日経の主催で、一橋講堂で、「大学改革とグローバル人材の育成」と言うテーマでシンポジウムが開かれたので聴講した。
聴衆は、教育関係の人が多いのだろうと思うが、若い男女が多く詰めかけて来ていて、私たちのように、白髪かハゲ気味の年寄りは殆ど居なかったのが興味深かった。
最初の基調講演は、清家篤慶應義塾長の「今日の大学に求められる役割」
技術や市場などの激烈な変化によって、社会や企業の求める能力が、過去の延長線上では通用しなくなり、サステイナビリティが問われる先の見えないグローバル時代になったので、学生自身が、自分の頭でしっかりと物事を考える能力を身に着けることが、大学教育で最も大切だと熱っぽく語った。
自分自身で、現実を直視して、何が問題なのかテーマを選んで、自分自身の頭で考え抜いて、外部環境の変化に対応した系統的でシステマチックな考え方や仮説を導き出して、検討、検証して、解決法なり結論を得る能力を涵養すると言うことであろうか。
続いて強調したのは、学生にしっかりと勉強して貰うと言うことと、
幅広い教養教育の重要性である。
現在の学生が如何に勉強をしていないかは、次に基調講演に立った川村隆日立製作所会長が、大卒新入社員に、せめても、高校生以上の能力(学力)を持って入って来て欲しいと語っていたことが如実に示している。
池上教授が、大学入学時が最高で、卒業時に最低の学力と言うことかと付け加えていたが、何十年も前の私の記憶だが、入社試験で同じ技術の問題を出題したら、高専の学生の成績が、大卒や大学院卒よりも高かったのを覚えており、あながちウソでもなさそうであると思っている。
もう一つの教養教育、所謂、リベラル・アーツ教育の重要性だが、これは、パネリストの山内進一橋学長も山田信博筑波大学長も、そして、当然、池上彰東工大リベラルアーツセンター教授も、総ての人が異口同音に強調していた。
このテーマについては、このブログで、絶えずその重要性を強調し続けている小林陽太郎さんの話や、昨年6月3日付で書いたブックレビュー”中嶋嶺雄著「世界に通用する子供の育て方」”など多くの機会を見て、論じ続けて居るので蛇足は避けたい。
この中嶋嶺雄学長のリベラル・アーツ教育重視の国際教養大学が、如何に、素晴らしい成果を上げているかは、
日経に、”人材育成で注目、国際教養大が首位 東大に大差”と言う記事を書かしめたと言うことで十分であろう。
”日本経済新聞社が主要企業の人事トップに「人材育成の取り組みで注目する大学」を調査したところ国際教養大学がトップにランキングされました。”とホームページに掲載されているが、
2004年に設立されたこの新設の秋田の県立大学の快挙と言うか、快進撃に対して、いじめ自殺さえまともに解決できない文科省なり日本の教育界がどう応えるかとと言うことであろう。
川村会長が、日本のトップ経営者として、大学で4年間工学を勉強しただけのリベラル・アーツ教養の不足の自分には、全面的な人格のぶつかり合いであるグローバル・ビジネスにおいて、殆どPhDを持った教養豊かな欧米のトップとは、戦いにならず、ダンテがベアトリーチェに何所であったとか、日本の文化などについても、宗教は、能は、と聞かれて、恥ずかしい思いをしたと語っていた。
この点について、先の中嶋学長の本のブックレビューで論じた箇所を引用する。
”中嶋学長は、それ以前の問題として、学位の問題に触れて、一昔前の出世コースであった東大法学部卒の官僚や大学中退の外交官、所謂日本のエリートが、現在の国際社会で殆ど通用しないのは、学位を持っていないからだと言う。
特に、外交官試験にパスしたので、大学を中退して外交官になるのがエリートだとした風潮など愚の骨頂だと言うことであろう。
ノーベル賞学者で、学位のない人は稀有だが、今や、先進国は勿論、新興国でも、政財界や官界などのトップクラスは、殆ど、博士号か、少なくとも、MBAやMAを持っていると言う。
学位のない上に、リベラル・アーツの素養に欠け、語学力などの不足でコミュニケーション力に欠けるとなれば、日本の外交官や官僚、企業のエリート達が、グローバル競争に伍して行けないのは当然で、このあたりを見て、ピーター・ドラッカーは、日本人が、一番、グローバル性に欠けていると指摘したのかも知れない。
この中嶋説には、本来、大学は、人格そのものを涵養する教養教育の場であって、専門教育は、大学院で教え学ぶべきであって、大学院を出なければ学卒として認めないと言う欧米流の高等教育では常識の教育システムが念頭にあるのであって、そのために、トップに立つエリートは、学位を持っていなければならない、そうでなければ、一人前に国際舞台では通用しないと言うことである。
