熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

秋のフラワーセンター大船植物園

2016年09月30日 | 鎌倉・湘南日記
   久しぶりに、雨模様から解放された感じがしたので、フラワーセンターを訪れた。
   私は、特に目的もなく、花を求めて、園内を一通り歩いてみると言うことにしているので、綺麗な花が咲いていれば、立ち止まる。

   まず、芙蓉が綺麗に咲いていた。
   種類もかなりあるようで、花弁が八重になっていて蕊が複雑に変形した豪華な花もあるが、私は、一重で、雄蕊が中央からスックと伸びた芙蓉が好きである。
   
   

   わが庭のばらも咲き始めているので、早速見たくてばら園に入った。
   かなり、咲いているだろうと思ったが、春のばら園とは、大分雰囲気が違っていて、花そのものが貧弱な感じであった。
   黄色い「鎌倉」、ピンクの「うらら」、アプリコットの「パット・オースチン」、夫々、私が注視しているばらだが、どうも、ぱっとしない。
   
   
   

   皇室のばらのコーナーだが、プリンセス・アイコは、至って元気、プリンセス・ミチコは、ちらほら咲き、プリンセス・マサコは、蕾さえない。
   イングリッシュ・ローズは、難しいし、それに、秋花には弱い。
   
   

   ばら園の花は、まだ、咲き始めたところだが、春の開花に疲弊したのか、その後の生育に恵まれなかったのか、本来なら、季節が寒さに向かうので、深い彩のしっとりした花が咲くのだが、一寸、寂しい感じであった。
   
   

   彼岸から日にちを経ているので、赤い彼岸花は枯れてしまっていたが、黄色やオレンジ色の彼岸花は健在で綺麗に咲いていた。
   路傍などでは、見ることがないので、私には珍しかった。
   
   
   
   
   
   

   秋を強烈に感じさせてくれる花は、萩、そして、ススキである。
   萩には、蝶が群れている。
   ススキは、少し色づきかけてきた銀杏をバックに輝いていた。
   
   
   
   
   
   

   公園で、花の咲いた花木として圧倒的なのは、やはり、百日紅であろうか。
   定番のピンクの百日紅などはなくて、真っ赤な百日紅や紫色の百日紅など、変わった彩の百日紅が植わっていて、夫々が巨木であるので、迫力がある。
   
   
   
   

   花壇で目を引く草花は、ケイトウ、ラベンダー、シュウメイギク、コスモス、桔梗、ダリアなど。
   面白いのは、はずれに、台湾椿が咲いていた。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   愈々、ハロウィーン、
   フィラデルフィアに居た頃には、長女が幼稚園児であったので、仮装をして、友達と家族用学生寮を、賑やかに「トリック・オア・トリート!」と回って、お菓子を貰っていた。
   ハロウィーンパンプキンが手に入れば、くりぬいて、「ジャック・オー・ランタン」を作ってきたのだが、今年はどうするか。
   
   
   
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ジョン・スカリー・・・新しいムーンショット

2016年09月29日 | イノベーションと経営
   Company Forum 2016で、ジョン・スカリーが、「A New MoonShot」について語った。
   会場に行けなかったので、インターネットでライブ中継を見たのだが、スティーブ・ジョブズとの関りやイノベーションについて語っていたので、興味深かった。

   Moonshot!とは、ケネディのアポロ計画で実現した「月面着陸」を意味する言葉だが、現在は「その時点では到達不可能に見える無謀な挑戦」を指すシリコンバレー用語とかで、いうならば、破壊的イノベーションで、マイクロプロセッサーやワールド・ワイド・ウェブ(WWW)、iPhoneなどの発明がムーンショットだと言う。
   iPhone・iPadなど、画期的な製品で革命を起こしたスティーブ・ジョブズに、ペプシから引き抜かれてアップルの経営を担い、アップルの一時代を築き上げたジョン・スカリーが、ジョブズのイノベーション・スピリットを体現しながら、世界を変える革新的なビジネス=Moonshotを生み出す秘訣を語ると言う触れ込みであった。

   スカリーの新著「ムーンショット! -Moonshot!」を読めば、良く分かるのであろうが、その本の説明では、やや、ニュアンスの違った説明がなされていて、興味深い。
   ムーンショットとは、シリコンバレーの用語で「それに続くすべてをリセットしてしまう、ごく少数の大きなイノベーション」のことをいう。
   クリエイティブな人々に向けて初めて手頃な価格などで販売提供された、Macやwww、グーグルのネクサス・ワンやiPhoneと言ったムーンショットに共通しているのは、「技術的なことに疎い一般の人々を賢くした」ということで、スティーブ・ジョブズのいう「知性の自転車」となったと言うのである。

   いずれにしろ、スカリーの論点は、
   MoonShot、強烈にインパクトのあるイノベーションは、世界を根本的に変えてしまい、元に戻らない。
   今や、A New MoonShotは、市場パワーがシフトする「顧客主導」(Market Power shift to:"Custmaers-in-Control"だと言うことである。
   急激に進歩するテクノロジーによって、市場パワーが、従来のビジネス・リーダーから、「顧客主導」に移って行く。今日では、顧客は。これまでのリーダーの評価名声よりも、他の顧客の意見に、もっともっと影響される。
   このことは、現実にも、フェイスブックやツイッター、グーグルやアマゾン等々SNSの急激な台頭で、先刻我々が経験していることで、正に、市場パワーが、企業から顧客へ主導権が移ってしまったと言うことである。

   スカリーは、コダックの凋落を、使い捨てカメラ競争でウォルマートに敗北し、デジタル写真やアップルのipodやフォーンチップに駆逐された経緯をかたり、
   指数関数的な進歩を続けるテクノロジーの変化が如何に激しいか、The Era of Urgency「迅速の時代」だと、
   6月には誰も知らなかったポケモンGoが、翌月には、ツイッターを凌駕したと、その威力を語った。

   したがって、従来の業務のやり方は、あらゆる情報を駆使して精緻を極めたビジネス・プランを作成して、戦略戦術を練って実施してきたが、最早、この手法は、時代遅れで、
   最新のICTテクノロジーを駆使して顧客プランを構築した業務改革が必須である。
   現在は、迅速性の時代に移っており、顧客が市場をコントロールしている。これに適応出来るか出来ないかで、企業の命運は決まる。と強調する。

   ところで、スカリーは、自分を引き抜いたスティーブ・ジョブズを解任し、その後、業績悪化でアップルを退任した。
   今日の講演で、自分は、adaptive innovatorだと言っていて、イノベーションを生む人材として、ダーウィンの適者生存を引用して、適応できる人間が大切だと強調していた。
   スティーブ・ジョブズなどその典型だが、クリステンセンのコインした破壊的イノベーションを生むdisruptive innovatorとの対極のイノベーター像で、興味深く聞いていた。

   私自身は、disruptive innovatorの方が重要だと思うのだが、ジョブズよりは実務家に近いスカリーであるから、adaptive innovatorに対するイノベーション創出パワーにも、一家言あるのであろう。
   クリステンセンの持続的イノベーションとは、全く違った概念のイノベーター像だと思うので、かなり、アメリカamazonでの評価も高いので、「ムーンショット! -Moonshot!」を読もうと思っている。
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WEF・・・国際競争力ランキング 日本は8位に後退

2016年09月28日 | 政治・経済・社会
   インターネットを叩いていたら、 世界経済フォーラム(WEF)が、The Global Competitiveness Report 2016–2017 を発表したことが分かった。
   時事通信の記事は、「日本の競争力、8位に後退=技術革新力に衰え-世界経済フォーラム」とのタイトルで、
   ”日本の総合順位は138カ国・地域中8位で、前年の6位から後退した。技術革新力や高等教育の質などの評価が下がり、全体の足を引っ張った。日本は、研究機関の質などの評価が下がり、「技術革新」の項目で8位に後退。日本は07年から15年までの間、常にこの項目で5位以内に入っていただけに、「日本の優れた技術革新力が衰えつつあるように見える」と指摘した。” と報じている。

   順位は、1位から、スイス、シンガポール、アメリカ、オランダ、ドイツ、スウェーデン、イギリス、日本で、中国が28位、インドは39位、ブラジルが81位、
   イギリスは、Brexit前なので、ランクダウンするであろうが、上位の大半は、経済主体として成り立つ経済ではないので、順位には、それ程、拘ることはないと思う。
   実質的には、アメリカとドイツに対して、日本が、どれだけ競争できるかであろう。 

  このレポートのハイライトの日本に関する記述をチェックしてみると、次のようなコメントがついていた。
   昨年は6位であったが、スウェーデンと英国に抜かれて第8位に後退。
   マクロ経済は、良くなりつつあるとは言え、膨大な政府債務の赤字と日銀の2%インフレ目標が実現されたのは、たったの1年だけ。
   労働市場のダイナミズムに欠けている。雇用の採用解雇などに柔軟性が欠如しており、女性労働の率は高所得経済国では最低。有能な外国人労働者にとっては、参入への魅力に乏しい。
   国内市場は、比較的非競争的で、参入や企業創出への障壁が高い。
   明るい側面では、インフラが十分整備されており、企業は、非常に高度化されていて、特に、上手くコントロールされた国際的な配送システムに乗ったユニークな製品や生産プロセスに優れている。
   質の高いリサーチ機関や企業が、R&Dに投資して、更に、潤沢な有能な科学者やエンジニアに恵まれており、非常にイノベイティブな経済環境を形成している。
   しかし、日本のイノベーションへの名高き名声が、衰えつつあり、2007年から2015年まで5位以内にあったにも拘らず、今や8位にランクダウンしてしまった。

