熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

ストラトフォードのシェイクスピア旅(15)コッツウォルドからヒースローへ

2023年10月22日 | 30年前のシェイクスピア旅
   アーデン・ホテルにとって返して、荷造りをして、ボーイに運ばせて車のトランクに収めて、チェックアウトした。ホテルのレストランで軽い昼食を取った。今度のイギリス旅行では、リッツ以外は、ミシュランの星付きとか真面なレストランに行けなかったのだが、以前に近郊の豪華なマナー・ハウスをホテルにしたレストランで食事をしたことがあるが味はもう一つで、このストラトフォードには、良いレストランがなかった。
   今夕、7時45分ヒースロー発のJAL402便で東京へ発たなければならないので、その前にレンター・カー会社に車を返すとなると、正味5時間くらいしかない。しかし、中途半端な時間だが、どうしても、コッツウォルドに立ち寄りたかったので、空港まで300キロくらいはあるが、一番近いチッピング・キャムデンに行くことにした。

   コッツウォルドは、比較的起伏の少ない地方であるが、それでも、丘あり谷ありで、中世の街並みが残っていて、イングランド屈指の美しい田園地帯である。田舎道を走っていると、急に眼前が開けて、多くの羊の群れが草を食んでいる牧場風景が展開する。今では、随分少なくなったが、昔この地方が羊毛産業の中心として栄えていた頃には、多くの牧場に沢山羊が飼育されていて壮観だったという。
   
   田舎道を、野や畑を通り抜けてチッピング・キャムデンに近づくと、聖ジェームス教会の垂直型の塔が見えてきた。ヨーロッパの常識としては、教会か大聖堂がある所は、必ず、町の中心なので、そちらに向かって車を走らせたが、この中世の教会は、街外れの林の中に建っている。この教会も、コッツウォルド・ストーン、すなわち、オーライト・ライムライト(魚卵状石灰石)で建てられている。普通この石は、ハニー・ゴールド色であるが、青みがかっていたり、シルバーやクリーム色から黄金色まで色々なバリエーションがあり、年月が経ち風雪に耐えてさびが出てくると、黒ずんできて、地味だが風格が出てくる。
   この教会は、コッツウォルドのウール・チャーチの中でも最も優雅な教会だと言われており、ヨーロッパ最大の羊毛集散地として栄えていた頃の裕福な羊毛商人たちが建てた記念碑である。建物の内部は、ステンド・グラスも装飾もシンプルだが、一昔前のロマネスク調である。塔の方形の屋上には、4本の短い尖塔が建っており、時計盤まで付いて、かなり優雅な装飾が施されている。教会の庭は墓地で、低い塀越しに牧場が続いている。

   
   車を教会の前の車道に駐車して街まで歩くことにした。まだ藁葺きの家が残っている。裏通りのパブの建物は、珍しく煉瓦造りの白壁で、入り口の派手な看板と共によく目立つ。本通りに出ると、街道沿いに街並みが続いている。建物の殆どが、コッツウォルド・ストーンの外壁なので、車さえなければ中世の街に入った感じであろう。石灰岩の切石ブロック積みの外装なので外部の装飾が限られており、極めてシンプルで、優雅な街並みにはケバケバしさがなく、ハンギング・バスケットのフラワーや店の看板が、くすんだハニー・ゴールドの外壁に良く映えて、素晴しい家並みのハームニーを醸し出している。
   大通りハイストリートの真ん中あたりにアーチ状の破風のあるマーケット・ホールがある。この辺りには、羊毛商人の館がいくらか残っており、かなり立派な建物があるのだが、街の中心が何処か分からない。ドイツなど大抵のヨーロッパの都市は、中心には、広い広場があって、シティ・ホールと大聖堂や教会が建っているのだが、このチッピング・キャムデンは、街道に沿った細長い町に過ぎない感じである。
   そう思って考えてみると、イギリスでは一点に都市機能が集中するとは限らず、シティ・ホールなりギルド・ホールなりが教会と隣接しているのは稀かも知れないし、大分傾向が違う。いずれにしろ、このコッツウォルドには、中世の集落が点在していて、散策するのが楽しい。

   このコッツウォルドには、ストラトフォードへの行き帰りも含めて何度も訪れており宿泊もしており、私にとっては、観光地と言うよりは、懐かしい田舎である。田舎の野山を散策しながら、ふっと立ち寄った鄙びたパブでギネスを煽り、素朴な旅籠でアフタヌーン・ティを楽しむ、そんな憩いの場でもある。
   
   チッピング・キャムデンからずっと南、カーン川の畔にバンプリーという人口600人くらいの小さな村がある。アーリントン・ロウと呼ばれる昔の織物工の長屋がそのまま残っていて、格好の写真スポットとなっている。前に広がる湿地帯の直ぐ傍を、カーン川の清流が流れていて、川面を、二羽の白鳥が、かなり速い流れに逆らって上ってくる。川底の水草に鱒が戯れて銀鱗を光らせている。がっしりとした古い石橋の上に立って、そんな風景を楽しみながら、鳥のさえずりや爽やかな風音に耳を傾けていると、時を忘れる。
   

   ハイストリートを抜ける途中に、面白そうなアンティークショップがあったので何の気なしに入った。小さな店に、陶器や古道具、時計や彫刻・彫像、装飾品など色々な骨董品が、全く秩序なく雑然と置いてあるといった感じで、狭い急な階段を下りた地下室にも2階にも広がっている。よせば良いのに、根が好きなので、飾り皿を二枚、周りを6面に切り込み型押し彫刻を施し表面に金泥をかけて焼いたマイセンと、道化師を描いたロイヤル・ドウルトンを買った。
   チッピング・キャムデンで時間を取ったので、ヒースローへの時間が厳しくなってきた。
   数年前、オックスフォード経由でロンドンに帰ったときに車の渋滞で困ったので、今度は、思い切ってストラトフォードに引き返して、M40の高速に乗ってヒースローに向かうことにした。
   大体、夕刻ヒースローを出発するのに、ストラトフォードの郊外を午前中観光して、午後にコッツウォルドで十分に時間を過ごして、慢性的な交通渋滞のイングランドで、いつ着くか分からないのに、短時間で300キロを突っ走るという無茶をやってしまった。しかし、ヨーロッパでの8年間のビジネス環境は、これに、似たり寄ったりの綱渡りで、ヨーロッパ人との切った張ったの厳しい激務激戦の連続であったのだが、今となっては懐かしい。(1995.9.9)

   以上15篇は、30年前に敢行したストラトフォード・アポン・エイボンへのシェイクスピア旅紀行を、多少加筆して再録したもの。
   このブログの「欧米クラシック漫歩(32) 」と共に、このブログをスタートした2005年以前に残っている、私に取っては貴重な20世紀の欧米文化行脚の記録である。

(追記)今回も、口絵写真などは、ウィキペディアなどインターネットから借用させて貰った。膨大な写真を撮ったはずなのだが、倉庫に埋もれて探せないのが残念である。
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ストラトフォードのシェイクスピア旅(14)シェイクスピアの妻と母の家

2023年10月15日 | 30年前のシェイクスピア旅
   イギリスでの最終日である。ストラトフォードの街から間単に行けるのに、行けなかった場所:シェイクスピアの妻アン・ハサウェイのコテージと母メアリー・アーデンの家を訪ねることにした。
   母の父は、富裕な大地主であったので、メアリーの家は大きな農場を持った今でも立派な家であるが、アンのコテージは、今では少なくなって希少価値の萱葺き屋根の絵心を誘う牧歌的な家なので、この方が人気が高く、観光客が多い。

   街を出て西方向へ1マイル、郊外のショタリー村にアンのコテージがある。道路標識がしっかりとしているので道標に導かれてすぐに着いた。
   草深い田舎であった、そんなところに道路沿いにヒッソリと建っている。コテージと言っても、かなり大きな萱葺き屋根の家で、昔は家畜小屋や農地があったであろう庭が、夏の草花が咲き乱れる典型的なイングリッシュガーデンのコテージ・ガーデンになっている。スイトピーの花や赤や紫の花が風に揺れている。ルリタマアザミの薄紫の玉に虫が戯れている。薄い褐色の煉瓦壁を背にしてタチアオイが咲いている。記念写真を撮るために場所を占めて動かない日本人観光客が立ち去るまで、そんなショットを撮りながら待って、静かになってから庭をゆっくり散策した。
   

   アンはここで生まれ、1582年シェイクスピアと結婚するまで26年間ここで暮らした。アンのことは殆ど何も分かっていないが、ごく普通の女性で読み書きは出来なかったようである。シェイクスピアが結婚まもなくロンドンへ単身赴任してしまって、殆どストラトフォードを留守にしていたので、一人で子供を育てて家庭を守っていたのであろう。その間に、頻繁に里帰りして野良仕事もしていたのかも知れない。19歳のシェイクスピアよりも8歳年上の姉様女房であったが、不思議にも、シェイクスピアの戯曲には何の影響も痕跡も残しておらず、長い間留守を守り、夫が引退してロンドンから帰ると、また、何でもなかったように静かに一緒に暮らした。そんなアンという女性は、一体、どんな人だったのであろうか。

   建物は庭から観て、右側の広い低層部は、16世紀のオリジナルで、左側の高層部は、17世紀にアンの兄が増築したと言われており、19世紀まではハサウェイ家の人たちが住んでいたようで、ほぼ現状のままに残っている。内部の装飾、家具、調度なども、総べて骨董で当時の雰囲気を残すべく努力されている。一階には、ホール、台所、食糧貯蔵室、冷蔵室等があり、二階にはいくつかの寝室がある。ホールの暖炉の側に、楡の板を張った木製の長椅子があり、解説者が、交際中のシェイクススピアとアンが、座ってよく話したところだと説明し、間をおいて、その可能性があると言って、意味ありげににっこりと微笑んだ。二階の主寝室には、場違いなほど立派な彫刻を施したオーク製のベッドがある。この家は、二階建ての細長い建物で、かなり広い立派な農家であることが分かった。

