熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

野口悠紀雄著「世界史を創ったビジネスモデル 」(3)

2019年06月29日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   G20サミットで、米中トップ会談の結果が注目されたが、交渉再開と言うことで、どうにか当座を凌いだ。
   しかし、米中の貿易は不均衡だとしても、元々は、トランプが押した横車が発端で、タダでさえ自由貿易には問題のある両国の貿易に更に波紋を投げかけて、世界中に経済危機を煽ってしまった。

   さて、著者は、トランプの経済政策をどう考えているのか。
   ”トランプ大統領は、自由な貿易を否定し、伝統的な製造業をアメリカに復活させることによって、失業した労働者に職を与えようとしている。そして、移民や外国人労働者に対して非寛容な政策を取ろうとしている。こうした政策が失敗することは、火を見るより明らかだ。このような政策がアメリカを強くすることなど決してない。それは、確実にアメリカの産業力を弱めるだろう。”と言う。
   ”建国以来のアメリカは、古代ローマの再建を目指し、そのビジネスモデルを意識的に模倣し、その理念は、異質性の尊重と寛容だった。トランプ大統領の政策は、控えめにいっても時代錯誤の復古主義で、国のビジネスモデルの基本からみても明らかに誤りだ。”と切って捨てている。

   IBMがサービス業に転換し、アップルが水平分業でファブレスを実現し、グーグルがインターネット時代のビジネスモデルを構築した後の世界において、モノを作ることに固守するのは無意味である。と言うことで、
   自動車産業はまだしも、鉄鋼業など旧来の重工業を復興させようと、輸入関税を増税して貿易障壁を高くしても、無駄だと言う指摘で、既に時代遅れとなってゾンビ化してしまった産業の生き残り保護は、経済構造の近代化の邪魔となって、アメリカの経済力や国際競争力を削ぐ以外の何物でもないと言うことであろう。

   トランプ大統領の票田と化したラストベルト(Rust Belt)、すなわち、五大湖東南岸から大西洋沿岸、そして、ペンシルバニアにかけてのかっての重工業や製造業の中心であった東部海岸工業地帯が錆地帯となって、アメリカ製造業凋落の象徴的な様相を呈して久しいのだが、最近では、液体水素燃料電池の開発、ナノテクノロジー、バイオテクノロジー、情報技術および認識技術などの産業を育成するなど、脱工業化に必死なようだが、これを見ても、経済社会の起死回生のためには、産業構造の高度化近代化以外に、アメリカの生きる道はないと言っても過言ではなかろう。
   
   赤い地域がラストベルト(Rust Belt)、ウイキペデイアから借用

   以前に、オバマ大統領が、スティーブ・ジョブズに、「iPhoneの生産は、何故、アメリカに戻らないのか?」と聞いたときに、「アメリカに戻ることはない」と答えたと言うのだが、これは、アップルがファブレスで、一切、自社で生産せず中国など国外に外注しているので当然で、トランプ大統領も、アメリカの製造業の実情が分かっていないような発言が多いのである。

   尤も、これは一般論で、AIやIOT、ビッグデータが産業界に猛威を振るい始めて、ロボットや機械、インターネットなどが、プロ集団はじめ多くの労働者を駆逐し始めてくると、一気に、事情が変わってくる。
   ロボットやAIなどの先端技術が、まず、単純労働から駆逐し始めてくると、新興国や途上国の単純労働が消滅し、労賃などの安いメリットが縮小してくるので、多少、本国回帰の現象も出てくるとする指摘もある。
   しかし、ロボットや機械やインターネットなどに代替可能な労働は、自動運転がドライバーを必要としなくなるように、いずれにしろ、排除されて行くので、トランプ大統領が意図するような労働者の雇用増は、AIやIOTに駆逐されないような労働者の能力のアップや産業の高度化近代化を目指して経済政策を打たない限り実現は不可能であろうと思われる。

   要するに、トランプ大統領の貿易政策は、自由貿易を排除する時代錯誤の保護主義への回帰であるのみならず、当座凌ぎにしかすぎず、アメリカの産業構造をさらに悪化させるだけで、何の益もない。まして、貿易赤字を目の敵にして、貿易収支の均衡のみを目的にして、相手を罵倒して貿易交渉を行うなど、Gゼロ時代とは言っても、覇権(?)国家のやる所業ではないと言うことであろう。
   まして、破竹の勢いの上り龍の巨大な中国、そして、必死になって大唐帝国の再興を目指す中国を、窮鼠猫を食む状態に追い込めば、キャッチアップを促進するだけであって、アメリカの凋落を早めるだけであろう。

   ところで、日米安保に触れて、「アメリカは日本の防衛義務はあるが、日本はアメリカを防衛する義務はない、不公平だ」と言っていることについてだが、これも、公平とはどう言うことか、全く分かっていない議論である。
   アメリカが、これまで、世界の警察として、公共財としての世界の安全と秩序を維持してきたが、このことが、どれほど、アメリカの国益を守ってきたかを、理解してないとしか言いようがない。
   損得を天秤にかけてビジネスをやってきた大統領の悲しさ、

   野口教授の説いていたローマ帝国の偉大なアウグストゥス帝のような、高潔な哲人リーダーが、今こそ、求められているということであろう。
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野口悠紀雄著「世界史を創ったビジネスモデル 」(2)

2019年06月28日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この本の後半は、大航海時代の開幕から始まっている。
   この新大陸発見等大偉業を始動したのは、ヨーロッパの辺境ポルトガルで、私は、2度リスボンを訪れて、この首都のベレン港へ行った時には、世界遺産でポルトガルの至宝とも言うべきジェロニモス修道院やベレンの塔ではなくて、エンリケ航海王子の発見のモニュメントと、その下に広がっている到達年度を大書した世界地図を見て感動した。
   この小さな港から、バスコ・ダ・ガマをはじめ偉大な航海士たちが、明日も知れずに雄飛して行った故地なのである。
   

   ポルトガルの躍進には、イスラム商人に独占されていた香辛料を東洋から運ぶルートには、インドに至る航路が必ず存在すると言うエンリケ航海王子の固い信念にドライブされた賜であって、海洋帝国を建設して、東方貿易を独占したが、残念と言うべきか、思いあがったポルトガルは、西回りでインドに到達できるとしたコロンブスの提案を拒否し、ポルトガル人であるマゼランの提案も拒否して、スペインに後れを取ってしまった。
   世界を二分したトリデシリャス条約で、ブラジルとアフリカとアジアの小拠点を得たものの、新世界の中南米は、すべてスペインの領有するところとなった。

   衰退していたイタリアでは、十字軍をうまく活用して海洋国家として躍進したベネツィアを筆頭にして繁栄がもたらされて、この時蓄積された富がルネサンスを生み出し、ヨーロッパを中世から脱却させ、「海洋にこそ発展の源泉がある」と言う考えが、ポルトガルやイングランドに引き継がれ、全世界に対するヨーロッパの優位を齎したと言う。

   興味深いのは、海洋の支配権をめぐって2つの対立する思想があって、「閉鎖海洋論」と「自由海洋論」で、海洋にも陸と同じような領有があると言うのが前者で、それを否定するのが後者だ。とする論である。
   トリデシリャス条約で安閑としていたポルトガルとスペインは、「閉鎖海洋論」で、イングランドは、「自由海洋論」であった。
   スペインが、新大陸の貿易を独占して、他国に、アメリカの港での交易を認めなかったので、自由海洋論のイギリスは、これを不当として、ホーキンスやドレイクは、海賊行為を働くなどして挑戦した。
   いわば、大英帝国は、「海賊ビジネスモデル」で企業家精神を発揮して、国の基礎を築き上げたと言うことである。
   大英帝国が、19世紀に世界最大の海洋国家になったのは、この「自由な海洋国家」と言うビジネスモデルが功を奏したためだと言うのである。