   指数的に足を引っ張たのは、技術革新の項目では「企業の研究開発投資」「研究機関の質」「産学連携」などでの評価ダウン、制度の項目で、企業倫理や投資家保護に加え、知的財産の保護や政治家への信頼度の低下だと言う。

   このレポートは、WEFが勝手に調査して報告しているのではなくて、慶応大学の経済学者や経済同友会のスタッフなどが参画しているので、それなりに、評価しても良いのであろう。
   10項目の評価数字を指数化してのランキングなので、その手法そのものには問題もあろうが、前述した評価を見れば、結構、日本経済の真実をついているように思う。

   一番気になったのは、WEFの記述、
   Japan’s innovation prowess seems to be eroding: consistently ranked in the top 5 between 2007 and 2015, Japan loses three positions and now ranks 8th.
   日本経済の最大の誇りであった筈のイノベーション立国JAPANの凋落の兆しである。
   豊かな歴史と伝統を誇る世界屈指の文化国家日本の本領は、最先端を行く科学技術を駆使して築き上げたイノベーション大国としての誇りであった。

   しかし、四半世紀も、実質経済成長ゼロでは、悲しいかな、奮起を祈る以外に仕方がないのかも知れない。
   前世紀の後半、私は、ヨーロッパに居て、欧米との企業競争に明け暮れていたのだが、ベルリンの壁が崩壊する頃まで破竹の勢いで、Japan as No.1を突っ走っていた頃を想えば、懐かしい限りであるが、
   一方では、その後四半世紀、日本経済が失速停滞して、鳴かず飛ばずであったにも拘わらず、まだ、国際競争力が上位にあるのが、信じられないと言う気持ちにもなっている。
   
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クリントン:トランプ第1回テレビ討論・・・日本の立場

2016年09月27日 | 政治・経済・社会
   今回、アメリカの大統領選挙でのクリントンとトランプ両候補の第1回テレビ討論を、NHK BS1で聞いた。
   大方のアメリカのメディアの報道は、クリントン勝利と言うことで、世論調査の数字も、一気に、クリントン人気がアップした。
   私自身は、必ずしも、クリントンが勝利して大統領に就任しても、アメリカが、格別良くなるとは考えていないし、それ程、期待できるとは思っていないが、トランプの場合の様な不確定要素や混乱は起こらないであろうから無難であろう。
   いずれにしろ、クリントンの勝利を願っている。
   ニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストを読んでいると、アンチ・トランプ記事が多いのだが、何故、徒花候補だと言われていたトランプが、共和党の大統領候補に上り詰めたのか、良くも悪くも、アメリカ資本主義の限界を露呈したと言うことであろうか。
   全く関係ない話だが、このトランプは、私のアメリカでの母校ペンシルバニア大学ウォートン・スクールの卒業生で、同窓であり、あのバンス・ホールで授業を受け、あのカフェテリアでコーヒーをすすり、コンピューターセンターで、パンチカードを打っていたと思うと、縁は異なものと言う感じがして不思議である。

   さて、ここで、触れたいのは、ただ一点。
   トランプの日本防衛に対する論点である。
   日経記事を引用させてもらうが、
   ”トランプ氏は「我々は日本やドイツ、韓国などを防衛しているが、彼らは我々に支払いをしていない。公正な負担がなければ、日本を防衛することはできない」と語り、米国の同盟国に対し強硬な主張を繰り返した。
   トランプ氏は「(米国は)世界中の警察になることはできない」と述べた。「同盟国の全てを支援していきたいが何十億ドル、何百億ドルというお金を失っている」と指摘。そのうえで「対価を払わなければ守ることはできない」と語った。”
   かって、トランプは、自国防衛のために、日本や韓国やサウジアラビアは、核武装すべきだと言ったと言うことだが、それを受けて、”クリントン氏は「トランプ氏は核兵器の使用をほのめかしている」と批判、「(軍の最高司令官である大統領として)核ボタンの近くに寄ってはならない」とした。”

   この点に関連して、少し前に、このブログで次のように書いた。
   共和党の大統領候補のトランプが、大統領に就任すれば、日米安全保障条約に基づき米軍が日本防衛のために支出している国防費の全額負担を日本に要求する考えを表明し、全額負担に応じなければ駐留米軍を撤収すると言ったと言うことだが、正直なところ、これが、普通のアメリカ人の一般世論ではないかと思う。
   何の名目も立たずにのめり込んだアフガニスタンとイラクで巨費を浪費して極度に疲弊し、リーマンショックで壊滅的な打撃を受けて、格差社会が行き着くところまで行って経済社会を無茶苦茶にしてしまったのであるから、米国民の多くは、厭戦気分が横溢しており他国のことなど構っている気持など持てる筈がない。

   イアン・ブレマーさえもが、「スーパーパワー」で、アメリカのこれからの生きる道は、もう、世界のすべての問題に責任を負ったり国外の課題解決に手を出すことから独立して、米国自身の安全を担保することに注力すべしと、国内回帰戦略を説いており、多くのアメリカの知識人も、このような考え方をし始めていると言う。
   世界の平和と安全を維持するための公共財の提供をアメリカは、止めざるを得なくなった、世界の警察としての役割を放棄するというのである。
   既に、オバマ大統領の消極的な政策で、不幸なことに、抑えが利かず、中国などが跳ね上がり、ロシアとの関係が悪化し、ISの台頭など中東で深刻な事態が拡大しつつあると懸念されている。

   ジョージ・フリードマンが、「新・100年予測 ヨーロッパ炎上」で、ヨーロッパは、1912年から1944年までの「三一年間」に、営々と築き上げてきた最高峰のヨーロッパ文化文明の成果を、殆ど失ってしまったと葬送行進曲を奏しながら、アメリカの覇権国家への台頭を語っている。
   アメリカの戦後の最大の貢献は、ヨーロッパへのマーシャル・プランの実施であろう。
   第二次世界大戦終戦後、巨額の対外余剰を保有していたアメリカは、一般援助に加えて、ギリシャで共産主義政府が出来るおそれに対抗して、ヨーロッパ復興計画を通じて、アメリカのGDPの2%に匹敵する輸入品の購入資金をヨーロッパに提供し、これが効を奏して、膨大なアメリカ製産物に対する海外需要を生み出した。
   このプロセス、マーシャル・プラン援助は、IMFや国際復興銀行を生みだしたブレトンウッズ会議でケインズが提案し拒否された原理の、期せずした応用となり、一気にヨーロッパ経済のみならず、世界経済を浮揚させて、繁栄期を迎えた。
   この時、アメリカは、世界最強の経済力を駆使して、世界の警察として、冷戦下でソ連と対峙しながらも、世界の平和と安全のための公共財の構築に邁進した。
   その結果と言えようか、大戦争を起こさずに、ソ連など共産国家の崩壊に導き、世界経済をグローバル化し、新興国の劇的な台頭を惹起して、今日のグローバリゼーション秩序を築き上げてきたのである。

   ところが、この過程で、アメリカ経済の停滞と新興国の台頭などグローバリゼーションの進展により、最早、アメリカが、これまでのように世界の公共財を構築し維持する経済力のみならず能力を喪失し、覇権国家のないGゼロ時代に突入してしまった。

   この時点での、最早ない袖を振れなくなったアメリカに対する、トランプの「世界の警察」放棄の発言である。

   この問題については、これまで、アメリカの覇権や中国論を論じながら、随分書いて来たので、蛇足は避けるが、このあたりの正しい認識を平和ボケの日本人が誤ると、大変なことになると言うことを指摘しておきたい。
   トランプは、単に戯言を言っているだけではないということ、アメリカの現実だと言うことである。
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挿し木したアジサイが、子株に成長

2016年09月26日 | ガーデニング
   明月院の明月院ブルーのアジサイが、あまりにも有名なので、鎌倉は、アジサイの名所のように思われている。
   確かに、鎌倉の古社寺には、アジサイが咲き乱れて、美しい花を楽しめるスポットが多いし、街路に沿っても、アジサイが植えられていて、梅雨シーズンには、アジサイで華やかになる。

   このわが庭のある鎌倉山の麓から西鎌倉の住宅街にかけても、アジサイが、山にも公園にも街路にも、一面に咲き乱れるのだが、かなり、庭の広い住宅街の個人の住宅の庭にも、思い思いのアジサイが植わっていて、楽しませてくれる。
   私の庭にも3株アジサイが植わっているのだが、何となく見劣りがするので、今年は、近所でアジサイを美しく咲かせている人に頼んで、剪定時の廃却枝を貰って、挿し木することにした。
   園芸店で気に入った苗を買えばよいのだが、近所に咲いているアジサイだと、咲いている花を見て、選べるので、多少手間暇がかかるが、この方が、好きな花を咲かせられるので、ベターである。

   アジサイは、剪定せずに放置しておく方が、良い花が咲くと言われているようだが、個人の住宅のアジサイとなると、年々、株が大きくなって困るので、毎年剪定せざるを得ず、これを挿し木すると言うのは、廃物利用以上の値打ちがある。
   
