を添えている。
   義太夫と三味線は、景勝下駄の段は、織太夫と寛治
   勘助住家の段は、前を、呂太夫と清介、後を、呂勢太夫と清治
   大変な熱演である。
   私は、二列目、正面やや上手よりで聴いていたので、迫力と緩急自在の語りに、浄瑠璃の凄さを実感して感激していた。

   母の溺愛を良いことに、傍若無人に振舞っていた横蔵が、廿四孝にも優る孝人で、山本勘助だという設定が面白いのだが、元々、山本勘助の史実が定かではないと言うことであるから、フィクションとしても面白い。

   この横蔵を、襲名なった玉助が、エネルギッシュに豪快に遣っていて、その迫力と格好良さが秀逸で、見得の夫々が錦絵になっていて、流石に、襲名披露公演の雄姿である。
   玉男の遣う慈悲蔵は、母に疎まれて平身低頭の孝行息子で、本来の直江山城之助も折り目正しい武将であるから、徹頭徹尾優等生であり、今回は、玉助が玉男のお株を奪った感じである。
   簑助の勘助の母は、正に、人間国宝の別格。
   女房お種の和生と母の勘十郎も、素晴らしい人形ぶりを披露。
   
   この時、同時に、「義経千本桜」の「道行初音旅」が上演されて、華を添えた。
   美しい吉野の桜風景と、正面に雛壇模様に設えられた床に、咲太夫と燕三を真ん中にして、太夫と三味線が並んだ綺麗な舞台をバックに、美しい姿の静御前(清十郎)と狐忠信(勘十郎)が、華麗な舞を披露する。
   単なる美しい踊りだけではなく、八島での戦いの「錣引き」や矢に倒れる継信の死などの悲劇に涙するなど、物語のあるのが面白い。
   
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METライブビューイン・・・ヴェルディ「ルイザ・ミラー」

2018年05月23日 | クラシック音楽・オペラ
   今回のMETライブビューイングは、ヴェルディ「ルイザ・ミラー」
   キャストは、次の通り。

指揮:ベルトラン・ド・ビリー
演出:エライジャ・モシンスキー
出演:ヴァルター伯爵(バス) - 領主 アレクサンダー・ヴィノグラド
   ロドルフォ(テノール) - 伯爵の息子でカルロと名乗る ピョートル・ベチャワフ
   ルイザ・ミラー(ソプラノ) - ロドルフォを愛する村娘 ソニア・ヨンチェヴァ
   ミラー(バリトン) - ルイザの父 プラシド・ドミンゴ
   ヴルム(バス) - ヴァルター伯爵の秘書官 ディミトリ・ベロセルスキー
   フェデリカ(メゾソプラノ) - オストハイム公爵未亡人 オレシア・ペトロヴァ


   HPを借用すると、ストーリーは、
   17世紀前半のチロル。退役軍人ミラーの娘ルイザは、相手の正体を知らぬまま、領主ヴァルター伯爵の息子ロドルフォと恋に落ちていた。息子の地位を万全にしたい伯爵は、ロドルフォを裕福な未亡人フェデリーカと結婚させようとするが、恋人の存在を打ち明けられる。怒った伯爵はルイザを侮辱し、刃向かったルイザの父ミラーは投獄される。ルイザに横恋慕する伯爵の腹心ヴルムは、ミラーを助けたいなら、愛していないという手紙をロドルフォに書けとルイザに迫る。泣く泣く従ったルイザだが、彼女の心を誤解したロドルフォは…
   毒薬を持ってルイザを訪れて、二人で飲んで自殺を図る。ロドルフォは、ルイザから真実を聞くも既に遅し、睨み合った二人の親は、掛け替えのない子供の死を呆然と見守りながら幕。

   上演回数も少ないのであろう、ヴェルディのオペラを結構見ている筈の私にとっても初めて観るオペラであったが、その直後に、スティフェリオ、リゴレット、イル・トロヴァトーレ、椿姫と言った代表作オペラを作曲しているので、円熟期直前のオペラなので、素晴らしい舞台で感動した。
   ストーリーもしっかりとしたオペラであり、ドニゼッティばりのベルカントの雰囲気もあるとかで、全曲、美しいサウンドに彩られた音楽が心地よく、アリアの美しさも格別である。

