熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

エズラ・ヴォーゲル教授:中国、そして、日本を語る・・・外人記者クラブ

2006年06月30日 | 政治・経済・社会
   来日中のハーバード大学エズラ・ヴォーゲル名誉教授の講演を、外人記者クラブでのスピーチと日経主催の「中国の将来展望と日本」シンポジュームで二回聞く機会を得た。
   一世を風靡した著書「ジャパン・アズ・NO1」で教授の日本学を学び、その後、海外での事業活動や海外赴任を経験しているので、とにかく、世界一(?)の経済力のバックアップを得て自由に海外で活動出来た、その頃の良き時代の思い出を生み出してくれた、それがヴォーゲル先生である。
   日本同様に、中国に対しても造詣が深くて日中問題に対しては世界的な権威でもある。

   現在は小泉政権のお陰で、日中関係は戦後最悪状態。記者団の質問も靖国神社参拝問題を中心に日中関係に集中していたが、現在の日本の主流派の対中国に対する対応には、眉を顰める。
   次の首相には、靖国神社参拝を止めて貰って中国との対話をしてくれることを願っている。
   お互いに歴史の裏面を論うのではなく、国民に真の日中関係のあり方を教育し合って関係を修復することが大切だと言う。
   若い日本人が先の大戦で日本人がどんな罪を犯したのか殆ど知らないので教えるべきであるし、中国人も分かっていないので、中国の為政者にも、日本人の正しい真の姿を伝えるべき努力をして欲しいと言うべきであると言う。
   日本の軍国主義の復活についてはいまだにアジアの人々の不安は消えておらず、靖国神社参拝など問題外。第二次世界大戦後は、日本は平和国家に徹して徹底的に世界平和の為に貢献してきたのだと言うことを誠心誠意語り続けることであろう。

   中国のことを中心に語ったが、日本との関係が良好であった頃の小平の改革解放政策時代の中国の歴史について克明に話した。
   あの頃は、中国で「おしん」が放映されていて、中国人に感銘を与えたが、今は、抗日運動で活躍するゲリラをヒーローにしたTV番組ばかりらしい。
   小平についての本を書くのだと言う。
   
   小平は、周恩来と同じように16歳の時にフランスへ留学して勉強している。
   60年代と70年代始めには、まだ、共産圏の経済競争力があったが、70年後半にシンガポール経由でフランスに渡欧した時に資本主義諸国の経済成長と急激な変化にショックを受けて、その優越性を知り中国より早く発展して行くことを悟った。
   小平は、ソ連にも行っており、労働者から地方の党役員等幅広い経験を積んでいて視野が広く、社会や経済・政治構造の変更の必要を感じた。
   1978年に、自ら訪日し、福田首相大平外相中曽根氏はじめ、土光経団連会長から稲山氏、川又氏、新幹線で大阪に行って松下幸之助氏にも会うなどオオモノに面会して教えを請い精力的に日本を見て回った。
   その後、経済界のトップなどを2週間日本に派遣して勉強させたが、これ等の経験がその後の中国の発展に大きく貢献したと言う。
   丁度、明治維新の頃に、日本から出た多くの欧米視察団に良く似ている。

   小平は、とにかく、早急に経済改革を推進して経済成長を図りたかった。
   小平は、改革解放運動には、「黒くても白くても、ネズミを取る猫が良い猫だ」と言って、理論衝突を避けて実務的な道を選び、一挙に開放するのではなく少しづつゆっくりの開放政策を取った。
   新制度の導入も、華僑の協力を得やすい辺境の広東や深圳等の特別区から始めて徐々に拡大し、小企業から起こして雇用を拡大して大企業を吸収するなど摩擦を少なくしながら改革を進めていった。

   日本との大きな違いは、法制度や社会体制等が全く未整備なままで改革開放が進展したので、西部劇の世界のようなもので、言わば原始的資本主義状態で、自由に大改革がなされた。
   従って、民営化といっても不十分だし、改革そのものも日米の基準から言えば水準は低く問題は山積みであり、制度的にも体をなしていない場合がある。

   文革時代は、毛沢東に忠実かどうか毛体制一本で、資格や教育など全くなきに等しく人材が育っていなかったので、何が出来るかが総てであった。
   その後、精力的に教育に力を入れて積極的に人材育成政策を取っている。
   しかし、胡錦濤主席や温家宝首相など現在の中国のトップは、工学部出身の実務派ばかりであり、いわば、サラリーマンで大胆なことは出来ないし、自由経済や国際政治などを勉強していないので、国際関係は苦手であると言う。

   ヴォーゲル氏は、豊かな逸話を交えて中国の近代化への歴史を紐解きながら、現在の中国の持つ矛盾や問題点を浮き彫りにする。
   現在の中日関係の現状だけを見ていると見失ってしまうような貴重な示唆に富んだ講演を流石だと思いながら聞いていた。  

   ヴォーゲル氏は、知識階級の一人としてブッシュ政権の政策に対して、特に、9.11後の変節に厳しい。
   中国に対する姿勢としては、ブッシュ政府のように中国との対決姿勢ではなく、民主党的なリベラルなアプローチに近いようで、中国の動きをチェックするが、中国を国際社会に同化して招き入れようと言う姿勢である。
   しかし、台湾対策だと言いながら、軍事への増額と軍拡に奔走する中国の動きには警戒すべきであると言う。
   水、石油、公害、沿海と内陸部の格差の拡大、政府の腐敗、等々現在中国の直面する暗部についても語っていた。
   

   

   
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日本航空と三井住友FGの株主総会

2006年06月29日 | 経営・ビジネス
   昨日、ニューオータニで開催された日本航空、本日、新住友ビルで開催された三井住友FGの株主総会に出てみた。
   僅かな株式しか持っていないが、それでも、株主総会集中日に総会が重なるので、今回は、問題を起こした企業の総会に出かけることにした。
   日航は、業績悪化と経営者の内紛、三井住友は、金融派生商品の押し付け販売による金融庁からの行政処分である。

   両方とも、今や骨董品に成りつつある総会屋の登場する総会で、それなりに面白いのだが、それ以上に、マネジメントが本当に経営を刷新しようと言う姿勢を示すのかどうか、それを見たい為でもある。
   結論から言えば、総会からの印象だけだが、全く、両社とも、改革や刷新に期待が出来ないということである。
   私が問題にするのは、コーポレート・カルチュアで、個々の企業に骨の髄まで染み付いたその会社の持つ企業風土を徹底的に変えてしまわない限り、企業が変ることは有り得ないと言うことである。
   最近の日本企業の改革で、例えば、企業風土を根本的に入れ替えて成功した会社はニッサンだけで、部分的ではあるがコーポレートカルチュアを大きく変革して業績を回復して革新的な企業イメージをソニーから奪い取ったのが松下電器、それ位で他の会社は似たり寄ったりで改革などから程遠いと思っている。
   その意味で、日航も三井住友もコーポレートカルチュアは全く変っていないと感じたと言うことである。

   まず、日航であるが、総会場の外でパイロットの組合がビラを播いていた。
   冒頭から、安全安心をと綺麗な能書きを並べていたが、総会の発言者の半分は会社関係者で不満と鬱憤のオンパレードで、内部さえ固めきれない会社に経営などあり得るのかと言うのが第一印象であった。
   また、財務諸表を見ても極めて数字が悪いにも拘らず、経営の実態を認識しているのかどうか、赤字等業績の悪化の責任を燃料高騰、それも、全日空と比較して燃料コスト比率が高い等と末梢的な説明に終始しており、マーケティングや人事政策等他分野の経営問題においても十分に質問にまともに答え切れない経営陣のマネジメント能力の欠如は目を覆うばかりで、正に経営不在。
   辞めるから許されるのか、本来社長が答えるべき回答を、担当役員に振って程度の低い回答を出させている新町社長の無責任は何処から来るのか。
   西松新社長も、抱負スピーチで、株主の皆様の意向を伺ってとか能天気なことを言っていたが、まず、自分がどう経営の舵を取るのかが先である。

   私は、海外関係の仕事が長かったが、特別なことがない限り、脇目も振らずずっと日航ファンで通して来たのだが、アメリカのように空のマーケットがオープンな国であったら、あのような経営では、日本航空などとっくの昔に破産していたと思っている。
   終戦直後、日本の空を日本の民間航空機が飛べなかった。初めて、日の丸をつけた日航機が、伊丹空港に降り立った時には、子供ながら涙が止まらなかった。随分昔の話である。

   ところで、三井住友だが、株主総会が、従前の総会屋対策総会と全く変っていないと言う事。
   会場の前列に、行員株主、乃至、身内の株主が陣取って、異議なし賛成とは言わないものの、節々で盛大な拍手を繰り返して、昔の総会風景を彷彿とさせる。
   このことは、経営者の頭が全く変っていないことを如実に示しており、経営数字は上がるかも知れないが、モラルやコーポレート・ガバナンスの向上は望み薄である。