   外に出ると果樹園に続いている。シェイクスピア戯曲に登場する木々は、殆ど植えられているという。アンのコテージを出ると、道路を隔てて、小さなショッテリー川が流れていて、森に通じる。これがオフィーリァが溺死した場面や、「お気に召すまま」の「この世は舞台、男も女も総べて、登場しては消えて行く役者に過ぎない All the world’s a stage, And all the men and women merely players. 」の舞台のモデルだと言われている。アンとのデートの場が、シェイクスピアの深層心理として残っていたのかも知れないと思うと面白い。尤も、このあたりでは、このような風景はいくらでもあるのだが、ストラトフォードの回りを歩いていると、シェイクスピアを身近に感じ、その戯曲のあっちこっちの場面がいつか何処かで見たような気がして、無性に懐かしくなるのが不思議である。

   今度は、道路標識にしたがって、シェイクススピアの母メアリー・アーデンのいえに向かった。
   このあたりの細かい道路地図がないので、懇切丁寧な標識が全く有り難い。イギリスの道路標識は、世界一であるが、これまで、全く交通ルールも異なり言葉も違うヨーロッパ、ドイツやベネルックスやデンマークやフランスなどを運転してきたので、標識を見るのは慣れているのだが、日本の標識の方が分かりにくいと思っている。2車線の綺麗に舗装された田舎道を、街から北西へ3マイル、すぐに、メアリー・アーデンの家に着いた。ここに来ると日本人の観光客はいない。

   
   母の家は、「アズビーズ」と呼ばれる16世紀の木骨造りの2階建ての落ちついたチューダー様式の農家である。
   母屋の他に、色々な別棟が付属するかなり大きな農家で、一部は、シェイクスピア田園博物館として利用されていて、多くの農機具や馬車等が展示されている。母屋は、褐色の石のスレートで葺かれ、基礎と腰板は、この地方やコッツウォルドで普通に産する青灰色の石灰岩の薄い煉瓦様のブロックを積み重ねており、その上に載った太い木骨フレームの白壁に太陽の光が映えて美しい。アンの家も、同じチューダー朝だが、この家の方が遙かにしっかりとしている。
   これらの建物は、20世紀の初期に財団が買い取るまで、農家として使われていた。表玄関が閉鎖されていたので、裏口から入ると、右手に台所、左手にホール兼リビングがある。家具調度、調理機器等は勿論、内装も当時の模様を現出している。台所の炉の上には、鳥や兎を吊すゲーム・クラウンがあったり、ホールには、一方が接吻している図案の彫像パネルの2枚付いた16世紀初期のオームブリ食器棚があるなど結構興味深い。2階は寝室になっている。
   面白いのは、中庭の片隅に、600を越える巣穴のある鳩小屋があることで、当時、普通の庶民には飼育が許されていなかったので、アーデン家はかなりの特権階級であったことを示すと記されている。1556年の記録には、乳牛、牡牛、羊、馬、豚、鶏、ミツバチなどが飼われていたとあり、かなり、大規模な農場であった。財団が買い取った大規模なグリーブの農場が隣接しているのだが、時間がなかったので、ほどほどにして退散した。
   夕刻までにヒースローまで突っ走って、JAL便で東京へ帰るのである。

(追記)当時の写真は探し出せないので、口絵写真などは、ウィキペデイァとネット画像から借用した。
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ストラトフォードのシェイクスピア旅(13)ロミオとジュリエットの家

2023年10月08日 | 30年前のシェイクスピア旅
   「ロミオとジュリエット」の観劇記の後に、ヴェローナの二人の家についての記述が残っているので、再録して、ヴェローナの思い出を書いてみたい。

   シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」は、1302年、町が、教皇派のモンタギュー家と皇帝派のキャピュレット家とが内部抗争していた頃の事実を題材にしているので、真実かどうかは別にして、ロミオとジュリエットの家がある。
   ロミオの家は、繁華街の中心、シニョーリ広場に近いスカリジェリ家の廟の向かい側にある建物で殆ど目立たない。塀に説明書きのプレートはあるが、隣の貧相なレストランで聞いても英語が通じないので全く要領を得ない。しかし、宮殿と政庁舎の裏に位置しているので、当時は、一等地であったのであろう。

    
    ジュリエットの家は、ヴェローナ屈指の観光スポットで、ロミオの家から歩いてほんの5分、シニョーリ広場を抜け、エルベ広場を右折れして、カッペルロ通りを、アレィジェ川に向かって少し歩くと、左手に見える。入り口を入って中庭に出ると、右手奥に、アーチ状の小さな玄関口がある。その左手に小さな窓があり、その上に例のバルコニーが突き出している。壁の構造体はしっかりとした煉瓦造りであるが、バルコニーは、石造りで飾り柱が付いている。RSCの舞台などでは、貧弱な、あるいは、省略されたバルコニーを観ているので、壁面に蔦が絡みつき重厚な建物の石造りのバルコニーを観るとイメージが違ってくる。ゲスの勘ぐりだが、このような重装備のそして警戒の厳しい邸宅に、ロミオが入り込むためには大変な努力をしなければならない筈だと、現実的になってしまう。
   中に入ってみると、かなり大きな邸宅で、床も天井も殆ど木製で、中々立派な素晴しい建物である。しかし、窓が小さくて天井が低いので結構内部は暗い。
   (この口絵写真は、インターネットから借用したのだが、バルコニーである。上の写真は入り口から中庭越しに建物を見た写真。左手奥にジュリエットの銅像が建っていて、写真スポットであり、観光客が撫でるので、ジュリエットの胸が光っている。)

   
   さて、上の写真は、ウィキペディアからの借用だが、ヴェローナを良く表している。
   私は、都合3回ヴェローナを訪れている。
   もう、30年以上も前の話になり、記録や写真も失ってしまったので殆ど記憶に残っていないのだが、ローマ時代の巨大な野外劇場アレーナ・ディ・ヴェローナでの壮大なオペラ公演は忘れられない。
   アイーダとトーランドットを観劇した。
   宿泊先も一番古いホテルに泊まって、ドップリ古いイタリアを味わおうと試みたのを覚えている。
   
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ストラトフォードのシェイクスピア旅(12)ロミオとジュリエット

2023年10月01日 | 30年前のシェイクスピア旅
   午後遅くウォリックから帰り、アーデン・ホテルでゆっくりと寛いで夕食を取り、劇場へ出かけた。 
   大劇場の玄関前、ロイヤル・シェイクスピア・シアターと大書された看板の前で、日本の高校生のグループが記念写真スタイルで並んでいる。前で若い男の先生が、前方の低い塀の上に直にカメラを置いて、しまらぬ格好でファインダーを覗いてシャッターを切り、生徒の列に走り込んだ。あまりいいカメラでもないし、塀の一部にレンズが蹴られていて、上手く写っていないと思って、シャッター押しを買って出た。カメラ王国から来た記念写真好きの日本人とは思えないような体たらく、携帯用か簡易三脚を所持すれば済むことである。折角のイギリス旅行の全行程を、こんな馬鹿げた写真撮影を続けたのであろう。この高校生たちが、その後、劇場に入って、ロミオとジュリエットを観たのかどうかは分からない。

   今夜は、エイドリアン・ノーブル演出の「ロミオとジュリエット」である。ノーブルは、現在、RSCの芸術監督で最高の演出家の一人として呼び声が高い。これまで、彼の演出のRSCの舞台で、ヘンリー四世一部二部、冬物語、ハムレット、リア王を観ている。ハムレットを演じたケネス・ブラナー、リア王とファルスタッフを演じたロバート・ステファンスの姿を今でも思い出すが、それに、舞台もシンプルで、客を裏切らず結構古典的なのが好ましい。冬物語は、日本でも観たが、シェイクスピア劇には珍しく、出演者も多く大掛かりであって、カラフルで楽しく、どこかオペラの世界に浸っているような感じがした。

   今回の第一印象は、何故こんなに瑞々しい舞台なのかと言うことであった。これは、タイトル・ロールを演じた二人の若い役者に負うところが大きい。殆ど無名に近い二人の演じたロミオとジュリエットが、あまりも新鮮で初々しかったからだと思う。
   ジュリエット役のルーシー・ホワイトブローは、育ちの良い、良く教育された、可愛い良家の令嬢を、地で行くような演技に徹している。しかし、可愛い無垢な子供を演じながら、時折、しっかりとした大人の女の片鱗を覗かせる。
   第二幕の有名なジュリエットのバルコニーでの独白、「おお、ロミオ、ロミオ! なぜ、あなたは、ロミオなの」。このシェイクスピア劇のたまらない独白の場の役者の歌うような美しい詩形の台詞回し、この場のホワイトブローの演技は秀逸である。何処を見ているのか分からない、しかし、必死の目で中空を見つめながら、語りかけるように切々と思いを独白する。突然、バルコニー下にロミオがいるのに気付くと、一瞬狼狽して怯えるが、瞬時に、喜びの表情を示して、喜々としてロメオに対する。これは、演技ではない演技、したがって、尋常では出来ない素晴しい芝居心の発露である。

   ロミオを演じたズビン・ヴァルラは、これも、極めて素直な愛くるしい演技で、アクや嫌みを全く感じさせない。ホワイトブローより少し抑えた理知的な演技をしており、線は細いが安定した役作りが清々しい。マキューショーとティルボルトとの闘いの場で、ジュリエットとの結婚式を終えた所為もあるが、反目する両家の和睦の橋渡しをしようとする心理的に難しいシーンがあるが、その思いと親友のマキューショーを殺害された後の心の変化を実に鮮やかに演じていた。

   スーザン・ブラウン演じる乳母は、一寸家庭教師風の雰囲気が面白い。ジュリアン・グローヴァーのローレンス神父は、ロメオの唯一の理解者で、彼だけが旧世代から離れている。二人の運命が幸にも不幸にもどちらにも振れる重要なキャスティンボートを握っていたにも拘わらず、結局打つ手が遅れて、二人の死を招く役回りである。神に仕える身、どうにも逆らえない絶対的な運命を信じながら、理性的な行動を取りつつも、どうしようもない人間的な弱さ悲しさを滲ませながら懺悔する神父をグローヴァーが好演している。キャピュレットを演じるクリストファー・ベンジャミンとその夫人のダーレン・ジョンソンは、ベテラン役者で、ロミオとジュリエットの若い世代と対立する世代を、情け容赦なく厳しく演じて凄まじい。第三幕第五場のパリスとの結婚に対するジュリエットとのやり取りの激しさ凄まじさ、この戯曲のテーマでもある新旧の相容れない対立の悲劇を痛いほど感じさせてくれる。