   著者は、イギリスの繁栄は、分業と交換こそが海洋国家の基礎であったとして、リカードの「比較交換費の理論」の作用を説いて、自由貿易のなせる業だと強調している。

   著者の一貫した繁栄への見解は、海洋国家であることの重要性と、自由貿易志向の自由な国であることである。
   日本がダメなのは、鎖国をするなど開かれた自由な国ではなかったし、また、外に開かれた部分が国内中枢と結びつかず、「あぶれ者」で切り捨てられることで、イギリスは海洋国であったが、日本は島国であった。と言うこと。
   外資と移民を拒否してきたと言うのだが、確かに、ドラッカーが最晩年に、日本はグローバリゼーションに一番遠い国だと言ったのを覚えている。

   著者は、後半、ウエスタンユニオン、AT&T、IBMなどの命運をかけたビジネスモデルの大転換を論じた後で、スティーブ・ジョブズのアップルや彗星のごとく台頭してきた米国のテレビメーカーのビジオのファブレスのビジネスモデルについて論じている。
   興味深いのは、時代の潮流に呼応してソフト志向やファブレスに大きくビジネスモデルを転換した米国企業と違って、日本の大メーカーが、既にコモディティになり下がってしまった製品や新興国との競争に晒されているような製品の事業拡大に汲々として、いまだに、依然として旧来の製造業から脱皮できない現実を見ると、ドラッカーの指摘が良く分かる。
   すべからく、成功するか失敗するかは、ビジネスモデルの問題だと言うことであろうか。
   
   野口悠紀雄教授は、工学と経済学のダブルメージャーのπ型の学者で、エール大のPh.Dで海外や役所での経験もあり、
   極めてバックグラウンドの豊かなマルチタレントの経済学者で、経営学の造詣も深く、教えられることが多い。
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国立能楽堂・・・観世銕之丞の「船弁慶」

2019年06月26日 | 能・狂言
   高校生などの団体鑑賞のための「能楽鑑賞教室」の能「船弁慶」だったが、この日だけは、銕之丞師がシテを舞うので、是非鑑賞したくて出かけた。
   それに、子方ではなく、義経を、ご子息の観世淳夫師が舞うと言う。
   チケットの一般販売の時期には、殆どソールドアウトで、やっと、どうにか取得したので、思うような席ではなかったが、素晴らしい舞台で満足している。

   この平家物語からの「船弁慶」をうまく脚色しと言うか、殆ど同じテーマを扱って物語性を増幅した浄瑠璃の「義経千本桜」の二段目の「伏見稲荷の段」と「渡海屋・大物浦の段」を、文楽や歌舞伎で鑑賞することの方がおおいので、この方の印象が強い。
   エッセンスは、静御前との別れと、海上での知盛との遭遇である。

   尤も、「義経記」では、静御前は、この大物浦では別れずに船旅にも同行しており、こののち吉野山で義経一行と別れることになっており、能の前場の悲痛な別れはない。  
   義経記では、義経一行が船に乗って瀬戸内海を西へ下った時には、大勢の兵士や女たちを沢山引き連れて向かったのだが、途中で暴風雨に見舞われて大被害を受けて、漂着した大物浦で頼朝方の軍勢と合戦になって、どうにか生き延びたのだが、小部隊となって、女性は静だけ供を許して吉野へ落ち延びて行った。と言うことになっているのである。

   さて、この能「船弁慶」のシーンの平家物語の描写だが、殆ど末尾の「判官都落」の段に、京都から九州へ下向の途中太田太郎頼元の抵抗を蹴散らして、切った首を、 
   「戦神にまつり、「門出よし」と悦んで、大物の浦より下りけるが、折節西のかぜはげしきふき、住吉の浦にうちあげられて、吉野のおくにぞこもりける。」と語られているだけである。
   義経記の方が影響したのかも知れないが、大物の浦を出帆して嵐に襲われたと言うこの故事が能の舞台になったのは、その後の、
   「吉野法師に攻められて、奈良へおつ。奈良法師に攻められて、また、都へ帰り入り、北国にかかって、終に奥へと下られける。」と言う語りから、吉野や安宅を舞台とした名曲が生まれていることを思うと、インスピレーションの凄さと言うか妙と言うか、不思議でも何でもない。

   蛇足ながら、平家物語のこの段の後半に、「たちまちに、西の風ふきけることも、平家の怨霊のゆへとぞおぼえける。」とあるので、知盛の幽霊が登場してもおかしくないのである。
   それに、都を出て西方に向かった義経一行は、500騎の手勢で、流されて住吉に捨て置かれて泣き叫ぶ女房たち十余人と言うから、大物の浦を出た時の義経一行は、能や浄瑠璃のように少人数ではなかったと言うことである。
   この時には、院も頼朝の恐ろしさを知らず、頼朝の軍勢が、義経討伐に都へ攻め込んできて都を荒らされたら大変なので、当分、義経を九州へ退避させておこうと言う程度であったから、大仰な逃避行だったのであろう。

   しかし、この能で興味深いと感じたのは、弁慶が静御前に義経と別れて京都に帰れと伝言した時に、弁慶の差し金であろうから直接義経に真意を聞くと言って突っぱねて義経の前に出て、義経から同じ帰京を言い渡されて弁慶に謝ると言う非常に些細な実に人間臭いシーンをこの厳粛な能に描いていることである。

   私など、平家物語を読んでいて、「腰越」の方が、遥かに面白いと思うのだが、幽霊が出ないので、これは、曲にはならない。
   今なら、義経が逗留していた腰越の満福寺から、海岸沿いに歩けば、頼朝の館まで、1時間くらいで行けると思うのだが、当時は、新田義貞が、稲村ケ崎で苦しんだように、簡単にアクセス出来なかったのであろう。

   能「船弁慶」は、前場は、義経と静御前との悲しい別れ、後場は、海上で嵐に遭遇して平知盛の霊が現れて義経主従に襲い掛かるドラマチックなシーン。
   シテが、前場は静御前、後場は知盛の霊と全く性格の違った役どころで。静かで優雅な舞と豪壮な舞との舞台展開の楽しさを、二重に味わえて興味深い。
   また、漁師役の狂言方アイが、「アシライ間(アイ)」と言うようだが、後場で、ワキの弁慶と始終会話するなど、演技者とし重要な役柄を演じている。

   この能は、ストーリーが単純明快で、詞章も舞いも分かり易く、上演回数も多いので、大分楽しめるようになってきた。
   シテ 観世銕之丞、ツレ/源義経 観世淳夫、ワキ/武蔵坊弁慶 森常好、アイ/船頭 善竹大二郎、

   ところで、観世清和宗家が、演能中、見所で居眠りをしても結構だと言っていたが、私も時々気持ちが良くなって居眠りして隣の客につつかれることがあるのだが、観客に老人が多い所為もあって、かなり多くの人が下を向いていて、最初から最後まで舞台を見ずに、終わったところで手を叩いている人がいる。
   前列に居並ぶ高校生たちは、若さの所為であろう、熱心に観ている。
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野口悠紀雄著「世界史を創ったビジネスモデル 」

2019年06月25日 | 政治・経済・社会
   先に、ギボンの「ローマ帝国衰亡史」について、どうして、偉大なローマ帝国が崩壊したのかについて書いた。
   野口悠紀雄は、「世界を作ったビジネスモデル」の中で、ローマ帝国のビジネスモデルに紙面の過半を費やして論じており、この問題に触れていて、ギボンに反して、「蛮族の侵入ではなく、ビジネスモデルの破綻で崩壊」したのだと説いている。

   尤も、蛮族の侵入がローマ帝国の崩壊に果たした役割については認めており、民族大移動の影響を受けて、諸民族が結託してローマに対抗して、ローマ軍が大敗した378年のアドリアノーブルの戦いが、ローマ帝国没落の始まりであり、これが、ローマ社会の精神的な在り方に重要な影響を与えたと述べている。