   先に、ボエームで聞いたソニア・ヨンチェヴァが切々と歌う
   第3幕ミラーの別棟の一室で、ルイザが死を決して歌うアリア「神様、もし私があなたをご立腹させたのなら(Tu puniscimi, o Signore)」
   そして、ポーランド生まれの人気テノール:ピョートル・ベチャワが歌う
   第2幕の城の庭で、ルイザからの偽りの手紙を見て嘆き苦しむロドルフォのアリア「静かな薄明かりの夕べに(Quando le sere al placido chiaror)」
   は、感涙を催すような素晴らしさで、
   それに、ルイザの父親ミラーで登場したプラシド・ドミンゴが、往年に劣らない凄い歌唱で観客を唸らせてくれ、他のディミトリ・ベロセルスキー、アレクサンダー・ヴィノグラドフ、オレシア・ペトロヴァたちも、これに引けを取らない熱演。

   ヨンチェヴァが、プッチーニとヴェルディの歌唱の差について聞かれて、ヴェルディはシアター劇であり、プッチーニはシネマだと答えていたが、正に、このオペラは、骨太のシェイクスピアの戯曲を観ているような感動であった。
   ヨンチェヴァは、top prize and the special CultureArte prize at Plácido Domingo’s Operalia competition (2010)を得ているのであるから、ドミンゴとの共演は願ってもない舞台だったのであろう。
   現在、最高の「椿姫」のヴィオレッタ歌いと言う定評があるようだが、三大オペラハウスは勿論、世界最高峰のオペラ劇場総なめの凄い歌手だと言うことで、少し、その素晴らしさが分かってきた。 
   この名声を博した「椿姫」の2017年のMetライブビューイング映像が、週末のWOWOWで放映されるので、楽しみにしている。
   Sonya Yoncheva - Official Siteから借用したポートレートを一枚。
   


   ロドルフォのベチャワが、ドミンゴに教えを受けて、ロドルフォは「オテロ」と同じだと言われて、まだオテロはやっていないと応えたと言っていたが、確かに、ロドルフォの役柄は、あの悲劇と同じ心境なのであろう。
   ドミンゴは、以前に、このロドルフォを歌っていて、今回は、テノールからバリトンに変わってルイザの父親役で、渋い芸を披露しているが、両方を歌っており、今回も指導的な立場で臨んだと言うから、ドミンゴの卓越した「ルイザミラー」オペラとなっていたのであろう。
  
   ドミンゴが「オテロ」と言っていたので、随分前にロンドンのロイヤルオペラで観たショルティが振り、キリ・テ・カナワがデズデモーナを、ライフェルクスがイヤーゴを歌った「オテロ」決定版とも言うべき舞台を思い出した。
   欧米に居たお陰で、「ワルキューレ」、「トスカ」、「サムソンとデリラ」など、そして、「道化師」の指揮など何回かドミンゴの舞台を観ているが、当時は、現地でも、パバロッティもそうだったが、チケット取得が難しかった。

   このMETライブビューイングで良いのは、休憩時間に、カーテン裏での舞台の転換の模様を映し出してくれることで、この「ルイザミラー」の舞台は、17世紀前半のチロルを模したのであろう、手抜きなしの剛直な建造物で、ビックリするほど本格的で、素晴らしい。客席から見える筈もない奥の棚の置物なども精巧そのものである。
   昔、オペラ劇場には、100枚以上の幕があると聞いたことがあるが、このMETの舞台は、本舞台の後と左右に三つの巨大な舞台空間があって、舞台転換には、そこで待機している夫々の舞台が、移動して瞬時に入れ替わる。
   正に、巨大な工場のような雰囲気で、沢山の裏方が、忙しく右往左往しながら舞台設定に携わっているのを見るのも参考になってよい。第2幕と第3幕の舞台となるミラーの別棟の一室などは、バックステージから正面にせり出してくるシーンは壮観でさえある。
   それに、オープン前に、「マエストロ、ピット・プリーズ」と合図する指令室が、舞台脇に直結しているのが分かって興味深かった。
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映画「ピーターラビット」

2018年05月22日 | 映画
   ピーターラビットは、我が家にとっては、非常に身近な存在で、娘たちと一緒にイギリスで住んでいたので、ピーターラビットの絵本や陶器や縫いぐるみの人形や皿やカップなど、色々なデコレーションが、部屋のあっちこっちにある。
   この映画が放映されると言うので、ピーターラビットと言うよりは、イギリスの田舎の美しさを、もう一度反芻したくて、見に行ったのである。