   ところで、ノーブルは、最初から、イタリアをイメージするために、舞台に、戸外に干された洗濯物の旗竿を使っている。イタリア、特に、ナポリなどでは凄まじく、繁華街でも道路を渡して洗濯旗の満艦飾で、ロンドンやパリではあり得ない光景。
   ジュリエットが大きなブランコに乗って登場する第一幕も、頭上に洗濯物がびっしりぶら下がっているし、決闘の場も、あっちこっちに洗濯物が干してある。シェイクスピア劇の舞台なので、大がかりなセットはないが、第二幕の仮面舞踏会のシーンは、華やかなオペラの舞台の雰囲気があった。ノーブルの舞台は、奇を衒うことも、モダンな特殊なテクニックを使うこともなく、ビックリするような斬新さもないけれど、非常にオーソドックスながらも、色彩豊かでで美しく、いつも、キラリと光る何かを感じさせてくれる美しい演出だと思っている。

   さて、この舞台は、普通の大劇場での公演だったが、シェイクスピア当時の劇場は、グロ-ブ座のように青天井の劇場であったので、参考のために、口絵写真もそうだが、当時の公演の雰囲気を示すために、グローブ座の写真を掲載しておく。
   
   
    
   
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ストラトフォードのシェイクスピア旅(11)ウォリック城を訪れる-2

2023年09月26日 | 30年前のシェイクスピア旅
   外に出て、宮殿の外れのゴースト・タワーの側にある塚山の望楼に上ってみた。
   眼下には壮大な庭園が開け、その中を緩やかにエイボン川が蛇行している。その向こうには、ストラトフォードやコッツウォルドの沃野が広がっている。
   この庭園は、18世紀半ばに、造園家ランスロット・ブラウンによって造られたもので、小山あり、谷あり、中州ありで、エイボン側にあるので、河畔からは、ガーデン越しに城の宮殿が見える。残念ながら、今回は時間がなくて、ガーデンを散策できなかった。

   今回、興味があったのは、アーデンの森がどんな森なのか、知りたかったことである。
   シェイクスピアの戯曲には、森のシーンが随所に登場する。しかし、その森は、ドイツの森のように、真っ黒で、一度入り込むと出てこられないような、鬱蒼とした森ではないはずだとと言う気がしている。ドイツの森は、一度しか行っていないが、シュヴァルツヴァルト(黒い森)に代表されているように、鬱蒼とした原生林のような大海原の雰囲気で、その中では人が住めない全く阻害された世界と言った感じがするが、シェイクスピアの描く森は、きっと、故郷アーデンの森に違いない、それを見たい、と言うのが今回の旅の一つの目的であった。

   眼下には、ずっと遠くの方まで、緑の森や田畑が広がっている。それは、ドイツの森と全く違っていた。相当部分は森林で覆われているが、鬱蒼とした森林地帯には程遠く、所謂、ニュー・フォレストで、小さな村や農地が散在する樹木の多い田園地帯という雰囲気である。あの当時、このアーデンの森には、牧草地の麦畑に交じって、小規模な工業や鉄鉱山があったと言う。
   ”お気に召すまま”で、ジェイクイーズが、「この世界は総べてこれ一つの舞台。人間は男女を問わず総べて、出ては消えて行く役者に過ぎぬ。」と唱えた森も、”真夏の夜の夢”で、タイターニァがボトムと戯れた森も、”ウィンザーの陽気な女房たち”で、ファルスタッフが妖精たちにいたぶられるラストシーンも、このアーデンの森が舞台なのであろう。眼下の、緑滴るエイボン川を飽きずに眺めながら、シェイクスピアの世界を反芻していた。

  中庭に戻って、城壁に上る。ベアー・タワーとクラレンス・タワーの上を歩いて、ガイズ・タワーに達する。タワーに入って細い螺旋階段を上る。シーザーズ・タワーと共に、この城で最も高い塔で、眺望は素晴しく、鄙びたウォリックの町が見え、その背後に森と田園地帯が広がっている。大きな建物は、セントメアリー教会だけで、黄緑色の牧草地が点在する濃い緑色の沃野が何処までも続いている。
   マクベスの城は、スコットランドだが、最終幕のバーナムの森がダンシネンの丘に攻め上ってくる光景は、何処であろうかと思いながら、中世の城の高い望楼からの展望を楽しんでいた。
   シェイクスピアの頃には、この城は厳然と建っており、隣町に住んでいたので、城内に入らなかったとしても、城のことは十分に聞いていたであろうし、城下に来てこの城を見上げたであろう。シェイクスピアの戯曲で重要な位置を占めている英国史劇が、比較的リアルであるのは、英国の話であると言う以外に、この典型的な素晴しい中世の城郭ウォリック城が身近にあって、よく知っていたからであろうと思う。

   なお、口絵写真は、ウィキペディアからの借用だが、城の望楼からウォリックを展望した風景のようなので、前述の描写の参考になろう。
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ストラトフォードのシェイクスピア旅(10)ウォリック城を訪れる-1

2023年09月24日 | 30年前のシェイクスピア旅
   夜の「ロミオとジュリエット」の公演まで一日空いていたので、隣町のウォリック城に出かけた。シェイクスピアの英国史劇を鑑賞するためにも必見の由緒ある古城でありながら、何度も機会を逸して行けなかったのである。
   シェイクスピアは、この故郷ストラトフォード近辺とロンドンから離れたことがないと言われているので、戯曲で描いた城や宮殿のイメージの多くは、このウォリック城から得たはずなのである。

   ストラトオフォードからロンドンへ帰る道を西にとってM40とのジャンクションを越えて10分ほど走ると城のゲートに着く。ゲートは林の中にあって、着いても城の姿は全く見えない。駐車場は、エントランスまで何ブロックも数珠状に繋がっていて、下りて、かなり密に生えた高木の林の中を抜けると、前方が開けて、ステイブルズ・エントランスに達する。その手前の通用口の間から、広々とした芝生の原の上に大きな城壁と塔がそびえ立っているのが見える。

   この城は、1068年にサクソンを征服したノルマン人によって築城されたイングランド統治のための出城の一つで、当初は、外壁に囲まれた塚であった。その後、重要な城址となり、フランスとの100年戦争の頃には、壮大な要塞へと姿を変えた。更に、17~18世紀にかけて、豪華な宮殿や壮大な庭園が構築されて、現在では、英国屈指の名城の一つとして、ほぼ、完全な形で現存している。
   エントランスを入ると、城壁をバックに中世の騎士姿の男が飾り立てた軍馬に跨がり立っていて、風景に溶け込んでいる。堀は日本のような堀ではなく、空堀で一方が平坦でオープンであるので、大きな小山の上に城壁が築かれている感じで、圧倒される。さどかし下からの攻撃は難しく難攻不落と言っても良かろう。

   跳ね橋を渡ると城門で、二重の落とし格子門を抜けるとゲイト・ハウスに達する、方形の搭状の建物であるが、狭い階段を上ると小さな部屋が沢山あり、窓が小さいのでどこにいるのか全く分からない。各部屋で城の歴史の展示をしている。
   ゲイト・ハウスを出ると城内に達し、広々とした緑の中庭に出る。三方はタワーのある城壁に囲まれており、エイボン川に面した一方は、宮殿の建物が建っている。ゲイト・ハウスと左手シーザーズ・タワーとの間に、兵器庫、地下牢、拷問室などのある中世の建物があるのだが、見物客が列をなしているのでスキップして、となりのキング・メーカーの展示室に向かった。
   キング・メーカーとは、ばら戦争で活躍して、英国王の首をすげ替えるほどの実力のあったウォリック伯リチャード・ネヴィルのことで、シェイクスピアのヘンリー6世でも、重要な役割を演じて活躍している。
   この部屋の展示は、タッソーの蝋人形を使っていて、克明に、当時の城内の兵士や騎士たちの仕事ぶりや生活などを見せており、観ていて楽しい。戦争準備の兵士、蹄鉄を鍛えている鍛冶工、車輪造りの車大工、軍旗を縫いテントを繕う女性たちなど、最後に、死出の闘いのために剣を携えて家臣たちに檄を飛ばすウォリック伯爵の像が、ランタンの薄明かりに映えて浮かび上がっている。所々に、当時の衣装を身につけた係員がいて、蝋人形に溶け合って雰囲気を醸し出している。あっちこっちで、タッソーの蝋人形を観てきたが、良くできていて何時も感激している。

   次の展示は、グレート・ホールとステート・ルームである。これは、18世紀半ばに豪華絢爛たるステート・ダイニング・ルームやプライベート・アパートメントを備えた宮殿が完成して出来上がった部分の見学である。ロイヤル・ウィークエンドパーティ1898は、タッソーの蝋人形使ってプライベート・アパートメントで展示されている。これらの宮殿部分は、元からあったものもあり、ほぼ、18世紀半ばには現在のような状態になっていたようである。
   内外共に、当時のイングランドの超一流の技師や芸術家、職人たちによって設計施工されたもので、ベルサイユやウィーンの宮殿にも見劣りしない素晴しいものである。