   やはり、優越的地位の乱用による金融派生商品の押し付け販売は、相当悪質であったのであろう、冒頭からこの問題の被害者からの糾弾が続き、事のすさまじさが露呈された感じで、これまで何度も世を騒がせてきた住友商法が少しも改まっていないことを示している。
   私自身は、公的資金の導入の段階で、言わば破産状態に陥っており、この時点で銀行は襟を正して国民に奉仕すべきことを肝に銘じるべきであったと思っているのだが、全く、この意識が欠如しており、従前のエリート意識と高飛車な権力意識が今回の事故を起こしたのだと思っている。

   今回、私は、エズラ・ヴォーゲル教授の講演を聴きたくて総会終了前に出たので詳細は良くは分からないが、株主の質問に山下社長が一人で受け答えしていたのには感服した。   
   しかし、不祥事の調査も顧問契約のない弁護士に依頼したとか通り一辺倒の回答が多く、例えば、三井住友のホームページのコーポレートガバナンスを読んでも秀才の作文の域を出ず、全く誠意が伝わって来ない。
   株主の一人も言っていたが、顧客に直接対する支店や営業の法人担当者等の対応が、如何に心の通った誠意のある姿に変るかが大切であろう。
   私は、長い間の経験から少しも変っているとも思えないし、むしろ、どんどん質が落ちて来ているような気がしている。
   知恵が総身に回りかね、で、もうメガバンクの規模では経営が機能不全となっていて、健全な経営など無理ではなかろうか。

   兄弟会社と言うべきかグループ会社と言うべきか、三井住友海上火災の経営やコーポレートガバナンスも酷過ぎる。
   三菱が自動車を中心に世の中を騒がせたが、今度は、「三井住友、お前もか」である。
   あれだけ金融危機が騒がれて日本経済を徹底的に痛めつけた元凶でありながら、三井住友を筆頭に損保など関連の金融関係会社の不祥事は目に余る。
   金融庁がしっかりしていなければ、見過ごされて頬被りされていたのであろうか。

   経営分析そっちのけで日航と三井住友を感覚だけで批判してしまったが、いずれにしても、ファンだから株を持っていて株主総会にいそいそと出かけてゆくことだけは事実である。

   
   
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アルビン・トフラー「富の未来」を語る・・・外人記者クラブ

2006年06月28日 | 政治・経済・社会
   20年以上ブリであろうか、アルビン・トフラーのスピーチを外国特派員クラブで聞いたが、もう80歳に近い筈だが少しも衰えを見せず、最近のベストセラー「富の未来」について滔々と喋り、外人ジャーナリストの質問を縦横に受け答え、その凄い迫力に圧倒されながら聞いていた。

   トフラーは、主に、「富の未来」の上巻部分の中でも、経済の変化や政治経済事象の変化のタイムラグ等について語ったが、やはり重要だと思うのは、プロシューマーの概念だと思う。

   トフラーは、まず、経済的な環境変化について、経済には3つの部門があると言って、国民所得概念の経済統計には勘定に入れられない外部経済である生産消費者(プロシューマー)の経済について説明し、その重要性を説くことから始めた。
   主婦が家族の為にケーキを焼けばこれは生産消費だが、起業してこの同じケーキを販売すれば生産者としての経済活動となる。
   個人や企業や色々な組織が、金儲けや利益を目的に販売するのではなく自分の楽しみや喜びの為に生産し自ら消費する財やサービスを生み出す経済活動が、如何に現在社会において重要な位置を占めているか。
   知識情報化社会が進展して行けば行くほど、例えばリナックスを筆頭としたIT関連のオープンでフリーなソフトやボランティア活動など生産消費者が只で生み出す財の重要性が増してきて経済社会を豊かにしている。
   また、逆に、企業がこれ等の生産消費に付け込んでATMのように自分達の労働を外部化して利用する。

   マネタリーターム、すなわち、売り買いして金銭的に把握できる経済活動のみを捉えて国民所得経済統計として、現在の経済学は、経済を論じ景気を予測している。
   しかし、人間にとって価値あるモノやサービスは一体何なのか、そして、トフラーの言う生産消費を含めた総てを集計して人類の経済活動で生み出されたものを財として捉えるのなら、経済規模は倍以上に拡大し、その経済の概念なり実態が完全に変ってくる。
   更に、トフラーの示唆するように、その中身や変化を時間、空間、知識のタームで分析すれば、経済社会の実態のみならず人間の文化文明の推移を如実に把握出来ると考えられる。   

   アルビン・トフラーは、時間、空間、知識を切り口に、第三の波・知識情報化産業社会の中で富が如何に変質して未来を切り開いていくかを、詳細に論じている。
   未来が素晴らしいものかどうかは分からないと言いながら、トフラーは、富の未来については、限りなく楽観的である。
   人類の平均寿命の伸長や、貧困については遺伝子組み換え食品の開発等により解消が促進されるなど、科学技術、知識の発展によって、昨日より今日、今日より明日と言った状態で少しづつ良くなってきており、また、そうなると考えている。
   天候と地主に泣かされながら黙々と農業を続けていた人や組み立てラインの付属物として働いていた人が、第三の波の恩恵を受けて、知的労働や先進的サービス業へと移行することによって生活環境が改善されるのは、明るい未来へ向けての第一歩だと言うのである。

   第二の波の時代には、技術や経済だけの動きだけではなく、社会、政治、哲学の要因が絡んだ大きな産業革命のうねりであったが、文化、宗教、芸術は総て副次的になり、経済中心の考え方が主流であった。
   しかし、第三の波の革命的な富の時代には、知識の重要性が高まり、経済は大きなシステムの一部の地位に戻り、文化、宗教、倫理などが舞台の中心に躍り出て文化全体にわたる変化を引き起こしてきている。
   個人も企業も組織も政府も、過去のどの世代も経験しなかったほど急激に、そして、ワクワクするように変って行く未来の経済と社会に直面していると言うのである。
   

   
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ニッサン定時株主総会

2006年06月27日 | 経営・ビジネス
   ニッサンの定時株主総会が、昨年同様に横浜みなとみらい「パシフィコ横浜」で開かれた。
   冒頭、ゴーン社長は、新本社が会社発祥の地横浜に予定より早く、横浜開港150周年の2009年に移転することを発表した。
   とにかく、ゴーン社長の総会のスピーチは、日本企業の経営者としては、桁違いに明晰で、カンニングスクリーンは目の前にあるが、殆ど無視して立て板に水、膨大な詳細数字も間違いなしにとうとうと捲し立てて持論を展開する。

   昨年度は、ニッサン・バリューアップ計画の2年目に当たるので、特に目新しい計画はなく、3つの目標をクリアしたかどうかが焦点であった。
   ①3年間グローバル自動車業界でトップレベルの営業利益
   ②2008年度においてグローバル販売台数年間420万台
   ③計画期間中平均で投下資本利益率(ROIC)20%以上
   ほぼ計画をクリアできることは間違いなさそうであるが、最近は、①と②の数字が1%刻みでダウンしており、利益率にやや陰りが見え始めている。
   ニッサンの営業成績は、確かに目を見張るものがあるのは確かであるが、しかし、分母が小さいので、その分①や③の数字が高いのは必然で、むしろ今後、ダウン気味の数字をアップできるのかどうかが問題であろう。

   ニッサンの再生と普通の企業としての蘇りは、コストカッターのカルロス・ゴーン社長の改革によって実現した。
   目を見張るような業績の回復が成し遂げられたが、これは、コスト削減や調達・生産・販売等の経営の合理化など規定のノーマルな経営改革で実現されたものであり、特に、驚異的な経営革新でもなんでもないと思われ、これの戦略・戦術が、今後も強力な業績向上に貢献するとは思えない。

   その意味で、今後興味深いのは、ゴーン社長が説明したこの目標を追及するためのブレイクスルー戦略である。
   ①インフィニティをグローバル・ラグジュアリィー・ブランドにし、韓国に続いてロシア、中国、ヨーロッパに展開すること
   ②小型商用車部門の拡大、
   ③リーディング・コンペティティブ・カントリー、競争力ある国からのグローバル部品等の調達、コスト競争力の強化
   ④地理的拡大、中国、ロシア、エジプト、インドでの生産、販売の拡大
    ルノー、スズキ等とのアライアンス
   これ等の施策が、トヨタ等の後追いではなく、如何に、ニッサン独自のブレイクスルー戦略となるかであろう。
 
