熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

3.ケンウッドの野外オペラ:爆音がドミンゴに伴奏

2020年11月30日 | 欧米クラシック漫歩
    ロンドンのハムステッド・ヒース公園の北端に位置するカントリー・ハウスが「ケンウッド・ハウス Kenwood House」で、フェルメールの『ギターを弾く女』、レンブラント晩年の『自画像』などの名画を所蔵するこじんまりした美術館があるのだが、敷地内の広大な庭園の片隅の大きな池の側に、野外劇場が設営されていて、野外コンサートが開催されていた。
   毎年夏、数千人にもおよぶ客が音楽とピクニック、その後の花火を楽しんできたのだが、地域住民からの、夜間の騒音や放置されるゴミなどに関する苦情のために、2007年2月、イングリッシュ・ヘリテッジは、コンサートを中止して、その後場所を移して小規模で続けられているという。

   私の記録は、1990年前後の思い出なので、まだ、最盛期の頃で、毎年夏、ロイヤル・オペラの野外公演を楽しみに通っていた。公演が野外と言うだけで、上演中の演目で同じ歌手の出演で、全く手抜きはない。
   広大な野外公演であるから、数万枚という結構な数のチケットが発売されていた筈なのだが、即完売でその取得は至難の業であり、公演当日には、公演外の芝生上にもびっしりと観客が犇めいていた。
   半円形のお椀を伏せたようなステージを前にして大きな池があって、その池畔から椅子席が並び、その後ろの小高くなって傾斜のある芝生の部分がグラス席で地面に自由に座る自由席である。
   椅子席が30ポンド、グラス席が15ポンドで、劇場よりはかなり安く、全英からファンが集まる。隣席の夫人はエジンバラから来たと言っていた。
   当日は、少し早く出かけても、広大な駐車場は満杯で、近くの住宅街の路上に空間を探して駐車するのだが、会場までは結構遠くなる。
   

   この年の演目は、「トスカ」。
   プラシッド・ドミンゴのカバラドッシ、マリア・ユーイングのトスカ、ユスチアス・ディアスのスカラピア。
   ドミンゴはじめ男性歌手はタキシード姿、ユーイングは赤っぽいロングドレスに黒のコート。

   5月から、オペラハウスでは、「トスカ」を上演していたが、ドミンゴ=ユーイング組は、限定されたスポンサー対象公演でチケットが取れず、私が観たのは、ヒルデガルト・ベーレンスのトスカ、ネイル・シコフのカラバドッシ、サミエル・レイミーのスカラピアであった。
   この日のユーイングは、心なしか声が伸びず、私には、べーレンスの方が良かった。
   ユーイングには、色々な思い出があるのだが、「サロメ」の、第4場の「サロメの踊り(7つのヴェールの踊り)」で全裸シーンを披露したのが印象に残っている。肉襦袢のギネス・ジョーンズとは違った強烈なサロメであった。

   音はマイクを使っているので、生演奏ではあるが、大きなステレオを聴いている感じである。
   むかし、ギリシャのエピダウルスの野外劇場で、観光客の一人が一番底の舞台で、カンツォーネを歌い出したのを、一番上の客席で聞いて、良く伸びた美しい声で感動したのだが、草深い公園では、マイクなしでは無理なのであろう。
   野外ステージなので、観客は思い思いのビデオやカメラで写真を撮っており、私も、F2.8,80-200ミリの望遠レンズで、ドミンゴとユーイングを撮ったが、一番前の方の席ながら、遠い上に、デジタルではなかったので、豆粒のようであった。(写真は残っているはずだが、総て倉庫に収納で取り出せず、口絵者貧もウィキペディアから借用)
   余談だが、舞台の合唱団の一人が、後ろを振り向いたドミンゴをフラッシュも鮮やかにスナップショットしていたが、後で、お目玉を食ったであろうか。

   広大な緑地と言っても大都会の真ん中からほど近く、ヒースロー空港にも近いので、空路を逸れた飛行機の爆音が、名テナーのアリアの伴奏をする。
   ロンドンの夏の夜は涼しくて虫もおらず、極めて快適である。
   日が傾き始めると日暮れは早く、ドミンゴが、第3幕のアリア「星は きらめき」を歌う頃には、もう、とっぷりと日は暮れて、オペラの最後の大詰め、一瞬時が止まったかの錯覚を覚えて、暗くて陰湿なサンタンジェロ城の牢獄で死に直面したカラバドッシの心境になった全聴衆・・・水を打ったように静まりかえる。
   絶望したトスカが城壁から身を翻して消えて行く断末魔のラストシーンは、まさに、オペラ全巻の終わり。
   私には、劇場で観るシーンとは違って、漆黒にくすんだローマのサンタンジェロ城の姿が脳裏をかすめて、このシーンは、このような野外劇場の独壇場ではないかと感じた。
   肝心のトスカを誰が歌ったのか、記憶にないのだが、同じロイヤル・オペラで、ルチアーノ・パバロッティのカラバドッシが、サンタンジェロ城の牢獄の城壁に身を預けて、涙を浮かべながら、「星は きらめき」を歌っていたのを鮮明に覚えている。

   さて、一番最初に、このケンウッドで聴いたロイヤル・オペラは、「パリアッチ」と「カバレリァ・ルスチカーナ」。
   同じ公演をロイヤル・オペラ・ハウスでも観たので二回だが、ピエロ・カップチャルリとエレーナ・オブラツオバの舞台に接して感激であった。
   ずっと後になって、このオペラ・ハウスで、ドミンゴ指揮の「パリアッチ」を観たのだが、この時は、この演目だけの舞台であった。
   このオペラを最初に観たのは、ニューヨークのMETで、ネッダは、美人の誉れ高いアンア・モッフォ、サントッツアはグレイス・バンプリーで素晴らしい舞台であった。
   
   ところで、芝生のグラス席でも、中には、寝そべって天を仰ぎながら聴いている客もいるにはいるのだが、しかし、立錐の余地のないほどの混みよう。
   野外劇場の外には、大きな緑地公園が広がっていて、その境界には金網が張ってあって生け垣が隔てているので、舞台の歌手の姿などは全く見えないのだが、客席の延長のように、全くグラス席と同じピクニックスタイルの聴衆が、びっしりと席を占めて聴いている。
   この日だけは、閑静なハムステッドヒースの高級住宅街は人と車でごった返し、遠くからやってきた人は、深夜を徹して故郷へ帰るのだという。
   
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ジョン・ボルトン回顧録 トランプ大統領との453日 (その2)

2020年11月28日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この本については、多くの書評があり、紹介し尽くされているので、私自身が興味を感じた話題だけについて記す。
   
   まず、習近平との関係だが、会談では、習近平は周到に準備されたメモを見ながら発言しているのだが、トランプはすべて即興でこなし、米側の誰にも何を言い出すか分らない。
   習近平に今後6年協力していきたいと言われた時、習の終身国家主席の事を知っていたので、それに張り合って、大統領は二期までと憲法に定められているが、私のために任期の制限をなくすべきだと皆に言われたと応えており、退任されたら困ると言われて、満足げに頷いた。(ボルトンは、初耳だと否定し、その後、習は、憲法を改正してトランプにもう一期在任して貰いたいと電話で言ったという。)
   習近平は、中国が世界の覇権を握ろうとしている、あるいは、米国に取って代わろうとしているという「100年マラソン」の考え方は中国に相応しい戦略ではないと否定した。中国は、米国の主権とアジアにおける利益を尊重しており、望みは国民14億人の向上だけだという。何と素晴らしいことだ。とボルトンは揶揄しているのだが、習近平の虚言はこれに極まれりで、
   何度もこのブログで書いているように、中国が、世界の覇権を握って大唐帝国の再興を目指していることは、明明白白 の国是であって、狐と狸の化かし合い、首脳会談の中身の希薄さを感じて恐ろしい。