   しかし、やはり、経済学者であるからと言うだけではなかろうが、偉大な皇帝として人気の高いディオクレエィアヌスが取った価格統制令などの極端な政治経済社会統制が、ローマ崩壊の引き金となり、衰微の責任は、その体制にあったと論じている。
   ディオクレエィアヌスは、経済活動への国家介入を行い、全般的な計画経済を導入したのである。
   市場経済は、人々の創意を刺激して交易を促進して、経済を活性化させるのだが、統制経済では、人々は抑圧され、取引は闇市場に潜り、経済は活力を失う。これが、現実化して、政治経済社会を大混乱に陥れて、帝国の生産は一気に下降し、政府はますます暴力と強制に頼らざるをえなかなったのである。
   市場経済が崩壊の危機に瀕すると、自給自足が中心の物々交換となり交易の利益が消滅する一方、社会が混乱に陥ると、防衛費負担が一気に増大して、重税を惹起する。
   したがって、ローマ帝国崩壊の原因は、蛮族の侵入と言う外的な要因よりも、帝国のメカニズムそのものにあった。つまり、ローマは内部から崩壊したのだ。と言うのである。
   
   大分前に読んだので殆ど記憶はないが、アセモグルたちが「国家は何故衰亡するのか」の中で、「古代ローマは存在した全ての期間を通じて国外からの軍事的脅威に晒されていたが、その脅威に負けたのは、『国内の経済的停滞』を経験した後のことだった」と述べており、「敗北は、ローマ衰退の兆候であって原因ではない」と言う。

   著者は、古代ローマの成功したビジネスモデルは、アウグストゥスが基本路線を敷いた分権化と市場メカニズムにあったとして、このローマの歴史に学べずに、これを圧殺して、徹底的な国家統制経済を取ったソ連が崩壊するのは必定だと言うのである。

   従って、安倍政権の経済政策に苦言を呈するのは当然で、官民対話と称して、春闘に介入して、民間企業の賃金を引き上げようとしており、政府の統制を是認する考えが高まってきているのは、危険だ。「これが、ディオクレティアヌス=スターリン型の施策だから」と言う理由での反対論は殆ど見られない。」と嘆くのである。

   さて、私の考えだが、何故、ローマ帝国は崩壊したのか、
   先に書いたギボンの次の指摘、 
   ”ローマ帝国衰退は、繁栄が衰亡の原理を動かし始めたためで、衰微の要因が征服の拡大とともにその数を増し、時間や事件によって、支柱が取り除かれるや、自らの重みに耐えきれず倒壊したことによる。”
   これだと思っている。
   蛮族の脅威も、国家統制経済による経済システムの破綻も、その一つの要因であろうが、その他の多くの衰微への要因が重なって、成功で巨大化したローマ帝国を支えていたエコシステムが、制度疲労を起こして、徐々に、大帝国を崩壊へと追い詰めていった。のだと思っている。
   成功体験を積み重ねて驀進を続けて、Japan as No.1として世界経済の頂点を眼前にしながら、時の激流に翻弄されて、脆くも崩れ去った日本経済と同じである。
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エドワード・ギボン (著)中倉 玄喜 (訳) 「ローマ帝国衰亡史 上下 <普及版>」

2019年06月24日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ギボンの「ローマ帝国衰亡史」を読もうと思ったのだが、とても、中野好夫の全訳を読む気力もないので、簡略本の中倉玄喜訳の「ローマ帝国衰亡史」を読んでみた。
   ギボンの原文を要所要所で翻訳して、その空隙を中倉が解説で繋いでいると言う感じで、まずまず、ギボンが何を描こうとしていたか、雰囲気は分かろうと言うことであろうか。
   良書の飛ばし読みと言うことだが、速読法をマスターせずに読書を趣味にして突き進んできた読書家の、一つの読書法、良いとは思えないが、仕方がない。
   
   ローマ帝国の起源は、紀元前8世紀中頃にテヴェレ川のほとりに形成された都市国家ローマだが、伝統と訓練のたまものである軍隊によって守られて、豊かな国土と開けた社会を有した広大な帝国を誇ったのは、紀元前一世紀から、
   ローマ帝国の盤石の基礎を築いたのは、初代皇帝アウグストゥス、
   そのアウグストゥスの基本政策を踏襲してローマ帝国が頂点に達したのは、西暦二世紀にかけての五賢帝の時代で、トラヤヌス帝の時代には、最大の領土を築き上げた。

   ギボンが強調するのは、この帝威を支えていたのは兵制と軍事力、
   正義がローマ側にある限り征伐にはなんら躊躇しないことを周辺の国々に宣言して憚らなかった、常に臨戦態勢を取りつつ平和を維持していたローマ軍の武威であり、
   ラテン語の軍隊が訓練を意味する単語に由来することから、正に、普段の軍事訓練こそ、ローマ軍紀の鑑であり要諦であったと言うのである。

   「ローマ帝国衰亡史」は、The History of the Decline and Fall of the Roman Empire、ローマ帝国の衰退と崩壊の歴史である。
   何が原因で、ローマ帝国が衰退し崩壊したのか、この点を意識して読んだが、ギボンは、特に指摘はしていなかったと言う。

   エポックメーキングな大変革は、コンスタンティヌス1世が、330年にコンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)を建設して、皇帝府の所在地を東方に移し、その後、テオドシウス1世が、392年にキリスト教を国教とし、395年に、テオドシウス1世の2人の息子による帝国の分担統治が始まって、ローマ帝国が、実質的に、東方正帝と西方正帝夫々が支配する東ローマ帝国と西ローマ帝国に分かれたことであろう。

   尤も、ディオクレティアヌス帝以降、首都は、ローマから、ミラノへ、後にラヴェンナに移ってしまっており、西ローマ帝国は、ゲルマン人の侵入によって征服されて、476年に、ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによってロムルス・アウグストゥルスが追放されて、この時点で、西方正帝の廃位によって西ローマ帝国は消滅してしまったのである。

   ギボンは、ローマ帝国衰亡の因として、帝政府の遷都が挙げられているが、施政権が移ったと言うよりも、施政権が分割されたと言う方が正鵠を得ていると指摘している。
   脆弱な西ローマ帝国に対して、東の帝都は、蛮族の攻囲を跳ね除け、アシアの富を守り、そして和戦いずれの情勢下においても、地中海と黒海を結ぶ、その重要な海峡を押さえていたために、長い衰退の過程を経ながらも、15世紀半ばまで生き抜いたのである。
   興味深いのは、この東ローマ帝国は、ギリシャ人の国であって、トルコや元のユーゴスラビアあたりが文化の中心であったと言うことで、非常に面白い。

   一方、ローマの方は、かっての大都の残照は残っててはいたものの、奢侈三昧に明け暮れていた貴族や市民たちも、法外な贅沢の結果、困窮に見舞われると屈辱的な手段をいとわず、蛮族の助けを求め、
   ゴート族の長アラリックが、低姿勢で属州を傭兵隊長として手中に収めながら、帝国に深く侵入してきて、永遠のローマを包囲して虎視眈々と狙っていたのだが、ローマは、この蛮族王アラリックに屈服した。こともあろうに、このアラリックの圧力で、ホノリウス帝が排され、アッタルスが新帝に推挙され、自身は、西の帝国全軍の司令官におさまった。
   ところが、アッタルス帝が、アラリックの宿敵サールスをラヴェンナ宮に迎えたので、怒ったアラリックが、建国から11世紀と63年後、大帝国の永遠の都ローマを、略奪・狼藉の限りを尽くして破壊したと言う。
   フン族の征西が、東ゴート族に壊滅的な打撃を与え、ゲルマン民族社会に恐怖を与えたために、西ゴート族が、ローマに保護を求めて、ドナウ川を渡って、帝国領内に定住するようになったのが総ての始まりだったのである。

   さて、前述したローマ帝威を支えていたのは兵制と軍事力だが、
   法の発達や習俗の洗練にともない、この軍事優位性はしだいに薄らいで行き、コンスタンティヌス帝やその後継者らの優柔な時代になると、蛮族を徹底的に見下していて危険だと思っていなかったので、剽悍な蛮族傭兵に武器を持たせ、これに軍事教練を施すことによって、実に愚かと言うか、獅子身中の虫を育てて自滅の種を蒔いたと言うことである。

