ハワード・ジンは、コロンビア大学で、Ph.Dを取得し、長くボストン大学で政治学教授を務めたアメリカの高名な歴史学者であるが、自分自身で、幾分、アナーキストであり、社会主義者であり、恐らく民主的社会主義者であろう、と述べているのだが、アメリカの市民権運動や反戦運動や労働者の歴史などについて多くの著作を残し啓蒙活動にも参画していたので、いわば、真の民主主義とは何かを追求し続けた筋金入りの左翼系知識人である。
Howard Zinn.orgのHPに、詳細にわたって、ハワード・ジンの業績等が掲載されていて参考になるが、
Biographyの冒頭に、
Howard Zinn was a historian, author, professor, playwright, and activist. His life’s work focused on a wide range of issues including race, class, war, and history, and touched the lives of countless people.
最後に、次の言葉を残している。
We don’t have to wait for some grand utopian future. The future is an endless succession of presents, and to live now as we think humans should live, in defiance of all that is bad around us, is itself a marvelous victory.
将来の夢など夢の夢、将来は、現在の果てしなき連続。我々を取り巻く諸悪に反旗を翻して、人間としてかくあるべきだと言う生を、雄々しく必死になって、今を、生き抜くことこそ、素晴らしい勝利なのである、と言う熱烈な檄を飛ばして去って逝ったのである。
このハワード・ジンが書いた「民衆のアメリカ史」を、レベッカ・ステフォアが、青少年のために編集し直したのが、この本、「学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史」で、優等生が知っているような穏やかな世界一の自由で民主的なアメリカの歴史とは、全く違った途轍もない暗部を抉り出した斬新な歴史物語である。
尤も、原書のタイトルは、”A Young People's History of the United States”なので、何の抵抗もないが、翻訳本のタイトルは、内容を意図してつけられたのであろう。
ハワード・ジンは、人から、「読めば自分の国に失望するだけではないか。政府のやり方をあんなに非難するのは正しいのか。コロンブスやジャクソン、T.ローズベルト大統領など国民的英雄をこき下ろすのはよいことなのか。奴隷制や人種差別、インディアンへの虐殺、労働者への搾取ばかりを強調して、アメリカはインディアンや他国の人々を犠牲にして、無慈悲に領土を広げて来たのだと書くのは、愛国心に欠けるのではないか。」などと非難されていると言いながら、
ティーンエイジャーには、十分真実を理解する能力はあり、憲法で政府の改変廃止は国民の権利であると宣言しており正当な批判は必須であり、国民的英雄の過ちを指摘しても若い読者を失望させることもない。と述べている。
ずっと、戦争、人種差別、経済的不正を糾弾してきたが、そうした問題は解決されないまま、現在のアメリカ合衆国を悩ませている。と言うのである。
ハワード・ジンは、2010年1月に亡くなっているので、2011年の「ウォール街を占拠せよ」運動も、「トマ・ピケティの新・資本論」も見ていないのだが、現在の途轍もない格差社会の進行拡大について、如何に、自分自身の切っ先鋭い民主主義や資本主義非難の方向が間違っていなかったか、更に、激しく論陣を張り続けたであろうと思う。
この上巻は、コロンブスのアメリカ大陸発見から、20世紀への直前までのアメリカの歴史なのだが、冒頭から、コロンブスやスペインのアメリカ・インディアンへの情け容赦ない殺戮支配から、ピルグリムファーザー以降のアメリカ人のインディアンや下層白人を支配圧殺してのフロンティア開発の非人間的な凄まじさを活写していて、生きるための人間の執念が、如何に厳しく激しいかを実感させて胸が痛む。
アメリカの成長発展の原動力であった筈のフロンティア・スピリットの発露とは、インディアンの居住地をどんどん奪い取って、メキシコから戦争や懐柔で領土を取得して、黒人や貧しい白人や異邦人を酷使して搾取して築き上げた新世界アメリカであったと言うことなのであろうか。そんな思いさえ感じさせるほど厳しい筆致の論述である。
