熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

イノベーション論再考

2007年09月30日 | イノベーションと経営
   退場した安倍内閣にも、そして、あらゆる企業のセミナーにも、好んで使われるタイトルは、イノベーション。
   イノベーションと言う言葉には、何となく、新しいブレイクスルーの為の革新、新しく生まれ変わった未来、と言ったプラス思考のイメージがあって、清々しい。
   ところで、このイノベーションが、学者でもない私の終生変わらない関心事であり、メインテーマであった。
   自分なりにイノベーションに対する考え方を纏めてみようと思って、A4版の30ページ弱の小論文を書いてみた。
   
   私がイノベーションと言う言葉に出会ったのは、もう40年以上も前、京都の学生の頃で、シュンペーターの「経済発展の理論」「資本主義・社会主義・民主主義」など一連の書物を読んだ時で、特にその頃イギリスの産業革命に興味を持っており、それに、専攻の経済学でも経済成長と景気循環について学んでいたので、正に、シュンペーターのイノベーションを根幹に据えた経済発展の理論は、青天の霹靂であり目からウロコであった。
   京都の経済学部は、マル経の牙城であったが、少数派の近経を選んだので、私も曲りなりにその頃優勢であったケインズ経済学を勉強したのだが、長期視点での経済成長と景気変動についてはシュンペーター理論で展開した。

   ところで、シュンペーターのイノベーションは、当初、新結合と言う言葉で表現されており、その例として次の五つ、①新しい財貨の生産、②新しい生産方法の導入、③新しい販路の開拓、④原料あるいは半製品の供給源の獲得、⑤新しい組織の実現、をあげていて、現在の経済社会に当て嵌めて考えると非常に広い概念である。
   このイノベーション論を、思想の根幹として首座に据えてマネジメント論を展開したのが、同郷の経営学の大家ピーター・ドラッカーであり、彼の経営学のダイナミズムと革新性は、正にこの精神の昇華である。

   しかし、日本では、経済白書がイノベーションを技術革新と訳してから極めて狭い概念となり、イノベーションのコンセプトを誤り、ドラッカー経営学をスキューしてしまった。
   欧米でもそうだったが、経済学がケインズ経済学とマネタリスト経済学主流で、マルクスは勿論、シュンペーターも忘れ去られ、殆ど、イノベーションの概念が表に出ることがなく、やっと、1990年代に、経営学方面で、イノベーションに関する重要な研究や学術書が現われ始めた。
   R.レスターやJ.M.アッターバックなどのMITグループ、C.M.クリステンセンのハーバード・グループなどの素晴らしい研究が、その後の多くのイノベーション関連本を輩出させているが、今でも、色あせずに存在価値を固持しているのはドラッカーのイノベーション論で、経営戦略論を筆頭にしたその総合的なマネジメント学をトータルで捉えると益々輝きを増す。

   私は、この現在のイノベーションを、第三次産業革命であるIT革命と知識産業化、グローバリゼーション等で特徴付けられている劇的な経済社会構造の激動の中で、どのように変化を遂げながら展開して来ているのか、その新しい潮流と本質的な変革を浮き彫りにしたいと思った。
   例えば、インターネットとデジタル技術の進歩によって、マスコラボレーション、共創と言った革命が起きている。ウイキペディアと言う誰でもが自由に編集に参加して生まれた電子事典が、世界最高峰の叡智の集積として燦然と輝いていたエンサイクロペディア・ブリタニカを、はるかに凌駕してしまったのだが、一体10年前に誰が予測し得たであろうか。
   セカンドライフと言うインターネット上の仮想空間では、実際の経済社会と全く同じ様な事業が営まれており、例えば、複雑な商業娯楽コンプレックスなどの不動産開発業が展開されているが、想像を越えた所までリアルとサイバーの区別がつかなくなってきている。

   シュンペーターは、非連続的で急激な変化、体系の均衡点を動かすような変化、例えば、郵便馬車から鉄道のような変化をイノベーションと呼んだ。
   今までになかったような変化が、イノベーションの引き金を引くと言うことだが、時代の潮流によって大きく変わって行く。
   潮の流れに敏感でなくてはならない。
   
   もう、20年以上も前になるが、イギリスにいた時、ブラック・カントリー(黒郷)へ産業革命時代の古い工場跡を見に行ったことがあるが、本当に小さなレンガ造りの掘っ立て小屋に近い。
   バーミンガムの郊外には、今でも、ジェームス・ワッットなどが活躍したこのような産業革命黎明期の遺跡がそのまま残っているのである。
   ここで起こったささやかなイノベーションのはしりが、世界を激変させたのであるが、これがほんの200年少し前の話であると思うと、世の中の動き、歴史の変転の早さには度肝を抜かれてしまう。
   

   
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現在のインドは10年前の中国・・・榊原英資教授

2007年09月29日 | 政治・経済・社会
   アメリカ在住印僑のハイテク・エンジニアによるIT関連業務のアウトソーシングで火の点いたインドの経済成長は、第二の転換点に差し掛かっている。
   政府の厖大なインフラ投資を先駆けとして、経済社会の発展のみならず、地方の開発と貧困層の雇用拡大のために、製造業の発展を図るべく大きく舵を切り始めたのである。
   1991年の新経済政策によってテイクオフしたインド経済は、疾風怒濤の如く経済成長を遂げた10年前の中国に良く似ている。

   そんな話から、榊原英資教授が、「21世紀の経済大国『インド』の原動力」と言う演題で某証券会社のインド投資セミナーを始めた。
   早大のインド経済研究所長になってから、何度か榊原教授のインド関連セミナーを聴講し、著書「インド 目覚めた経済大国」をも読んでいるので、殆ど教授の喋る内容は分かっているのだが、その後の推移を聴きたくて、また、セミナーに繰り出した。
   後半、ウィプロ・テクノロジーズのG・パランジブ社長の「インド成長企業の魅力」と言う演題で講演があったが、何れにしろ、アメリカからのIT関連アウトソーシングが全売上の80%もあって年率3~40%の勢いで成長していると言うのだから、BPO(Business Process Outsourcing )の威力は大したものである。

   榊原教授の話で、興味を持ったひとつは、印僑の存在とその役割である。
   これを中国の華僑と比較するとその違いが良く分かって面白い。
   華僑の場合には、有力な関係は主にアジア・コネクションだが、印僑の場合は、世界的な広がりを持っており、その多くは宗主国であったイギリスとアメリカに集中しており、現在の文明と科学、そして、政治の中枢に大きなコネクションを持っている。
   このことは、世銀や国連などの国際機関に、印僑の職員が非常に多いことや、金融やITなど欧米企業のトップにインド系が結構多いこととも相まって、今後インドが国際社会での比重が増すにつれて、インドの国際社会での影響力の強化に大いに貢献する筈である。
   しかし、これは誰も言わないけれど、影の部分だが、レバシリ、インパキと言われるくらい商売にはえげつないし、それに、アフリカ人には、自分たちの祖先を売り買いした奴隷商人としての恨みが残っている。

   もう一つ榊原教授の指摘で興味深かったのは、インド社会は、知者と知を重んじると言う点である。
   カースト制度の頂点には、バラモンと言う僧侶や教師が置かれているところが、権力者を頂点とする日本の士農工商と違う所だが、現在の親たちは子供たちをエンジニアや医者にすることを願っていると言う。
   九九は、19×19まで覚えているので、数学の教育水準は極めて高く、また、子供には徹底的に基礎教育を叩き込んでいると言う。
   私自身は、ゆとり教育などは言語道断であり、とにかく、まず知識を叩き込むことが肝心で、知識があればあるほど良く、それに、読み書きそろばんと言う日本古来の教育方針が正しいと思っているので、インド方式には賛成である。

   同じBRIC’sの国として、アメリカとの関係や発展段階の違いが面白い。
   中国とインドは、両国ともアメリカ産業のバック・ヤードだが、在外同胞人の違いと経済社会の構造の違いによって、中国は比較的程度の低い工業製品の、インドはIT,医療など知的に高度なソフト産業のアウトソーシングなりオフショアリング基地となっている。
   中国は、先進国が通ってきた発展段階を同じ様に歩いて経済成長を図って来たが、インドの場合には、一挙に知識情報化産業社会から目覚めて経済成長をスタートさせ、逆に、第一次、第二次産業に立ち戻って経済成長を加速させようとしている。
   インドにとっては、高度な科学知識を持った一握りのハイテク産業の育成は容易に出来ても、厖大な未開の貧困層を巻き込んでのインフラ整備や工業の発展拡大は非常に難しい道のりかも知れない。

