熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

ハワード・ジン著「学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史〈上〉1492~1901年」

2018年07月31日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ハワード・ジンは、コロンビア大学で、Ph.Dを取得し、長くボストン大学で政治学教授を務めたアメリカの高名な歴史学者であるが、自分自身で、幾分、アナーキストであり、社会主義者であり、恐らく民主的社会主義者であろう、と述べているのだが、アメリカの市民権運動や反戦運動や労働者の歴史などについて多くの著作を残し啓蒙活動にも参画していたので、いわば、真の民主主義とは何かを追求し続けた筋金入りの左翼系知識人である。

   Howard Zinn.orgのHPに、詳細にわたって、ハワード・ジンの業績等が掲載されていて参考になるが、
   Biographyの冒頭に、
   Howard Zinn was a historian, author, professor, playwright, and activist. His life’s work focused on a wide range of issues including race, class, war, and history, and touched the lives of countless people.
   最後に、次の言葉を残している。
   We don’t have to wait for some grand utopian future. The future is an endless succession of presents, and to live now as we think humans should live, in defiance of all that is bad around us, is itself a marvelous victory.
   将来の夢など夢の夢、将来は、現在の果てしなき連続。我々を取り巻く諸悪に反旗を翻して、人間としてかくあるべきだと言う生を、雄々しく必死になって、今を、生き抜くことこそ、素晴らしい勝利なのである、と言う熱烈な檄を飛ばして去って逝ったのである。

   このハワード・ジンが書いた「民衆のアメリカ史」を、レベッカ・ステフォアが、青少年のために編集し直したのが、この本、「学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史」で、優等生が知っているような穏やかな世界一の自由で民主的なアメリカの歴史とは、全く違った途轍もない暗部を抉り出した斬新な歴史物語である。
   尤も、原書のタイトルは、”A Young People's History of the United States”なので、何の抵抗もないが、翻訳本のタイトルは、内容を意図してつけられたのであろう。

   ハワード・ジンは、人から、「読めば自分の国に失望するだけではないか。政府のやり方をあんなに非難するのは正しいのか。コロンブスやジャクソン、T.ローズベルト大統領など国民的英雄をこき下ろすのはよいことなのか。奴隷制や人種差別、インディアンへの虐殺、労働者への搾取ばかりを強調して、アメリカはインディアンや他国の人々を犠牲にして、無慈悲に領土を広げて来たのだと書くのは、愛国心に欠けるのではないか。」などと非難されていると言いながら、
   ティーンエイジャーには、十分真実を理解する能力はあり、憲法で政府の改変廃止は国民の権利であると宣言しており正当な批判は必須であり、国民的英雄の過ちを指摘しても若い読者を失望させることもない。と述べている。
   ずっと、戦争、人種差別、経済的不正を糾弾してきたが、そうした問題は解決されないまま、現在のアメリカ合衆国を悩ませている。と言うのである。
   ハワード・ジンは、2010年1月に亡くなっているので、2011年の「ウォール街を占拠せよ」運動も、「トマ・ピケティの新・資本論」も見ていないのだが、現在の途轍もない格差社会の進行拡大について、如何に、自分自身の切っ先鋭い民主主義や資本主義非難の方向が間違っていなかったか、更に、激しく論陣を張り続けたであろうと思う。
   
   この上巻は、コロンブスのアメリカ大陸発見から、20世紀への直前までのアメリカの歴史なのだが、冒頭から、コロンブスやスペインのアメリカ・インディアンへの情け容赦ない殺戮支配から、ピルグリムファーザー以降のアメリカ人のインディアンや下層白人を支配圧殺してのフロンティア開発の非人間的な凄まじさを活写していて、生きるための人間の執念が、如何に厳しく激しいかを実感させて胸が痛む。
   アメリカの成長発展の原動力であった筈のフロンティア・スピリットの発露とは、インディアンの居住地をどんどん奪い取って、メキシコから戦争や懐柔で領土を取得して、黒人や貧しい白人や異邦人を酷使して搾取して築き上げた新世界アメリカであったと言うことなのであろうか。そんな思いさえ感じさせるほど厳しい筆致の論述である。
   しかし、許し難い暴挙とは言え、大航海時代の幕開けで新世界が発見され、時によっては、専制君主や独裁者の暴政下であっても爆発的なパワーが炸裂して創造的破壊を惹起して大変革をもたらすなど、人類の歴史が進化発展したことも否めない事実であり、
   ハワード・ジンが言う弱者たちの反抗なり革命的パワーが、カウンターベイリング・パワーとして平衡作用として働いて、人類の民主的な進歩が進められてきたという風に考えられないかと思っている。

   私が、子供の頃には、アメリカ映画で脚光を浴びていたのは、西部劇で、白人の騎兵隊がインディアンを蹴散らせて領土を拡大して行くフロンティア開拓映画が多かったし、何の抵抗もなく見ていたのだが、ところが、その後、世論の影響であろうか、一気に西部劇が上映されなくなったのを覚えている
   それに、大学生の頃、アメリカの多国籍企業が、如何に、中南米で、凄まじい植民地的支配経営を行って、その国の政治経済社会を搾取し圧殺していたかを勉強した記憶がある。
   1970年代、ウォートン・スクールでMBAで学んでいた時にも、公民権運動から随分経っていたのだが、まだ、随所で、人種差別の現場を見かけることがあって、アメリカ社会の複雑性さ、民主主義の綻びを見ていた。

   さて、私自身は、世界歴史を結構勉強してきたので、ハワード・ジンが論じたような現実は、かなりよく知っていたし、大学の講義の準備のために、ブラジルの歴史を勉強した時に、あの大航海時代の幕開けと新大陸発見と言う歴史的な激動期を掘り下げて、ポルトガルとスペインの熾烈なフロンティ開発の非人間的な側面を熟知しており、長く住んでいたイギリスが、紳士面とは裏腹に植民地を懐柔搾取するなど、悲惨な血塗られた歴史を潜り抜けて今日の民主主義に到達したことなど理解していたので、もう一度、このような裏面史を認識し直して、興味深く読むことが出来たと思っている。
   前述したように、悲しいかな、意識の中のどこかに、そのような悲惨な強者の勝手気ままな横暴があったから、それなりに経済が成長し、文化文明が進んで来たのではなかろうかと言う気もしていて、内心複雑な気持ちではある。

   そして、今でこそ言えると言う側面が、歴史にはいくらでも存在しており、その時には、どうしようもなかったと言う現実なり、経緯があったことも事実であろう。
   そんなことを思いながら、私自身としては、日本人として、善き時代に、実に恵まれた状態で、日々の生活を送っていると、いつも思って感謝している。
   
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国立能楽堂・・・柏崎の「綾子舞」

2018年07月29日 | 能・狂言
   今日の国立能楽堂の企画公演は、興味深かった。
   《月間特集・能のふるさと・越路》
    ◎中世のおもかげ―「柏崎」
       綾子舞(あやこまい)
         小原木踊(下野) 
         海老すくい(下野) 
         猩々舞(高原田) 
         小切子踊(高原田)   
           柏崎市綾子舞保存振興会
       能 柏崎(かしわざき)  佐野 由於(宝生流)


   能「柏崎」に先駆けて上演された新潟県柏崎市女谷に受け継がれる伝統芸能”重要無形民俗文化財:綾子舞”が、非常に素晴らしい舞台であった。
   この綾子舞は、女谷にある黒姫社(黒姫神社)の市の天然記念物「黒姫神社大杉」の下が舞台で、500年の伝統芸能の雰囲気をより一層醸し出していたというから、本来は、黒姫神社の典礼芸術であった。
   綾子舞の由来については、2つの説が有力で、
一つは、今から約500年前に、越後の守護職・上杉房能(ふさよし)が、臣下の長尾為景に討たれた際、房能の奥方「綾子」が女谷に落ちのびて伝えたという説。もう一つは「北国武太夫(ほっこくぶだゆう)」という武士が、京都北野神社の巫女「文子(あやこ)」の舞を伝えたという説で、出雲のお国一座などが始めた女歌舞伎の踊りの面影を色濃く残していて、重要な資料として注目され、研究されてきていると言う。
   女性が踊る小歌踊と、男性による囃子舞、狂言の三つを総称して「綾子舞」と呼ぶとのことで、現在、高原田と下野の二つの座元が伝承しており、今回、小歌踊の「小原木踊」と「小切子踊」、囃子舞の「猩々舞」、狂言の「海老すくい」が上演された。
   綾子舞の写真を、インターネットから借用すると順番につぎのとおり。
   
   
   
      

   まず、「小原木」だが、しずしずと、橋掛かりから舞台に登場した3人の乙女が、大原女と言う姿で、都にいる恋人に会うために、薪を売って歩く様子と恋心を表しており、19種類の扇の手ぶりが実に美しい優雅な踊り。
   「小切子」は、菅原道真公が九州に流されることになり、都を去る時に、都七条坊門の娘、文が夢のお告げにより、三条大橋のたもとで菅原道真公を見送って舞った踊りで、都の風景と女心を歌う。扇の代わりに小切子と言う綾竹(あやだけ)と呼ばれる装飾された細い竹の棒を持って、回したり、軽快に打ち鳴らしたりしながら踊る。
   頭に「ユライ」と呼ばれる赤い被り物をつけ、扇や綾竹の美しい手ぶりや足を交差させる足さばきで優雅に踊り、実に優しくて初々しい姿が感動的である。
   囃子舞は、猿若芸の系統をくんでいて、ユーモラスな歌と囃子に合わせて男性が1人で舞うのだが、「猩々舞」は、酒飲みの猩々を、酒好き、笑い上戸、酔うほどに態度が大きくなる、気弱で酒に飲まれる、舞い好きで悪魔祓いすると言った5体の猩々を演じる。歌舞伎のコミカルタッチの踊りである。
   狂言「海老すくい」は、殿様が冠者に、明日の来客のご馳走に海老を買ってくるよう命じ、冠者が代物(お金)を請求すると、殿様は「ない。自分で用意しろ」と言う。腹を立てた冠者は、殿様をだましてやろうと考えて、海老すくいの狂言小謡・小舞を教えて、ほのぼのとした味わいの良さを添えた能狂言風の舞台が展開される。
   他の演目を観ないと何とも言えないが、題材に京都や鎌倉を匂わせるものがあるのは、やはり、地方文化が都を向いていたことを示していて面白い。