   ステート・ルームの一つグリーン・ドローイング・ルームの中央に、二枚の伊万里の大皿がスタンド型のテーブルに嵌め込まれて鎮座ましましているのが面白い。マイセンの磁器が、伊万里を真似て艱難辛苦の末に完成されたことを思えば、けだし当然であろう。
   グレート・ホールは、この城最大のホールで、甲冑、武具、金属製の大皿、獲物の角などが壁一面に所狭しと飾られており、華麗な彫刻を施された重厚な木製の飾り棚や、金属製の武者や騎馬像が部屋に威厳を添えている。
   小さな祭壇を備えたステンドグラスの美しい礼拝堂も、ステートハウスに付属している。
   ドローイング・ルームの華麗さはまちまちで、天井の素晴しい石膏細工や豪華なシャンデリア、縫い目なしの精巧な絨毯、威厳と華麗さに満ちた絵画や彫刻、繊細さと豪華さを兼ね備えた家具調度など、それぞれ工夫を凝らされていて、赤やブルーといったカラーを基調に装飾されている。

   プライベート・アパートメントは、部屋がこぢんまりしているので、もっとみじかな感じがする。
   鎧ではなく背広を着たウォリック伯やその夫人、それに来客のエドワード皇太子などが、蝋人形姿で、コンサートを聴いたり、カードをしたり、談笑したり、化粧をしたりしている。ライブラリーで、若き日のチャーチルが本を広げている姿が珍しい。隣のオックスフォードシャーのブレンハム・パレスの御曹司が遊びに来られたという設定であろうか。
   19世紀末に、伯爵夫人の気前よい豪華な接客が有名にに成って、ウォリック城は、後期ヴィクトリアの上流階級の社交場になった。当時の写真が残っていたので、当時の家具調度などをそのまま配置して、ウィークエンド・パーティを再現したのである。
   セッティングがあまりにもリアルであり、そのすぐ側を歩いているので、タイムスリップしたような雰囲気になる。

(追記)口絵写真は、エイボン川に面するウォリック城。ウィキペデイアから借用。
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ストラトフォードのシェイクスピア旅(9)ストラトフォードの街を歩く-2

2023年09月22日 | 30年前のシェイクスピア旅
   街の中心にとって返してハイストリートを進むと、角に古い旅籠ギャリック・インとアメリカのハーバード大学を創立したジョン・ハーバードの母親キャサリン・ロジャースが住んでいたハーバード・ハウスが、昔そのままの優雅なファサードを誇示するが如く寄り添って立っている。三階建ての白壁の太い木組みの美しい建物で、上階に行くほど道に張り出している。ハーバード・ハウスは、柱と梁に優雅な彫刻が施されており、ギャリック・インは、蛙股の柱が面白い。二階床の張り出した梁から、溢れるばかりの色とりどりに花を満載したフラワー・ハンギングが下がっており、一階の金属で黒く縁取られた格子窓に映えている。道路を隔てて向かい側に、壁にシェイクスピア像を嵌め込んだ石造りの市庁舎の建物が建っているのだが、チューダー朝の木組みの街並みには不調和である。
   
   
   
  
   さらに直進してチャペル通りに入ると、左手にシェイクスピア・ホテル、右手を少し進むとファルコン・ホテルがあり、チューダー朝のファサードとフラワー・ハンギングが目を楽しませてくれる。両方とも間口が広くて広がっているので街並みのシックリト溶け込んでいる。
   イギリスの場合、個々の建物毎に建築許可が下りるので、街並みは二の次で、どうしても、建物そのものが個性を主張することとなって、都市計画がしっかりしていて街並みが統一されているフランスとは違って、美しいと言えば、その不調和の鬩ぎ合いが醸し出す造形美であろうか。

   ファルコン・ホテルの向かい側に、シェイクスピアが晩年を過ごした家の跡地ニュー・プレースがある。跡地というのは、18世紀になて、この家の主人になった弁護士が、来訪者の多さに音を上げて取り壊してしまって現存しないからである。基礎と井戸が残っているだけだが、しかし、跡地にある庭はグレート・ガーデンと称されるほど大きく、常緑樹の生け垣で縁取りされた内部は、イングリッシュ・ガーデンになって、市民の憩いの場となっている。木の間から、スワン座の半円形の屋根がよく見える。

   このニュー・プレースに接して、シェイクスピアの孫娘エリザベスが住んでいたナッシュ・ハウスが建っている。前世紀には、モルタル作りの味気ない建物に成っていたのを、トラストが買い取って、木組みの古風なファサードに変え、二階をストラトフォードの歴史博物館にした。建物の構造はそのままだが、オリジナルのファサードの記録がなかったので、建物の正面は創造で設計されたという。一階は、当時の家具や調度がセットされ、当時の民家の雰囲気が現出されているが、内部はそれなりに美しく、堅実な生活ぶりが忍ばれる。

   ニュー・プレースの向かいに、道を隔ててギルド・チャペルがある。その裏が、二階建てのギルド・ホールとグラマー・スクールがある。16世紀のシェイクスピア時代の建物なので、床や天井がでこぼこで、屋根や垂木の線が大きく波を打っている。この建物の中で、シェイクスピアは、勉強をしたり、祈祷に耳を傾けたり、ロンドンからの役者たちの演劇を楽しんだりしながら、生長していったのであろう。シェイクスピアが13歳頃までは、父親も町の名士で羽振りも良く豊かな生活をしていたようだが、その父の破産で父の記録がなくなり、それから町を離れるまでの消息が分からなくなる。

   このギルド・チャペルのあたりは、シェイクスピア時代の建物が多く残っていて、今にも、子供時代のシェイクスピアが飛出してきても不思議ではない雰囲気である。ロンドンの劇団から離れて、ストラトフォードに隠棲してからは、ニュー・プレースの家から、チャペル横を通って、今の劇場を通り抜けてエイボン川にに出て、森の中を散策したのかも知れない、などと考えながら街を歩いていると楽しい。あれほど、花の都ロンドンで活躍したシェイクスピアが、老いと闘いながら、どのような余生をここで過ごしたのか大変興味深い。シェイクスピアが住んでいた頃のストラトフォードは、200軒ほどの小さな静かな村であった。今でも、歩けばほんの10分くらいで街外れに出てしまう、そんな小さな、しかし偉大な街である。

   この記事は、30年前の記録だが、昨年、ケネス・ブラナー監督主演の映画「シェイクスピアの庭」をレビューした。ケネス・ブラナー悲願のプロジェクト 不朽の名作を生み出した文豪シェイクスピアの晩年、すなわち、故郷ストラトフォードでの最後の人生ををついに映画化した作品だが、非常に興味深い。
   

(追記)当時のデジタル写真の記録がないので、ハンギング・フラワー写真は、カンタベリーで撮った写真を代用している。
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ストラトフォードのシェイクスピア旅(8)ストラトフォードの街を歩く-1

2023年09月16日 | 30年前のシェイクスピア旅
   ホテルで重いイングリッシュ・ブレックファストを取って、カメラを片手に街に出ることにした。
   欧米での旅では、昼食は何処で取れるか、真面なレストランに入ると時間のロスだし場所探しも難しいし、重量級の英国風朝食を取れば、昼は、適当なファーストフードで済ませられるので重宝なのである。

   まず、ホテルのすぐ前にはRCAのスワン座、
   大劇場のロイヤル・シェイクスピア劇場は、1932年に建てられた記念劇場だが、このスワン座の方は歴史が古く、1879年に建てられたが、1932年に火災で焼けたので、1979年に内部をエリザベス朝時代の劇場の複製を目指して大改造された。ジャコビアン・スタイルのエプロン・ステージとギャラリー形式の座席がそれで、東京のグローブ座がこれに近い。舞台が劇場中央に大きく迫り出し、それを三方で囲い込むように数列の座席が並び、その上部にギャラリー席が重なっている。総べて木製で、その内部造形が美しい。外装のファサードも凝っていて、ビクトリア朝の華麗な雰囲気を醸し出していて、中々素晴しい劇場である。以前に演目は忘れたが2回ほどここで観劇しており、大劇場ではなくこぢんまりした芝居小屋風の臨場感溢れる舞台に魅せられている。この日、「テンペスト」の公演があったのだが、大劇場のアドリアン・ノーブル演出の「ロミオとジュリエット」を観たくて、涙を飲んだ。エントランスの左手に、昔のままの真っ赤なポストと電話ボックスが並んでいて素晴しい点景となっている。
   

   劇場の前のバンクロフト公園を横切って、エイボン川に架かったトラムウエイ橋を渡って対岸に出た。河畔の柳越しに、祈念大劇場とスワン座の丸屋根が水面に映えて美しい。今回英国に来てからずっと素晴しい快晴で、川面の浮かぶ白い小舟や白鳥が目に痛い。エイボン川越し遠くに、シェイクスピアの墓があるホーリー・トリニティ教会が見える。公園の角に、ゴワー記念碑が建っていて、シェイクスピアの座像を真ん中にして、四隅に戯曲の代表的な登場人物、ハムレット、マクベス夫人、ファルスタッフ、ハル王子の銅像が取り巻いている。各々イメージ通りの姿で、シェイクスピアは劇場を背にして座っている。

   ブリッジ通りを経て、ヘンリー通りに面したシェイクスピアの生家に向かった。このあたりでは、この家だけが古い現存家屋である。彼が、手袋商人として成功して郡長にまでなったジョン・シェイクスピアと郷士の娘メアリー・アーデンとの間の長男として生まれた家で、「世界最高の天才で最も名誉ある記念碑」と言われており、世界のシェイクスピア・ファンの神聖なる聖地でもある。チューダー朝のかなり大きな民家で、19世紀半ばに描かれたこの家の絵と比較すると、当時は、相当くたびれていた感じで、補修が繰り返されてきている。しかし、柱、梁、筋交いなどは絵と全く同じなので、出入り口や窓などが多少変更された程度である。
   この生家へは、1981年に完成したシェイクスピア・バース・プレイス・トラストの建物から入る。コンクリートの近代建築で、全く周りとの調和を欠いたアグリーな建物だが、BBCで放映されたシェイクスピア・ドラマに使用された衣装等が展示されていて、中々興味深い。生家の中は、出来るだけシェイクスピア当時の面影を残しているようで、フッとシェイクスピアが飛出してきても不思議ではない。裏庭は、比較的広くて、イングリッシュ・ガーデン風に草花が咲き乱れている。シェイクスピア戯曲に出てくる花や木々が植えられていて、彼の描いた自然が、イギリスのものであることが分かる。
   シェイクスピアが、この家に住んでいたのは子供の頃で、父親の事業が傾いた13歳までは、何不自由なく、この家からグラマー・スクールに通っていた。世界最高の劇作家を生んだ揺籃の地がこの生家なのである。
   