   ローマ帝国衰退は、繁栄が衰亡の原理を動かし始めたためで、衰微の要因が征服の拡大とともにその数を増し、時間や事件によって、支柱が取り除かれるや、自らの重みに耐えきれず倒壊したことによる。
   そもそも、自分の安全と国家の平和を思って、歴代の皇帝自身が、軍紀荒廃の主役となって、軍隊を敵に対してのみならず、自らに対してさえ恐るべき存在に仕立て上げたのであって、ローマ帝国維持の鑑であった鉄壁の軍政そのものの精神が緩み、最期には蛮族の大侵入によって、ローマ世界が圧倒されてしまった。と言うのである。
   しかし、よく考えてみれば、その蛮族であった筈のゲルマン、アングロサクソンが、今、一番ときめいていると言うのが、文化文明の変遷の妙、皮肉と言うのか、面白い。

   コンスタンティノポリスを首都としたローマ帝国は、395年-1453年、15世紀まで存続し、中世には、ビザンティン帝国と呼ばれていたのだが、最後には、オスマントルコのメフメト2世によって、征服されて、その栄光の幕が下りた。
   以前に、オスマン軍が、金角湾の北側の陸地に70隻の軍船を引き上げて金角湾に滑り落した「オスマン艦隊の山越え」の奇策作戦に成功して勝利したと言う歴史書を読んで感激したことがある。
   ギボンは、西ローマ帝国の崩壊をもって、この「ローマ帝国衰亡史」を終えるつもりでいたようだが、このコンスタンティノポリスの崩壊まで書いており、イスラム教やマホメットについて、かなり、好意的に書いているのに興味を感じた。

   私は、2回、コンスタンティノポリス、すなわち、今のイスタンブールを訪れているが、東西文化文明の十字路、非常に魅力的な旧都で、もう一度行ってみたいと思っている。
   建国直後に建設されたコンスタンティノープル総主教座であったキリスト教の大聖堂が、イスラム教の壮大なモスク「ハギア・ソフィア大聖堂」として改装されてイスタンブールの最高の文化遺産となっているが、壁面に現れたキリスト像を仰ぎ見ると、逆だが、あのコルドバのモスクを改装したキリスト教会のように、東西文化文明の鬩ぎあいと融合を感じて、感無量を覚える筈である。
   ヨーロッパ側のホテルの部屋から、月光に映えたボスポラス海峡越しに、アジア側のウスクダラの街の夜景を長い間夢想に耽りながら眺めていたのを思い出すのだが、とにかく、ヨーロッパとアジアの交差点、
   イスタンブールは、しみじみと、東西文化の交渉史を思いながら、歴史のロマンを味わうのには、最高の街なのである。
   
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六月大歌舞伎・・・「恋飛脚大和往来 封印切」ほか

2019年06月23日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今回は、仁左衛門と松嶋屋中心の上方歌舞伎の近松門左衛門の「恋飛脚大和往来 封印切」を観たくて、歌舞伎座に行った。

   主な配役は、次の通りで、こてこての大阪弁の封印切りである。
   亀屋忠兵衛 仁左衛門
   傾城梅川 孝太郎
   丹波屋八右衛門 愛之助
   井筒屋おえん 秀太郎

   10年ほど前に、これは、NHKの京都南座公演の放送だったが、忠兵衛を藤十郎、梅川を秀太郎、八右衛門を仁左衛門と言う関西歌舞伎の重鎮が勤めた「封印切り」を観たのだが、それ以来の感動的な舞台であった。
   同じ上方の「封印切り」でも、鴈治郎家の舞台と松嶋屋の舞台とでも、かなりの違いがあって興味深く、今回も、その差の面白さを楽しませて貰った。
   
   仁左衛門の忠兵衛の素晴らしさは、言うまでもないので蛇足は避けるが、今回、注目すべきは、愛之助の八右衛門である。
   チンピラヤクザの風体で登場した愛之助の八右衛門が、散々毒づいて忠兵衛を棚卸ししたので、おえんの秀太郎が怒ってゲジゲジとやじり倒す親子の気のあった掛合いなど出色の出来だが、何よりも面白いのは、忠兵衛の懐の金が公金であることを重々知りながら、どんどん、忠兵衛を煽りに煽って追い詰めて行き窮地に立たせて、直前で制止するも間に合わず、封印を切らせれしまう、このあたりの悪口雑言の微妙なニュアンスは、意地の悪い大坂男の大阪弁でないと表現し難いので、生粋の大阪人の愛之助は上手い。
   受け身の仁左衛門が顔を歪めながら苦渋に泣きつつ、男の面子と恥に耐えながら遂に切れて行く、この阿吽の呼吸の二人の至芸が、悲劇の深刻さを浮き彫りにして哀れである。

   秀太郎が自著「上方のをんな」の中で、
   上方の匂いのする役者が、上方の言葉で、上方風に演じる。義太夫は、上方言葉で物語が繰り広げられており、上方歌舞伎のニュアンスや風情に欠かせない上方の言葉は、やはり、関西で暮らして関西の文化に触れていないと身につかないものであり、それ程、義太夫狂言には、上方の言葉が大切である。と語っているのだが、近松門左衛門の世界こそ、当然であろう。

   吉右衛門の「梶原平三誉石切」も、正に、吉右衛門一座播磨屋の感動的な舞台。
   今回、歌六の青貝師六郎太夫の娘梢に、実子の米吉が登場して、素晴らしい親子共演を実現しており、前には雀右衛門が演じていたのだが、初々しい米吉の清楚な演技が出色。
   悪役の大庭三郎を又五郎、その弟の俣野五郎を子息の歌昇が演じていて、灰汁の強い演技が素晴らしく、歌六又五郎兄弟あっての吉右衛門歌舞伎の凄さを感じさせてくれる舞台である。

   「寿式三番叟」は、
    松本幸四郎 尾上松也 三番叟相勤め申し候 と銘打った舞台。
    翁に東蔵、千載に松江が登場するのだが、能の「翁」の舞台を踏襲している筈が、さにあらず、三番叟の派手な踊りを見せる舞台である。
   能「翁」のように、千載が面箱を持って登場して、翁の前に面箱を置くのだが、翁は、箱を横に除けて、直面で舞って退場して行く。箱は、後見が片付ける。
   冒頭の「とうとうたらり…」は、翁ではなく竹本が謡う。
   竹本に、囃子も、笛太鼓が複数になり三味線が加わるので、音曲が豊かに成り、正に、見せて魅せる舞台である。
   文楽の「寿式三番叟」を偶に見ることはあるが、何度も観ているのは能の「翁」。
   厳粛で厳かな「翁」と違って、能「安宅」と歌舞伎「勧進帳」以上の落差の激しさに、一寸、戸惑いながら観ていた。

   「女車引」は、「菅原伝授手習鑑」の「車引」の3人の登場人物の女房たちが踊る舞踊で、松王丸の妻千代を魁春、梅王丸の妻春を雀右衛門、桜丸の妻八重を児太郎。
   奇麗な舞台である。
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国立演芸場・・・一龍齋貞水の「鏡ヶ池操松影より江島屋怪談」ほか

2019年06月22日 | 落語・講談等演芸
   今日の「国立演芸場開場四十周年記念 第430回 国立名人会」公演は次の通り。
   私は、貞水の圓朝噺を聴きたくて出かけたのだが、ほかの落語なども名演で、楽しませてもらった。
落語「長命」      春風亭柏枝
講談「木津の勘助」  一龍斎貞友
曲独楽 三増紋之助
落語「ハワイの雪」 桂小南
― 仲入り―
講談 三遊亭圓朝原作「鏡ヶ池操松影より江島屋怪談」   一龍斎貞水
道具入り 制作協力:(株)影向舎