   それに、このピーターラビットの舞台となった湖水地方にも旅をしたし、この映画のピーターラビットが生まれたウインダミア近くのニア・ソーリーのヒルトップ農場のビアトリクス・ポターの家(下記写真)にも行って、十分にピーターラビットの世界を味わってきている。
   
   秋の紅葉の頃に、湖水地方は、一番美しいと聞いていたのだが、纏まった休暇を取れるのは、夏冬だけだったので、夏休みを利用して、数日間、車で、民宿やコテッジやホテルを梯子したのだが、イギリスの田舎は何処も美しい。
   この湖水地方とコッツウォルズが双璧だと思うのだが、暇にあかせて、随分、イギリス国内を車で回ったので、ワーズワースの詩情もジョン・コンスタブルの絵画の世界も脳裏に焼き付いている。
   尤も、イギリスの素晴らしい壮大な庭園も美しい田園も、すべて、太古の原生林を切り開いて造形された人工の風景ではあるのだが。

   随分撮った写真が倉庫の中なので、インターネット上の写真を借用すると、あのあたりの雰囲気は、次の感じである。
   
   
   
   

   さて、肝心の映画だが、実写とCGをうまく融合させて、生きた擬人化されたピーターラビットなど動物が、あたかも、人間のように動き回って活躍して、人間と実生活を営んでいるようなドラマチックな映画で、素晴らしいイギリスの風景をバックに描かれていて、実に感動的である。
   セットだと言う写真は、
   
   

   登場するうさぎは、お馴染みのピーターラビットと三つ子の妹のフロプシー、モプシー、カトンテール、それに、いとこのベンジャミンで、仇敵である畑主のジョー・マグレガー親父(サム・ニール(Sam Neill)が、心臓発作で亡くなったので、ロンドンのハロッズの玩具部門で働いていたマグレガーの甥のトーマス(ドーナル・グリーソン(Domhnall Gleeson)が跡を継いで、農場主となる。
   近くに、うさぎたちや人物を題材にした抽象画を書いて過しているピーターたちの友達のピア嬢(ローズ・バーン(Rose Byrne)が住んでいて、ピーターたちとトーマスとの争いを上手くさばいてくれているのだが、何時ともなく二人は恋に落ちる。
   ところが、ピーターたちのいたずらに業を煮やしたトーマスが小型のダイナマイトを調達してきて使い始めたのだが、発火装置のリモコンを拾ったピーターがボタンを押して、あやまって、大木の根元にあるうさぎの住まいに置いてあったダイナマイトを爆発させてしまい大木を倒して台無しにしたのだが、トーマスの仕業だと勘違いしたピアに叱られてトーマスはロンドンへ帰ってしまう。
   大木が倒れて、うさぎの住まいが壊れて、大木がピアのアトリエを押しつぶしてしまったので、ピアは引っ越しをしようとする。
   ここからが、感動的で、ピーターとベンジャミンは、列車などを乗り継いでロンドンのハロッズに行ってトーマスに、早く帰って引き留めないと、ピアが行ってしまうと急き立てて連れ戻す。
   このシーン、何故か、ノッチングヒルの恋人のラストを思い出した。

   田舎もののピーターたちが、ロンドンの洒落た紳士然としたネズミに、ハロッズが何処かと尋ねて、急いでいるのに、興味のない今様ロンドンを案内されるくだりなど、正に、絵本の世界で面白い。

   元々、マクレガー親父の畑も、うさぎたちや動物の住処を人間が取り上げたもの。
   共生こそ大切だと言う精神。
   人間とうさぎたちの心の触れ合いを、ほのぼのとしたタッチで描いた、心温まる佳作である。
   
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国立劇場・・・文楽「彦山権現誓助剣」

2018年05月20日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   5月国立劇場の文楽は、吉田玉助襲名披露公演の「本朝廿四孝」などの第一部は、販売直後にソールドアウトで大人気だが、第二部の「彦山権現誓助剣」も、非常に意欲的な舞台で、素晴らしい。

