タイトルのグローバリゼーションとの関わり、その視点が面白いと思ったのだが、私にはワイン談義に興味があった。
一寸古い本だけれど、北大なのだが、大学にも、このような講座があるとは、面白い話である。
多少、ポメランツばりのワインの話を期待して読んでみたのだが、予想に反して、本来のグローバリゼーションについては、社会学者の議論展開と言うこともあってか、肩すかしであった。
さて、ワインをネットショッピングすれば、必ずと言って良いほど目にするパーカーポイント、この記述については、参考になって面白かった。
パーカーの推薦ワインは、100点満点で評価されて点数がラベリングされるので素人でも分かりやすく、メディアや消費者がこれに踊らされて、生産者もパーカー好みのワインを作るという、その権威が新しい独裁体制を生み、ワインの世界をスキューして行った。
これに、反して生まれたのが、テロワール。大地を意味するフランス語「terre」から派生した言葉で、「土地に根ざす味わい」「ワインに表現された土地の個性」と言うことで、パーカーリゼイション批判の文脈では、ワインのローカルな個性の擁護の標語となる。と言う。テロワールには、二つの条件、第一には、生産地と消費地との間に物理的にも文化的にも距離があること、第二に、個々の消費地に、物理的・文化的に隔たった複数の生産地からの供給があることとという条件があり、多様のワインのなかからの選択の契機がなければならない。と言う。
この背景には、流通規模の拡大というグローバリゼーションの上に、低価格化による大量生産から高付加価値化を目指す多品種生産へというポスト・フォーディズム化の流れが重なり合う構造があり、その多様性に価値を見いだすような認識が生じてきた。と言うのである。
グローバリゼーションのお陰で、何処でもどんなワインでも取得できると言うことであるから、ワイン専門店のネットショップと変らないと言うことなのか、
いずれにしろ、テロワールと雖も、消費者の多くは、何らかの指標が必用であって、パーカーポイントの高いワインを求め続けているように思う。
もう、何十年も前のこと、私が、イギリスにいた頃には、Hugh Johnson の「Pocket Wine Book」が、ワイン選びの権威あるガイドブックで、毎年、新版が発行されるので、分かっても分からなくても、楽しみに見ていた。
今でも、出版されているようで、世界的に、かなり手広く、ワインがカバーされていたので、私が買えるようなシンプルなワインでも記載されていた。
この本に載っておれば、それなりに評価されているワインだと言うわけであり、パーカーはアメリカ人なので、イギリスでは、ジョンソンの方が権威があるのではないかと思う。
世界最高の紳士用品店が並ぶジャーミンストリート(Jermyn Street)の外れにジョンソンのこじんまりとした店があって、知人だという友人と訪れたことがあったが、留守で会えなかった。
ワインの市場が立つのは、本場のフランスやイタリアなどではなくて、ロンドンのシティだと聞いたことがあるが、大英帝国は凄かったのである。
ところで、私がワインを、それなりに嗜むようになったのは、8年以上ヨーロッパに居て足かけ14年米国やブラジルにも居た海外生活のお陰で、会食やレセプションやパーティなどの度毎に、ワインワインと言うシチュエーションでは飲まざるを得なくなる。
思い出深いのは、出張や個人旅行などの一人旅で、ヨーロッパ各地を回ったときに、ミシュランの星付きレストランを行脚したのだが、
ワインは、ソムリエのアドバイスに従ったものの、一度だけだが、ヘビーなフルコースの特別ディナーで、料理毎にそれにマッチしたワインをサーブされたことがあり、非常に素晴しい時間を過ごして、グルメとはこう言うことかと嬉しくなったことがある。8時頃からはじめて、別室でのコーヒーが終った頃には、深夜を回っていたが、ベルギーの鄙びた田舎宿の夜は格別であった。