   「鏡ヶ池操松影より江島屋怪談」は、人間国宝・一龍斎貞水の前回の「累」と殆ど同じの道具入りの、立体怪談
   薄暗い舞台には、お化けの出そうな墓場の幽霊屋敷を模したようなセットが設営され、中央に置かれた講釈台に貞水が座っていて、講談のストーリー展開や情景に合わせて、照明が変化し効果音が加わって、オドロオドロシイ実際の現場を見ているような臨場感と怖さと感じさせる立体的な舞台芸術。
   語りながら百面相に変化する貞水の顔を、演台に仕掛けられた照明を微妙に変化させて、スポットライトを当てて色彩を変化させて下から煽るので、登場人物とダブらせながら凄みを演じる。
   影絵のように映った幽霊が、障子を破って突き抜ける演技も・・・

   「鏡ヶ池操松影」は、圓朝作の長編人情噺で、今回の噺は、
   江戸の呉服屋江島屋の番頭・金兵衛は旅先で大雪に見舞われ、老婆の住むあばら家に逗留する。夜中に寒さに耐えられなくなって目を覚ますと、老婆は着物を裂いて囲炉裏にくべながら、灰に「目」の字を書いて、箸で突いている。その理由を聞くと、娘の嫁入り衣装を江戸の江島屋で買ったのだが、馬に揺られながらの花嫁道中で、大雨に降られて、糊で貼りつけただけの粗悪品であったために、貼りつけたところがはがれて腰から下が切れ落ちて、笑い者となったので悲観した娘は利根川に入水して自殺する。その恨みを晴らすために、呪いをかけているのだと言う。江島屋に帰り着いた金兵衛は、まだ同じ悪事を重ねて悪どい仕事を重ねようとする主人に、粗悪品の詰まった倉庫に連れて行かれると、真っ暗な中から、幽霊が・・・老婆の呪い通りに、江島屋の店の者に災難が降りかかると言う話である。

   最晩年に、何回か聴かせてもらったしみじみと心に響く歌丸の圓朝噺とは、貞水の圓朝の怪談は、また、凄みと深さがにじみ出ていて、違った別な味と趣があって、面白い。

   もう一つの講談は、お馴染みの「木津の勘助」で、大阪弁丸出しで 一龍斎貞友が、豪快に演じて、私のような元関西人には、感極まるほど名調子の語り口で、堪らない魅力。
   浄瑠璃は、大阪弁が当然だが、元々、関西は上方、
   上方の芸能は、やはり、関西弁で語らないと、言葉の背後の微妙なニュアンスなども含めて上方の上方たる由縁の本当の面白さは、分からないと思っている。

    桂小南の「ハワイの雪」は、先に聴いた喬太郎の新作落語
   柔らかい語り口の喬太郎と違って、パンチの利いた小南の「ハワイの雪」は、大分雰囲気が違うのだが、古典落語ばかりをやっていて新作落語は、地震(自信)がないと、まくらに妙な地震を引っ掛けて語り始めた。
   幼馴染で子供心に将来を言い交した二人、ハワイにいるちえさんが上越の留吉に逢いたいと言う、腕相撲大会の賞金で得た二人分のハワイ行航空券を使って、留吉と孫娘はハワイに向かう。
   庭の車いすで憩う死期の迫ったちえさんに留吉が近づいて語りかける最期の会話で、感極まって相好を崩して、夢見るような恍惚境の表情になって静かに語り続ける小南、
   舞台の照明が消えて、小南だけに淡いスポットライトが当たり、ハワイには珍しい雪が舞い落ちてきて、約束した上越の雪かきを反芻しながら、ちえはしずかに天国へ逝く。
   上越の雪を一杯詰めてハワイへ持ち込んだが、消えていた
   また、歌舞伎の「じいさんばあさん」の舞台を思い出した。

   春風亭柏枝の落語「長命」は、絶世の美女で超魅力的な伊勢屋の娘に婿入りする男は、房事が重なって次から次へと亡くなると言う話で、「短命」とも言う。
   手と手が触れあって、そっと前を見る。……ふるいつきたくなるような、いい女だ。……短命だよと言う大家の言う意味が分からず、八五郎が、家に帰って邪険にする女房に茶碗にご飯をつがせて手が触れて顔を見て、「ああ、俺は長命だ」と言うオチ。   
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エドワード・ルース:米社会 偽りの能力主義

2019年06月20日 | 政治・経済・社会
   日経のFINANCIAL TIMES特約のコラムで、エドワード・ルースが、大学の入学について、米社会には「世襲・人種・貧富の差・・・根深い溝」が厳然と存在していて、能力主義が必ずしも有効に働いていないと、偽りの能力主義について書いている。
   冒頭、エール大のリベラル派のエイミー・チュアが、2人の娘に中国流のスパルタ教育を施したと回顧しながら、女性問題で最高裁判事の指名に苦慮していた保守派のブレット・カバノーを、WSJで強力にバックアップしてサポートし、娘がカバノーの書記官に採用された、このような見返りを期待した見え透いた行為には何ら違法性はないし、抜け目なく影響力ある人にすり寄るのは意外ではない。と説き始めている。

   米国の俳優ロイ・ロックリンとフェリシティ・ハフマン両氏が、我が子を一流大学に入学させるため、虚偽の内容を大学に郵送して、3月に起訴されたケースや、投資ファンドTPGのウィリアム・マグダラシャンが息子の入学に25万ドルを不正に使用したなど、米国の裏口入学について語っている。
   しかし、問題は、単純計算をしても、平均的米国人が一流大学に入学できる可能性は、恵まれた家庭に生まれない限りわずかしかない。アイビーリーグの学生数を見ても、所得が上位1%の富裕層の出身者の方が、下位60%の出身者よりも多い。と、能力主義のあるべき姿と正反対となっているのが今の実態だと言う。

   さらに、大学に入るために3つの障壁があると説く。
   第1は、「レガシー制度」、両親や祖父母を卒業生に持つ受験生を優遇する「世襲優先」。
   第2は、積極的差別是正措置、ハーバードなど、ヒスパニック系やアフリカ系米国人にはかなりの入学枠を割り当てているが、同じマイノリティに対して差があり、冷遇されているアジア系受験生から集団訴訟を受けている。
   第3は、膨大な富が持つ容赦ない力で、図書館や医学研究所に寄付する人が出てくれば、大学は万難を排してその子女を入学させる。トランプの娘婿ジャレット・クシュナーがハーバードの入学できたのは父が250万ドル寄付したからだと言う。

   欧米では、教育如何が、如何に、将来のキャリアに影響するか、長い欧米生活で十分に見聞きしているので、子供の学歴について、四苦八苦する米国人の親の気持ちは、良く分かる。
   トランプ大統領など箔付けにウォートンスクールに行ったと言っているが、アメリカでのアイビーリーグ、英国でのオックスフォードやケンブリッジなどの存在は言うまでもなく、貴族制度がなくなったフランスなど、ポリテクやENAの出身者などは、その代替だと聞いたことがあるが、日本以上の学歴社会である。

   大分以前に、東大の入学性の親は、大企業の部長以上の家庭が多いと聞いたことがあるが、大学受験と言うのは、家族の総合力の競争だと言うことは周知の事実である。
   ところが、半世紀前、私が学生の頃は、同志社の構内には、学生の自家用車で犇めいているが、京大の構内には、ぼろ自転車ばかりだと新聞に載ったことがる。
   私の同級生を見る限りにおいても、恵まれた家庭の子女もいたが、相当数は、貧しい家庭の出であって、毎日の生活に苦慮していたのを覚えている。

   私学は知らないが、あの当時は、4当5落と言う時代で、入学試験の結果が総てであって、情実が入り込む余地など全くなくて、能力主義であった。
   経済的に無理だったので、頭から東京は諦めて、京都を目指したのだが、残念ながら一敗地に塗れ、独習で受験勉強をして翌年大学に入学して宇治分校での生活が始まった。