それも、世界中で認知されているトップクラスの高等教育機関での学位でなければならないと言うのだから、極めてハードルが高く、最近の日本の若者の欧米留学率の急速な低下は、憂慮すべきかも知れない。”
私自身は、ウォートン・スクールのMBAで、PhDではないので偉そうなことは言えないが、それでも、欧米でビジネスを展開し、欧米の経済人と渡り合うためには、このMBAが、結構、パスポートとして役に立ち、ロンドンなどでは、活躍していた同窓生も沢山いたし、所謂、欧米社会では、貴族制度が消えてしまった分、学位と卒業校がものを言って、学歴社会の様相を強くしているのであろうと思う。
私の場合、大学時代から、大学の授業と言うよりは、奈良や京都の古社寺散策に明け暮れたり、とにかく、手当たり次第に雑学を勉強し、海外に出てからは、暇を見つけては、歴史遺産や文化的文物、博物館、美術館、それに、オペラやクラシック音楽鑑賞、それに、シェイクスピア等々に入れ込んでいたし、本も結構読み続けているので、欧米人との会食やパーティ、或いは、チャールズ皇太子とも5分くらい話したこともあるし、ビジネス上でも、リベラル・アーツと言うと大袈裟だが、常識的な話題やトピックス上での会話やコミュニケ―ションでは、欧米人に引けを取ったり問題を感じたことはなかった。
しかし、問題は、私の場合には、スポーツを一切やらないので、この点は、文武両道を重んじるイギリスでは、ビジネス上問題になったことはなかったが、多少、引け目を感じていた。
イギリスでは、名門のジェントルマン・クラブに入るのは、必須要件だが、私の場合、女王陛下が総裁のロイヤル・オートモビル・クラブの入会面接で、ゴルフ・クラブも2か所所有しており、クラブには、屋内プールは元論スポーツ施設が揃っているところなので、この点を、質問され、日本人が目の色を変えて入れ込むゴルフをやらないと言うと怪訝な顔をされた。
この国には、ゴルフの他にも、大切なシェイクスピアの戯曲や、アンドリュー・ロイド・ウェバーのミュージカルがあって、それを鑑賞するのに忙しいのだ応えたら笑っていたが、勿論、入会はさせてくれた。
ところで、アメリカのトップ経営者には、工学や医学などの学位にMBAの学位を持ったダブルメイジャーの人が結構いるのだが、所謂、文理融合のΠ型人間である。
私の場合には、経済学のBAと経営学のMBAで、同質なので、もう少し、理系の勉強をすべきだったと思っている。
人生を繰り返せるのなら、もう一度勉強をやり直したいと思っているのだが、このシンポジウムでも言われていたように動機づけが大切で、幸い、私の場合には、京大入試で、社会二科目、理科二科目受験で、理科で、生物と化学を取って勉強したのが、幾何学を加えた数学とともに、結構、その動機づけのお蔭か、その方面への関心は薄れていないし、役に立っていると思っている。
私立大学では、たったの三科目受験で、入学でき、数学が出来なくても経済学部に入れたのだが、これなどは、リベラル・アーツ以前の問題だと思っているのだが、いずれにしろ、学生時代は、死に物狂いで勉強して、社会に出てからも、生涯教育を続けない限り、生きて行けない時代になったと言うことだけは、事実のようである。
蛇足ながら、このシンポジウムでは、清家塾長の企業の要望に応えるような教育をと言う点が協調されて報道されているのだが、戦後の日本の教育は、リベラルアーツ重視の戦前の旧制高等学校制度を放棄して、産業界の求める互換性の利くスペアパーツばかりを育成する教育に邁進して、産業立国日本を築き上げてきた。その結果が、今日の体たらくである。
もう一つ、東大の秋入学問題が話題になったが、これなどは、世界の標準から逸脱している4月スタートの日本の政治経済社会制度が、問われているので、単にグローバル・スタンダードに合わせるかどうかの問題であって、手段にしか過ぎないと思っている。
国運をかけた大問題のように教育界を巻き込んでいるのも異様だが、結局は、世界の潮流に合わせざるを得ず、日本社会システム全体のリセットが必要で、なし崩し的に実施されるのであろうから大した問題でもなかろう。
そんなことよりも、今、日本は、宇宙船地球号が滅び去るかどうかという歴史の瀬戸際に立っているのだと言う認識に立って、人類の将来に取って、そして、喫緊には、次世代を担う若者たちにとって、最高の高等教育とは如何にあるべきか、崇高なる教育の理念が問われていると言うことである。
