この日の国立能楽堂の舞台は、金剛流の能「養老」、大蔵流の狂言「柑子」、観世流の能「船弁慶」であった。
全演目とも、私にとっては、はじめての鑑賞経験ではあったが、歌舞伎や文楽の舞台に慣れているので、能「船弁慶」に非常に興味があって、その作品の違いを意識して見せて貰った。
「船弁慶」は、永享7年(1435年)生まれの室町時代の能楽師觀世小次信光の作品だと言う。
歌舞伎の「船弁慶」では、後半の義経一行が知盛の幽霊と遭遇して戦い調伏すると言う部分で、殆ど能を舞台化した感じで同じなのだが、
やはり能から一部着想を得ながら、300年後に竹田出雲たちによって創作された「義経千本桜」とは違って当然なのだが、同じ、静御前や知盛を主人公にしていても、ストーリー性の違いと創作性の微妙な差などが非常に面白い。
観世信光は、応仁の乱の時代で、高級武士や公家の庇護が望めなくなって地方回りも多くなったとかで、世阿弥時代とは違って、幽玄よりもスペクタクル性が求められたと言うことで、能「船弁慶」は、前場には静御前の白拍子の舞があり、後場には、長刀を構えて義経と渡り合う知盛の勇壮な立ち回りがあって、結構、ダイナミックで面白い。
平家の最も優れた知将であり勇将であった知盛の幽霊の登場と言うことで、シテの浅井文義師は、瘦男の面をかけてやや憔悴気味のあの世の知盛を舞っていたのだが、前シテの静御前の華麗な舞姿も非常に優美で、その対照の妙が素晴らしかった。
ところで、平家物語には、都落ちした義経一行が、この能の舞台となる大物の浦のところを、ほんの数行で描写している。
「・・・その日、摂津の国大物の浦にぞ吹き寄せらる。 それより船に乗り、押し出だす。平家の怨霊強かりけん、にわかに西風はげしく吹きて、・・・」と言う部分を脚色して、嵐を知盛の亡霊に仕立てて「船弁慶」の創作をなし、そして、千本桜では、渡海屋銀平実ハ平知盛 と言う設定で、知盛に壇ノ浦の入水の再現を行わせていて、その着想が非常に面白い。
平家物語では、「早鞆」の章で、先帝・二位殿御最後や知盛入水などのクライマックス・シーンが描かれていて、知盛は、安徳帝の最期を見届けて、「今は見るべきものは見はてつ。ありとてもなにかせん」と言って、鎧を二領着けて家長と手を取り組んで入水したと言うのだが、一説には、囚われの身となる辱めを受けぬために碇を巻き付けて入水したと言われており、この逸話を踏襲して、文楽や歌舞伎の「碇知盛」が成立している。
こんな平家きっての勇将ゆえに、能楽では、幽霊知盛が創作されたのであろう。
シェイクスピアの「テンペスト」で、冒頭、プロスペローが妖術を使って嵐を起させて船を転覆させるのだが、舟板一枚で生死を分ける船旅での嵐は、恰好の創作テーマなのであろうか。
話が、前後するが、前場の主役は、静御前だが、歌舞伎の「伏見稲荷の段」でも、都落ちする義経を追って静御前が登場する同じ別れの場があるけれど、主役は、どちらかと言うと狐の佐藤忠信となっていて、創作性が強い。
しかし、能の「船弁慶」の方は、都落ちに女の静御前を伴うのは良くないと思った弁慶が、義経の許しを得て、静御前に説得に行くのだが、弁慶の差し金だと思った静御前は直接義経の真意を知りたいと面前に出て確かめる。結局、義経にも説得されて、泣く泣く、出立の無事と再会を願って、白拍子の衣装を着けて舞を舞って、最後は、烏帽子を残して去って行くのだが、非常に筋の通ったシンプルで、歌舞伎よりはずっとモダンで良い。
平家物語では、大物の浦出立後、住吉の浦に辿り着くのだが、ここで、「都から召し具して来た女房ども十余人、住吉の浜に捨て置きて、静ばかりを召し具して、・・・吉野の奥へぞおちられける。」となっていて、静御前を吉野まで連れて行っている。ここで興味深いのは、「捨て置かれたる女房ども、あるいは松の下、あるいは砂の上に、袴ふみしだき、袖を片敷き、泣き伏しけり。人これをあわれみ、都へおくりけり。」と言う描写で、鄙にも稀なる雅な女房たちが、途方に暮れて、貧しい浜辺をのた打ち回ったと言うのであるから、義経の最期も哀れ極まると言うことであろうか。
義仲も切腹寸前まで、巴を伴っていたのだが、やはり、玄宗皇帝が何時までも楊貴妃を諦めきれなかったように、勇将と言えども、最愛の女性からは離れられないと言うことであろうか。