しかし、許し難い暴挙とは言え、大航海時代の幕開けで新世界が発見され、時によっては、専制君主や独裁者の暴政下であっても爆発的なパワーが炸裂して創造的破壊を惹起して大変革をもたらすなど、人類の歴史が進化発展したことも否めない事実であり、
ハワード・ジンが言う弱者たちの反抗なり革命的パワーが、カウンターベイリング・パワーとして平衡作用として働いて、人類の民主的な進歩が進められてきたという風に考えられないかと思っている。
私が、子供の頃には、アメリカ映画で脚光を浴びていたのは、西部劇で、白人の騎兵隊がインディアンを蹴散らせて領土を拡大して行くフロンティア開拓映画が多かったし、何の抵抗もなく見ていたのだが、ところが、その後、世論の影響であろうか、一気に西部劇が上映されなくなったのを覚えている
それに、大学生の頃、アメリカの多国籍企業が、如何に、中南米で、凄まじい植民地的支配経営を行って、その国の政治経済社会を搾取し圧殺していたかを勉強した記憶がある。
1970年代、ウォートン・スクールでMBAで学んでいた時にも、公民権運動から随分経っていたのだが、まだ、随所で、人種差別の現場を見かけることがあって、アメリカ社会の複雑性さ、民主主義の綻びを見ていた。
さて、私自身は、世界歴史を結構勉強してきたので、ハワード・ジンが論じたような現実は、かなりよく知っていたし、大学の講義の準備のために、ブラジルの歴史を勉強した時に、あの大航海時代の幕開けと新大陸発見と言う歴史的な激動期を掘り下げて、ポルトガルとスペインの熾烈なフロンティ開発の非人間的な側面を熟知しており、長く住んでいたイギリスが、紳士面とは裏腹に植民地を懐柔搾取するなど、悲惨な血塗られた歴史を潜り抜けて今日の民主主義に到達したことなど理解していたので、もう一度、このような裏面史を認識し直して、興味深く読むことが出来たと思っている。
前述したように、悲しいかな、意識の中のどこかに、そのような悲惨な強者の勝手気ままな横暴があったから、それなりに経済が成長し、文化文明が進んで来たのではなかろうかと言う気もしていて、内心複雑な気持ちではある。
そして、今でこそ言えると言う側面が、歴史にはいくらでも存在しており、その時には、どうしようもなかったと言う現実なり、経緯があったことも事実であろう。
そんなことを思いながら、私自身としては、日本人として、善き時代に、実に恵まれた状態で、日々の生活を送っていると、いつも思って感謝している。
Howard Zinn.orgのHPに、詳細にわたって、ハワード・ジンの業績等が掲載されていて参考になるが、
Biographyの冒頭に、
Howard Zinn was a historian, author, professor, playwright, and activist. His life’s work focused on a wide range of issues including race, class, war, and history, and touched the lives of countless people.
最後に、次の言葉を残している。
We don’t have to wait for some grand utopian future. The future is an endless succession of presents, and to live now as we think humans should live, in defiance of all that is bad around us, is itself a marvelous victory.
将来の夢など夢の夢、将来は、現在の果てしなき連続。我々を取り巻く諸悪に反旗を翻して、人間としてかくあるべきだと言う生を、雄々しく必死になって、今を、生き抜くことこそ、素晴らしい勝利なのである、と言う熱烈な檄を飛ばして去って逝ったのである。
このハワード・ジンが書いた「民衆のアメリカ史」を、レベッカ・ステフォアが、青少年のために編集し直したのが、この本、「学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史」で、優等生が知っているような穏やかな世界一の自由で民主的なアメリカの歴史とは、全く違った途轍もない暗部を抉り出した斬新な歴史物語である。
尤も、原書のタイトルは、”A Young People's History of the United States”なので、何の抵抗もないが、翻訳本のタイトルは、内容を意図してつけられたのであろう。
