熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

ペルシャ文明展・・・アケメネス朝の黄金

2006年08月31日 | 展覧会・展示会
   現在、上野の都美術館で、古代ペルシャから、正倉院の御物につながるササン朝ペルシャに到るまでのペルシャ美術の逸品が一堂に会して展示されている。
   メソポタミアやヘレニズムの影響を濃厚に受けながら、独自の高度な文明を受けて発展してきた非常に密度の高い作品や遺物ばかりで、東西交渉史を髣髴とさせてくれ、平日の比較的入場者の少ない午後の展覧を楽しんだ、

   何度か機会があったが、残念ながら、トルコとサウジアラビア、アラブ首長国連邦以外は、中東に行っていないので、本格的なメソポタミアやペルシャの遺跡や文化遺産に接する機会はまだ持っていない。
   ダレイオス一世は、当時黄金期の頂点にあったギリシャに軍隊を派遣してペルシャ戦争を引き起こして東西対決を図ったが結局勝てずに、その後、逆にアレクサンドロス大王の東征を誘引して滅ぼされてしまった。
   同時にその壮大な都ペルセポリスも廃墟に帰してしまって現在大規模な遺跡が残っているのだが、いつの日にか、このミヤコを是非訪れて見たいと思っている。

   しかし、ペルシャの文明品や文化遺産は、ルーブルや大英博物館、メトロポリタン博物館など欧米で断片的には見ているので、今回は一度に体系付けて見られたので嬉しく、一つ一つ解説を読みながら丹念に見て回った。

   余談ながら、10年以上前だが、この上野の森にイラン人が沢山屯して偽造テレホンカード等を売っていたのを思い出した。
   同じ皇帝の国だと言うので入国ヴィザを免除していたからだが、やはり、ペルシャの印象は、シルクロードを経て日本に異国の香りを運んできた飛鳥・奈良時代であろうか、今回も展示されていたが、正倉院の御物との接点を感じさせてくれる作品である。
 
   この都美術館は、三階まで展示場が続いていて、前五千年紀頃の新石器時代の彩文土器やその後の精巧な動物型土器や石器、銀器等から、アケメネス時代の煌びやかな金銀器、彫像、コイン、印章、首飾り等の装飾品、正倉院の御物に似た円形切子ガラス碗などまで、多くのペルシャの文化文明遺産が展示されている。
   色々な器や装飾品等のモチーフとして、ライオンやヤギ、牛、鳥など動物文様や絵が描かれているのが面白かった。

   やはり、この文明展での圧巻は、アケメネス朝の黄金の作品群であろうか。
   まず、この口絵の「有翼ライオンの黄金のリュトン」であるが、高さ30センチ位の黄金の角杯で、ペルシャ王がワインでも飲んでいたのであろうか、とにかく、素晴らしい逸品である。
   有翼ライオンの上半身がリュトンを支えている杯で、目の下に表現された涙型の皺がアケメネス朝のライオンのトレードマークだとかで、芸が細かい装飾が施されている。
   リュトンの上部の口の部分には、東地中海の影響の睡蓮文様が帯状に彫り込まれていて実に優雅である。

   他に、牝ライオンを3頭壁面に浮き彫りにして飛び出た頭部を貼り付けた精巧な杯や、くびれ部分に楔形文字を打ち込み菊花状の花弁文様を浮き彫りにした優雅な杯など目を見張らせる。
   柄の頭部を二頭のライオン、鍔を野性山羊で装飾した黄金の短剣、盗掘されたが治安維持軍が回収した「洞窟遺宝」の黄金のマスク2面等々、黄金製品の匠の技は流石に素晴らしい。

   ペルセポリスの壁画の断片などは他のメソポタミア遺跡のものに近いと思ったが、精巧な土器は、写実的なギリシャの土器の印象とは違ってデフォルメされたコブ牛等今でも通用するモダンなデザインであった。
   しかし、ササン朝の王の彫像などは、色濃くヘレニズムの影響を受けているなど、文明の十字路として多くの文化文明が行き交ったペルシャの歴史を髣髴とさせてくれていて、その流れが面白かった。
   
   そんな偉大な文化文明を継承して来たイランが、今揺れている。
   
   
   
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会社は誰のために・・・御手洗・丹羽対話(4)

2006年08月30日 | 経営・ビジネス
   第二章以降に論じられているが、キヤノンのグローバル戦略やその展開について、「真のグローバル・エクセレントカンパニー」というビジョンに基づく「グローバル優良企業構想」を材題にして、御手洗経営の国際ビジネス論を考えてみたい。

   キヤノンは5年毎の経営計画を実施していて、フェーズⅠが、「利益優先主義」と「全体最適」の考えを徹底させた「事業の集中と選択」、
フェーズⅡは、「主力製品を世界ナンバーワンにする」ことを目標にした事業の強化、
フェーズⅢが、2006年から始まった「健全な成長」を旗印にイノベーションを促進して「真のグローバル・エクセレントカンパニー」への道だと言う。

   日本企業が安い労務賃を求めて流浪する「焼畑農業経営」から脱却して定住化するためには、高付加価値の製品を作ることと、製造過程を無人化、オートメーション化して装置産業に変える等高度な生産技術を用いて労務賃を抑えることが必須だと御手洗会長は言う。
   キヤノンの先端技術研究所では、バイオテクノロジーやナノテクノロジーなどの先端技術の研究も行っており、より高度な技術開発に努めており、イノベーションに軸足を移した正にグローバル優良企業への戦略を果敢に推進中なのである。

   このグローバル構想を実現するためには、海外での拠点づくりが必須で、日米欧の夫々のキヤノンが技術の研究開発機能を持って新しい価値を生み出して行く三極体制を確立するのだと言う。
   この日欧米の三極が競い合って、よりグローバルな経営を目指す方針である。
   為替変動に対抗できる強力な経営体質を培うのも狙いだと言う。

   ここで大切なのは、経営とは「ローカルなもの」だと言う御手洗会長の信念である。
   夫々の国には「お国柄」と言われる夫々の特性があって、文化的、習慣的な部分はローカルであり、どんなにグローバルに展開する企業でも、その根幹にあるのはローカルだと言うのである。
   しかし、会社の方針、戦略は、一つのグループ会社として統一しなければならないので、思想の総本山は本社に置く。
   キヤノンの企業理念は、「共生」なので、文化や習慣、言語や民族の違いは問わず、すべての人が共に生き、共に働いて幸せに暮らしていける社会を目指す。この理念やコンプライアンス、キヤノンの社員としてあるべき姿、等々こうした思想をしっかり統一して徹底させてこそ、グローバル企業たり得るのだと言うのである。

   グローバリゼーションと叫ばれて、海外との事業が活発に行われていているように思うが、日本の製造業が、生産拠点を海外にシフトしたのは、比較的最近のことで、研究や開発部門が海外に出て、海外、特に欧米で開発生産された製品が里帰りする例は、今でも可也少ない。
   したがって、研究開発から製品製造、販売まで三拍子揃ってグローバル化している日本の優良企業はそれ程多くはないのであり、まして、経営の実態がグローバル化しているケースは更に少ない。
   御手洗会長のグローバル優良企業構想も非常にユニークで素晴らしいが、思想の総本山を日本に置くとしても、現在、ローカルでの事業においてローカルの人材がどれだけ経営に参画しているのか分からないけれど、次の段階として、如何に経営をグローバル化して行くのか、という問題に直面するような気がしている。
   
   話は飛ぶが、御手洗社長は、強いアメリカを指向した基礎科学技術の研究強化や国家プロジェクトの推進など米国の産官学三位一体の国家戦略に危機意識を感じていて、今後の日本経済の発展のためには、日本も産官学一体となって協調体制をとり、モノづくりのイノベーションによって高付加価値産業にシフトして、新しい市場を拡大する以外に道はないと言う。
   キヤノンはこの道を地で行っているのだが、次の新しい内閣で、如何に斬新な科学技術振興政策を打てるのか。大学の独立法人化にも問題が山積しているようで中々科学技術、特に基礎科学、の振興もままならず、膨大な予算を教育、科学技術関連に支出して産業経済の活性化を図っても、税収の拡大でリターンがあるのはずっと先の話。
   しかし、十分な国立基礎科学研究所もなく、国立大学やNTTなど基礎研究を続けていた機関を弱体化させ、経営危機に陥った民間企業の多くの研究所は活動を縮小・停止し、とにかく、科学技術振興に対しては極めて厳しい逆風が吹いている日本。このままではジリ貧である。
   アメリカのように産軍複合体の軍がない分、産官学複合体の活動を活発化して、科学技術最先進国を目指すべきであろう。

