歌舞伎と来れば、仇討ち・お家騒動・心中などといった「前近代的」なものが結構多いのだが、この歌舞伎も、典型的なお家騒動と仇討を判で押したような芝居である。
それに、こんな場合には、盗賊・侠客・悪家老などと言った決して表通りを大手を振って歩けないような人物が、必ず主役として登場して、悪の限りを尽くして、善人を痛めつければ痛みつけるほど、お客が喜んでやんやの喝さいをして感激するのだから、全く常識の世界ではない。
シェイクスピア戯曲と比べれば興味深いのだが、ハムレットの復讐劇以外には、この類の主題はあまりないように思うし、ギリシャ悲劇の殺伐とした殺戮は別として、欧米文化には、リンチ的なテーマは多少あっても、この歌舞伎のような世界は、日本独特の芝居の美意識なのかも知れない。
心中物は、近松門左衛門が得意とした上方歌舞伎(もとは浄瑠璃であろうか)だが、西洋演劇にも造詣が深かった近松は、心中事件が発生すると、事件記者よろしく現場に急行して取材して、早速、舞台にかけたと言うことのようだが、仇討も、事件が起こると戯作者の恰好の題材となり、この歌舞伎も、江戸時代に大坂の天下茶屋で実際に起こった敵討の事件を題材にした仇討狂言の傑作だと言う。
ところが、シェイクスピアの場合には、実際の歴史物は別として、イギリスから一歩も外に出たことがないのに、種本を駆使して、ギリシャやイタリアなど、あることないこと異国の話を、想像豊かに書き上げたのと比べると、その違いが面白い。
筋書きは、歌舞伎美人を要約すると、次の通り。
大名浮田家の忠臣早瀬玄蕃頭(段四郎)は、お家横領を企む家老岡船岸之頭や東間三郎右衛門(幸四郎)の計略を察知し岸之頭を切腹に追い込むが、東間に闇討ちされて、重宝の色紙まで奪われる。玄蕃頭の子、伊織(梅玉)と源次郎(錦之助)の兄弟は、父の敵討のため東間を追って大坂の四天王寺へやってくる。供をしてきた家来の安達元右衛門(幸四郎)が東間の策略によって酒を強いられて禁酒の誓いを破り、泥酔して暴れ回ったので、伊織は元右衛門を勘当し、元右衛門の弟弥助(彌十郎)も兄弟の縁を切る。流浪の末、東寺近くの貸座敷で暮らすようになった伊織兄弟と弥助。そこへ東間方に寝返った元右衛門が偽の按摩に化けてやって来て、伊織の妻である染の井(魁春)が色紙を買い戻すために身を売った金を奪い、弥助も殺害。さらには伊織の足を切りつけて逃げ去る。その後、伊織兄弟は福島天神の森で貧窮の日々を過ごす。源次郎が留守のところへ元右衛門と東間が現われ、伊織をなぶり殺す。さらには、源次郎も襲われて川に投げ込まれるが、人形屋幸右衛門(吉右衛門)に助けられ、その助力で東間一味の所在がわかり、源次郎は元右衛門と東間を討ち果たし、見事本懐を遂げる。
今回は、悪党ながら愛橋のある安達元右衛門と、悪の首領である東間三郎右衛門の悪の二役を、松本幸四郎が初役で勤めるのだが、この二役を一人の俳優が演じるのは天保年間以来だと言うことで注目を浴びている。
歌舞伎美人は、”魅力的な悪”の二役と言うほどだから、この芝居は、どこまでも、江戸歌舞伎の定石と言うか、仇討・お家騒動・盗賊・侠客・悪家老礼賛の世界である。
特に安達元右衛門は、四世大谷友右衛門が工夫を凝らし、以後、多くの名優が演じ、練り上げられた役どころだと言うことで、結果的には、芽出度し芽出度しの仇討狂言だが、主題は、名物役者が、悪を如何に演じ切るかになってしまっていると言うことらしい。
