熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

大晦日:バーンスティンの第9を聴いて終る

2021年12月31日 | 生活随想・趣味
   何時もなら、家族で、リビングでNHKの紅白を見ながら過ごすのだが、もう、我々老年の世界ではないので、書斎に移って、読み残している本を整理しながら、行く年を反芻していた。
   ところが、そんな大邸宅でもないので、紅白の歌声が微かに聞こえてくる。あ! 懐かしいあの歌は、「いい日旅立ち」。
   無性に懐かしくなって、テレビの前に出てみると、水森かおりが、この歌を歌っていて、バックに日本の風景が流れていて、最後は、清水の舞台でのライブとなった。私には、好きな歌が三つあって、この「いい日旅立ち」と「琵琶湖周航の歌」と「神田川」。それに、京都は、我が青春の学び舎、懐かしさがこみ上げてきて、最後までテレビの前にいて、書斎に戻った。

   ウィーンの大晦日を真似て、シュトラウスの喜歌劇「こうもり」を見て過ごそうと思ったのだが、残念ながら、DVDの山の中で探せず、諦めて、収録してあった4Kのバーンスティンのベートーヴェンの第9を聴いた。
   1979年のウィーン国立歌劇場でのウィーン・フィルの演奏で、独唱:ギネス・ジョーンズ(ソプラノ)、ハンナ・シュヴァルツ(アルト)、ルネ・コロ(テノール)、クルト・モル(バス) 合唱:ウィーン国立歌劇場合唱団である。
   1980年代には、出張や在住でヨーロッパに居てクラシック音楽には通い詰めたので、お馴染みの楽団やアーティスト達なので、それぞれの懐かしい舞台を思い出しながら聴いていた。
   バーンスティンを、最初に聴いたのは大阪万博の時、フェスティバルホールで、そして、ニューヨーク・フィルとコンセルトヘボウ、最後は、最晩年で、ロンドン響で自作「キャンディード」のコンサート・オペラであった。ハンナ・シュヴァルツだけは聴く機会がなかったが、ロイヤル・オペラには随分通っていたので、モルなど他の歌手は聴く機会が多く、ジョーンズとコロは、特に、ワーグナーの楽劇で素晴しい舞台を見せて貰った。もう、40年以上も前の演奏なので、私のような老人ファンでないと聴く機会がなかったはず。
   先ほどの「いい日旅立ち」と同じで、丁度、クラシックファンとしてよちよち歩きを始めた頃の往年の憧れのアーティスたちが、眼前に蘇ってきているのであるから、無性に懐かしい。
   第9も、あっちこっちで随分聴く機会があったが、このバースティンのこの舞台はアーティストが超弩級の凄い演奏で感動的であった。
   私は、唯一のオペラ「フィデリオ」と共に、ベートーヴェンが、思想を垣間見せている凄い作品なので、心して聴いている。
   

   今年は、コロナコロナで、何も出来ずに、いつの間にか終ってしまった。

   遠くに、鎖大師の除夜の鐘が、微かに聞こえている。
   
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SEBR:2036年に、日本が、世界第五位の経済国に凋落

2021年12月30日 | 政治・経済・社会
   毎朝送られてくるBloombergニュースで、「来年は100兆ドル突破へ」というコラムで、
   世界経済は2022年に初めて100兆ドル(約1京1440兆円)規模を超えると、英シンクタンクの経済ビジネス・リサーチ・センター(CEBR)は予想している。従来予想より2年前倒しでの大台突破となる。CEBRは毎年恒例の「世界経済リーグ・テーブル」で、日本経済は2033年にドイツに追い抜かれるとの見方も示した。
   と記されていたのだが、最後の部分が気になった。