   私が特に気になるのは、ニッサンが、何でもって業界のリーダーになろうとしているのかと言うことである。  
   ニッサンがトヨタやホンダに遅れているのは、イノベーションを追求して業界をリードして行くと言う先進性の欠如、すなわち、イノベーション戦略が全く見えないと言うことである。
   その点は、ニッサンにとって一番重要な筈のサステイナビリティ・レポートにおいても、技術的な取り組みと説明は、地球環境の保全と安全への配慮の項目で取り上げられているだけで、技術のニッサンとしての差別化した夢と野望が全く感じられないことからも分かる。イノベーションへの取り組みは二の次なのである。
   合理化して業績が回復すれば、次は、如何にして差別化して競争に勝ち抜くか以外に道はない筈である。

   大前研一氏が、最近、カルロス・ゴーン社長が、ルノーとの兼務でニッサンの経営に十分時間が割け得なくなっている事や日本での行動や奥さんの書籍出版などに触れてニッサンの経営に対してネガティブな評価をしていた。
   また、株主総会でも、アフター・ゴーンについて質問があったが、私は、既に、ゴーン社長の使命は終わっていると思うので、むしろ、如何に、後継の経営者が、攻撃型の経営を行えるかが大切であると思っており、政権移譲が早ければ早いほうが良いと思っている。
   

   
   
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竹中大臣の強烈な官僚批判

2006年06月26日 | 政治・経済・社会
   久しぶりにサンデイ・プロジェクトで、パンチの効いた竹中節を聞いて面白かった。
   その前に討論されていた、小泉内閣の改革は、毎年アメリカ政府から出てくる要望書どおりであるとの野党議員の批判を受けて、田原総一郎氏が、この要望書に従って日本を無茶苦茶にしたのは竹中大臣の責任だと言う世論があるがと言って話を始めた。
   竹中大臣の答えが振るっていて、この要望書を読んだのは極最近で全く知らなかった、郵政民営化にしても、中身と全く違うなどと反論した。

   この答えは恐らく真実で、要するに、どこから考えても、まともに日本の政治経済社会を分析すれば、アメリカ政府の要求するような要望書の中身になるであろうと言うことであって何の不思議もない。
   従って、私自身は、アメリカから言われた言われていないと言うのは末梢的な話で、むしろ岡目八目とは言わないまでも、日本を良くする為には、アメリカに勝手なことを言われていると思っても、ある程度考慮には値すると思っており、アメリカの政治や経済社会に従属すると言うのは、また、別次元の話である。

   竹中大臣の改革に対しては、既得利権を維持しようとする政治家と官僚の癒着、そしてそれを提灯持ちするマスコミ等の熾烈な抵抗に梃子摺ったようで、竹中大臣の憤りは大変なものであった。
   ところが、最近顕著になった現象は、①官僚の復権(特に財務省官僚)②反市場主義、反グローバリズムの動き③反世代交代(外国は1960年代生まれ1980年代学卒の世代が支配体制)であると指摘、小泉内閣で動き出した改革指向が反動化してきたと言う。
   特に、官僚は、政府の骨太の決定方針でもこれに反する提案を堂々と族議員に持ち回って既得利権を守るべく画策し、更に、マスコミを抱き込んで改革に執拗に抵抗するのだと言う。
   田原氏に、その場合はどうするのかと聞かれて、一つ一つ論破するだけであると大臣は答えていた。

   もっと面白かったのは、木村剛氏の起用・活用について聞かれた時、学者は足を引っ張ったが実務家の専門家が助けてくれたと言ったことであった。
   やはり、学者馬鹿と言うか、日本の学者は、御用学者は別として、実際に立脚した学問からはかなり距離があると言う事であろうか。

   しかし、いずれにしてもこの竹中大臣の官僚批判なりこの見解は、竹中大臣の施策なり考え方が正しいと言う前提に立ってのものであり、これが間違っておれば結論は逆になる。
   とにかく、日本は非常に保守的な国で変革を嫌う強い抵抗勢力があることは事実のようである。

   竹中大臣の基本的な考え方は、サプライサイド・エコノミックスであり、要するに、市場資本主義で、自由競争が経済社会を活性化させるということであり、この考えに基づいて経済政策や行政施策が打たれている。
   市場原理主義を推し進めて行けば、当然、弱肉強食の世界となり、勝者と敗者が生まれて格差が拡大する。
   この為には、再挑戦のチャンスを与えるとか機会平等の原則を堅持するとかセイフティネットを張るなど補正する施策が必要となる。
   いずれにしろ、これまで、ケインズ経済学に基づく財政政策はあったが、市場原理主義の経済学を行政に強引に導入して、不良債権処理などを含めて、行政政策上かなりの成功を収めた例はなかったであろう。
   政治経済学の復権である。
   
   小泉総理との関係を聞かれて、全面的なバックアップがあったこと、そして、小泉首相の理解と支持がなかったら一月で潰れてしまっていたと語っていたのが印象的であった。  
   いずれにしても、小泉首相も竹中大臣も、この極めて難しい時代に出てきた極めて異色な政治家である。 
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ソニーの株主総会

2006年06月25日 | 経営・ビジネス
   村上ファンドやホリエモンのライブドア問題で騒がれている割には、ソニーの株主総会は平穏無事というか、何時ものように、いわゆる能天気な何の面白みもないセレモニーに終わってしまった。

   新高輪プリンスホテルで、会場は、メインの他3会場に分かれていて、直接ひな壇が見えない第2と第3会場はビデオを見ている感じなので、質問だけは振り向けられるが、拍手も何の反応もないだんまりの会場である。
   メイン会場の映像がないので、総会の雰囲気が全く分からないし、声が聞こえるだけである。
   株主を会場まで来させながら、音響機器メーカーでありながら何の工夫もせずにホテルの施設をそのまま使うだけで、よくもこれだけ株主を馬鹿にした会場設営を反省もなく続けられるものだと思うと腹も立たない。
   巷には、キャパシティ十分の劇場が沢山空いているはずである。
   それに、第2会場に入ると、総会終了後も30分近くもパイプ・イスに釘付けにされ待たされて外に出られない。

   手土産には、銀座ソニービルの縁であろうかマキシムの菓子と乾電池、何の工夫もなく会場の設営も雰囲気も含めて毎年全く同じスタイルで株主を接遇するソニーのワンパターン総会、これだけ見ても、ソニーに対して、経営革新や再生などあまり期待できないことが良く分かる。

   総会終了後に、一寸砕けた感じの株主とソニートップとの懇親会があるのだが、今回は、午後に、東大でのビジネス・ローの講演があったので失礼し、出掛けに少し時間があったので展示会場に立ち寄った。
   昨年までは、まだロボットがあって面白かったが、今回は、特に目を見張るような新製品があるわけでもないので、極めて閑散としていて寂しい限りである。
   念のため、新しい一眼レフSONY α100を手にとって見たが、エレクトロニクスや心臓部は多少変ったのかも知れないが、外観と操作の大半は、コニカミノルタαSeet Digitalと殆ど変らないシロモノ。

   クリステンセンが、ソニーのイノベーターとしての命は1970年代に終わってしまったと言うのも良く分かる。
   大体中期計画の努力目標の利益率が5%だと言うが、あれだけ世界のソニーとしてのブランド力を誇り、ハイテク技術を継承し優秀な人材を無尽蔵に持ちながら、この数字では、当初から、負け戦を宣告している様なものである。
   株主に、この数字はコミットメントかと追求されていたが、経営陣を全く信用していないのであろう、ニッサンのゴーン社長のパロディ版である。

   肝心の株主総会だが、ストリンガー会長主導で中鉢社長との共同議長で進められていたが、これが現在のソニー経営の実態でもあるのか、まずは上手くスムーズに進行していた。
   しかし、世界のソニーとしての強烈なインパクトも溌剌とした革新性もなんの新鮮さをも感じられない普通の大会社の株主総会であった。
   議題は、会社法施行に伴う定款変更、役員選任、ストックオプションに伴う新株予約権、だが、問題は、株主提案の「取締役の報酬の株主への個別開示に関する定款変更」である。
   株主オンブズマンの森岡代表が提案説明を行ったが、至極当然と言えば当然の発言で、後で、別な株主からバックアップ意見が出されたが、会社側の回答が冴えない。
   欧米がそうなら開示すべきだと思うがストリンガー会長の意見を聞きたいとの株主の質問に、中鉢社長は、「ストリンガー会長の経営革新(?)を・・・」と言って会長に振った。
   (中鉢社長の経営革新と言う言葉だが、知ってか知らずか、極めて意味深で不穏当な発言だと思うが、今回はこれに対するコメントは避けたい。)
   ストリンガー会長の回答は、要するに日本には日本の文化なり伝統があって、これを大切にするコーポレート・カルチュアを維持したいと言うことであった。
   