   榊原教授は、インド人の多様性や、仏教・ヒンズー教の影響での無常観についても指摘していた。
   インドが、21世紀の大国として予想通りの発展を遂げて行けるのかどうかは、多くの未知数の要件があるので、手放しで楽観視は出来ないと思うが、近き将来人口世界一の国になることは間違いないので、マスとしても巨大であり目が離せないことは事実であろう。

(追記)写真は、綿の花。
   

   
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ガラスの飾筥ドリーム・ボックス・・・藤田喬平展

2007年09月28日 | 展覧会・展示会
   金箔を鏤めた蒔絵の飾箱と紛うばかりの素晴らしいガラス製の飾筥(かざりばこ)「琳派」など目を見張らせるようなガラスの芸術作品が、高島屋日本橋店の展示会場一杯に輝いている。
   この中に何を入れるのかと外国の鑑賞者に聞かれて、「あなたの夢を入れてください。」と藤田さんは答えたと語っている。
   それから、花鳥風月など日本の素晴らしい自然を題材にして作出された藤田さんの美しい色彩に彩られた飾筥はドリーム・ボックスと呼ばれる様になった。

   藤田さんが、初めて、自分自身のガラス芸術に自信を持ったのは、この口絵写真の「虹彩」だと言う。43歳の時の作品である。
   その後、流動ガラスと名づけられた大型の、微妙な感触の微かに濁りを帯びた乳白色の複雑な造形に、青と赤、それに、小さな金箔が所々微妙に溶け込んだ妖しい輝きを発する作品である。
   動いていたガラスが、瞬間に動きを止めて最高の姿で氷結したのが、この作品なのであろうが、硬くて冷たいガラスに息吹を吹き込んで芸術の域に引き上げた藤田さんの流動ガラスは、鑑賞者の目の中では、まだ、必死になって流動しているように見える。

   最初に、ガラス工芸を目指すきっかけになったのは飾箱だったようだが、15年以上も大変な苦労と試行錯誤を繰り返しながら、素晴らしい完成品「菖蒲」を発表したのは、53歳の時、1973年だと言う。素晴らしい飾筥が沢山展示されていたが、その中には、この菖蒲はなかった。
   場内の映像で、この飾筥の製作の様子が放映されていたが、
   デザインされて床の上に敷き詰められた金箔などを、水飴の様な吹き棒の先のガラスの塊を回しながら付着させ、それを、飾筥の鋳型に差し込んで、吹き棒を吹いて膨らませて形を作る。
   冷めたら型枠からはずして、精巧なのこぎりで2~3段に切り分けて重箱のような形にする。

   地色のガラスは、青であったり赤であったり黒であったりモチーフによって違うようだが、藤田さんのイメージにあったのは、江戸時代の琳派の豪華な装飾様式であった筈で、とにかく、表面の飾の繊細優美な絵模様と色彩は、息をのむ様な美しさである。
   三重になった重箱のような「紅白梅」2003年作などは、尾形光琳の「紅白梅屏風」をイメージしたようだが、黒くくすんだ色ガラスの地に豪華絢爛と鏤められた金箔の上に、白やピンク、それに、青い小さな模様が瑪瑙を切って貼り付けたようなくすんだ輝きを放っており、実に美しい。

   世界中の人々を、「フジタのガラス」として驚嘆させたが、その後、1978年(57歳)にベネチアのムラーノ島に渡った。ベネチアン・グラスの巨匠や職人達、そして、文化と芸術の華咲くイタリアとの遭遇が、益々、藤田さんの芸術的な発想と芸術を豊かにしたのであろう。
   色ガラスで装飾されたガラス棒を繋ぎ合わせて作出されたカンナ様式のベニス花瓶の繊細優美な美しさは、日本の美意識とイタリアの美との融合がなさしめた技で、この技法が、茶道具や食器などの小さな作品にも応用されて珠玉のような輝きを放っている。

   他にも、イチゴ、リンゴ、かき、ブドウ、と言った果物の造形、バラやシクラメンの置物、装飾品、アブストラクトなオブジェなど面白い作品が並べられているが、まず最初に、入り口で迎えてくれる、地中海の太陽をイメージした赤い大きな球体にタコの鉢巻のような黒い帯をまわしてアレンジされた造形のユニークさとユーモアが素晴らしい。
   
   ところで、ベニスのムラーノ島での話だが、もう、20年ほど前に、私も観光客としてベネチアン・グラスの工房を訪ねて、ガラス製品作りを見学したことがある。
   名にしおうベネチアン・グラスの現場を興味深く見学したのだが、当然のこととして厖大なガラス作品をディスプレィした併設のみやげ物店へ案内された。
   私は興味なかったが、日本から来ていた友人はシャンデリアや花瓶などを買っていたが、案内してくれていた店主(?)が、しきりに写真を撮っている私のニコンの一眼レフを気にしていて譲れと言う。
   当時、このカメラしか持って来ていなかったし、まだ、旅路が長いのでカメラがないと困るので、イエスと言えなくて逡巡していると、痺れを切らした店主が、この展示中の品物ならどれでも良いから欲しいものをカメラと交換に持って行けと言う。
   高価な作品も沢山あり、交換条件としては申し分がなかったが、豪華なシャンデリアや花瓶など貰っても、赴任を終えて日本に帰国しても3LDKの社宅ではどうすることも出来ないので、結局、カメラは諦めてもらって早々にムラーノを発った。
   あのキャサリン・ヘップバーンとロッサノ・ブラッツィのなんとも切ない「旅情 Summertime」の舞台ベニスでの思い出の一コマである。
   わが家には、その後、別な旅の途中にベニスで買った小さなオーケストラの楽団員や音楽家たちのガラス人形が書棚に並んでいる。
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古城の土塁斜面に咲く彼岸花・・・佐倉城址公園

2007年09月27日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   先日、久しぶりに、佐倉城址を歩いたら、本丸跡の土塁の斜面のここかしこにヒガンバナが咲き乱れていた。
   このヒガンバナは、毒性が強いので、ネズミやモグラ、虫などを避けるために、普通は、田畑の畦道や墓地などに植えられていて、そんな所で見慣れているので、何となく違和感を感じたのだが、
   ピンと威勢良く伸びた茎のてっぺんに放射状の花飾りのような赤い花をつけた派手な雰囲気が、案外、廃墟となった古城跡には良く似合うのである。

   子供の頃、畦道に沢山咲いていたが、彼岸、すなわち、死を連想させる花と言うイメージなので、好きな花ではなかったが、何故か、彼岸花と言うよりは別名の曼珠紗華と言う名前で覚えている。
   地球温暖化の影響を受けて、普通の花の咲く時期はどんどん後退して遅れて来ているのに、やはり、あの世の花なのか、この花だけは、毎年、間違いなしに彼岸の頃に咲くのが不思議である。
   外国では、球根花として普通の扱いなのだが、日本では不吉な花のイメージなので、園芸の本にもその記述さえ殆どなく、可愛そうな気がする。
   しかし、この花が渡って来たと言う故国の中国では、「相思華」と言うらしい。この花は、花が咲いている時には葉がなく、葉がある時には花がないので、お互いに、花が葉を思い、葉が花を思うからだと言うのだが、中々粋な発想である。

   大きなカメラを三脚につけて用具一式を持った初老の夫婦が二組、古城公園を歩いていたが、花や小鳥が目立つ時でもないし、それに変化の乏しい季節なのに、何を写すのか気になったが、趣味と実益を兼ねた散策であろうか。
   まだ、暑さが残っている所為か、ツクツクホウシがしきりに鳴いていた。
   池面には、蓮の葉が一面に広がって、所々に小さな白い蓮の花が咲いている。葉が動いたかと思うと、小さな亀が首を出した。
   池畔には、子供が投げたパンの切れ端をめがけて、小さな小魚が群れている。
   時々、成田空港を離れた飛行機の爆音が上空をかすめて行く。

   城址公園の外れにある「くらしの植物苑」に行くと、季節の植物の変化が良く分かって面白い。
   季節最後の朝顔のプランター植えがまだ残っていて、青い清楚な花をつけて可なり遅い時間まで咲いている。
   収穫時期なのか、色々な種類の瓢箪やヘチマ、瓜などの実が棚から沢山ぶら下がっていて、中々、壮観である。休息所のテーブルには、色々な瓜類の実が展示されていて、その種類の豊かさに驚く。
   シルクロードを経て、地中海やペルシャ辺りから渡って来たのであろうか。