   長門国郡家の剣術指南役:八重垣流の吉岡一味斎の高弟で彦山の麓毛谷村に住む六助(玉男)を主人公とする浄瑠璃である。
   同じ指南役:微塵流の京極内匠(玉志)が御前試合で、一味斎に負けた恨みで暗殺したので、長女お園(和生)と次女のお菊(勘彌)が息子や弥三松(簑太郎)を伴って敵討ちに旅立ち、途中で、お菊が内匠に殺され、苦難の末に、お園が、父が許嫁と決めていた毛谷村の六助宅に辿り着き、事情を聴いた六助が再び御前試合で内匠を打ち据えてお園たちに仇討をさせると約束する。
   この舞台は、お菊が暗殺される「須磨浦の段」から、「瓢箪棚の段」「杉坂墓所の段」と続き、「毛谷村六助住家の段」まで演じられ、
  裃姿に威儀を正した六助に、梶原源太景季の故事に倣って、お園が梅の枝を肩に挿しかけて武運を祈るシーンで幕となっている。
   普通演じられるのは、「毛谷村六助住家の段」で、2年前の歌舞伎座の四月大歌舞伎で、「杉坂墓所・毛谷村」の場で、仁左衛門が六助を演じて、素晴らしい舞台を見せてくれている。
   
   この物語は、戦国時代の武将であり、加藤清正の家臣であった剣豪貴田孫兵衛の若かりし頃、毛谷村に住んでいた六助として、女の仇討ちの助太刀したという物語が脚色されて、これが、人形浄瑠璃『彦山権現誓助剣』として上演されて、歌舞伎化もされたと言うことである。
   この毛谷村の段だけをとっても、結構、話が面白く、特に、六助のキャラクターである。
   免許皆伝の達人武芸者でありながら、望まれても仕官せずに毛谷村に隠棲しているのだが、底抜けのお人好しで、人の老婆を背負ってやってきた仇の弾正(実は内匠)に、親孝行したいので、御前試合で六助に勝てば召し抱えると言うことなので、負けてくれと頼まれたので、六助は、恥を忍んで頼む浪人の孝心に痛く感じ入って負けてやるのだが、直後に、居丈高になった弾正に嘲られて扇で眉間を割られても、母を亡くした直後でもあり、供養になったと喜ぶ始末。
   したがって、先の内匠が背負ってきた老婆が、樵仲間の老母で、その亡骸を持ち込まれて仇を取ってくれと頼まれて、初めて内匠に騙されたことを知って、形相を変えて微動だにせず棒立ち。
   仁左衛門は、血相を変えて憤怒の形相に変わったのだが、その日、「身替御前」で、愛人との後朝の別れから、ほろ酔い機嫌で帰宅して恐妻にこっぴどく懲らしめられるにやけた締まらぬ右京を演じていて、その落差の激しさを感じて面白かったのを思い出す。

   それだけに、先に、一夜の宿を乞う老女(実は一味斎の妻:勘壽)が来て「わしを親にせぬか」と言われて、とにかく、奥に入れて休ませ、また、六助と名前を聞いただけで女武者のように荒々しかったお園が、「天晴れよい殿御じゃ」とうっとりとして、前に寄り添い後ろに立ち迫ってくると、何のことか分からず、周章狼狽、
   ところが、この騙した弾正が師の仇だと分かると一気にテンションがアップして、仇討モードに変換。

   したがって、立役のエース玉男の人形が、雄々しく勇壮に見えるのは、ラストシーンの梅の花を背負った出陣の雄姿のみ。
   しかし、やはり、この舞台では、魅せて見せるのは、この六助の人形、
   玉男は、実に上手く、その朴訥で純粋無垢な達人を浮き彫りにしていて魅せてくれた。
   
   今回、観ていて、和生のお園に、感激しきりであった。
   男勝りの虚無僧姿で現れたお園が、六助が許嫁だと分かると、急に女らしくしとやかになって甲斐甲斐しく変わっていく様子が、実に面白いのだが、相手の素晴らしい男が、父から言われていた許嫁だと分かった瞬間のお園の中空を仰ぎながら、夢心地になってうっとりとする表情の神々しさ、
   このお園のかしらは、老女方だと言うことで、ややふっくらとした感じの顔で、能面の如く表情は変わらないのだが、丁度、この時は、正面少し下手よりの最前列で見上げていたので、女の人は幸せの絶頂期には、このような表情になるのか、生身の婦人のようなリアルな美しさに、ドキッとするほど感動したのである。
   素晴らしい能面や仏像を仰ぎ見て、動く表情や見る位置や角度を変えると、生きた人間の顔のように変化するのを経験しているので、今回は、和生の遣うお園の人間を直に感じて、そのビビッドな美しさに感激しながら、楽しませて貰った。
 
   もう一つ、幼児の人形一子弥三松を遣った勘十郎の子息簑太郎だが、今回は、出ずっぱりと言う程の重要な登場キャラクターを器用に演じていて、進境の著しさを感じた。

   毛谷村の段の奥、千歳太夫と富助の感動的な浄瑠璃も忘れ難い。
   通しの面白さも当然だが、素晴らしい舞台であった。
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国立能楽堂…能・金春流「杜若」