   
   
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ストラトフォードのシェイクスピア旅(7)RSCのじゃじゃ馬ならし

2023年09月10日 | 30年前のシェイクスピア旅
   さて、今夜鑑賞するのは「じゃじゃ馬ならし」、人気の高い喜劇で、
   強情で手の付けられないほどのお転婆じゃじゃ馬娘のキャタリーナは、嫌われ者なので嫁のもらい手がない。ところが、ペトルーチオという豪傑が街にやって来て、持参金に魅力を感じて嫁にして、徹底的に調教して、何でも言うことを聞く素直で貞淑な妻に変貌させると言う話である。尤も、シェイクスピアのことであるから、それ程単純な話ではなく、冒頭、鋳掛屋のスライを欺して貴族に仕立てて、枠物語としてはじまる芝居にしたり、キャタリーナの妹で「理想的な」女性のビアンカをめぐる求婚者たちの争いを描くなど、サブストーリーも込み入っていて面白く、エリザベス・テイラーとリチャード・バートンが主演した1967年の映画版『じゃじゃ馬ならし』も記憶にある。

   開演までに時間があったので、ロイヤル・シェイクスピア劇場のボックスオフィスに、チケットを取りに出かけた。窓口は2つあり、その1つの窓口嬢に、予約に使ったダイナースカードを渡すと、チケットの入った茶封筒の束から一通を引き出して、今夜と明日の夜のチケットですねと念をおして渡してくれた。今夜は「じゃじゃ馬ならし」で、明日は「ロメオとジュリエット」、スーパーシートで間違いない。チケットはコンピュータ打ちの10センチ四方の簡単なものだが、裏に印刷されている広告が面白い。ケンブリッジ大学プレスのもので、シェイクスピアが20歳の時からの印刷出版と銘打ってその歴史を強調して、台本、解説書、評論などのシリーズものを、劇場の売店で販売しているという宣伝である。

   何時もなら、2階のボックス・ツリー・レストランに行って夕食を取るのだが、昼にロンドンで、マイクとヘビーなランチを取ったので、劇場がはねてから軽い軽食を取ることにして、部屋に帰った。こんな場合には、劇場直近のホテルが便利で、オペラを観るときには、ウィーン国立歌劇場の裏手にあるザッハーに泊まっていた。部屋でゆっくりとプログラムを読んで、開演少し前に劇場に出かけた。席は、ストール(平土間)のほぼ中央の真ん中のL13,土間の傾斜がかかってすこし高くなった所で、丁度舞台がよく見える。前に特別背の高い人が来なければ最高の席である。

   ロンドンのRSCのシェイクスピア劇場であるバービカン劇場には、上下に引かれるガラスのカーテンがあるのだが、この大劇場には幕などはなくて舞台はそのままで、劇場の照明が暗くなるとドラマが始まる。劇によっては、準備の段階から役者が舞台に上がり、作業者の中に交じり込み、演技をしているのかしていないのか分からないうちに本番に入ることもある。
   元々、シェイクスピアの時代には、カーテンなどなかったしセットも貧弱で、青天井の野外劇場で芝居をしていた。今のように、素晴しい照明やセットでの芝居など今昔の観で、太陽が燦々と照りつける舞台で、漆黒の闇にハムレットの父王の亡霊が登場し、オテロのあの恐ろしい夜の暗殺シーンが演じられるのであるから、役者の話術と演技だけで観客に納得させなければならなかった。シェイクスピア戯曲は観るのではなくて聴くと言う由縁である。いずれにしろ、シェイクスピア劇は、短時間で舞台がポンポン変るので、その度に幕を引いたりセットを転換していては芝居にならない。

   これまでに、一度、ロンドンのバービカンで、RSCのじゃじゃ馬ならしを観ている。この演出は、比較的クラシカルで、イタリアのパデュアを舞台にしたという雰囲気が濃厚だったが、今回のオーストラリアの女流演出家ゲイル・エドワードの演出は、モダンでカラフルで、過去の伝統にはあまり囚われていない感じであった。例えば、ルセンシオとタミーノの乗る馬は、スクータ紛いのオートバイで、ペトルーチオとキャタリーナの乗る馬は、真っ赤なクラシックカーと言った調子である。エイドリアン・ノーブルのように比較的視覚を重視する演出で、現代感覚を重視し、登場人物の個性を強調する演出で、二人の良き主役を得たこともあって、何本もある副主題も上手く整理して面白い舞台を作り上げていた。
   視覚的で美しいのは、冒頭からで、スライと妻が諍い絡み合いながら登場する場面で、稲光で間欠的に照らしだす印象的なシーン。このスライが欺されて伯爵に祭り上げられる枠芝居は、大幅に省略されて象徴的となりすぐに本舞台に入った。ペトルーチオの婚礼の衣装は、破れ鎧ではなく、烏が孔雀のように極彩色の鳥の羽を飾り立てた派手な格好で、ウエディング・ドレスのキャタリーナとチグハグ、先入観が邪魔して一寸違和感。
   この演出では、主役の二人に比べて、ルセンシオとビアンカの影が少し薄い。面白いのは、じゃじゃ馬のキャタリーナと比べて理想的な女性である筈のビアンカが、必ずしも美しくて素晴しい女性としてではなく、可愛いが、一寸はすっぱな軽い感じに描かれていて、何故、3人もの崇拝者が彼女を競うのか、ピントがずれてしまう。しかし、じゃじゃ馬のキャタリーナに焦点を当てるためには、この演出でも趣向が変って面白かったのかも知れない。
   
   じゃじゃ馬キャタリーナのジェシー・ローレンスは、RSCデビューだが、結構キャリアーのある女優で、非常に安定した個性派で、この舞台では、ただのじゃじゃ馬ではなく、何か威厳というか誇りさえ感じさせる演技をしていて、調教されて良い女に成ったのではなく元々の淑女だったのだという雰囲気で興味深かった。ペトルーチオのマイケル・シベリーは大ベテランで畳みかけるような演技で歯切れが良い。この二人の大人の演技がずば抜けているので、後の役者は自由に泳いでいる感じで面白い。ご主人に成りすましたトラーニオのイカレポンチ風の演技が秀逸であり、ビアンカにモーションを掛ける求婚者たちのコミカルな演技も面白い。
   この演出のテキストは、本来のものとは違って、作者不詳の版を使用しているので、スライが最後にも登場する。キャタリーナが、素晴しい妻としての義務を説く幕切れで、照明が暗くなり始めると、ペトルーチオがキャタリーナの前に跪き倒れると、元のスライに戻り、領主の衣装を剥ぎ取られて元の場所に置き去りにされる。劇中劇だったというのは分かるのだが、何故、その劇が、じゃじゃ馬ならしだったのか。

    時差ボケで眠くて苦しいところもあったが、久しぶりに愉しませて貰った。
    気持ちよい夜風に吹かれてホテルとは反対に、電光に映えてぼんやりと輝いているストラトフォードの街に向かった。開いているのは、レストランとバーとパブだけ。エイボン河畔のパブに入って、何時もなら、ギネスの黒ビールなのだが、英国ビールは常温ばかりなので、冷たいハイネッケンにした。
    やっと、イギリスに来て、旅情を感じた。
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ストラトフォードのシェイクスピア旅(6)アーデンホテルにチェックイン

2023年09月09日 | 30年前のシェイクスピア旅
   街に入り、ウォーターサイドを左岸に沿って南下すると、シェイクスピア大劇場とスワン座が左側に並んでいて、スワン座の筋向かいにアーデンホテルが建っている。白い牡鹿の看板が目印で、スワン座を横切ったところで車を止めて、ロビーに入ってボーイに駐車場の位置を聞いた。駐車場はホテルの裏にあるのは分かっているが、道が狭くて一方通行であり、右折れ左おれで、ワンブロックを一周しなければならない。丁度、ギルド・チャペルとニュー・プレイスの角を曲がって直進すると小さな路地があり、中に入ると広いオープンスペースの青空駐車場があった。

    ボーイに指示するのを忘れたので、スーツ・ケースを車から降ろして、コロンコロンと転がして、レセプションの標識を便りにホテルに入った。気付かなかったのだが、このホテルは、何棟かの建物を繋ぎ繋いでホテルにしているので、入り組んだ廊下を上がったり下がったり、フロントまでは大変な道中であった。結局、部屋が別棟にあったので、チェックインしてからも苦労した。

   こじんまりしたロビーに出て、フロントでチェックインの旨伝えた。
   「名前がないが、予約したのか」と、可愛いフロント嬢が聞く。東京から電話で予約を入れて、クレジットカードのデータも伝えた旨言ったが、残念ながら、予約を受けた相手の名前を聞いておくのを忘れていた。しかし、8年間のヨーロッパ生活で、ミシュランの赤本ガイドを便りに電話一本で通してきたので解せない。
   「一寸待って下さい。どんな部屋が良いのですか。何日間ですか。」脈ありと察して、「シングルで2日間、出来れば、エクゼクティブ・ルームが良い。」と応えた。すぐに、普通のシングルを用意してくれたので、事なきを得た。
   彼女の対応から、予約データが入っていた模様だったが、日本からの個人的な直接予約なので、必ずしも確定予約として扱わず、本人が来てから、部屋が開いていればチェックインさせようと言うことであろう。エージェントや旅行会社からの予約なら優先するが、良く分からない外国からの個人客の予約なら、単なる埋め草、
   オーバーブッキングして稼働率を上げようというのが常套手段のようで、別に異常でもないようだが、イギリスでは始めてであった。
   イタリアなどでは頻繁で、このブログでもミラノのホテルのトラブルを書いているが、マネージャーを強談判で窮地に追い込み処理したことがある。深夜くたくたになって東京から着いて、チェックインできないとは死活問題なのである。