   花は、芙蓉のピンクが鮮やかで、それに、シュウメイギクと萩も盛りで咲き誇っている。
   面白かったのは、綿の花が一輪、それに、白いヒガンバナが数株、綺麗な花をつけていたことであった。
   綿の花は初めて見たが、芙蓉を小型にしたような薄い黄色の綺麗な花で、綿の実が大分出来ていた。
   木の小さな実が、赤や黄色に色づき始めて、陽の光を受けて光り輝いている。
   まだ、暑くてたまらないが、確実に秋が来ている。
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いまに生きる古代ギリシャ・・・東大桜井万里子名誉教授

2007年09月26日 | 生活随想・趣味
   何十年ぶりであろうか、久しぶりに、NHKラジオ講座歴史再発見の桜井教授の「いまに生きる古代ギリシャ」を聴いていたが、昨日で終わってしまった。
   非常に質の高いギリシャ学の講義で、所々聞き逃してテキストで補う状態であったが、学問の香りを感じながら感激して聴いていた。
   昨日、東大法学部で、立錐の余地のないほど教室を埋め尽くした法学生たちに混じって、内田貴教授の「いまなぜ『債権法改正』か?」を聴講したのだが、多少難しくても格調の高い学問に触れることは素晴らしいことである。

   歴史とまともに呼べる授業を受けたのは、教養部時代の宮崎市定教授の「中国史」だけだが、これが実に目からうろこの連続で、素晴らしい授業であった。
   私は、経済学と経営学の専攻なので歴史学は特に学ばなかったが、学生時代にアーノルド・トインビーの「歴史の研究」に影響されていたので、その後の読書の多くは歴史書、特に、世界史関係が多かった。
   この勉強が、14年の海外生活で仕事の上でも、特に欧米人との付き合いに非常に役に立った。
   先年、大学入試に出ないので、多くの高校で必須の世界史を端折ったことが問題になったが、グローバリゼーション時代に世界史の知識が欠如しておれば、世界市民として失格であるのに、時代錯誤も甚だしい限りである。

   ところで、桜井教授の最後の講義は、やはり、「歴史学がかってのような影響力を失っている。・・・歴史に向き合うことを避ける姿勢が、政治家や財界人の一部に見られます。過去など参考にならないというのでしょうか。とんでもない。」と言う強い抗議であった。
   歴史学は古代ギリシャから始まったと、歴史の父・ヘロドトスを語りながら、歴史学の復権、歴史学と文化人類学の融合を説く。
   
   論語に温故知新という言葉があるが、古きをたずねて新しきを知ると言うのは世界共通の人智で、特に、革命的とも言うべき凄まじい速さで経済社会が変転する今日ほど、人類の歴史の蓄積は貴重な宝であるが、この人智の蓄積である知的文化遺産の軽視が、世界情勢の混沌を招来していると言えるのかも知れない。
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ヒトデはクモよりなぜ強い・・・アルカイダはヒトデ

2007年09月25日 | 政治・経済・社会
   クモは、8本の足があって体の機能は分散されているが、頭を切り落とせば死んでしまう。
   しかし、ヒトデは、何処から切っても、また、新しい組織が生まれてきて元の身体に戻り、切れた小片も別なあたらしいヒトデとして再生される。
   現在の経済社会に存在する殆どの組織は、長を頂点に頂くクモ型の中央集権型の体制をとっているが、最近のオープンソース型のリナックスやウイキペディアなどは、組織の長が存在しない、誰もが自分自身で意思決定をして行動する分散型の開かれた組織になっている。
   中央集権型の組織はもう古く、21世紀はリーダーなきヒトデ型分散組織が勝つ時代である。
   アメリカは、クモ型組織の典型だが、アルカイダは、ビンラディンに指揮統率された組織のように考えられているが、実は、そうではなく、夫々のメンバーが自立したヒトデのような分散型の組織であるから、切っても切っても消滅せず、益々勢いづいて力を増すのは、この組織の特質の所為ではなかろうか。

   こんな面白い問題提起を、オリ・ブラフマンとロッド・A・ベックストロームが「ヒトデはクモよりなぜ強い The Starfish and The Spider」と言う著書で行っている。

   著者たちは、クモ型とヒトデ型を、アメリカ征服時代のスペイン軍とアパッチ族との戦いで説明している。
   新大陸を征服した常勝のスペイン軍も、アパッチ軍だけは、ヒトデのような分散型組織を維持していたので、叩いても叩いても又別な新しい組織が蜂起して、何十年も苦しみぬき容易に征服できなかったのである。
   アパッチ族には、ナンタンと呼ばれる精神的および文化的な指導者がいたが、他の部族の首長とは違って、行動で規範を示すだけで他者に何かを強要する権限は持たなかった。
   この社会全体を守る唯一無二の人物が存在しないと言う柔構造のヒトデ型組織が、アパッチ族を支え続けた。
   あの勇名を馳せたジェロニモは、その後アメリカ軍を相手に何十年も戦い抜いたナンタンの一人である。

   中央集権型のスペイン軍は、他のラテンアメリカで成功したモンテスマ王のような指導者を殺害し金銀財宝を奪ったような強圧的な戦略を、アパッチ族征伐にも適用したが、ナンタンを一人殺すとまた新しいナンタンが登場するといった調子で、柔軟で権限を多数で共有する分権型の組織には手も足も出ず失敗の連続であった。アメリカ軍も同様であった。
   余談だが、我々の子供の頃には、インディアンが被征服者として描かれた西部劇が全盛であったが、その後、人種差別・迫害等人道的な風潮が高まって消えてしまった。アメリカのフロンティア・スピリットなど言うのは、その程度に次元が低かったのである。

   ところで、アルカイダだが、西欧人がムスリム文明への脅威であり戦わなければならないと言うイデオロギーによって成り立っている集団で、アルカイダ本部がテロ行動を一つ一つ計画するのではなく、イデオロギーに賛同した構成員が、前に成功したやり方を真似て独自に行動しているのだと言う。
   夫々直接関係のないグループがアルカイダを名乗って行動しているので、ビンラディンを消しても、アメリカの中東政策を改めてテロの原因を根絶しない限り、永遠にテロ行動は続いて行く。
   何故なら、アルカイダの組織は、全く、アパッチ族のヒトデ型分散組織と同じで、叩いても叩いても新しく強力な新細胞が蘇る。
   分散型組織は、攻撃を受けると、更に権力分散の度合いを高めて拡散し続けて、益々勢力を増強して行くのである。

   もう一つ気になるのは、アメリカのテロへの対応が、アパッチに対したスペイン軍と同じ様に、中央集権組織に凝り固まった頭で戦略を打ち、アルカイダをビンラディンに統率された中央集権型の組織と認識して、ビンラディンばかりを標的にしていることである。

   私自身は、ウイキノミクス時代のオープンなグローバリゼーションの世界では、完全に、会社組織でも、中央集権型ではなく、何らかの形で分散化された自律性が強くて自由度の高いオープンな組織へ移行せざるを得ないと思っているので、ヒトデ型組織への回帰の重要性を認識することは大切だと思っている。
   管理中枢機構をクモ型に維持しながら、末端の実務部門をヒトデ型にしているトヨタのようなハイブリッド型の組織を示唆しているのは参考になる。
   著者たちは、ヒトデ型の組織の中心人物を、触媒と言う捕らえ方をして、中央集権型クモ型組織のCEOと対比して、リーダー論を展開しているが、非常にユニークで面白い。
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秀山祭九月大歌舞伎・・・吉右衛門の「熊谷陣屋」「二条城の清正」

2007年09月24日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   祖父で先代の吉右衛門の記念の舞台を、当代吉右衛門が意欲的に演じている素晴らしい秀山祭だが、昼の部の「熊谷陣屋」夜の部の「二条城の清正」と吉右衛門の重厚な演技が、芸術の秋の到来を告げる。
   2階の回廊には、初代吉右衛門の遺品や和歌の掛け軸、舞台写真などが展示されていて賑わっている。

   熊谷陣屋だが、これまでは、兄の幸四郎の舞台が多いのだが、二人とも実父白鸚の薫陶を受けているので初代吉右衛門の舞台の継承だと思うが、今回は、先回幸四郎の舞台で気になった大仰な直実の演技も、様式美として見ることにしてそれなりに楽しむことが出来た。
   この舞台は、幕切れに、憂いを帯びた三味線の音を背に、花道を悄然と去って行く直実の最後の台詞「十六年はひと昔、あぁ、夢だ・・・」と言う言葉に総てが託されていて、激しくメリハリの利いた舞台展開に流れる無常観が実に切ない。