   囃子方は、演目によっては移動があるようだが、左から、銅拍子、鉦、笛3人、地頭・小鼓、締太鼓・太鼓と7人くらい並ぶようで、謡は、太鼓の隣が地頭のようで、笛をはじめ他の奏者も地謡に加わる。「猩々舞」の時には、小鼓方が、謡い続けていた。
   
   さて、先日、今道友信先生の「わが哲学を語る」で、典礼芸術について、次のように紹介した。
   超越者から教わった宗教を、人間の儀式として盛り立てるために、人類は何か役立つものとして芸術品を作った、人間が救いを感じることが出来ると考えると、芸術は、人類の至宝ではないか。
   典礼芸術のない宗教は、非文化的なもので、芸術は宗教を内面的に支えるものの一つで、宗教は基本的な要素として典礼芸術を持っている。
   天岩屋戸を開くと、天照大神は再び外界へ出て、絶望的な暗さの中で悪がはびこっている時、歌舞音曲、芸術によって光を呼び戻して国の運命を変えた。

   日本には、「古事記」に表現されている「八百万の神」と言う日本独特の、森羅万象に神が宿るという考え方が存在する。あらゆる物事は神によって生み出され、それら全てにはそれぞれの精霊が存在するというもので、日本のように四季の変化やそれに伴う豊かな自然を感じる国民性が自然そのものを神のように崇拝するといった考え方を生んだとされている。と言うのである。
   また、「涅槃経」にも、「草木国土悉皆成仏」と言う言葉があって、草木や国土のように心を有しないもの(非情・無情)でも、みな仏になれるという、草木成仏・非情成仏と言う思想が仏教にもある。
   我々を取り巻く自然環境そのものが宗教的な雰囲気を醸し出していて、その舞台設定そのものが最も恵まれている鬱蒼と茂った厳粛で深遠な大自然に包まれた神社仏閣で、典礼芸術が生まれれ奏されると言うのは、日本人には、非常に馴染みやすい環境であり、素晴らしい芸術世界が現出するのは、当然なのかもしれないと思える。

   先に、九州の山奥に息づいている素晴らしいお神楽について書いたが、日本各地に残る芸術性の高い民族芸術の存在は、日本の民度、文化文明度の高さを示しており、今回の綾子舞を観てもそう思った。
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七月大歌舞伎・・・海老蔵の「源氏物語」

2018年07月28日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   久しぶりに海老蔵の「源氏物語」を観た。
   ずいぶん昔になるが、不確かだが、瀬戸内寂聴さんの「源氏物語」を台本にした海老蔵の歌舞伎を観た記憶があり、菊之助の「浮舟」など、時々、日頃の歌舞伎とは雰囲気の違ったしっとりとした舞台なので、結構楽しめるのである。
   ところが、今回の舞台は、京都などで随分上演されているにも拘らず、知らなかったので、HPを借用すると、
   ”夜の部は通し狂言『源氏物語』。歌舞伎×オペラ×能楽×華道×映像、5つの要素が歌舞伎座の舞台で一つになり、新しい物語を紡ぎ出します。それは、光源氏の抱える闇、孤独に焦点を当てて掘り下げた『源氏物語』。
   歌舞伎座では見たことのない映像と、美しいオペラの歌声が舞台を包み込み、華やぎにあふれればあふれるほど、浮かび上がってくる光源氏の孤独。光源氏がその表情にたたえる繊細な明暗をとらえたポスターにご注目ください。と言うことである。
   

   源氏物語の冒頭部分を、紫式部の萬次郎が書いて幕が開く成田屋ゆかりの「源氏物語」。
   桐壷帝の寵愛を一身に受けた桐壷更衣は、光り輝く皇子を生んで間もなく逝去し、光の君は、降下して、光源氏と名乗って臣下となる。桐壺帝が崩御、実子の朱雀帝(坂東亀蔵)が即位するが、帝の母の弘徽殿女御(魁春)は、桐壷帝の寵愛を奪われた憎い桐壷更衣の子供であり、我が子を脅かす存在として、光源氏を敵視して、その失脚の機会を窺う。ところが、こともあろうに、光源氏は、弘徽殿女御の妹と知らずに入内が決まっていた朧月夜の君と恋に落ち台無しにしてしまい、弘徽殿女御と父右大臣(右團次)の恨みを買う。母に生き写しの藤壺中宮に恋焦がれて子を設けた光源氏は、その春宮に累が及ぶことを危惧して、官職を辞し、傷心の内に須磨へ落ちて行く。
   夢に現れた亡き父帝のお告げに従った光源氏は明石へと移り住み、明石入道の娘の明石の君と出会い、美しい娘を授かる。
   桐壷帝が夢に現れて狂乱状態になった朱雀帝が、弘徽殿女御などの反対を押し切って光源氏を呼び戻す。

   大体、源氏物語の冒頭部分を脚色して須磨・明石までを劇化したのだが、これに、正妻葵上(児太郎)との夫婦生活と柏木の誕生、それに嫉妬し逆上する六条御息所(雀右衛門)の挿話を絡ませて、興味深い舞台に仕立てている。
   ところで、この歌舞伎は、通し狂言と銘打っているが、54帖のうち、冒頭の桐壷から一応14帖の澪標までのごく一部であって、源氏物語と言うには問題があり過ぎる。
   したがって主題を何にするかと言うことだが、海老蔵は、光源氏の心の闇を描きたいと言う。
   母に死に別れ、父桐壷帝には捨てられ、憧れの藤壺とは一夜を契って子供までなしたが出家されて罪に苛まれ、政敵の姫君朧月夜を傷物にして、周りから光の君とちやほやされるも、心の闇に苛まれて須磨に落ちて行く失意の光源氏。
   しかし、須磨で生まれた姫君の姿を見て、父桐壷帝の宮廷で苦しむ光源氏の将来を慮っての降下で、父の思慮深い慈愛であったことを実感して感激して幕。
   闇と光の物語で、美しくてダイナミックな極上の芸術美を全編に展開して、その闇で埋め尽くして、ハッピーエンドと言う設定なのである。
   したがって、葵上と六条御息所をサブには登場させたが、光源氏を取り巻く女性では、朧月夜事件をブリッジにして須磨下向を策した作品で、肝心の藤壺も登場しなければ、人気者の夕顔も出なければ明石の君(児太郎)も一寸顔を覗かせるだけで、色恋塗れのドン・ファン光源氏の実像は、表現されていない。
   興味深かったのは、普通の源氏解釈と一寸したニュアンスの差であろうが、この舞台では、光源氏と葵上との仲が睦まじくなって子をなしたこと、そして、弘徽殿の女御の凄まじいまでの光源氏に対する憎悪と敵意の表現であった。
   

   まず、初めに、能楽師が登場して、幽玄な能の世界が展開するのは、能「葵上」を脚色した舞台で、葵上が生んだ子供を抱きしめて愛しんでいる仲睦まじい源氏と葵上のところに、六条御息所の生霊が現れて、葵上を六条御息所の分身と化した能楽師が襲い掛かって責め苛むシーンで、能舞台のシテの舞。
   もう一つは、須磨に追われた光源氏が、桐壷帝の亡霊の出現や龍王(原書では住吉の神)のお告げを受けるシーンを膨らませてダイナミックに能仕立てたにした舞台で、正面の高台を能舞台に見立てて、能楽師の龍神、龍王、龍女が、広い歌舞伎座を能舞台さながらに舞い続ける王朝絵巻の極致。
   能楽師は、片山九郎右衛門、梅若紀彰、観世喜正と言った観世流のエースだが、当日、どなたが舞われたのかは分からない。
 
   この歌舞伎で、注目すべきは、プロジェクションマッピング技術(リアルとバーチャルを同期させる映像手法で、その両者の融合が生み出す幻想的な世界を現出)の駆使で、素晴らしい映像空間が、冒頭の四季の移り変わりから、舞台のみならず、前方の劇場空間を埋め尽くす迫力と感動。
   従来の映像技術やリアルでは表現しきれない、創造的で新鮮な空間を生み出すことが可能で、プロジェクター7台を駆使し、CGで作った大和絵風などの映像を紗幕に立体的に投影して、生け花も加わって、実に美しい錦絵を展開する。
   特に圧巻は、能楽師から代わった龍王役の海老蔵が舞台下手から3階席奥へ飛翔する宙乗りシーンで、センサーを取り付けた海老蔵の動きに応じて海の荒波の映像がダイナミックに揺れ動き、舞台からはみ出し、天井にまで広がる迫力で観客を圧倒。