   部屋は、公園に面した二階で、エイボン川には面していないが、明るい中庭を見下ろせる横長のツインの部屋である。別館の一番端の角部屋で、普通部屋としては上等で、印象が良くなった。アブラハム邸で詰め込んだ荷物を整理しながら、部屋に備え付けの紅茶を飲む。このティッスル系のホテルや普通の田舎のホテルには、殆ど部屋に、」小さな電気湯沸かし器と、ティー、インスタント・コーヒー、ココアのパッグ、ビスケットなどのスナック、ミルクのパックなどが比較的タップリと備え付けられていて、自由にお楽しみ下さいという寸法である。出口教授の本には、英国の良き風習だと書かれているが、これは大衆ホテルがすこし上等なホテルのことであって、格式の高いホテルや高級ホテルでは、こんな備え付けはなく、ボーイが「ティーは如何しましょうか」と聞いてくれるし、必要なら、ティーなどはルームサービスでオーダーすることになっている。

   このアーデンホテルは、何百年といった古いホテルではないが、本館は3階建てで、長い廊下の両側に部屋があり古い形式の客室が並んでいる。フロント・レセプションは本当に小さくて20畳くらいの広さで、そのすぐ奥が、ロビー代わりのパブになっている。パブに近いバーと言った方が正確で、セッティングは落ち着いた感じの内装とソファーで、普通良くあるゲーム機がない分静かで良い。それに、イギリスではパブは夜11時に閉店だが、この「アーデン・バー」は、それがないので遅くまで飲めるし、明るい雰囲気が良い。
   玄関ロビーを入った左手に、比較的大きなレストランがある。このホテルそのものが、大きな田舎貴族の館という感じなので、、明るい瀟洒な白とピンクを基調としたテーブルや椅子のセッティングが爽やかである。都合2泊して、朝・昼・晩と1回ずつ、このホテルで食事を取ったが、味は可もなく不可もなくであった。土地柄、シェイクスピア・パイを試みた。賽の目切りにした人参・キュウリなどの野菜と一緒に甘く煮た牛肉の上に、煎餅状の丸いパイ皮が載っているだけのものだが、味はまずまず、しかし、何故これがシェイクスピア・パイなのか聞きそびれた。ここのイングリッシュ・ブレックファーストは、伝統的なイギリス料理が主体で、コンチネンタルがいくらか混じっていると言った感じで、やはり、非常にヘビーであったが、一寸塩辛かったので血圧が気になった。
   このレストランの正式名称は「バード・レストラン」。確かに、小鳥のさえずりが爽やかだし、ロビーと反対側の出入り口が、広い中庭に通じていて、階段状のイングリッシュ・ガーデンが街路に面した部分に屋根がかかっていて、野外レストランとなっている。たまに暑い日もあるが、ヨーロッパの夏には、高級レストランでも、場所に余裕があれば、庭や街路にテーブルを張り出して、野外サーブして客をもてなす。あの南国のスペインでも、陽が陰ると、緑陰でたらふく飲んで食べる、それがすこぶる快適で楽しいのである。このアーデン・ホテルのレストランでも、美しい花が咲き乱れる野外の方が人気が高く、街路とは柵と木々とで遮断されていて、反対側の花壇は、丁度階段状に、ペチュニア、ゼラニウム、キンギョソウ、スイトピーなどのカラフルな草花が、カーペット状にビッシリと植え込まれていて、華やかで明るい。
   因みに、このレストランだが、比較的観光地にしては安い方で、フルコースのディナーで、ワイン付きで、1万円を切る程度である。
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ストラトフォードのシェイクスピア旅(5)一路ストラトフォードへ

2023年09月03日 | 30年前のシェイクスピア旅
   ソーホーのNCP駐車場から無事車を出して、ストラトフォードへ向かった。
   繁華なロンドンを抜けて北へ向かうのには、何本かのルートはあるが、シェイクスピアの開演まで4時間なので、大事を取って、パソコンを叩いて出してくれたジムの推薦ルートを取ることにした。郊外の自宅キューガーデンからは何度も出かけていてお馴染みの道で高速に出るのも楽だったのだが、今回は、ロンドンを出るのが大変である。

   案の定、リージェント公園の手前、グレイト・ポートランドのクレッセントから混み出して、メリルボーン通りへの信号が中々クリア出来ない。事故などではなく、交差する道路の出入りだけで、いつも慢性的に渋滞するのだが、国民は何も言わないのか不思議である。1キロくらいの道で小一時間かかってしまったが、A40は在来道路ながら郊外に向かっているので、高層ビルがなくなり住宅街に入ると、少しずつ流れ始めた。

   大環状高速M25と交差するあたりから、M4は北へ向かう。オックスフォードの郊外を抜けて、コベントリーを経てバーミンガムにに入る比較的新しい高速道路なので、舗装道路工事の心配はなく、ロンドンを抜けると、2時間ほどでストラトフォードに着く。オックスフォードシャーに入ると、地形にやや起伏が現われて、道路が高速に差し掛かると、美しい田園地帯が眼下に展開する。
   真冬には青々とした牧草の原が広がり、春には菜の花が一面に黄色い絨毯を広げ、秋には枯れ野の畑に大きな麦わらのコイルが整然と並び、小さな森や林の合間から、ミニチュアのような町や村が見え隠れする。イギリスの個々の庭やガーデンなども魅力的だが、このような大きな、広々とした風景の美しさも抜群で、古風な家々が石や煉瓦造りなので、地味でそれ程自己を主張しないのが好ましい。
   何故、イギリスの田園地帯がこれほどまでに美しいのか。
   海洋王国で世界に雄飛して、建船で原生林を悉く切り倒して、国土を徹底的にイギリス人好みに造形し直した結果なのであろうが、さて、文明の成果と言えるのかどうか。ワーズワースの詩もコンスタブルの絵も美しいが、スコットランドやウェールズの野山を車で走っていて、僅かに残る原生林の片鱗を見て、そんなことを思ったことがある。

   高速での制限速度は、70マイル(112キロ)だが、ロンドンで時間をロスしたので、スピードを上げた。90マイルを超して走る車もあるので、最大その程度に抑えてアクセルを踏んだ。このモンデオというフォード車だが、スポーツ仕様に切り替えると結構馬力が出てスピードが上がる。
   ドイツでは、アウトバーンは速度制限がないので、ポルシェなど、ウインカーを左にたおしたまま200キロを遙かに超したスピードで走り抜けて行き、ベンツ、BMW、アウディが後を追う。しかし、イギリスでは、スピードを出しても150キロくらいなので、スピード狂の乗った車が高級車でないところが面白い。

   ウォーリックシャーに入ると、”シェイクスピアの国へようこそ”という看板が州境に立っている。シェイクスピアが活躍したのはロンドンだが、ロンドンとストラトフォードから離れたことがないと言うから、この地をシェイクスピアの故郷と称しても誰も何も言わない。
   シェイクスピアの戯曲の舞台は、ギリシャ、イタリア、デンマーク、フランス等々、時空を越えて広がっているが、彼が描いたのは、若い頃過ごしたこのウォーリックシャーの世界ではなかったかと思うと、この地方が限りなく懐かしく貴重な舞台となる。あのシェイクスピアの描いたアーデンの森は、ドイツの黒い森などではなくて、正に、この穏やかなフルサトのモリなのである。

   バーミンガムの環状道路の入り口に入る一つ手前のインターチェンジ15で高速を下りて、A46をストラトフォードに向かい、B439に入ると、10分ほどで、ストラトフォード・アポン・エイボンに着く。
   エイボン川に突き当たると、公園越しに、ロイヤル・シェイクスピア劇場が見えてきた。エイボン川を渡ると、前方にチューダー調の街並みが見えて急に観光客が溢れ出す。これが、シェイクスピアの生まれ故郷ストラトフォード・アポン・エイボンなのである。   
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ストラトフォードのシェイクスピア旅(4)リッツからストラトフォードへ

2023年09月02日 | 30年前のシェイクスピア旅
   ロンドンには、いくつか歴史と伝統のある高級ホテルがあるが、マイクとの会食は殆ど、ホテル・リッツである。かれの所属するTHグループの所有であるからでもあるが、一番イギリスらしいホテルでもあるので、気を利かせてくれているのである。
   あの映画「ノッチングヒルの恋人」の舞台であるこぢんまりした古風なホテルで、東側のエントランスを入ると質素なフロントがあり、さらに廊下を直進すると、左手に一段高くなったホールがあり、カフェー兼バーとして使われている。ここで、遅い午後に、アフタムーン・ティーがサーブされていて、ピアノが奏され、天上など内装装飾が豪華なので、中々雰囲気が良くて、素晴しいティータイムが過ごせる。事務所から近かったし、激務の合間に暇を見て、大通りの並びのフォートナム・メイソンとで楽しむアフタヌーンティーが、私には至福の憩いの時間であった。

   さらに直進すると、奥に、メインダイニングルームがある。天井が高く、綺麗な天井画が描かれていて、室内装飾や丁度がクラシックで宮殿風なので、カナリ豪華な感じがする。セント・ジェイムス公園に面しているので、窓からの緑が美しい。夜にはルームの片隅で音楽が奏される。私の所属するジェントルマンズ・クラブRACは流石に総裁が女王陛下であるだけあって、これに似た宮殿のような豪華なメインダイニングルームがあったので、雰囲気が良いので、良く会食に利用していたし、私の帰国の挨拶の会もここで開いた。
  
   リッツに入ると、カフェーの前で、ニコニコしながら、マイクが大きな手を広げて待っている。2年ぶりである。突然、来るという電話でびっくりしたという。
   ボーイが、奥の一番良い席を用意してくれていたので、まず、いつものようにカフェで雑談することにした。「カンパリ・ソーダとトマト・ジュース」とマイクは勝手にオーダーを入れる。奥方の命令でジュースしか許されていないので、律儀にトマトジュースで通しているのだが、私は、マイクに合わせて弱い食前酒をと思ってカンパリにしているだけなのだが、定番となってしまっている。
   マイクは、現在は、THグループのゼネコンTC社の社長であって、最初はビジネス慣行や規則の解釈の違いなどカルチャーショックの連続で、業務上やりあうことが多かったが、長く付き合っている間に気心が知れ、今では、家族ぐるみの付き合いを続けている。オペラやアスコットやクリケットや、あるいは、パーティや旅行や、いろいろと夫婦そろって行っていたし、彼らの長男の結婚式にもヨークへ泊りがけで出かけたりした。共通言語が英語なので、コミュニケーションに多少問題があっても、全く、イギリス人だと意識しなくて付き合える不思議な家族で、先に紹介したギルフォードのジム夫妻とともに、私にとっては貴重なイギリスでの友である。