   早速、CEBRの「WORLD ECONOMIC LEAGUE TABLE 2022」を開いて、Japanの項目を見ると、バブル崩壊後のデフレ経済に呻吟する失われた30年の日本のお馴染みの分析の最後に、次の説明がなされていた。
   Beyond the pandemic, Cebr expects Japanese growth to lag behind other developed economies.
Annual GDP growth is set to average 1.2% between 2022 and 2026 and just 0.5% between 2027 and 2036. This slowdown is set to induce a fall in the World Economic League Table rankings. Japan is expected to be the world’s fifth largest economy by 2036, being overtaken by India and Germany.
   CEBRは、パンデミック後の日本経済の年率成長率を、2022~2026年は1.2%、2027~2036年は0.5%と見込んでおり、他の先進国経済より成長率が劣っているので、2036年には、インドとドイツに抜かれて、「世界経済リーグ・テーブル」で第5位に凋落すると予測している。と言うのである。

   失われた30年の日本のGDPの推移については、graphotochart.comとユアFXの表をインターネットから借用して表示すると、
   
   
   世銀の資料からのドルベースと、円ベースの日本の名目GDPの推移だと思うのだが、いずれにしろ、これまでの30年間、日本経済は鳴かず飛ばずで、殆ど経済成長から見放されてきたのが良く分かる。

   私が、海外で仕事を始めたのは、1974年にウォートン・スクールを出てからで、直ぐブラジルに赴任し、帰国した1979年に文革後の中国を訪れ、その後海外業務を担当し、アジア各地や中近東や北米などの仕事に出張ベースで参画し、続いて、ヨーロッパに移り、ベルリンの壁崩壊とソ連の陥落を具にロンドンで観察し、中国の台頭とICT革命への胎動を見据えながら日本に帰った。
   何を言いたいかというと、この1970年代から1980年代の日本の躍進が如何に凄かったかと言うことで、
   エズラ・ヴォーゲルが、1979年に"Japan as Number One"を著わして以降、日本経済が飛ぶ鳥を落とす勢いで成長発展を遂げ、アメリカが日本に凌駕されるのを本当に恐れて、MITに日本分析を命じざるを得なかったほどで、Japan as Number Oneは、既定路線のような勢いであった。
   この時代に、私自身は、ヨーロッパにいて、弱肉強食の自由主義経済が沸騰するビッグバン最中の、怒濤のように激動するグローバルビジネス環境下で、沢山の日本人ビジネス戦士と共に、欧米人達と切った張ったの激烈な戦いを繰り広げていた。

   1979年に訪れたときの中国の貧しさ悲惨さは筆舌に尽くしがたく、東南アジアは、香港やシンガポールはともかく、非常に遅れた貧しい発展途上国の域を出ず、中近東は未開発状態であったし、とにかく、日本も経済社会状況はまだまだの状態ではあったが、1980年代の日本は、向かう敵なく、我が世の春を謳歌して光り輝いていた。
   ところが、何がどうなったのか、日本はバブル経済が一気に崩壊して、不況のどん底に突き落とされて、それが、30年も継続し、いまだに、デフレ経済から脱却できずに経済の低成長を託っている。
   この失われた30年の間に、貧しくて未開発状態であった中国や東南アジアの成長と発展には目を見張るものがあって、牛歩や亀どころが、一歩も前に進めなかった日本を尻目に、どんどん近代化して変貌を遂げて、今や、日本を凌駕しつつある。
   更に、失われた40数年後に、成長から見放されたJapan as Number Oneであった日本が、第5位に転落すると言う。半世紀近くも経済大国として存続し続けたのだから、かっての日本が如何に凄かったのかと言う変な慰めにはなっても、悲痛以外の何ものでもない。
   
   この30年間に、日本人全体が、一度でも、明治維新や終戦直後の復興期のように、高度な理想とビジョンを掲げて、天下国家の命運を賭けて、日本の政治経済社会の未来像をを見据えて論じてきたであろうか。
   高邁な理想と哲学を掲げて、確固たる日本の未来像を国民に示して、日本の政治をリードした為政者や政治家が、果たしていたであろうか。30年間も経済成長を策し得ずに、国力の極端な疲弊を惹起したにも拘わらず、一顧だにせずに放置した、国家理念なきリーダーシップの無為無策、無能ぶりは、ここに極まれりである。
   産官学のトライアングルは勿論、総べての上に立つトップ集団の責任も重い。