   大学院も、会社から海外留学を命令されて、何も分からぬままに、自分で調べて大学院を選んで受験し、全くの幸運と言うべきであろう、アイビーリーグ最古のユニバーシティであるペンシルバニア大学の、最古のビジネススクールであるウォートンスクールに入学してMBAを取得した。
   これも、全く縁故もなければ、何の伝手もなく、私の場合は、通常のルールに乗って高等教育を受けて来た。
   神武景気以前で、貧しい幼少年時代を送ってきた私など、海外に出かけるなど夢の夢であった筈だが、何故か、フィラデルフィアの大学を出て、ロンドン・パリを股にかけ・・・世界を駆け回ってきた。

   普通に考えれば、学歴とすれば、恵まれているのであろうが、特に、そう思ったこともないし、そのような経験をした思いもない。
   ただ、欧米での仕事の上で、ウォートンスクールのMBAが、万能のパスポートとなったことで、学歴の威力を感じたことはある。

   大学教育での最大の収穫は、京都でもフィラデルフィアでもそうだが、最高峰の学問や芸術など人類の最高の英知に触れて強く触発されてきたことで、この口絵写真の米国最高の偉人フランクリンの銅像は、母校ペンシルバニア大学の創立者の像で、私の散歩道で見上げ続けていたので、実に懐かしい。
   長い人生を通じて、真善美を追求すべく、美しいものを追い求めながら、一所懸命に生きてきた幸せは、何物にも代えがたいと思っている。
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わが庭・・・コンカドール咲く

2019年06月19日 | わが庭の歳時記
   やっと、ユリが咲き始めた。
   黄色いカサブランカのコンカドールで、庭に植えっぱなしなのだが、何株か、花木の間に植えてあって、すっくと長い茎をのばして咲いてくれる。
   何種類かのカサブランカを植えたのだが、このコンカドールだけが、残っていて元気である。
   名前は分からないが、ほかにもユリが咲き始めて、蕾をつけたユリがスタンドバイしている。
   
   
   
   

   アジサイも、今最盛期である。
   普通の定番のアジサイを避けて、少し変わったアジサイをと思って植えているのだが、まだ、小さな株なので、もう少し待たねばならない。
   来年には、垣根越しに、アジサイの花が並ぶと思っている。
   
   

   ビョウヤナギの黄色い花が散って、奇麗な実を結んだ。
   陽の光を浴びて輝くと、奇麗である。
   
   
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ウォルター アイザックソン 著「レオナルド・ダ・ヴィンチ 下」(3)

2019年06月18日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   レオナルドの最高傑作は、「モナ・リザ」。
   この作品は、絹商人フランチェスコ・デル・ジョコンダから、24歳の妻リザの肖像画を頼まれて描いた。
   芸術のパトロンとして絶大な権力を誇っていたイザベラ・デステの度重なる肖像画依頼にもガンとして撥ねつけていたレオナルドが、何故、有名な貴族あるいはその愛人でもない、一介の絹商人に過ぎないジョコンダの依頼を受けて、「モナ・リザ」を描く気になったのか。
   自分が描きたかったからで、無名に近い存在であったから、有名なパトロンにおもねる心配もなく、思い通りに描くことが許されるし、何よりも重要だったことは、リザは美しくて魅力的で、人を惹きつける微笑の持ち主であったからだと言う。

   この絵は、単なる絹商人の妻の肖像画ではなければ、勿論、注文主に応えるための絵でもなく、自らのため、永遠に残すための普遍的作品として描いたのであって、対価を受け取ってもおらず、フランチェスコに納めることもしなかった。
   着手してから16年後の亡くなるまで、フィレンツェ、ミラノ、ローマ、そしてフランスへと、ずっと持ち歩いて、死の間際まで、完璧を期して油絵の具の薄い層を重ねながら修正を続け、人間と自然に対する深い理解を反映させていた。
   新しい洞察、新しい理解、新しいひらめきを得る度に、ポプラ画版の上に柔らかな筆を重ねながら、レオナルドが人生の旅路を重ねて深みを増して行くとともに、「モナ・リザ」も深みを増していった。と言うのである。

   私は、1973年晩秋に、初めてルーブルを訪れて、この「モナ・リザ」を観て、その後、ヨーロッパで生活していたので、5回以上は観ているのだが、レオナルドが、最期まで持ち歩いて筆を加えていたと言うのは驚異であった。
   この絵を観れば、モナリザの顔の表情ばかり観ていたのだが、自然観察を徹底的にし続けたレオナルドにとっては、背景の自然風景は、非常に大切で、アイザックソンは、この風景が、体に流れ込み永遠を象徴しているのだと言う。
   風景が、リザの体に流れ込むようなイメージは、レオナルドが好んだ地球と言う大宇宙と人間と言う小宇宙のアナロジーの究極の表現で、風景は、生きて呼吸をし、脈を打つ地球の体を表している。川はその血管であり、道は腱、岩は骨で、地球は、単なるリザの背景ではなく、リザの体に流れ込み、その一部となっていると言うのである。

   そう言われれば、岩窟の聖母を筆頭ににして、レオナルドの絵画の多くには、地球の大自然をイメージした峻厳で神聖を帯びたような風景が描かれていて、人物像と一体となっている。

   この「モナ・リザ」だが、今では、ルーブルの至宝として観光客の注目の的だが、100年ほど前に、イタリア人であるレオナルドの作品はイタリアの美術館に収蔵されるべきだと信じていたイタリア人愛国者ペルージャに盗まれて、フィレンツェのウフィツィ美術館館長に『モナ・リザ』を売却しようとして発覚して逮捕されたと言う話が残っており、この経緯を描いた本を読んだが面白かった。また、この「モナ・リザ」は、何度も物を投げつけられたり被害にあっていると言う。
   「日曜はダメよ」のメリナ・メルクーリ大臣が、大英博物館のパルテノン神殿のフリーズ彫刻エルギン・マーブルをギリシャに返せと噛みついた話とよく似たており、ペルージャは、イタリヤでは英雄扱いだったと言うから面白い。
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梅の木にスズメバチの巣を発見

2019年06月17日 | わが庭の歳時記
   梅酒と梅ジュースを作ろうと、梅の木になっている梅の実を取っていた。
   ふと、梅の木の奥の枝に、淡い褐色の小さな袋のようなものがあるのに気付いた。
   下側に、小さな穴が二つ空いていて、何かの昆虫の巣ではないかと思ったのだが、最悪を考えてスズメバチの巣だろうと思った。
   叩き落としてしまえば簡単に済むと思ったのだが、一寸、インターネットを叩くと、スズメバチのところに、
   ”女王蜂が最初に作る巣には、働き蜂が誕生して大きく成長した巣には見られない特徴が見られることがしばしばある。例えばコガタスズメバチの初期巣はトックリを逆さにぶら下げたような形をしており、口の部分が出入り口になっていたり、・・・”
   まさにこれで、やはりスズメバチの巣だったのである。
   本当にスズメバチの巣なのか、庭の椅子を持ってきて伸びあがって、ベニカの殺虫剤を噴霧してみたら、大きな蜂が一匹飛び出してきた。

   早速、鎌倉市に電話すると、環境保全課のSさんが対応してくれて、業者に依頼するので、混んでいるかも知れないので、どうなるか、何時になるか分からない。業者に頼むと、5400円かかりますよ。と言う
   巣の中がどうなっているのか、叩き落して蜂が飛び出してきたらどうするのか、その後は・・・等と考えていると、選択の余地なし。お願いしますと返事した。
   とにかく、子供の頃、宝塚の田舎で過ごした時に、勉強もせずに野山を飛び回っていて、結構、蜂に刺されて痛い思いをした。
   小学生の孫息子と幼稚園の孫娘にけがをさせたくない。