   最近、ニッサンの役員の報酬の高さに世間は驚いたが、ゴーン社長の答えは、これでも世界水準から見れば低すぎると回答したが、大方のところは、報酬金額が低すぎて公表するのが恥ずかしいか洗い浚い晒したくないとか言うのが日本の上場企業の大半であろう。
   役員報酬については、利益処分である役員賞与や退職慰労金に対してと同様に、株主に公表するのが本来あるべき姿だと思うが、私自身は、今回のソニーの見解どおり総額表示で十分だと思っている。
   しかし、この株主提案は、今回の総会で50%近い賛成票を獲得しており、定款変更には3分の2の賛成が必要なので、何回出しても犬の遠吠えに終わると思われるものの、ソニーがオープンな会社かどうかを示す試金石であり無視できない現象でもある。
   
   ところで、報酬だが、ブッシュ大統領の年俸は日本の大会社社長の年俸に毛が生えた程度であり、バーナンキ連銀議長の年俸などは遥かに低い。
   因みに、グリーンスパンが止めて講演を行ったら、その謝礼金が年俸の何年分にもなったと言うし、ボルカー元連銀議長など生活が苦しかったので夫人が内職をしていたと自叙伝に書いてある。 
   ロンドンのシティのロードメイヤー(市長)やアルドマン(議員)達も無報酬で、自身で仕事を持っていてそれで補っているのだが、責務については絶対の公僕であって公明正大を肝に銘じている。
   この資本主義の世の中、途轍もない発明か発見をして事業を起こすか、世間を欺いて株を操作して儲けるか、etc・・・とにかく並みのことをしていては駄目だと言うことであるが、大会社、イギリスで言うパブリック・カンパニーは、やはり社会の公器であることには間違いないと思っている。

   久しぶりに総会屋が一人騒いでいたが、正論のようでナンセンスな議論なので、経営陣から一蹴されてしまった。
   昨年のリストラ時点で売り惜しんだ金融関係の利益で食い繋いでいるのが現在のソニー。
   株主にゲーム機部門の不振を突かれて、久多良木社長に回答を振ったが、PS3のハードとソフトの開発に投資したとの説明だけで勝算がありやなしやは分からない。
   結局、何のイノベイティブで戦略的に有効な製品を持っていないソニーにとっては、PS3が唯一の虎の子、勝手をさせるのも仕方がなかろう。

   コア・ビジネスのエレクトロニクス部門の目標利益率が4%と言う。
   総てが急速にコモディティ化して持続的イノベーションを追及し続けなければならない、そして、利益率の低い競争の激しい世界に何故ソニーはそれほどまでに固守するのであろうか。
   ソニーと言う名の会社は、ファンをワクワク感激させるような真に革新的な製品やサービスを提供すること、これ以外に生きる道はない。
   歌を忘れたカナリヤではないが、イノベーションを忘れたソニーの現実は、悲しいし厳しい筈である。   
   
   
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METの「椿姫」・・・ルネ・フレミングの艶姿

2006年06月24日 | クラシック音楽・オペラ
   ルネ・フレミングの艶姿に再びめぐり合えた幸せについては、ゆっくり後で書くとして、このオペラの素晴らしさの魅力の一つは、フランコ・ゼッフィレッリの目を奪うような美しく華麗な演出とその舞台である。
   1989年10月16日に、METで初演されたこの舞台は、ヴィオレッタがE.グルベローバ、アルフレートはN.シコフ、ジェルモンはW.ブレンデルで、指揮はカルロス・クライバーと言う豪華版で大変な人気だったと言う。
   私は、その前に一度だけ、1981年に、METで椿姫を観ているが、ヴィオレッタはキャサリン・マルフィターノで、ジェルモンはレナート・ブルソンであった。

   私は、1983年にゼッフィレッリが演出監督した「椿姫」の映画を、パリのオペラ座の近くの小さな劇場で見たのがゼッフィレッリとの遭遇の始まりだったが、テレサ・ストラタスのヴィオレッタとプラシド・ドミンゴのアルフレートの夢のように美しいオペラ映画を観て感激した。
   その後、このビデオをニューヨークで見つけて長く楽しんだが、ベータ版なので今は処分してなくしてしまった。この時、METで、やはり、ゼッフィレッリ演出の目の覚めるような美しい「ボエーム」を見てゼッフィレッリのファンになってしまった。
   あの当時でも、少しづつオペラの演出がモダンになり始めて、よき時代の歴史的で華麗な舞台設定は少しづつ後退し始めていたが、それだけに、ゼッフィレッリの華麗な舞台が貴重であった。
   その後、ロンドンで観たゼッフィレッリの「オテロ」の舞台も、ドミンゴやキリ・テ・カナワやゲルグ・ショルティの思い出とともに記憶の中に深く残っている。
   手元に、1986年ロンドン版の「The Autobiography of Franco Zeffirelli」があるが、時々、引き出して読んでいる。

   今回の椿姫の舞台は3幕だが、第2幕は2場あるので、全部で4場で、第1幕のヴィオレッタの邸宅の宴会の広間と第2幕2場のフローラの邸宅の宴会広間は実に華麗で、第2幕1場のパリ郊外の二人の田舎家も瀟洒で美しく、第3幕のヴィオレッタの病室の質素だがその落ち着きと品の良さは、それぞれに一幅の絵画を眺めているような感じにさせてくれる。

   さて、ルネ・フレミングであるが、丁度1年前に、ロンドンのコベントガーデンで、オテロのデズデモーナを聴いて、その後、劇場2階のフローラル・ルームで、自伝「The Inner Voice」とプログラムにサインを貰って、二言三言喋っている。
   綺麗なアメリカ婦人であることには間違いないが気さくなヤンキー気質を一寸垣間見て親しみを感じたのだが、幕が開くと、その彼女が、華麗なイブニングドレスを纏って颯爽と舞台に立っている。
   出だしは少し声がこもったが、乾杯の歌を歌い終える頃には、素晴らしく美しい声に変り、あの品のある優雅な立ち居振る舞いからほとばしり出るヴェルディの珠玉のようなアリアが胸に響く。
   あれだけ美しい声でボリュームたっぷりに隅々まで歌いこめる歌手は稀有だと思って聴いているが、一頃、良く聴いたロイヤル・オペラでのキリ・テ・カナワを思い出した。

   フレミングは、1991年3月に「フィガロの結婚」の伯爵夫人でMETにデビューして、ドミンゴの「オテロ」でデズデモーナを歌い、「ばらの騎士」のマルシャリンも演じる等モーツアルトを筆頭にかなり幅のあるレパートリーをMETで歌っているが、「椿姫」については1998年にヴィオレッタの話があった時に、一度キャンセルして2003年まで延期している。
   自伝によると、ヴィオレッタは異常に要求の厳しい複雑な役柄で、これまでに多くの卓越した歌い手が解釈し尽くしており、歌うからには、人生の最も難しい時期に失敗したくないので全身全霊で打ち込みたかったからだと言う。
   このオペラは、ヴィオレッタ歌いに3種の違った声を要求する、リリック・コロラトゥーラ、リリコ・スピント、リリック・ソプラノ。良く分からないが、私は、鶯が囀るようなフレミングの一幕のアリア「ああ、そは彼の人か」が天国からの歌声のように響いて心地好かった。

   METの公演の前に、幸いヒューストンの舞台があり、レナータ・スコットから教えを受けて舞台に立ったが、この時のキャストは、NHKホールの舞台と同じで、アルフレードにラモン・ヴァルガス、ジェルモンにディモトリー・ホロストフスキーであった。
   マリア・カラスのスタジオ録音版は嫌いだがジュリーニとのスカラ座版は良いとか、グレタ・ガルボの映画やイレアーナ・コトルバスのクライバー版が良いとかフレミングがコメントしているが、椿姫への並々ならぬ意欲が伝わってくる。

   ところで、第2幕だが、ヴィオレッタの心の落差が大きくて、実に切ない胸に響く舞台であるが、この場でのフレミングも素晴らしい。
   パリ郊外の田舎家での幸せな生活が、父親ジェルモンの来訪によって引き裂かれて暗転する。
   ヴィオレッタとジェルモンの二重唱「ヴァレリー嬢ですね。そうですわ。」で始まり、「天使のように清らかな娘を」でジェルモンにかき口説かれて、ヴィオレッタは涙を呑む。
   フレミングは、嬉々として幸せの絶頂にあった象徴の、アルフレードから貰って髪に挿していたピンクのバラを手にとって、静かに握りつぶす。床に花びらが広がる。死を悟り死を決心する瞬間であり、ヴィオレッタにとっては総てが終わる。