   今更、渋沢栄一でもないであろうが、この長期に渡る30年の間に、ひとりとして、日本魂に燃えた立派なリーダーを排出し得なかったと言う信じられないような日本の悲劇は、まだまだ尾を引きそうで悲しい。
   大谷翔平や藤井聡太や羽生結弦と言った卓越した若者がいるのに!
   いくら深刻な「先進国の罠」に陥ったとしても、今までの日本の歴史を顧みれば、30年もあれば、どんなにまかり間違っても、真面なリーダーが一人くらいは出て、経済再生を策するチャンスは、必ずあったはずなのに!!
   日本人魂の凋落と日本の前世紀の教育の不毛を感じて、実に寂しい。
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京都南座顔見世:身替座禅

2021年12月29日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   コロナで劇場へ行くのを避けているので、NHKで、京都南座の顔見世興行の「身替座禅」を観た。
   私が、歌舞伎座で、「身替座禅」を観た最後は、5年前で、やはり、仁左衛門の舞台であった。
   その時のブログを採録すると、
   ”「身替座禅」だが、これまで、歌舞伎では、吉田某(山蔭右京)と奥方が、夫々、菊五郎と吉右衛門、菊五郎と仁左衛門、團十郎と左團次、仁左衛門と段四郎と言った名優の素晴らしい舞台を観ており、仁左衛門の「身替御前」は、二回目で、更に、厳つい奥方の仁左衛門も観ているので、今回は、フルに楽しませてもらった。
   大概、右京の身替りになって衾を被って奥方にとっちめられる太郎冠者を演じるのは、又五郎で、これに関しては余人をもって代えがたいのであろう。
   仁左衛門の右京は、「廓文章・吉田屋」の伊左衛門に相通じる、やや、優男風の軟弱な優しくて気の弱い色男の殿様で、迸り出るような花子への思いとどうにも奥方には歯が立たない恐妻家の雰囲気を上手く出していて秀逸であった。
   左團次の奥方が、また、実にうまい。
   多少、不謹慎な表現かも知れないが、夫婦の関係は関係として重要な絆ではあろうが、夫であろうと妻であろうと、長い人生において、他の異性に思いを寄せるであろう可能性は十分にあり得ることであって、笑ってしんみりとするのが、この歌舞伎で、いつ見ても面白い。"
   

   この歌舞伎「身替座禅」のオリジナルである狂言の「花子(はなご)」を、二人の人間国宝である野村萬の吉田某、山本東次郎の奥方で、一度だけ観たことがあるのだが、芝居っ気を削いだ透徹した芸術的な舞台であったし、小歌で語られているので、少し難しかった。
   逢瀬を楽しんだ翌朝、ほろ酔い機嫌で、素襖の右肩を脱いで、太刀を左手に持って揚げ幕から登場した萬の吉田某の姿だけは、印象に残っている。
   能や狂言から取った松羽目物の歌舞伎では、この「身替座禅」は、比較的元の狂言「花子」に忠実な感じがする。
   幸せだった花子と一夜を明かしてほろ酔い機嫌で帰ってきて、太郎冠者の代わりに座禅を組んでいるのが身替わりの奥方だとも知らずに、花子との痴話げんかや惚気ばなしを聞かせて激怒させる場面が、秀逸だが、面白いのは、少し脚色されていることである。
   最後のシーンで、歌舞伎では、奥方はどのような顔だと花子に聞かれて、山家の猿だと仕方話で語って、奥方を怒らせるのだが、狂言では、芸術的ながら表現は軟らかいがキツい調子で、「思うに分かれ、思わぬに添う」、あの美しい花子に添わいで、山の神に添うというは、ちかごろ口惜しいことじゃなあ。で結んでいる。
   
   