   どのような枝が良いか、どのように挿し木すればよいかなど、解説本などに書いてあるが、そんなに大層に難しく考えなくても、剪定した枝を、ここから葉や芽が出てくるので、適当に花芽や葉芽のある部分を残して、適当な長さに切って、挿せば良いのである。
   勿論、根がついても、成長や花が咲く時期などには、かなり、差がでるのだが、精々1~2年の違いであろう。
   下手な鉄砲数打ちゃ当たるので、沢山差し穂して、良い苗を選べばよいのである。

   大切なことは、挿し木する前に、差し穂を、メネデール(何のことはない、芽根出るをハイカラにネーミングしただけ)の希釈液に、1日くらいつけておいて挿し木することで、水やりを忘れずに、日陰においておけば、1ヵ月くらい経てば、余程のことがないかぎり、確実に根がつく。
   
   冬になって、アジサイの葉が落ちた頃に、庭植えにしようと思っているので、まだ、当分は肥培できそうである。
   裏庭の垣根の外、小川との境界線の間に、狭いながらも空地があるので、ここに、列植すれば、道行く人に楽しんでもらえると思っている。
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国立演芸場・・・「第400回記念 国立名人会」

2016年09月25日 | 落語・講談等演芸
   今日の国立演芸場は、「第400回記念 国立名人会」
   プログラムは、次の通り。

   落語「鈴ヶ森」 春風亭 一之輔
   漫才 青空球児・好児            
   講談 赤穂義士伝より
   「二度目の清書」 一龍斎 貞水
   ―仲入り―
   落語「三十石」  柳亭 市馬
   奇術    アサダ二世
   落語「品川心中」 三遊亭 金馬

   毎月実施される国立名人会は、出演者次第で出かけたり出かけなかったりなのだが、今回は、聴きたい噺家に加えて、 一龍斎貞水の講談が聴けるので、文句なく出かけた。


   トリの金馬は「品川心中」で、遊女の噺なので、まくらには、昨日の歌丸と同じようなことを語っていた。
   キツネやタヌキは尻尾で人を化かすが、吉原の遊女は、口で騙すので、尾はいらない、だから、おいらん(花魁)と言うのだと笑わせていたが、それでは、島原の傾城は、どうして、けいせいと言うのか。
   金馬等は、赤線の受益者であったようで、その話をしていたが、歌丸の語った紺屋高尾は、初回10両と随分高いようだが、宿場町の品川などの遊女は、最高でも吉原の6分の1とかで、客は、安い方に流れるのだと語っていた。

   今回の噺は、この品川の女郎屋白木屋の話で、板頭(筆頭女郎)を張ってきたお染だが、寄る年波には勝てず、人気が落ちて稼ぎが少なくなり、目前に迫る紋日に金を用立ててくれるパトロンもなく、勝気な女なので、恥をかくくらいなら死んでしまおうと決心して、心中の相棒を探す。と言う話である。
   なじみの客から、貸本屋の金蔵を選んで口説いて、心中を承知させる。
   いざ心中となったのだが、カミソリで首を斬るのを嫌がるので、外の桟橋から身投げをすることにして、まず、嫌がる金蔵をお染が突き落とすのだが、自分も飛び込もうとした寸前、店の若い衆が「金が出来た」と行ってきたので、お染は死ぬのを止める。

   ここで、金馬は話を終えたが、これでも、正味40分。
   この後、海が浅瀬なので、金蔵は助かり、異様な格好で親方のところへ駆け込み、事情を説明し、お染に仕返しをする話が、「下」で展開される。
   お染を金蔵の通夜に来させて、蒲団に金蔵の位牌が入っていて、親方は金蔵が化けて出たと、祟るので髪を剃れと言ってお染の髪を剃ってしまう。そこに金蔵が現れたので、悔しがるお染に「お前が客を釣るから、魚篭に(比丘尼)されたんだ」。とオチになると言う話である。

   
   金馬は、最近、めっきり女郎ものを語る噺家が少なくなったと言っていたが、時代が違うのだから、仕方がない。
   これまでに、一度だけ、三笑亭夢太朗の「品川心中」を聴いている。

   市場は、「三十石」を語った。
   旅は憂いもの辛いものと語り出したが、リニアモーターなどになると、旅の風情がなくなって、話にならない。
   今からロンドンへ行って、夕飯はパリで食べるから・・・と言った調子で、話し難い。と、まくらは、早々に切り上げて、「三十石」を、名調子の船頭の舟歌をたっぷりと聞かせて、三十分、みっちりと語った。
   この噺は、元々上方落語で、伊勢参りの帰途の江戸からの客喜六と清八以外の登場人物は、皆関西人なのだが、市場は落語協会の会長で、江戸落語のトップにも拘らず、大阪弁や京都弁が上手いのは、やはり、九州出身である所為であろう。

   さて、明治の初め頃まで、連絡船とも言うべきこの「三十石」船が、京都の伏見と大阪八軒家を行き来していたのだが、この話は、伏見の船宿から船に乗り込んで大坂へ向かう二人の船旅の模様を描いた興味深い話である。
   まず、乗船名簿を書く番頭に、客が弁慶や牛若丸など口から出まかせの名前と住所を言った困らせる話から、船が出るのに十分時間があるのに宿と船頭が結託して船が出ると叫ばせて、飯を食べる量を抑える魂胆など船宿模様から語り始めて、京乙女の土産売りとの頓珍漢な受け答え、混雑した船に若い女が乗ると思い込んだ男の助べえ妄想、中書島の橋のたもとから船頭に大阪での買い物を頼む女等々、旅の道中に出会ういろいろなものに触れての軽妙な会話、船頭の舟歌など、NHKのドキュメンタリードラマを見ているような面白さ。
   身を大きく乗り出して威勢よく力いっぱい櫓を漕ぎながら、下座音楽の掛け声に乗って、市場が、朗々と素晴らしい船頭の舟歌をたっぷり聞かせてくれると言う大サービス。

   春風亭一之輔は、頓馬な泥棒の話「鈴ヶ森」を語った。
   四年前、16人抜きだとか大変な話題で真打になった春風亭一之輔を、真打昇進披露公演で、「竃幽霊」を聴いて、その後、「粗忽の釘」を聴いていて、これで、3度目だが、リズム感と言い、スピード感と言い、語り口の巧みさは秀逸で。実に上手い。
   若くて溌剌とした舞台で、昨日、昇太も言っていたが楽屋は加齢臭でむんむん、・・・一之輔も、介護施設のよう、と、噺家の高齢化が進んでいるのであろう。
   金馬が、芸歴76年、年齢88歳、しかし、歳を取るのは、明日何が起こるか分からないので、楽しいと言っていた。

  人間国宝の一龍斎貞水の講談は、「赤穂義士伝より 二度目の清書」。
  討ち入りの後、大石の命を受けて生き長らえた赤穂義士の一人、足軽の寺坂吉右衛門が、但馬国豊岡藩京極家の元家老石束毎公の元に返されていた大石の妻りくを訪ねて、討入の有様を物語ると言う話。
  一龍斎貞水は、6月に素晴らしい「四谷怪談」を聴いたばかりで、今回も、感激しきり。
  講談は、この演芸場や国立能楽堂で、最近聞き始めたところなのだが、文楽や落語、浪曲などとともに、日本の古典芸能の語りや読み芸能の奥深さに、少しずつ嵌まり込み始めている。
   一龍斎貞水の講談は、幸い、YouTubeで楽しめるので、もう一度、復習しようと思っている。
   
   
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国立演芸場・・・「桂歌丸噺家生活六十五周年を祝う会」

2016年09月24日 | 落語・講談等演芸
   今日24日、国立劇場開場50周年記念として、国立演芸場で、特別企画公演「桂歌丸噺家生活六十五周年を祝う会」が開催された。
   プログラムは、つぎのとおり。
落 語 春風亭 昇太 「権助魚」
落 語 瀧川 鯉昇 「粗忽の釘」
落 語 桂 歌春 「加賀の千代」
落 語 三遊亭 小遊三 「やかん」
―仲入り―
座談 出演者一同
上方落語  笑福亭 鶴光 「紀州」
俗曲  桧山 うめ吉
落 語  桂 歌丸 「紺屋高尾」

   歌丸は、昨年末のこの劇場の「国立名人会」で演じた同じ演題の「紺屋高尾」を語った。
   まくらを含めて45分のトリを、大病したとは思えない若々しい名調子で語り切った。
   座談の司会に立った歌春が、「しのぶ会」ととちって「祝う会」に訂正し、総領弟子なので次の歌丸ですと挨拶したら、歌丸が「明日から来なくても良い」といなしていたが、小遊三が、楽屋では、仮死状態、虫の息なのに、高座に立つとこの元気、信じられないと歌丸の元気印に舌を巻いていた。

   座談のあいさつで、歌丸は、
   15歳で噺家になって、あっという間に65年、笑点も5月22日まで生きていてくれと言われて50年、丁度、80歳になって、今年は節目の年。
   これからは、落語ひとすじ、
   国立演芸場で責任を持たされている4月には、「中村仲蔵」、8月には圓朝の「怪談阿三の森」を高座に掛けたい。「怪談阿三の森」は、良く知らないのだが、今から勉強する。
   とこれからの意欲的な噺家人生を語っていた。
   鶴光は、落語には、滑稽・人情・(艶笑)・怪談とあるのだが、歌丸は、どんな落語でも語れる稀有な噺家だと褒め上げていたが、後で、歌丸が、師匠の古今亭今輔から、どんな話でもできなければいけない言われて、それが耳にこびり付いているのだと語っていた。