2018年05月19日 | 能・狂言
   久しぶりの能「杜若」である。
   「伊勢物語」の九段「から衣きつつなれにし」に想を取った在原業平を主題とした能だが、業平本人は勿論、恋人であった二条の后高子も登場せず、登場するのは、シテ/杜若の精とワキ/旅の僧だけで、また、中入のない一場物で、間狂言もなく、作リ物も出て来ない。
   後半、物着で、業平の冠と二条の后高子の衣を身に着けたシテが、舞う。
   杜若の精は、業平は歌舞の菩薩が人間に姿を変えて現れたのであり、その業平が和歌に詠んだ草や木も仏法の恵みを受けるのだと語り、業平の人生を語りながら舞い続け、優雅な序ノ舞を舞い、夜が白み始めると、「草木国土悉皆成仏」の教え通りに成仏できたことを喜び、夜明けとともに消えて行く。
   

   この「草木国土悉皆成仏」だが、
   狩猟採集文化であった縄文文化では、生きとし生けるものとの一体感を持っていて、山や川も木や植物や魚も、みんな人間のように生きているものだと考えていた。草や木も、国や鉱物も生きていて、仏性を持っている。そして、それらはすべて成仏できる。植物ばかりか、国や国土、すなわち鉱物や自然現象も実は生きていると言う思想が日本文化の根底にあるところに、仏教が入ってきて日本仏教に同化した。と梅原教授は言う。
   以前、梅原猛著「学ぶよろこびー創造と発見ー」を読んで、この世を救うのは、この日本の仏教哲学だと書いてあったのをレビューしたことがある。
   梅原教授は、自然を何か霊の力が働いているものと考えたアリストテレスに価値を観出して、全く無機的数学的方法によって、見事に、自然科学及び人間が自然を支配する技術を無条件に肯定するデカルト哲学に対して、この自然観そのものが間違っているのではなかろうか、と言う認識に立ち、
   科学技術が、近代においてものすごく発展して、人間の自然征服がほぼ完了し、自然エコシステムを壊して、環境破壊がますますひどくなって、地球には人間が住めなくなるのは、もう、はっきりしている、自然との共生を志向した新しい文明、新しい哲学が必要だ、と考えた。
   「草木国土悉皆成仏」と言う思想は、狩猟採取文化が長く続いた日本に残ったが、かっての人類共通の思想的原理ではなかったかと思う。
   そのような原初的・根源的思想に帰らない限り、人類の未来の生存や末永い発展は考えられない。と言う。
   やっと、「草木国土悉皆成仏」と言う新しい哲学の基本概念を得たにせよ、西洋哲学のしっかりした批判によって、新しい「人類の哲学」と言うものを作り出せるかどうかは疑わしいが、この哲学を作らない限り、死ぬに死ねないのである、と言うのである。

   宗教については、十分な知識がないので、何とも言えないが、生命体としてのエコシステムを考える時には、人間中心の考え方に立つのではなく、当然、「草木国土悉皆成仏」と言う視点で考えなければ、この宇宙船地球号は、滅びるのは必定であろう。
   それに、AIが人知人能を超えつつある現在、梅原教授の指摘するように、今の西洋哲学優位の考え方をしている限り、AIや機械に人間が凌駕なり駆逐されてしまうのは必然であろうから、新しい「人類の哲学」を創造することが必要であろうと思う。

   話は変わるが、
   この能における業平の二条の后への思慕は分かるが、何時も解せないのは、業平が衆生済度の菩薩だと言うことである。
   読んでないので偉そうなことは言えないが、「伊勢物語」の中世の注釈書「和歌知顕集」「冷泉流伊勢物語抄」か何かに、業平は馬頭観音の生まれ変わりだと書いてあるとか。
  交わった女性が3733人、業平は、寂光浄土からこの世に化現した歌舞の菩薩で、二条の后をはじめ多くの女人と契りを結んだのは衆生済度のためだと言う件である。
   金春禅竹の作と言うのだが、観阿弥の作の世阿弥の改作だと言われている能「江口」でも、終曲では、遊女である江口の君が普賢菩薩となって、舟は白象と化して白雲に乗って西の空に消えて行く。のだが、当時は、このような、宗教観があったのかと思うと不思議である。
   