   朝日デジタルの写真を借用、
   左上空に宙乗りの海老蔵の龍王、下段は、居並ぶ能の囃子方と義太夫三味線、左端は能楽師の龍神、歌舞伎と能、そして、革新的なデジタル映像技術「プロジェクションマッピング」を融合させた素晴らしいコラボレーションが、新しい古典芸能の歌舞伎の行く末を象徴している。「間口を破壊する勢いで映像を演出する。平安朝にタイムスリップしたかのような世界観を目指した」と語る海老蔵の夢が半ば実現。
   恐らく、東京オリンピックでは、團十郎を襲名した海老蔵の素晴らしい新作歌舞伎が上演されるのではないかと、期待させる舞台である。
   とにかく、花道への登場から宙乗りで消えて行くまでの海老蔵の激しいダイナミックな龍王は、正に歌舞伎の華、これこそ、千両役者の本領であろう。
   
   
   もう一つのこの歌舞伎の面白さは、オペラとのコラボレーション。
   闇の精霊アンソニー・ロス・コスタンツォと、光の精霊ザッカリー・ワイルダーが、随所で、語り部のように登場して素晴らしい歌唱で魅了する。
   よく分からないが、特に、カウンターテナーのコスタンツォの歌唱の魅力は格別で、G.F.ヘンデルなどの歌曲などを歌っているのであろうか、上手の御簾裏に待機した古楽器の小オーケストラが音楽を奏して実に美しく、これだけ聴くだけでも私は満足であった。

   今回の歌舞伎の舞台を観ていて、この歌声や古典楽器のサウンド、そして、小刻みに小舞台にスポットを当てて素早く舞台展開する手法などは、ロンドンのグローブ座やRSCのシェイクスピア戯曲さながらで、斬新な舞台演出が心地良かった。

   堀越勸玄君の素晴らしい芸、それに、児太郎と魁春の舞台に感激、
   雀右衛門が素晴らしい舞台を見せていたが、能役者とのコラボが不明確で、一寸割を食って可哀そう。
   ラストの光源氏の帰還を迎えて浮かれ踊る人々の喜びのシーンなどは、見せるための蛇足だとは思うし、芝居としての舞台展開には多少粗削りの面もあろうが、非常に斬新で意欲的な舞台で、魅せてくれた。
   とにかく、久しぶりに興味深い価値ある舞台を観て楽しませて貰った。
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わが庭・・・カノコユリ咲き乱れる

2018年07月27日 | わが庭の歳時記
   シーボルトがヨーロッパへ持ち込んだと言われているカノコユリが、わが庭で、咲き乱れている。
   白地にピックの鹿の子模様がユニークで、世界のピンク系のユリの園芸品種は、このユリが改良されたものだと言うのだが、花びらが反り返る風情が、中々優雅で面白い。
   このユリは、新芽から太くて豪快にすっくと立ちあがって大きな花を咲かせるカサブランカなどのオリエンタルハイブリッドとは違って、ひょろりとしたか細い茎を長く伸ばして、小さな蕾をつけていて、日頃は殆ど目立たないのだが、急に、蕾が膨らんで、このような綺麗な花を咲かせる。
   沢山の蕾をつけて次から次へと咲くので、殆ど、支柱で支えるか、他の木々に絡ませないと地面を這う。
   アジサイもボツボツ最盛期を過ぎて、殆どのユリも消えてしまった私の初夏の庭には、貴重な花である。
   
   
   
  
   朝顔が咲いている。
   一本だけ芽が出た西洋アサガオが、庭木を這い上がりかけているが、咲くかどうか、
   咲けば、秋深くまで咲き続けるのだが、期待して待とう。
   
   
   
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カミンズ:トランプ関税に泣く

2018年07月26日 | 政治・経済・社会
   ニューヨーク・タイムズの電子版を見ていると、CEOのOPINIONとして、「トランプ関税がアメリカ企業を傷つけている」と言う次の記事が掲載されていた。
    A Message From a C.E.O.: Tariffs Are Going to Hurt American Companies
      By Tom Linebarger
      Mr. Linebarger is the chief executive of Cummins.


   先日まで、アメリカの経済学者が、トランプ関税に対してネガティブな見解を述べていたので、紹介してきたが、実際に、打撃を受けて困っているアメリカ企業が出てきていると言うことで、興味深いので取り上げてみる。
    このカミンズ(Cummins Inc.)は、1919年創業のアメリカのディーゼルエンジンメーカーで、機関車や巨大船舶などのディーゼルおよび天然ガスエンジン、発電機、ディーゼルエンジン用各種コンポーネントの生産・販売・アフターサービスを行っており、日本にも、カミンズジャパンが、建設、鉄道、鉱業、船舶、政府機関、発電装置、トラックバス、農業といったあらゆる業界の顧客に、エンジン、発電装置、エンジンコンポーネント、サービスおよび部品を供給していると言う多国籍企業である。

   この記事では、ラストベルトのシーモア工場について書き始めている。
   シーモアで生産される製品の80%は輸出であるので、この工場のグローバル・マーケットへのアクセス如何が、この工場にとっては死活問題となる。
   シーモアには、1000人の従業員が居て、過去7年間に3億ドル以上を投資して、数百人のエンジニア―のいる付属のテクニカルセンターにも、50人追加雇用した。他の地方工場は、四苦八苦だが、シーモアは生き延びた。
   しかし、今回のトランプ関税によってシーモア製品の価格高騰でサプライチェーン・コストが上がり、更に、外国の報復関税に遭遇して売り上げがダウンして、業績が悪化してしまった。
   約20年間のカミンズの事業において、成長と雇用にとっての唯一かつ最も重要な貢献者は、国際貿易であって、全事業の半分は、海外での事業であり、アメリカの従業員25000人の内20%は、直接国際事業に関わっている。そして、カミングを支えているサプライヤーたちの命運も、カミングの成長あっての成長なのである。

   関税は、税金である、単純明快だ。
   カミンズにとって、鉄鋼アルミへの関税、アメリカで生産される製品への関税、同時に、外国への輸出品に課せられる報復関税の影響を、税制改革の恩恵で軽減するのなどは難しい。それに、この改革は、今回の一連のトランプ関税を勘定に入れていないし、当然、同社、そして、そのサプライヤーに課せられる避け得ないコスト増も考慮されていない。

   カミンズのサプライチェーンは、何十年も年月を積み重ねて最適化してきたものであって、短期間に再構成するのなどは不可能である。会社は、2500以上のアメリカ企業から部品や材料を購入しており、cylinder blocks, connecting rods and electronic controlsと言った特別な部品に至っては、とにかく、サプライヤーが限られている。同社が特化している製品、engines for large tractor-trailer trucks, garbage trucks, trains, construction and mining equipmentなど、アメリカの自動車市場よりも遥かに小規模なので、サプライヤーの探索に苦労する。
一つのエンジンの例だが、米国で開発されて中国で生産されたたった5000台のエンジンを、アメリカに輸入するとトランプ課税が課せられる。したがって、アメリカ人エンジニアが開発してアメリカの会社が販売するこのエンジンが、自社の中国工場から輸入したと言うだけで25%の関税を課されるので、課税されないヨーロッパやアジアのエンジンメーカーの製品とは競争にならない。カミンズにとっては、危機以外の何物でもない。

   中国は、貿易慣行を近代化し知財保護を改善するなど多くの問題を抱えているが、米国友邦国ともに長期戦略を持って、当たることが大切で、二国間条約や関税競走では、何の解決にもならない。トランプ関税は、貿易交渉を始めた時点よりも状況を悪化させており、先が見えない。この不確実性ゆえに、企業は、投資見通しも立てられないし、関税実施よりも貿易しない方が良い。

   ビジネスは、ジレンマに直面している。関税を吸収すべきか、カスタマーに負わすべきか。
   関税実施には、上面はない。関税は税金であって、それに起因する貿易戦争は、経済をスローダウンさせる。たとえ、中国やヨーロッパの貿易相手に短期的な障壁を掛けても、長期的には米国のマーケットシェアを落とし、米国の雇用を減じる。単なる関税の恐怖だけで、カミンズに立ち上がり不可能なくらいの深刻なコスト増を引き起こす。

   最後に、ラインバーガーCEOは、次のように訴える。
   私は、カミンズのリーダーとして、株主、カスタマー、従業員、のために、ポリシーメーカーと共に、ビジネスにとって健康な環境を創り出す責任がある。重要なことは、カミングの利益のみならず、我々の雇用であり、関係者すべてのためである。アメリカの労働者とその家族が、貿易戦争の真の犠牲者となっているのである。

   この現象は、先に紹介した3人の経済学者の見解を立証するようなもので、アメリカの製造業に起こっている事実だとすると、アメリカの製造業の危機でもある。
   アメリカで、立派に国際競争力を保持して健闘している虎の子の製造業でさえ窮地に追い込むトランプの無節操な保護貿易戦争が、何を意味するのか、このニューヨーク・タイムズのオピニオンの波紋は大きいと思っている。
   今日、トランプ政権がEUで、貿易戦争の回避に向かって前進したと報道されていたが、トランプのことだから、どんなどんでん返しが起こるかも知れない。
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ヌリエル・ルビーニ・・・PS:トランプは、グローバル経済の回復を殺すかも知れない

2018年07月25日 | 政治・経済・社会
   ヌリエル・ルビーニは、プロジェクト・シンジケートに「Trump May Kill the Global Recovery
」を書いた。
   ルビーニは、クリントン政権やIMF、FED、WBなど枢要機関で働いたNYUの教授、世界金融危機を予言したことで知られている経済学者で、この記事では、結構、トランプ政策を厳しく分析している。
   私自身、読んでいて、案外、ぴったりと的中して、トランプはアメリカ経済の成長の芽を摘んでしまうかもしれないと思っている。

