先に、新冷戦下にある米中関係につい何度か書いてきたが、アセモグルが、中国について、どう考えているのか、本書の第7章 天命 に、中国のリバイアサンについて、興味深い議論を展開しているので、考えてみたい。
中国の歴史は、ヨーロッパの歴史とはまるで異なる経路、自由を生み出さない経路を辿った。
しかし、当初からそうだったのではなく、 孔子の教えである儒教は民衆の福祉を大いに重視し、徳のある為政者によってこれが増進されると主張していた。
同時に、 中国が国家としての体を成し始めたこの春秋戦国時代だが、商鞅たちによって提唱されて実践された専横的な新しい政治思想である法家主義のモデルで、秩序を最優先する強い国家の確立で、全能の統治者が国家と法の重圧によって社会を押しつぶすことによって達成されると考えられた。
この法家主義の高圧的な手法に異を唱える儒教のモデルは、道徳的な規律と「民の信頼」を得ることを重視していたが、しかし、この二つの手法には、専横の基本原理については一致を見ていた――――一般市民は政治に発言権を持たず、国家と皇帝に拮抗する勢力には絶対にならない。と言う原理である。民の福利に配慮するよう為政者を駆り立てるのは、為政者の徳行だけで、孔子も、「庶民は政治を論議することはない」と述べていると言う。
漢の高祖など、法家主義の教えを土台として、それに儒教の思想を組み合わせて政を成したと言われているが、それ以降、現代に至るまでの中国の総ての政府と法律は、これらの二つの哲学の融合として、またそれらを両極とする連続体上を揺れ動く運動として解釈することが出来る。連続体のどこかに位置していようとも、総ての体制がいくつかの基本原理については一致していた。
そのうちの最も重要なものが、全能の皇帝が、政治に関わる役割や発言権を一切民衆に与えずに支配すると言う、専横のリバイアサンの中心原理である。
まさに、現下の習近平の政治は、このものズバリで、言い得て妙である。
いずれにしろ、中国の歴史と政治は、国家や為政者に発言権を持たず対抗勢力にはならない無力な国民の存在する専横のリバイアサンであるから、自由が横溢し着実な繁栄に道を開く足枷のリバイアサンなど夢の夢という訳である。
「近代化論」と呼ばれる社会科学の学説があって、国は豊かになるにつれて、より自由で民主的になれるとされるが、そのような転換を中国に期待するのは、2500年近くにわたって専横の経路を歩み、回廊から遠ざかってきた中国にとっては、どんな方向転換も容易に行くとは考えられず、中国が「歴史の終わり」が速やかに訪れるという望みは幻想に止まりそうである。
尤も、専横国家に於いて、既存技術に基づく投資と工業化によって、牽引されて高度成長を遂げてきた国もある。これらは、政府の要請に応える形で、軍事技術や宇宙開発などブレイクスルーを遂げてきたものの、大半が、よそで成し遂げられた技術進歩の移転・模倣によってもたらされたものであった。
しかし、未来の成長に欠かせない、幅広い分野での多用で継続的なイノベーションに必要なのは、既存の問題を解決することではなく、新しい問題を創出することで、それには、自立性と実験が欠かせず、大勢の人が独自の方法で思考を重ね、ルールを破り、失敗と成功性の高い、創造性や企業家精神を発揮できる自由な社会環境である。
したがって、創造性は継続的なイノベーションに不可欠な要素であり、有力者の邪魔をしたり、党公認のアイデアとかち合ったり、ルールを破ったりするなど心配する、自由のない世界では、どうすれば良いのか、70年代のソ連で果たせなかったのは、まさにこの種の実験とリスクテイク、ルール破りによるイノベーションであり、中国経済もまだその解決方法を見だしていない。
中国の成長が、今後数年で先細りになるとは思えないが、中国にとっての死活問題は、大規模な実験、イノベーションを始動することにあり、過去の総ての専横的成長の事例と同様、中国がこれに成功する見込みは薄い。と言う。
アセモグルの理論は、きわめて単純明快、