   別なところで、ボルトンは、天安門事件30年の時に、事の重大性を理解できずに、私は中国と取引をしたいのだと言って、声明の草案を拒否し、知らぬ間に国務省がプレスレリースを行ったのを批判した。と書いており、
   外国政府の政策や行動に対する批判は、それらの国の指導者と彼自身とが良好な個人的関係を築くことを妨げると考えており、個人的関係と公的な関係を分けて考えられない事実を反映していると批判する。
   習近平にとってはどんな個人的繋がりも、中国の国益追求を阻む要素とはなり得ないのに、その点が分らずに、ZTE問題にしても、決定事項を勝手に覆して、法の執行と貿易協定を結びつけて、習を喜ばせるようなツイートをして、政府の各部署の行政に混乱を来した。プーチンの個人的な繋がりが、ロシアの国益追求の障害になり得ないことも同様であって、トランプは、この点を遂に理解できなかった。
   あれだけ、対抗姿勢を露骨に敵対しているロシアに対して、表だって、プーチンを批判しないのは、2016選挙への介入への慮りか、この性向の所為か、とにかく、NYTの書評のように、ヨイショしてくれる世界の独裁者には至って弱いと言うことであろう。

   さて、イラン問題だが、ボルトンの対イラン政策の強硬さは突出しており、「最大限の圧力」をかけ続けるべきだと説く。
   核兵器や弾道ミサイルの開発の危険は勿論だが、國際テロリズムのための中央銀行の役目を果たし続け、中東全域に好戦的な形で通常兵器を配備し、中東紛争の」導火線となっている。
   問題は、米国の無人航空機RQ-4Aグローバルホークが、イランに撃墜された時に、
   米国の威信を取り戻し、核兵器所有を熱望する神政政治と軍国主義のならず者国家対して、現在完全に失われている我々の抑止力を回復するためには、まだまだ、多くの攻撃を正当化できるだろうと考えて、ナンシー・ペロシ下院議長など民主党議員も賛成して、イラン攻撃が決定した。
   ところが、着弾直前になって、トランプが、「釣り合いが取れない」と言って中止命令を出した。
   攻撃による国防相の推測死亡数が150人だと吹き込まれたトランプが、多数の死体袋がテレビに映るのは嫌だと、無人機1機に対してそれだけの危険を冒す気にななれない。と繰り返したという。

   攻撃が中止されたのは、ご同慶の至りだが、興味深いのは、ボルトンが、
   それまで何度か辞職を考えたことがあったが、これが、ターニングポイントになった、もし、危機的な局面で今後もこのようなやり方で意思決定がなされるのなら、そして、今回のような決定がなされるのなら、何の意味があるのだろう?と、長期勤続の記録を作るとは思えなくなったと吐露していて、その後、すぐに辞表を出して止めている。

   私が面白いと思ったのは、トランプは、至って小心な人物ではないかと言うことで、それ故に、今回の選挙も、事前の世論の支持率の予想において、旗色が悪くて敗色濃厚であることを予知して、事前に、不正選挙であると宣言して、予防線を張って法廷闘争に持ち込もうとしたのではないかと思う。
   アメリカの選挙制度を誹謗中傷し、民主主義を危機に追い込んだトランプの法と秩序への冒涜の罪は許しがたいほど重い。

   また、アフリカ問題を議論中に、うつろになって、「私はあらゆる事から手を引きたいのだ」と言って、本題から離れて、次から次へと話題を変えて日頃の批判を重ねたと言っているが、重圧に耐えかねたのであろう、ボルトンは、トランプの記憶力に問題があるのか、あるいは、覚えていたくないことを無視するという能力があるのだろう、と言っている。
   とにかく、ドイツや日本の防衛費負担問題にしても、中国などとの貿易不均衡などに対しても、壊れたレコードのように同じ事ばかりを繰り返している。

   また、ボルトンの記述では、トランプは、やりたい事だけをやりたがった。その際の行動基準は、何が自分の個人的利益に繋がるかという、経験と予測に基づく判断であった。また、在任中に、トランプが下した大きな決定の中で、再選を視野に入れていないものを思い浮かべようとしても、それは非常に難しい。と述べている。

   トランプは、ビジネスに有利になると考えて出馬して、期せずして大統領になったのであるから、先日紹介した説のように、高邁な思想も世界観もなく、何の哲学も持ち合わせずに米国の指導者になった。
   切った張った、それも、千三と言われる不動産業で培った勝ち負けの感覚しかなく、攻撃が最大の防御の世界での人生哲学が染みついていて、「アメリカ・ファースト」で象徴されるように、自分自身の利益追求が最優先であって、トランプの経営哲学(あったとすればだが)には、今の進化したビジネスモデルであるステイクホールダー全体が利するようにとか、CSRやESG/SDGsへの配慮などと言った感覚はさらさらなかったので、世界の平和のためにとか、人類の幸せのためになどと言った高邁なビジョンなどあるはずがない。。
   「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」を旗印にしながらも、確固たる哲学と思想の欠如のために、むしろ、孤立化を進めて弱体化させ、民主主義、自由主義、資本主義の旗印であった世界に冠たるアメリカの真価を貶めてしまった。
   言い過ぎかも知れないが、ボルトンのこの本は、補佐官や側近からも馬鹿にされていた、そんなトランプの治世を延々と綴っている。

   この本の出版に当たって、出版前審査を受けて、トランプや世界の指導者たちとの会話や、ボルトンと他国の国家安全保障担当者や高官との会話などは、「引用符を取り除く」ように指示されたり、機密保持契約の制限やトランプにとって不都合な部分の削除をうけるなど制約があり、ストレートでない記述ゆえに臨場感に欠けるきらいもあってモドカシイところもあるが、殆どメディアで報道された外交事象の追加の裏情報として読んだので、非常に興味深かかった。
   それに、トランプからは出版差し止め訴訟を起こされるなど苦難を乗り越えての出版である。
   他のトランプ暴露本は、途中で嫌になって投げ出したが、この本だけは、外交史を追うつもりで、完読した。
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ジョン・ボルトン回顧録 トランプ大統領との453日 (その1)

2020年11月26日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ある記事で、ニューヨーク在住ジャーナリスト・佐藤則男氏がトランプ氏の親友の証言を引用して次のように記していたが、まさに、ボルトン回顧録は、これを地で行くトランプの軌跡を語っていて面白い。
   ”「トランプ氏には、これといった世界観もなければ、価値判断する独自の尺度というものもない。大統領選挙に挑むというが、政治哲学や社会倫理について話すのを聞いたこともない。おそらくそんなものは持っていないよ。彼は、ビジネスで身につけたトランザクション(取引、処理、業務遂行)中心の男だ。ビジネスマンであり、それ以外の者ではない。彼と理想論や観念論で話してはダメなんだ」
   A氏の見立ての通りならば、トランプ氏の4年間は、自分の価値観や世界観に基づく国づくりなどではなく、迫りくる課題や問題はすべて競争相手からの挑戦であり、ただ勝って勝って勝ちまくらなければならない、という戦いの日々だったことだろう。それがアメリカのビジネスマンの考え方である。”

   先に、原書のThe Room Where It Happened: A White House Memoir を買っていたので、並行読みしたのだが、英語版には、索引があるので、記述なり内容の追跡が出来るので助かった。
   余談ながら、日本では、相当重要で高級な専門書でも、コスト削減という低次元の価値判断で、索引を省略しているが、如何に書籍の価値を貶めて知的水準の向上に害を及ぼしてきたか計り知れないと思っている。索引の欠如した専門書など、存在価値の多くを既存していると言っても過言ではない。