   しばらく、ルビーニのご意見を拝聴しよう。

   2017年まで、成長拡大を続けて来た世界経済が、緩やかな成長を続けつつも、2018年に入って怪しくなってきた。欧米先進国のみならず新興国においても、拡大する貿易戦争のために、経済誌長が鈍化してきたのである。
   巨大なシェア―を占めて世界経済を牽引するチメリカ(Chimerica)が、トランプの鉄鋼アルミへの関税や更なる課税など貿易戦争の脅威に晒されており、欧州への課税やNAFTAの再交渉など、貿易に関する全面戦争となる危機に直面している。
   
   一方、アメリカ経済は、既に完全雇用状態であり、大幅な公共支出、石油価格やコモディティ価格の高騰などで、インフレーションが危惧されており、FRBが金利上昇に迫られている。ドルの高騰により、貿易収支の悪化を阻止するためにトランプは、更なる保護政策を取らざるを得ず、他国を攻撃する。
   同時に、ECBが、インフレを見越して、非伝統的金融政策を徐々に収束させてグローバルベースでの金融がタイトになって、強いドル、金利高騰、流動性の縮小と呼応してエマージング・マーケットに影を落とすであろう。

   経済成長の鈍化、更なるインフレ、金融引き締めなど、財政状況の引き締めやボラティリティの増加によって、投資家の心理を委縮させ、減税による企業の増収益にも拘わらず、米国のみならず世界の株式市場は、悪化基調で、2月以降、インフレの進行や貿易戦争を懸念して打撃を受けている。更に、トルコ、アルゼンチン、ブラジル、メキシコなどの新興市場の動向や、イタリーなど欧州のポピュリスト政治の台頭などが懸念されている。
   今や、危険は、経済とマーケットとのネガティブなフィードバック・ループで、経済のスローダウンが、株式、ボンド、クレジット市場の財務状況を悪化させて、それが、さらなる成長抑制要因となっている。

   2010年以降は、スタグ・デフレーションの心配があったが、現在の最大のリスクは、スタグフレーション(slower growth and higher inflation)で、これは、貿易戦争からくるネガティブなサプライ・ショック、政治的意図による供給制限からくる石油価格高騰、米国国内のインフレ政策などによる。しかし、FEDや他の中銀は、金融政策を抑制しつつあり、インフレ高進のために、市場救済が不可能である。

   更に、2018年が、これまでと違うのは、トランプの政策が、更なる不確定要素を生み出していることである。貿易戦争の立ち上げに加えて、トランプは、アメリカが第二次世界大戦後に築き上げて来たグローバル経済およびジオストタテジック秩序を、実際に、壊しつつあることである。

   それに、トランプ政権が実施してきたそれなりの成長促進政策が、既に、効力を使い切ってしまっており、殆ど機能しなくなっている。トランプの得意とする財政や貿易政策は、個人投資を締め出し、外国からの直接投資を減少させ、更なる対外赤字を引き起こすであろう。過酷な移民政策は、高齢化社会に必要な労働の確保を阻害し、トランプの環境政策は、将来のグリーン経済におけるアメリカの競争力の涵養を害する。トランプのプライベート・セクターイジメは、企業に雇用を諦めさせ投資を躊躇させる。

   アメリカの成長促進政策は、成長抑制手段で沈没常態である。たとえ、アメリカ経済が、来年、潜在成長力を越えたとしても、財政促進効果は、2019年中葉には消えるであろうし、FEDは、インフレをコントロールするために、長期均衡政策をオーバーシュートするであろうから、ソフトランディングは難しくなる。保護主義の拡大によって、不安定なグローバル市場は、2020年に向かって、深刻な経済下降へのリスクによって、恐らく、乱気流に巻き込まれるであろう。ボラティリティの低い時期なので、現今のリスクフリーの時期が続くであろう。 
  
   さて、アメリカ経済が、どのような状況下にあるのか、特に意識して勉強しているわけではなく、新聞やテレビの報道程度の情報なのでよく分からないが、今度の中間選挙で、アメリカ国民がどのような反応を示すのかを見れば、かなり、分かるのであろう。
   これまでに、ワシントンポスト記者たちの著わした「トランプ」や、話題になったマイケル・ウォルフの「炎と怒り」そして、その原本「FIRE AND FURY」を手に取って読み始めたのだが、あまりにも酷い内容なので、途中で投げ出してしまっている。
   私が生きて来た20世紀の中葉から今に掛けて考えても、信じられないような出来事が、歴史上に起こっていて、トランプが何をしようとも、特に驚かないのだけれど、不思議な夢を見ているような世界である。
   
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芸術の素晴らしさに感応するために

2018年07月24日 | 生活随想・趣味
   プラトーンは、芸術を非常に大事なものと考えていた。何故なら、芸術を通じて「ロゴス」に近づくことが出来るからだと言う。
   芸術の天才は、神に攫(さら)われた狂気から生まれる。たとえば、神がホメーロスを攫ってその言葉を語り、神が語った言葉をホメーロスがギリシャ語に写してそれを吟遊詩人が演じる。インスピレーションは、神が芸術家に息を吹き込むことで、神にインスパイア―された狂気の天才が、崇高な芸術作品を生み出すのである。
   以前に、小澤征爾が、モーツアルトの音楽について、神が自らモーツアルトの手を執って書かせたとしか思えないと言っていたが、このことであろう。
   したがって、我々は、音楽家の音楽を聴くのではなくて、演奏家が弾く、神に攫われてインスパイア―された作曲家の音楽を聴いているのである。

   これは、先日ブックレビューした今道友信先生の本の一部だが、何故引用しようと思ったのか、それは、日経の中村吉右衛門の私の履歴書の今日の記事に、マウリツィオ・ポリーニの演奏に感激したことなど、芸術の素晴らしさについて言及しているからである。
   私が、ポリーニを最も最近聴いたのが、ロイヤルフェスティバル・ホールでだが、あの華麗なミラノスカラ座で聴いたと言うのであるから、夢のようなひとときだったと言うのが良く分かる。
   私など、やじうま根性で、いや、リヒテルか、ミケランジェリ、いや、ブレンデルが良い、などと勝手なことを言えるのだが、今道先生の言に従えば、神がインスパイア―して生まれた作曲家の音楽そのものを、最も忠実に、最も美しく演奏して、観客の琴線に触れさせた演奏家の音楽を聴いた喜び、至福の時間を味わった感激と言うことであろう。
   吉右衛門の記事「音楽の感動」のタイトルも、「心に届く作曲家の魂」と記させていて、サブタイトルが、「全身全霊でぶつける芸の力」となっている。
   
   この吉右衛門の記事には、ポリーニに託して、先の歌右衛門が「芸品というものを大事にしなさい」と言った話や、野村光一が「フルトベングラーは、(初代)吉右衛門の芸風に似ている」と言った話など、吉右衛門の芸術に対する思いが記されていて興味深い。
   マーラーの交響曲第5番を聴いて感涙がほほを伝わった、自分の葬式にこの曲を流してほしいと思っていると語っているが、真の芸術家であるが故の感受性豊かな感動であろう。
   一芸に秀でると言うことは、一芸だけに秀でると言うことではなくて、富士の山が高ければ裾野が広大なように、頂点を極めた芸術家であるが故に、真の芸術に感応して心を震わせ得るのであろうと思う。
   直観的なインスピレーションの感応と言うことであろうか。

   さて、私のような凡人であるが、今道先生の「美について」を読み始めたのだが、
   芸術作品の理解には、鑑賞者の人間体験の理解と相即しており、人間体験を深めるために、芸術体験が役に立つ。作品が指し示している価値に出あうために、精神の行う運動、それが解釈で、その作品に向かって我々の精神を飛翔させる。
   どのような作品の場合にも、理性的に理解すると言う段階がなければ、その作品の鑑賞は成立しない。美はこの意味で、確かに理性的に発見されなければならない面がある。

   よくは分からないが、要するに、立派な芸術作品を沢山観て聴いて、同時に、一生懸命勉強して周辺知識を積み上げて理論武装しながら、鑑賞眼を磨いて行けと言うことであろうか。
   いずれにしろ、芸術を鑑賞すること、芸術の美を味わうためには、その人間力と言うか、鑑賞者の人間体験を充実させて、より高度な真善美を感得できるような人間の涵養を目指せと言うことであろう。
   私に分かっていることは、芸術鑑賞には、日頃からの研鑽努力、大変な勉強が必要だと言うことだけである。
   
   
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今道友信  わが哲学を語る  (今、私達は何をなすべきか)

2018年07月23日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ダンテ・フォーラムで、2回くらい、今道友信先生の講話を聴いた。
   丁寧にびっしりと筆記されたメモを教材に、静かに実に誠実に、仙人のような雰囲気で、ダンテを語る世界的な哲学者の姿に感銘を受けた。

   森永エンゼルカレッジのHPから、今道先生の「ダンテ『神曲』連続講義15回」が聴講できるが、私には重過ぎるので、まだ、断片的にしか聴いていない。
   平川祐弘教授の「神曲」をまず読んでからと思っているのだが、そのままになっている。

   しかし、今道先生のダンテの「神曲」講義は、人間の悲惨な、悲しい状況を、至らない人間でも、魂を磨くことが出来れば、神の恵みを願っていたり、真心の愛を人に捧げる気持ちがあれば、いつかは天国に行けると言う、死後の世界を、これ程ドラマチックに考えさせながら語っている書物はないと思って、趣味として、毎土曜日に2~3時間、50年間読み続けて来た哲学者の集大成だと言うから、畏怖と畏敬の思い以外の何物でもない。