   暴論を覚悟で言えば、国交省や道路公団の無駄な公共工事が槍玉に上がったているが、バブル時代に、私的満足のためかどうかはべつにして、潤沢な予算に任せて多くの技官達が必要以上に高度な技術を追求したオーバースペックのプロジェクトを推進して金を注ぎ込んで来た結果、日本の土木工業技術の高さが維持されて来たと言う一面もあることは否めないと思う。
   歴史上、高度な文化文明が花開いたのも、絶大な権力者が天下を治めていた時代であったことも偶然ではないし、とにかく、高度な卓越した科学技術を生み出すためにも、膨大な国家予算の集積と投入が必須であることには間違いがなかろう。
   現実の日本が、戦略を打つべき政治家や重要な国家官僚機構等の中枢が、科学技術オンチの文系で支配されている以上、危機意識がないのも仕方がないのかも知れない。

   しかし、シュンペーターに戻るまでもなく、国家の発展も企業の発展も、イノベーションなしにはなし得ないことを、肝に銘じておくべきである。
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会社は誰のために・・・御手洗・丹羽対話(3)

2006年08月29日 | 経営・ビジネス
   第二章の「組織はどうあるべきか」では、御手洗会長は、和魂洋才・ハイブリッド型キヤノン経営の日本型経営の部分、即ち、和魂の重視・継承について語っていて、一連の商法改正や会社法成立で打ち立てられたアメリカ型のコーポレート・ガバナンスに対して疑問を呈している。
   今回は、終身雇用制重視経営の側面等は後回しにして、委員会設置会社、社外取締役制度等に対する疑問や監査役制度の維持、コーポレート・ガバナンス強化のためのキヤノンの対応など経営の組織面について考えたいと思っている。
   90年代後半から、加速的にアメリカ型の会社制度に倣うべく、商法改正が立て続けに実施されて、エンロンやワールドコムの不祥事等で疑問視されながらもこの傾向が継続され、結局今日の会社法に到ったのであるが、この一連のアメリカ追随型の法制度についての反対私見は後述したい。

   御手洗会長は、「委員会設置会社制度」は社外の人間が執行部の動向をチェックする仕組みで、理論として分かるし悪いとも思わないが、キヤノンとしては社外取締役の必要性を感じたことは一度もないと言う。
   第一、社外取締役がチェックすると言っても、キヤノンの歴史、伝統、社風、詳しい業務内容、そして将来のあるべき姿等の理解が困難であるから、有益な意見を求めることも難しいし、執行をチェックするなど形式だけに終始する可能性が大きいと、自身の米国での社外取締役として当該会社の理解に四苦八苦した経験を語りながら、その無用性を論証している。

   わざわざ知らない人を社外から招聘して、四半期に一度しか会社に来ないのに、それだけでキヤノンが今以上に発展するかと言うと、とてもそうは思えないと言っており、別なところで、そんな無用な役員枠なら頑張っているキヤノン社員に回してやりたいとも言っていた。
   昨日今日来たばかりの社外取締役など無用だ、と日本経済界のトップが言うのだから実に重みがある。

   会社経営については、毎日出勤している常勤監査役の独立性を確立することで、チェック機能を強化すればいいだけの話だし、常勤監査役の他に社外監査役もいる。
   経営会議の下に「内部統制委員会」を設けて、財務報告の信頼性やコンプライアンスの確立に努めており、「経営監査室」と言う社長直轄部門でも内部監査を行っている。
   このように、アメリカ型を取り入れなくても、従来の仕組みを強化することで十分にチェック機能を果たし得ると言うのである。

   ところで、キヤノンの場合、他にも、「経営戦略委員会」と言う事業部を横断的に貫く「横の組織」があって、横断的かつ全社的なテーマを掲げて、夫々の専門委員会で改革して行く。
   また、毎日朝8時から1時間ほど、社長室のそばの応接室に役員が三々五々集まって来て「朝会」が開かれていて、雑談が始まるのだと言う、毎日役員会を開いているようなもので、スピード経営の実を挙げていて、キヤノンには稟議書などないのだと言う。

   これだけでは、キヤノンの詳細は分からないが、しかし、グローバルな経営テクニックや手法を活用しながら日本の会社経営システムの良さを継承したハイブリッド経営の素晴らしさを垣間見るようであり、新しい日本企業のコーポレートガバナンスの一つの在り方を示唆しており、アベグレンの新・日本の経営での問題提起に対しても十分な回答になろう。

   ところで、私自身は、めまぐるしい商法改正の渦の中で、職務上、一所懸命に日本のコーポレートガバナンスのあり方を勉強していたので、この問題については非常に興味深いのだが、アメリカで経営学を学び、その後、ヨーロッパで事業に関わって来た関係もあって、欧米のシステムを多少知っており、アメリカ型の会社法制度への急速な移行については基本的には反対であった。
   これについては後刻論じることとして、ここでは詳細を避けるが、アメリカ型よりはヨーロッパ型を変形した日本独自の展開をすべきだと思っている。

   さて、何故、日本の会社法制がアメリカ型に走りすぎてしまったのか、
   英国の日本学の権威とも言うべきロナルド・ドーアの岩波新書新刊「誰のための会社にするか」での見解をそのまま、記して置くこととする。
   「失われた10年」による国民的自信の喪失、そうしてその半面にあった元気なアメリカをモデルと仰ぐ傾向が、日本におけるコーポレートガバナンス改変の動きの根本的な原動力であった。
   1970年代、1980年代に官庁や大企業の若手従業員が、アメリカに派遣留学して、MBAやPh.Dを取ってアメリカ流の社会科学を丸呑みにして帰ってきた。こういった人たちは、生粋の新古典派経済学者、アメリカ流所有権絶対主義の法学者になった。コーポレートガバナンスに関する1990年代、2000年代の法改正は、そう言う人達によって推進されたのである。」

   ドーア教授は、「改革熱」に燃える官僚および「審議会学者」にしてやられたと言うのだが、本当の経営と経済が分からない人達によって構築される会社法体系や会社法制が如何に危機的な要素を内包するのかを言いたかったのであろうと思う。 
 
   もう一つドーアが指摘しているのは、日本買いに狂奔した外資系投資家の圧力である。在日アメリカ商工会議所や米国大使館商務部等が自民党に接触して強力に折衝したり、外資系機関投資家の襲来が圧力となって、日本人のグローバルスタンダードにキャッチアップし遅れまいとする恐怖心理に火を点けたのだと言う。

   しかし、ふたを開ければ、委員会設置会社のアメリカ型を導入したのは、日立などの系列固めを図ったグループ会社やソニー、東芝等米国市場に上場の東京系の大会社、HOYAやオリックス等特殊な会社だけで総計100社以下であり、少し前の日経だが、導入会社の方が業績が悪かったと報じていた。
   大山鳴動して鼠一匹、である。
   その後、成立した会社法は、ドーア氏の見解によると、経営者の選択肢を広げる措置に比べると、会社に負担をかけ、会社を規制するような措置はずっと少なくなった。土壇場となると、経営者の利益を代表する経団連の方が、より影響力が大きかったところに原因があると言うのであるがどうであろうか。

   それに、後追いにしても、傍目八目、日本人より外人のドーア博士の方が目が見えているのが一寸切ない。
   
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会社は誰のために・・・御手洗・丹羽対話(2)

2006年08月28日 | 経営・ビジネス
   第一章の「改革力を身につける」は、御手洗社長時代のキヤノンの経営改革が語られ、それに呼応して丹羽会長が伊藤忠の改革力を語る。

   御手洗会長は、社長就任時に、グローバリゼーション下の世界の潮流とキヤノンの経営との乖離、即ち、激烈な国際競争下にある「公平・公正な世界」に身を置くことなく、平等主義と官僚優先の日本の経済社会に安住しているキヤノンの現状を知って、ダイナミックな世界の動きに応じて発展して行くためには、グローバリゼーションの波に乗り、フェアな競争を闘い抜ける強い体質に早急に改革する必要を感じた。

   北米での薄利多売の事業に対して、米国税務官に、売掛金を回収してそれを銀行に預けて事務所を畳んで帰った方がマシだと揶揄されて、会社にとって必要なのは「利益」であることを悟り、これが、御手洗経営の「利益優先主義」の原点になったと言う。
   長期的な研究開発を遂行するためには十分な自己資本の確保は急務であり、この利益優先は必須であると同時に、PLからBS重視、そして、キャッシュフロー経営重視に会社経営戦略を大きく切り替えた。
   これは、アメリカで培った経営哲学の実践であるが、他の日本企業より、その実践は数段早く、今日の先手必勝のキヤノンの好業績を支えている。
   御手洗会長の在米当時の日本企業は、売上至上主義で売り上げ競争に狂奔し、海外事業などは売上に貢献しておればOKとされて、赤字でも許されていて謂わばアクセサリーのような存在であった。
   まだ、日本企業の海外生産拠点が殆どなかった頃で、販売拠点が海外にあって、海外でモノを売っておれば国際化していると考えられていた頃のことである。