また、イタリアのシエナかピサだったと思うが、高級レストランだったが、ソムリエに、その料理にはこれが合うと言って、かなり安い地元のワインを勧められて、これが、思いがけなく美味しかったこともあった。日本においても随分地方も回ったが、地方の料理を地酒で味わう至福の時間も、食と酒のマッチングの為せる技である。
ヨーロッパ生活で、ワインが、食べる飲み物であることを知った。ワインは、食事の素晴しい伴奏者であって、相性が良いと、両方とも、時には、途轍もなく美味しく頂ける。酔いだけではない夢の世界さえ演出してくれる。
さて、ロンドンのシティの大晩餐会の思い出だが、チャールズ皇太子のシティの乱開発糾弾の大演説の時と、フィリップ殿下のホワイトタイの晩餐会と皇室主賓の二回の経験があるが、ワインは、白と赤だったが、どんなワインだったか全く記憶にない。
もう一度、今上天皇が皇太子殿下であった頃、シティのギルドホールで盛大な大レセプションが開かれて参加したが、確か、立食形式であっと思う。
上等なワインであったのであろうが、十分にワインの知識があるわけではなく、美味しく頂いたと言うことであろうか。
8年間、ロンドンなどヨーロッパで暮らしていると、公私ともに、随分多くのレセプションや宴会など、ヨーロッパ人との会食機会があり、ワインもそれぞれに思い出があり、ワイン選択の大半は、彼らに任せたのだが、結構良い勉強になった。
尤も、自宅で接待することもあったので、この時は、ヒュー・ジョンソンのワインブックを繰って勉強して、Fortnum & Masonに行って、ワインを調達した。
日本だったら、下戸が多いので、酒の銘柄を考えて食事を準備するかと思うと不思議な感じであった。
蛇足ながら、欧米人やアフリカ人など外人は、消化酵素があって酒に強いが、これに競合する日本人は、ほんの2割で、8割は酒に弱くて酔われてダメで、残りの2割は酒を受け付けないと言われている。
私は欧米人並みで、ヨーロッパ生活以前は晩酌さえしなかったが、今では、夕食に赤ワインを少々嗜むようになっている。
酒を飲めない人は、人生の楽しみを半分失っていると言う人もいるのだが、さて、どうであろうか。
一寸古い本だけれど、北大なのだが、大学にも、このような講座があるとは、面白い話である。
多少、ポメランツばりのワインの話を期待して読んでみたのだが、予想に反して、本来のグローバリゼーションについては、社会学者の議論展開と言うこともあってか、肩すかしであった。
さて、ワインをネットショッピングすれば、必ずと言って良いほど目にするパーカーポイント、この記述については、参考になって面白かった。
パーカーの推薦ワインは、100点満点で評価されて点数がラベリングされるので素人でも分かりやすく、メディアや消費者がこれに踊らされて、生産者もパーカー好みのワインを作るという、その権威が新しい独裁体制を生み、ワインの世界をスキューして行った。
これに、反して生まれたのが、テロワール。大地を意味するフランス語「terre」から派生した言葉で、「土地に根ざす味わい」「ワインに表現された土地の個性」と言うことで、パーカーリゼイション批判の文脈では、ワインのローカルな個性の擁護の標語となる。と言う。テロワールには、二つの条件、第一には、生産地と消費地との間に物理的にも文化的にも距離があること、第二に、個々の消費地に、物理的・文化的に隔たった複数の生産地からの供給があることとという条件があり、多様のワインのなかからの選択の契機がなければならない。と言う。
この背景には、流通規模の拡大というグローバリゼーションの上に、低価格化による大量生産から高付加価値化を目指す多品種生産へというポスト・フォーディズム化の流れが重なり合う構造があり、その多様性に価値を見いだすような認識が生じてきた。と言うのである。
グローバリゼーションのお陰で、何処でもどんなワインでも取得できると言うことであるから、ワイン専門店のネットショップと変らないと言うことなのか、
いずれにしろ、テロワールと雖も、消費者の多くは、何らかの指標が必用であって、パーカーポイントの高いワインを求め続けているように思う。