   さて、哲学だが、私には縁の遠い世界で、京大でありながら、教養で、「哲学」の講座を1単位取っただけで、プラトンを少し読んだ程度で、全く知識はない。
   ダンテも読みたいし、哲学の片鱗にも触れてみたいと、大それたとは思いながら、今道先生の本を調べていたら、「孔子、荘子、プラトーン、そして芸術、宗教を通じ 今道友信が築き上げた事故の哲学を語る」と帯に書いた、比較的新しいこの本を見つけて、まず、読んでみようと思った。
   この本は、わが鎌倉の大仏のある高徳院で行われた連続講義を書籍化したものだと言うので、哲学概論などと言ったテキストではなくて、結果としては、結構楽しめた。

   冒頭から、祈りと芸術を語り始めて、超越者から教わった宗教を、人間の儀式として盛り立てるために、人類は何か役立つものとして芸術品を作った、人間が救いを感じることが出来ると考えると、芸術は、人類の至宝ではないか。と言う。
   典礼芸術のない宗教は、非文化的なもので、芸術は宗教を内面的に支えるものの一つで、宗教は基本的な要素として典礼芸術を持っている。
   天岩屋戸を開くと、天照大神は再び外界へ出て、絶望的な暗さの中で悪がはびこっている時、歌舞音曲、芸術によって光を呼び戻して国の運命を変えた。
   人を絶望の淵から立ち上がらせてきた多くの詩劇や誌や歌、芸術の美と人の心との交歓を語りながら、如何に芸術が人間にとって大切かを第一章で語っている。
   興味深かったのは、学問一筋の老哲学者が、万葉集や百人一首などから引用する歌は、恋の歌ばかり・・・恋と鯉を間違えていたと言う幼年時代、美女の後をつけて門前で二階の灯りを仰ぎ見た初恋時代・・・人間今道友信が垣間見えて面白い。

   第二章は、東西の哲学を読みなおす  
   プラトーンに学ぶ 自然哲学について 孔子の美学 荘子の創造力
   ソークラテースから説き起こすプラトーンでも、芸術は神に攫わせた神懸りの狂気から生まれると、プラトーンが芸術を非常に大切なものだと思っていたことを強調。
   孔子の儒教は、宗教だと誤解を解き、犠牲の大きい美を説く美学が素晴らしい。
   この章を読み通しても、今道先生の説明は薄々分かっても、いまだに哲学とは何か、よく分からないので、この説明で得たような考え方をすることが、哲学をすると言うことなのだろうと、勝手に利己解釈している。
   
   最後の第三章は、21世紀の倫理学
   現代社会の倫理的反省をして、新たな倫理学を模索し、今、私たちは何をなすべきか を考える今道友信倫理学の要諦である。
   今道先生の目指すのは、「生圏倫理学(エコエティカ)」
   部族倫理や民族倫理、または、国家倫理ではなく、人類全体の生圏、つまり、宇宙空間や人体内の極微空間を含む、生活行為行動圏が及ぶ、真の普遍的倫理体系である。と言う。
                            
   道徳とは、人のふみ行うべき道、善悪についての常識的規範の総体で、何が善で、何が悪かを心得ていることで、それを定義する学問が「倫理」である。
   倫理は、元々、「礼記」の中で、道徳の規範となる道理であるとされていた。
   したがって、法を倫理で規制しなければならないのに、日本は、国家公務員倫理法などと言う、倫理を法で取り締まると言う、恥も外聞もない逆転国家であり、企業でも、服務規定が「倫理綱領」となって罷り取っていると言う嘆かわしい状態だと慨嘆する。
   こんな倫理の分からない日本であるから、今道友信が立ち上げて、本部をコペンハーゲンにおく世界的に認知されている「今道友信哲学研究所」のエコエティカの影は、日本では薄いと言う。

   世界が今はとにかく、宗教を問わず、倫理で一つになる、人類に開かれた倫理の改革に向かうべきだと言う今道友信の倫理哲学が、大輪の花を咲かせて、如何にして、この宇宙船地球号を救うのか、今は亡き哲学者の祈りには切なるものがあろうと思う。
  
   真善美を追求し続けてきた今道先生は、特に、美について、この本でも、如何に先哲が真実を探求してきたかを語っている。
   私も、美しいものを見たい接したいと言う思い一心で、旅を続けて、多くの世界遺産や古社寺、博物館や美術館を行脚し、オペラやコンサート、古典芸能などの鑑賞のために、劇場を駆け回ってきたが、人生としては、それ程、間違ってはいなかったのでろうと、ほっとしている。
   もっともっと知りたい、勉強したいと言うのが、今の気持ちである。
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観世能楽堂・・・第41回納涼能

2018年07月22日 | 能・狂言
   能楽協会東京支部主催の「第41回納涼能」が、観世能楽堂で開催された。
プログラムは、次の通り
   出演者は、五流の宗家と人間国宝などトップ奏者、狂言の宗家と言う豪華版で、感動的な舞台が展開された。
能(観世流)  西行桜 素囃子   梅若 実
狂言(大藏流) 鳴子遣子      大藏彌右衛門 
仕舞(金剛流) 加茂        金剛永謹
  (宝生流) 田村 キリ     宝生和英
  (喜多流) 玉葛  塩津哲生
能(金春流)  船弁慶 遊女之舞 替之出 金春憲和

   この新しい観世能楽堂は、非常に近代的で素晴らしいのだが、超一等地GINZA SIXの地下3階にあるので、480席と少し小規模で、橋掛かりが短くて、見所の脇正面席が浅くて、正面と中正面席が深く長くなっている。
   鏡の間も狭いのであろう、お調べの笛の音が臨場感たっぷりに聞こえてくる。

   「西行桜」は、京都の西山、西行の庵の桜の話で、西行(ワキ/森常好)は一人で楽しもうと花見を禁止したのに、多くの人を庵室に迎えることになり、桜のために静かな暮らしを乱されたと歌を詠むのだが、夜、西行の夢に老桜の精(シテ/梅若実)が現れ、桜に咎はないと謡い、都の桜の名所を挙げて、静かに舞を舞って、春の夜を惜しみながら夜明けと共に消えて行く。実に美しい舞台である。
人間国宝梅若実の優雅で風格ある老長けた老桜の精が秀逸。

   金剛永謹の「加茂」は、加茂の別雷神の豪快な舞、 宝生和英の「田村」は、田村丸が千手観音の威力を借りて賊をせん滅する迫力のある舞、エネルギッシュで素晴らしい。
   塩津哲生の「玉葛」は、源氏物語では、一番魅力的な乙女ながら、能では全くイメージチェンジしてしまった玉鬘を、しっとりと舞う。

   「船弁慶」は、義経千本桜の「渡海屋・大物浦の段」の印象が強すぎるのだが、この尼崎の大物浦出港前後が舞台だが、他に、能「船弁慶」と殆ど同じの、歌舞伎「船弁慶」があるのだが、私は、見たのか見なかったのか記憶にはない。
   義経と弁慶が登場する芝居ながら、この「船弁慶」の主役は、前場では、義経と分かれる悲運の静御前、後場は、海路に亡霊として現れて義経に立ち向かう平知盛の霊であるところが面白い。
   この静御前の哀調を帯びた優雅な舞と、豪快な知盛の霊を、若き金春流の宗家金春憲和が折り目正しく舞って観客を魅了する。
  
   狂言については、先日書いたので省略する。
   流石に、能楽協会が力を入れる公演であり、素晴らしい時間を過ごさせて貰った。
   
   
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都響定期C・・・アラン・ギルバートのバーンスタインとガーシュイン

2018年07月21日 | クラシック音楽・オペラ
   今日の都響定期Cのプログラムは、
   バーンスタイン生誕100年記念、ガーシュウィン生誕120年記念】
   ドヴォルザーク:交響曲第9番 ホ短調 op.95 B.178 《新世界より》
   バーンスタイン:『ウエスト・サイド・ストーリー』より「シンフォニック・ダンス」
   ガーシュウィン:パリのアメリカ人

   2009年のシーズンから、ニューヨーク・フィルの音楽監督を務め、今期から都響の首席客演指揮者となったギルバートのコンサートであるから、大変な熱気。
   ニューイングランド音楽院でヴァイオリン、ハーバード大学で作曲、ジュリアード音楽院とカーティス音楽院で指揮を学んだ。と言うから、アメリカでは最高峰の音楽教育を受けた俊英で、バースタインやガーシュウィンなどは、血肉としてビルトインされているのであろう。
   父はアメリカ人だが母は日本人のハーフ、スマートな指揮者と言うよりは、野武士のような風格を備えた貫禄十分の風貌で、緩急自在、ダイナミックに都響を歌わせて感動的な舞台であった。

   私の席は、前方右側で、指揮者とコンサートマスター、それに、ソリストの表情がビビッドに見えればよくて、オーケストラと直近なので、サウンドが強烈に耳を打つ聴覚的感動さえ味わえればよいと思っているので、これまでとのコンサート鑑賞の雰囲気とは随分違うのだが、満足している。
   したがって、今日は、ギルバートの指揮ぶり表情を、ずっと直視していた。