   次の御手洗経営の真髄は、「部分最適」ではなく「全体最適」を目指した経営である。
   あのキヤノンでさえも、日本本社が海外の販売会社に商品を押し付けたり、事業部間の軋轢があるなど部門間の不協和音が業績の足を引っ張っていたようで、「連結評価制度」を導入することによってこの弊害を除去し、全体最適の考え方を徹底させて、事業部間の壁をなくし、一つの会社として無駄をなくそうと考えたのだと言う。
   この方針を真似て、松下電工を子会社にまでした中村革命の全体最適戦略は、松下をソニー以上にイノベイティブな企業に変身させた。
   
   この「利益優先主義」と「全体最適」が御手洗経営哲学の核だが、更に、果敢に挑戦したのは、不採算部門の整理で、反対を押し切ってパソコン事業を切り捨てた。
   伝統的に独自技術の開発にこだわる風土を持ち、その独自技術で新しい製品を生み出し、また新事業を開拓して行くのがキヤノン流だが、儲からない事業に命を賭けては困るのだと言う。ジャック・ウエルチ流の集中と選択戦略の踏襲であり、多くの家電・電機メーカーが総花的な事業展開で危機に瀕したのとは好対照である。

   さて、ブロードバンド時代の動画技術の確保は必須だとして、東芝とSEDを共同開発しているが、その将来はどうなるのであろうか。
   液晶とプラズマの世界メーカーが激烈な持続的イノベーション競争を続けており、クリステンセンの理論から言っても、既にメーカーの技術革新が需要者・消費者のニーズを超えており、更に長足の進歩が期待されている。
   果たして、破壊的イノベーションでもなさそうなSEDに、コスト競争力と市場参入の価値があるのかどうか、第二のパソコン事業にならないように祈るのみである。

   面白いのは、御手洗会長の「100年以上続いている会社の研究」で、研究の結果、「独自の技術を開発して、それを商品化して市場を創造し、発展して行く。こう言う循環になっている」ことが分かったので、キヤノンをそのようなサイクルを持った会社にしたいと言う。

   ところで、キヤノンのこのキャッシュフローやBS重視経営、連結評価制度等を包含した「利益優先主義」も「全体最適」も、アメリカのビジネス・スクールで以前から教えている経営理論であって、何ら新しい概念でも何でもない。
   しかし、御手洗会長が言うように世界潮流から乖離していた日本企業を方向転換して、このグローバル・スタンダード経営手法を導入して改革することが如何に困難で至難の業であるか、御手洗会長だから出来たと言う以外にはないと思う。
   
   さて、丹羽会長の伊藤忠改革であるが、瀕死の状態であった会社を見事に再生させた手腕は高く評価されている。
   会社と心中する積もりで果敢に実施した膨大な特別損出の処理が会社を救ったのだが、無配の苦渋に耐えながら報酬を返上して、電車での通勤を押し通した。
   給料がないのに、税金は前年度の所得に課せられるので、税金だけ払い続けたというが、この公平無私の姿勢が信頼を集めている。

   守勢一辺倒の経営姿勢は会社を潰すと言う強い信念で、川上から川中を中心としたトレード・ビジネスを、川上まで傘下に収める「縦の総合化」を図って、「利益の根源に迫る」戦略を推進した。
   ものを左右に動かせて口銭ベースで稼ぐだけではなく、他の企業との連携を図って新たな収入源を積極的に求めたと言う。

   三年連続赤字の会社は全部整理しろと檄を飛ばして大鉈を振るって多数の子会社を整理して、企業経営の健全化を図り効果をあげたと言う。

   この伊藤忠の場合も、キヤノンの場合も、企業の再生・改革は、トップ主導で行われたが、やはり、激動の乱世は、英邁な指導者が出現して大鉈を振るうことであろうか。
   
   

   
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会社は誰のために・・・御手洗・丹羽対話(1)

2006年08月27日 | 経営・ビジネス
   今、御手洗冨士夫経団連会長と丹羽宇一郎伊藤忠会長の意見交換対談集「会社は誰のために」が話題になっている。
   文藝春秋社の努力で対談が実現したようであるが、日頃から日本の経営や政治経済等カレント・トピックスについて真摯でストレートな持論を展開されているオピニオン・リーダーであり論客のお二人の対話であるから、実に中身の濃い示唆に富んだ素晴らしい本となっている。
   私自身、お二人の著書を読んだり何度か講演を聴講しているので、改めて総合しながら問題意識を整理するつもりで読ませてもらった。

   第一章から第四章までは、「改革力を身につける」「組織はどうあるべきか」「要は「人づくり」にある」「トップのあるべき姿とは」の4つのセクションに分かれて会社の話で、まず、御手洗会長から問題提起があってそれに丹羽会長がレスポンスしながら話を展開してゆく形になっている。
   最後の第五章「日本の行く末を考える」は、タイトル倒れで消化不良であり、新しい本を期待したい。
   日頃のお二人の著書や発言を総合すれば、ほぼ話の根幹は予想されるが、お互いに啓発されながら新しく展開されている考え方が飛び出しているなど実に興味深い。
   
   この本の冒頭「はじめに」の部分で、普通は一方のどちらかが書く場合が多いのだが、この本は連名で書かれており、非常に興味深い文章が書かれていて、まず、これから示唆に富んでいる。

   本書で第一に言いたいことは、「サラリーマンよ、元気を出せ」と言うことだと言って、人間の能力にはそれ程差がないのだが、社会に出て差がついたり偉くなったりならなかったりするのは、最後まで努力を重ねられるかどうか、努力を継続していく情熱と執着心を持ち続けられるかどうか、にあると言う。
   サッカーのワールドカップ戦を見ていて、勝敗を決するのは、一定の技術があれば、飽くなき努力と執着心である、とつくづく感じたと言うのである。
   「最後までボールに食らいついてゆく執着心がなければ、得点につながる渾身の一蹴りは生まれません。たとえ相手に点をとられても「Never give up」の激しい闘争心がなければ、逆転のチャンスをモノにすることは出来ないのです。」 
   この思いは、日本のファンすべての思いだったと思う。
   そして、現在の敵前逃亡に近い阪神の戦いを見ているファンの気持ちも、全く同じだろうと思う。

   日本は今、将来のあるべき姿、目標を失っている。
   中国もアメリカも、明確な国家目標を掲げて国民の奮起を促し、かってないほど教育の充実と人材育成に力を注ぐ政策が採られている。
   これからの時代は、人材こそが国際競争力と経済力のエンジンとなる。
   ところが、日本では、国の資産が「人と技術」しかないのに、科学・工学技術者の育成や、技術開発の基盤となる中小企業育成に対して十分な策が採られていない。と言って日本の国際競争力の将来について疑問を呈する。

   かえす刀で、国家のみならず、サラリーマン一人一人の危機感や競争意識のなさを嘆きながら、自己の成長と企業や社会への貢献に努力を惜しまず、勝利に向かっての飽くなき情熱と執着心を持って、世界のビジネスマンに伍して競争せよと激しい檄を飛ばしている。

   ピーター・ドラッカーが著書で、日本が一番グローバリゼーションが遅れていると書いていたが、日本人の国際感覚は、相当、国際水準から乖離していると日頃から思っているので、これは至言である。
   御手洗会長も丹羽会長もアメリカでの在住経験が10年以上で、この本で展開されている経営論もその影響が色濃く出ていて興味深いが、今を時めく日本の優良企業のトップ経営者に欧米でのビジネス経験豊かで国際感覚の持ち主が多いのも偶然ではないと思っている。
   
   中国等アジア関係での国際事業は非常に活発になってきているが、長期不況のあおりを受けて、欧米、特に、ヨーロッパからの事業の撤退が続き、企業派遣の海外留学者が異常に減っているが、今や、第二の明治維新で、こんな時こそ、優秀な人材の欧米派遣が有効である。
   中国はじめ優秀なアジアの国々のみならず、世界の逸材が集合して鎬を削っている欧米のトップ大学や研究機関等に、日本人の優秀な人材を派遣して次代を担う世界のリーダー達と互角にわたり合える人材を一人でも多く作り出すことである。
     