「専横」と「不在」のふたつのリヴァイアサンに挟まれたどちらにも属さない不安定な「狭い回廊The Narrow Corrido」のハザマで、強力な国家と強力な社会のせめぎ合いによって民主主義的な「足枷のリヴァイアサン」を生み出した国だけが、自由と繁栄を維持できる。
中国は、自由と繁栄への道筋にある「足枷のリヴァイアサン」の埒外にある「専横のリバイアサン」であるから、ある程度成長しても、今後の更なる持続的成長は、到底無理である。と言うのが、アセモグルの結論である。
さて、私自身は、南シナ海を筆頭とした領土問題、チベットや香港やウイグルに対する自由や人権の圧殺、台湾への締め付け、国民に対する思想や情報統制など基本的人権の無視など、言語道断だと思っているし、許せないと思っており、2049年のマラソン計画に向かっての覇権国家確立には懸念を感じている。
ただし、高邁な思想や自由で平等な世界への希求など歴史の大きな潮流とは別に、経済成長などと言ったどちらかと言えば雑で物理的な世界は、別な動きをしているようで、旧ソ連のような共産主義的な生産方式の計画経済と、中国の自由な資本主義経済を内包した国家資本主義とは、大きく違っている。
現在、自由主義国家よりも専制国家体制を取って、中国よりの国家体制に移行している国が多くなっているという報告があるが、良かれ悪しかれ、中国の国家資本主義に似た専横体制を取って成長発展を目指している国が増えているということである。
今時、昔先進国が、企業家精神を発揮して経済をテイクオフして成長発展を図った恵まれた時代は夢の夢となり、現在の発展途上国などでは、自由に任せた国家経済の発展成長など不可能であり、独裁であろうと専制であろうと、強力なリーダーシップのもとでの専横体制で政経を行うべきで、中国を見本とする以外にモデルはない。
アセモグルの理論では、狭い回廊に入っている民主主義国家のみを相手に、「足枷のリバイアサン」の自由と繁栄論を説いているようであり、次元が違う中国の専横のリバイアサンについては、もう少し、検討すべきだと思っている。
中国の歴史は、ヨーロッパの歴史とはまるで異なる経路、自由を生み出さない経路を辿った。
しかし、当初からそうだったのではなく、 孔子の教えである儒教は民衆の福祉を大いに重視し、徳のある為政者によってこれが増進されると主張していた。
同時に、 中国が国家としての体を成し始めたこの春秋戦国時代だが、商鞅たちによって提唱されて実践された専横的な新しい政治思想である法家主義のモデルで、秩序を最優先する強い国家の確立で、全能の統治者が国家と法の重圧によって社会を押しつぶすことによって達成されると考えられた。
この法家主義の高圧的な手法に異を唱える儒教のモデルは、道徳的な規律と「民の信頼」を得ることを重視していたが、しかし、この二つの手法には、専横の基本原理については一致を見ていた――――一般市民は政治に発言権を持たず、国家と皇帝に拮抗する勢力には絶対にならない。と言う原理である。民の福利に配慮するよう為政者を駆り立てるのは、為政者の徳行だけで、孔子も、「庶民は政治を論議することはない」と述べていると言う。
漢の高祖など、法家主義の教えを土台として、それに儒教の思想を組み合わせて政を成したと言われているが、それ以降、現代に至るまでの中国の総ての政府と法律は、これらの二つの哲学の融合として、またそれらを両極とする連続体上を揺れ動く運動として解釈することが出来る。連続体のどこかに位置していようとも、総ての体制がいくつかの基本原理については一致していた。
そのうちの最も重要なものが、全能の皇帝が、政治に関わる役割や発言権を一切民衆に与えずに支配すると言う、専横のリバイアサンの中心原理である。
まさに、現下の習近平の政治は、このものズバリで、言い得て妙である。
いずれにしろ、中国の歴史と政治は、国家や為政者に発言権を持たず対抗勢力にはならない無力な国民の存在する専横のリバイアサンであるから、自由が横溢し着実な繁栄に道を開く足枷のリバイアサンなど夢の夢という訳である。