   歌丸は、「紺屋高尾」、吉原の花魁の噺をしたので、この前と同じように、
   人にはそれぞれ思い出があると思うが、自分より年配の人は、昭和33年3月31日の赤線廃止を思い出すであろう。
   実は、自分は、横浜の女郎屋の若様で・・・と、
   女郎の始まりは、屋島や壇ノ浦で滅びた平家の女が春をひさいだのが始まりだが、可哀そうかとおもったら、そうではなく、へいけ(平気)だったと、笑わせていた。

   昇太は、歌丸の後を継いだ笑点の司会のことをまくらに語り始めた。
   歌丸は、最長老であったので皆が安心して従っていたが、若い自分には言うことを聞かず、おめでとうと言われたが、不幸の始まりだと語っていた。
   嫁はいないが、弟子は9人、
   歩行者天国で、土下座して、また、末広亭で60歳の老人に弟子入りを申し込まれたり、・・・弟子は、皆が可愛いわけではなく、苦労ばかりで利益は全くないと言う
   嫁さんを貰わない本音かどうかわからないが、家族は、狭い空間で、生活しなければならず、耐えられないと言った風な印象を語っていた。
   噺は「権助魚」
   夫の浮気が気になった奥方が、雇人の権助に1円やって言い含めて夫の後をつけさせるのだが、逆に、主人が、2円やって寝返らせて、日和が良いので隅田川に出て網打ちをし、明日の昼頃湯河原から帰ると言えと、銭をやって魚屋で網打ち魚を土産だと買って持って帰れと追い返す。
   網捕り魚を知らない権助が、スケソウダラやニシン、蛸やかまぼこを買って、網打ち魚を持ってきましたと見せてバレてしまうと言う話。
   あのニコニコして語る早口の語り口が、非常にリズムに乗って調子よく、何度も聞いている噺なのだが面白い。

   鯉昇は、「粗忽の釘」なのだが、釘を打つのは、ほうきではなく、亡くなった伯母の大きなロザリオで、隣へ突き抜けた釘の行くへを、通りの向かい側へ聞きに行くと言うところは同じだが、会話やその後で訪ねる隣家の様子などは全く違っていて、釘の先が突き抜けたのが、隣家の阿弥陀さんの股の下と言うオチだけは同じ。
   立派にそそりたつ釘を見て、お宅もクリスチャンで?

   鶴光は、先の映画「後妻業の女」の抜け目のないバッタ屋を思い出して苦笑、小鴈の風貌に似た大阪弁が、私には無性に懐かしい。
   落語「紀州」
   七代将軍家継が幼くして急死したので、急遽、次代の将軍を決めなければならず、候補は尾州侯と紀州侯で、まず、常識として、最初は断ると言う姿勢で尾州候は臨むのだが、次に指名された紀州侯があっさりと受けて、徳川吉宗が8代将軍に決まると言う話。
   非常にまともな噺なのだが、鶴光の語り口は、途中で、しょっちゅう脱線するので、本筋が話にならない。
   襲名について、空席の笑福亭松鶴について、仁鶴、鶴光、釣瓶の争いや、ついでに、人気者の釣瓶の落語が下手だとか、
   何の話だったか、米朝が、水虫の薬を奥目にさして目が治った話など、とにかく、面白いのだが、本人も、「どこまで話したかなあ」と言う始末。

   桂歌春は、「加賀の千代」、三遊亭小遊三は、「やかん」
   両人とも、歌丸の側近と言う身内の噺家たちであり、歌丸のサポート。
   歌春は、もう70に近い筈だが、青年のように若々しい。
   一寸、最初は、女性的なナイーブな印象を持ったが、加賀の千代の「朝顔に 釣瓶取られて 貰い水」をパロディにした「嬶(かか)の知恵」を面白おかしく、そして、しっとりと語っていた。
   
   三遊亭小遊三の「やかん」は、お馴染みの噺。
   物知りで何も知らないものがないと豪語する隠居が、訪れてきた八五郎を「愚者」と呼んで、マグロやヒラメや土瓶など、口から出まかせに、いい加減な名前の由来を説明する話で、やかんは?と聞かれて、川中島の合戦で那須与一が矢を放つと、水わかしに当たってカーンという音。矢が当たってカーン…だから薬缶。と言う話。
   威張り腐った田舎の物知りと、少し知恵のあるアイロニーの利いた職人とのナンセンスな掛け合いが、実にばかばかしいのだが、小遊三が語ると面白い。

   桧山うめ吉お姉さんは、しっとりとした俗曲でムードを盛り上げ、獅子舞を片手に、お祝いの踊りを披露していた。
   いつも、歌丸は、歳は自分と一つ違いだと言うのだが、帰りにロビーに出て挨拶していたが、可愛くてチャーミングなお姉さんで、そんな筈はない。
   
   
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九月の国立能楽堂主催公演・・・能「黒塚」「玉鬘」「草紙洗」

2016年09月22日 | 能・狂言
   国立能楽堂の企画公演は、今月、四回公演があったのだが、敦盛については、既に、文楽の「熊谷陣屋」のところで書いた。

   興味を感じて鑑賞した一つは、能金春流「黒塚」であった。
   この能「黒塚」は、2年前に、観世清河寿の「安達原」を鑑賞して、その時、事前に、馬場あき子さんの解説を聞いて、その時の印象を書いている。
   この時は、「白頭 急進之出」の小書きがついた特殊演出であり、面も前ジテは「霊女」、後シテは「白般若」であった。
   今回は、シテは金春流の高橋忍で、「雷鳴ノ出」の小書きがついていて、面は前シテが「痩女」、後シテは「般若」であった。

   すじがきは、そっくり引用すると、大略次の通り。
   熊野の祐慶阿闍梨が、陸奥の安達ヶ原で宿に困って老女の家に頼み込んで宿泊する。女は、糸繰りの様子を見せながら、憂い自分の生き様などを語り持て成すのだが、夜が冷えるので焚き火用の薪を採りに山に行く。出かける前に、自分が帰るまで寝室を覗いてはならぬときつく言い渡す。
 止められたが好奇心の強い能力が閨を覗くと、累々と死体が転がっている。ここが鬼女の住み処かと悟った祐慶たちが逃げ出す。その後を、約束を破ったと怒りに燃えた鬼女が追いかけ、襲いかかりってくる。祐慶たちは、激しく攻める鬼女を必死になって祈って調伏するので、鬼女は、法力に負けて退散する。

   しかし、私が、この「黒塚」に関心を持つのは、4年前に、猿之助襲名披露公演で、猿之助の素晴らしい舞台を観て感激したので、そのオリジナルの能が、どのような曲で、どのように舞い謡われるのかと言うことであった。
   特に、興味を持って観たのは、歌舞伎の方では、悲惨な生活に喘ぐ老女が、裕慶阿闍梨の説法を聞いて、仏法に縁して普通の人間に戻れると知った喜びで、客のために夜の山に薪を取りに行き、美しい中秋の名月が輝く荒野で、幼児のように戯れて無心に舞うのだが、裕慶たちに約束を破られ人食い鬼女の悪行を暴かれたので、怒り狂って鬼と化すと言うストーリーに、一寸、ニュアンスが変っているので、その差であった。

   文化デジタルを引用させて貰うと、
   ”老女が男に捨てられた身の上を語り、人を恨む気持ちが捨てられないので、成仏できないだろうと打ち明けると、祐慶は仏の教えを守れば誰でも成仏できると導きます。老女は長年の心の憂いが晴れ、祐慶たちのために裏山に薪を取りに行きます。中秋の名月がススキの原を照らす中、老女が救われる喜びに、月が映す自分の影と戯れ踊る部分が最大の見せ場です。ここは能にはない部分で、ロシアンバレエの趣を取り入れたといわれています。”
   と言うことで、この能の素材は、『拾遺和歌集』雑下、平兼盛の「みちのくの安達原の黒塚に鬼こもれりと聞くはまことか」の和歌で、この和歌の背景には、安達原の鬼女の伝説の存在があるのだが、それをストレートに曲に仕立てた能とは違ったヒューマンな香りがする歌舞伎にしたのは、初代猿之助の大きな功績だと思う。
   その歌舞伎を、当代猿之助は、実に幻想的でフォトジックな感動的な「黒塚」の舞台に創り上げて、感動的であった。
   それに、市川家の襲名披露であったから、主の團十郎が、裕慶を演じて最高の華を添えて秀逸であった。

   別の日に鑑賞した観世流の「玉鬘」も面白かった。
   玉鬘は、言わずと知れた源氏物語に登場する美女で、頭中将と夕顔との間の娘で、老いらくの恋と言うべきか、娘として末摘花に世話をさせておきながら、源氏が執拗ににじり寄って恋心を吹き込んでアプローチするのだが、良く分からないうちに、厳つい黒鬚と結婚して、3児の母となる。
   手当たり次第に、あることないこと口から出まかせに口説いてものにする源氏としては、一寸、敷居が高かったのか、面白いケースである。
   源氏との逢瀬の最中に、六条御息所の生霊に祟れて、母親の夕顔が亡くなるので、玉鬘は乳母に連れられて九州へ流れて成長して、初瀬で、夕顔の乳母右近と再会して都に出ると言う数奇な運命を辿るのだが、この能のように、玉鬘が、妄執に苦しめられて成仏出来なかったなどとは、紫式部は、一切書いていない。
   いずれにしろ、複式夢幻能の世界であって、玉鬘は、僧の回向と、生前の懺悔によって、成仏すると言う曲である。
   シテは、浅見重好、ワキは、飯冨雅介、アイは、茂山宗彦。