   史実とは全く違うが、清盛が祗園女御の妹の子でご落胤と言う説を踏まえてか、敦盛も、同じ後白河法皇のご落胤と言う設定で、皇位継承にも絡む重要な存在であり、恩寵を受けた義経が殺害できる筈がない。
   敦盛の命を助けよと義経(芝翫)の厳命を弁慶が書き記した制札が、首実検の時も相模や藤の方の動転を遮る時にも、その後小道具として重要な役割を果たすのだが、年恰好の良く似た実子小次郎を身替りに殺して義経の首実検に差し出さなければならない剛直な関東武士直実の苦衷がテーマの良く出来た舞台である。

   虫の知らせか、初陣の小次郎の身が気がかりで、陣屋まで追いかけてきた妻相模(福助)に真実を知られたくない直実が不機嫌になるが、敦盛の討死で実母の藤の方(芝雀)を慰めていた相模が、首実検で差し出されたのが小次郎の首と知って動転、この肺腑を抉る様な愁嘆場が実に悲しい。
   福助が、人生を一身に背負って苦悶する母親像を実にスケールの大きな相模で演じていて、同じ舞台に悠然と座っている実父芝翫の芸をそのまま踏襲した感じで感激的でさえある。
   同じことは、品格のある藤の方を演じる雀右衛門の実子芝雀にも言える事で、二人の人間国宝役者の代替わりが完了したような気持ちになって観ていた。

   直実が義経に暇乞いを請うまでの吉右衛門は、実に骨太な剛直そのものであるが、僧形に身を変え陣屋を発つ時には、一井の庶民の姿。特に、妻相模の前を去る時には、身をかがめて許しを請うような姿で通り過ぎ、冒頭の陣屋への帰還時の威厳と威容は微塵もないが、この変わり身の巧みさが、最後の幕切れの16歳であたら花の蕾を掻き切った無常の慟哭を際立たせている。

   ところで、弥陀六を演じる富十郎だが、正に適役だと思ったが登場はMETなど僅かな様子。
   弥陀六は実は宗清で、子供の頃の頼朝・義経の命を救った恩人だが、生粋の平家の筋金入りの武士で、頼朝の命を狙い続けている実にスケールの大きなサムライである。歌舞伎などでも出番が多いキャラクターで、特に、今回の舞台は、世捨て人のような役が昔を髣髴とさせて表に出てるなど難しいのだが、人間国宝富十郎はやはり上手い。

   夜の部の「二条城の清正」は、やはり、幸四郎と吉右衛門何れが演じても独壇場の舞台であろう。今回は吉右衛門だが、豊臣家にとって最後の残照が輝く舞台でもあり、特に、死期を悟った清正の「今宵ばかりは・・・いのち、お、お、惜しゅうなりました・・・」と言う台詞が総てを語っており、大阪城を目指して淀川を下る御座船の甲板での秀頼(福助)との主従の関係を超えた会話が胸に沁みる。
   吉右衛門の決定版とも言うべき清正の素晴らしさは勿論だが、女形の福助の匂い立つ様な秀頼の格調と品の良さにも脱帽である。
   ただ、少し気になったのは、先の演目が、極めて愉快な「身替座禅」であったので、一挙に深刻な悲劇的な舞台へと気分を切り替えるのが難しくて、困惑したことも事実である。

   玉三郎と福助の、長唄囃子連中の楽の音に乗せて華麗な舞を舞う「村松風二人汐汲」は、美しい素晴らしい舞台を見せてもらった。

   「竜馬がゆく」だが、東京フォーラムで、茂木健一郎のセミナーを聞いていて、途中から観たのだが、正に現代劇。染五郎の若々しくパンチの利いた竜馬と、スケールの大きな歌六の勝海舟が中々良かった。
   今回の秀山祭だが、アラカルトで盛り沢山のサービス満点の舞台だが、偶には、歌舞伎座も、国立劇場のように通し狂言で重厚な舞台を見せた方が良いのではなかろうか。
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新日本フィル定期「こうもり」で幕開け

2007年09月23日 | クラシック音楽・オペラ
   セミステージ・コンサートとは言え、凝った演出の素晴らしいヨハン・シュトラウスの喜歌劇「こうもり」で、新日本フィルの定期公演が幕を開けた。
   アルミンクの薫陶が新日本フィルに浸透し始めたのか、ウイーンの香り豊かなサウンドがお祭り気分を盛り立てて、最初から最後までシュトラウスの美しくて華麗なワルツが全編を彩り、幕開けに相応しい演奏会であった。

   私が始めて「こうもり」を観たのは、もう30年以上も前の大晦日の夜にウイーン国立歌劇場であった。
   これに倣って、独墺をはじめヨーロッパの歌劇場では年末に「こうもり」を公演する事が恒例になっているが、ロイヤル・オペラなどでの素晴らしく華麗な舞台の思い出が残っている。
   面白かったのは、ストックホルムの市庁舎の傍で行われた野外公演の「こうもり」で、第三幕に入ってから雨が降り始めて、観客も右往左往、雨具を持たなかったので、途中で抜け出たので最後まで演奏されたのかは分からないが、素晴らしく美人のロザリンデが歌っていて、これだけ聴くだけでも十分であった。余談ながら、その後、嘘のように雨が上がって、ストックホルム港での花火大会の打ち上げ花火が美しかったのを覚えている。

   さて、アルミンク指揮の「こうもり」だが、三浦安浩の演出が素晴らしく、人生のアイロニーと泣き笑いをシャンパンの泡で笑い飛ばす娯楽に徹した舞台で、芸達者な歌手や栗友会合唱団に思う存分演じさせている。
   特に面白いのは、指揮者のアルミンクまで舞台に取り組んで演じさせる芸の細かさで、第二幕のオルロフスキー公爵の舞踏会の場で、ハンガリーの貴婦人に扮したロザリンデがハンガリー人でなかったらと疑われて歌う「チャールダッシュ」で、情熱的な歌にかまけて指揮台のアルミンクを誘惑する。
   「私の心は、何時までも貴方だけのもの」と言うくだりで、ロザリンデが後ろ手でアルミンクの腰をまさぐり、「この胸に情熱がみなぎる・・・トカイワインにひそむ熱い炎・・・」でしなだりかかると、アルミンクも後を振り返り意味深な素振りでロザリンデに応える。もっとも、右手の指揮棒は淀みがない。
   第三幕の登場では、アルミンクはワインを片手に千鳥足で登場・・・こんな舞台であるから、観客が喜ばないわけがない。

   ロザリンデのベッティーナ・イェンセンだが、故郷ドイツを主体に活躍しているようだが、中々芸達者で雰囲気のある歌手で素晴らしいロザリンデを魅せてくれた。
   ベテランながら、一寸実直な感じのアイゼンシュタインのヘルベルト・リッペルトは、この舞台が初役だと言うが、重厚な舞台歌手でありながら軽妙でコミカルなこの役も当たり役かもしれない。
   ロザリンデの恋人アルフレートのカルステン・ジェスは、実に朗々とした美しいテノールで、ロザリンデとの楽しい夜を前にして、「マエストロ!」と言ってアルミンクに指示して歌いだす「乾杯の歌」など、正に素晴らしいヴェルディ節でサービス精神旺盛である。
   小型ビデオ・カメラを持ってウロウロし、第三幕で軽妙な舞台を見せる牢番フロッシュを演じるゲルハルト・エルンストだが、とにかく、この役には何れの公演でもユニークで面白いベテランの喜劇役者が登場するので楽しみでもある。

   ところで、日本歌手であるが、この舞台で狂言回しの重要な役を演じるファルケ博士の高田智宏の朗々と響く張りのあるバリトンが素晴らしい。
   注目したのは、アデーレの松田奈緒美で、最初の出だしの張りのある聞きなれたソプラノとは違った一寸籠もった声音に違和感を感じたのだが、緩急自在に歌い分ける表情豊かなはちきれるような歌唱が心地よく、達者な演技も好ましくこれからが楽しみなソプラノである。

   特筆すべきは、オルロフスキー公爵の加納悦子。
   髪の毛を逆立てて黒メガネをかけ、ラメのジャケットと黒ズボンで腹を突き出して歩く姿は、昔のロカビリー歌手風のいかれポンチスタイル。不動まゆうの振付である。
   小柄なので、これがこの舞踏会の主役の公爵かと思うと第一印象は裏切られるが、これが実に上手い老練な舞台を勤め、パンチの利いたメゾ・ソプラノが舞台を締める。
   ウイーンでは、ビルギッテ・ファスベンダー、ロイヤルでは、カウンターテナーのヨッヘン・コワロフスキーのオルロフスキーを観たが、普通、この舞台は非常に豪華な華麗なセットで、権力の象徴のようなロシア貴族が客達に楽しめとウオッカを勧めてハッパをかけるシーンだから盛り上がり、豪華な来賓が飛び入りしたり華麗なバレーなどが入り込むのだが、いやが上にも楽しくなる。