   ジェルモンのロシアのバリトン・ホロストフスキーは、殆ど演技らしい演技をせずに、心を歌いながら無常を語る。
   昨年、コベントガーデンで観た「リゴレット」も、殆ど朴訥と思えるくらいに演技を抑えていたが、もともと、不器用と言うか演技が嫌いなのか、しかし、浪々と響き胸に染み渡るようなヴォイスの迫力は凄い。

   アルフレードのラモン・ヴァルガスでが、何となく田舎男と言う風貌に親しみが湧く。
   定番のヴィオレッタとのアリアも実に上手いが、2幕のヴィオレッタへの復讐を決意する所や「この女をご存知ですか」などのパンチの効いた歌も中々良い。   
   指揮者のパトリック・サマーズについては、初めての経験なので良く分からないが、本当に素晴らしい舞台であったことが総てを物語っているような気がする。   
   METでは、これまで、フレミングのヴィオレッタで、東京を入れて16回公演を行っているが、殆どギルギエフが振っている。
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METの「ワルキューレ」・・・ドミンゴの白鳥の歌

2006年06月23日 | クラシック音楽・オペラ
   メトロポリタン歌劇場の日本公演「ワルキューレ」の最終公演を21日NHKホールで観た。
   凄いワーグナーのオペラで、一昨年秋に、METで、この時は、ギルギエフ指揮だったが、同じプラシド・ドミンゴのジークムントを観たが、今回の公演の感激はそれ以上で、私は、ドミンゴが、日本の聴衆に向かって最後の本格的な公演を意図して、白鳥の歌を歌っているのだと思って胸を熱くして聴いていた。
   METのデータベースを見ても、ジークムントと言えば必ずドミンゴで、昨年機会をミスったがロイヤルオペラもドミンゴの「ワルキューレ」で沸いていたし、とにかく、ドミンゴなしの「ワルキューレ」は考えられないほど定着しているが、もう、指揮することはあっても、日本で本格的なドミンゴのオペラの舞台は観られないかも知れないと思うと感慨深い。

   今回の公演を観る前に、METの「ワルキューレ」を予習する意味で、1989年の舞台をジェームス・レヴァイン指揮のビデオで見た。
   一番最初に、バイロイト・オペラの日本公演の時、カール・ベーム指揮の「トリスタンとイゾルデ」のレコードを何回も聴いて観たのを思い出すが、その後、公演前にレコードやビデオ等で準備することはなくなったのだが、同じオットー・シェンクの演出なので、ギルギエフの舞台を思い出しながら楽しんだ。
   ビデオの方のジークムントは、私の聴いたことのないゲーリー・レイクスだったが、ジークリンデがJ.ノーマン、フンディングがK.モル、ブリュンヒルデがH.ベーレンス、フリッカがC.ルードウィッヒ、それにウォータンは今回と同じJ.モリスで、夫々何度か舞台で聴いているので懐かしかった。
   私の観た他の「ワルキューレ」は、ベルナルド・ハイティンク指揮のロイヤル・オペラで、ギネス・ジョーンズやルネ・コロが元気な頃であった。
   今回観られなかったが、ダニエル・ボレンボイムが振ったバイロイトの素晴らしいリングのビデオがある。ハイティンクもバレンボイムもユダヤ人指揮者、ヒットラーが好き好んだワーグナーを素晴らしく演奏するが、今昔の感がある。

   ドミンゴが始めてジークムントを歌ったのは1992年で、その前にワーグナーでは「イタリア風の役であるローエングリンやパルジファルを歌っていて、声を痛めることなくワーグナーに慣れてきた」と言う。
   ジークムントを歌うワーグナー歌手は、ジークフリートやタンフォイザー、トリスタンを歌って声を酷使するが、自分は幸いにヘルデンテノールではなかったのでそのようなことはなく、そのかわり、ワーグナーの歌にリリシズムを持ち込んだ。
   吼えるような歌い方ではなく、とびっきりのリリックな響きで歌ってワーグナー・ファンを魅了する。
   今回の「ワルキューレ」第一幕のジークムントの「冬の嵐は過ぎ去り」、ジークリンデの「あなたこそは春」のあの愛の二重奏は、涙が溢れ出るほど美しく、正に、このオペラの頂点である。
   ワーグナーが,一面では、素晴らしい愛の賛歌をオペラの随所に鏤めている事が分かる。
   初めて観て聴いたのが、バイロイトの日本公演「トリスタンとイゾルデ」で、あの時の、ビルギット・ニルソンとウイントガッセンの永遠に続くかと思わせるあの壮大な愛の二重唱が今でも耳に残っているが、あの感動である。

   第二幕で、疲弊しきって辿り着いた岩山で、ブリュンヒルデに死の予告を受け、くたびれたこの女のどこが良いのか英雄の里ワルハラへ行こうと諭されても、ジークリンデへの愛を切々と訴えるドミンゴの胸を打つ最後の歌など実に感動的である。
   私は、ドミンゴは、何時も、その役の人物になりきって、魂を籠めて感動しながら心で歌っていると思って聴いている。
   最後に、思い憧れ続けて来た自分の父親ウォータンの胸に抱かれて死ぬが、その時自分を死に追いやったのはこの父親である事を悟る。
   ドミンゴは、これほど悲しいことはなく泣かずには居られない、しかし、泣いては歌えないのだが幸いに歌がない、と言っている最後の場面を双眼鏡でじっと見ていたが、ウォータンのジャームス・モリスを虚ろな目で見上げるドミンゴの表情が実に悲しい。

   ジークムントは、英雄ジークフリートの父としての役割を果たすためだけに創られた。ワーグナーは、もっと、彼の話を続けて欲しかったと言うドミンゴだが、一幕は1時間以上の長丁場で嫌と言うほど歌が多くて集中力を持続するのが難しいと言う。
   先のMETでの時もそうだが、猫背気味で登場する最初の出やカーテンコールで出てきたドミンゴを観て、随分、老けたなあと思った。
   私の観たのはロンドンで、15年以上も前の、オテロやトスカ、サムソンとデリラのロイヤル・オペラの舞台で、最盛期のドミンゴは光り輝いていた。
   今回も、全身全霊を傾けて、東京のファンの為に、最高の舞台を見せたのであろう、花束を受け取った時には、本当に憔悴しきっていたが、しかし、どこか、満足そうな穏やかな表情で舞台を去って行った。

   ジークリンデを歌ったデボラ・ヴォイトだが、実に豊かで素晴らしい歌声でドミンゴと互角に、そして、素晴らしい二人の舞台を創り出していた。
   声質は一寸違うが、ビルギット・ニルソンの舞台を思い出した。
   この回だけ指揮したサー・アンドリュー・デイヴィスだが、ロンドンでは結構彼の舞台には接しているのだが記憶は薄く、どちらかと言えば地味で目立たない存在だが、この日は、縦横無尽にMETオーケストラを歌わせていて素晴らしいワーグナーの世界を作り出していた。

   素晴らしい「ワルキューレ」、他の感想については稿を改めたい。
   

   

   
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METのハーピストとの会話

2006年06月22日 | クラシック音楽・オペラ
   昨日の午後、原宿からNHKホールに向かって歩いていると、小柄でチャーミングな婦人が、トラベルブックの地図を見せて道を尋ねてきた。
   NHKへ行きたいと言う事だったので、私も行くのでご案内しようと言って一緒に歩き出した。

   オペラに行くのか聞いたので、そうだと答えると、私は演奏する方だと言って微笑んだ。
   何の楽器を演奏しているのかと聞くとハープだと言ったので、素晴らしい音色の楽器だと相槌を打つとにっこり笑った。

   ボローニア歌劇が公演をしている様だがと言うので、何の話かと思ってよく聞くと、チケットがソールドアウトだと聞いていると言う話をしたので、切符の売れ具合のことだと分かった。
   メトロポリタン・オペラの方は、相当切符が売れ残っていることを知っていたので、ボローニアが売り切れて、METが売れ残っていると言うのが相当気になっているようであった。
   私は、NHKホールの方が、東京文化会館よりも4000と2300だから遥かに規模が大きいのでチケットの数が違うのだと説明した。
   メトロポリタン・オペラの方がダントツに評価が高く、ナンバーワンだと思うと言ったら、サンキューと言って喜んでくれた。
   今、客演指揮者で活躍しているギルギエフについて聞いたら、非常に評判が良いようであり、一昨年METに行った時もそんな気がしたのでロシア歌手の活躍が期待出来そうである。

   ドミンゴは、少し年だから、ワルキューレは辛いだろうと言うと、しかし、いつも素晴らしくて美しい声です、と答えてくれた。
   ヴォイトが、素晴らしいリークリンデを歌うはずだととも言った。
   そんな話をしながら、NHKホールに歩いた。