もう、何十年も前のこと、私が、イギリスにいた頃には、Hugh Johnson の「Pocket Wine Book」が、ワイン選びの権威あるガイドブックで、毎年、新版が発行されるので、分かっても分からなくても、楽しみに見ていた。
今でも、出版されているようで、世界的に、かなり手広く、ワインがカバーされていたので、私が買えるようなシンプルなワインでも記載されていた。
この本に載っておれば、それなりに評価されているワインだと言うわけであり、パーカーはアメリカ人なので、イギリスでは、ジョンソンの方が権威があるのではないかと思う。
世界最高の紳士用品店が並ぶジャーミンストリート(Jermyn Street)の外れにジョンソンのこじんまりとした店があって、知人だという友人と訪れたことがあったが、留守で会えなかった。
ワインの市場が立つのは、本場のフランスやイタリアなどではなくて、ロンドンのシティだと聞いたことがあるが、大英帝国は凄かったのである。
ところで、私がワインを、それなりに嗜むようになったのは、8年以上ヨーロッパに居て足かけ14年米国やブラジルにも居た海外生活のお陰で、会食やレセプションやパーティなどの度毎に、ワインワインと言うシチュエーションでは飲まざるを得なくなる。
思い出深いのは、出張や個人旅行などの一人旅で、ヨーロッパ各地を回ったときに、ミシュランの星付きレストランを行脚したのだが、
ワインは、ソムリエのアドバイスに従ったものの、一度だけだが、ヘビーなフルコースの特別ディナーで、料理毎にそれにマッチしたワインをサーブされたことがあり、非常に素晴しい時間を過ごして、グルメとはこう言うことかと嬉しくなったことがある。8時頃からはじめて、別室でのコーヒーが終った頃には、深夜を回っていたが、ベルギーの鄙びた田舎宿の夜は格別であった。
また、イタリアのシエナかピサだったと思うが、高級レストランだったが、ソムリエに、その料理にはこれが合うと言って、かなり安い地元のワインを勧められて、これが、思いがけなく美味しかったこともあった。日本においても随分地方も回ったが、地方の料理を地酒で味わう至福の時間も、食と酒のマッチングの為せる技である。
ヨーロッパ生活で、ワインが、食べる飲み物であることを知った。ワインは、食事の素晴しい伴奏者であって、相性が良いと、両方とも、時には、途轍もなく美味しく頂ける。酔いだけではない夢の世界さえ演出してくれる。
さて、ロンドンのシティの大晩餐会の思い出だが、チャールズ皇太子のシティの乱開発糾弾の大演説の時と、フィリップ殿下のホワイトタイの晩餐会と皇室主賓の二回の経験があるが、ワインは、白と赤だったが、どんなワインだったか全く記憶にない。
もう一度、今上天皇が皇太子殿下であった頃、シティのギルドホールで盛大な大レセプションが開かれて参加したが、確か、立食形式であっと思う。
上等なワインであったのであろうが、十分にワインの知識があるわけではなく、美味しく頂いたと言うことであろうか。
8年間、ロンドンなどヨーロッパで暮らしていると、公私ともに、随分多くのレセプションや宴会など、ヨーロッパ人との会食機会があり、ワインもそれぞれに思い出があり、ワイン選択の大半は、彼らに任せたのだが、結構良い勉強になった。
尤も、自宅で接待することもあったので、この時は、ヒュー・ジョンソンのワインブックを繰って勉強して、Fortnum & Masonに行って、ワインを調達した。
日本だったら、下戸が多いので、酒の銘柄を考えて食事を準備するかと思うと不思議な感じであった。
蛇足ながら、欧米人やアフリカ人など外人は、消化酵素があって酒に強いが、これに競合する日本人は、ほんの2割で、8割は酒に弱くて酔われてダメで、残りの2割は酒を受け付けないと言われている。
私は欧米人並みで、ヨーロッパ生活以前は晩酌さえしなかったが、今では、夕食に赤ワインを少々嗜むようになっている。
酒を飲めない人は、人生の楽しみを半分失っていると言う人もいるのだが、さて、どうであろうか。