聴衆は、教育関係の人が多いのだろうと思うが、若い男女が多く詰めかけて来ていて、私たちのように、白髪かハゲ気味の年寄りは殆ど居なかったのが興味深かった。
最初の基調講演は、清家篤慶應義塾長の「今日の大学に求められる役割」
技術や市場などの激烈な変化によって、社会や企業の求める能力が、過去の延長線上では通用しなくなり、サステイナビリティが問われる先の見えないグローバル時代になったので、学生自身が、自分の頭でしっかりと物事を考える能力を身に着けることが、大学教育で最も大切だと熱っぽく語った。
自分自身で、現実を直視して、何が問題なのかテーマを選んで、自分自身の頭で考え抜いて、外部環境の変化に対応した系統的でシステマチックな考え方や仮説を導き出して、検討、検証して、解決法なり結論を得る能力を涵養すると言うことであろうか。
続いて強調したのは、学生にしっかりと勉強して貰うと言うことと、
幅広い教養教育の重要性である。
現在の学生が如何に勉強をしていないかは、次に基調講演に立った川村隆日立製作所会長が、大卒新入社員に、せめても、高校生以上の能力(学力)を持って入って来て欲しいと語っていたことが如実に示している。
池上教授が、大学入学時が最高で、卒業時に最低の学力と言うことかと付け加えていたが、何十年も前の私の記憶だが、入社試験で同じ技術の問題を出題したら、高専の学生の成績が、大卒や大学院卒よりも高かったのを覚えており、あながちウソでもなさそうであると思っている。
もう一つの教養教育、所謂、リベラル・アーツ教育の重要性だが、これは、パネリストの山内進一橋学長も山田信博筑波大学長も、そして、当然、池上彰東工大リベラルアーツセンター教授も、総ての人が異口同音に強調していた。
このテーマについては、このブログで、絶えずその重要性を強調し続けている小林陽太郎さんの話や、昨年6月3日付で書いたブックレビュー”中嶋嶺雄著「世界に通用する子供の育て方」”など多くの機会を見て、論じ続けて居るので蛇足は避けたい。
この中嶋嶺雄学長のリベラル・アーツ教育重視の国際教養大学が、如何に、素晴らしい成果を上げているかは、
日経に、”人材育成で注目、国際教養大が首位 東大に大差”と言う記事を書かしめたと言うことで十分であろう。
”日本経済新聞社が主要企業の人事トップに「人材育成の取り組みで注目する大学」を調査したところ国際教養大学がトップにランキングされました。”とホームページに掲載されているが、
2004年に設立されたこの新設の秋田の県立大学の快挙と言うか、快進撃に対して、いじめ自殺さえまともに解決できない文科省なり日本の教育界がどう応えるかとと言うことであろう。
川村会長が、日本のトップ経営者として、大学で4年間工学を勉強しただけのリベラル・アーツ教養の不足の自分には、全面的な人格のぶつかり合いであるグローバル・ビジネスにおいて、殆どPhDを持った教養豊かな欧米のトップとは、戦いにならず、ダンテがベアトリーチェに何所であったとか、日本の文化などについても、宗教は、能は、と聞かれて、恥ずかしい思いをしたと語っていた。
この点について、先の中嶋学長の本のブックレビューで論じた箇所を引用する。
”中嶋学長は、それ以前の問題として、学位の問題に触れて、一昔前の出世コースであった東大法学部卒の官僚や大学中退の外交官、所謂日本のエリートが、現在の国際社会で殆ど通用しないのは、学位を持っていないからだと言う。
特に、外交官試験にパスしたので、大学を中退して外交官になるのがエリートだとした風潮など愚の骨頂だと言うことであろう。
ノーベル賞学者で、学位のない人は稀有だが、今や、先進国は勿論、新興国でも、政財界や官界などのトップクラスは、殆ど、博士号か、少なくとも、MBAやMAを持っていると言う。
学位のない上に、リベラル・アーツの素養に欠け、語学力などの不足でコミュニケーション力に欠けるとなれば、日本の外交官や官僚、企業のエリート達が、グローバル競争に伍して行けないのは当然で、このあたりを見て、ピーター・ドラッカーは、日本人が、一番、グローバル性に欠けていると指摘したのかも知れない。
この中嶋説には、本来、大学は、人格そのものを涵養する教養教育の場であって、専門教育は、大学院で教え学ぶべきであって、大学院を出なければ学卒として認めないと言う欧米流の高等教育では常識の教育システムが念頭にあるのであって、そのために、トップに立つエリートは、学位を持っていなければならない、そうでなければ、一人前に国際舞台では通用しないと言うことである。