   ワルキューレは、随所に美しい音楽が流れるが、華麗なハープの音が聞こえてくる。
   彼女は、2台のハープの右に座っていたが、プリンシパルのデボラ・ホフマンさんのようである。
   いつも、団体バスか何かでホールへ出かけるのだが、この日は一人で東京を散策していたのかも知れない。
   ところで、とにかく、素晴らしかったドミンゴのワルキューレについて、明日、書いて見たい。
   
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ダ・ヴィンチ・コードを見た

2006年06月20日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   久しぶりに面白い映画を見た。ダ・ヴィンチ・コードである。
   本が出版された時に、真っ先に買ったのだが、積読で読んでいないので、映画がぶっつけ本番である。
   封切上映当時は大変な人気であったようだが、今では、劇場ががらがらで閑古鳥が鳴いていた。
   推理小説絡みで見てもそれなりに面白いが、本当に楽しむためには、キリスト教やヨーロッパの歴史等の知識がかなり要求される映画で、相当程度が高い感じがして見ていた。(それに、レオナルド・ダ・ヴィンチを良く知っていると、もっと面白い。)
   その所為でもなかろうが、後ろに居た客は、10分ほど見ただけで音を立ててさっさと帰ってしまった。

   ミラノのサンタマリア・デッレ・グラーツィエ教会の食堂の壁画であるレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」で、真ん中に座っているキリストの左側の使徒ヨハネとされている女性的な人物が、実は、キリストの妻・マグダラのマリアだと言う設定である。
   キリストの処刑の時に、キリストの子を身ごもっており、人知れず隠れ住んで、その子孫が今も生き長らえていると言う設定で、それを利用しようとするシオン修道会などの宗派が暗躍するサスペンス・タッチの映画で、フランス警察を手玉に取るハーバード大教授のトム・ハンクスと、殺されるルーブル館長の孫娘(実は、キリストの末裔?)で暗号解読家のソフィーのオードリー・トトゥの活躍が面白い。

   あのダ・ヴィンチの「最後の晩餐」は、先年、修復なってパステルカラー調に素晴らしく美しく蘇った壁画を見たのだが、実はこの絵を、修復前の廃墟のような部屋の中にあった32年前と、15年程前の修復途中にも見ているのだが、構図・構成の素晴らしい劇的な絵である。
   レオナルド・ダ・ヴィンチが好きで、ニューヨーク、ワシントン、ロンドン、パリ、それに、イタリアやヨーロッパ各地の美術館を回ってその絵を追っかけているが、寡作のフェルメールよりも残っている油絵作品は少ない。
   フランソワ1世の招きでフランスに移住して、ロワールのアンボワーズ城の少し山手のクルーの館で生涯を終えたダ・ヴィンチが、最後まで持ち歩いていた「モナリザ」他2点がルーブルにあるが、ここでダ・ヴィンチが晩年を送ったのかと思うとクルーの館を立ち去り難く長い間佇んでいたのを思い出す。

   ところで、あの「最後の晩餐」の構図で、マグダラのマリアとキリストが反転・対称的に描かれていて、その間の空間がV字型になっていて聖杯を表していること、そして、マリアの絵を右へ少し平行移動するとマリアがキリストの肩に寄り添うように重なることなど、あの絵から、イメージを膨らませている作者の推理が面白かった。

   ところで、キリスト教関係で、最近もっと興味深いのは、ナショナル・ジオグラフィック誌が、5月号の「ユダの福音書を追う」と言う記事で暴露した「ユダは、裏切り者ではなく、キリストの唯一の理解者であり重要な使徒であった。」と言う話題である。
   「お前は真の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを超える存在になるだろう」と言う「イスカリオテのユダとの対話でイエスが語った秘密の啓示」書である、コプト語の2000年前のユダの福音書が出て来たのである。
   ダ・ヴィンチ・コードでも、見方によれば、相当キリスト教に対する覚めた表現があった。
   しかし、このユダの福音書問題は、権威のあるナショナル・ジオグラフィックの特別スクープでもあり、その後、詳細な単行本や福音書翻訳等が出版されているので、他人事ながら、キリスト教徒の人々には、極めてシアリアスな問題提起ではなかったかと思っている。
   
   
   
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ブックオフで本を売った

2006年06月18日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   最近は、一寸読書量が落ちたが、まだ、年間150冊ペースで本を読了しているので、参考書籍や端折り読み、積読などを含めてそのほぼ倍の本を買うことになる。
   雑誌などを含めると相当の量となり、すぐに、足の踏み場までなくなってしまう。

   これまでは、迷惑を考えずに、知人宅に転送していたが、一度、やってみようと思ってブックオフに本を持ち込んだ。
   経済や経営関係が主の単行本を40冊ほどと、新書を20冊ほど、他にも写真本などを持ち込んだが、トータルで頂いた代金は、1,850円と200円のサービス券で、安いのか高いのか知らないが、良くても一冊50円だと店員は言う。
   50冊相当数の本を持って行って、新本1冊の値段でしか買い取って貰えないのである。

   勿論、大半出版2年以内の新しい本で、私しか読んでいないので、質はかなり良好な筈であり、目を通していない新古書もあり、計算中に経済・経営関係の書棚を見ていたのだが、同じ本は皆無に近かったので商品価値はある。
   NHKの日曜朝の経済番組でブックオフの社長が出て話していた時には、新本と同類の良好な本は、定価の10%で買い取るので素人でも簡単に買取出来るのだと言っていたのだが、話がだいぶ違うし、本当なら詐欺である。
   念の為、ブックオフの書棚の本を見たが、定価の50%に価格付けされている本の質は、私の持ち込んだ本より遥かに悪かった。(本の種類によって、本の程度の査定に匙加減をするのなら許せない。)

   しかし、良く考えてみれば、ブックオフは一般書店の様に返本が利かず、総て買取なのである。
   私の読んだ類の本は、面白おかしい本でもベストセラーでもないので、売れるのかどうかさえ分からないし、売れなければ棚の肥やしとなるだけで全損となり、50円でも高いかも知れないと思って、妙に納得した。
   家内も、良く買い取って頂けましたねえ、と言っていた。
   私自身も、大切な本や参考文献などは大切に保存しており、知人への転送は別だが、手放しても良いと思う本をブックオフに持ち込んだのだから、順当な値付けかも知れないと無理に思うようにしている。
   しかし、今後は、ブックオフへは行く気はないし、絶対に行かない。

   所持人の自分にとっては思い入れもあり価値があると思っていても、市場価値はそんなものなのかも知れない。
   このことをいみじくも、ブックオフが示しているのなら、日本の本の定価がおかしいと言うことになる。

   結局は、価格維持のための日本の再販制度が良いのか悪いのかと言う問題に行き着く。
   大体、中身に殆ど関係なく、300ページ前後の本になると、1500円から2000円くらいの定価で売られているのだが、聞くところによると印刷された本の70~80%が返本になり廃却されてしまっていると言う。
   時々、立派な学術書などが神保町の古書店で30%くらいの価格で平積みで売られている時があるが、この場合は、まだ日の目を見ているので幸である。
   とにかく、私の専門の経済や経営の本でも、粗製濫造で値打ちのない本も出版されているとは思うが、古書とは言え、ブックオフでちり紙交換程度のそんな安値で買い叩かれているとなると、いずれにしても、日本の経済学者や経営学者にあまりにも失礼であると思った。
   ところが、今後、電子ブックが一般的になると、今の音楽ソースと同じように知的所有権だとか著作権だとか言ってみても、結局最終的には、無料かそれに近い値段でダビングされてしまうのが落ちであろう。
   早い話、大前研一氏が新聞は取っていないと言っていたが、ニュースが早くて便利な電子新聞で十分であり、そんな家庭が多くなって新聞社が困っている。ペーパーレスの時代に入っているのである。

   ところで、先日からブログに書いているアルビン・トフラーの「富の未来 Revolutinary Wealth」であるが、
アメリカのアマゾンで買うと、定価$27.95が、割引価格で$17.61であり、バーンズ・アンド・ノーブルで買うと、割引価格が$22.36、
日本のアマゾンで同じ原書を買うと、$27.95だが、2850円で405円(15%)引きで買える、
日本語翻訳版だと、上下2冊で3990円。

   アメリカの場合には、ブッククラブがあって、いずれにしても、定価は定価として、総て新本は、大幅なディスカウント価格で売られている。
   売れなければ、更にディスカウントされてたたき売られる。
   要するに、本は一物一価の固定価格ではないのである。
   再販制度維持派の人々は、再販制度を止めると良い本が出版出来なくなると言うが、さて、アメリカの方が良い本を出していることは間違いないと思うのだが。

   アメリカ型になるのかどうかは別として、IT化、コンバージョン化で本も変ってしまい、今のような古本屋紛いのブックオフもなくなってしまう、そんな気がしている。


   

   