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安倍晋三次期総理(?)と美人投票

2006年08月26日 | 政治・経済・社会
   来月、小泉首相の退陣に伴って自民党総裁選挙が行われるが、殆ど誰も、安倍長官が選ばれるであろうことを疑っていないし、日本の政治や経済社会もそれに合わせた動きをしている。
   今回の総裁選挙で、本来、安倍陣営から程遠い議員さえ安倍長官に投票する意向を示し始めて、自民党議員の70%以上が、安倍総裁に賛成していると言う。
   大勢がそうだということ、国民の予想と期待がそうだということ以外に、やはり、自民党議員の大半の、勝ち馬に乗っておこうと言う打算と日和見的な選択の結果であろう。

   この考え方は、正にケインズの言う「株価は美人投票と同じ動きをする」と言う考え方で、安倍長官が当選確実であると分かれば、波風を立てずに安倍派になびいて置こうという発想である。

   20世紀最高の経済学者ケインズは、主著である「雇用・利子および貨幣の一般理論」第12章で、金融市場における投資家の行動パターンを、新聞の美人投票に例えて説明した。
   「100枚の写真の中から最も容貌の美しい6枚を選ばせて、その選択が投票者全体の平均的な好みに最も近かった者(即ち一等賞の美人に投票した人)に賞金を与えるとした新聞に見立てることが出来る。
   各投票者は、自分が最も美人だと思う写真を選ぶのではなく、他の最も多くの投票者が美人だと思って投票する写真を選択しなければならないことを意味する。何が平均的な意見になるのかを期待して予測することになる。」

   自分好みの美人ではなくて、大勢の人々が選びそうな美人を選んで投票しないと賞金を貰えない。株もこれと同じで、玄人筋は、大勢が上がると思って買いそうな株が値を上げるので、そんな株を選んで買うと言う考え方である。
   時には、良く分からない株が値を上げてビックリすることがあるが、これも美人投票論の結果であろうか。
   ところで、仲間由紀恵と吉永小百合とどちらが美人かと言った投票だと、自分の好みに関係なく、投票者が若者主体であれば前者、老壮年であれば後者に投票すべきは当然であろうと思うが、しかし、この複雑な世の中では、そう簡単に見分けがつかなくて選択を誤って失敗することも多い。
   
   ところで、安倍長官の新書「美しい国へ 自信と誇りをもてる日本へ」を斜め読みさせて貰ったが、政治理念や政策を前面に押し出して論じた本ではなく、若い人に読んで欲しいと言うのであるから、長官自身の身近なこれまでの人生を語りながら、重要なトピックスについて政治家としての心情を吐露している。
   愛国心の高揚、自衛、外交、教育等多岐に渡っているが、経済や産業については殆ど語っていないし、新書本の限界で内容が総花的で掘り下げに欠けているきらいはあるが、特に強調して異論を挟む余地の少ない非常にオーソドックスな心情の展開である。
   戦う政治家を目指すとしているが、とにかく、トップの国際桧舞台での活躍とリーダーシップが求められているグローバル時代なのであるから当然であろう。

   欧米のリベラルの違いを述べて、アメリカ型の社会主義がかったようなリベラルではなく、自分自身は、開かれた保守派だと言っている。
   しかし、開かれた保守派とはどういう意味なのか。ブッシュほどではなくても、サッチャーやレーガンに近い保守派だと言うのなら、或いは、ケネディやクリントンのようなリベラル政策を認めないと言うのならば、私自身は、日本の歴史と伝統を考えれば、リベラルな思想の裏打ちのない保守政策を信条にした安倍長官の強調する「再チャレンジする社会」の実現は疑問だと思っている。
   最近、多少、ライトに振り子が振れ気味の自民党が、更にタカ派的な政策を増幅して行きながら改憲を進めて行くのにも多少危惧を感じている。
   私自身は、一般に言われているような安倍長官の経験不足やリーダーシップや実行力などについては不安を感じていないが、思想的な理念なりバックグラウンドの弱さが気になっている。
   
   
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夕顔が咲いている

2006年08月25日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   今年は、何年ぶりかで、種が残っていたのか夕顔が咲いている。
   随分以前に植えて忘れていたのだが、急に庭の芝生から芽を出してドンドン大きく伸びて、ヤマモモの木を這い上がって咲き始めた。
   西洋朝顔は、大きくなって庭木の上に出て花を咲かせるのだが、夕顔の逞しさも凄い。
   瓢箪もこの仲間だと言うから、その逞しさも分かる。
   太い長い茎に鋭くて短い棘がびっしりついて、優雅で優しい日本朝顔の風情と全く違って、正に野生の草花である。

   ところで、百科事典には、夕顔もよるがおも白い花と説明されているが、庭に咲いているのは紫がかった青色、種苗店の袋には麗々しく夕顔と書いてあったので夕顔だと思っているが、どちらでも良い事かもしれない。
   いずれにしても夕方に花が開いて朝方に萎んでいる。

   夕顔のイメージは、どうしても源氏物語の夕顔を連想させる。
   頭の中将の思い人だが、惟光の母を見舞う徒路に源氏が見初めて恋に落ち、激しい恋の途中に六条御息所の生霊に呪われて儚く消えた薄倖の女だが、結構ファンが多い特異な人物である。
   「かの白く咲けるを夕顔と申し侍る」と言うあれであるが、やっぱり、白花であろうか。

   今年は、不思議にも、昨年植えた日本朝顔も残っていた種が発芽してあっちこっちに咲いている。
   これも庭木に自然に這わせているので大きく伸びているが、行燈作りなどのようにコンパクトに育てるのと違って野性味があって面白い。
   青い花は、何故か白っぽく色が変ってしまっているが、赤い花は昨年同様に鮮やかな赤い花である。
   
   西洋朝顔は結実が悪く、それに、比較的発芽も難しい所為か、この方は咲かなかったが、もう今年は遅いので来年植えようと思う。

   今、庭には、露草が力強く茎を伸ばして、コバルト・ブルーの可憐な花をつけている。この花が好きで、雑草だが、何時も抜かずにそのまま自生させているが、朝早いうちから朝顔と一緒で直ぐに萎れてしまう。
   それに、完全な花が少なくて写真に残せる花が少ないのが残念でもある。

   草花をあまり植えないので、私の庭に咲いているのは、これら夕顔、朝顔、露草だけだが、来月になると椿が咲き始めてにぎやかになる。
   華やかに咲いているのは、百日紅だが、夏と言えばやはりこの花であろうか。
   サウジアラビアのリヤドを車で走った時には、夾竹桃の花が咲いていたのを思い出す。
   夏に咲く花木は、暑くて参れば参るほど、その生命力の凄さに驚いている。

   今年は移植したので萩はまだ咲いていない。

   
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経営戦略は直感で決まる?

2006年08月24日 | 経営・ビジネス
   ハーバード・ビジネス・レビューの論文を読んでいて、戦略決定における直感が果たす役割について論じた論文を2編見つけた。
   直感に頼りすぎるのは問題だとするエリック・ボナボー氏の「複雑系の意思決定モデル DON'T TRUST YOUR GUT」と直感が重要な決め手になるとするオールデン・M.ハヤシ氏の「直感の意思決定モデル WHEN TO TRUST YOUR GUT」で、HBRシリーズ本「戦略思考力を鍛える」に所収されている。

   前者は、今日経営者の45%が「事業を運営する上で事実や数字よりも直感を信じている」とする調査や、意思決定専門のコンサルタント・ゲイリー・クライン氏の「直感は、意思決定プロセスの中枢を占めており、分析は精々直感による意思決定の支援ツールに過ぎない」とする直感の働きを説く。
   しかし、直感が理性に代替し得ると考えるならば、それは危うい妄想。高度に複雑化し変化の激しい環境下では、比較検討すべき選択肢が増え、検討を要するデータも膨大となり、直感ではなく、益々理性と分析に頼らなければならなくなる。
   
   ところが、IT革命等テクノロジーの進歩のお陰で、強力な新しい意思決定支援ツールの活用によって、経営者は膨大な選択肢から相応しいものだけを選別し、最善の選択が下せるようになる。
   このツールを、優れた経営陣が有する経験、洞察力、分析スキルと組み合わせれば、目が回るような複雑な状況でも、常に健全かつ合理的な選択を下すことが可能になる。これほどの能力に匹敵する直感などあり得ない、と言うのである。
   
   マイケル・アイズナーのユーロ・ディズニーでの失敗やジョージ・ソロスのロシアやハイテク投資での蹉跌を例示して、「直感に基づいた偉大な意思決定の陰には、それと同じ様で全く正反対の大失敗が必ず存在する」と力説する。
   
   ボナボーは、色々な科学的意思決定ツール、エージェント・ベースト・モデル、オープンエンド・サーチ等の活用によって、分析的機能と直感的機能を拡充して、我々の思考を押し広げて限界を超越させるのだと説く。
   言わんとすることは分かるが、それ程、新しい経営分析手法が万能な能力と機能を有するものなのか、そして、例えそうであっても如何にその活用手法を経営者が身に着けるのか、何も語ってはいない。