あの一寸出で、本来どうでも良いような忠臣蔵の5段目の斧定九郎を、中村仲蔵が、白塗り顔、五分月代のヘアスタイル、黒羽二重の単衣に朱鞘の大小を差し、腕をまくって尻からげの浪人姿にアレンジして大好評を博したのと同じで、役者が役作りを工夫して磨き上げれば、どんな端役でも、素晴らしい名舞台になると言う典型的なケースであろうか。
今回の舞台は、何と言っても、幸四郎の魅力全開で、悪の重臣東間は、幸四郎の十八番とする役柄であるから、その素晴らしさは申すまでもない。
しかし、注目に値するのは、悪党ながら成り上がりの悪党で、悪に徹しきれない半ば素人の、どこか底の抜けたずっこけた愛嬌のある元右衛門が抜群に良い。
私は、幸四郎の舞台で一般的に当たり役だとされている重厚かつ豪快、威厳と貫録のある時代物よりも、筆屋幸兵衛や惣五郎と言った世話物なり人情物の舞台の方が好きで、このあたりの本領発揮が、シェイクスピア戯曲やミュージカルの舞台で生きている所以ではないかと思っている。
それは、ともかく、仇討旅の供をして来た筈の元右衛門が、必死になって禁酒を守ろうとするのだが、酒を強いられて泥酔するまでの芸の確かさ。
落ちぶれて按摩に入ったのが、元主人のあばら家で、同居する中間の弟の弥助に施しを受けて去ったのは良いが、金があるのを知って居直り強盗に変身して屋根裏から潜り込み、弥助を殺して金を奪い、帰り合わせた伊織の足を切りつけて花道を逃げ去るまでのズッコケた悪党ぶりが実に良く出来ていて、楽しませてくれる。
このあたりが、先人の積み上げた芸の結晶なのであろうが、この芸は、思想や哲学など全く抜きの芸の器用さながら、緻密な計算なくしては、タダのドタバタに終わるところを、緩急自在に演じ分けて魅せる芝居で、実に上手い。
これを受けて立つ実直で全く忠僕に徹して真面目に務める彌十郎の弥助も得難い存在である。
それに、こんな場合には、盗賊・侠客・悪家老などと言った決して表通りを大手を振って歩けないような人物が、必ず主役として登場して、悪の限りを尽くして、善人を痛めつければ痛みつけるほど、お客が喜んでやんやの喝さいをして感激するのだから、全く常識の世界ではない。
シェイクスピア戯曲と比べれば興味深いのだが、ハムレットの復讐劇以外には、この類の主題はあまりないように思うし、ギリシャ悲劇の殺伐とした殺戮は別として、欧米文化には、リンチ的なテーマは多少あっても、この歌舞伎のような世界は、日本独特の芝居の美意識なのかも知れない。
心中物は、近松門左衛門が得意とした上方歌舞伎(もとは浄瑠璃であろうか)だが、西洋演劇にも造詣が深かった近松は、心中事件が発生すると、事件記者よろしく現場に急行して取材して、早速、舞台にかけたと言うことのようだが、仇討も、事件が起こると戯作者の恰好の題材となり、この歌舞伎も、江戸時代に大坂の天下茶屋で実際に起こった敵討の事件を題材にした仇討狂言の傑作だと言う。
ところが、シェイクスピアの場合には、実際の歴史物は別として、イギリスから一歩も外に出たことがないのに、種本を駆使して、ギリシャやイタリアなど、あることないこと異国の話を、想像豊かに書き上げたのと比べると、その違いが面白い。
筋書きは、歌舞伎美人を要約すると、次の通り。