   さて、今回の舞台は、奥方が芝翫で、太郎冠者が隼人。
   この上演中に、芝翫が、三度目の浮気が見つかって、「またも妻・三田寛子を裏切る3度目の「京都不倫密会」」と芸能メディアの話題となっている。
   舞台の逆を行く話題で、藝の面白さに拍車をかけていて、流石に懲りない千両役者である。
   更に、NEWSポストセブンが、「中村芝翫 京都不倫密会中でも無視できない片岡仁左衛門の呼び出し」という記事で、12月21日の夜の公演後、アバンチュールを蹴って、祇園の高級ステーキ店での片岡仁左衛門との会食を報じている。仁左衛門さんは歌舞伎役者にしては珍しく、不倫どころか浮いた噂もまったく報じられない、芸一筋の真面目な人。芝翫さんがこの公演中に女性と密会していると知ったら、どんな“指導”が待っていたことか。と報じているのが面白い。
   結婚前の三田寛子に、ロンドンのロイヤルオペラハウスで、バレエ公演の幕間のロビーで会ったことがあるが、三人の歌舞伎役者として立派に育った息子達後継がいては動きようがないであろう。

   仁左衛門は、成人しきっていないやんちゃ坊主の吉田某と、亭主のことが好きで好きで堪らない可愛い奥方との大人のままごと、
   世間的にはいけない話だが、楽しんでみて貰えれば、と言う、
   雨降って地固まると言った余韻を残して幕切れとなる。
   しからば、何故、奥方に、玉三郎や菊之助を起用せずに、厳つい立方ばかりにやらせるのか、私には、“To be, or not to be, that is the question.”
   真面目一徹の仁左衛門と浮気の修まらない芝翫の生き様をダブらせながら観ていると、何となく、見えてくる世界がホンワカとしてくるのだが、
   仁左衛門は、人物の生き様や表情が面白いが、これは、単なる喜劇ではなく、前半は、狂言仕立て、後半は歌舞伎舞踊として演じていると言って、狂言「花子」の向こうを張っている。

   この舞台で、興味深いのは、芝翫の女らしからぬ女形の奥方で、立役の持ち役なので女らしく演じる必要はないのだが、どうしても、女形の最高峰として一世を風靡した父君:人間国宝の先代の芝翫の舞台を思い出しながら観てしまうことで、似ても似つかない藝の落差が面白かった。
   隼人の太郎冠者は、芸達者で好感が持てたが、又五郎の芸域には、まだまだ道はるか。

   團十郎の記憶は殆どないのだが、仁左衛門の大坂の大店のバカボン風の吉田某と、菊五郎の遊び人お殿様風の吉田某の舞台が双璧で、ここまで来ると、松羽目物の藝の進化も凄い。先代の観世銕之丞が、歌舞伎「勧進帳」から、能「安宅」に藝を取り入れたと言うから、異文化交流も悪くないのである。
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ブラジルへは年賀状は送れない

2021年12月27日 | 政治・経済・社会
   去年もそうだったが、今年も、ブラジルへ向けて送った年賀状が送り返されてきた。
   年賀状の住所欄に、
   この郵便物は、引受停止に伴い名宛国・地域に発送できず、国際交換郵便局から返送しますので、お客様にお返しいたします。
   なお、「郵便物等」、「郵便物等料金返納請求書兼受領証」、「お詫状」及び「ご本人様確認資料」をご持参の上、郵便局に郵便料金返還をご請求ください。
   と記した紙切れが貼ってあり、郵便局の通信事務郵便で、差出人様へと書いた封書に関係書類を入れて、返ってきたのである。