   さて、まず、この本についてのニューヨーク・タイムズとワシントン・ポストのレビューを引用すると次の通り。
   NYTは、主要な外交業務に参画した、保守筋金入りの高級官僚による第一級の備忘録というのはともかく、世界のことについて基本的なことさえ知らない大統領で、彼を上手く操る独裁的なリーダーの見え透いたおべっかに影響されやすく、虚偽情報に踊らされて、淫らな言葉を使って爆発し、側近たちが提言したり反対したりしたことをプッツンして決断する、そんな大統領の嫌になるような行状の生き生きとした描写、
   WPは、大統領とトップ・アドヴァイザーや外国リーダーとの不調和でトラブルまみれの延々と続くやりとりの展開、
   “Mr. Bolton’s volume is the first tell-all memoir by such a high-ranking official who participated in major foreign policy events and has a lifetime of conservative credentials. It is a withering portrait of a president ignorant of even basic facts about the world, susceptible to transparent flattery by authoritarian leaders manipulating him and prone to false statements, foul-mouthed eruptions and snap decisions that aides try to manage or reverse.” – The New York Times
   “The most substantive, critical dissection of the president from an administration insider… lays out a long series of jarring and troubling encounters between the president, his top advisers and foreign leaders.” – Washington Post
   エコノミストは、救いようのない事実の詳細に満ちた本、“A book full of damning details” – The Economist
   とにかく、ブックレビューは、damning (罪を免れない、破滅的な)、Jarring( 耳障りな、神経に障る、食い違う、不調和な)、と言った単語で満ちていて、ボルトンの本の価値を認めながらも、トランプへの想像を絶するような行状に対する落胆や諦めに言及している。
   ボルトンの話を真実半分としても、酷い状態だが、それでも、熱狂的なトランプ支持者が、現在でも5000万人存在するというアメリカの不思議、
   アメリカ民主主義の懐が深いと言うべきなのか、理解に苦しむ。

   とにかく、アメリカ大統領は、核のフットボール(Nuclear football)、すなわち、核のボタンを常に持っている。
   私は、ずっとこのことを気にかけ続けている。

   それはそれとして、疾風のように駆け抜けたトランプの四年間だったが、功罪取り混ぜて、トランプなりに、トランプでなければ出来なかった事象もあったであろうし、歴史上善し悪しはあろうがエポックメイキングな足跡も残してきたことには間違いなかろう。
   私自身は、リベラルな民主党よりの考えなので、トランプは勿論、超保守的でネオコンのボルトンの思考には相容れないのだが、当時の貴重な外交史として読んだので、その感想については、次回に譲りたい。
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わが庭・・・椿:タマアリアケ、菊冬至

2020年11月25日 | わが庭の歳時記
   椿は、蕾が少しずつ膨らんできてスタンドバイしている木が多いのだが、一寸先端が色づいたと思うと、早い椿は花を咲かせる。
   親木の玉之浦がないので、早いか遅いか分らないのだが、先に咲き出したタマグリッターズに続いて、タマアリアケが咲き始めた。
   「玉の浦」と「岩根絞」の交配で生まれた品種で、他の仲間は米国生まれだけれど、この椿は純国産で、わが椿は牡丹咲きと獅子咲きが合わさったような花姿で、他の兄弟椿よりは、覆輪の外縁の白い部分が大きくてしっかりした感じで鮮やかなのが好ましい。
   
   
   

   菊冬至は、秋に咲き始める椿で、昨年は咲かなかった。
   地色の紅色に白斑が入る千重咲き椿で、花は中輪で、かなり、こじんまりした雰囲気である。
   
   

   ところで、久寿玉が、次から次へと咲き続けているが、どんどん、花姿が変化してきて興味深い。
   枝一つ違っただけで、親の遺伝子への先祖返りなのか、花の色まで違ってきて面白い。
   白毫寺にあるような五色椿とは違うのだが、秋から、1本の木に、形違い色違いの花が咲く。
   
   
   

   もう、11月もあと僅か、木枯らしの足音が聞こえ始めてきた。
   
   
   
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2.グラインドボーン音楽祭オペラの思い出(その2)

2020年11月24日 | 欧米クラシック漫歩
   客席800の旧劇場は、1934年創設と言うから、木造のこじんまりしたホールで、ウエストエンドのミュージカル劇場の雰囲気に似ており、勿論、中廊下などはなく、舞台も極めて小さくて、言うならば、金比羅の金丸座で歌舞伎を観ると言う感じに近いと言えようか。
   しかし、ピットには、ロイヤル・フィルが入り、歌手は人気上昇中の俊英が満を持して美声を競い、ベルナルド・ハイティンクが振ると言う豪華版で、公演の質は極めて高い。

   さて、最初に観たのは、ラヴェルのオペラ「スペインの時」と「子供と呪文」と言う初めて観る舞台であったが、元々、モーツアルトからスタートしたようであり、モーツアルト没後200年の年では、オール・モーツアルト・プロで、この年には、「フィガロの結婚」と「イドメネオ」を観る機会を得た。
   「イドメネオ」は、非常にシンプルな能舞台」のようなセットで、コスチュームも和風であった。イオランテは、野侍のようなラフな鎧を身につけており、イーリァやエレットラは、ギリシャ風にアレンジした和服を着て簪を指している。
   英国では、シェイクスピア劇を和風に演じた蜷川劇団の舞台の影響か、あるいは、浅利の演出と森の衣装で人気を博したミラノ・スカラ座の「蝶々夫人」の影響か、このイドメネオは、完全に日本の影響の強い振り付けながら、このようなシックな小劇場にはピッタリの舞台で興味深かった。

   天国のモーツアルトがどう考えるのか、私は二回観たのだが、日本を知る友は、洋の東西の文化の癒合にいたく感激していたが、よく知らぬ友は、日本との出会いと言っても半信半疑、しかし、二回とも、ヨーロッパ人の聴衆は拍手喝采であった。
   その前後に、イングリッシュ・ナショナル・オペラで、サリバンの「パシフィック・オーバチュア」を観る機会があった。
   これは、ペリーが黒船で来訪し開国を迫る頃の日本を主題としたオペラで、歌舞伎を真似たのか、歌手は全員男性で、振り付けも丁髷と着物で、結構面白かったが、似ても似つかない日本趣向の展開で、日本人から観れば全く奇天烈、違和感を感じなかったグラインドボーンのイデメネオとは大違いであった。
   ミュージカル「ライオン・キング」のジュリー・テイモアのように上手く日本の芸術を取り入れたり、先のMETでの「蝶々夫人」で、子供を米国流の3人遣いの手法で人形で登場させるなど、結構、日本のパーフォーマンス・アーツの手法やテクニックを活用して芸の深化を図る試みがなされていて興味深い。
   私見だが、「蝶々夫人」は随分各地のオペラハウスで観てきたが、やはり、東敦子や渡辺葉子の蝶々夫人が最高で、忘れ得ない思い出である。

   このグラインドボーンで観た他のオペラは、ストラヴィンスキーの「放蕩息子の一生」、ブリテンの「アルバート・ハリング」、ティペットの「ニューイヤー」など、ロイヤル・オペラなどの大劇場で観るのとは違った初めての舞台で、戸惑いを覚えながら、異次元のオペラ鑑賞の世界に浸っていた感じである。

   ところで、この新オペラハウスを設計したのが、アーキテクトのマイケル・ホプキンス。
   丁度、ロンドンのシティで、金融ビル改築の大プロジェクトで、アーキテクトとして使っていたので、工事施工が難しくて仕事が遅いと言う噂を聞いたのか、知人のジョル氏が電話をかけてきて、オーナーのクリスティ氏が心配しているのだが、大丈夫かと聞いてきた。
   サポート体制さえシッカリしておれば大丈夫だろうと、そこはそつなく応えておいた。
   その前に、ホプキンスの自宅を訪れた時に、作業机の上に世界のオペラハウスの平面図などが一面に広げられおり、オペラに趣味がなくよく知らないはずの彼だが、ロイヤル・オペラのために、ワーグナーのマイスタージンガーの第3幕のステージを設計した実績があると言うので、スプリングルなどの同僚が才を発揮しているのだろうと考えた。尤も、クリケットをしないしよく知らないホプキンスが、ロイヤル・クリケット・スタジアムの改装の設計コンペで優勝したと言うことだから、新グラインドボーン・オペラ・ハウスの設計には、オペラやオペラハウスの知識あるなしは関係ないのかもしれない。
   
   残念だったのは、招待すると言われながら、帰国の忙しさにかまけて、新グラインドボーンの建設現場を視察できずに終ってしまったこと、そして、帰国後、何度か、シーズンに、ジムから、グラインドボーン・オペラの招待を受けながら、渡英のタイミングが合わずに、鑑賞の機会を失ってしまったことである。