   アルミンクは、やはり、ウイーンの指揮者で、ルッツェルン歌劇場の音楽監督もしているのでオペラもうまい。
   とにかく、新日本フィルのや栗友会合唱団の演奏がどうだとか言う前に、素晴らしく楽しい上質なセミ・ステージ・オペラを創り出していて、実に楽しい舞台であった。
   
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風景保護か,家を建てる権利か

2007年09月20日 | 地球温暖化・環境問題
   ニューヨーク・タイムズの電子版を開いたら、ケープ・コッド湾の南ツルノの荒涼とした海岸風景(写真)が出ていて、「A Town Tries to Protect an Artistic Inspiration」のタイトルの記事で、この風景が変えられようとしていて、住民たちの風景保護の戦いが始まっていると報じていた。
   ケープ・コッドは、アメリカのニューイングランドの海岸で、この沖にイギリスのプリマス港を出港した初めてのアメリカ移民を乗せたメイフラワー号が漂着した所である。
   問題は、この海岸に、アメリカの有名な風景画家エドワード・ホッパーが1930年から1967年まで住んでいた旧家があって、沢山の風景画を残しているのだが、その敷地の隣地を購入した地主が、ガレージとプール付きの大きな家を建てようと建築許可申請を出したことから起こった。

   荒涼としたこの海岸線は、僅かな漁民と芸術家などの関心をひく程度なのだが、近所の住民300人ほどが、そんな家を建てたらホッパーの白亜の家からの芸術的な風景が台無しになり雰囲気をぶち壊す、第一、芸術的歴史的価値を破壊する暴挙だと反対しているのだが、地主の方は、法を犯しているわけではないからどんな家を建てようと勝手だ、今までほって置いてなんだと応酬しているのである。
   土地利用委員会で検討されているが、地元の役所は、土地を買い取って保護する意思はないといっている。
   
   このような問題は、世界各地のあっちこっちで起こっていて珍しいことではないが、大体、人間は保守的なので、余程自分にプラスにならない限り、変化には、難癖をつけて反対する傾向がある。
   しかし、同じ BRIC'sでも、中国は共産主義ゆえ強権を発動できるので開発し易いけれど、インドは、曲がりなりにも民主主義なので開発許可が下り難い、これが、インフラ整備のスピードの差だと言うのが面白いが、経済社会での利便性と自然環境のアメニティの保護とは絶えずバッティングする。

   開発許可と建築許可とは違うし、国によって、その扱いは全く違う。
   私の経験でも、オランダの場合には、住宅の窓枠は白で囲うとか細かい規則があって、庭の木一本切るのにも許可が要った。
   その点、イギリスの場合には、個々の建物で個別に建築許可が下りるので、異質な意匠のビルが建つ事があり、街の景観が変わってくる事もある。住宅の場合についてだが、隣家の改装に異議があるか、役所から、私に照会があったが、住民の意向を尊重するようである。
   シティで、英国トップクラスのホテルと組んでホテル建設を計画して開発計画を提出した時、シティが公聴会を開いたので、住民が来て、「連れ込みホテルを造られると治安が悪くなる」とか、あることないことナンセンスな議論が展開されることもあった。

   苦労したのは、サッチャーのビッグバンでロンドンのシティが大変なブームであった頃、ファイナンシャル・タイムズの本社ビル(ブラッケン・ハウス)を買収して、日本の銀行のために最新鋭のディーリング・ルームを備えた金融センターとも言うべきロンドン本部を開発したプロジェクトであった。
   ナチス・ドイツの爆撃でセント・ポール寺院だけ残して廃墟のようになった隣接地に建てられたビルだが、煤けて黒ずんではいるがファイナンシャル・タイムズの新聞紙と同じピンク色のホリントン・ストーンで外装されたシックな建物であった。
   しかし、地下には巨大な輪転機が据えられた工場があり、この時(1988年)、まだ、床には活字が転がっていた。上の6階分は本社だが、歪な建物で内部に22階相当のアップダウンがあって、正に現代のラビリンスのような部屋が入り組んでいて、その中を記者たちが走り回っていた。

   問題は、このビルを金融センタービルに改装するための建築許可の取得である。
   歴史的建造物として保存運動が展開されていて、運悪く買収後に、重要文化財指定となって重度の保存建物になってしまったので、益々、許可取得が難しくなった。
   幸いシティが開発に好意的であったのだが、その頃、チャールズ皇太子が、シティの乱開発は「英国の陵辱(rape of Britain)」だとして、BBC番組や本、講演等で、個々の建物を名指しで激しく非難するなどシティ開発反対の大論陣を張っていた頃であり、大変な状態であった。
   その時、名指しされて頓挫し、その後三菱地所が買収して開発に当たったパターノスタースクェアーの再開発が、20年以上も経てやっと数年前に完了したのは、この後遺症であろう。

   結論は、当時のブラッケン・ハウスより素晴らしいビルを再開発する以外に道はないと腹を括って、英国のトップ・アーキテクトを総てインタヴューしてまわってプランを固め、シティや政府関係当局、環境保護団体や学者、ジャーナリスト等の説得など大変な日々を過ごした。
   自分自身が代表者として仕掛けたプロジェクトだったので、最初から最後まで、殆ど前例のない異国での戦いであったが、完成した時には感激であったし、王立建築家協会など賞を総なめにして、その銘板がエントランスの壁面に並んでいる。
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国立劇場文楽公演・・・夏祭浪花鑑

2007年09月19日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   勘三郎がニューヨーク公演で人気を博した「夏祭浪花鑑」の文楽版。
   歌舞伎の舞台には殆ど記憶が残っていないので比較は出来ないが、ビデオで見た感じでは、勘三郎の団七九郎兵衛が笹野高史の三河屋義平次を殺害するシーンのある長町裏の段が凄かったが、この文楽でも、桐竹勘十郎の団七と吉田玉也の義平次のくんずほぐれつの舞台が人形を超越した凄い迫力で素晴らしかった。
   団七、釣船三婦(桐竹紋寿)、一寸徳兵衛(吉田玉女)の三人の侠客の義侠心と男の意地を軸としてその妻たちとの人間模様などを絡ませた世話物だが、大坂発と言うか江戸モノとは一寸違った雰囲気が残っていて面白い。

   見せ場は、やはり、前述の義平次殺害の場と、徳兵衛の女房お辰(簔助)が、磯之丞(吉田清之助)を玉島に連れ帰るには美しくて色香があり過ぎて世間の誤解を招きかねないと三婦に言われて、火鉢で真っ赤になった鉄弓で顔を焼くシーンである。
   武士の妻などと言って、その決然とした潔さなどが舞台に上がることがあるが、この場合は、身体を張って生きている任侠の女房としての心意気と言うものであろうか。
   歌舞伎では、「そのような顔になって徳兵衛に嫌われはせぬか」と言われて、「うちの人が惚れたのは顔じゃござんせん。ここでござんす」と言って右手で胸をたたくようだが、
   文楽では、「・・・コレお内儀、傷は痛みはしませぬか」「なんのいな、わが手にした事、ホホ、ホホ、オホホホホホ、ヲヲ恥ずかし」と袖覆う。
   簔助は、この気丈夫なお辰の心の揺れを実に鮮やかに人形の表情に託して演じきっていて感動さえ覚える。

   お辰が、刑期を終えた夫徳兵衛を迎えに大坂に来て、三婦とその女房おつぎ(桐竹紋豊)に会って、最初は世間話だったが、おつぎから玉島に帰るのなら磯之丞を連れて行ってくれと頼まれて、この惨劇が起こるのだが、黒衣装の凛とした簔助のお辰が舞台を引き締めている。
   お辰の登場は、この釣船三婦内の段だけだが、竹本住大夫の語りと野澤錦糸の三味線がまた素晴らしい。

   今月の日経の「私の履歴書」は、簔助である。
   日頃は、気づいた時にしか読まないが、簔助のところは、毎日欠かさずに楽しみながら読んでいる。
   履歴書だから、芸談は少ないが、戦後の文楽の苦難時代の苦労話を三和会の活動などを通して語っているが、丁度その頃、関西に住んでいたので、何となく雰囲気が分かって親しみが湧く。