   コロナコロナで、世の中がおかしくなっているので、まして、ブラジルのことであるから、何かあるのであろうと思って調べようと、インターネットに、「ブラジルへ年賀状は送れない」と打って検索したら、
   「国・地域別の差出可否 - 日本郵便 - Japan Post Service」が出てきた。開いてみると、
   各国・地域宛の航空便の減便等が継続していることから、差し出された国際郵便物のお届けに遅延が生じる恐れがあります。
また、輸送経路の途絶等により引受け後に送達不能となった国・地域宛の郵便物については、返送し、郵便料金等をお返しする場合があります。あらかじめご了承ください。と言う但し書きがあって、国際郵便物の差出可否早見表(2021年12月22日現在)が表示されている。
   通常郵便物(書留・保険付を含む)と小包郵便物に分けて、航空扱い、SAL扱い、船便扱い別に、そしてEMSと、それぞれの可否を○×で表示されて、簡略に説明が加えられている。
   ブラジルは、最悪で、小包郵便物のSAL扱いしか許可されておらず、「配達は非対面の方法等で行います。」と表示されている。
   驚いたことに、200近くある外国に対して、大部分の国へは送れないと言うことで、アメリカは△印で、(遅延)航空機の減便等により運送スペースの不足等が生じていることから、航空機への搭載に2~3週間程度の期間を要します。(平常期)EMSは宛てられる地域に制限あり、米国国内において郵便物の到着が集中し、郵便物のお届けに遅延が生じます。また、配達は非対面の方法等で行います。との但し書きである。
   カナダやオーストラリアなども全く同様の△で、先進国で、イスラエルやイタリアなどは、船便しか許されていない。
   ICT革命で、デジタル通信が可能なので助かっているが、従来なら、最も重要な通信手段が暗礁に乗り上げてしまったのであるから、文明の危機である。
   こんな事情を知らずに、いつものようにギリギリになってから送ったのだが、イギリスとオランダへ発送したクリスマスカードは、着いたであろうか、心配になって来た。

   インターネットの時代であるから、クリスマスカードなど、メールで送れば良いではないかと言うことかも知れないが、これは、イギリス人にとっては全く違う。
   私の経験は、随分前の話なのだが、変っていないと思うので、イギリス人の習慣を記す。
   我がロンドンの事務所でもそうだったし、知人宅を訪問しても同様で、各家ともに、広いリビングに、壁から壁へ、細いひもを張り巡らして、そのひもに一枚一枚クリスマスカードを吊り下げて、満艦飾のように部屋一杯を飾り付けるのである。
   それを、自慢そうに、客に、それぞれのカードやその主の話題に花を咲かせる恒例の行事である。
   この習慣は、クリスマスツリーの存在と全く同じような重要性を持っているように思う。
   外国からの懐かしい知人友人からのクリスマスカードが来なくなると、部屋の満艦飾も寂しくなって、楽しみも半減したのではないかと思っている。

   ところで、欧米で難しいのは、人によって宗教が異なるので、クリスマスカードを送れない人もあり、私はすべてグリーティングカードにしている。
   貴方の宗教は何ですかなどとは聞けないので、長い付き合いで、息子が教会で結婚式を挙げて参列して、やっと、クリスチャンだと分かると言った調子であった。
   ただ、日本では、殆ど、クリスマスカードしか売っていないので、汎用の白紙のカードを使用している。
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わが庭・・・椿:唐錦、タマアメリカーナ

2021年12月26日 | わが庭の歳時記
   寒波襲来とか、急に寒くなって、晴天が一気にかき曇り、鎌倉にも、チラチラ雪が舞い始めた。
   咲き出したのは、唐錦とタマアメリカーナ。
   唐錦は、江戸時代からの古い椿で、八重咲きで小さな蘂が中央にある綺麗な椿なのだが、花が開いたところなので、蕾が固い宝珠咲きである。
   宝珠咲きを見ると、千葉の庭で大きく育っていた黒光りの美しい崑崙黒の宝珠を思い出す。
   
   
   
   

   玉之浦グループで、次に咲き始めたのは、タマアメリカーナ。
   特に特色のない花で、タマグリッターズよりシンプルである。
   
   
   
   

   ハイカンツバキ、菊冬至、
   フルグラントピンクが、ほころび始めた。
   イングリッシュローズが一輪だけ咲いている。
   
   
   
   

   バラの冬剪定を行おうと思ったのだが、新年に回すことにした。
   今年も、こともなく、静かに終りそうで、ホッとしている。
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ゴルバチョフ:“民主主義”“対話”強調を説く

2021年12月24日 | 政治・経済・社会
   ゴルバチョフが、日本のメディアの書面インタービューに応えて私見を語り、FNNなどが、
   ”ゴルバチョフ氏“民主主義”“対話”強調 ソ連崩壊30年 インタビュー”と報じた。
   それ程、複雑で込み入った話でもないので、感想を述べたい。