(追記)随分、グラインドボーン関係の写真を撮ったのだが、倉庫に入ってしまった写真を探すのが不可能で、口絵写真は、ウィキペディの写真を借用した。

   WPから、次のメールが入ったTrump administration informs Biden it is ready to begin the formal transition; Trump tweets that he recommended initial protocols
   名実ともに、バイデン政権の始動であり、大いに期待したい。
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1.グラインドボーン音楽祭オペラの思い出(その1)

2020年11月23日 | 欧米クラシック漫歩
   イングランドの東サセックスの片田舎にある豪壮な領主の館の風情のある建物の一部が客席800余りの劇場となっており、毎年、5月から8月にかけてオペラフェスティバルが開かれていて、優れた企画と質の高い上演で、オペラファンを集めている。
   私が何回か観に出かけたのは、1988年から92年にかけてであるから、古いオペラハウスで、今の新しい劇場は建設中であった。

   問題は、この劇場のキャパシティが少なくて、席の取得権をメンバーが抑えているので、パトロンさえ思うように予約が取れず、普通では、余程のことがないかぎり、チケットが取得できないので、鑑賞の機会がない。
   私の場合は、何人かの英国人の友人や出入りの会社からの招待で、毎年、1度は出かけることが出来た。
   特に、一番親しかった大手のエンジニアリング会社の会長であったジムとマーゴ夫妻に招待されることが多かった。
   先年、ピットに入っていたエイジ・オブ・インライトゥメント管弦楽団のコンマスであった相曽賢一郎氏の両親が、グラインドボーンを訪れて、息子の晴れ姿を観ようと奮闘したがチケットが手に入らず涙を飲んだと語っていたが、1150に増設した新劇場でも、チケット取得は至難の業なのであろうと思う。
   とにかく、メンバー制度を維持限定しして、特別に設営した文化芸術環境を享受しようというイギリス社会の一面を現していて興味深いのだが、幸い、私は、入会が難しいと言われるジェントルマン・クラブRACにも入会できたし、あのアスコット競馬にもモーニング・シルクハット姿で出かけたり、ホワイト・タイの正装で王族の晩餐会に出るなど、イギリス社会の奥深さの一面を垣間見ることが出来て、幸せだったのかも知れないと思っている。

   ヨーロッパの夏は陽が長くて、遅い午後から、タキシードとイブニングドレスに正装した客が集まりだして、邸内の広い芝生の庭や手入れの行き届いた美しいイングリシュガーデンやクラシックなインテリアの美しい建物の中などで、シャンパングラスを傾けながら談笑して開演を待つ。
   この公演の特色は、途中の休憩の時間が75分と長くて、特に、ピクニック・スタイルのディナーが有名で人気がある。
   まだ、陽が中天に傾きかけた明るい夕刻6時頃なので、広い芝庭に、椅子やテーブルをセットしたり、カーペットやシートを敷いて席を占めたり、各自が思い思いのスタイルで、ピクニックよろしく、デイナ―タイムを楽しむことになる。
   勿論、少し長編のオペラになると、はねるのは、深夜近くになるので、ロンドンに帰る頃には、日付が変っている。
   私は、最初はリムジンを使ったが、次からは、イングランドの田舎を味わいたくて、自家用車で通ったのだが、このシーズンには、送り迎えの特別列車がロンドンから出ており、ヘリで通う客もいた。
   自宅からの道程は100㎞くらいで、半分くらいはハイウェイだが、グラインドボーンに近づくと田舎道に入り、時には、一面に広がる菜の花畑や趣のある田園風景に感激して、途中で沈没したりする。
   原生林を切り開いて何百年もかけて磨き上げた歴史のある美しい田園風景がイングランドの象徴であろうが、この草深いルイス地方の田舎には、まだまだ、コンスタブルの世界が残っていたのである。

   一番最初の1988年には、建物の別棟の山小屋風の大きなレストランで食事を取った。
   相客は、ベーカー教育大臣夫妻で、大臣とは文化や芸術の話になり、京都にこのグラインドボーンのような劇場を作ったら面白いと言われたので、大臣のご提案として文部省に伝えましょうかと言ったら、それは困ると言って手を振った。
   奥方は、銀行の役員なので、英国経済の話になったのだが、私の経験では、英国では会食の場でも、結構程度の高い話題が出るので、たとえば、歌舞伎や紫式部などについても、それなりに語れないと恥をかく。
   欧米人は、社交好きで、毎日のように夫婦連れで、観劇や会食、パーティなどに出て社交生活を楽しんでいるので、耳学問で蓄積した話題や知識など、縦横無尽に連発するのであり、話術の冴えが求められる。
   
   ところで、私の場合には、ジムが好んでやっていた芝庭にシートを敷いてディナーを楽しむピクニックスタイルの方が多かったし、モネの草上の晩餐よろしく雰囲気を楽しむこの方が、グラインドボーンに来ているという満足感を味わわせてくれた。
   イングランドでは、初夏の空気が限りなく澄んで、色とりどりの花が咲き乱れて、輝くように美しいバラの季節が一番快適で、このシーズンを通してのグラインドボーン祝祭オペラなのであるから楽しくないはずがない。
   このグラインドボーン館は、広大な牧場に隣接しているので、HA-HA(芝生の庭と牧場の境界に深く彫り込んだ溝)の向こうに、羊や牛が草を食むのぞかな風景を展望でき、池畔の川面で群れ集う野鳥を楽しむことの出来る芝庭などが格好のピクニック場所で、ジムは、何時もここに場を占める。
   食事などディナーに関する用意は、事前予約で事務局が準備してくれるのだが、それぞれに好みがあって特別メニューのオーダーも結構あるという。
   ところが、何時も晴天で恵まれた日ばかりではなく、寒くて震え上がる日もあれば、雨に降られてテントに駆け込む日もあり、こんな時には運命の悪戯を託つ以外にない。
   一度だけ、晴天だったが寒い日があって、アーキテクトのホワイト夫人がブラウスだけだったで、夫君がタキシードの上着を貸して青い顔をして耐えていたことがあった。

   後述するが、ロンドンの郊外のケンウッドの野外劇場でのロイヤルオペラのコンサート形式のオペラでは、雨に降られて寒さに震え上がって早々に退散した苦い思い出もあって、極上の楽しみが瞬時に、吹っ飛ぶことがあって、運任せであるのが面白い。
   そう思うと、アメリカのロビンフッドデルでのフィラデルフィア管弦楽団の野外コンサートでは全く取りこぼしがなく幸せであった。
   
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気の遠くなるような秋を感じて

2020年11月22日 | 生活随想・趣味
   秋と言えば、思い出すのは子供の頃の田舎の秋。
   宝塚の鄙びた田舎の秋である。
   まだ、終戦時代の貧しくて苦しかった生活の残照が色濃く漂っていた時代であったが、子供たちに取っては、野山が格好の遊び場であって、丁度夕焼け小焼けの赤とんぼの世界で、真っ暗になるまで遊びほうけて家に帰っていった。
   学校から帰り鞄を投げ出して遊びに出ると、鉄砲玉のように帰らないので、宿題など勉強をした覚えがない。
   何処で何をして遊んでいていつ帰って来るのか、何処の親も気にもしていなければ心配もしていなかった、そんな、よき時代であった。

   今ではあまり歌っていないような気がするが、秋の童謡・唱歌・日本の歌を検索すると、小さな秋みつけた、里の秋、真っ赤な秋、故郷の秋、虫の声、村祭り、夕焼け小焼け、七つの子・・・懐かしい歌が蘇ってくる。そんな世界であった。
   近くに田んぼがないので季節感がつかめないのだが、刈り入れが終って稲わらが積み上げられた田んぼなどは格好の遊び場で、その上で組んず解れつ、暴れ回るのであるから楽しかった。
   秋が深まってくると、トンボが真っ赤に染まるのだが、フッと、稲わらの先に止まったのに気づいて、その美しさに子供心に感動したのを思い出す。
   真っ暗になった空には、星が降るように輝き、天ノ川がとうとうと横たわっていて、月の美しい夜には、影絵のような影を踏みながら家路についた。
   何故か、田舎というと、シーンとして気の遠くなるような大地が静寂一色に染まった晩秋の風情を強烈に思い出すのである。
   学生になってからの、京都や奈良の古社寺散歩に明け暮れたときの思い出も、桜や新緑ではなく、燃えるような極彩色に紅葉した野山や、赤く紅葉した残り葉をつけた古木にぶら下がった柿の実などの秋の景色や、モズの鋭い鳴き声など、冷気を帯びた秋である。