   つまらないことを考えずに、すんなりと能を鑑賞すればよいとは思っているが、悲しいかな、能ファン初歩では、ついつい、理屈が勝った見方をしてしまう。

   シテ/杜若の精 櫻間金記
   ワキ/旅僧   野口能弘
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團菊祭五月大歌舞伎・・・「弁天娘女男白浪」

2018年05月18日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月は、菊五郎の弁天小僧菊之助を観に、歌舞伎座へ行った。
   勿論、菊五郎の弁天小僧は、3回以上は観ている勘定で、このブログにも2回は書いており、最初は、10年前の團菊祭の時で、
   菊五郎の弁天小僧に、團十郎の盗賊の親分然とした豪快な日本駄右衛門、悪餓鬼でコミカルな左團次の南郷力丸、白井権八風の美少年盗賊の時蔵の赤星十三郎、どこかニヒルで知的な忠信狐風の三津五郎の忠信利平と言った決定版の白浪で、
   次は、この新歌舞伎座の柿葺落四月大歌舞伎の「弁天娘女男白浪」で、團十郎が逝去していたので、吉右衛門が、日本駄右衛門を演じていた。

   ところで、今回は、三津五郎も逝ってしまって、時蔵も退場したので、三役は、一気に若返って、昔の三助、海老蔵の日本駄右衛門、菊之助の赤星十三郎、松緑の忠信利平に代わって、大分雰囲気が違ってきた。
   特に、團十郎から海老蔵への代わり方は、直系の芸を継承している筈なのだが、私には、團十郎の印象が強く残っていて、全く違った舞台であった。
   海老蔵の登場は、一寸出の他の二人と違って、浜松屋の場でも、極楽寺山門の場などでも、堂々たる日本駄右衛門を演じて素晴らしいのだが、泰然自若、威厳と風格に満ちた團十郎とは違って、若さとエネルギー故か、一寸、ギラギラした雰囲気であった。

   何故、弁天小僧たちが、浜松屋に強請に来てまんまと騙して100両をせしめようとした寸前に、何処からか現れた日本駄右衛門が、弁天小僧を女と見破って強請を失敗させるのかよく分からなかったが、その後、日本駄右衛門が奥で感謝の酒席で持てなされて、安心させて、泊った日本駄右衛門の導きで、4人の仲間の白浪が、浜松屋に押し入って、身代根こそぎ奪おうと言う算段だと言う。
   尤も、後の舞台で、弁天小僧が昔迷子になった浜松屋の実の息子で、現在の、浜松屋の息子の宗之助が、昔生き別れた日本駄右衛門の息子だと言うことが分かるので、日本駄右衛門たちは、微妙な会話を交わして、何もなく退散する。
   この話は、先の團菊祭の舞台の「浜松屋の蔵前の場」で演じられていて、興味深かった。

   「稲瀬川 五人男勢揃い」の場で、白浪五人男が稲瀬川へやってきて勢揃いし、名乗りを上げて大見得を切るのだが、既に取り囲まれていて捕手と渡り合う。
   大盗賊一味が、いなせで粋な格好をして川っ淵に並んで、一人ずつ名乗りを上げ、河竹黙阿弥節の名調子で、来歴や悪の軌跡など個人情報を滔々と述べるこの舞台。
   アウトローの大盗賊を、悪の華としてヒロイックに檜舞台に引き出して、舞台映えのする背景と衣装で魅せて、流麗な美文調で観客を楽しませる・・・他にはない江戸歌舞伎独特の美学であろう。
   

   「極楽寺屋根・山門・滑川土橋」と続き、極楽寺の大屋根で派手な立ち回りを演じた弁天小僧は割腹して果て、南禅寺の山門屋根の石川五右衛門バリに、極楽寺山門に陣取った日本駄右衛門は、青砥左衛門藤綱(梅玉)に猶予を貰って落ちて行く。

   さて、見ものは、冒頭の菊五郎の、鎌倉雪の下の浜松屋に、美しい武家娘姿で、早瀬主水の息女お浪と名乗って、婚礼支度の買い物に来るハイテーンの井出たちで、75歳の人間国宝と思えないような初々しさ美しさ。
   それが、男の弁天小僧だと見破られて、ヤクザの盗賊に豹変して、大見得を切っての流れるような名調子の長台詞
   この口絵写真の浜松屋の場での弁天小僧の見顕し
   この菊五郎の名科白を聴きたくてこの歌舞伎を観に来ているようなもので、