   1991年12月のソビエト連邦共産党解散を受けた全ての連邦構成共和国の主権国家としての独立、ならびに同年12月25日のソビエト連邦大統領ミハイル・ゴルバチョフの辞任に伴い、ソビエト連邦が崩壊した。1917年11月7日のロシア革命(十月革命)からロシア内戦を経て1922年12月30日に成立したソビエト連邦は、69年後の1991年12月25日に崩壊した。(Wikipedia)
   ソ連崩壊、冷戦終結から、早30年である。

   ゴルバチョフが語った要旨は、次の通りである。

   「世界の大国は今、コントロールできないほどの軍事的・政治的な対立に直面しています」。「冷戦後最悪」といわれる、ロシアと欧米との関係に危機感を示す一方、「致命的な状況ではない」との考えを示した。

   「現在の状況について、すべての責任がロシアにあるとされ、ロシアが歩み寄ることだけを求められています。それでは対話は成立しません。唯一の解決方法は、理性的な対話なのです」

   ロシア国内では、たびたび“反体制派デモ”が起き、国民たちが「真の民主化」を求め、声をあげている。「ロシアには、1つの未来しかない。それが民主主義です。そして、ロシアが強く民主的であることは、外交政策にも必要なのです」。

   北方領土問題を抱えた日ロ関係については、「対話を中断してはいけない。道は歩く者によって成し遂げられるのです」

   ロシアが、と言うよりも、プーチン大統領が、危機意識を持っているのは、経済的にも軍事的にも弱体化してしまったロシアに、ソビエト連邦が解体されて結成されたCISという緩やかな国家同盟のメンバーであったいくらかの国々が、EUやNATOへの加盟を模索し始めており、ロシア本体に欧米勢力が急接近して、殆ど裸状態になってしまっている地政学的弱体化である。
   その典型が、ウクライナで、この国はロシアの安全保障の生命線であり、この国がEUとNATOに加盟し欧米陣営に入り、欧米の軍事基地などが設置されると、ロシアの喉元に短刀を突きつけられたようなもので、ロシアにとっては死活問題となろう。ロシアが、ウクライナがNATOに加盟すれば自国の安保が大きく損なわれると反発しており、当初の、米ロ間で交わされた旧ソ連諸国を加盟させないというNATOの約束を遵守すべく、NATOの東方拡大停止など欧州安全保障に関する新たな合意に応じるよう改めて求めているのも頷ける。
   まして、キエフはロシア建国の故地であり、ウクライナはロシアにとっては特別な関係にあり、緩衝地帯として必須であって、欧米がウクライナを囲い込もうとすればするほど、ロシアは国境地帯に軍隊を集結して、腕ずくでもウクライナに乗り込まざるを得なくなる。
   1962年10月~11月に、ソ連のキューバにおける核ミサイル基地建設が発覚して、アメリカがカリブ海でキューバの海上封鎖を実施し、米ソ間の緊張が一気に高まり、核戦争寸前まで行ったキューバ危機を考えて見れば、ウクライナ問題が、ロシアにとって最悪の危機要因であることは分かる。

   欧米のウクライナへのアプローチが度を超して、軍事基地包囲網をロシア直近に構築するなどレッドラインを超すと、新冷戦が軍事衝突に発展する可能性が高くなろう。
   しかし、いくら軍事大国だと言ってロシアが足掻いても、ロシアの国力は、GDPベースで、日本のGDPの3分の1と言う弱小経済国家であるから、戦争が勃発しても、ロシアが、本格的な戦争に堪えられるはずがない。ウクライナの東部併合も、クリミア併合とは比べようもない程困難を伴う。
   それに、二度の世界大戦で、嫌という程戦争の悲惨さを経験してきたヨーロッパが戦争を望むはずがなく、アフガニスタンでさえ維持できずに撤退した厭戦ムード充満のアメリカが、戦端を開くはずがない。
   軍事衝突のギリギリまで行く可能性はあろうが、戦争になはならない。
   ゴルバチョフの「致命的な状況ではない」と言うのは、この辺りを見越しての見解だと思う。