   我が家の一寸した秋の風情。鴫立沢の紅葉はじめと、色づいたブルーベリー、そして、ドウダンツツジ。
   
   
   

   兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川
   今では、河川という河川はびっしりとコンクリートで整備されてしまって、川に入ってドジョウすくいするなど夢の夢だが、当時は、土手から小川に下りて蛭や蛇をものともせずにフナやコイを手づかみしたり・・・とにかく、自然そのもの、小動物そのものとの接触が身近な日常であった。
   蜂に刺されて腫れ上がったり、切り株に足を突き刺して怪我をしたり、手足が傷だらけであっても、別に気にすることもなく、今から思えば、そのような生活の中から、自分で頭を打ちながら危険を察知し、少しずつ生活の知恵を積み重ねて成長してきたような気がしている。
   水鉄砲や竹馬は勿論、おもちゃらしいものは総て手作りで、一人前に、ナイフやノコギリなど工具も自由に使えたし、草履も自分でなえたのだが、
   幸か不幸か、最近の子供には、過保護というか安全第一で、すべて、そんな自由な道が塞がれている。

   さて、秋だが、椿を意識して育て始めてから、春の花である椿でも、早咲きの椿は、秋が深まると咲き始めるので、最近では、椿の開花の方が気になり始めている。
   天気の良い日には、そんな椿が咲き始めた庭に出て、少し寒さを感じながら、徒然なるままに読書に勤しむのが晩秋の楽しみである。
   エレガントみゆきの枝に、シジュウカラが飛んできて止まった。
   
   
   
   
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映画「ユリシーズ」オデュッセウスの活劇

2020年11月20日 | 映画
   NHK BSPで、1954年の古い映画「ユリシーズ」が放映されたので、懐かしくなって見た。
   カーク・ダグラス、シルヴァーナ・マンガーノ、アンソニー・クイン、ロッサナ・ポデスタなど往年の名優が登場する映画で、
   「ユリシーズ(Ulysses)」はオデュッセウスのラテン語形の英語化とかで、アイルランドの作家ジェイムズ・ジョイスの小説の現代版とは違って、ホメーロスの『オデュッセイア』を映画化した作品であり、面白い。

   この映画は、かなり忠実にホメーロスの叙事詩『オデュッセイア』を踏襲している。
   木馬戦略でトロイア戦争に勝利したユリシーズは故国イタケーを目指して航海するのだが、北に向かって航路を取るべき筈が、激しい嵐に見舞われて遥か南のリビアへと流されてしまって、長くて苦難の旅路が彼を翻弄する。
   この航海の途中、1つ目の巨人キュクロープスたちの住む島に到達して、キュクロープスの眼を潰して羊を強奪して逃げたので、キュクロープスの父親である海の神ポセイドンの怒りを買って、ポセイドンは、三叉の矛を海に突き刺し、嵐を巻き起こしてオデュッセウスの船を破壊する。
   この難行苦行しかしドラマチックな艱難辛苦の冒険譚については、総てではなくて、先のキュクロープスの島やセイレーンの歌やカリュプソーの島など一部の挿話を上手くアレンジしながら綴っているのだが、魔女キルケの住む島のキルケと海の女神カリュプソーの島のカリュプソとを合体させたような美女チルチェに愛される辺り面白く、妻ピネロペを演じるシルヴァーナ・マンガーノが二役を演じているのも興をそそる。
   イカダが壊れて、失神じょうたいで海岸に漂着して、パイエケス人の王女であるナウシカアに救助されてて、英雄ユリシーズと分って王宮で歓待され、王に帰郷のための船を提供される。
   この叙事詩というか映画で、もう一つの主要テーマは、ユリシーズが留守にしている故国イタケの状態で、美女の妻ペネロペとユリシーズの財産を狙って、多くの求婚者たちが押しかけてきて、王宮で乱暴狼藉を働き領地をさんざんに荒している。ペネロペは、貞操を守ってきたが、それももう限界だと思いはじめて、「ユリシーズの強弓に糸を張って、12の斧の穴を一気に射抜けた者に嫁ぐ」と皆に宣告する。
   その前に、乞食に変身して現われたユリシーズがペネロペに強弓競技の知恵をつけていたのだが、求婚者の誰もが強弓を使えなかったので、乞食姿のユリシーズが試みて成功して、正体を現し、先に内通していた息子テレマコスたちと一緒になって、求婚者たちを一網打尽に成敗する。
   ユリシーズが、ペネロペに近づいて、ヒッシと抱きしめるはずの感動的なラストシーンは、カーク・ダグラスが大写しになって、接近するところで字幕ナレーションが被ってFINE.
  
   ホメロスの「オデュッセイア」では、アテナなど人間くさいギリシャの神々が随所に登場して、もっと幻想的でありドラマチックで面白いのだが、70年以上前の実写映画でCGなど縁遠い時代では、想像を逞しくして、ホメロスの世界を追うことが肝要であろう。
   前半の航海同様、後半でも、テレマコスがユリシーズを探して旅に出る話やユリシーズがイタケに到着して元重臣の牧夫に助けられて王宮に潜り込む話などかなり元のストーリーから省略されていて、ホメロスの叙事詩の味が削がれている感じはするが、二時間の歴史的活劇としては、仕方がないのであろう。
   映画の所為で、画面がフェーズアウトして、次のストーリーに飛ぶのだが、欧米では、ホメロスは常識であり周知であるから、話が繋がるのであろう。

   シルヴァーナ・マンガーノの魅力は申すまでもなく、ナウシカアのロッサナ・ポデスタの初々しさも特筆もの。
   カーク・ダグラスは、適役だが、私には、ファン・ゴッホの印象の方が強烈である。
   先日、映画「道」で見たアンソニー・クインだが、強烈な性格俳優ぶり。

   ホメロスの「オデュッセウス」を、映画という別な形で鑑賞できて面白かった。
   吟遊詩人の語りを聴いて楽しむ文学で、シェイクスピア戯曲と同じで、聴きに行くと言うことであろうが、シェイクスピアもRSCの舞台を観て鑑賞が深まるように、ホメロスの映画も、大いに想像力を膨らませてくれて役に立つ。
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ボジョレーヌーボーを楽しむ

2020年11月19日 | 生活随想・趣味
   毎年11月第3木曜日は、ボジョレーヌーボーの解禁日。
   サントリーのHPによると、
   「ボジョレー ヌーヴォー」とは、フランス・ボジョレー地区で、その年に収穫したぶどうを醸造した新酒ワインです。
   ボジョレー ヌーヴォーが世界で注目を集めはじめた頃、ワインの売り手たちは、いち早く出荷しようと競いはじめました。その結果、質の悪いワインも出回ってしまい、せっかく世界に認められたボジョレーの評判を落としかねないほどでした。そこで1967年、フランス政府は、ワインの品質を下げないために解禁日を定めたのです。それが11月15日。
   1985年、フランス政府は安息日に重ならないように配慮し再び解禁日を定めます。それが現在の「11月の第3木曜日午前0時」。日付変更線の関係上、日本では本国フランスよりも早く解禁日を迎えるのです。

   この日付変更線の関係で日本では本場フランスより早く解禁日を迎えられると言うことで、その日の真夜中零時ジャストに、各地でイベントを開くということで、今年もその模様が報じられている。
   ボジョレーヌーボーへの浮かれぶりは、美味くもない新酒をお祭り気分で珍重するのはおかしいとか、商業主義の成せる技に踊らされているとか、必ず何らかの形で揚げ足を取られて揶揄されるのだが、 
   私は、単純に「目には青葉山ほととぎす初鰹」の心境で、初物を愛でて楽しむと言う主義である。
   何も特別な理屈はいらない、クリスマスもバレンタインデーも、やりたいと思えば便乗して楽しめば良いのである。