   ”知らざあ言って 聞かせやしょう 
   浜の真砂と 五右衛門が 歌に残せし 盗人の種は尽きねぇ 七里ヶ浜
   その白浪の 夜働き
   以前を言やぁ 江ノ島で 年季勤めの 児ヶ淵・・・
   ・・ここやかしこの 寺島で 小耳に聞いた 祖父さんの似ぬ声色で 小ゆすりかたり
   名せぇ由縁の 弁天小僧 菊之助たぁ 俺がことだ”
   大向こうから、「待ってました!」の掛け声がかかる。

   私は、所詮、アウトローの大盗賊を、美化すると言う感覚には、いつも、多少違和感を感じているのだが、例えば、シェイクスピアのオテロのイヤーゴのように徹頭徹尾悪質な救いようのないキャラクターを描くのとは違って、何処か人間味と弱さをにじませた人物に仕立てて、日本語の素晴らしさと視覚を満足させるセッティングで魅せて見せる芝居を作り上げる、その美学の冴えは、流石であると思う。

   理屈抜きで、菊五郎の弁天小僧を観て満足する。
   これが、歌舞伎鑑賞の醍醐味かも知れないと思っている。
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大船フラワーセンター・・・ばら満開

2018年05月16日 | 鎌倉・湘南日記
   昨年、ばら園を大リストラして、相当、新苗に植え替えたので、それが開花して、華やかに咲き乱れている。
   よく整備されて造形されている京成バラ園ほどの豪華さや華やかさはないが、ばらの咲き具合や乱舞の模様には、全くそん色はない。

   今年は、気候の関係で、花のシーズンが早まったようで、わが庭では、まだ咲いているシャクヤクの花は、完全に終わってしまっていて、シャクヤク園は、緑一色になってしまっていた。
   花菖蒲園は、一か所開花しているところはあったが、他の開花は数株程度で、まだ、蕾は固い。
   ユリは、少し、蕾が膨らんで色づき始めたので、来週くらいには、きれいに咲くであろう。
   
   
   
   
   

   さて、ばら園だが、ベルサイユのばらは、咲き乱れていたが、この花は、完全に開花して、風雨に晒されると花姿が乱れて絵にならないので、咲きかけのショットを。
   皇室の花のコーナーは、やはり、難しいのであろう、か細かったイングリッシュローズのプリンセス・マサコは消えていて、プリンセス・ミチコだけが、華やかに咲いていた。
   株数は少なくなったが、京成バラ園のピンクのうららは、華やかである。
   
   
   
   
   

   オランダのインタープランツ社作出のバビロンの寄せ植えコーナーがあって、華やかに咲いていて綺麗であった。
   黄色で目立つのは、ストラボ バビロン。
   
   
   
      
   私の好きなイングリッシュローズは、殆ど見つけられなかったが、アトランダムに撮った写真の一部を紹介すると、次の通り。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   この日は、もう、何十年も前に買った、銀塩フィルムカメラ用の古い望遠ズーム・レンズF2.8 80-200ミリをつけて、絞り開放で撮り続けた。
   重くて、歳よりには機動性に欠けるが、別にデジタル仕様でなくても、まずまずの写真は撮れる。
   わが庭では、これも古いマクロF2.8 105ミリのレンズを使っている。
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わが庭・・・ザ・ポエッツ・ワイフ、ベルサイユのばら咲く

2018年05月15日 | わが庭の歳時記
   ばらが咲き始めたが、やはり、日当りの関係であろうか、花付きが思ったほどよくないのだが、家庭の庭では、私のように沢山の花木を植えておれば、ばらを特別扱いするわけにも行かず、仕方がないとは思っている。

   イングリッシュローズの黄色いばらザ・ポエッツ・ワイフやアブラハム・ダービーが咲き始めた。
   プリンセス・アレキサンドラ・オブ・ケントも咲き続けていて優雅である。
   
   
   
   
   
   
   
   
   京成バラ園のばらは、ベルサイユのばら、ハンスゲーネバインなどが咲いている。
   
   
   
   
   
   
   

   オランダのばらのバビロンも、小さな花だが開きはじめた。
   完全に開き切ったら、複色のコントラストが面白いが、やはり、ばらは、開花し始めてほころび掛けたところが、一番美しいように思う。
   庭には野性の野ばらが生えていて、小さな一重の花を咲かせている。
   
   
   
   
   
   
   