   また、「すべての責任がロシアにあるとされ、ロシアが歩み寄ることだけを求められています。」というロシア悪者論だが、むしろ、欧米側の方がレッドラインを超えようとしてロシアに危機感を持たせている。
   ウクライナは独立国であり、EUやNATOに加盟するのは自由な筈だが、米ロの対立が新冷戦の様相を呈している現状では、ロシアとしては、絶対に許容できないデッドラインであり、是が非でも、欧米の軍事力を国境に近づけたくはない。

   殆ど言及されることがないが、ロシアのGDPは、アメリカの14分の1,中国の10分の1で、桁外れに経済力は弱体である。
   これまでにも、ロシアの経済については、ロシア紀行でも触れたし何度も論じてきたが、ソ連の崩壊以降、壊滅的な状態に陥り、その後プーチン以降も、石油や天然ガス輸出で経済を維持し、めぼしい工業化や産業の近代化を推進してこなかったので、ロシア経済は惨憺たる状態である。
   経済力が国力の根幹なら、ロシアは最早張り子の虎である。

   「ロシアには、1つの未来しかない。それが民主主義です。」という点だが、ロシアは、イヴァン雷帝、ピョートル大帝以降、絶対君主の支配する国であり、レーニンにしろスターリンにしろ、絶対的な権力を持ったリーダーによって統治されてきた国であり、ゴルバチョフの意味する民主主義がどう言う意味か不明だが、欧米先進国のような民主主義など、絶対に馴染まない体制であり、実現不可能である。
   是非はともかく、これまでロシアは、独裁的専制国家体制下で一番安定しており、プーチン体制が崩れる徴候さえない。尤も、21世紀のロシアを振り返る限り、プーチン体制が続けば続くほど、経済の近代化と成長から取り残されて、国力の低下は免れ得ないであろう。
   中国とは、対アメリカで、軍事的な協力関係にはあるが、経済的な協力に踏み込めないのは、昇り龍状態の巨大な中国経済に取り込まれて、属国状態に陥る可能性があるからであろう。

   北方領土については、どんどん、ロシア支配の既成事実が膠着化しており、安倍首相ならともかく、小粒化した政権では、「対話」さえ無理で、ロシアに、北方領土やシベリア開発に、日本経済を利用される可能性が高く、何らかの見返りが日本にあれば、良しとすることになるのではないであろうか。

   前にも書いたので蛇足だが、ソ連崩壊後、経済的にも壊滅状態に陥った新生ロシアに、欧米先進国から、政治家や財界人達が大挙して訪問してロシアの再生に奔走していたのを、ロンドンにいて具に見ている。
   もしもだが、あの時、西側に高度な哲学とビジョンを持った卓越したリーダーが居て、ロシアの民主化と資本主義化を適切に誘導していたら、世界の歴史は変っていただろうと思っている。
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今年の大晦日は、紅白歌合戦を見ない

2021年12月22日 | 生活随想・趣味
   直立不動で歌う東海林太郎の「赤城の子守歌」を覚えている世代の視聴者であるから、NHKの紅白を見るのは、何となく、年中行事のようなものであった。
   しかし、今年のプログラムを見ると、石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」くらいしか馴染みがなく、新しいエンターティンメントの潮流かも知れないが、元々、クラシックファンで、伝統の演歌にも殆ど興味がなかったくらいであるから、私には異次元の世界で、もう、全く興味はなくなったので、おさらばである。
   リビングの紅白のテレビは、小学生の孫息子と幼稚園の孫娘に明け渡して、私は、
   大晦日の夜は、書斎に篭って、ウィーンの大晦日を思い出しながら、ウィーンと同様に、恒例のシュトラウスの喜歌劇「こうもり」のビデオを楽しもうと思っている。