   さて、私自身のボジョレーヌーボーの楽しみ方だが、アメリカやブラジル、それに、オランダに居た時には、あまり、酒類は飲まなかったし、勉強や仕事に忙しかった所為もあってか、11月の瞬間的な出来事なのでボジョレーヌーボーの記憶は殆ど残っておらず、覚えているのは、イギリスへ移ってからである。
   大々的なイベントがあったのかどうか分らないのだが、レストランやホテルや私の入っていたジェントルマン・クラブRAC、それに、パブなどでは、ボジョレーヌーボーの時期が来た旨知らせるインフォメーションがあったので、それと気づいて味わっていた。
   ランチなど、結構パブで取ることがあったので、ボジョレーヌーボーの時期には、何時も飲むギネス1パイントの代わりにボジョレーヌーボーに飲み替えた。
   ビジネスランチではワインが入って当然だし、イギリスでは、昼だから酒はダメという雰囲気はないし、私自身酒には強い方なので、ギネス程度は水代わりでもあったので、昼のビールには抵抗がなかった。
   この時には、まだ、家でボジョレーヌーボーを買って来て飲むことはなかった。

   従って、季節が来て、ボジョレーヌーボーを買って家で楽しむという習慣がついてきたのは、日本に帰国してからである。
   スーパーへ行って、上等そうなのを選んで買っていたのだが、最近では、ネット通販を利用している。
   今年は、成城石井へでも出かけて買おうと思ったのだが、結局、インターネットを叩いてAEON de WINEで買った。
   少し遅れたのだが、コロナで巣ごもりの所為か、結構、売れていて残りが少なくなっていた。

   ワインについては、やはり、ヨーロッパで生活をしていて、イギリス人たちと会食する機会が多くなって、どんどん、テンションが上がっていったのだが、出張や一人旅で、日頃の激務を忘れて、異国のシックなレストランで、ソムリエと会話を交わしながら、しっとりしたと雰囲気で味わうルビーや琥珀色の醸し出す芳香に酔いしれる楽しさも味わえるようになった。

   今夜は、久しぶりに新鮮な気持ちに戻って、家族と、ボジョレーヌーボーを楽しもうと思っている。
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日経:中東の駐留米軍削減かと報道

2020年11月17日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   日経が、17日夕刊で、「トランプ氏、中東の米軍削減か」と次のように報じた。
   複数の米メディアは16日、トランプ大統領がアフガニスタンとイラク駐留米軍を削減する方針だと報じた。週内にも正式な命令を出し、2021年1月15日までに完了するという。再選に向けた展望が描けないトランプ氏が政権公約の実現を急げば、中東に力の空白を生みかねない。

   丁度、「ボルトン回顧録 トランプ大統領との453日」を読んでいて、その辺りのことが書かれているので、ボルトンなら、このトランプの決断を、どう見るのか、興味を感じた。
   中東について主に触れているのは、第6章の「シリアとアフガニスタン」、第13章の「アフガニスタンの対テロ作戦から、・・・」、

   第13章の冒頭で、アフガニスタンで何を目指すかについて、ボルトンたちは、次のように考えていた。
   1.ISとアルカイダの復活の可能性と、それに伴う米国へのテロ攻撃の脅威を阻止すること
   2.西のイランと東のパキスタンにおける」各計画に絶えず目を光らせること
   しかし、トランプもポンペオも、米軍の駐留ゼロに向けて交渉しようとしていたのだが、その協定の条件ベースは、
   1.アフガニスタンでテロ活動が発生していないこと 2.ISおよびアルカイダによる活動拠点の構築を封じ込めていること 3.米国側が適切な検証手段を有していること と言う3条件が揃って初めて米軍が撤退させると言うことである。
   ボルトンは、トランプたちの政策は明らかに悪手だと考えており、これは、感動すら覚えるほどの純真さで、良心のない悪党の集団と協定を結んでおいて、相手がご親切にもそれを守ってくれると信じ込むとは結構なことだと揶揄している。
   トランプに従って、ポンペオもエスパーも右へ倣えであったが、ボルトンは、合意に署名するかと訊かれて、タリバンが合意など遵守するはずがないので、もし、トランプが望むのなら、駐留軍を8600人(プラス関連人員と多国籍軍)まで縮小した後、そこでストップして、アフガニスタンの選挙など更なる展開を待つべきだと答えたという。
   ところが、その後、ボルトンが政権から離れた後、20年の2月に、米国はタリバンと、当時とほとんで同じ条件で協定を締結した。
   前年10月のシリア撤退と相まって、アフガニスタン問題を取り巻く政治的反発は益々高まっていった。
   ボルトンは、このタリバンとの合意締結は、アメリカ一般国民にとって許容しがたいリスクとなると考えて、「タリバンを正当化すればISやアルカイダといったテロ集団、さらにはアメリカの敵全般に広く誤ったメッセージを発するすることになる」と反対意見をツィートしたという。
   このアルカイダとの協定合意のシリア撤退も、完全にトランプの独断だと糾弾しており、今回の中東の米軍削減にも反対するであろう。

   トランプの頭には、米軍駐留は、「集団防衛」や「相互安全保障」など、複雑な國際事情のためではなく、ドイツであれ日本であれ、どこであれ、アメリカが守ってやっているのだから、相手国はその対価を払うべきだ。少なくとも、駐留先との協力協定を更新する際に、もっとマシな交渉戦略を立ててから協議すべきで、コストプラス50%を要求して、支払いを拒否すれば、米軍を撤退させると脅しあげれば良い。米国は儲ける必要がある。と言うことしかない。
   ボルトンは、ニューヨークの不動産取引とわけが違う、と揶揄する。

   目先だけの姑息な「アメリカ・ファースト」に凝り固まったトランプには、アメリカが世界中に張り巡らしてグローバルベースで、世界の平和と安寧を維持しようとしてきた貴重な公共財を叩き潰すことが、如何に、アメリカの国益にも、「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」にも反した稚拙な論理かと言うことが、悲しいかな、分らないところが悲劇である。

   ボルトンの超保守的なネオコン思想には、中々ついて行けないが、アメリカの中東からの撤退は、時期尚早だという考え方には、現実を考えると一理あると思っている。

(追記)バイデン政権になると、アメリカの中東政策がどう変るか、興味あるところだが、NYTが、次のようなタイトルを報じた。
   Can America Restore the Rule of Law Without Prosecuting Trump? (アメリカは、トランプを起訴せずに、法のルールを回復できるのか)
   From the magazine: When Donald Trump leaves office, his possible criminal liability will create a major dilemma.(トランプが職を去る時、彼のあり得る犯罪の責任が主要なジレンマを引き起こす)
   普通の人間になって大統領特権を失ったトランプはどうなるのか、また、7100万票を確保してトランプ党に変貌してしまった共和党が、どのように民主党政権に対峙するのか、アメリカの民主主義が問われることになろう。
   これだけ強固に保守主義に凝り固まって妥協の余地のない保守党に、バイデン民主党政権がいくら理想を掲げて奮闘努力して協調を試みても、水と油で妥協の余地のない政治経済社会の分断の修復は、一政権や二政権では無理であろうと思われる。

   もう一つ私が恐れるのは、
   ロイターやホーブスが報じる「米共和党の支持者、半数超が「選挙はトランプが勝利」との見方」
   米大統領選の結果について、共和党支持者の半分以上(52%)が、ドナルド・トランプ大統領が「正当に勝利した」と考えていることが分かった。また、68%は選挙結果が「不正に操作された」可能性があるとみている。
   と言う信じられないようなアメリカ国民の民度、知性教養の程度である。
   トランプが部屋に3台のテレビを置いて、つけっぱなしにして見ていたと言う大衆放送のトランプ応援団のFOXテレビさえ、トランプを見限りつつあると言うのだが、さて、それでは、彼らを教宣するのは、生まれて人気上昇中というトランプヨイショのテレビなのか、トランプが立ち上げようとしているというテレビなのであろうか。
   