   仕事の話になった。イギリスの不況はまだ続いていて建設業は大変だという。我々日本企業の欧州事業も悪化の一途で投資が止まっている。大変羽振りの良かったマイクの会社も、業績の悪化で、スコットランド系の香港の会社の傘下に入って経営が変わってしまった。多くを語らなかったが、今年59歳で、来年60になるので引退して、地域社会のためにボランティアの仕事をするつもりだという。別に、浮世仕事には未練はないらしい。

   メイン・ダイニング・ルームに移動した。窓際の中央、いつもの良い席に案内された。窓と言うよりは、上から下まで全面開きの扉なので、庭の緑が映えて明るい。ソムリエが、食前酒をと言ったが、これから、200キロ以上ストラトフォードまで車を走らせなければならないので、残念だったが、赤のグラスワインにとどめた。ワイン好きで、いつも、ゆっくりグラスを傾けながら、楽しく食事をするのを知っているので、気を利かせて上等のボルドーをオーダーしてくれた。
   イギリスに永住権を持ちイギリスに住んでいた時には、郷に入れば郷に従えで適当に合わせてはいたが、今や、日本在住の日本人であり、禁酒を厳守しなければならないので、先のカンパリもこのボルドーも形だけ舐めるだけ、
   ストラトフードに着いて、RSCの「じゃじゃ馬慣らし」を鑑賞してから、ホテルでゆっくりとワインを楽しむことに決めた。
   食事の方だが、前菜にスモークサーモン、メインコースにスコットランドのアンガス・ビーフのステーキ、デザートはフレッシュな木苺、そして、エスプレッソにして、食後酒は止めた。
   ヨーロッパでは、大概、高級かつ上等な料理はフランス料理かフランス系の料理とされていて、イギリス料理は不味くて問題外だとされているが、決してそんなことはなく、最高級のイギリス料理を頂けば絶品間違いなしであり、庶民的には、スモークサーモンとアンガスのスコッチビーフは、最高だと思っている。
   尤も、在欧中に、ミシュランの赤本片手に、三ツ星、二つ星は勿論、トップクラスのヨーロッパ各地のレストランを行脚してきたが、根が味音痴なので、何を食べたか覚えていないし、同じ料理を二度と注文できないほどいい加減な者が言うのだから怪しい。しかし、この日は、前菜にメロンを選ぶマイクが、珍しく、私に従ってくれた。

   マイクに名残を惜しんで、リッツを出て、ピカデリサーカスを横切って、ソーホーのNCPの駐車場に向かった。
   駐車場入り口で、係員にカードを渡したら、どんな車だと聞く。預かっていて、どんな車だもないが、ハタと困った。車関係の書類は一切車の中だし、車の名前さえ憶えていない。フォードの車でMOがつく名前のブラックの車だ、それしか覚えていないと言うと、少し時間が掛ったが、探し出してくれたのでほっとした。
   M40に出るにはどのルートを取るか、もう、30年も以上前の話なので、カーナビもなければ道路地図しかない。結局、ジムがコンピュータで打ち込んだ模範ルートを取って、一路、ストラトフォードに向かった。
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ストラトフォードのシェイクスピア旅(3)レンタカーで聖地へ

2023年08月23日 | 30年前のシェイクスピア旅
   久しぶりにギルフォードのジムの家で泊まり、旧交を温めた。
   ジムは、ロンドンに本社がある英国きってのエンジニアリング会社の社長を長く務めていて、普通のイギリスの富裕層のように、本拠の住居をカントリーに持っていて、ロンドンに職住近接の家を持って活動すると言った二重生活ではなく、このギルフォードの広大な庭園を備えた邸宅でトカイナカの生活をしていて、列車通勤で通していた。
   彼は天文気象やメカに趣味のあるエンジニアで、私は典型的なジャパニーズ文系だったが、非常に気があって、日本からイギリスに行った時には、ロンドンのジェントルマンクラブのRACか、このジムの家を定宿としていた。

   さて、先回は、このギルフォードからブリティッシュ・レイルで列車を乗り継いで、ストラトフォード・アポン・エイボンに向かったが、今回は車で行くことにした。
   その日は休日で、街のレンターカーオフィスが休みなので、前日の夜、ヒースロー空港のレンターカーオフィスに出かけて借りておくことにした。英国では、何処でもカーリターンが出来るので、帰国時に返すことにして、ジムに頼んでヒースローまで連れて行ってもらった。
   JALカードでディスカウントが利くのは、ハーツとバジェットだが、バジェットを常用していたのでバジェットにした。普通には、ジャンルやクラス別に価格リストがある筈だが、そんなものはなく、ドンナ車が欲しいのか、予算はいくらだと聞くだけで、いい加減も良いところである。保健付きで70ポンド(1万円)と言うので、何時もベンツなのだが、フォードのモンデオ2000CCを借りた。ジムの後についてギルフォードに向かったが、案の定管理が悪くて、ガソリンが満タンに入っていなくて、途中でガソリンを入れなければならなかった。

   翌朝、アブラハム夫妻に感謝して、今秋の日本での再会を期して、9時過ぎにギルフォードを出発した。M25とM4を経由して、そのまま、ロンドンに入れば良かったのだが、今回は、センチメンタルジャーニーでもあったので、帰国前に住んでいたキュー・ガーデンを通ってゆくことにした。24 リッチフィールド、キューガーデン、丁度地下鉄の駅前で、正面大通り突き当たりに世界一の王立植物園キュ-ガーデンの正面入り口があり、毎日観光客で賑わう。

   その日、ロンドンで、もうひとつ、旧友の大手建設会社の社長であったマイク・アレンとホテル・リッツでランチを楽しむ約束をしていた。
   キューガーデンの家の前を通って、いつも通勤でベンツを走らせていた懐かしい道をロンドンに向かった。
   クロムウエル通りも、自然博物館やヴィクトリア・アルバート博物館の前あたりから急に車の流れが悪くなり始めた。ナイツブリッジに入ると、セールの張り紙をした店が多くなるが、恒例のハロッズのセールは終っていた。良く工事や事故で通行止めになるハイド・パーク・コーナーのバイパスが問題なかったので、スムーズにピカデリー大通りに入った。リッツの前を通り抜けて、フォートナム・メーソンの角を右折れして、リッツの裏にあるNCPの駐車場に入ろうとしたが満車だった。仕方がないので、大通りを越えて、前に事務所があったオールド・バーリントンの駐車場を目指したが、建物自体が工事中で閉鎖されていた。
   こうなれば、頭の中は真っ白。久しぶりのロンドンだし、ロンドンでは劇場街やシティの駐車場くらいしか知らなくて、繁華な中心街の適当な駐車場が頭に浮かばない。ロンドンの殆どの道は一方通行なので、前に走る以外に方法がない。リージェント通りのアクアスキュータムを横切りソーホーに入ると、うらぶれたレストランや店、いかがわしいピンクサロン風の佇まい、雑然とした露店、ただでさえ狭いとおりなのにごった返している。Pのマークを便りに車を走らせ、NCP空車の看板を見つけて、ホッとして車を入れた。入り口で、黒人の係員が、カードをくれて、車をそのままにしておけと言う。繁華なNCPは、能率を旨として、プロが車を裁くのが普通なので、一寸嫌な気がしたが、仕方なくキーを残して外に出た。リッツから随分離れてしまった。急に汗が噴き出してきた。
   
   約束の12時半まで、すこし時間があったので、途中、リージェント通りのモス・ブラザーズに立ち寄った。ピカデリー・サーカスにかけてのリージェント通りのカーブの美しさはリージェント・カットの語源どおり美しい。
   この店は、ロンドン屈指の礼服店で、あらゆる種類の礼服やドレス等のレンタルで有名で、随分お世話になった。まず、最初はタキシードだが、これは、パーティ、レセプション、オペラ等の観劇、正式な会食等、何かの時にはお世話になるので、すぐに購入した。しかし、年に1回くらいしかない、ホワイト・タイ、これは最高の正装で、シティのギルドホールで開催される英国建設業協会の年次総会でフィリップス殿下など王室が主賓のレセプション、そして、アスコットの競馬でのシルクハットとグレーのモーニング、などは、この店で借りた。いつ行っても、胴長短足の私に合う礼服を探し出してくれるのは感服している。
   さて、今回は、この秋に長女が結婚するので、モーニングを買おうかと思って店を訪れたのである。前回、アスコットで借りたモーニングがグレーではなく黒であったし、ぴったり合っていたので、さがせばあるだろうと思ったのである。
   地階の礼服部に下りて、値段など関係なく、モーニングが欲しいんだと伝えると、一応44かと聞いてくれたが、適当に探してくれと言うと、奥の方から一つのハンガーを持ってきた。
   余談ながら、日本では、誂えもそんなに珍しくなく、イージー・オーダーが普通のようだが、イギリスでは、首吊りが一般的で、場合によって多少手直しするのが普通だと聞く。背広(サビル・ロー)通り1番地の女王陛下の軍服誂えで有名なギーブス・アンド・フォークスでも、大概みんな首吊りを買っていて、セールの時には客が殺到するが、良いものは精々10%程度のディスカウントである。