それも、世界中で認知されているトップクラスの高等教育機関での学位でなければならないと言うのだから、極めてハードルが高く、最近の日本の若者の欧米留学率の急速な低下は、憂慮すべきかも知れない。”
私自身は、ウォートン・スクールのMBAで、PhDではないので偉そうなことは言えないが、それでも、欧米でビジネスを展開し、欧米の経済人と渡り合うためには、このMBAが、結構、パスポートとして役に立ち、ロンドンなどでは、活躍していた同窓生も沢山いたし、所謂、欧米社会では、貴族制度が消えてしまった分、学位と卒業校がものを言って、学歴社会の様相を強くしているのであろうと思う。
私の場合、大学時代から、大学の授業と言うよりは、奈良や京都の古社寺散策に明け暮れたり、とにかく、手当たり次第に雑学を勉強し、海外に出てからは、暇を見つけては、歴史遺産や文化的文物、博物館、美術館、それに、オペラやクラシック音楽鑑賞、それに、シェイクスピア等々に入れ込んでいたし、本も結構読み続けているので、欧米人との会食やパーティ、或いは、チャールズ皇太子とも5分くらい話したこともあるし、ビジネス上でも、リベラル・アーツと言うと大袈裟だが、常識的な話題やトピックス上での会話やコミュニケ―ションでは、欧米人に引けを取ったり問題を感じたことはなかった。
しかし、問題は、私の場合には、スポーツを一切やらないので、この点は、文武両道を重んじるイギリスでは、ビジネス上問題になったことはなかったが、多少、引け目を感じていた。
イギリスでは、名門のジェントルマン・クラブに入るのは、必須要件だが、私の場合、女王陛下が総裁のロイヤル・オートモビル・クラブの入会面接で、ゴルフ・クラブも2か所所有しており、クラブには、屋内プールは元論スポーツ施設が揃っているところなので、この点を、質問され、日本人が目の色を変えて入れ込むゴルフをやらないと言うと怪訝な顔をされた。
この国には、ゴルフの他にも、大切なシェイクスピアの戯曲や、アンドリュー・ロイド・ウェバーのミュージカルがあって、それを鑑賞するのに忙しいのだ応えたら笑っていたが、勿論、入会はさせてくれた。
ところで、アメリカのトップ経営者には、工学や医学などの学位にMBAの学位を持ったダブルメイジャーの人が結構いるのだが、所謂、文理融合のΠ型人間である。
私の場合には、経済学のBAと経営学のMBAで、同質なので、もう少し、理系の勉強をすべきだったと思っている。
人生を繰り返せるのなら、もう一度勉強をやり直したいと思っているのだが、このシンポジウムでも言われていたように動機づけが大切で、幸い、私の場合には、京大入試で、社会二科目、理科二科目受験で、理科で、生物と化学を取って勉強したのが、幾何学を加えた数学とともに、結構、その動機づけのお蔭か、その方面への関心は薄れていないし、役に立っていると思っている。
私立大学では、たったの三科目受験で、入学でき、数学が出来なくても経済学部に入れたのだが、これなどは、リベラル・アーツ以前の問題だと思っているのだが、いずれにしろ、学生時代は、死に物狂いで勉強して、社会に出てからも、生涯教育を続けない限り、生きて行けない時代になったと言うことだけは、事実のようである。
蛇足ながら、このシンポジウムでは、清家塾長の企業の要望に応えるような教育をと言う点が協調されて報道されているのだが、戦後の日本の教育は、リベラルアーツ重視の戦前の旧制高等学校制度を放棄して、産業界の求める互換性の利くスペアパーツばかりを育成する教育に邁進して、産業立国日本を築き上げてきた。その結果が、今日の体たらくである。
もう一つ、東大の秋入学問題が話題になったが、これなどは、世界の標準から逸脱している4月スタートの日本の政治経済社会制度が、問われているので、単にグローバル・スタンダードに合わせるかどうかの問題であって、手段にしか過ぎないと思っている。
国運をかけた大問題のように教育界を巻き込んでいるのも異様だが、結局は、世界の潮流に合わせざるを得ず、日本社会システム全体のリセットが必要で、なし崩し的に実施されるのであろうから大した問題でもなかろう。
そんなことよりも、今、日本は、宇宙船地球号が滅び去るかどうかという歴史の瀬戸際に立っているのだと言う認識に立って、人類の将来に取って、そして、喫緊には、次世代を担う若者たちにとって、最高の高等教育とは如何にあるべきか、崇高なる教育の理念が問われていると言うことである。