   
   遅い午後、業者の係員から、電話が掛かってきた。
   近くに来ているので、直ぐ行けるがどうするかと聞いたので、自分でも叩き落せると思うが、危険なので、来て欲しいと言った。
   また、私が行くと費用が掛かりますよと言ったので、分かっていますと答えた。
   確かに、大掛かりなスズメバチの巣の駆除でも、私のような徳利程度の小型でも同じ5400円なので、とやかく言う人がいるのかも知れないが、プロの仕事と言うのは、そのようなものなのである。

   駆除作業員が来て、殺虫剤を噴霧すると、暫くして、先に見た大きな蜂が飛び出してきた。
   特別な駆除殺虫剤なのであろう、勢いよく飛び出てきた蜂が地面に転がり落ちて来たので、作業員は激しく殺虫剤を噴霧するも、庭を飛び回るので、おっかけながら噴霧を続けていると、草陰で動かなくなった。
   まだ、女王蜂一匹だけの巣であったようで、後からは、一緒にいるはずの働き蜂が出てこず、作業員は、巣を叩き落して処分した。

   簡単に、スズメバチの巣の駆除は、終わったのだが、一昨日と今日、この梅の木の梅を取るために、枝を引っ張ったり、叩き落したり、枝を切ったりしており、この巣の直ぐ側の枝にも近づいて作業していた。
   ほんの1メートル以内にも近づいた筈なのだが、まさか、そんなところに蜂の巣があるなどと考えていなかったので、無防備であった。
   被害がなかったのは幸い、ホッとしている。

   しかし不思議なのは、こんな細い梅の木の枝に、大きくなればバレーボールより大きくなる筈の巣を作ってどうするのかと言うことである。
   一昨年、留守がちの近所の家の2階の庇に、大きなスズメバチの巣が出来て駆除したのを覚えているからである。
   

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エドワード・ギボン:古代ローマの富豪の公共建造物

2019年06月15日 | 政治・経済・社会
   野口悠紀雄の本を読んでいて、カエサルと角栄とどこが違うかと問うて、同じ利益誘導政治でも違うのだ言う。
   ローマの実力者は、単に私腹を肥やしただけではなく、巨額の私費を投じて公共工事を整備した。カエサルは、アッピア街道の修理を自費で行った。
   一方、角栄は、多くの公共工事を実施したが、勿論、自費ではなく公費であり、権力を掌握して私腹を肥やした。と言うのである。

   日本の場合でも、小規模だとしても、自費で公共工事を行ったケースはいくらでもあった。
   エドワード・ギボンが、「ローマ帝国衰亡史」で、諸皇帝が威信をかけて巨大な公共事業に邁進したが、高貴な事業を企てる気概とそのための財力とを共に有することを公言して憚らない臣下も、広くこれに倣ったと、当時、途方もない財力を持った元老院や民間人が、自費で、コロッセオなどの多くの公共工事を行ったと書いている。
  その篤志家の最たる例が、両アントニヌス皇帝時代のアテネ人ヘロデス・アティクスだと、多くのケースを紹介し、暗礁に乗り上げていたローマの水道工事もことなきを得たと言う。
   ローマや諸属州の富裕な元老院たちの間には、祖国や自らの時代を飾ることを栄誉、いや、殆ど義務とする考えが見られたのである。

   ヨーロッパ各地に残っているローマの水道の遺構を見たことがあるのだが、ビックリするほど堅固で美しくて、正に驚異であり、それに、競技場や神殿の跡などローマの遺跡にも畏敬の念を覚える。
   勿論、属州をくまなく結んだアッピア街道など「ローマの道」の凄さは、公共工事の筆頭で、軍事的目的が最たる要因だとしても、帝国の辺境までローマ文化文明の伝導路でもあった。
   能「安宅」ではないが、何本もない街道に、沢山の関所を作って、自由な通行を許さなかった日本と言う国は、元々、小さな国だったのである。
   
   現代では、公共工事は、需要拡大のためのケインズ経済的発想で議論されることが多いのだが、それは、邪道であって、公共施設がどうあるべきかと言う大前提の上に立った哲学なり思想があってのことであろう。
   この公共工事が、利益誘導型なり政治意図的な色彩を濃厚に帯び、同時に、談合などの格好の標的にされることを考えると、ローマ時代の方が、人間賢かったのであろうと思う。

   余計なお世話かも知れないが、散々経済成長で食いつぶして、アメリカのダムや橋など公共建造物の健全寿命は、とっくの昔に過ぎさっており、何時崩壊してもおかしくない状態になっているように思うのだが、メキシコとの壁を築く能天気ぶりが分からない。
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METライブビューイング・・・プーランク「カルメル会修道女の対話」

2019年06月14日 | クラシック音楽・オペラ
   「カルメル会修道女の対話 Dialogues des carmélites」は、フランス革命前後のコンピエーニュのカルメル会修道女の処刑を題材としたフランシス・プーランク作曲の全3幕のオペラ。
   1957年1月26日に、ミラノ・スカラ座での初演であるから、現代オペラで、特に美しいアリアや感動的な音楽があるわけではなく、フランスの劇を観ているような舞台である。

   フランス革命のパリで、ド・ラ・フォルス侯爵家の娘ブランシュは、神経質なために俗世間では生きてゆけず、コンピエーニュのカルメル会の修道院に入る。しかし、革命政府は、修道院の解散と建物の売却を命令し司祭も追放し、修道女たちは殉教を決意するが、怯えたブランシュは修道院から逃げ出す。潜伏しながら信仰を守っていた修道女たちは捕らえられて死刑の宣告を受け、ひとりひとり断頭台の露と消えて行く。修道女たちの処刑を聞いて、その刑場へ、俗世間で下女として働いていたブランシュが現れて処刑の列に加わり消えて行く。
   次の写真が、処刑前の修道女たちの姿で、修道女たちは、「サルヴェ・レジーナ」を歌いながら処刑台へ向かい、一人ずつギロチンにかけられるのだが、兵たちの隊列の間を縫って舞台中央の奥へ消えて行くと、ギロチンの落ちる無気味なサウンドが響く。
   

   さて、私が、今回、楽しみにしていたのは、フィンランドの至宝ディーヴァ・カリタ・マッティラである。
   ロンドンのロイヤル・オペラで、20代の初々しいモーツアルトの「魔笛」のパミーナやワーグナー「ローエングリン」のエルザなどを観て非常に印象に残っており、2008年夏にニューヨークに行ったときに、プッチーニの「マノン・レスコー」のタイトル・ロールを聴いて圧倒されてしまった。
   長い間前のMETの総支配人であったジョセフ・ヴォルピーが、「史上最強のオペラ」の中で、最も魅惑的な舞台人間だったソプラノ歌手が二人居るのだがと言って、テラサ・ストラタスと、マッティラの名前をあげている。
   決して美人ではなくて大柄で損をしているが、演技力は抜群で、モーツアルトも歌いプッチーニも、そして、ワーグナーも歌え、これほど天性のオペラ歌手としての素質を備えた歌手は稀有だと思っており、今回の舞台では、クロワシー夫人/修道院長を演じており、死期の迫った老女を鬼気迫る圧倒的な演技で観客を釘付けにして、カーテンコールでは、主役ブランシュ・ド・ラ・フォルスのイザベル・レナードを圧倒するほど熱狂的な拍手喝采を受けていた。
   ついでながら、 ヴォルピーは、「サロメ」での全裸スタイルの一こまでのマッティラを語っている。リハーサル途中でのニューヨークタイムズ・カメラマンのワン・ショットに逆上したが、TVでは、かたいフィンランドの家族を押し切って、無修正で放映させたと言う。のである。
   サロメは、ロイヤルオペラで何回か観ているが、ギネス・ジョーンズは肉襦袢だったが、マリヤ・ユーイングのサロメは全裸でびっくりしたのを覚えている。

   今回の指揮者は、新MET音楽監督のヤニック・ネゼ=セガン。
   今秋、私が留学時代2年間メンバーチケットを持って通っていたフィラデルフィア管弦楽団と来日する。

   演出は、ジョン・デクスター。
   舞台の中央に太い真っ白な十字を染め抜いて、必要に応じて上部から柱や壁など室内装飾のセットを上下して舞台展開を図っていて、シンプルながら、非常に美しい。