   今日は、女性能楽師による企画公演。
   仕舞 笠之段(かさのだん)  津村 聡子(観世流)
   仕舞 玉之段(たまのだん)  松田 若子(宝生流)
   仕舞 歌占(うたうら) クセ  鵜澤 久(観世流)
   能  草紙洗(そうしあらい)  影山 三池子(宝生流)
   私が女性能楽師による能の公演を観るのは2回目だが、特に、変わったと言う印象はないが、能の場合には、男であっても女であっても、能楽師は、地声で謡っているので、今回のように、能「草紙洗」のシテ/小野小町を、女性の声で聴くと、ムードが違って、艶があって新鮮で良い。
   この能は、宮中の歌合で、小野小町と競うことになった黒主が、勝つ見込みがないので、小町の歌を盗み聞きして、これを、「万葉集」の草紙に書き入れて、帝に古歌だと言って陥れようとするのだが、草紙を洗うと、書き入れた歌が消えて恥をかくと言うなんとも狂言ぽい曲で面白い。
   小町に許されて帝も御咎めなしとして、小町が和歌の徳を称えて舞うと言う終幕。

   面白いのは、この【女性能楽師による】企画公演で、着物でご来場の女性のお客様にプレゼント!と言うことで、時松はるな氏デザインのランチトートの新作が、プレゼントされていた。
   かたい国立劇場が粋な計らいをすると、となりの席の美しい麗人が、私に見せてくれていた。
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上村以和於著「仮名手本忠臣蔵」

2016年09月21日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   国立劇場が開場50周年記念事業として、大劇場で、来月から3か月間、歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」を、そして、小劇場で、文楽「仮名手本忠臣蔵」の通し狂言を公演する。
   やはり、歌舞伎も文楽も、その醍醐味は、通し狂言を鑑賞することで、その中でも、「仮名手本忠臣蔵」となれば、期待がいや増す。
   
   通し狂言として、歌舞伎を見たのは、随分前に、新橋での團十郎の由良の助が、記憶に残っている。
   歌舞伎座は、東京式の通し上演である、大序から七段目、一気に飛ばして十一段目までの略式の通し狂言を行っていて、これを観る機会が何度かあったが、やはり、通し狂言「仮名手本忠臣蔵」と銘打った公演でないと楽しめない。
   今回は、国立劇場であるから、前段通しの完全な公演で、またとない機会である。

   文楽は、4年前に、大阪の文楽劇場に行って、通し狂言「仮名手本忠臣蔵」を観て、感激したのを覚えている。
   今回は、12月に行われるのであるが、多少時間的余裕がないので、一部省略されてはいるが、本格的な通し狂言「仮名手本忠臣蔵」が楽しめる。
   玉男と簑助の大星由良の助の凄い舞台を観ているのだが、どんな舞台を鑑賞できるのか楽しみにしている。

   さて、私の場合、特別な出し物や興味深い観劇をする時には、それなりに、事前勉強をすることにしており、随分、劇場に通い、関係本も読んでいて、それなりに知っているつもりなのだが、改めて、忠臣蔵に関する本を数冊集めて読み始めた。
   結構、古い本が多いのだが、「忠臣蔵」や「仮名手本忠臣蔵」に関する限り、本の新旧には、殆ど関係なく、コンテンツの良し悪しが問題なのである。

   まず一冊目のこの本は、11年前に出版された本だが、流石に、歌舞伎に関しては、第一人者である著者の著作であるから、非常に面白いし、教えられることが多い。
   この本も、大序から11段目まで、通しで、まず、その段の筋を掻い摘んで説明し、その後、その段のテーマや登場人物などに、蘊蓄を傾けた興味深い話題満載の随想や評論を、展開していて読ませる。

   「仮名手本忠臣蔵」が、赤穂浪士による吉良の仇討によって有名になった忠臣蔵が主題となっていて、当時、江戸の町と徳川家のことを芝居にするのはタブーであって、吉良上野介と浅野内匠頭の争いを、「太平記」の足利尊氏側近の高師直と塩谷判官高貞の確執に置き換えたことくらいは知っていた。
   しかし、忠臣蔵については、日本史の知識と映画やテレビで見た大石内蔵助と赤穂浪士による忠臣蔵に関する情報しか持っていなかったので、実際に、歌舞伎や文楽で「仮名手本忠臣蔵」を観て、その落差が激しくて、その良さが、中々、理解できなかった。

   早い話、主役として出てくるのは七段目の「祇園一力茶屋の段」くらいで、内蔵助である大星由良助の出番が少なく、史実に近いシーンは、最後の討ち入り位のもので、内蔵助あっての忠臣蔵の魅力が全く出て来ない。
   それに、史実とは相当乖離したお軽勘平や加古川本蔵と言ったキャラクターが、主役級で活躍し、座頭級の歌舞伎役者が演じていることに違和感を感じるなど、
   とにかく、忠臣蔵のイメージが邪魔をして、フィクションの芝居として良くできた浄瑠璃としての「仮名手本忠臣蔵」の舞台を、楽しもうと言う姿勢が、悲しいかな、長い間身に着かなかったのである。

   最初は、イヤホンガイドにお世話になったし、パンフレットや解説本なども読んで、勉強したつもりなのだが、ミドリ形式の舞台を観ることが多かったので、知識の連続性に欠け、本格的に歌舞伎や文楽を鑑賞し始めて20数年、やっと、最近になって、トータルで「仮名手本忠臣蔵」を楽しめるようになった。
   この本を、もっと前に読んでおけば良かったと思うのだが、それだけ、納得できるようになったと言うことである。

   日本の武士道を感じさせる部分は、やはり、四段目の「塩谷判官切腹の段」であろう。
   この浄瑠璃では、切腹の場で実際には遭遇する筈のない判官と由良助を会わせて、緊迫感を高めて、舞台を一気にハイテンションに導く。
   待ちかねた判官が切腹した直後に、由良助が国元から駆けつけてきて、瀕死の状態の判官が、血の付いた腹切り刀を「汝への形見」と言って手渡し、「生き変り死に変り恨みを晴らさむ」との一念を伝える。由良助は、その血を舐めて刀を懐に収めて最後の一念を引き継ぐと言う壮絶な修羅場。
   「遅かりし由良助」の名場面だが、実際の内匠頭の無念の切腹よりも、劇的効果は大きく、この「仮名手本忠臣蔵」唯一の武士道を強調した緊迫した舞台であると思う。
   それほど、この「仮名手本忠臣蔵」は、他の多くの、物語、ストーリーの面白さと芝居の醍醐味に満ち満ちた舞台芸術であって、その面白さが分からなければ、意味がないと言うことであろう。

   私の好きなのは、十段目の「天河屋の段」で、「天野屋利兵衛は男でござる」と豪語して忠義を全うする武士も及ばぬ商人の侠(おとこ)の意気地を示すシーンなのだが、
   文楽の通し狂言では、観る機会があっても、歌舞伎では、一回観たかどうか記憶が定かでないほど、上演機会が少ない段である。
   著者は、これについても興味深い話を展開して、歌舞伎の「侠」を代表する役として、由良助とも加古川本蔵とも一味違った、この戯曲を支えるもう一つの礎石だと、その傾奇魂を説いていて興味深い。

   この本は、「仮名手本忠臣蔵」の面白さを、解説した最も素晴らしい本だと思う。
   ひょっとしたら、「仮名手本忠臣蔵」に託して、日本と日本人像の奥深さや摩訶不思議を、浮き彫りにしようとしているのかも知れない。
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わが庭・・・百日紅咲き続け彼岸花咲く

2016年09月20日 | わが庭の歳時記
   かなり前から咲き続けている夏には貴重な花は、百日紅。花期が長いので、百日紅と名がつくのももっともである。
   花よりも前に、木登り上手な猿でさえ、滑り落ちると言うつるつるした木肌に興味を持った。
   幼少年期を宝塚の田舎で過ごしたので、農家の庭の主木の一つとして植えられていて、焼けつくような炎天下で、綺麗に咲いていたのを覚えている。
   千葉の庭には、紅色の一才サルスベリを植えたが、まだ、それ程年月が経たなかったので、あの枝の先がこぶ状になった古木の風格はなかった。
   鎌倉のわが庭の百日紅は、典型的なピンク色と白い花で、背が高いので、遠くから見る方が美しい。
   
   

   面白いのは、淡い青紫の、沢山の小さな花弁が、房状に一列に伸びあがったハナトラノオ(花虎の尾)である。
   一つ一つの花弁が、一つの花になっていて、夫々に実を結ぶのであろうが、虫媒花なら、虫も大変であろう。
   かなり、繁殖力が強いようで、庭のあっちこっちに顔を出していて、面白い。
   
   

   ばらは、今、イングリッシュローズの返り咲きの花がちらほら咲いている。
   この花は、グレイス。
   四季咲きのHTは、夏剪定で切り詰めて、秋花を楽しめるが、イングリッシュローズは、大体、秋花にはそれ程期待できず、返り咲きを楽しんでいる。
   