   何故か、暗譜で指揮しておりながら、バーンスタインに敬意を表してか、この時だけ、正面に譜面台を立てて、申し訳程度に譜面を繰っていた。
   もう一つ、面白いと思ったのは、「新世界より」は、指揮台に立って呼吸を整えて丁寧にタクトを下したのだが、バーンスタインの時には、指揮台に近づいて指揮台に上がったと思ったらすぐオーケストラの方に向きを変えてアスリートがスタートするスタイルになって、指揮をはじめ、ガーシュインの時には、もっと簡略して、指揮台に上がって振り返った瞬間に指揮を始めた。
   昔、ロンドンで、ネルソン・フレイレが、ピアノに向かって座った瞬間に、ピアノを弾き始めたのにびっくりしたことがあるが、このバーンスタインやガーシュウィンのようなモダンな現代曲は、そのような間髪入れずにスタートする方が、曲想なりイメージに合うのであろう。
   
   私は、欧米でかなりバーンスタインの音楽を聴いており、最晩年に、ロンドンで、ロンドン交響楽団だったと思うが、コンサート形式で、バーンスタイン自身が指揮した「キャンディード」全曲を聴いており、ウエストサイド・ストーリーなど、映画は勿論、ビデオでも、カレーラスとキリ・テ・カナワのクラシックバージョンを含めて、何回も観て聴いていて、親しんでいる筈なのだが、今回の「シンフォニック・ダンス」も、私には、何となく、古典派のクラシックとは一寸違った感覚で、当然ながら、新しいモダンな曲を聴いているような感覚。

   ガーシュウィンも、聞きなれた「ラプソディ・イン・ブルー」とは違って、「パリのアメリカ人」も2~3回程度しか聞いていないので、これも新鮮であった。
   私の場合、ジャズに殆ど触れた機会がなく、ブラジルに住んでいたのでサンバやボサノバは別として、アルゼンチンのタンゴやメキシコのマリアッチと言ったラテン系の音楽も旅人として聞いた程度では、ジャズやラテン系などの民俗音楽を濃厚に体現したバースタインやガーシュウィンの音楽の良さは、十分に分からないのであろうと言う気がしている。
   アメリカのニューヨークに居ると、正に、人種の坩堝で、アメリカにいるような気がしない。
   むしろ、メトロポリタン・オペラやアベリーフィッシャホールのニューヨーク・フィルのコンサート会場に行った方が、アメリカを感じさせてくれる。
   こんな感覚を含めて、アメリカのクラシック音楽にアプローチすべきなのであろうと思う。
   
   尤も、そんな感覚とは何の関係もなく、素晴らしい演奏で、ギルバートの鮮やかなタクト捌きで、都響が、水を得た魚のように、軽快なリズムに乗って、楽団員たちも、フィンガースナップを鳴らしたり、右手を上げて歓声をあげるなど、結構乗りに乗って、メリハリの利いたバリエーションに飛んだダイナミックなサウンドが感動的。
   
   さて、普通のクラシック・コンサートなら、メインで最後に演奏されるドボルザークの「新世界より」が、真っ先に演奏されると言う変わった演奏会。
   私には、これまで、世界の名だたるオーケストラで随分聴いてきた曲で、最初から最後まで、鮮明に耳にこびり付いている交響曲なのだが、久しぶりに、凄く美しい感動的な「新世界より」を聴いて感激している。
   ホームシックにかかって望郷冷めやらぬドボルザークが、あの美しいボヘミアの大地、そして、モルダウに影を映すプラハ城を思いながら万感の思いを馳せて作曲したと思しき「新世界より」。
   当時のニューヨークがどうだったか分からないが、私は、あのプラハが、私が見た多くの世界の街の中で、一番美しくて優雅な街だと思っているので、ドボルザークの思いがよく分かる。
   しばらく、瞑目しながら、聴いていた。
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狂言:大藏彌右衛門宗家の「鳴子遣子」「鏡男」

2018年07月20日 | 能・狂言
   能や狂言の世界で、その流派の宗家が、どういう意味を持つのか、分からない門外漢の戯言だが、この3日の間に、大藏彌右衛門宗家の狂言師の舞台を2回観たので、一寸印象記を書いてみようと思った。
   大蔵流と言えば、私の場合には、茂山千五郎家や山本東次郎家の舞台の方を多く観ていたのだが、流派に拘らない国立能楽堂に通っているので、殆どの流派や家の狂言を観ており、そのバリエーションの豊かさと、底の深さを感じて、伝統古典芸能の威力に感心し続けてきている。

   ウィキペディアによると、
   現在大藏家では二十四世の長男、二十五世宗家・大藏彌右衛門虎久(基嗣)と、その弟の吉次郎(基義)、彼らの子である『大藏三兄弟』、大藏彌太郎千虎(虎久の長男)・大藏基誠(虎久の次男)・大藏教義(吉次郎の長男)。『OHKURA BROS』、大藏康誠(基誠の長男)、大藏章照(千虎の長男)の7人が大藏の名を名乗り東京を中心に活躍している。と言うことである。

   今回、見たのは、国立能楽堂の定例公演の「鏡男」で、シテ/男 彌太郎、アド/女 基誠
   観世能楽堂での納涼能の「鳴子遣子」で、シテ/茶屋 彌右衛門、アド/游山人 彌太郎 基誠
 
   「鏡男」は、落語の「松山鏡」の簡略バージョンと言った感じの狂言で、都での訴訟結審で帰国する男が、妻への土産に、「鏡」を買って帰るのだが、鏡を知らない女は、鏡に映った自分の顔を見て、男が、女を都から連れて帰ったと怒って、男を追い込む話。
   歌舞伎の「毛抜」も、昔の人間には全く珍しい「磁石」を使ってお家乗っ取りを図る話だが、全く知らなくて初めて見る利器に、振り回されると言う新しや趣味の笑い話である。
   彌太郎・基誠兄弟の息の合ったコミカルタッチの「鏡男」は、冴えていて面白かった。
   背の低い兄が男で、背が高くパンチの利いた弟の女ぶりとのアンバランスが一層笑いを誘う。

   狂言「鳴子遣子」は、鳴子か遣子かで言い争う二人の判定人になった茶屋が、賄賂を貰いながら、賭けは悪いと言って、賭禄の二人の刀を持ち去ると言う話。
   御大の彌右衛門が、茶屋で、賭禄に勝ちたいばっかりに、袖の下を匂わせて加勢を頼む二人の子息兄弟をいなす面白い話だが、この場合、賄賂は後で届けると言う口約束なので、どうなるのか。
   いずれにしろ、狂言では、賭けには、必ず判定者が登場して、賭けた人間が、判定者を賄賂で抱き込もうとして、失敗する話が多いようなのだが、この狂言の賄賂提示のシーンは、先日レビューした「佐渡狐」で外人客が笑い転げたような、役人が拒否しながら賄賂を袖の下に取り込んでほくそ笑むような臨場感溢れる演技ではなく、あっさりとした淡白なものであった。
   しかし、実直一筋の彌右衛門に対して、メリハリのしっかり利いたパワーのある兄弟の掛け合いが、面白かった。
   彌右衛門の弟の吉次郎の、特徴のある個性的な顔の表情の所為でもあろうが、兄に似た実直真面目一方の芝居心に、何処か惚けた調子のズレた感覚が見え隠れする舞台が好きで、私など、ファンでいつも楽しみにしているのだが、この大藏彌右衛門家の狂言の世界も、中々、個性豊かで楽しませてくれる。
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アムステルダム観光客急増で規制強化

2018年07月19日 | 政治・経済・社会
   オランダのアムステルダム市が、観光客が多くて、市民生活の安寧が脅かされて生活が満足に営めないので、観光客の行動を制限する挙に出た。と、NHK BSの国際ニュースで報道していた。
   観光客が急増し悪影響が出れば、長期的に見て街は魅力的でなくなると言う。
   規制をしなければ、今の観光客1800万人が、2025年には、3000万人になると言うのである。
   

   アムステルダムは、人口80万人少しのオランダの首都で、非常に美しい街全体が文化遺産で埋め尽くされた風格のある古都でもあり、運河が扇状に廻らしす港町でもあり、正に、水都でもある。
   私は、ヨーロッパでの事業には、常識的なロンドンよりも、この国際的なアムステルダムに居を構えて、四方八方に、触手を伸ばして事業展開を図る方が良いと思って、最初のパイロットオフィスをアムステルダムに置くことを提案して、乗り込んで行ったので、一番強烈な印象に残っている都市である。

   私が、オランダに駐在していたのは、1985年から1989年までで、その後、事業の展開でロンドンに移ったが、イギリスが、サッチャー政権でシティがビッグバンに沸き、ベルリンの壁が崩壊しソ連が壊滅する直前までだったが、国際都市アムステルダムでの生活は平穏であった。

   さて、ここでは、アムステルダムやオランダのことを論ずるのは、止めて、アムステルダムの観顧客に対する措置についてのみ、考えることにする。

   規制は、3点。
   1、観光客目当ての店の新規開店規制
   2、観光バスの市内乗り入れ禁止
   3、遊覧船の中心部への停泊禁止
   
   
   
   
   この20年くらいは、アムステルダムへ行ったことがないので分からないのだが、やはり、運河の街なので、船での街の中心からの運河めぐりやアムステルダム港の遊覧は魅力の一つで、これを規制されると、観光客のみならず、観光関係のビジネスに打撃を与えるであろう。

   もう一つ、オランダは、建物の変更や規制など建築基準は極めて厳しいのだが、都市開発と言うか都市計画には規制が緩く、完全に隔離されているドイツと違って、飾り窓が民家と隣接していて、役所にも近かったり、ミシュランの星付きレストランの窓からネオンが見えると言ったところなので、観光客用の店が、無秩序に展開されているのかも知れない。