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欧米クラシック漫歩のはじめに

2020年11月16日 | 欧米クラシック漫歩
   倉庫を整理していたら、海外のコンサートやオペラのパンフレットなどの間から、私が書き綴った「欧米クラシック漫歩」というエッセイ集が出てきた。
   A5の70ページほどの小冊子だが、アメリカ留学時代のフィラデルフィア管弦楽団やニューヨークのMET、そして、ヨーロッパへ移ってからのアムステルダムのコンセルト・ヘボ―から、大半は、ロイヤル・オペラなどロンドンでの音楽行脚で、ロンドンから帰国寸前に、思い立って備忘録として書いたものである。
   もう、30年以上も前の話なのだが、結構面白いので、いくらか書き加えながら、私のクラシック音楽鑑賞の軌跡について、書いてみたいと思う。
   尤も、シェイクスピア劇の鑑賞にも入れ込んでいたので、最後に、「ストラトフォードの休日」と題して30ページほどの記録もあるので、シェイクスピアについても書くことにもなろう。
   欧米人を相手に、国際ビジネスの狭間で、切った張ったの激務に翻弄されながら、ロンドンに5年もいながら、ゴルフクラブ二カ所も持っているジェントルマン・クラブRACのメンバーでありながら、一度もゴルフに行かずに、寸暇を惜しんで、博物館や美術館、歴史遺産や庭園回りなど文化芸術鑑賞三昧に耽っていた若き日の残照を思いだしながらの記述である。

   私のクラシック音楽鑑賞レビューの2005年以降は、このブログで書いているので、この記事にもない1990年代と21世紀初めは欠けるのだが、ベローナのローマ時代の野外劇場の壮大なオペラ鑑賞など貴重な思い出もあるので、思い出しながら、どれだけ追跡できるか分らないが、試みようと思っている。
   パソコンのバックアップなどあるはずもないので、もう一度、読み返しながら書くことになるのだが、週に一回程度、月曜日に書き続けようと思っている。

   私がクラシック音楽に興味を持ったのは、欧米に行ってからではなくて、それ以前からで、なけなしの給料をはたいて、来日したバイロイトの「トリスタンとイゾルデ」から、大阪万博の時に、カラヤンとベルリンフィル、バーンスティンとニューヨークフィル、ボリショイ・オペラやベルリンドイツオペラなどにも出かけたし、京都や東京で、ショルティとウィーンフィル、ミュンシュとボストン響、セルとクリーブランド響、ライナーとシカゴ響、アンセルメとスイス・ロマンド、それに宝塚でオイストラッフにも出かけたし、シュワルツコップなど歌手も含めて多くのソリストのコンサートにも出かけた。
   大学に入ってから、遅ればせながら、やっと、クラシックを聴き始めたので、はやく、キャッチアップするためには、超一流に接すべきだと思ったのである。

   それに比べれば、欧米に居た時には、クラシック音楽の本拠地で苦労せずにナマのコンサートやオペラを見聞きするのであるから、気負うことなく、もう少し濃密な音楽鑑賞が出来る。
   鑑賞レビューと言うよりも、欧米のコンサート事情やその背景などバックグラウンドに触れることの方が多いと思うのだが、何十年も前のクラシック音楽事情に触れて、思い出を反芻するのであるから、私にとっても、言うならば形の変ったセンチメンタルジャーニーでもある。

   このブログも、2005年からだから、今日で5739日目、
   クラシック音楽やオペラについては、随分書き続けてきたので、重複や蛇足も多くなるであろうが、元々、このブログは、長かった貴重な体験であった私の海外行脚での文化徒然雑記帳として書こうと思ったので、初心に返るということである。
   冒頭から、記録済みの文章から、全く違った「はじめに」になってしまったが、これも、歳の所為であろう。
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わが庭・・・椿:タマグリッターズ咲き始める

2020年11月13日 | わが庭の歳時記
   タマグリッターズが咲き始めた。
   タマノウラを交配親にして、アメリカのヌチオズナーセリーが作出した園芸品種である。
   わが庭では、普通は複雑な牡丹咲きだが、蘂がシンプルな八重咲きになることもあって、枝や咲く時期によって花も姿が変るのが面白い。
   わが庭には、兄弟のタマカメリーナ、タマアメリカーナ、タマアリアケが植わっているが、まだ、蕾は固い。
   
   
   
   
   

   わが庭には、いわゆる、草花用の花壇がないので、賑やかなはずの秋の彩りは皆無に近い。
   秋色を感じさせるのは、僅かな花で、寂しい感じだが、私には、椿が咲き始めれば、それで十分である。
   
   
   
   
   
   (追記)WPからメールが入って、Biden is projected to win Arizona, flipping the traditionally Republican state
    バイデンが、アリゾナで勝利して、11人の選挙人を獲得した。
    数え直しのジョージアも、バイデン間違いなしのようなので、選挙人獲得数は、16人を加えて、最終的には、306人となり、300人の大台に乗る。
    
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コロナで巣ごもりの毎日:読書三昧

2020年11月12日 | 生活随想・趣味
   新型コロナウイルス騒ぎで、殆ど外出せずに巣ごもり生活に入ったのは、3月からだから、9ヶ月目。
   買い物程度で、大船までは出ても、横浜は勿論、東京への外出も控えてるので、趣味の観劇やカメラを抱えての歴史散歩も、ずっとストップである。
   口絵写真の椿の三河雲龍のように、心境は、曲がりくねって出口を塞がれた感じながら、それなりに、楽しんでおり花が咲いている。
   
   巣ごもりとなれば、私にとっては、これまで以上に読書に時間を取れば良いので、むしろ、脇目を振らずに、本に対峙することが出来るのだから、何の不満もない。
   しかし、アメリカ大統領選挙など、興味深いカレントトピックスが沢山あって、メディア情報を追っかけるのに時間が掛かったり、それに、録り溜めた文化芸術や歴史関係のDVDをチェックしたりしていると、それほど、十分に時間を取れないのが分って、慌てている。

   今読んでいるのは、一寸遅いのだが、ボルトンのトランプの暴露本「ジョン・ボルトン回顧録 トランプ大統領との453日」
   原本と対照しながらの並行読み、
   ちゃらんぽらんなトランプの迷走政治が面白いのだが、当時のアメリカ外交史の歴史本として読めば、それなりの価値があると思っている。
   勿論、元ネオコンで、極端な超保守のボルトンの考え方にはついて行けないが、当時の激動する世界情勢に対して、定見なきトランプのアメリカが如何に対峙したのか生々しいレポートが読ませてくれる。
   

   さて、読書方針を、多少切り替えたのは、これまでの経済学や経営学の読書などは、そのまま続けていくとして、もう少し、古典を掘り下げて勉強してみようと思っていることである。
   古典と言っても、いろいろあるが、当面、近年勉強し始めたダンテの「神曲」とゲーテの「ファウスト」、そして、シェイクスピア学に照準を当てようかと思っている。
   シェイクスピアは、イギリスにいてRSCの舞台やシェイクスピア故地行脚などで触発されたので、大分進んではいるのだが、奥が深く、突っ込めば突っ込むほど興味が尽きない。
   まず、読み始めようと手配したのが、
   
   これまで、シェイクスピア戯曲の舞台や映画の録画があるので、並行しながら、楽しみたいと思っている。

   キリスト教徒ではない私には遠い世界なのだが、やはり、もう一度じっくりと読み進めてみたいのは、ダンテの「神曲」の世界。
   森永エンゼル財団が、「今道友信 ダンテ神曲連続講義 15回」の貴重な映像を放映しており、一生懸命拝聴したが、今でも、ダンテフォーラムに出かけて、今道友信先生の最晩年の講演を聴く機会を得たのを、非常に幸せだったと思っている。
   このダンテ『神曲』連続講義を、みすず書房から、今道友信著「ダンテ『神曲』講義」として、2002年に出版された。
   その後、一部改定が施され「ダンテ『神曲』講義」(改訂普及版)が出版されて、この本は今でも取得可能である。
   しかし、私は、どうしても、絶版となっている初版の本が欲しくて、探していた。
   定価15,000円の豪華本で、20年も経っているので、良質な本が残っておらず、新本同様の本だと、定価をはるかに超す。
   読書家でありながら、価格に拘るというのは恥ずかしい話ではあるが、新本なら定価で買えれば問題ないのだが、古本であるから読めれば良いという話ではない。
   幸いにもと言うべきであろう、「日本の古本屋」を叩いていて、素晴らしい未読本を、最低価格で取得することが出来た。
   