   さて、当然のこととして、彼岸が近づくと、一気に咲きそろうのが彼岸花。
   子供の頃、宝塚で見ていた彼岸花は、何故か、お墓だとか死者のイメージが強くて抹香臭い感じがして、好きにはなれなかった。
   歳の所為であろうか、最近では、それ程、気にならなくなったのだが、これ程、正確に、彼岸の日に咲く花は珍しいと、いつも感心している。
   わが庭にも、数株植わっているのだが、この花は、正しく、秋の花である。
   それに、天上の花と言うか、曼珠沙華と言う名前が良い。
   
   
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秀山祭九月大歌舞伎・・・「妹背山婦女庭訓 吉野川」

2016年09月19日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   夜の部の冒頭は、「妹背山婦女庭訓 吉野川」、2時間に及ぶ大舞台である。
   大判事清澄に吉右衛門、その子久我之助に染五郎、そして、太宰後室定高に玉三郎、その娘雛鳥に菊之助、さらに、腰元桔梗に梅枝、小菊に萬太郎と言う願ってもない布陣で、素晴らしい舞台を魅せてくれた。
   いわば、シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」、「ウエストストーリー」のジャパニーズ・バージョンと言うべき名場面を、悲しく、そして、美しく謳い上げる。

   「山の段」で、舞台中央に、吉野川が流れていて、上手の背山に、大判事清澄の館、下手の妹山に太宰館が設えられていて、竹本の太夫と三味線も上手下手に床が設置されていて、花道も左右にあると言う、全く判で押したような対照的なな形で、全山、豪華絢爛と咲き乱れる吉野山の桜が、舞台を荘厳していて、息を飲む美しさ。
   両家は、領地争いで不和の関係にありながら、大判事の子息久我之助と定高の息女雛鳥は、恋に落ちて相思相愛。それに加えて、蘇我入鹿の横暴によって、両家は窮地に追い込まれて、絢爛と咲き乱れる華を散らす。

   両花道を、大判事の吉右衛門と定高の玉三郎と言う東西随一の千両役者が登場して、川を隔てて対話を交わし始めると、一気に舞台のテンションが高揚する。
   咲き誇る吉野の桜をバックに、妹山館の雛祭りの飾り付けの絢爛さが、悲劇を暗示して悲しい。


   吉野川を挟んで、大判事の館には謹慎を命じられた久我之助がいて、太宰の館には雛人形が美しく飾られているが、雛鳥は久我之助とのかなわぬ恋に泣いている。流れの早い吉野川が、二人を隔ててていて、川岸から手を差し伸べ切ない恋情を交わすのだが甲斐なき足掻き、そこへ二人の親が帰ってくる。
   桜の枝を手に、大判事と後室定高が川越しに言葉を交わす。子よりも家が大事と言えども、わが子可愛さ。久我之助が出仕し、雛鳥が妾にと言う入鹿の命令に服すと承諾したら、桜の花を散らさずに川に流して無事を知らせると約束する。
   定高は、雛鳥に、久我之助の命を助けるために、入鹿への輿入れを説得し、大判事は久我之助の忠義を全うしたいとの強い願いを聞き入れて切腹を許す。
   雛鳥が飾ってあった女雛の首を落としたのを見て、定高は入鹿の命令を拒む決心と悟って娘の首を討つ決意をし、方や、一気に腹に刀を突き立てた久我之助が、雛鳥が後を追わぬように、大判事に桜花のついた枝を吉野川に流すように頼む。それを見た雛鳥は、久我之助の無事を喜び、定高も花の枝を川へ投げ入れ、雛鳥に刀を振りおろす。
   大判事と久我之助も、妹山からの桜を見て安心するが、妹山からの断末魔の叫びを聞いて、雛鳥の死を悟り、定高も瀕死の久我之助の姿を垣間見る。自分は死んでも相手は助けたい、相手の子どもは助かるようにと願って投げた桜花は、所詮儚いあだ花。
   意を決した定高は、久我之助の息あるうちに雛鳥を嫁入りさせたいと、雛道具とともに、雛鳥の首を川の流れに乗せて背山へ送り、大判事がそれを弓で手繰り寄せる。
   玉三郎の定高が、蒔絵の駕籠に雛鳥の首を入れて、浮となる琴に駕籠を括り付けて、吉野川に流す、実に悲しい「雛流し」のシーンである。
   あたかも、塔婆や燈籠などを流して、死者を供養する流れ灌頂。大判事は瀕死の久我之助を介錯し、二人の首を左右に抱えて岸辺に佇み、泣き崩れていた定高と交感する。
   残された大判事と定高は、若くして儚く散った二人に悲しい祝福を与えて、両家の遺恨が静かに消えて行く幕切れ、名作である。

   この舞台では、男を問われると言うか、日和見主義と言うか悪行の権化と言うべき入鹿に、何の抵抗もせずに唯々諾々と従ってきた大判事と、主の采女を守り通すために一切入鹿に屈しなかった久我之助の男としての意気地の好対照。
   先の演目の造り阿呆を押し通して身の保全を図った一条大蔵卿のように、反入鹿である筈の大判事が、小心故か世渡り上手かは別として、久我之助は、入鹿の忠臣然としたそんな父親を許せなかった筈だが、この舞台では、鎌足の娘であり天智帝の寵姫である采女を入鹿の毒牙から守り通した、久我之助の忠義を全うする健気な姿に接して、入鹿の命令を蹴って自害を許して、心中、決然と、反入鹿を表明している。
   その心境の変化が、定高との和解と若い子供たちへの愛情あふれる姿勢にも凝縮していて、そのあたりの心の葛藤や決然とした大判事の貫禄と風格を大きなスケールで演じ続けた吉右衛門の芸の深さ冴えは格別であった。

   玉三郎の定高は、いわば、女ながらも一国一城の主であって、その貫禄と品格の高さは、抜群。
   仮花道の吉右衛門に対して、本花道に立つ玉三郎の雄姿からして、舞台を圧倒していて、その偉丈夫な女主が、娘雛鳥の久我之助へのなさぬ恋心を知り過ぎるほど知っていて、苦悶する母親としての優しさ温かさを全身に漲らせていて、涙が零れるほど感動する。
   花道に立って、大判事と渡り合う定高は、一国一城の主として、貫禄と風格十分の人物の大きさ、
   娘雛鳥の首を討つ決心をして、雛鳥の首を駕籠に託して嫁に出す「雛送り」では、愛に泣き人生の儚さに慟哭するお母さん、
   雛鳥に、毅然として入鹿への嫁入りを言い渡す時の玉三郎の悲哀と苦渋を綯交ぜにした愛情豊かな目の輝きと表情が忘れられない。
   雛流しを終えて、河畔に崩れ落ちて泣き崩れる玉三郎の後ぶりの美しさ、剛直そうでよろめく断腸の悲痛の吉右衛門と好対照で、涙を誘う。

   久我之助の染五郎と、雛鳥の菊之助の素晴らしさは、言うまでもなく、梅枝と萬太郎の時蔵子息兄弟の達者な芸も楽しませてくれて良い。
   菊之助の吉右衛門一座への加入は、歌舞伎界最高の贈り物の一つだと思っている。

   今年、四月に、大阪文楽劇場で、通し狂言「妹背山婦女庭訓」を鑑賞する機会を得て、この「妹山背山の段」は、
   大判事を千歳太夫と玉男、久我之助を文字久太夫と勘十郎、定高を呂勢太夫と和生、雛鳥を咲甫太夫と簑助、と言う素晴らしい布陣の舞台を楽しむことが出来た。
   今回の舞台は、更に、歌舞伎バージョンの醍醐味を観た思いで、感動している。
   
   
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国立劇場9月文楽・・・「一谷嫩軍記」の「林住家の段」

2016年09月18日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   国立小劇場の「一谷嫩軍記」の第一部のハイライトは、薩摩守忠則の都落ちを脚色した二段目最後の「林住家の段」であろう。
   平家物語には、薩摩守忠は、「忠則都落ち」と「忠則最期」で、登場するのだが、歌人としても武人としても、平家きっての芸術に秀で武勇にも勇名を馳せた文武両道の達人であったことを忍ばせて、感動敵である。

   まず、平家物語だが、「忠度の都落ち」では、
   一度都落ちした忠則が、「わが身ともに七騎取つて返し、五条の三位俊成卿の宿所に」やって来て、勅撰和歌集の編纂者である師の俊成に、「生涯の面目に、一首なりとも御恩をかうぶつて、」と懇願して、「日ごろ詠みおかれたる歌どもの中に、秀歌とおぼしきを百余首書き集められたる巻き物を、今はとてうつ立たれけるとき、これを取つて持たれたりしが、鎧の引き合はせより取り出でて、俊成卿に奉る。」
   俊成は、「かかる忘れ形見を賜はりおき候ひぬる上は、ゆめゆめ疎略を存ずまじう候ふ。御疑ひあるべからず」と涙を押さえて受け取り、
   忠則は、「今は西海の波の底に沈まば沈め、山野にかばねをさらさばさらせ。浮き世に思ひおくこと候はず。さらばいとま申して。」 とて、馬にうち乗り甲の緒を締め、西をさいてぞ歩ませ給ふ。」
   「世静まつて千載集を撰ぜられけるに、・・・勅勘の人なれば、名字をばあらはされず、「故郷の花」といふ題にて詠まれたりける歌一首ぞ、「詠み人知らず」と入れられける。
   ”さざなみや志賀の都はあれにしを昔ながらの山ざくらかな ”