   この観光客増による景観と言うか機能などの変化は、大阪日本橋の国立文楽劇場によく行くので、対面の黒門市場も良く訪れる。
   京都の錦市場も同じ状況かも知れないが、昔から、大阪市民や京都市民の台所として非常に貴重な存在であった。
   しかし、この黒門市場は、今や、大阪市民や日本人観光客らしき客など殆どおらず、客の大半は、中国人などアジア人観顧客ばかりで、街の様相は、完全に変わってしまっている。

   もう、10年ほど前になるが、ベネチアを訪れた時に、以前なら、半日あれば、ドカーレ宮殿とサン・マルコ寺院をゆっくり観光できたが、もう、一方しか回れなかったし、フィレンツェのウフィツィ美術館など、入場が至難の業であった。
   ミラノの最後の晩餐は、ホテルに依頼したので入館できたが、最近では、恐らく、個人的には無理かもしれない。
   グラナダのアルハンブラなど、行く度毎に入城が難しくなり、入れても、一室に10秒間弱と言う観光で、何時間も居座って写真を撮り続けた昔が懐かしかったのを覚えている。

   いずれにしろ、人々がゆたかになり、グローバルゼーションの展開で、観光客が、観光地を目指して殺到する。
   良いことか悪いことか分からないが、これが、現代のトレンド。
   わが鎌倉も、大変な観光客の賑わい。
   アムステルダムとは一寸違うが、交通規制などはよく似ているかも知れない。
   
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ダニ・ロドリック・・・PS:貿易戦争を回避する方法

2018年07月17日 | 政治・経済・社会
   Project Syndicateに、「グローバリゼーション・パラドックス」のダニ・ロドリック教授が、”How To Avoid a Trade War”を書いた。
   先日に引き続いて、トランプの貿易戦争に対する見解なので、考えてみたい。

   まず、
   経済学者は、より自由な貿易の被害者に過度にフォーカスすることに反対し、他方の輸出側の受益者を無視する傾向を非難する。アメリカの保護主義が、確かに、他の国と同様に、受益者を生むと言うことを無視して、同じ過ちを犯すべきではない。と言う。

   常識とビジネスと財政のエリートを無視して、トランプは、貿易戦争を仕掛けた。
   トランプの保護主義は、支持者のワーキングクラスを助けることは殆どない。
   支持してきたが不平を持った共和党議員や不幸な企業は、離反するであろうし、考えを改めるであろう。

   終末的なシナリオから離れる前に、他国のインセンティブを考えなければならない。トランプは、貿易戦争を始めたが、自分自身の戦略は何もない。貿易戦争は、他国が報復し、それがエスカレートする。やるべきではない止む負えない理由があるからである。

   と言った調子で、トランプの保護貿易政策は、間違いであって、他国の報復措置を誘発して、アメリカには何の役にも立たたない。天に向かってつばを吐いているだけだ(cut off one's nose to spite one's face )と言った表現まで使っている。
   しかし、先に紹介したクルーグマンのように、経済学的な理由付け、説明はないけれど、自明だと言うことであろう。
   
   トランプの保護主義は、現在の自傷行為以上にもっと深刻な状況を伴ったグローバル貿易戦争を引き起こす。もし、それが起これば、トランプの愚行のように、ヨーロッパと中国に計算違いと過剰反応を引き起こすであろう。と言うのだが、もう、既に、中国などの報復が始まっており、アメリカ企業を締め付けつつあると言う報道もある。
   中国もカナダもヨーロッパも、トランプの地盤を狙って報復措置を打っているので、秋の中間選挙の結果がどうなるか、興味のあるところである。

   さらに、ロドリックは続けて論じる。

   普通のシナリオでは、貿易報復は、国が低い関税から離脱する経済的理由があるときに起こる。
   典型的なケースは、1930年代の大恐慌時代で、ケインズの一般論は1936年なので、経済循環的な財政政策もなく、金本位制も機能不全であったので、
   この環境下では、保護主義は、個々の国には、需要を国内に向けたので雇用増大に導く筈だったが、すべての国が同様な保護主義政策を取ったので、国際経済は壊滅的な打撃を受けた。

   ヨーロッパと中国は、特に、自国の輸入品の国際価格の低下、あるいは、その結果のレベニューに関心を示す。
   ヨーロッパや中国や他のアメリカの貿易相手国は、保護主義のアドバンテッジを得られなければ、貿易からの収益を減らす気持ちはないので、当然、トランプ関税に反発して報復する。残りの国にとっても、これらの貿易障壁の立ち上げは、”人を陥れようとしてかえって自分が不利な目にあう”ケースとなる。a case of cutting off one’s nose to spite one’s face.
   
   ヨーロッパと中国は、WTOなど、ルールに則った多国籍貿易に従うのなら、トランプの二国間貿易に拘ることはないし、自己の方針に従えばよい。自己利益や原則が、制限となり報復の必要もなくなる。これは、ヨーロッパや中国を優位に立たせ、貿易戦争に走るのを拒否し、トランプに、自国の経済をダメにするなら自分勝手に自由にやって貰えばよい、自分たちは自分たちの良いようにすると言える。

   他の国が、過剰反応しなければ、トランプの保護主義は、それ程コストはかからないであろうが、
   トランプの貿易政策が影響を与える貿易量は、100ビリオン弗で、FTのショーン・ドーナンによると、この数字は、すぐに、1トリリオン弗になると言う。しかし、報復を入れた数字なので、未知数である。

   重要なことは、貿易より、所得や厚生。貿易量がビッグヒットしても、総経済パフォーマンスには、必ずしも、影響しない。例えば、欧米のエアラインが、ボーイングを好むかエアバスを好むかまちまちだが、両方の会社の製品が代替関係にあるのなら、経済の厚生における一般的なロスは、小さくて済む。

   特別なヨーロッパや中国の企業は、アメリカ市場がより閉鎖されるにつれて、コストの削減にはならないが、どの輸出業者も代わりの市場探しを強いられるので、他の国内企業が新しい経済機会を作り上げる必要が出てくる。アメリカとの貿易が縮小すると、アメリカの競争相手が減って競走が少なくなる。

   よく分からないところもあるのだが、雁字搦めに結合して動いているグローバル経済において、貿易で勝手な横車を押してルール違反を行なえば、システムそのものを、均衡状態から乖離させて、摩擦と不都合を来たし、要らぬ混乱を招く。
   どのようなアウトカムが出現するのか、吉と出るか凶と出るかは、分からないが、エコ・システムを平衡状態に戻すには、大変な努力と時間を要する。
   テスラも中国に工場を建て、ハーレーダビッドソンも、ヨーロッパに生産を移すなど、アメリカの虎の子産業が、トランプを見限り始めたのか、アメリカで投資を拡大するのは、トランプの太鼓持ち企業か、レッドオーシャン企業ばかり。
   死に体のラストベルトのレッドオーシャン企業の再興など不可能で、トランプの意図する製造業の雇用の拡大は、殆ど期待できないであろう。
   
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ポール・クルーグマン・・・NYT:貿易戦争の負け方

2018年07月14日 | 政治・経済・社会
   クルーグマンが、NYTのコラムで、「How to Lose a Trade War」、トランプの貿易戦争について、勝ち目はないと、書いている。
   トランプが、「貿易戦争は、良いことで勝利は容易い」と言っているのは、ハーバート・フーバーが、「繁栄は間近だ」と言ったのと同じ宣言だと言うのである。

   多少、意訳に問題もあろうが、クルーグマンの論点は、ほぼ、次のとおりである。
   
   トランプ関税は、重商主義者の観点から構築された悪い計画で、アメリカ経済には最悪の結果を招き、得るものは殆どない。
   これとは反対に、外国の報復は、もっと込み入っていて、中国などターゲット国は、トランプとは違って、何をなすべきか明確な方針を持っていて賢い。

   ナバロ/トランプの見解は、貿易バランスの固定ではなくて、貿易が、小麦や自動車のような最終財であった1960年代の頃を想定している。この世界では、輸入自動車に関税をかければ、消費者は、自国製品を買うので、外国の報復を考えなければ、国内の雇用が増加すると言う考え方で、昔はこれで決着した。
   しかし、現在の世界経済では、貿易の大部分は、自動車そのものではなくて、中間財の自動車部品である。自動車部品への関税は、第1ラウンドの雇用への効果は分からないが、多分、国内の部品メーカーは、雇用を増やすであろうが、コストが増加して、下流の製造業の競争力を削ぐことになるので、その操業率が下がることになろう。
   
   したがって、今日の世界で、賢明な戦士なら、自分たちの関税は、最終製品に集中して、中間財を避けて、国内の下流の生産者のコスト上昇を避けようとするであろう。
   現実には、この措置は、多かれ少なかれ、消費者に課税負担を強いることになる。もし、消費者の負担増を厭うのであれば、最初から、貿易戦争を始めるべきではないのである。
   しかし、トランプ関税は、殆ど消費財への課税ではない。チャド・ブラウンたちの推計によると、トランプの対中国関税は、驚くなかれ95%が中間財か、国内生産に使われる機械のような資本財に対してだと言うのである。
   関税は、アメリカの要求を呑ませるために、中国にプレッシャーをかけるべく計画された筈なのだが、これでは、何の戦略にもならない。
   
  
   一方、中国の報復は、完全には、中間財への関税を避けてはいないが、殆ど、最終財への課税である。
   それに、中国は、トランプの支持者に打撃を与えるような明確な政治的戦略を持っており、トランプと違って、自分たちは、何を持って報復を完遂するのかを弁えている。
   