大名浮田家の忠臣早瀬玄蕃頭(段四郎)は、お家横領を企む家老岡船岸之頭や東間三郎右衛門(幸四郎)の計略を察知し岸之頭を切腹に追い込むが、東間に闇討ちされて、重宝の色紙まで奪われる。玄蕃頭の子、伊織(梅玉)と源次郎(錦之助)の兄弟は、父の敵討のため東間を追って大坂の四天王寺へやってくる。供をしてきた家来の安達元右衛門(幸四郎)が東間の策略によって酒を強いられて禁酒の誓いを破り、泥酔して暴れ回ったので、伊織は元右衛門を勘当し、元右衛門の弟弥助(彌十郎)も兄弟の縁を切る。流浪の末、東寺近くの貸座敷で暮らすようになった伊織兄弟と弥助。そこへ東間方に寝返った元右衛門が偽の按摩に化けてやって来て、伊織の妻である染の井(魁春)が色紙を買い戻すために身を売った金を奪い、弥助も殺害。さらには伊織の足を切りつけて逃げ去る。その後、伊織兄弟は福島天神の森で貧窮の日々を過ごす。源次郎が留守のところへ元右衛門と東間が現われ、伊織をなぶり殺す。さらには、源次郎も襲われて川に投げ込まれるが、人形屋幸右衛門(吉右衛門)に助けられ、その助力で東間一味の所在がわかり、源次郎は元右衛門と東間を討ち果たし、見事本懐を遂げる。
今回は、悪党ながら愛橋のある安達元右衛門と、悪の首領である東間三郎右衛門の悪の二役を、松本幸四郎が初役で勤めるのだが、この二役を一人の俳優が演じるのは天保年間以来だと言うことで注目を浴びている。
歌舞伎美人は、”魅力的な悪”の二役と言うほどだから、この芝居は、どこまでも、江戸歌舞伎の定石と言うか、仇討・お家騒動・盗賊・侠客・悪家老礼賛の世界である。
特に安達元右衛門は、四世大谷友右衛門が工夫を凝らし、以後、多くの名優が演じ、練り上げられた役どころだと言うことで、結果的には、芽出度し芽出度しの仇討狂言だが、主題は、名物役者が、悪を如何に演じ切るかになってしまっていると言うことらしい。
あの一寸出で、本来どうでも良いような忠臣蔵の5段目の斧定九郎を、中村仲蔵が、白塗り顔、五分月代のヘアスタイル、黒羽二重の単衣に朱鞘の大小を差し、腕をまくって尻からげの浪人姿にアレンジして大好評を博したのと同じで、役者が役作りを工夫して磨き上げれば、どんな端役でも、素晴らしい名舞台になると言う典型的なケースであろうか。
今回の舞台は、何と言っても、幸四郎の魅力全開で、悪の重臣東間は、幸四郎の十八番とする役柄であるから、その素晴らしさは申すまでもない。
しかし、注目に値するのは、悪党ながら成り上がりの悪党で、悪に徹しきれない半ば素人の、どこか底の抜けたずっこけた愛嬌のある元右衛門が抜群に良い。
私は、幸四郎の舞台で一般的に当たり役だとされている重厚かつ豪快、威厳と貫録のある時代物よりも、筆屋幸兵衛や惣五郎と言った世話物なり人情物の舞台の方が好きで、このあたりの本領発揮が、シェイクスピア戯曲やミュージカルの舞台で生きている所以ではないかと思っている。
それは、ともかく、仇討旅の供をして来た筈の元右衛門が、必死になって禁酒を守ろうとするのだが、酒を強いられて泥酔するまでの芸の確かさ。
落ちぶれて按摩に入ったのが、元主人のあばら家で、同居する中間の弟の弥助に施しを受けて去ったのは良いが、金があるのを知って居直り強盗に変身して屋根裏から潜り込み、弥助を殺して金を奪い、帰り合わせた伊織の足を切りつけて花道を逃げ去るまでのズッコケた悪党ぶりが実に良く出来ていて、楽しませてくれる。
このあたりが、先人の積み上げた芸の結晶なのであろうが、この芸は、思想や哲学など全く抜きの芸の器用さながら、緻密な計算なくしては、タダのドタバタに終わるところを、緩急自在に演じ分けて魅せる芝居で、実に上手い。
これを受けて立つ実直で全く忠僕に徹して真面目に務める彌十郎の弥助も得難い存在である。