   さて、団七の義父義平次だが、仲間と語らって道具屋にニセモノの香炉を高く売りつけたり、団七の名を騙って、磯之丞の想い人琴浦(吉田勘弥)を三婦宅から連れ出して叩き売ろうとするなど悪の限りを尽くす薄汚い吝嗇の極悪人で、これがもとで団七に殺されるのだが、いくら義理でも父は父、この関係が団七の運命を決める。
   琴浦を追って長町でやっと追いつき、懇願するが琴浦を返すどころか、チンピラの団七を一人前にしたのは誰だと散々悪口雑言。石を包んだ30両で騙されて琴浦を返すが、金がないと知って、雪駄で団七の眉間を割る。辛抱に耐えかねた団七が、抜刀して泥田の中を義平次を追い回して刺し殺す壮絶な殺人劇が展開される。
   玉男は、この極悪人の義平次の役が好きで、悪ければ悪いほど団七が引き立ち遣り甲斐があると言っていた。
   

   この時、団七の人形は裸になって、みごとな彫り物と赤褌姿を晒して見えの連続で観客を釘付けにする。この鮮やかな刺青姿は、歌舞伎からの逆移入だと言う。
   今回の「夏祭浪花鑑」は、三段目から九段目までだが、全編通しての主人公は団七で、勘十郎が実にきめ細かく豪快な団七を遣っている。
   簔助が、履歴書で、勘十郎の弟子入りの感動を綴っていたが、芸の伝承の素晴らしさを実感させる素晴らしい勘十郎の舞台である。

   この長町裏の段だが、団七を人間国宝となった竹本綱大夫、義平次を竹本伊達大夫の語り、鶴澤清ニ郎の三味線で浄瑠璃が展開していて、その迫力と緊迫感が素晴らしい。

   女形で芸達者な桐竹紋寿が、今回は、老練な人形捌きで三婦の重厚な侠客像を見せてくれている。
   吉田和生の団七女房お梶、玉女の一寸徳兵衛の素晴らしい人形が、勘十郎の団七の舞台を支えていることも今回の公演の成功の重要な要因であろう。
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流行語は当たらないのか・・・ソニー中村末広研究所長への?

2007年09月18日 | 経営・ビジネス
   「選択と集中」、「アウトソーシング」、「IT化」というものを検証してみると、世間で言われている「流行」がいかに当たらないことが多いかよくわかる。
   こういう流行語を本当に理解しないで、時流に遅れまいと口にする輩が多すぎる。・・・よく理解もしないで、言葉だけ躍らせても、百害あって一利なしである。(中村末広著「経営は「1・10・100」196ページ)

   「ソニーの遺伝子を受け継ぐ「創造」の伝道者が初めて語る成功の法則」と言うサブタイトルを帯に付けたこのソニー中村研究所の中村末広所長(元ソニー副社長)の本だが、先日の講演で中鉢社長が紹介していたので読んだが、一昔前の製造業の改革の話で、トヨタ・ウエイを知る人には、如何にソニーが時代錯誤の遅れた会社であったかと言うことが良く分かる。
   著者の見解は、20世紀の大量生産型の製造業の話で、イノベーションの部分では参考になった所があったが、これがソニー社員の研修に使われているようだが何をかいわんやである。(もっとも、本の出版が2004年4月23日だから、タイムラグで現実は変わっているかもしれない。)
   色々異論はあるが、冒頭部分の錯誤ぶりに限って私論を述べたい。

   選択と集中だが、自社の得意分野であるコア・コンピタンスに経営資源を集中して、それ以外の分野においては、売却したり外部委託(アウトソーシング)するとの理解が大方の常識だが、
   中村所長は、タイの工場を閉めてマレーシアの工場に生産を集中すると言った地理的な集中を言って、生産は出来るだけ消費者に近い所に分散すべきだとの持論を展開している。全くナンセンスである。
   このソニーの選択と集中については、成長戦略がなかったと中鉢社長がいみじくも言わざるを得なかったが、あのストリンガー中鉢体制に移行してからは、この「選択と集中」戦略こそがソニーの最優先の経営課題になっている。
   差別化の最たる戦略的製品であったロボットをトヨタに売り、ソニーが社運をかけて開発した筈のゲーム機用MPU「セル」を含むシステムLSIの製造工場を東芝に売ってしまったのは何故だったのか。あえて、コモデティ化してしまって競争の激烈なコンシューマー・エレクトロニクス等コア・コンピタンスに経営資源を集中したかったからである。

   アウトソーシングについては、経営が大変だから安い外部に外注して従業員を解雇するなどと言うのは間違いで、売れるものがあれば出来るだけ自分たちで守り続けて行くべきだとして、飯炊きを外国人にやらせている店に負けて子供を解雇せざるを得ない寿司屋の話をしているが、グローバル時代のアウトソーシングは、そんな次元の話ではない。
   「Made in America」のMITチームのスザンヌ・バーガーが、2005年に、著書「グローバル企業の成功戦略」で、ソニーを名指しにして、
   「古いモデルの固守には危険が伴う。統合の協働効果を盲信した結果、機能ごと、製品ごと、工程ごとの評価――自社が最も特異としているのは何か、そして、国内国外のどのサプライヤーが自社より優れているか――を怠った企業は、やがて苦境に追い込まれる。
   ソニーのデジタル音楽プレーヤーは、本当に、ソニー配信の音楽を聴けるだけで良いのか? ハイエンドのVAIOの生産は、本当に、低価格で台湾のODMに委託できないのか?」と言っている。
   既にiPodに世界制覇された今では前者は消えてしまい、後者は既にソニーの台湾業者等へのアウトソーシングは進んでいる。
   
   タプスコットとウィリアムズが「ウイキノミクス」で、閉鎖的で階層構造で価値を創造する一体型の多国籍企業は過去の遺物と言っているが、前世紀の製造業の成功体験を後生大事にして、過去のシガラミに呪縛されていればされているほど時代に取り残される。
   ソニーの改革は、ワンテンポもツーテンポも遅いのである。

   ところで最後の「IT化」だが、これが現状ならソニーのIT認識が如何に時代錯誤かと言うことなので、コメントも無意味であろう。
   同じような感じを、中鉢社長が立花隆氏との対談で、出井氏が導入したEVA経営を非難していた時も感じたのだが、やり方が悪かったり自分の理解不足を棚に上げて良く言うなあと思う。
   ここでは、オーバースペックでWiiにコテンパンのPS3へのコメントに止めたい。

   ウイキノミクスの時代の今日では、顧客を筆頭に総てのステイクホールダーを巻き込んだグローバルベースでのマスコラボレーションが進行している。
   事典のウイキペディアやリナックスが典型的だが、世界の企業は、このインターネットを使ったオープンソースのマスコラボレーションを活用して大変な成果を上げている。
   立花氏が言っているのだが、東大生産技術研究所に、このPS3の活用方法の開発を依頼すると素晴らしいアイデアが生まれる筈と助言している。

   私は、それよりも、ソニーがPS3の秘密技術情報を開示して、総てのユーザーを糾合して、如何にこの途方もない能力を持ったPS3を活用出来るかを世に問うことだと思っている。
   喉から手が出るほど技術情報の欲しいマイクロソフトが喜ぶかも知れないが、しかし、そのマイクロソフトの優秀な社員を含めて腕に自信のある世界中のITエンジニアが覆面でPS3の更なる開発に馳せ参じる筈である。
   ソニーのエンジニアではタカが知れている。世界の俊英を開発チームに巻き込むのである。そこまで世界の製造業は進んできているのだ。

   もう一度言うが、ソニーの技術力はソニーの社内だけでは処理出来ないほど進み過ぎており、ソニーのエンジニアや経営者だけでは対処できないほどのエネルギーを持っているのである。
   爆発させるためには、ウイキノミクス時代のグローバルベースのIT技術とエネルギーをフル活用する以外に道はない。
   これが、ソニーのIT戦略である。
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秀山祭九月大歌舞伎・・・團十郎と左團次の「身替座禅」

2007年09月17日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   京の郊外に住む大名・山蔭右京(團十郎)に、野上の宿で深く契った遊女の花子が上洛したので是非に逢いたいと手紙を寄越した。
   花子のもとに一刻も早く行きたいが、恐妻の玉の井(左團次)に、夢見が悪いので持仏堂に籠もって座禅をすると騙して許しを得て、身替りに家来の太郎冠者(染五郎)に座禅を任せて、いそいそと花子の宿に向かう。
   見舞いに来た玉の井に、身替りの座禅を見破られ、代わりに、玉の井が座禅衾をすっぽり被って待っている。夜更けに、花子としっぽり楽しんできた右京がしどけない格好で帰って来て、身替座禅が太郎冠者であると思って、花子との楽しかった一日のあることないこと仕方話で狂態を演じて語る。衾を取ると、堪りかねた玉の井の鬼のような形相。右京はビックリして逃げ回る。
  