   ほかの国はどうか。
   カナダは、アルミと鉄鋼に対する関税には、直接対応で複雑だが、たの対応に対しては、アメリカより、洗練された戦略を取っている。
   アルミと鉄鋼を除けば、カナダの報復は、北アメリカのサプライチェーンを害しないように試みられている。
   広い意味で、カナダは、アメリカの資本財や中間投入財をターゲットにせずに、かわりに、最終財に関税を集中している。
   カナダは、中国のように、ハッキリと、政治的に最大のダメッジを与えようとしている。
   貿易戦争は良くないが、どうすれば目的を遂げられるか明確な戦略を立てられれば、勝利するのは難しくない。
   トランプ関税は、明らかに、自滅的な( self-destructive)様相を呈しており、経済的死の灰(the economic fallout)を匂わせる。

   多くのディストリクトでは、関税の意図とは逆の効果を呈しており、たの提起された貿易制限も、貿易政策の先行き不透明故に、内外共に、将来の投資に対して抑制的であり、ディストリクトによっては、資本支出がスケールダウンや延期となっている。
   鉄鋼とアルミについては、関税のために、価格が高騰する心配があるので、設備増強の新規投資は一切手控えられている。

   いずれにしろ、トランプは、実際に、貿易戦争に勝利するプランを持ち合わせていない。
   予期されている以上にもっと明確な負け戦を意図した戦略に、躓きよろめいているのである。

   さて、トランプの関税政策には、国防のためと言う取ってつけたような言い訳があるのだが、要するに、赤字の多い貿易相手国に対して、逆調の高いボリュームの多い輸入品をターゲットにした関税賦課で、クルーグマンが言うように、関税を上げて輸入をブロックすれば、その分国内の同業者が潤って、その方面の国内消費が盛り上がって、雇用が増えるであろうと言う単純な発想から起こっているのだが、時代錯誤も甚だしい。

   私など、単純に、リカードの比較生産費説の信奉者であるから、貿易で逆調なのは、アメリカの国際競争力の欠如であり貿易政策の欠陥故だと思っているので、多少、アメリカに交渉余地があったとしても、アメリカが、国際競争力を涵養して貿易政策の適正化を図る以外にないと思っている。
   先に、トーマス・フリードマンの「遅刻してくれて、ありがとう」でブックレビューしたように、極端に進んでしまった加速の時代には、高収入で中スキルや低スキルのアメリカ人白人労働者の仕事は、霧散飛翔してしまって泡と消えてしまったのであるから、どう足掻いても、トランプの言う雇用の回復などありえない。
   アメリカは、経済のみならず、民主主義を支えて来たミドルクラス社会を、崩壊させてしまっており、その上に、トラの子の国内産業の構造を攪乱し競争力を削ぐような中間財や資本財への関税を主体とした関税を課すと言うのだから、何をか云わんやである。
  クルーグマンのこの極めて初歩的だが、このあたりの経済理論を、トランプは無知だとしても、ピーター・ナヴァロなど取り巻きの経済学者や経営学者は、単なる神輿担ぎか、何をしているのであろうか。

   経済論争はともかく、先に論じたフリードマンのようにグローバリゼーションによって、雁字搦めに結合して連携してしまった国際経済は、モグラ叩きや押さえた風船と同じで、一部に無法なアクションを加えれば、全部に波及して、バランスを崩して秩序を破壊するのみならず、混乱を引き起こすだけである。 
   まして、アメリカは、中国やカナダやメキシコを、経済的な衛星国扱いをしながら好き勝手なことをして利用してきたのであるから、一朝一夕に、その関係を清算できるわけがなく、むしろ、逆利用されて、返り血を浴びるブーメラン効果の痛手の方が大きいであろう。
   
   クルーグマン説に悪のりするわけではないが、これまで、トランプノミクスは、いずれ、破綻せずとも、アメリカを益々窮地に追い詰め、アメリカの国力をどんどん削いでゆくと書いてきたので、一応、クルーグマンをフォローしたのである。
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映画「エルミタージュ美術館 美を守る宮殿」

2018年07月14日 | 映画
   WOWOWで、映画「エルミタージュ美術館」を見た。

   この美術館は、世界最高峰の美術館の一つで、実は、ヨーロッパの駐在を終えてイギリスからの帰途、ザンクトペテルブルク経由で立ち寄りたかったのだが、ソ連の崩壊直後で経済情勢や治安が悪くて、果たせなかった。
   幸い、4年前に、モスクワとザンクトペテルブルクを旅するロシア旅に参加して、長年の夢を果たすことが出来て、非常に幸運であった。
   欧米生活や海外旅行経験が長かったので、世界中の名だたる博物館や美術館を殆ど見て回っていたので、このエルミタージュ美術館は、私にとっては、画竜点睛であったのである。
   その時の鑑賞記録は、このブログの「晩秋のロシア旅」に収録している。
   
   エルミタージュは、ロシアのロマノフ王朝の宮殿そのものであるから、美術品は言うに及ばず、建物を含めたすべてが醸し出すトータルが芸術品。
   しかし、幾多の戦争や革命や火災を経たロシアそのものの歴史を体現してきた美術館だが、奇跡的に多くの芸術品は生き続けてきた。
   エルミタージュの発端は、エカテリーナ2世が、後進国であったロシアを、西洋諸国と同等にしたいと、国威発揚のために、軍事力のみならず、文化水準などすべてに関して努力を傾注し、そして、質量ともに桁外れの美術品を収集し始めたことから。
   その膨大な収集品や、その後の孫のアレクサンドル1世やニコライ1世などのコレクションの推移などを、エルミタージュの数々の至宝の逸話を交えながら、エルミタージュ美術館の壮絶な歴史を、ストーリーテラーとして、親子2代にわたった館長ミハイル・ピオトロフスキー教授が語り続ける。

   ロマノフ王朝の圧政に反旗を翻す世紀末の民衆運動、2017年のボルシェビキの暴動、レニングラードを包囲してエルミタージュ美術館に迫るナチス・ドイツ軍。  
   エルミタージュ美術館には、何度も危機が訪れているのだが、最大の危機の一つは、1930年代初頭の、当時のスターリンのソビエト連邦政府が、産業化政策遂行のための国家財政を賄うために、このエルミタージュ美術館に所蔵されていた美術品の一部を西側の美術館などに売却した時であろうか、戦後にも、政府は、訪ソの外国要人への手土産に作品を差し出せと命じたことがあったと言うから、恐ろしい話である。
   その時に、アンドリュー・メロンが、エルミタージュから購入した21点の絵画は、アメリカ合衆国政府に寄贈されて、ワシントンDCのナショナル・ギャラリーに所蔵されており、その中には、ファン・エイクの「受胎告知」や、ラファエロの「アルバの聖母」と言ったワシントンの至宝が含まれている。

   更に記憶すべきは、この時、多くのエルミタージュ美術館の職員が、貴族であるとか親が皇帝親衛隊の将校であるとか理屈を捏ねられて、強制収容所に送られて処刑されたり行方不明になったりとかと言うことで、何処か、天安門事件やカンボジアのポルポトを想起させて恐ろしい。

   ロシア革命の影響も大きく、この映画で、ボルシェビキの大群が冬宮に雪崩れ込んで美術館が危機的な状況に陥るのだが、館長や学芸員が決死の防衛線を敷いて対応して、十月革命5日後に、冬宮とエルミタージュが美術館に指定されたとかで、フランス革命より、文化遺産に優しい革命であったと言うナレーションが粋である。
   その後、ニコライ2世一家は処刑されて、ロマノフ王朝は消滅したのだが、偉大なエルミタージュの文化遺産は残されたのである。

   映画「レニングラード」を観ても、その壮絶さが分かるが、ナチス・ドイツの侵攻は、エルミタージュ美術館にとっても大変な危機で、技芸員総がかりで、美術品を梱包してウラルへ鉄道輸送される映像が映されていた。
   あの中国の故宮博物院の美術品も、国民党政府によって北京から重慶、そして、台北に輸送されたたが、いつも、全車両が、目的地に無事に到着しないと言うのが、何故か、運命を象徴しているようで興味深い。
    エルミタージュの場合は、3列車の内最後の1列車が引き返したようだが、額縁だけで、美術館へ引き返したと言うのが面白い。

   ドイツ軍のレニングラード占領は阻止されたので、先年の旅行で、当時の壮大なザンクトペテルブルクの歴史的風景を見ることが出来て興味深かった。

   この映画の末尾で、ソ連の被害を補償させる名目で、ロシア軍がベルリンを占領した時に美術品を略奪しようと、古代美術品をインド博物館から持ち帰ったのを公開したとか、イギリスから買い取ったウオルポール・コレクションを、イギリスの旧邸に移送して、そっくり元の場所に架け替えて展示した様子や、近代絵画の価値再考の動きなど、美術館の新しい動向なども紹介されていて面白かった。
    

   ついでながら、私は、フェルメール同様に、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画も意識して行脚して見続けて来た。
   今回、エルミタージュ美術館で2点、「リッタの聖母」と「ベヌアの聖母」であるが、これで、殆どのダ・ヴィンチを見たことになる。
   その時撮った写真を、
   
   

   もう一つ、私が、見たかったのは、ティツィアーノとレンブラントの、この美しくてコケティッシュな「ダナエ」が、エルミタージュ美術館にあると知って、ずっと、見に行きたいと思っていた。
   
   
   
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