全演目とも、私にとっては、はじめての鑑賞経験ではあったが、歌舞伎や文楽の舞台に慣れているので、能「船弁慶」に非常に興味があって、その作品の違いを意識して見せて貰った。
「船弁慶」は、永享7年(1435年)生まれの室町時代の能楽師觀世小次信光の作品だと言う。
歌舞伎の「船弁慶」では、後半の義経一行が知盛の幽霊と遭遇して戦い調伏すると言う部分で、殆ど能を舞台化した感じで同じなのだが、
やはり能から一部着想を得ながら、300年後に竹田出雲たちによって創作された「義経千本桜」とは違って当然なのだが、同じ、静御前や知盛を主人公にしていても、ストーリー性の違いと創作性の微妙な差などが非常に面白い。
観世信光は、応仁の乱の時代で、高級武士や公家の庇護が望めなくなって地方回りも多くなったとかで、世阿弥時代とは違って、幽玄よりもスペクタクル性が求められたと言うことで、能「船弁慶」は、前場には静御前の白拍子の舞があり、後場には、長刀を構えて義経と渡り合う知盛の勇壮な立ち回りがあって、結構、ダイナミックで面白い。
平家の最も優れた知将であり勇将であった知盛の幽霊の登場と言うことで、シテの浅井文義師は、瘦男の面をかけてやや憔悴気味のあの世の知盛を舞っていたのだが、前シテの静御前の華麗な舞姿も非常に優美で、その対照の妙が素晴らしかった。
ところで、平家物語には、都落ちした義経一行が、この能の舞台となる大物の浦のところを、ほんの数行で描写している。
「・・・その日、摂津の国大物の浦にぞ吹き寄せらる。 それより船に乗り、押し出だす。平家の怨霊強かりけん、にわかに西風はげしく吹きて、・・・」と言う部分を脚色して、嵐を知盛の亡霊に仕立てて「船弁慶」の創作をなし、そして、千本桜では、渡海屋銀平実ハ平知盛 と言う設定で、知盛に壇ノ浦の入水の再現を行わせていて、その着想が非常に面白い。
平家物語では、「早鞆」の章で、先帝・二位殿御最後や知盛入水などのクライマックス・シーンが描かれていて、知盛は、安徳帝の最期を見届けて、「今は見るべきものは見はてつ。ありとてもなにかせん」と言って、鎧を二領着けて家長と手を取り組んで入水したと言うのだが、一説には、囚われの身となる辱めを受けぬために碇を巻き付けて入水したと言われており、この逸話を踏襲して、文楽や歌舞伎の「碇知盛」が成立している。
こんな平家きっての勇将ゆえに、能楽では、幽霊知盛が創作されたのであろう。
シェイクスピアの「テンペスト」で、冒頭、プロスペローが妖術を使って嵐を起させて船を転覆させるのだが、舟板一枚で生死を分ける船旅での嵐は、恰好の創作テーマなのであろうか。
話が、前後するが、前場の主役は、静御前だが、歌舞伎の「伏見稲荷の段」でも、都落ちする義経を追って静御前が登場する同じ別れの場があるけれど、主役は、どちらかと言うと狐の佐藤忠信となっていて、創作性が強い。
しかし、能の「船弁慶」の方は、都落ちに女の静御前を伴うのは良くないと思った弁慶が、義経の許しを得て、静御前に説得に行くのだが、弁慶の差し金だと思った静御前は直接義経の真意を知りたいと面前に出て確かめる。結局、義経にも説得されて、泣く泣く、出立の無事と再会を願って、白拍子の衣装を着けて舞を舞って、最後は、烏帽子を残して去って行くのだが、非常に筋の通ったシンプルで、歌舞伎よりはずっとモダンで良い。
平家物語では、大物の浦出立後、住吉の浦に辿り着くのだが、ここで、「都から召し具して来た女房ども十余人、住吉の浜に捨て置きて、静ばかりを召し具して、・・・吉野の奥へぞおちられける。」となっていて、静御前を吉野まで連れて行っている。ここで興味深いのは、「捨て置かれたる女房ども、あるいは松の下、あるいは砂の上に、袴ふみしだき、袖を片敷き、泣き伏しけり。人これをあわれみ、都へおくりけり。」と言う描写で、鄙にも稀なる雅な女房たちが、途方に暮れて、貧しい浜辺をのた打ち回ったと言うのであるから、義経の最期も哀れ極まると言うことであろうか。
義仲も切腹寸前まで、巴を伴っていたのだが、やはり、玄宗皇帝が何時までも楊貴妃を諦めきれなかったように、勇将と言えども、最愛の女性からは離れられないと言うことであろうか。