   ところが、後者のハヤシ理論はもっと明快で、「人間はもっと右脳を活用することで意思決定能力を大幅に高められる」と直感のご利益を高く評価している。
   クライスラーのロバーツ・ラッツ社長が、大型エンジンを搭載した過激なスポーツ・カー「ダッジ・バイパー」で起死回生を図った直感の経営戦略を引用して、このひらめきのプロセスはきちんと説明が出来ないし論理的に分析しきれない、「何かを感じる」という漠然とした感覚、言うならば、虫の知らせ、第6感、専門的判断、心の声と言った直感の重要性について語っている。
   人間の意思決定プロセスの専門科学者によると、心の動きは永遠に解き明かせない謎だが、優れた決断を下す時、感情や感覚が重要な要素であるばかりではなく不可欠だという。

   ノーベル賞経済学者H.A.サイモン教授は、
「チェスのベテランはパターンを見て、その状況に関して自分の知る情報を記録の中から取り出すことが出来る」
「情報を保存することと、それを直ぐに取り出せるよう情報を整理することを可能にしているのは経験である」
と言っている。
   どのような技能の専門家でも、検索つきの百科事典のように非常に豊富な知識を持っていて、その検索を通じてパターン認識をしている。
   すなわち、専門家の判断がパターンやルールに集約でき、直感と判断力は、習慣化された分析に過ぎない、と言うのである。
   別な言い方をすれば、優れた経営者は、直感、すなわち、経営者の頭の中で、その蓄積された膨大な知識・経験やデータの中から検索・パターン認識と言う瞬時の判断・分析のプロセスが策動して判断を下している、と言うことであろう。
   行き当たりばったりの感や思い付きなどとは程遠い、膨大なデータと知識・経験に基づいたコンピューターのような検索分析過程を経ていると言うことなのである。

   クロス・インデックスの力は情報量に比例するので、より多くの多種多様なバックグラウンドを持った人の方が、当然学習能力もより高くなると考えられ、経営能力も高まると言うことであろうか。
   ダブルメイジャーの学位や海外を含めた多種多様の経験や知識、そして、好奇心に満ちた活動的な経営者が求められていると言うことであろうか、そして、右脳を活性化するためにも、最近言われているような、リベラル・アーツ、ファイン・アーツの素養と教養が求められている。
   直観力を磨き研ぎ澄ますために大変な努力をしなければならない。直感で経営戦略を打つと言うのは大変なことなのである。

   
   
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久しぶりの三省堂・・・本は素晴らしい

2006年08月23日 | 生活随想・趣味
   休暇明け、久しぶりに神保町を歩いてみた。
   夏枯れか、特に新しい本も出ているようではなかったし、異変はなかったが、三省堂の入り口コーナーには、安倍晋三長官の新書「美しい国へ」、それに、オシム監督の「オシムの言葉」、爆笑問題の大田光と中沢新一の「憲法九条を世界遺産に」やいのうえひさし他の憲法の本、小沢一郎の「豪腕維新」等の本が写真つきで麗々しく展示されていた。

   直ぐ隣のコーナーには、ベストセラーや新聞等の読書評図書が並んでいたが、両方とも、私の趣味ではない本が多かったので素通り。   
   ただ一点だけ、杉本信行元上海総領事の「大地の咆哮」がベストセラー5位に入っていて嬉しかった。大分前、大手町の某書店で店内で推薦放送していたが、出版当初は店頭であまり見なかったので心配していたのだが、売れ始めているのを感じて正直に嬉しかった。

   もう一つ気が付いたのは、ウォートン・スクールで1年先に留学していた小林興起の「主権在米経済」が、ベストセラーに躍り出ていたことであった。
   同窓会にも顔を出して論陣を張るのだが、徹頭徹尾小泉内閣の対米隷従の姿勢が嫌いで、今回もこの本で、郵政民営化を通して徹底的に叩いている。
   亀井静香の子分であった所為もあり、刺客小池百合子に惨敗して返り血を浴びて野に下っているが、通産省にいてアメリカで学びアメリカのことは知りすぎており、是々非々主義で行くべき対米政策については貴重な論客であり、ある意味では良心でもある。
   この小林興起の本も当初は嫌がらせか何か知らないけれど売れなかったが、今売れ出している。
   元々、アメリカが嫌いなことなどない筈の男であり、何にも分からなくて、アメリカに尻尾ばかり振っている政治家よりは、遥かに、骨のある筋の通った貴重な政治家である。

   3階の経済・経営・政治・法学等の社会科学系の本の売り場では、東洋経済の2006年度上半期の経済書・経営書ベスト100の本を集めて展示していた(口絵写真)。
   1位は、中原伸之・藤井良広「日銀はだれのものか」、2位は、嶋中雄二「ゴールデン・サイクル」、3位は、植田和男「ゼロ金利との闘い」。
   洋書は、4位に、S.レヴィットとS.ダブナ「やばい経済学」、6位に、T.フリードマン「フラット化する世界」13位に、E.ダーマン「物理学者、ウォール街を往く」、ずっと後に、A.トフラー「富の未来」。
   毎年、40人くらいの経済学者達に依頼して集計し、夏休み前には発表するのだが、読者に休暇を利用して読めという趣旨なのであろうか。

   大体学者が選ぶ本だから面白い筈がないし、それに、質が高いかどうかは別として、かなり専門的な知識を要する本が多いので、寝転がって読む本ではない。
   私は、結構経済・経営関係の本を読む方だが、上位推薦図書には殆ど入っていない。
   第一、最近は、特定の学者の本以外はオリジナリティを感じられないので日本の本はあまり読まないし、やはり、違った発想や学説などを知りたくて外国の学者の本を読むことの方が多くなっている。
   2004年には、ガルブレイスの「悪意なき欺瞞」が第1位で、2005年には、洋書ではJ.ナイ「グローバル化で世界はどう変るか」、C.ジョンソン「アメリカ帝国の悲劇」、R.サロー「知識資本主義」が、これ等は実に面白かったし、他にも随分多くの素晴らしい欧米本があった。
   ところで、今年、推薦されていないが、Japan as No.1のエズラ・ヴォーゲルの子息スティーブン・ヴォーゲル著「日本の時代」など実に素晴らしい日本研究本だと思うのだが、日本の学者は、何処をどう読んでいるのかと思っている。   

   
   
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民営郵政・過疎地切捨て・・・市場原理主義では当たり前

2006年08月22日 | 政治・経済・社会
   今日の朝日新聞に「動く民営郵政・岐路に立つ地域網 局員去る、町寂れる」と言う記事が掲載されていた。
   過疎地でなくても地方では、都市銀行は勿論のこと地方銀行が店を閉め、農協も出先機関を整理し、最後に、郵政公社までもが過疎地郵便局の集配業務を止めて実質撤退してしまう、こんな現象がドンドン地方に広がっていると言う。

   小泉内閣になってから、貧富の格差や地方格差が拡大して、弱者が益々虐げられて行く世の中になって来た、と言われている。
   これは、小泉内閣だけの問題ではなく、市場原理が働く資本主義社会においては、経済状況が悪くなり競争が激しくなれば企業も個人も生き抜くためには当然直面せざるを得ない現象で、ただ、小泉内閣においては、竹中大臣の弱肉強食の市場原理主義を旨とするサプライサイド経済学手法を重用した為に、この現象が加速されたきらいは十分にある。
   経済環境が異常に悪い時期は勿論のこと、平時においても利益優先主義で事業を行わねばならない民間企業にとっては、商業機会の少ない過疎地での事業を切り捨て、経済的に信用力に欠ける企業や個人を切り捨てて、限られた経営資源を集中して有効に活用するのは当然のことである。

   この記事で、北海道の北端・天塩町の郵便局が来年3月で集配業務を止めて隣町に統合されるので、局員も去って町が寂れると伝えている。
   小泉首相は、民間で出来ることは民間でと言ったが、郵政事業には民間で出来ない部分があることを忘れている。
   経済社会政策には、公と民の棲み分けがあって、公共の福祉や利益のためには絶対に死守すべきであって譲歩してはならない公共政策があることをである。
   国鉄も民営化されて経営としては成功したかのように見えているが、良いことか悪いことかは別にして、地方の多くの鉄路は取り外されて廃線となり、代替のバス路線も廃止され、完全に息絶えた過疎地があっちこっちにあると聞く。
   クロネコヤマトなら如何するか興味のあるところだが、新しい民営郵政が、効率の悪い地方の事業を切り捨てるのは時間の問題であり、慈善事業でない限り、そうしなければ経営者は忠実義務・善管注意義務違反に問われて当然なのである。