   柿の花が咲いて結実し始めた。
   ここに来て庭植えしたのだが、まず、「正月」が花を咲かせたので、桃クリ3年柿8年と言うので、これからは、実がなるのであろう。
   同じ時期に植えたもう一本、「錦繡」の方は、来年以降なのであろう。
   前からの富有柿は、沢山花をつけている。
   シャシャンボと言う花木も、スズランのような小花をびっしりとつけていて面白いのだが、他にも小花をつけた花木が植わっている。
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   キウイも沢山花をつけている。
   開花した時は、白い花だが、黄変して落花する。
   今年は、豊作のようである。
   だいだいも白い花をつけている。
   
   
   
   

   ノカンゾウ(野萱草)も咲き出した。
   ワスレグサ(忘れ草)と言うようで、花が一日限りで終わると考えられたため、英語ではDaylilyと言う。
   確かに、咲いたと思っていたら枯れていた。
   
   
   
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エマニュエル・トッドほか「世界の未来 ギャンブル化する民主主義、帝国化する資本」

2018年05月14日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   時事評論集だが、冒頭のトッドの”私たちはどこに行くのか”について感想を書く。
   アマゾンの次のサブタイトルを列挙すれば、ほぼ、内容が分かろう。
   「核家族」と「民主主義」があった/英米で再登場し、欧州大陸で消える民主主義/民主主義の土台を崩す高等教育/家族の形と民主主義の形/民主主義は普遍的ではない/「場所の記憶」という視点/大国であることをあきらめた日本/子供を増やしたければ、もっとルーズに/中国が直面する人口動態の危機/私と日本との関係

   まず、民主主義についてのトッドの考え方は、一般論と一寸違っていて、人類の最初の家族システムは核家族であって、この核家族の個人主義的な価値観は、リベラル・デモクラシーの基本的な思想に繋がっていると言うのである。
   家族の歴史も、政治の歴史も、元々、逆であって、メソポタミアなど中東や中国の過去をずっと遡って行けば、帝国の建設だとか、封建君主同士の抗争などの歴史の前に、民主的か寡頭政治的かいずれかの形での代表制があり、ロシアも、専制的なモスクワ大公国より前に、ノボゴロドの自由都市があった。民主主義は、小さなグループ間の組織であるから、つねにいくらか排外的である。とも言っている。

   したがって、今回のトランプ現象やBrexitも、大衆の排外的な投票の結果であり、これは、普遍主義的で文明化された国の民主主義にとって後退だと見做されているが、そうではなく、この排外性は、民主主義の始まりであり、再来の始まりである。家族の次元でも政治の次元でも、自由であった方が、社会は創造的であり、英米世界はこれからも世界をリードして行くと言う。

   余談だが、後段で、トッドは、日本が、子供を増やしたいと思うのなら、もっと、男女関係はルーズになれと言って、自分は、4人子供を持っているが3人の間に生まれた子だと言いながら、最初の婚外子の出生届に自責の思いで行って弁解したら、そんなことはどうでもよいと言われたと言う。
   大統領に愛人と子供がいても気にしないし、子供の多数が婚外子だと言う国フランスには及びもつかないが、日本も少しくらいは、自由恋愛に近づきつつあるのであろうか。

   さて、欧州については、絶望しており、もう何も起きなくなっており、解体して行くのを見るばかりで、民主主義はすでに存在しなくなっており、欧州議会など壮大なコメディーだと言う。
   高等教育については、最早、知性だとか創造性を発展させる教育ではなくなってしまっており、体制順応主義、服従、社会規範の尊重などを促すだけの理性と批判的精神を失った教育になっており、最高峰とも言うべき高等教育を受けた人の中でも更に上澄みの超エリートに統治されているフランスが、経済的にも政治的にも失敗し、より強い隣国(ドイツ)に従属する状態にある。

   尤も、民主主義は、別に、神聖なものではなく、人々が自分で決め、エリートがその決定を尊重する制度のことで、民衆が愚かしければ、民衆が尻拭いをする。
   
   体制順応的で、固定してしまった社会を嫌って、個人主義的で、差別化された民衆の自由な意志によって決定された社会システムを民主主義だと言う。
   トランプ現象もBrexitも、アメリカ国民が、イギリス国民が、自由に投票で民意を表現した結果であり、何の変化も引き起こさない体制順応型の固定した社会システムを、自ら打ち破った、これこそ、民主主義の発露であって、進歩思考の姿勢だと言うことであろう。

   トッドの主張も分からないわけではないが、なるほどと思うのには、少し、距離を感じている。
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