   「忠度最期」だが、
   薩摩守忠度は一谷の西の手の大将軍にておはしけるがその日の装束には紺地の錦の直垂に黒糸威の鎧着て黒き馬の太う逞しきに鋳懸地の鞍置いて乗り給ひたりけるがその勢百騎ばかりが中にうち囲まれていと騒がず控へ控へ落ち給ふ処にここに武蔵国の住人岡部六弥太忠純よい敵と目を懸け鞭鐙を合はせて追つ駆け奉り
   あれはいかによき大将軍とこそ見参らせて候へ、正なうも敵に後ろを見せさせ給ふものかな、返させ給へ返させ給へ、これは御方ぞとて振り仰ぎ給ふ内甲を見入れたれば鉄漿黒なり
   あつぱれ御方に鉄漿付けたる者は無きものをいかさまにもこれは平家の君達にておはすらめとて押し並べてむずと組む
  「薩摩守は聞ゆる熊野育ち早技の大力にておはしければ六弥太を掴うで」組伏して、「首を馘かんとし給ふ処に六弥太が童後れ馳せに馳せ来て急ぎ馬より飛んで下り打刀を抜いて薩摩守の右の肘を臂の本よりふつと打ち落す」
   「薩摩守今はかうとや思はれけん、暫し退け最後の十念唱へんとて六弥太を掴んで弓杖ばかりをぞ投げ退けらる、その後西に向かひ、光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨と宣ひも果てねば六弥太後ろより寄せて薩摩守の首を取る
   よき大将軍討ち奉りたりとは思へども名をば誰とも知らざりけるが箙に結び付けられたる文を取つて見ければ、旅宿花といふ題にて歌をぞ一首詠まれたる
   ”行き暮れて木のしたかげを宿とせば花やこよひのあるじならまし 忠度”
   「この日比日本国に鬼神と聞えさせ給ひたる薩摩守殿をば武蔵国の住人猪俣党に岡部六弥太忠純が討ち奉つたるぞやと名乗つたりければ敵も御方もこれを聞いて、あないとほし、武芸にも歌道にも優れてよき大将軍にておはしつる人を、とて皆鎧の袖を濡らしける」

   忠則に従っていた雑兵は寄せ集めなので皆逃げてしまって、孤軍奮闘の忠則が、六弥太の首を掻こうとした時に、六弥太の家来に右肩を切り落とされてしまうのだが、このような最期の戦いに出ても、鉄漿を欠かさず、箙に和歌を結び付けると言う風流を忘れなかった平家の英雄薩摩守忠則の最期に、坂東武者たちが、涙したと言うのである。

   先の「敦盛の最期」を聞いた義経以下坂東武者たちも、その風雅に涙したと言うのだが、この忠則の最期にしろ、「平家物語」の語り部たちは、清盛や平家の横暴を「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」といなしながらも
、文化芸術の香りの素晴らしさを、平家への挽歌に託して謳い上げていたような気がして、いつも、しみじみとした感興を覚えながら、平家物語に感じ入っている。
   この文楽の「陣門の段」で、初陣の高名を立てるべく一番乗りした小次郎が、平家の陣所から、素晴らしい笛の音が流れてくるのを聞いて、都人の優雅さ優しさに感じ入るシーンがあるのだが、青葉の笛の導入部として、興味深い。

   さて、この平家物語を下敷きにして編み出された浄瑠璃の「一谷嫩軍記」の忠則(玉男)を主人公にした「林住家の段」だが、先に論じたように、平家への愛情過多の義経(幸助)の登場によって、大分、実話から、話がスキューしているのだが、それを差し引いても、この段の忠則は興味深い。
   忠則の「さざなみや」の歌は、俊成の推薦によって義経が勅撰和歌集に掲載することを決して、その伝言を、忠則最期で戦った六弥太(玉志)に命令することは、初段の冒頭で示されていて、この段では、六弥太が、林住家にやって来て、忠則に、義経から託された忠則の詠歌の短冊を結び付けた山桜の枝を渡して千載集に加えたことを伝える。
   忠則は、生涯の本望と喜び、六弥太の縄にかかろうとするのだが、六弥太は、今回の役目は討手ではなく、義経のメッセンジャーとして来たのであるから、戦場で見えようと言って、平家物語とはだいぶ違ったニュアンスながら、忠則最期のシーンを暗示させて面白い。

   この舞台で興味深いのは、俊成の娘・菊の前(簑助)が、忠則に恋い焦がれる恋人役として登場していることで、林住家で再会して、どうしてもどこまでもお供したいと忠則にかき口説くのだが、平家に加担したと俊成に咎が行くことを恐れ、討ち死に覚悟をした忠則は聞き入れず、悲しい別れのシーンが展開される。
   女性美の極致とも言うべき、健気で一途に思い詰めて愛に身を捧げるいじらしい簑助の遣う菊の前の人形を観るだけで、この文楽に行った甲斐がある。それほど、簑助の至芸の極致とも言うべき、凄い舞台なのである。
   それを受けて立つ忠則の玉男の人形も、大変な威厳と風格で、圧倒するようなオーラと迫力がある。
   松王丸などもそうだが、歌舞伎や文楽では、本来それ程重要人物でない人物が、大仰な芸をするのだが、薩摩守忠則は、名実ともに華のある最高峰の武人であり文人であるから、いくら、素晴らしい芸を見せても見せるほど絵になるのである。

   さて、この第一部は、他にも、「敦盛出陣の段」や、「陣門、須磨の浦、組討の段」など素晴らしい舞台が展開されていて、このような充実した通し狂言「一谷嫩軍記」を見せられると、その奥深いストーリー展開に感動するとともに、三業のコラボレーションによって生み出される文楽の魅力に圧倒される思いである。
   和生が遣う敦盛と小次郎をが、品があって爽やかな青年像を醸し出していて印象的である。
   また、和生は、乳母林も遣っており、これは、本来和生の得意中のキャラクターであるから、簑助の菊の前を庇う仕草など、優しくて温かく感動的である。

   能「忠則」との関係についても書きたかったが、蛇足であろうと思ってやめにした。
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鎌倉の郊外の幼稚園の運動会

2016年09月17日 | 鎌倉・湘南日記
   今日は、久しぶりに運動日和で、孫の幼稚園の運動会に出かけた。
   私の役割は写真係で、敬老席に陣取りながら、孫の姿を追う。
   デジタル一眼レフに18ー200ミリのズームレンズを装着して撮っているので、アングルさえ気にしなければ、文句なく望遠で写真が撮れるので、不自由はない。
   尤も、正面のポジションが必要ならば、適当に移動しなければならないのだが、最近のカメラは、非常に進歩していて、子供や孫の写真を撮るくらいならば、殆ど苦労せずに済むので、助かっている。

   よく考えてみれば、娘二人の運動会の写真は、殆ど残っていない。
   カメラ歴は古いので、居れば、取っていた筈なのだが、かなり、海外出張が激しくて、恐らく、運動会には見に行けなかったのだと思う。
   それに、運動会もそうだが、発表会など必要な時には、何故か、写真に失敗することが多い。
   昔、まだ、フィルム写真の時に、ライカR3サファリを必要な時に使っていたのだが、偶にしか使っていなかったので、露光やカメラのセットを誤って、失敗にしたことがあり、長女のアムステルダムのインターナショナルスクールの卒業式の写真は一枚もない。
   今でもそうだが、カメラを使う時に、カメラ任せで、前回に露出補正で特殊なセッティングをしていたのを忘れてしまって、そのまま、シャッターを切り続けて失敗することが多い。
   パソコンで、多少の露出や微調整は可能になったが、やはり、やらない方が良い。

   次女のケント大学と大学院の卒業式は、カンタベリー大聖堂で行われたので、これは、カメラを持ち込めないので、記念写真は、外部や大学キャンパスで撮った。
   日ごろは、古い写真を殆ど見ることはないが、写真は、備忘録としては、最高である。

   この日の運動会は、年中と年長の園児の運動会であったが、子供の数より、保護者の方が多くて、写真を撮る父兄が多かったが、流石に、スマホでの撮影はなかった。

   さて、今日は写真の話ではなく、孫の小学校の運動会のことである。
   この幼稚園は、西鎌倉の閑静な住宅街にあり、校区は、江の島や藤沢の方にも広がっていて、スクールバスが通っている。 
   1キロ足らずの道だが、この幼稚園に、外出しない時には、朝夕、孫の送り迎えに、アップダウンの坂道を往復している。
   鎌倉と言う土地柄でもあろうか、あの御成小学校もそうだったが、外国オリジンの子供たちもいて、結構文化的な香りがする感じで興味深い。

   昨年は、年少組の運動会であったので、何となく遊戯的な色彩が強かったが、今回の運動会は、定番の綱引きや玉入れなどは勿論、殆ど小学校の運動会に近い感じで、卒園生の小学生や父兄を巻き込んだプログラムも豊富で、地域社会に密着していて、親子で楽しんでいると言う感じであった。

   こちらは、適当に見ながら、写真を撮っているだけだが、それでも、疲れた。
   特に、エージェントなど専門職を使ったようでもなく、幼稚園のスタッフだけでの運営だと思うのだが、イベントとして企画して実施する方の努力は大変だっただろうと思う。
   芸能や芝居にしてもそうであろうが、参加する人々に興味を持って楽しんでもらおうと言うことは大変なことだと、何時も思っているのだが、どんどん、ICT革命で、環境も変わってきており、新趣向は、日進月歩なのであろう。
   