   悲しいけれど、朝日の記事で紹介している郵政公社関係者の「いかに国民に気付かれないように業務の内容や質を落としていくか。そうするよりほかない。」と言うことが真実かも知れない。小泉内閣がこれまでに行ってきたこともこれに近いということであろう。

   日本経済が成長と好況を謳歌できた時には、憲法の規定に従って「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営める」ように、地方にも銀座通りを作り、音響効果抜群の文化会館やスポーツセンター、立派な公共施設などの箱物を建てるためにふんだんに、国家の資金を注ぎ込む事が出来た。
   しかし、花見酒の経済が終わった時には、メインテナンス費用さえ捻出できなくなって無残な姿を晒す多くの遺物だけが残ってしまった。

   本題に話を戻すと、市場原理に従って機能する経済社会においては、弱肉強食の原則が働いて、地方格差が拡大し、経済的な弱者が益々虐げられて行き、社会がアンバランスになって不安定化して行かざるを得ないが、この現実に如何立ち向かうかと言うことである。 
   この必然的に発生する社会悪を緩和するために厚生経済学が生まれて、欧米を中心にリベラルな経済社会政策が実施されることによって、現在の資本主義社会がどうにか変節を遂げながら生き抜いてくることが出来たのである。
   日本政府は、セイフティネットと言う心地よい響きの言葉を使って国民を煙にまいているが、この国民全体が等しく公正で平等な生きる権利を保証された厚生経済社会を実現するためには、歴史が示すように血の滲む様な戦いと勇気が必要なのである。

   もう少し先の話であるが、ブッシュ政権で完全に無視され冷遇されているリベラルな知識階級が、ヒラリー・クリントン政権で如何に息を吹き返して、民主的アメリカを回復するのか楽しみにしている。

   ところで、日本では、次期総理の呼び声の高い安倍晋三長官が「再チャレンジ出来る社会」を提案しているが、これもリベラルな政策の一環。
   しかし、対抗するもっとリベラルな筈の民主党からは、格差社会を拡大させた小泉政策は批判するが、国民の幸せを標榜する厚生経済政策について格調の高い理想も進軍ラッパも聞こえないのはどうしたことであろうか。
   やはり、政治政党は、ビジョンと高邁な政策の実現が肝心。今から選挙の地盤固めにばかり狂奔しているようでは先が思いやられると思うのだがどうであろうか。

   
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戦略はクラフトのように創作されるもの・・・H.ミンツバーグ

2006年08月21日 | 経営・ビジネス
   今日は少し趣向を変えて夏ボケを吹き飛ばすために、話題を経営学に移してみたい。

   先に「MBAは会社を滅ぼす」を表した著名な経営学者H.ミンツバーグについてのMBA論議について触れたが、別な論文で、
会社の経営戦略など高邁な経営理論に基づいた緻密な計画過程を経て打ち立てられるのではなく、どちらかといえば、「戦略は工芸(クラフト)的に創作されると言うイメージこそ、実効性の高い戦略が生まれてくるプロセスを言い表している」と言っている。

   一般経営学の理論は、戦略策定の前提として、理性、合理的な統制、競合他社や市場に関するシステマチックな分析、自社の強みと弱みの分析、これ等の分析がもたらす総合的な判断に基づいて明快かつ具体的、網羅的な企業戦略が策定される等としている。
   しかし、工芸家が、長年来の伝統技能、自身の献身、ディテールへの拘りなどによって完璧さを期すように、現実には、経営戦略のイメージも、思考や理性ではなく、むしろ長い経験や没頭、手持ちの素材への愛着、バランス感覚と言ったものから生まれるのと同じである。
   形成してゆくプロセスと実行するプロセスが学習を通じて融合し、その結果、独創的な戦略へと徐々に発展して行くのだと言うのである。

   一般的には、戦略は、一種の計画であり、未来の行動を明らかにするガイドであると定義するが、ミンツバーグは、未来を意図する行動を表現するためだけではなく、過去の行為を説明するためにも必要なのだと説く。
   温故知新、未来を描くためには過去を学習することが大切だと強調する。
   戦略立案を「論理的に計画するプロセス」であるとか、戦略は体系的に計画すべきであるとかと言われているが、戦略は策定される場合もあれば、現実には、試行錯誤を通じて次第に自己形成されて行く場合が多い。

   ミンツバーグが特に強調するのは、工芸家の頭とその指は連動しているが、大企業では、この頭と指を切り離して、頭と指の間に不可欠なフィードバック・ループを切断してしまっている点である。
   戦略は日常的な末端の活動から遠く離れた組織の高次元に置いて作成されるものと考えるのは、因習的なマネジメント論の最大の誤りであり、また、企業が成功すると直ぐその成功を自動的にCEOの所為とするのも大きな間違いだと言うのである。
   トップと末端のコラボレーションあっての戦略だとする、これが、現場・現業重視のミンツバーグの面目躍如たる所でもある。

   戦略と言うものは、知らず知らずのうちに生まれて来たり、或いは何らかの意図があったにしても次第に形成されて行くことが多いが、ミンツバーグはこれを「創発戦略emergent strategy」と言っている。
   戦略を策定するためには、この創発の足とプランニングの足との二本足が必須である。何故なら、プランニングは学習を排除し、創発は統制を排除し、一方に偏りすぎるとどちらの方法も意味を失って、必要な学習と統制の結びつきを壊してしまうから、両方のバランスが大切である。
   純粋なプランニング戦略と純粋な創初的な戦略が一本の線上の両極にあって、実際の戦略のクラフテイングは、この中間のどこかで行われて戦略が打ち立てられると言うのである。
  
   優れた戦略は、およそ思いも寄らぬ場所で生まれたり、考えもしなかった方法で形成されたりするので、戦略を策定する唯一最善の方法など存在しないとミンツバーグは言う。

   ホンダは、ハーレイ・ダビッドソン等と戦うためにアメリカのバイク市場参入を目指して進出を図ったが悉く失敗して芽が出なかった。
   社員が移動用に使っていた自社製の小型の簡易バイクが消費者の目に留まって、その後人気が出て成功への道を歩んで行った。
   全く意図しない偶然の成功で、これは、クリステンセンのローエンドの破壊的イノベーションの例であるが、ホンダ社員の貢献は、小型バイクを乗り回しただけだとアメリカの経営学者は皆言うのであるが、本当にそれだけであろうか。
   
   先に逝ったガルブレイスが、「悪意なき欺瞞」で、経済学の通説に如何に誤魔化しと欺瞞が充満しているかを語っていたが、ミンツバーグも同じ様に、経営学の悪意なき欺瞞を少しづつ暴き出している。
   そんな視点から、ミンツバーグを呼んでいると経営学が少しはっきりと見えてくるような気がする。
   
   夕食前、偶々、WOWWOWチャネルで、「勝利への脱出」を放映していた。
   ナチスドイツの将校と連合国軍捕虜とのサッカー国際試合が舞台で、私が見たのは、丁度前半戦が終わってハーフタイムで控え室に帰って来た時、牢から地下壕を掘っていた仲間が部屋の湯船を突き破って出てきて選手達に逃げようと誘った所だ。
   捕虜生活に嫌気がさしていた選手が逃げようとしたが、逃亡を諦めて結局サッカーでドイツ軍をやっつけようと決心して後半戦に戻った。
   ペレの宙返りキックで同点に追いつき、時間切れ寸前で取られたゴール前ペナルティ・キックでゴール・キーパーのシルベスター・スタローンがボールを止めて同点で終わった。
   熱狂した観衆が競技場に雪崩れ込み、群衆の波にまぎれて全員脱出を果たした。

   予期しなかった劇的な幕切れだが、経営戦略の策定などこんなもので、予測など出来る筈はないし、理論どおりには行かないし、すべて偶然である。
   100年前から分かっていたような顔をして理論化して教えるのが経営学。
   ミンツバーグを読むと、ジャック・ウエルチが本当に偉大な経営者だったのかと、問わざるを得なくなるのが面白い。

   
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男はつらいよ・・・浪花の恋の寅次郎

2006年08月20日 | 映画
   昨夜、BS2で「男はつらいよ」の第27作「浪花の恋の寅次郎」が放映されたので見た。
   私の故郷は、厳密に言えば阪神間だが大阪も同じ故郷、関西を離れて40年近く経って仕舞ったが、今回の映画の舞台が大阪で、懐かしい大阪の芸人が沢山登場していて、この映画が醸し出す大阪どっぷりの雰囲気に飲み込まれて見ていた。