   ブランシュ・ド・ラ・フォルスのイザベル・レナードは、素晴らしく上手い美人のメゾソプラノ。
   同窓で親友だと言う修道女コンスタンスのエリン・モーリーとの息の合った舞台が好感度抜群である。
   リドワーヌ夫人/新修道院長のエイドリアン・ピエチョンカ、マリー修道女長のカレン・カーギルなど魅力的な女性陣が舞台を圧倒。
   
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ウォルター アイザックソン 著「レオナルド・ダ・ヴィンチ 下」(2)

2019年06月13日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ダ・ヴィンチと「ミケランジェロとの対決」と言う章で、シノーリア宮殿の大会議室に、壮大な戦争画を描くことになって、レオナルド(51歳)の「アンギアーリの戦い」とミケランジェロ(28歳)の「カッシーナの戦い」が、広間を隔てて発注されて、世紀の二大巨匠の大対決が実現することになった。と言う一大イヴェントを詳細に語っていて興味深い。
   実際には、未完に終わって、レオナルドの壁画の中心部分を写したルーベンスの凄い迫力の模写が残っており、これは、三人の騎士が敵軍の将校の軍記を奪おうとする壮絶残忍な人馬入り乱れての激戦シーンで、ミケランジェロも弟子のダ・サンガッロの模写が残っているが、これは、裸の男たちの群像である。
   
   レオナルドは、このミケランジェロの「カッシーナの戦い」の水浴びをする裸の男たちの絵を見て、裸体群をクルミの大袋と非難している。解剖学を徹底的に勉強したレオナルドにとっては、人の裸体を優雅さのかけらもない材木のように描いていると見えたのも当然かもしれない。
   ミケランジェロは、筋骨たくましい男性の裸体ばかり描く傾向があって、システナ礼拝堂の天井画にも、画面の隅を支える者としての「イニューディ」と呼ばれる20人の筋肉質の男性裸体像が並べられている。
   これとは対照的に、レオナルドは、自らの画材の「幅広さ」と万能性を誇りにしてきた。彼の芸術の素晴らしさは、その想像力と独創性にあり、それは、多様性と空想に支えられていた。
   レオナルドの絵画に、豊かな物語があるのは、その所為だったのであろう。

   レオナルドは、馬にも怒りの感情を表すと、凄い形相の馬の顔の描写や、馬の動きを表現したデッサンや戦士の激情した顔の表情などの下書きを残していて、ルーベンスの模写が良く分かって面白い。

   著者は、「絵画が得意なレオナルド、彫刻が得意なミケランジェロ」と書いている。
   ミケランジェロは、その絵画は、彫刻的であって、ハッキリした線を使って物の形を捉えることは長けているが、レオナルドのように、スフマート、陰影、光の反射、やわらかさ、色彩遠近法と言った細かな表現技術は持ち合わせていなかったのである。
   本人も、絵筆よりのみの方が好きだといっており、システナ礼拝堂の天井画に着手した時にも、私は場違いだ、私は画家ではないと言っているので、絵画について、レオナルドと比較すること自体が無理なのであろう。
   確かに、両者の絵画の比較については、ミケランジェロのウフィツィ美術館の「聖家族」やシステナ礼拝堂の天井画などを見れば、著者の指摘は分からない訳ではないが、逆に、ミケランジェロが、レオナルドの思想を、絵画を通じて完全に否定したと言う評もある。
   ミケランジェロが、レオナルドを完全に軽蔑していた。と言うのが面白い。 
   いずれにしろ、ミケランジェロの絵画も、結構、物語と豊かさがあって、何回か足を運んで実物を観ており、感激して鑑賞させて貰って居た。

   ミケランジェロのダビデ像をはじめ、彫刻作品の凄さ素晴らしさは、格別である。
   この章で、この完成したダビデ像をどこに置くかの議論で、レオナルドもその委員で、興味深い話が展開されていたり、このダビデ像を模写したレオナルドのデッサンに葉っぱが描かれているなど面白い。
   レオナルドにも、フィレンツェ時代に、巨大な騎馬像の制作が依頼されて、作品は財政不如意で中止されたが、折角できた模型もフランス軍に標的とされて破壊されてしまった。完成しておれば、ミケランジェロの鼻を明かせたかもしれなかったのである。
 
   レオナルドは、完璧を目指しており、重大な芸術的壁に突き当たり、背後にうろつくミケランジェロの姿にも心をかき乱されたのであろう、再び、フィレンツェを離れてミラノに戻って、「アンギアーリの戦い」を放棄してしまったのである。

   ところで、レオナルドの「アンギアーリの戦い」とミケランジェロの「カッシーナの戦い」は、未完に終わったのだが、下絵が2枚、1512年までフィレンツェに飾られていて、若い芸術家は、こぞって足を運んで、「世界最高の学び舎」だったと言うことであり、あのラファエロさえ、この絵を見るためだけにフィレンツェに来て、両者を基に、様々な作品を描いたと言う。


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大前研一 IoT革命 ―ウェアラブル・家電・自動車・ロボット あらゆるものがインターネットとつながる時代の戦略発想

2019年06月11日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   3年前の本なので、一寸、古いかなあと思いながら、大前研一の本だと言うことで、読んでみた。
   分かっているようで定かには分かっていないのが、IOT。
   IOT革命の関連本は、いくらか読んでいるのだが、
   IOT、AI、ビッグデータの革命的な台頭で、自動車の自動運転システムやリアルタイムでの多言語翻訳、画像認識や音声認識など、考えられないような世界が展開されている。

   IOTとは、センサーを組み込まれた「モノ」が、インターネットによってあらゆるモノとつながるようになった状態を指す。
   IOTとは、オリジナルデータを集めて、プロセシングし、結果から意味を引き出すと言う一連の流れを、機械同士で担わせると言うことで、今は、Internet of Everything、すべてのものがネットで繋がる時代なので、発振子とセンサーがあれば、それらが可能になると言う。

   この本は、「BBT×プレジデント」エグゼクティブセミナーの収録本なので、大前研一の「IOT戦略の要諦」の他に、村井純慶大教授の「IOTで未来はこう変わる」やシーメンスとドイツのインダストリー4・0や自動車の自動運転などの講演も収録されている。
   講演とその後の質疑応答なので、非常に分かり易く書かれていて、門外漢にも興味深い。
   それに、IOTの歴史的推移や現状と将来を、一般聴衆に語っていると言う感じなので、特に、踏み込んで難しいことを語っているわけではなく、特別、新しい知識を得たと言う感覚もない。

   世の中が、根本的に変わったなあと感じるのは、大前研一のIOTビジネスモデルの考え方。
   IOTは、端末・デバイス~インターネットの単体として捉えるのではなく、関連する複合体で考えて、業界を超えた価値創造をすること。
   テスラモーターズを筆頭に、これから自動車業界に参入を図ろうとしているグーグルやアマゾンなどが注目しているのはこの分野で、車と言うハードではなく、ユーティリティや満足度を売るビジネスをしようとしており、日本の自動車メーカーも、サービス・プラットフォームの研究を急がないと世界の流れからおいて行かれてしまうと言う指摘である。
   以前に、トヨタと雖も、下請けの1社に成り下がる心配があると書いたことがあるのだが、IOT、そして、AI、ビッグデータによって、今後は産業の垣根は消滅し、安定していた業界の構造や秩序も、音を立てて崩れて行くのは必至であろう。

   既存の業界屈指の企業が、クリステンセンの説いたローエンドのイノベーターから追い上げられるイノベーターのジレンマとは全く違った、もっともっと強力な壊滅的パワーを秘めた想像を超えた異業種から参入する破壊的イノベーターに駆逐されてしまううことである。
   これこそ、IOTの革命的なビジネス環境変革の本質であろうと思っている。
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