ハワード・ジンは、人から、「読めば自分の国に失望するだけではないか。政府のやり方をあんなに非難するのは正しいのか。コロンブスやジャクソン、T.ローズベルト大統領など国民的英雄をこき下ろすのはよいことなのか。奴隷制や人種差別、インディアンへの虐殺、労働者への搾取ばかりを強調して、アメリカはインディアンや他国の人々を犠牲にして、無慈悲に領土を広げて来たのだと書くのは、愛国心に欠けるのではないか。」などと非難されていると言いながら、
ティーンエイジャーには、十分真実を理解する能力はあり、憲法で政府の改変廃止は国民の権利であると宣言しており正当な批判は必須であり、国民的英雄の過ちを指摘しても若い読者を失望させることもない。と述べている。
ずっと、戦争、人種差別、経済的不正を糾弾してきたが、そうした問題は解決されないまま、現在のアメリカ合衆国を悩ませている。と言うのである。
ハワード・ジンは、2010年1月に亡くなっているので、2011年の「ウォール街を占拠せよ」運動も、「トマ・ピケティの新・資本論」も見ていないのだが、現在の途轍もない格差社会の進行拡大について、如何に、自分自身の切っ先鋭い民主主義や資本主義非難の方向が間違っていなかったか、更に、激しく論陣を張り続けたであろうと思う。
この上巻は、コロンブスのアメリカ大陸発見から、20世紀への直前までのアメリカの歴史なのだが、冒頭から、コロンブスやスペインのアメリカ・インディアンへの情け容赦ない殺戮支配から、ピルグリムファーザー以降のアメリカ人のインディアンや下層白人を支配圧殺してのフロンティア開発の非人間的な凄まじさを活写していて、生きるための人間の執念が、如何に厳しく激しいかを実感させて胸が痛む。
アメリカの成長発展の原動力であった筈のフロンティア・スピリットの発露とは、インディアンの居住地をどんどん奪い取って、メキシコから戦争や懐柔で領土を取得して、黒人や貧しい白人や異邦人を酷使して搾取して築き上げた新世界アメリカであったと言うことなのであろうか。そんな思いさえ感じさせるほど厳しい筆致の論述である。
しかし、許し難い暴挙とは言え、大航海時代の幕開けで新世界が発見され、時によっては、専制君主や独裁者の暴政下であっても爆発的なパワーが炸裂して創造的破壊を惹起して大変革をもたらすなど、人類の歴史が進化発展したことも否めない事実であり、
ハワード・ジンが言う弱者たちの反抗なり革命的パワーが、カウンターベイリング・パワーとして平衡作用として働いて、人類の民主的な進歩が進められてきたという風に考えられないかと思っている。
私が、子供の頃には、アメリカ映画で脚光を浴びていたのは、西部劇で、白人の騎兵隊がインディアンを蹴散らせて領土を拡大して行くフロンティア開拓映画が多かったし、何の抵抗もなく見ていたのだが、ところが、その後、世論の影響であろうか、一気に西部劇が上映されなくなったのを覚えている
それに、大学生の頃、アメリカの多国籍企業が、如何に、中南米で、凄まじい植民地的支配経営を行って、その国の政治経済社会を搾取し圧殺していたかを勉強した記憶がある。
1970年代、ウォートン・スクールでMBAで学んでいた時にも、公民権運動から随分経っていたのだが、まだ、随所で、人種差別の現場を見かけることがあって、アメリカ社会の複雑性さ、民主主義の綻びを見ていた。
さて、私自身は、世界歴史を結構勉強してきたので、ハワード・ジンが論じたような現実は、かなりよく知っていたし、大学の講義の準備のために、ブラジルの歴史を勉強した時に、あの大航海時代の幕開けと新大陸発見と言う歴史的な激動期を掘り下げて、ポルトガルとスペインの熾烈なフロンティ開発の非人間的な側面を熟知しており、長く住んでいたイギリスが、紳士面とは裏腹に植民地を懐柔搾取するなど、悲惨な血塗られた歴史を潜り抜けて今日の民主主義に到達したことなど理解していたので、もう一度、このような裏面史を認識し直して、興味深く読むことが出来たと思っている。
前述したように、悲しいかな、意識の中のどこかに、そのような悲惨な強者の勝手気ままな横暴があったから、それなりに経済が成長し、文化文明が進んで来たのではなかろうかと言う気もしていて、内心複雑な気持ちではある。
そして、今でこそ言えると言う側面が、歴史にはいくらでも存在しており、その時には、どうしようもなかったと言う現実なり、経緯があったことも事実であろう。
そんなことを思いながら、私自身としては、日本人として、善き時代に、実に恵まれた状態で、日々の生活を送っていると、いつも思って感謝している。