   当時見学程度に出かけて行っただけであまり馴染みはなかったが、映画の舞台は、南の繁華街から一寸天王寺よりに入った通天閣の真下の新世界である。
   じゃんじゃん横丁など、大阪芸人が生まれ育ったところだが、この映画に登場する上方芸人は当時トップクラスでもあり、雁之助のがしんたれぶりと大村崑の中小企業の主任の実直さは秀逸である。

   寅さんが長逗留して浪花の拠点とするのは、うらぶれた旅館「新世界ホテル」で、主人が遊び人風のさえない芦屋雁之助で、寝ず番の笑福亭松鶴と雑用を取り仕切る初音礼子の両親が、大阪の下町のにおいをプンプンさせていて正に浪花そのものである。
   マドンナで芸者ふみ(松坂慶子)の同僚が、かしまし娘の下二人の照江と花江で、お座敷風景や江戸弁の寅さんとの掛け合いが実に愉快で、寅さんとの再会が石切神社で、ふみとのデートが、生駒山の宝山寺であるなど有名な神社仏閣ではなくて極めて気軽で手短な場所なのが面白い。

   寅さんが一緒にふみの弟を訪ねて行くのが港区の波除で弁天埠頭に近い安治川べりの運送会社で、当時のあのあたりの工場倉庫地帯の様子が良く現れていて、大村崑の運送主任と同僚運転手達の様子が小さなアパートの一室の佇まいと共に凝縮されていて心憎いほどまでにリアルである。
   倍賞千恵子の「下町の太陽」の舞台の大阪版だが、同じ仕事でも、レイバーとは何か、ワークとは何かを考えさせてくれる、そんな舞台でもある。
   亡くなった弟の彼女として登場し、後に「工場のゆかりちゃん」として出てくるマキノ佐代子の初々しさが暗い雰囲気を救っている。

   マドンナの松坂慶子の美しさは兎も角も、その芸の素晴らしさに舌を巻いたのもこの時で、酒に酔った時のあの目など本当に酔っている女でないと出せない表情で、このような入魂に近い松阪慶子の演技が、一寸した瀬戸内の離島の墓地での寅さんとの出会いや港での分かれ、寅さんとのデートでの絵馬の場面、等々きりがないが何故あれだけ豊かな表情と表現が出来るのか、感じ入って見ていた。

   5歳で分かれた弟を探し当てたと思ったら最近急死していた。それを知った夜、憔悴し切ってお座敷を途中で切り上げて、酔いつぶれて寅の木賃宿に雪崩れ込んできた。
   暑い夏の夜、窓辺に座って、通天閣のネオンが見えるうらぶれたドヤ街の夜景を眺めていたふみが
「ワカレルコトハツライケド・・・シカタガナインダ・・・」と歌い出し、急に顔を伏せて
「ウチ泣きたい。 寅さん、泣いてもエエ?」と言って、寅の膝にすがり付いてうつ伏せに顔をうずめて咽び泣く。狼狽する寅が切ない。
   泣き寝入ったふみを残して部屋を出た寅は、帳場で冷酒を煽る。

   翌朝、ふみは、まだ皆が寝静まっている早朝静かに宿を出て動物園の立て看板のある交差点でタクシーを拾って帰って行く。
   スーパーか何かのチラシの裏に綺麗な字で書かれた置手紙が残っている。
   「この部屋で私が泊まるのが迷惑だったら、言ってくれたらタクシーで帰ったのに。
これから、どう生きて行くか一人で考えて見ます。
寅さんお幸せに。さようなら。 ふみ」
   胸を抉られた思いの寅は、意を決して東京へ帰って行く。

   あの船宿で泊まった時も、石田あゆみが足音を忍ばせて2階の寝室にそっと入って来た時も、寅はたぬき寝入りを決め込んでいた。
   「寅ちゃんとなら結婚しても良い。」と八千草薫に言われても、はぐらかせて仕舞う寅である。

   しかし、寅が、一切何の余裕もなく、一途に思い詰めて心底惚れこんだのは、このふみだけであろう。他の恋には余裕と甘えがあったが、今回だけは違う。
   恋心を燃やして下宿までして長逗留しようとまで心に決めていた寅。
   薄倖で健気に生き、唯一の心の支えであった弟の死を知って打ちのめされたふみが、最後の拠り所として自分を訪ねて来て藁に縋ろうとしている。
   激しい思いと恋焦がれはあっても、そして、気持ちだけはあっても何も出来ない自分を知っている寅は、苦しい思いに打ちのめされて去って行く。

   地下鉄の入り口まで送ってきた雁之助に、
   「そんなに格好ばかり付けてても、おなごはんはものにならへんでェ。
    一寸ぐらい格好悪うても、あほやなあと思われても、とことんつきまとうて地獄の底まで追いかけて行くくらいの根性がないとあきまへん。
    この道はなア。」と諭される。
    しかし、寅は、
   「男と言うものはなあ、引き際が肝心よ。」と見栄を張る以外にはなかった。

   山本監督などは、コメントで東京と大阪の恋の違いだと言っていたが、近松門左衛門や井原西鶴には、確かにそのような大阪男が描かれているが、これは、大阪だ東京だと言う次元の話ではない。  
   寅は、本当に恋をした。ふみが結婚すると知って打ちのめされて立ち上がれなかった。落雷の中で真っ暗がりの部屋でしゃがみこんで動けない寅の姿が総てを物語っている。
   激しい、そして、悲しい浪花の恋の物語である。
   近松や西鶴が見え隠れしている。

   私は、渥美清に一度はシェイクスピア戯曲を演じてもらいたかったと何時も思っている。
   
   
   

   
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交通事故だ「金振り込め」・・・新種振り込め詐欺か

2006年08月19日 | 政治・経済・社会
   先日の夕方、郵便受けを見ると、おかしなハガキが舞い込んでいた。
   中村様宛で名前はなく、面識はないが同じ町内の人からの全く同じ文面のハガキ2通で東京上野局の消印であった。

   読んで見て驚いた、文面の内容は大略次のとおりであった。
   「前略 8月8日、296号線××交差点付近で、そちらの車が急な割り込みをしたため、当方車両が対向車と接触事故を起こした。当方車両(三菱ディオン)は、前面パンバー、方向指示器及び前面パネルの一部が損傷し、修繕費36万円。
対向車(トヨタクラウン)は、前面バンパーが損傷し、修繕費用は15万円でした。
交通妨害による事故として警察に通報し、車両番号からそちらの住所と所有者を割り出しました。
そちらにも責任があるので、修繕費用の一部20万円を請求します。8月25日までに下記銀行口座にご入金ください。入金がない場合は、法的措置をとらせていただきます。
               記
銀行名・支店名    千葉銀行○○支店
預金種目及び口座番号 普通 0152703
口座名義人      ○○ミ マナブ

××市○○○5-××-8 ×× 学
電話 043ー×××ー×××× 」

   車両番号から名前を警察が明かすわけがないし、町内会なら名簿があるので当方の正確な姓名は分かる筈だし、・・・と腑に落ちない点に気付いたが、とにかく、当日の私の動向をチェックした。
   まず、問題の××交差点などには最近行ったこともない。
   それに、割り込みなどまずやったことはないし、その日は、家内と一緒の行動だったので、後ろで車が事故を起こしておれば直ぐに気付く筈である。
   念のために、当該ハガキの差出人の門前まで出かけて見たら確かに駐車場にディオンが置いてあり、住所・姓名・電話番号等町内会の名簿と一致していて、実在である。
   大体、ホンの数分間で行き来できる距離なら、当人の家に行って抗議談判する筈であるのに、何故、ハガキなのか。
   何故、こんな郵便物が私のところに来たのか、その意図などに興味はあるが、しかし、あらぬ濡れ衣を着せられて脅迫紛いのハガキを受け取るのは面白くない。
   いずれにしろ、翌日警察署に届け出ることにした。

   翌朝、警察署に出かけたら生活安全課の係官が面会して事情を聞いてくれた。
   中年のベテラン係官は、一通りハガキを読んだが、別に気にすることもなく無視してほって置けばよいと言う反応であった。
   恐らく、ハガキの差出人もこのことは知らないであろうと言った。
   当日の私の行動記録なども用意して出かけたが、何も聞かれないので拍子抜けであったが、ハガキをコピーするために係官は席を立った。
   5分ほどして帰ってくると、銀行の口座番号はなかったことと、事情を調べたら同じ様なケースが町内で発生しており調査中だと言うことを報告してくれた。
   結局総合すると、このハガキの差出人に対する意図的な嫌がらせであろうと言うことであった。

   色々、参考になる興味深い話を係官から聞いたが、面白くもあり面白くもない不思議な嫌な世の中になったものだと思いながら帰って来た。
   振込め詐欺を装った嫌がらせとは、お粗末限りない話だが、何故、自分がお先棒を担がされそうになってしまったのか、何となく落ち着かない気持ちである。
   