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秀山祭九月大歌舞伎・・・「一絛大蔵譚」「碁盤忠信」

2016年09月15日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   秀山祭の昼の部で、先に「太刀盗人」につて、観劇記を書いた。
   主演目は、吉右衛門の「一絛大蔵譚」であり、染五郎の「碁盤忠信」なのであろうが、私には、狂言「長光」の歌舞伎バージョンである「太刀盗人」の方が面白かった。

   染五郎が演じる義経の忠臣佐藤忠信が豪快な舞台を見せる「碁盤忠信」だが、七世松本幸四郎が明治44年11月の襲名披露興行で一度だけ上演した狂言で、それを百年ぶりに染五郎が復活させて、5年前に、日生劇場で演じられた。
   創作の手掛かりとなったのは、台本と、雑誌『演藝畫報』に掲載されていたモノクロの扮装写真と、帝劇に一枚だけ写真が残っていた舞台写真だけで、殆ど完全に古典歌舞伎の手法に則った創作歌舞伎であった。
   ストーリーとしては、非常にシンプルで、忠信が、敵に回った義父小柴入道浄雲(歌六)に追い回されて、多くの捕り手たちを相手に、碁盤を片手に振り回して大立ち回りを演じるシーンが見せ場。
   捕り手たちを相手にしたマスゲーム的な群舞やロープのすっぽ抜けなど現代的な手法を随所に駆使した、斬新な面白さがあった。
   忠信の亡妻小車の霊で登場した児太郎が、しっとりした良い味を出していた。

   さて、「一絛大蔵譚」だが、1993年から歌舞伎座へ通い続けているので、随分、この歌舞伎は観ていると思うのだが、このブログでは、一番最初の記録は、2005年の勘三郎襲名披露公演であり、その後、観て記録に残っているのは、吉右衛門、菊五郎、仁左衛門、染五郎の大蔵卿の舞台である。
   一絛卿は、源氏の血統にありながらも、今や高級公家の身。阿呆を演じて世を欺き保身に明け暮れる日々ながら、下げ渡された妻の常盤御前(魁春)を伺いに来た源氏に味方する鬼次郎(菊之助)とお京(梅枝)に、本心を明かして、義経に宝剣を託す。
   獅子身中の虫家来の勘解由(吉之丞)を誅殺して、常盤御前、鬼次郎、お京だけを前にして、正気に戻って本心を明かし、再び、狂言や舞三昧の阿呆の世界に戻る苦悶に満ち屈折した心を押し殺して生きる一條卿。
   あの造り阿呆の表情は、正に人間国宝の至芸の極地。
   吉右衛門の説明によると、元々は、阿呆から正気に変身する見せ場だけの他愛ない芝居だったのを、初代吉右衛門が、本心をさらけ出せずに思い悩む貴人に変えたようで、芝居の深みが増した。と言う。

   一条大蔵卿と称された一条長成の妻は、常盤御前で、二人の子を成しており、義経の義父でもある。
   ウィキペディアによると、
   ”義経が幼少時、奥州平泉の藤原秀衡に庇護されたのは、長成の支援によるものといわれる。秀衡の舅である藤原基成は長成の母方の従兄弟にあたる藤原忠隆の子であり、親戚関係にあった。”とあるから、義経とは、浅からぬ因縁にある。
   しかし、阿呆を装って世を欺いて生きたと言う記録はないので、この歌舞伎は、フィクションであろう。
   よくできた芝居だとは思うのだが、この歌舞伎もストーリーが単純すぎるので、一絛大蔵卿を演じる座頭役者の芸の出来次第の舞台であろうと思う。

   「一絛大蔵譚」も「碁盤忠信」も、登場はしなかったが、義経に纏わる歌舞伎であった。
   
   
   
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国立劇場9月文楽・・・「一谷嫩軍記」三段目

2016年09月14日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の「一谷嫩軍記」は、通し狂言なので、筋が明確になって、非常に面白い。
   第一部は、後で見ることになっているので、今回は「三段目」だけであるが、「弥陀六内の段」からなので、敦盛の笛の行くへが、はっきりとして、弥陀六が宗清であり、庇護している清盛の娘との関係などが分かって興味深い。
   (今回は、国立劇場のHPの写真を借用して、この文章を書かせてもらうことにしたい。)

   「弥陀六内の段」で、弥陀六(玉也)が庇護している田舎娘小雪(紋臣)が、お三輪が貴公子に恋焦がれたように、敦盛(和生)に恋をすると言う一腹の清涼剤の様な設定が面白いのだが、元々、清盛の娘と言う設定であり、最後に、義経が、弥陀六を清経だと見破って、鎧櫃に忍ばせた敦盛を、大切に育てている娘へ届けてくれと言う粋な計らいも面白い。

   今回、面白かったのは、チャリ場の連続で、舞台を沸かせていた「脇ヶ浜宝引の段」での咲大夫の語りと燕三の三味線の上手さと芸の冴え、勿論、小雪と藤の方との出会いや、青葉の笛との遭遇など感動的なシーンも感興豊かで、唯一のきりば語りの咲太夫の登場に納得した。
   

   ところで、「文楽へようこそ」で、玉男が、好きな演目の第二位に、この熊谷を上げている。
   見せ場は、何といっても、熊谷が軍扇を駆使して、須磨浦で、敦盛と一騎打ちを語る「物語」の場面でしょう。右手で遣っていた軍扇を左手に持ち替えて「要返し」をして、足遣いは棒足で決まると言う型が難しい。と言う。
   また、制札で藤の方(勘彌)を押さえて、義経(幸助)に敦盛の首を差し出す「制札の見得」の辺りは、長袴姿を格好良く遣うためには、左遣い、足遣いの実力も必要である。とも言う。
   私など、あの能「屋島」の那須与一語もそうだが、居語りなどの語りのシーンにはそれ程目が行かなくて、派手な「制札の見得」のような見せ場ばかりに注意が行くのは、鑑賞が未熟な所為でもあろうか。
   


   さて、あの名文句の「十六年も一昔」だが、先に次のように書いた。
   英太夫と團七の浄瑠璃と三味線に乗って、勘十郎の熊谷が、手に持った兜を眺めながら、「十六年も一昔。夢であったなァ」
   万感の思いを込めて歯を食いしばって泣いている。

   この部分は、文楽の場合には、浄瑠璃本来の床本通りの演出だが、普段の歌舞伎の舞台とは、大きく異なっている。
   歌舞伎も、本来のの幕切れは、文楽のように、いわゆる、芝翫型、役者全員が舞台上にいて幕となった引張りの見得であったのを、七代目團十郎が、今日のように、熊谷ひとりが花道に出て、幕を引かせ、天を仰いで、「十六年は一昔、アア夢だ。」と独白して、ひとり花道を引っ込む團十郎型を見せて、これが、踏襲されている。
   今回の芝翫襲名披露公演では、橋之助は、芝翫型を演じて、面白い舞台を見せてくれるのであろう。

   ところで、この團十郎型だと、浄瑠璃本来の幕切れで相模と共に引っ込む演出とは、大分、ニュアンスが違ってくる。
   このあたりを、團十郎型の吉右衛門は、自著「歌舞伎ワールド」で語っていて興味深い。
   ”「十六年は一昔」は、出家した熊谷が、脇目もふらず陣屋を立ち去ろうとしたのに、義経に「コリヤ」と、小次郎の首をもう一度目におさめておけと、と呼び止められて、思わず口をついて出たつぶやき、・・・「もう何も思い出したくない。振り返りたくない」という心も一方にはあって、でも、あの首がどうしても視野に入って・・・”と言う。
   
   私自身は、熊谷が出家を決意したのは、自分の子供小次郎を敦盛の身代わりにしたことだけではないことは、一ノ谷の波打ち際で、敦盛を組敷いて首を討たざるを得なくなった時に、戦いの不条理と世の無常を感じて心で慟哭していたことを想えば、良く分かる。
   勘十郎の熊谷のように、小次郎を討ったことは断腸の悲痛だが、熊谷の誇りであり生きがいであった筈の武士を兜で象徴して、人生のすべてを見切って、「十六年は一昔」と苦しい胸の内を吐露して、最後には、妻の相模(清十郎)を伴って幕に消えて行く、これが、本来のように思う。
  英太夫と團七の浄瑠璃と三味線、勘十郎の人形が、万感胸に迫るシーンをうつしだして感動的である。

   前回、私は、大阪での玉男襲名披露公演で、玉男の熊谷陣屋の雄姿を鑑賞した。
   あの時は、女房相模を吉田和生、敦盛の母・藤の局を桐竹勘十郎であった。
   もう一度、11年前に見た熊谷も、玉女の頃の玉男であったので、勘十郎の熊谷を観るのは、初めてである。
   この時も相模と藤の方は、同じく和生と勘十郎が遣っていた。
   私は観ていないのだが、6年前の文楽劇場では、勘十郎が熊谷を遣っていて、今回は2度目と言うことであろうか。
   全く記憶はないのだが、小劇場へは、20年以上、殆ど間違いなく通い詰めているので、先代の玉男や文吾の凄い舞台に接する機会もあったのであろう。
   
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