   
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米中関係のっぴきならぬ緊迫状態・・・日高義樹講演

2006年06月17日 | 政治・経済・社会
   現在、中国に対する軍事力強化の為に、グアムで冷戦終了以降最大の米軍演習が行われており、その取材の合間をぬって帰って来たのだと言って、日高義樹氏が時事通信ホールで「米中対決始まる・・・これからのアメリカ経済の見通し」と言う演題で、非常に面白い講演を行った。

   結論は、米中関係は極めてのっぴきならぬ状態に入っていると言うことと、アメリカの好況は今後も持続すると言うことであった。

   四月の中国胡錦濤主席をサンドイッチ一個で遇しながら、退任して消えて行く小泉首相を国賓として迎え入れホワイト・ハウスのイースト・ルームで大晩餐会を催すのは、偏に、次の首相が対中強硬政策を継続してくれることを願うからだと言う。
   したがって、今度の日本の首相は、クリントン政権のような中国融和政策など打つような人では断じて困ると言うメッセージなのである。

   アメリカの対中国への世界戦略は、孤立させて大きくさせない、好き勝手なまねは絶対にさせない、と言うことだと言う。
   日高説だと、中国を悪い奴だと弾じるのは、①フェアーではない。②オープンではない。③世界のことを考えずに自己のことしか考えない、からである。
   中国包囲網の要は、インドとロシアとの米中関係で、中国と対立関係にあるインドに原子力発電等のハイテク技術を供与するのも、対中国との紛争を予期して軍事強化を図り始めたプーチン政権への強力な肩入れもその現われである。
   多少、ユーロ建て取引や中国への接近で、アメリカに嫌がらせを始めたサウジ・アラビアとの関係強化も重要だと言う。

   胡主席は、訪米時に、台湾占領の為に軍事強化しているのだと釈明したようだが、その後、アメリカは、台湾に最新鋭の戦闘機500機を含めて膨大な武器を提供するなど対等の防衛策を構築したと言う。
   日高氏の話では、胡主席が滞米中の最中に、ブッシュ大統領は、グアムの太平洋艦隊最高司令官に、中国攻撃の机上ゲームのシュミレーションを命じたと言うし、最近、冷戦後皆無であった核シェルターへの避難訓練をワシントン政府高官に命じて実施したらしい。正に、臨戦態勢である。
   胡主席が、今や中国は世界の経済大国である、アメリカと肩を並べて世界を動かしたいと思う、と言ったのが余程ブッシュの頭にきたのであろうか。

   靖国神社参拝問題について、日高氏は、アメリカの受け止め方について面白い話をした。
   その一つは、ブッシュが、中国が嫌がっているのなら、経済問題で妥協を引き出すためにも嫌がることをやれば良い、と言ったとか。
   もう一つは、胡主席が訪米時に、日本は何でもアメリカの言うことを聞くので、靖国参拝を止めてくれるよう言って欲しいと副大統領に言ったらしいが、悪い奴が止めてくれと言うのだからやれば良い、と言ったとか。

   アメリカの好景気が持続し経済には全く問題がないと言う理由は、
①科学技術立国を目指して、強力にイノベーション(この言葉を日高氏は使わなかった)を推進して経済を活性化する。
②政治力・軍事力によって勢力圏を拡大して、同時にドルを刷りまくって世界を大きくして市場を拡大する。
   日本のデフレが収束したのも、このアメリカの市場拡大の努力のお陰で、品質の高い日本の製品が売れない訳がないからだと言う。

   特に日高氏が強調したのは、通信放送法の改正によるコンバージョン技術の開発・革新で、デジタルからコンバージョンへの移行が、IT革命と呼応して、情報通信のみならず経済社会全体に大変な革新を齎らすと言う。例えば、TV局が消えてしまうと言うのである。
   ビル・ゲイツの退任は、IT技術の一時代が終わったことを見越しての行動だと言う。

   日高氏が面白いことを言ったのは、ドルがコモディティ化してしまって、この価格を決めるのは市場ではなく情報を持った人間だと言うことである。
  ブッシュ政権の、科学技術で経済成長を持続させてドルを刷り続けると言う拡大一方の経済政策は、当分、継続するので強気で臨んで良く、市場は買いである。
   石油、ドル、土地は、どんどん上がる、と言うご宣託だが、信じて良いのかどうか。
   大体、そんな政策と理論だけで経済成長が持続するのなら世話はないのだが、やはり、一番イノベイティブで科学技術の最先端を行き、経済には攻撃的で活力のあるのはアメリカ経済社会であることには異存はないので、そう願いたいが、何時まで持つのであろうか。
   ブッシュ政権の経済政策は、富裕層志向なので民主派からの反発はきつく、ジャーナリズムもハーバードも、知識層も反対しているが、何らかの貧困層等福祉厚生政策は必要なものの、ここ当分は問題にはならないと日高氏は言うが、これもアメリカ経済社会にとっては避けて通れない極めて重要な問題であるので暢気な事は言っておれない。

   日高氏の予言では、次の大統領選挙では、ヒラリー・クリントンは、200票位は取れるが、当選の277票は取れないので、ブッシュ色の強い後継大統領が生まれると言う。

   ジョセフ・ナイ教授のリベラルな中国融和政策とは違ったブッシュ政権の中国政策を聞いた感じだが、ハドソン研究所の中枢にいる日高氏の最新情報だから、ある意味ではアメリカの対外政策の真実を伝えているのであろうと思って聞いていた。
   とにかく、タカ派のブッシュ政権べったりだが、いつ聞いても日高氏の講演はパンチが聞いていて面白い。

   

   

   
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「第三の波」で貧困から脱却・・・アルビン・トフラー

2006年06月16日 | 政治・経済・社会
   革命的な富によって貧困の将来が変る。
   第三の波の知識経済が実現すれば、世界の貧困を一掃する絶好の機会になると、アルビン・トフラーは、「富の未来」で、極めて楽観的な貧困解消論を展開している。

   世銀情報によると、今でも人口の約半数28億人が1日あたり2ドル以下で、その内11億人が1日あたり1ドルにも満たない極端な貧困に苦しんでいる。
   しかし、貧困撲滅に使える強力な手段があること、少なくとも間もなく開発されようとしていることを認識するのは、夢想的ではないと言うのである。

   第三の波の知識に基づく農業であれば、生産出来る量には事実上全く限度がないので、この戦略を用いて、いま貧困に苦しむ農村地帯を先進的で生産性の高い事業の集積地に変えて行くことを目指す。
   痩せ衰えて年齢以上に老けた両親の肉体労働に頼るのではなく、教育を施された子供の頭脳に頼る地域に変えて行くのである。

   トフラーは、遺伝子組み換え食品の安全を高め、交差汚染を防止するよう求める運動は正しいし、社会的に有効だとして、環境面で安全な遺伝子組み換え食品などのバイオ製品を使用し、この分野で起ころうとしている技術革新を活用して世界の貧困を根絶しようと提言する。

   また、バイオ技術によって、薬効を持った食品が出て来ているので、貧しい国に蔓延している病気の予防と治療に役立つ食品も増える。
   21世紀に入ってから、アメリカ農業は葉や茎など植物性の廃棄物を利用して、化学品、潤滑油、樹脂、接着剤等の原料や燃料を生み出しており、農村地帯にバイオ精製所を作れば、農業のみならず地域の産業の振興に役立つ。
   携帯型のGPS通信機により、気象や環境情報を受信して農業をカスタム化することも可能であるし、パソコンとインターネットを駆使して、農産物の価格情報や農作業等必要な情報をキャッチし、また、購買や販売システムの整備等にも活用できる。

   知識と情報とデータが富の創出にますます密接に関連する第三の波の時代には、農民もこれから無縁ではなく、かって鋤や鍬が不可欠であったように、インターネット、携帯電話、TV電話、携帯モニターとこれ等の後継技術は、将来の農業には必須である。
   パソコンが100ドル近辺まで下がった今日、IT技術へのアプローチは、現に貧しい中国やインドの田舎でも急速に進展しており、決して夢の話ではなく、子供たちを教育すれば実現可能である。
   地方を活性化すれば、貧民の都市への流入を阻止出来、都市問題の解決のもなる、とトフラーは言うのである。

   もう、何十年も前に、ケネディにインド大使として派遣されたガルブレイスが、インドの人々に、「教育に力を入れなさい。教育を受ければ鋤鍬を持つことが大切だと悟り、裸足で走ることが恥ずかしいだと分かる筈。」と言ったと語っていた。
   今、BRICS'sだと言って、中国やインドの経済が脚光を浴びているが、トフラーから見れば、中国もインドも、まだ、貧困問題を解決出来ない貧しい国なのである。