   
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家具業界に革命・・・イケア日本に上陸

2006年08月18日 | 経営・ビジネス
   4月に、船橋の屋内スキー場跡地がイケアの日本上陸第1号店に代わったと聞いていたが、やっと、このお盆休みに出かけることにした。
   1985年から、オランダとイギリスに住んでいた時には、必要に応じて出かけて行って、組み立て家具を買うなどイケアのことは良く知っているので、別に目新しいことでもないと思っていたのである。
   現に、何点かの家具は、イケアで買って、イギリス家具と共に持ち帰って来て今でも重宝して使っている。

   ところで、我が家には、色々な家具が混在しているが、大半の大型家具は、結婚の時、移転の時等の特別な時期は別として、何らかの形で、百貨店や業界等の家具の大展示会や大売出しの時に特別価格で買っている場合が多い。
   とにかく家具については、価格が不透明で高すぎると言う印象を持っていて、特に気に入った時以外はマトモナ値段で買う気はしなかった。
   そんな時、それも、今では昔の話であるが、大塚家具が会員制度を導入して家具を安く流通させ、家具業界に一石を投じた。
   大変な嫌がらせと妨害があったと聞いているが、いくらか正貨で買う気になれたのは革命的であった。

   イケアのビジョンは、
   「優れたデザインと機能をお求めやすい価格で」と明確に示されていて、文句なしに納得し、ヨーロッパで付き合ってきた。
   とにかく、必要な家具は、ショウルームで見て確認して、組み立てキットのように分解されてコンパクトにパックされた商品を倉庫から取り出してレジで清算して持ち帰り、簡単に組み立てて使用する。それだけだが、実に安くて機能的で、仮住まいの我々には有難かった。
   もっとも、ヨーロッパの家具に対する嗜好は、価値ある家具を何世代に亘っても使用する骨董趣味的な要素も強いが、斬新なアイデアとデザインに特別な魅力を感じて使用するヤング達も多くて、利便性と安さと機能性を満足させてくれるイケア家具の人気は高かった。

   久しぶりにイケアの店に出かけた訳であるが、サービスやシステムの根幹は何も変わっていなかったし、店全体は誠実そのものの雰囲気で、スウェーデン商法の素晴らしさを改めて感じた。
   ホームファニッシング関連の製品が、広大な2フロワーのショールームに所狭しと展示されていて、次から次へと変り行く商品を、あたかも博物館を回遊するような形でツアーしながら見て行くのだが、あっちこっちに斬新なアイデアが充満していて色々な発見があって実に楽しい。
   今回特に印象的だったのは、家具類や室内インテリアは勿論のこと、時には台所用品のような小物まで、商品のデザイナーが顔写真入で紹介されていたことで、その誠実さに感じ入った。
   素晴らしいデザインの、そして、質の高いホームファニッシングを、誰の手にも届く様な手ごろな価格で提供すると言う言い得て妙な戦略を実現するのは並大抵の努力では出来ない。しかし、それをやっているのがイケアである。

   お客さんの大半は、若い子供連れの家族であって、これほど、若い人々で溢れかえっている大小売店舗を見たことがない。
   ソファーに腰掛けたり、システムキッチンを操作したり、それに、24平方メートルほどのワンセット揃った一軒分の小さなコンパクトなインテリアや10万円以下で家具を揃えた室内インテリア等を熱心に眺めながら夢を語っている。

   広大なレストランは、セルフサービス形式だが、とにかく、好い加減な料理ではなく本格的な洋風料理がサーブされていて、これが、実に美味い。
   レジ外の広い出口フロワーには、綺麗なスウェーデン食品売り場が併設されていて、色々な食品に混じってレストランでサーブされている食品も並べられていて「イケアの本格的スウェーデン料理」と言う素晴らしい料理本まで売られている。

   もう一つ気に入ったのは、子供達を1時間預かって遊ばせてくれる本格的なサービスがあることで、許可条件が背の高さが1メートルから1.35メートルであるからかなり大きな子供達で、沢山の子供達が嬉々として遊んでいた。
   少子高齢化社会で、もう夢も希望もなくなったと言われている日本で、若者達が目を輝かせて時間を過ごし、子供達がキッズ関連売り場で転げまわっている、そんな稀有な大型店舗が船橋にあるのである。
   カルフールが撤退して、ウオルマートが苦戦している日本だが、確かにスーパーは日本市場は特別であるかも知れないが、旧態依然として変化の乏しい保守的な家具、ホームファニッシング業界は、違う。
   肌理の細かいヨーロピアン・タッチのイケアは、言うならば、日本家具業界への革命的な一石で、今後の活躍が楽しみである。
   全く、素人の戯言だが、そう思っている。

   
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夏休み子供アニメ映画・・・森のリトルギャング

2006年08月17日 | 映画
   孫に付き合って、夏休み子供アニメ映画を2本見た。
   一つは、東宝の「劇場版ポケットモンスター/ポケモンレンジャーと蒼海の王子マナフィ」とシュレック2のドリームワークスの「森のリトルギャング」である。

   子供達の人気はポケモンの方が上で客も多かったようだったが、映画の質としては、リトルギャングの方がパンチと風刺が効いていて面白かったし、それに、私の見たのは日本語版だったが、声優が素晴らしかった。
   オリジナル版も、RJにブルース・ウイルス始め名優を起用するなど大変力を入れていて、改めて、アニメ映画での声優の役割の重要性を認識した。
   話は一寸飛ぶが、TVのまんが日本昔ばなしは、市原悦子と常田富士男のたった二人の語りだが、あれだけしみじみと豊かに語りかけてくれる番組も数少ないと思っているが、これも、同じことである。

   一匹狼の流れ者アライグマRJが、空腹に耐えかねて、冬眠中のクマ・ヴィンセントの蓄えていたスナック菓子を盗んで台無しにしてしまい、1週間で返すことを約束させられる。
   冬眠から目覚めた森の動物達は、冬眠中に森が厚い生垣で遮られて住宅地が出来たことを知って驚く。
   そこへ、世慣れたRJがやってきて動物達を騙して人間達から菓子を盗み出す作戦を思いつく。
   人間達の美味しい菓子の味を知った動物達は、RJにそそのかせて、危険な人間世界を相手に珍妙なお菓子争奪戦争を始め、害獣駆除会社まで出動して、てんやわんやの騒動を巻き起こす。
   最後は、クマや悪い人間(?)達を懲らしめて、RJが動物達に家族として迎え入れられるのだが、登場する多彩な動物達のユニークさが堪らなく愉快で面白い。

   冒頭、RJがベンディングマシンのチップを買ったのだが、途中で引っかかってしまってどうしても取り出せない、これが、空腹の設定となっていて、クマの蓄えた食糧が総て菓子だと言うのも面白い。
   一冬の間に開発されて、隣接地には立派な住宅団地が出来上がってしまって、動物達と人間世界の遭遇が、RJの悪知恵からお菓子戦争で始まるのも面白いが、IT化された防犯セキュリティ・システムを掻い潜る動物達の知恵など、随所に人間風刺が織り込まれていて愉快である。

   やはり、世慣れすぎて狡賢いしかし当世風のRJを初めて声優に挑戦した役所広司が、そして、おっとりした知恵のある長老常識者のカメのヴァーンを武田鉄矢が、夫々演じていて、これが実に上手い。
   おっチョコちょいで陽気なリスのハミーを石原良純、死んだ真似をして芝居の上手いオポッサムのヘザーと主題歌を歌うBoA,それに、お色気たっぷりで番ネコを口説くスカンクのステラを友坂さんが演じていて、その豊かな声優振りが、CGを駆使して極めてリアルになった動物達のキャラクターを更に色彩豊かに増幅して、楽しさを倍加している。
   人間の役が来たので喜んだと言う白木マリは、標的となって食べ物を奪われて動物達を追い掛け回す婦人ブラディスを、性格俳優そのままの地で演じていて、その独特な力強さと迫力が素晴らしい。

   動物達の毛の一本一本まで注意して描いたと言う徹底振りと、IT技術を最大限に活用駆使した技術の冴えは抜群である。
   特に、激しいアクションや息もつかせぬ豪快なテンポなど、ここまでアニメ映画の製作技術が進化したのかと思うと、あのアナログ調で夢多き実に温かいディズニー・アニメに圧倒されたずっと昔の、あの時の感動が蘇ってくる。

   この映画の一つの重要なテーマは、家族としての愛、動物達は自分達の結びつきは愛だと言い、ずっと一人ぼっちで通してきたRJもその家族に受け入れられる。
   純粋無垢な動物達を通して、失われつつある生きる値打ちの大切さを語りかけたかったのであろう。
   
   
   
   
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