   セール中ながら、1階の既製服売り場には人がいたが、礼服売り場の客は私一人で、礼服に関しては総べて私に任せてくださいと言った感じの紳士然とした店員が、まず、私に上着を着せてサイズを確認した。勿論、手の部分ははるかに長いが、肩から腹、胴回り関してはほぼ満足な様子であった。次に、試着室に入ってズボンを合わせろという。これも、恥ずかしながら、相当折り返さないと長すぎてダメである。
   今日、ロンドンを発つので、手直しをして日本に送ってくれるよう頼んだら、明日、テーラーが来るのですぐに直せるから明日来てくれと言う。と言われても、シェイクスピア観劇を諦めるわけにはいかない。
   結局、彼がピン留めしてくれた所をそのままにして日本に持ち帰り手直しすることにした。
   ミラノのカナリ製の立派なモーニングで、免税価格で約9万円、安いのか高いのか分からないが、次に、次女の結婚式もあるので、2回レンタルするつもりで買った。

   急いで、マイクに会うために、ホテル・リッツに向かった。
   映画「ノッチングヒルの恋人」の舞台である。
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ストラトフォードのシェイクスピア旅(2)ヒースロー空港入管

2023年07月30日 | 30年前のシェイクスピア旅
   JAL401便、久しぶりの海外旅行である。
   この成田空港からは、20回や30回では聞かないほど海外へ出入りしてきたのだが、日本からのプライベート旅行は初めてなので、何となく飛行機の旅も新鮮である。
   免税店で、ジムへの土産に日本酒を買って、早々にサクララウンジに入って、先ほど買った雑誌サライを読みながら、コーヒーで憩った。
   飛行機は順調だったが、少し遅れてヒースローに着いた。最初の頃は、窓から下界を眺めるのが楽しみで、初めてサンパウロからロンドン入ったときには、ウィンザー城の優雅な姿やロンドン郊外の田舎風景の美しさに感激したのだが、今や、何度も通った空港なので何の感慨もなく、入管手続きの煩わしさの方が気になった。EUからの入管はフリーパスだが、それ以外の外国人の入管ラインは長蛇の列。

   今回の私の入管は、一寸違って、永住ビザの更新延長である。
   ヨーロッパに居た時には、居住者としてイギリス人並に始終出入りしていたので、イギリス人と同様の出入国のスタンプで済んだが、今回は、イギリス出国からの空白が長い。
   係官は、パラパラパスポートを捲り、永住許可書を見て、「居住者ですね」と聞いた。運悪く、イギリス滞在中の住所を、ジムの住所が分からなかったので個人住所ではなく、ストラトフォードのアーデン・ホテルの住所を書いてしまっていた。仕方なく、現在仕事の関係で日本に住んでいるが、英国永住であることを伝えて、今回は、ビジネスと観光で来たのだと説明した。「前回いつ頃英国を離れたのだ」と聞いたので、「1年11ヶ月前です」と応えたら、係官は、私の顔をじっと眺めて、入管スタンプを押してくれた。
   私の場合は、ロンドンのシティで歴史的な開発プロジェクトを行っていたので、間単に永住ビザを貰えたが、通常では、英国の永住ビザの取得は至難の業で、功成り名を遂げた日本人の音楽家や有名な人々さえ永住ビザが取得できなくて諦めたのを随分聞いていた。おいそれと簡単には永住ビザは下りないうえに、まして、出国すれば取り上げると言うのは当たり前なのであろう。
   シェイクスピア戯曲やロイヤルオペラの鑑賞、大英博物館や歴史散策と言った目的もあって、こんなことを2年ごとに数回繰り返して、入管とスッタモンダをしてきたが、結局、間が開いて諦めたのだが、一時、本当に、イギリスで永住しようと思ったことがあった、
   懐かしい思い出である。

   以前に、同じように、ブラジルの永住権も持っていたが、あの時も、2年毎に入国する必要があり、仕事のこともあって2回ほど更新した。しかし、最後の年に、サンパウロで入管手続きをしようとしたら、入国管理制度が変ってしまっていて、永住許可のIDカードを没収されて、更新手続きを取れと言われた。朝令暮改のブラジルのことだから、規則など2年も持つはずがないのを4年間住んでいて、痛いほど知っているので、仕方がないが、摺った転んだと大変苦労をして入管を潜り抜けた。更新手続きをアミーゴに頼んでやって貰ったが、結局、ブラジルに行けなくなって、これも諦めた。

   ところで、ヒースロー空港での余談だが、その少し前に、入管手続きを終えて行こうとしたときに、隣のカウンターで日本人女性がトラブって困っているのに気がついた。
   女優の岩崎良美嬢である。
   「仕事は何だ」「ホテルは何処だ」「所持金を見せろ」などと問い詰められている。別に異常ではなく、女性の一人旅に対するノーマル・チェックなのだが、程度問題である。
   両方への手助けだと思って、係官に近づき、「この女性は、日本では、有名な女優兼歌手で、シェイクスピア役者として活躍している。今回は観光で来ており問題ないでしょう」と横から助け船を出したら、了解して通してくれた。シェイクスピアが利いたのかも知れない。はしたなくも出しゃばったのだが、こんな場合、イギリス人の係官はどう思ったのか、人のことほっとけと言わずに無表情でハンコを押してくれていた。
   入管を通過したのは、100回は下らないと思うのだが、人違いで疑われて入管に長く留め置かれたこともあれば、色々なことがあったが、国境を越えると言うことは、いずれにしろ、大変なことなのである。

(追記)口絵写真はウィキペディアから借用。ヒースロー空港。
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ストラトフォードのシェイクスピア旅(1)旅のはじめに

2023年07月29日 | 30年前のシェイクスピア旅
   倉庫のロイヤルオペラのパンフレットを探していたら、ロンドン時代の旅行記録が出てきた。
   この片割れは、このブログで、既に、欧米時代の観劇記録として、このブログで、「欧米クラシック漫歩(32)」として掲載済みだが、
   今回のは、この後編の「ストラトフォードの休日」という40ページほどの旅行記である。
   8年間のヨーロッパ駐在から帰国して2年後の1995年夏におこなった5日間の旅日記で、かなり克明な記録なので実に懐かしく、シェイクスピアの聖地である当時のストラトフォード・アポン・エイボンやRSCのシェイクスピア劇の様子なども良く分かるので、思い出を辿りながら、改めて採録してみたいと思う。5年間、イギリスに住みながら、膨大な写真以外何も記録を残さなかったのだが、その写真も倉庫に埋もれて難渋しないと探せない。その意味では、旅記録ながら私の経験したイギリスがぎっしりと詰まっていると思っているので、貴重な代替記録である。

   (1)旅のはじめに

   イギリスの永住ヴィザを持っていたので、更新のためには、2年以内に再入国しなければならないと言う規則があるので、休暇を取って、ギルフォードの英人友人宅への訪問とストラトフォードでのRSCのシェイクスピア劇鑑賞目的の5日間の駆け足旅行であった。
   まず、旅程が決まると、ストラトフォード・アポン・エイボンのホテルの予約である。
   この街は何度も出かけていて熟知しているので、ミシュランの赤本を開いてホテルの目途をつけた。これまでは、すこし郊外のシャトーホテルやクラシックなシェイクスピア・ホテルに泊まっていたので、今回は、街中のこぢんまりしたホテルをと思って、ファルコン・ホテルに電話を入れた。このホテルは、シェイクスピア当時の天井の低い骨董の建物で、一階の柱と二階の柱がくの字形に曲がっていて白壁の黒い木枠が美しい。向かいに、シェイクスピアが晩年に済んでいたニュープレイスがあり、隣のチャペルの裏に、子供の頃に通っていたグラマー・スクールがあって、路地裏から、シェイクスピアが飛出してきても不思議ではない雰囲気なのである。おそらく、シェイクスピアもこのホテルで、コーヒーを憩いながら友と世間話を楽しんでいたのであろう。電話を入れたら、24日は空き部屋があるが25日はダメだという。
   1泊だけ予約を入れて、次に、シェイクスピア小劇場のスワン座の向かいにあるアーデン・ホテルに電話を入れたら、スンナリとOKが出た。このホテルはこれまで何度も予約を試みて失敗していたので、正に幸いと、ファルコンをキャンセルして、クレジット番号を伝えて正式に予約した。

   次は、ロイヤル・シェイクスピア劇場のボックス・オフィスに電話して、チケットを予約することである。
   ロンドン時代から、RSCのメイリング・リストは続けているので、手元に、パッフレットとスケジュール表はある。
   RSCの大劇場は、24日は「じゃじゃ馬ならし」、25日は「ロミオとジュリエット」、スワン座は、24日は休演で、25日は「テンペスト」。
   木造の木組みが美しい、正に、クラシックな芝居小屋の雰囲気のスワン座で、テンペストを楽しみたかったが、大劇場の「ロミオとジュリエット」は、エイドリアン・ノーブルの演出なので、見逃す手はない。結局、二夜とも、大劇場になった。
   夏の休暇シーズンであったが、月曜と火曜であった所為なのか、幸いにもスーパーシートが手に入った。最高の席で、38ポンド(当時 5500円)と安く、満足であった。スーパーシートは、平土間席の中央真ん中と二階席前列正面にあるだけで、手にした平土間席は、比較的舞台にも近くて素晴しい席であった。
   これも、クレジットカードの番号を伝えて、予約した。海外からの予約など、日常茶飯事なので、日本の住所を言っても気にする風もなく、当日、ボックスオフィスで、チケットをピックアップすれば良いのである。
   最近は、電話で予約したことがないので現状は分からないが、当時は、ロイヤル・オペラでも、ウィーンでも、ミラノでも、プラハでも、この制度で、クレジットカードのデータを伝えてチケットを予約をして、劇場でピックアップするのが常態であって、全く問題はなかった。
   ハー・マジェスティ劇場の「オペラ座の怪人」のチケットをなくして劇場に掛け合ったら、パソコンを叩いてデータを探し出して、当日、劇場でチケットを再発行してくれたことがある。

   さて、旅行の予約は、他にはロンドン往復航空券はJALに入れれば済むことで、ギルフォード、ロンドン、ストラトフォード・アポン・エイボン間の英国内の移動は、鉄道とレンターカーにするつもりなので、ぶっつけ本番で、臨機応変に移動することにした。

(追記)以降、土曜日と日曜日に、書けるだけ書いてみようと思う。
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