「近代化論」と呼ばれる社会科学の学説があって、国は豊かになるにつれて、より自由で民主的になれるとされるが、そのような転換を中国に期待するのは、2500年近くにわたって専横の経路を歩み、回廊から遠ざかってきた中国にとっては、どんな方向転換も容易に行くとは考えられず、中国が「歴史の終わり」が速やかに訪れるという望みは幻想に止まりそうである。
尤も、専横国家に於いて、既存技術に基づく投資と工業化によって、牽引されて高度成長を遂げてきた国もある。これらは、政府の要請に応える形で、軍事技術や宇宙開発などブレイクスルーを遂げてきたものの、大半が、よそで成し遂げられた技術進歩の移転・模倣によってもたらされたものであった。
しかし、未来の成長に欠かせない、幅広い分野での多用で継続的なイノベーションに必要なのは、既存の問題を解決することではなく、新しい問題を創出することで、それには、自立性と実験が欠かせず、大勢の人が独自の方法で思考を重ね、ルールを破り、失敗と成功性の高い、創造性や企業家精神を発揮できる自由な社会環境である。
したがって、創造性は継続的なイノベーションに不可欠な要素であり、有力者の邪魔をしたり、党公認のアイデアとかち合ったり、ルールを破ったりするなど心配する、自由のない世界では、どうすれば良いのか、70年代のソ連で果たせなかったのは、まさにこの種の実験とリスクテイク、ルール破りによるイノベーションであり、中国経済もまだその解決方法を見だしていない。
中国の成長が、今後数年で先細りになるとは思えないが、中国にとっての死活問題は、大規模な実験、イノベーションを始動することにあり、過去の総ての専横的成長の事例と同様、中国がこれに成功する見込みは薄い。と言う。
アセモグルの理論は、きわめて単純明快、
「専横」と「不在」のふたつのリヴァイアサンに挟まれたどちらにも属さない不安定な「狭い回廊The Narrow Corrido」のハザマで、強力な国家と強力な社会のせめぎ合いによって民主主義的な「足枷のリヴァイアサン」を生み出した国だけが、自由と繁栄を維持できる。
中国は、自由と繁栄への道筋にある「足枷のリヴァイアサン」の埒外にある「専横のリバイアサン」であるから、ある程度成長しても、今後の更なる持続的成長は、到底無理である。と言うのが、アセモグルの結論である。
さて、私自身は、南シナ海を筆頭とした領土問題、チベットや香港やウイグルに対する自由や人権の圧殺、台湾への締め付け、国民に対する思想や情報統制など基本的人権の無視など、言語道断だと思っているし、許せないと思っており、2049年のマラソン計画に向かっての覇権国家確立には懸念を感じている。
ただし、高邁な思想や自由で平等な世界への希求など歴史の大きな潮流とは別に、経済成長などと言ったどちらかと言えば雑で物理的な世界は、別な動きをしているようで、旧ソ連のような共産主義的な生産方式の計画経済と、中国の自由な資本主義経済を内包した国家資本主義とは、大きく違っている。
現在、自由主義国家よりも専制国家体制を取って、中国よりの国家体制に移行している国が多くなっているという報告があるが、良かれ悪しかれ、中国の国家資本主義に似た専横体制を取って成長発展を目指している国が増えているということである。
今時、昔先進国が、企業家精神を発揮して経済をテイクオフして成長発展を図った恵まれた時代は夢の夢となり、現在の発展途上国などでは、自由に任せた国家経済の発展成長など不可能であり、独裁であろうと専制であろうと、強力なリーダーシップのもとでの専横体制で政経を行うべきで、中国を見本とする以外にモデルはない。
アセモグルの理論では、狭い回廊に入っている民主主義国家のみを相手に、「足枷のリバイアサン」の自由と繁栄論を説いているようであり、次元が違う中国の専横のリバイアサンについては、もう少し、検討すべきだと思っている。