   ところで、ビル・ゲイツに、
   「現実的になろう。情報技術と通信技術によって世界の貧困問題に『正面攻撃』をくわえられることを示す事実はほとんどない」と言われて、余程頭にきたのであろう、鋭い口調で論難している。
   もっとも、トフラーが言うほど、第三の波の科学技術や知識情報が、信頼できて有望なものなのかは、大いに疑問のあるところでもある。
   
   この「富の未来」において、トフラーは、資産とか富を、有形と無形に峻別して、これまで人々は有形資産を重視して来たが、第三の波の時代には、知識・情報等無形の資産の比重が高くなりその価値が増し、その上、有形資産は有限だが無形資産が無限で益々増殖して行く、と言う考え方を強力に展開している。
   馬を盗むのもパソコンで音楽を盗むのも同じだと人々は考えているが全く違う、知識とか情報は盗まれるのがあたり前である、として知的財産保護に疑問を呈しているあたりは面白いし、ITやイノベーションを経済のみならず社会的歴史的な長期的な視点から見ているあたりも、やはり、未来志向の社会学者の面目躍如で興味深い。
   

   
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生産消費者の経済・・・アルビン・トフラー

2006年06月15日 | 政治・経済・社会
   アルビン・トフラーの「富の未来」で、重要な概念の一つは、生産消費者の経済である。
   GNPやGDPで代表される国民所得概念に含まれない外部の経済なのだが、アングラ経済とかヤミ経済と言ったものではないし、最近、公害等不経済を勘案した幸せ指数を考慮した経済概念とも違う。
   簡単に言えば、国民所得統計には集計されないが、一般消費者がその生活や営みを通じて生み出すその他の富を、生産消費者の経済的貢献と見るのである。

   「生産消費者」とは、販売や交換の為ではなく、自分で使う為か自分の満足を得る為に、財やサービスを作り出す人を言うのであり、早い話が、家庭の主婦の働きやサービスを考えると一番分かりやすい。
   主婦は、家政を通じて子育てや、食事の支度、病人の世話等を行っているが、同じ仕事を、学校、レストラン、病院が行えば、金銭が伴い経済活動になるが、主婦の場合の働きは、国民所得統計には勘定に入らないし、経済活動としては完全に無視されている。
   しかし、トフラーの概念では、これは、立派な生産消費者としての富の創出であり、同じ価値のある立派な生産でありサービスなのである。

   この巨大な「隠れた経済」、すなわち、非金銭の生産消費者経済を考慮に入れなければ、経済の実態のみならず、富の未来を理解できない。
   実際的にも、家計は市場の制度と変らないほど国民経済に貢献しており、物質的な生活水準は、この家庭の寄与がなければ半減する。
   生産消費を無視した「極度偏向生産統計」を基に、エコノミストは経済予測を行うので、何時もいい加減な予測をして殆ど間違うのだ、と言うのである。

   トフラーは、真っ先に健康の生産消費者に言及し、医学知識の普及や医療設備の拡充、医療機器の充実等によって患者が自分自身で手当てや治療を行うなど、最早、患者はタダの消費者ではなく生産消費者として医療サービスの肩代わりを始めていると言う。 
   この論理に従えば、医療関係者と同じように、一般人、すなわち、医療生産消費者の能力を高める為に医療に対する知識を学校で教育訓練すれば、、全般的に医療費を節減できるであろう。 

   銀行のATMなどは、有給の従業員の仕事を、この生産消費者を上手く使って自分で仕事をさせて、業務を「外部化」して経費節減している。お好み焼屋「道頓堀」は料理の総てを客にやらせている、と芸の細かい指摘までする。
   スーパーマーケットのセルフ・レジ、アマゾン・コムetc. 厚顔無恥の最たるものは税務当局で、複雑な簿記や計算の総ての責任を納税者に負わせて、納税者を無給で奉仕させていると言うのである。 
 
   余談だが、このトフラーの言う生産消費者を無給で活用して労働を外部化する業務の合理化策は、案外企業にとって有効な経営戦術である。
   また、主婦の仕事や料理が商売に発展することもあり、生産と生産消費は、時にはインターチェンジャブルであり、線を引くのは間違いかも知れない。

   生産消費者の最たるものは、やはり、ボランティア活動であろう。
   これに、NPO、NGOなどが絡んでくると、生産と生産消費の境界が分かりにくくなってくる。
   他に、トフラーは、電子商取引、DIY,リナックス、ナップスター、等をあげて生産消費者の経済を展開しているが、IT革命の影響は大きい。
   私自身、デジカメ以降、写真の加工は一切自分でやっているが、これも、典型的な生産消費であろう。

   経済的には、有給の仕事と無給の仕事、金銭経済と非金銭経済等々色々区分けされている。
   しかし、国民経済統計に参入される生産者が生み出す財とサービス、そして、トフラーの言う計算に入らない生産消費者の生み出す財とサービスの夫々の価値の区別は、あくまで定義上の虚構であって、同等の価値を生み出していながら全く違う扱いをされている。
   目に見える経済と目に見えない経済と言う二つの経済の全体を合わせて見ないと、「富を生み出す体制」が見えて来ない、とトフラーは言うのである。

   何十年も前に、サミュエルソンが「エコノミックス」に、前述した家庭の主婦の働きについて、国民所得統計の扱いの差について書き問題点を指摘しいたのを、良く覚えている。
   先日経済討論会の感想ブログでも書いたが、需要サイドのみから表の金銭経済のみを扱った国民所得統計を基に経済論議をすることには、非常に無理があり、時には大きく経済政策を誤ることがある。
   トフラーの指摘は極めて貴重で、その理論をアマルティア・センも進めているようなので、積読のセンの本を取り出して少し勉強しようと思っている。
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経済と社会制度の発展の乖離・・・アルビン・トフラー

2006年06月14日 | 政治・経済・社会
   アルビン・トフラーが、久しぶりに素晴らしい本を出した。
  「富の未来 REVOLUTINARRY WEALTH」で、目に見える富と見えない富、急速に近づいてくる未来に生活や企業、世界のあり方を根底から変える革命的な形態の、未来の富について書いた本で、博学多識のトフラーの現代文明論が炸裂していて実に面白い。

   「フューチャー・ショック」と言う衝撃的な本で一世を風靡していたトフラーが、1980年に「第3の波 THE THIRD WAVE」と言う知識情報化産業社会の到来を高らかに歌い上げた本を書いて、またまた、世界を唸らせた。
   社会学者ダニエル・ベルの「脱工業化社会 THE POST-INDUSTORIAL SOCIETY」の理論を、もっと具体的に分かり易く書いた本で、未来学者としての面目躍如であった。
   待ち遠しくて、アメリカへ出張した同僚に頼んで買ってきてもらって貪り読んだのを覚えているが、俗に言われている脱工業化社会とか後工業社会とか知価社会とか情報産業化社会とか言われている現在の経済社会の発展段階を説明する用語の走りが、このトフラーの第3の波であり、ベルのポスト・インダストリアル社会なのである。

   この「富の未来」についてはこれをテーマにして、当分、ブログを書けそうだが、今回は、経済がどんどん進化して行くのに政治や社会システムがその動きについて行けずに危機的な状態にあるとして語っている「非同時化効果」について書いてみたい。

   先進国において、経済発展の速度が上がっているのに、社会の主要な制度が時代遅れになるのを放置しておくと、富を生み出す能力が低下する。
   封建的な制度が工業化の進展を妨げたように、今では、工業時代の官僚組織が、知識に基づいて富を生み出す先進的制度への動きを遅らせている、と言うのである。  

   トフラーは、速い車と遅い車に例えて各部門の発展速度を分析してこの理論を検証している。因みに、
   時速100キロ・・・企業
   時速90キロ・・・社会団体
   時速60キロ・・・アメリカの家族
   時速30キロ・・・労働組合
   時速25キロ・・・政府の官僚機構と規制機関
   時速10キロ・・・公教育制度
   時速5キロ・・・世界的な統治機関(IMF,WTO etc)
   時速3キロ・・・国の政治構造
   時速1キロ・・・法律
   これは、アメリカ社会の例であるが、何となく理解できるし、日本の社会にも当て嵌まる様な気がする。

   さて、急速な進歩と変化を遂げているのが企業だと言うことであるが、今日の日経で面白い記事が載っていた。
   GMのワゴナー会長が、トヨタに負けたことを認めた記事と、大手4社のゼネコンが談合を止めて叩き合いの競争に入ったので落札価格が20%以上も予定価格よりダウンして公費が助かったと言う記事である。
   国際競争の真っ只中で鎬を削って経営革新に邁進し先端技術を追求している輸出産業と、国際競争の波をモロに受けずに内需に胡坐をかいて時代に呼応したコーポレートガバナンスさえ満足に整備出来ない建設業との差なのであろうが、進歩の早いとトフラーが言う企業にもいろいろあると言うことである。
   
 
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