   狂言の大曲「花子」を、歌舞伎舞踊化したこの「身替座禅」だが、明治43年に市村座で初演されたと言うから、とにかく、現代的で愉快な舞台で楽しませてくれる。
   この同じ「身替座禅」を、昨年6月にこの歌舞伎座で、菊五郎と仁左衛門と翫雀の、決定版とも言うべき素晴らしく楽しい舞台を観ているので、興味深さも尚更である。
   
   とにかく、右京は、花子に逢いたい一心で、口から出任せ、最初は、夢見が悪いので仏詣をしたいと切り出すが、恐妻で嫉妬深い奥方が許す筈がなく、侍女たちの取成しで、自邸内の持仏堂に籠もることになるが、夫思いの玉の井がほって置かず見舞いに来るので、結局ばれてしまう。
   他愛無い話であるが、嘘を上手く繕いながら下手に出て拝み倒す團十郎右京に、立役の如何にも厳つい左團次の玉の井が、声音も変えずに、右京の申し出をポンポン拒絶する、その対照的な駆け引きの妙が面白い。

   左團次の女形は初めてなので、全く、意表をつかれた感じだが、本人自身も、立ち居振る舞いは多少意識しているようだが、芸を演じていて女性を演じていると言う気持ちは希薄なようである。
   登場しただけで観客は笑い出す。メーキャップを、無理に強調してブスにすることもなかろう。
   
  インターネットを見ていると、歌舞伎などの「作品研究」ページに、「もう一つの身替座禅」と言う面白い記事が載っていた。
  実は、右京は、後水尾天皇で、玉の井は、家康の孫娘和子だと言う。
  所謂公武合体で、和子は江戸幕府の御目付役と言うわけだから、好きものの右京が恐妻家であるのは当然であり、頭が上がらないのも分かる。
  「正直に、花子に逢いたいと言えば、一夜ぐらい許してやったものを、騙されたと思うと身が燃えるように腹が立つ」と怒るのだが、そんなことを言って許しを請えないのが男と言うかオスの性である。
   まして天皇と后では、格段の相違で、右京は糸が切れた凧だが、玉の井は禁断の園の住人で夫を一途に思い続ける健気な妻、その差のアイロニーが面白いが、能狂言を底にした松羽目ものだから、品格を保たなければならない。
   
   團十郎の右京だが、本人自身、地で楽しみながら演じているような雰囲気で、今月はこの演目だけの舞台だが、実に上手い。
   菊五郎の時も感服したが、逢いたい一心で身も心もそぞろに花子の宿に向かう出、至福(?)の一夜をすごした花子の小袖を引っ掛けて乱れ髪のほろ酔い機嫌でこれ以上に幸せはないと言った風情でふらふら夜道を帰ってくる花道での入り、一流の役者にしか演じられない芸で楽しませてくれる。
   長唄と常磐津の掛け合いと軽快な笛太鼓や三味線の楽に合わせて、團十郎が、花子との逢瀬を仕方話で語って行くこの舞踊がまた秀逸である。

   ところで、太郎冠者だが、初代吉右衛門が初演時に演じた役とかで、曾孫の染五郎が演じている。非常にオーソドックスで灰汁のない若々しい演技が清々しくて良い。
   
   
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神保町歩きの楽しみ

2007年09月16日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   神保町の古書店を歩くのが私の一つの楽しみだが、ここで買う経済学や経営学の新刊本が結構多い。
   新刊本の情報は、日経や経済誌の広告や書評、日経ーダイヤモンド、アマゾン、旭屋などの書店からのインターネット情報など色々な所から得ているが、直接書店で気に入って買う本もかなり多い。
   ところが、書店でも三省堂や丸善などと言った大書店よりも、神保町の古書店で、見つけて買うことの方が多いのである。

   神保町で買うのは、勿論、古本ではなくて新本、所謂、新古書で、これが3~4割引きで売っているのだから安いのだが、利用価値の高いのは、安い本を買う為と言うよりは、良質な専門書の新刊には神保町で出会える確率が高いからである。
   大手町の丸善などと言った本格的なビジネス街の書店では、問題はないのだが、それ以外のところの大書店では、いくら経済や経営の専門コーナーに出かけて行っても、大衆向けするベストセラーの品揃えとディスプレーは派手だがマトモな本の扱い方が実に杜撰なのである。
   月に一度くらい、日経ビジネスの「本」のセクションに、「ベストセラー・総合」のページが載る。東京と大阪の大書店のベストセラーが列挙されていて、赤字で、経済・ビジネス関連書が示されている。
   これらの書籍の大半は、所謂ベストセラーだが大衆向けのする本で、経済学や経営学の勉強になる様な本は少なく、専門書と言うほどのこともないので、面白ければ別だが、私には殆ど興味がない。

   普通の大書店でも、大体このようなベストセラーの大衆迎合形の経済・ビジネス本が幅を利かせ過ぎていて、専門書や多少高度な本は奥に追いやられているだけならまだ救われるが、大体売れないのか欠本の補充がおろそかなので探している本が殆どない場合が多い。
   尤も、神保町の古書店に行けば出版されて時間が経った専門書がある保証はないが、
   古書店で有り難いのは、売れる本だとかベストセラーだとか区別せずに、いくら専門的で難しい新刊本でも、一緒くたに書棚に並べられているのである。それに、品数が限られているので、造作なく見つかる。

   今は少なくなってしまったが、経済や経営学の本を専門に扱っている古書店が何軒かあって、新しい本が出ると無造作に並べられる。
   新刊の専門書で、日経の広告に掲載されるような売れ筋の本を期待して古書店に行くのではなく、これは三省堂などですぐに手に入れる。
   そうではなく、むしろ神保町では、書評や広告など出ないような、或いは、殆ど目に付かないような可なり良質な専門書に、偶然に出合う確率が高く、これを期待して楽しみながら神保町を歩くことが多いのである。
   経済や経営だけではなく、多くの分野の本でこんな本が売れるのかと思うような本で、一般書店で見つけにくい高度な専門書類が神保町には沢山並んでいるのである。

   何れにしろ、このような本は、殆ど一度限りしか書店に出ないので、気に入ったらその場で買うことで、次の機会にと思っていると、必ず消えてしまっている。
   特に目的がなく神保町を歩くので、良い本が探せなくても気にはならないが、買えなかった本は、後で後悔するので買ってしまうのだが、これが災いして読まない本を沢山買い込んでしまう弊害もある。
   趣味と言うか、一種の病気だから仕方がないとは思っている。
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テロ回避はアメリカのパレスチナ政策変更がキイ

2007年09月15日 | 政治・経済・社会
   現在、国際テロ関連組織は中近東にほぼ集中しているが、アル・カイダ関連以外のハマス、イスラム聖戦、ヒズボラなどは、イスラエルの脅威にはなっても、アメリカさえも標的にしていない。
   アルカイダは、世界規模でのイスラムの復興を実施に移し、またカリフの地位を復活させたいと言う願望を抱いているようだが、ビン・ラディンが、幼少の頃から最も心を痛めていたのは、パレスチナ人が被っている不幸な境涯と不公正な扱いで、その張本人であるイスラエルをバックアップするアメリカの不公正で、犯罪的で、暴政的な政策を許せないと言う思いが反米の強力な動機である。
   このことは、オサマ・ビン・ラディン自身が、CNNのP・アネットにも語っており、
   エコノミストのM・ローデンベックも「パレスチナ人が被っている不公正に対する報復と言う考え方こそ、ビン・ラディンの演説で最も力を込めて繰り返されるテーマである。」と述べており、
   9.11調査員会も「ビン・ラディンその他のアル・カイダの最重要メンバーは、イスラエルのパレスチナ人に対するひどい行状と米国のイスラエル支援が動機となって行動した。」と総括している。

   このように、アメリカのイスラエル外交の見直しを説くのは、「イスラエル・ロビーとアメリカの外交」の著者ミアシャイマー教授とウォルト教授である。
   米国がテロの問題を抱えている理由の可なりの部分は、長らくイスラエルを支援してきたからで、これが中近東での反米感情を煽り米国不人気の原因なのだが、この偏った米国の一方的な政策がどれほど高くついたのか、アメリカ人は殆ど知らない。
   これらの政策が、アル・カイダを勢いづかせただけではなく、アル・カイダの隊員確保を容易にし、アラブ・イスラム地域全体に反米主義を広めるのに寄与していると言う。