   ホメーロスから説き起こして、ギリシャやローマに話が及び、奥深いダンテ神曲講義が始まる。
   講義を拝聴しながら、並行読みで勉強しようと楽しみにしている。
   
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マコネル院内総務トランプ擁護、アメリカの深刻な分断

2020年11月10日 | 政治・経済・社会
   バイデン勝利に対する共和党の反応として、アメリカの分断を決定づけるような興味深い報道・・・ロイターが、”米共和上院トップ、トランプ氏に「選挙不正調べる権利」”と言うタイトルで、次のように報じた。
   米共和上院トップのマコネル院内総務は9日、トランプ大統領には米大統領選の「不正」を調べる権利が完全にあるとの見方を示した。上院での演説で、民主党のバイデン候補の勝利を認めないと表明。「トランプ大統領には大統領選の不正を調べ、法的な手続きを検討する権利が100%ある」と述べた。
   トランプ大統領の法廷闘争によって、複数の州で再集計が行われることになれば、政権移行のための重要な手続きが数週間遅れる可能性がある。・・・米議会の共和党関係者は「法廷闘争が長引けば政権移行が遅れ、外交政策に大きな打撃となる。われわれが選挙に気をとられる間、世界はボーっと見ているわけではない」と語る。

   NYTは、マコネルは、上下両院での共和党の勝利について言及し、選挙結果を認めないトランプを支持、McConnell Praises G.O.P. Wins, Yet Backs Trump’s Refusal to Accept Election
   殆どの共和党上院議員はバイデン勝利を容認せず反駁 Contradiction Comes as Few G.O.P. Senators Recognize Biden’s Victory

   ワシントン・ポストは、同様記事を、
   ”More Republicans back legal push to contest Biden’s victory”
   Senate Majority Leader Mitch McConnell and other Republicans on Monday backed President Trump’s efforts to contest his loss to President-elect Joe Biden, despite the lack of evidence of significant fraud and sharp rebukes from election officials who defended the integrity of the vote.
   McConnell (R-Ky.) said from the floor of the Senate that the president is “100 percent within his right” to pursue recounts and litigation. McConnell did not repeat Trump’s baseless assertions that fraud had cost him the election, but he said he had met with Attorney General William P. Barr earlier in the day and supports the president’s right to investigate all claims of wrongdoing.

   私が注視したいのは、前述のWPの「マコネルと他の民主党議員は、投票の正当性を擁護している選挙役人たちから深刻な不正行為や厳しい譴責などの証拠が示されていないにも拘わらず、バイデン次期大統領への敗北に抗議しているトランプをバックアップしている」という指摘のように、マコネルの声明や共和党の選挙結果への対応が、良識の限度を超えており、ここまで、共和党と民主党の対立が熾烈を極めており、アメリカの分断が極に達しているのかという事実である。
   アメリカの民主主義が、民主党と共和党の水と油の分断状態によって如何に危機に直面しているかを、これまで、スティグリッツやライシュやクルーグマンなどのリベラル学者の見解に触れながら論じてきたが、今回のような文句なく機能していた選挙制度を根本から否定する共和党の強硬姿勢を目の当たりにすると、脅威を禁じ得ない。

   少し前に読んでレヴューした新著「危機のと人類」の「国家――明らかになった危機 アメリカを待ち受けるもの」で、ジャレド・ダイアモンドが、弱者を排除するなどアメリカの選挙制度が、二極化を激化させると糾弾しているのだが、その中で、今回の選挙を彷彿とさせる指摘をしていて興味深い。
   「・・・アメリカ政府、あるいは州政府を手中に収めた政党が有権者登録をどんどん操作し、裁判所判事に同調者を送り込み、こうした裁判所を使って選挙結果に介入し、「法的処置」を発動し、警察や国家警備隊、陸軍予備軍や陸軍そのものを使って政治的反対勢力の抑圧をおこなうという未来が予見される。」
   トランプが、9日、黒人差別撤廃を求めるデモ隊の鎮圧に正規軍を投入しようとしたトランプの意向に反対したエスパー国防相を解任したと報道されたが、このトレンドの一環であろうか。
   ダイアモンドは、二極化の熾烈さは、学問分野にも及んでいて、ダイアモンドも、書評には「シャラップ!」と酷評され、対立学者から繰り返し訴えられたり、訴訟の脅しを受けたり、酷い中傷を受けたり、講演の時には、怒り狂った批評家連中から守るためにボディガードを雇うのだ。と言う。
   日本の学術会議6人任命拒否は、総理大臣の行為だから、民主主義にとって、問題は、もっと深刻だが、フランスの「表現の自由」擁護の凄さは、フランス革命の洗礼が如何に貴重だったかを物語っていて、まさに、民主主義の年輪を感じる。

   話が脱線してしまったが、バイデン政権の未来に期待している。

(追記)CNNが、「米司法長官、「不正選挙」の捜査促す書簡 担当高官が抗議の辞任}と次のように報じた。
    バー米司法長官は9日、全米の連邦検察に向け、大統領選をめぐる不正疑惑の捜査に着手するよう促す内容の書簡を出した。これに抗議して、司法省で選挙犯罪を担当する部門の責任者が辞任した。
    ただし、トランプ陣営が根拠を示さないまま主張している大規模な不正について、司法省が何らかの証拠を見つけたことを示唆する文言はなかった。
    トランプ氏の最側近として知られるバー氏は最近、大統領選の不正疑惑を追及することに強い意欲を示していた。連邦当局は従来、選挙で不正疑惑が指摘されても、各州での認証前は介入を控える方針を取ってきた。司法省内部ではバー氏に対し、この方針を変えるべきではないと忠告する声が強かったという。
    事情を知る関係者によると、同省高官らはバー氏の書簡に驚いた様子だった。選挙犯罪部門を率いるリチャード・ピルガー氏もその一人だ。ビルガー氏は同僚らにあてた辞任表明のメールで、承認前の不介入という長年の方針をバー氏が覆したと指摘した。
   ダイアモンドの指摘した悪夢が、現実味を帯びてきた感じで、香港のケースも憂うべきだが、三権分立の精神が後退すると、民主主義は死んでしまう。

   しかし、ロイターが、10日、「米大統領選、米国民の約8割がバイデン氏が当選と認識=世論調査」と報じており、アメリカの良識が、勝利すると信じている。
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わが庭・・・秋の実:ミカン、フェイジョア、クロガネモチ

2020年11月09日 | わが庭の歳時記
   秋は収穫の季節、
   実を結んだ柑橘類の実が、少しずつ色づき始めた。
   わが庭には、柑橘類が、2~3本ずつ植わっているのだが、実が成っているのは、ミカンと夏みかんとユズだけである。
   レモンとキンカンは、まだ、木が小さいので、もう少し待たねばならない。
   柑橘類でも、隔年結実というか、今年は、夏みかんもユズも沢山実を付けて豊作である。
   
   
   
   

   フェイジョアも、沢山結実したが、殆ど落ちてしまっている。
   この実は、青いままで色づかないのだが、4年間住んでいたブラジルの果樹で、独特な形をした特異な花も雰囲気があって面白く、懐かしいので、珍重している。
   残念ながら、帰ってから知ったので、ブラジルでは、気づかなかったし、果実を味わったこともなかったのだが、甘くて美味しいのである。
   
   
   
   果樹ではないのだが、花木の小さな実が着いているのは、アメリカハナミズキとクロガネモチ、
   雰囲気は全く違うが、ハナミズキは、紅葉した葉が落ちて、ひっそりと小さな実が残っていると言う感じで、
   クロガネモチは、かたまってびっしりと実を付けている。
   
   
   
   

   咲いている花木は、椿とバラ、
   今年は、花後から夏にかけての手入れに失敗したので、バラは貧弱でダメであった。
   
   
   
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