   パレスチナ問題以上に、アラブ人が広く強烈に米国に怒りを感じる問題は他にない。
   歴史解釈で、何時もは対立するアラブ世俗派とイスラム至上主義者が一致を見るのはパレスチナ問題だけで、自由と人権を擁護する救世主だと豪語する米国の公式見解と現実の政策との余りのもかけ離れた巨大な溝について、アラブ全員が共通の受け止め方をしてからである。
   アラブ・イスラムの人々は、四六時中爆撃を受けて生活苦に泣くパレスチナ人の被害と苦境を心底から悲しんでおり、アラブの親米政権でさえも、自分たちと米国との結びつきについて国民に不満を巻き起こすような政策を止めて欲しいと必死に願っていると言う。

   両教授は、イスラエルの建国について、
   「ユダヤ人がアラブに乱暴な策を取らずに、既にアラブ人が住んでいた所にヨーロッパから来て、自分たち独自の国を創ることなど、そもそも出来る事ではない。ヨーロッパ人が、原住民に重大な犯罪を働くことなしに米国とカナダを創ることが出来なかったのと同じである。
   シオニストがパレスチナで、この地域の住民に犯罪を働かずにイスラエルを建国することは実質的に不可能であった。
   彼らがユダヤ人たちの不法侵入に憤り、抵抗するのは火を見るより明らかでであった。」とまで言うのである。

   最近では、「アルジャジーラ」などのメディアが、毎日のように、イスラエルが占領地区で支配下のパレスチナ人を虐待している沢山の証拠を白日の下に曝し続けている。
   もし米国が人道的理由だけを基準にしてどちらかを選ぶとするなら、イスラエル側ではなくパレスチナ側を援助すべきであり、そうでなければ、米国の基本的価値観と衝突する。
   なんと言っても、イスラエルは裕福で、中東で最強の軍隊を保有している。
   しかし、ブッシュは、強くて恵まれたイスラエルしか助けない。

   アメリカ人は、イスラエルは弱く、広大なゴリアテのよう強い敵・アラブ・イスラム世界に囲まれた孤立無援の国であると教えられ続けているが、事実は全く逆である。
   イスラエルは、中東最強の軍事大国であり、イスラエルの通常戦力は周辺諸国より格段に優れていて、それに、ずっと以前から中東地域で核兵器を保有する唯一の国なのである。どんなアラブの国もイスラエルに武力攻撃など不可能であり、もとよりアメリカの援助など必要がない。
   イランの核保有が取りざたされているが、たとえイランが核を保有しても、数百発の核弾頭を保有するイスラエルを攻撃すれば、瞬時に国が消滅してしまう。

   両教授は、アメリカのイスラエルに対する常軌を逸した異常な軍事等の支援・援助を即刻止めるように提言しており、イスラエルが、パレスチナ人に対する不公正で非人道的、抑圧的かつ暴力的な圧制を改めれば、世界のテロ行為の相当部分は消滅すると考えている。
   現在のイラクでのアメリカのオーバー・プレゼンスが問題だが、しかし、オサマ・ビン・ラディンの大義名分の相当部分が消滅する。

   テロ対策特別措置法に拘って安倍総理が辞めるが、もう一度原点に戻って、アメリカのイスラエル外交を含めた中東政策を考えてみれば、日本外交の選択すべき道ははっきり見えてくる。
   世界の平和のために、アメリカが自ら務め様としているグローバル警察としての役割が適切なのかどうか、そして、アラブ・イスラム世界にとってイラクやアフガニスタンのようにアメリカのオーバー・プレゼンスが必要なのかどうか、はっきり先が見えてきている。

   何十年も昔になるが、サウジアラビアのリアドで、合弁会社のパレスチナ人のカイード総務部長に、故郷は何処かと聞いて、不用意に「占領地区?」と相槌を打ったら、彼は激昂して私を椅子に釘付けして何時間も抗議を止めなかった。
   彼は、給料の中から、アラファットにせっせとパレスチナ税を納めていたが、あのパレスチナ人の怒りは、私たち日本人の想像を絶するものであることを、十分に認識すべきだと思っている。
   
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創造性を生むのは「経験×意欲」・・・茂木健一郎氏

2007年09月14日 | イノベーションと経営
   創造性は、脳の記憶のシステムの働きの一部分であって、その組み合わせが多ければ多いほど創造性は豊かに育まれる。
   したがって、経験と知識の蓄積が必要で、その為には長生きすることが大切であり、創造性は若者の特権だと言うのは正しくない。ダーウインもカントもパスツールも偉大な仕事を成し遂げたのは年を取ってからである。
   エコシステムにおいても、サステイナビリティが重要であり、アジアの熱帯雨林は歴史が長いので、動植物の多様性が一番豊かである。

   イノベーションを生むためには、豊かな創造性を育むことだと言って、脳科学者の茂木健一郎氏が、イノベーション・ジャパン2007の基調講演「脳と人間」で、こんな話をした。東京国際フォーラムB7会場は超満員の盛況であった。
   ノーベル賞学者湯川秀樹博士は、幼少の頃から論語などの素読を行うなど若い時から大変な教養人であったが、この知識の豊かさがノーベル賞の発見を生んだのであって、その逆、ノーベル賞を貰ったから教養人になったのでは絶対ない、と強調し、脳に記憶された経験と知識の豊かさが如何に大切か、そして、その記憶の豊かな組み合わせの多様性が創造性を生むのだと言うのである。

   イノベーションへの発想は、異なったものの結びつきによる組み合わせから生まれるので、サステイナビリティ・持続可能性がキイワードである。そして、この複雑怪奇な社会を理解しようとする好奇心をもつことが大切である。
   ケンブリッジのトリニティ・カレッジで勉強したが、ここは変人の集まりで変人でなければ生きて行けず、この変人達が30人以上のノーベル賞学者を輩出してきた。新しい価値あるものを創造する為には、多くの変人を組み合わせることが出来る社会システムが必須だと言うのである。
   個人の経験知識の豊かさのみならず、異質な芸術や学問、あるいは多岐多様な異文化の遭遇が多様性を育み、創造性を爆発させる。
   これは、フランツ・ヨハンソンの「メディチ・インパクト」の異文化の交差点理論と同じ考え方であるが、異質を総て同質化しようとする日本の教育とは程遠いのが面白い。

   ところで、年寄の経験・知識に価値があるのだと言っても元気がない。
   これは、知識が邪魔をするのであって、先入観や固定観念を排除しなければならない。
   創造性を生むのは、経験×意欲の函数で、経験を豊かにするのみならず、高い意欲・高いビジョンを保ち続けることが大切である。
   会社経営の成功は、トップの意欲・ビジョンが、織田信長のように青天井であること(ただし現実的である必要がある)が大切だが、
   今の日本に必要なのも、技術が十二分にあるのだから、このオプティミズムであり、高い意欲とビジョンを持ってワクワクするような気持ちを醸成しない限りイノベーションなど生まれないと言うのである。

   ところで、茂木氏の面白い指摘は、日本の目指すべきイノベーションである。
   トヨタの生産方式と日本のコンビニのきめ細かいサービスとは、同根の日本人のDNAである。
   創造性は、一人の偉大な天才だけが生み出すのではなく、トヨタのカイゼンのように、多くの人々の知恵と経験の蓄積、創造性の大衆化と民主化が大切で、この日本の特質を普遍化してイノベーションを追求して世界に輸出しよう。
   あのiPodさえも、個人の天才性を重視するアメリカながら、real distortion manのスティーブ・ジョブスが生んだのではなく、多くの社員の民主的な知識・経験・改善などがあったればこその筈であると言うのである。

   そうすると、出る釘を叩き、同質化してスペアパーツばかりばかり造り続ける日本の教育もそれなりに価値があるのであろうかと思いたくなるが、
   何れにしろ、創造性を育むためには、多様性が必須であるので、異質な多くの組み合わせを生む学問や芸術、そして文化文明が遭遇する交差点を、自分の中にも、社会の中にも出来るだけ多く豊かに作り出すことが大切なのであろう。

   茂木先生の話では、日本の少子高齢化社会の高齢化の部分も捨てたものではないと言うことになる。
   時代がどんどん前に進んでいるのだから、退場した年寄がでしゃばってしゃしゃり出ることはないと思うが、考え方によっては、この豊かな経験と知識をフル活用して日本を活性化するのも有効かも知れない。
   老人が生甲斐を感じて社会貢献によって元気になれば、医療費の軽減にもなり、それに、智恵と経験による社会インフラへのイノベーションが進めば一石二鳥である。
   
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