   もう一つ、NHKの変節で気になったのは、女性自身の記事
   ”「ガッテン!」「生活笑百科」が終了…“中高年切り捨て”進めるNHKのお家事情”で、
   NHKの人気情報番組『ガッテン!』と笑福亭仁鶴の司会でおなじみだった『生活笑百科』が、来年3月末で終了する方向で検討されていると言う。
   「ガッテン!」は、身近な健康の話題を科学的にわかりやすく検証する番組内容は、中高年に圧倒的人気を誇り、現在も平均世帯視聴率は10%以上ある。と言うし、「生活笑百科」も、37年の歴史を誇る身近な優しい法律相談をテーマにして上方芸人が醸し出すほんわかとした大阪ムードが貴重であった。
   NHKのテレビは、BSの報道番組や芸術関係の教養番組を主体にしか見ていないのだが、この二つのプログラムは意識して見ている方で、なくなってしまうと、殆ど見るものがなくなり、どんどん、NHKから遠ざかる。

   前田晃伸氏がNHKの会長に就任してから、新番組や新企画の開発が急ピッチで進んでいます。’21年度の半年間の受信料収入は3千414億円で2年連続の減収。これが年々さらに減少すると経営陣はみています。長期的に受信料を払ってくれる若い世代を掘り起こすために、バラエティでもドラマでも若年層をターゲットとした新番組作りが最重要課題だと考えているのです。
   テレビ界全体で視聴者の減少が続いており、一昨年、テレビ広告がネット広告に抜かれてしまったという背景が現実にあります。民放各局でも、去年から視聴者のターゲット層に変化が起きている。と言う。

   一方、テレビコラムニストの桧山珠美氏は、切り捨てられる多くの中高年視聴者の怒りをこう代弁する。
   「テレビが長年の顧客である中高年向けの番組を次々と終わらせていることに大きな疑問を感じます。特に公共放送のNHKは受信料をきちんと払っている中高年が楽しめる番組を提供する義務がある。そもそも若い世代はYouTubeやNetflixなどの配信やSNSが主流で、すでにテレビの優先順位が低いのは明らか。

   結論を言うと、若者達は、テレビ以外に便利で簡便な視聴手段が五万と存在しているので、テレビを見る機会など極めて限られており、まして、NHKなど殆んど見ないし、受信料を払う気など更々ない。
   若者はスマホ漬けで、紙媒体の新聞と同じで、テレビの急速な退潮は、時代の趨勢であって止めようがない。若者迎合番組に切り替えて若者を引き込もうとする戦術など愚の骨頂だとしか思えないし、老人向け番組が減って老人離れを加速すれば、いざという時の公共放送としての使命を失う。

   私は、NHKの受信料は、衛星契約のクレジットカード払いで、12か月前払額24,185 円を支払っている。
   これは、庶民にとっては、まして、年金生活者にとっては、かなりの負担であり、支払いは個人任せであって、違法行為として罰を受けることがないならば、避けたい気持ちも分かる。まして、それに見合った放送が提供されていて、視聴者にそれだけの受益があるのかとどうかを考えれば大いに疑問であり、殆どの人は、NHKの受信料は税金のような義務だと思って支払っているのだと思う。

   随分昔の話で、今はどうかは分からないが、私がイギリスにいたときには、BBCの受信料の支払いは税金と同じで国民の義務であり、絶えずBBCの監視車両が巡回していて、受信電波をキャッチすると有無を言わせず徴収していた。
   公共放送が必用なら、これくらいのことをすべきであろう。少なくとも、BBC程度の良質の放送をするという条件でである。
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今年も年賀状を出すことにした

2021年12月21日 | 生活随想・趣味
   郵便局に聞くと、12月25日までに、年賀状を投函して欲しいという。
   海外にいたときには、年賀状を出さなかったのだが、その10数年は除いたとしても、もう、50回以上は、毎年年賀状を書いていることになる。
   出す相手は、学生時代の学友など親しい友人や会社関係が主なのだが、殆ど老人が多いので、毎年少しずつ減っていく。
   歳のために年賀状交換を取りやめたいと言った人も年々増えており、思うように年賀状を書けなくなった人もいるし、何となく切れてゆく人もある、
   行く年つきの移り変わりを感じ始めている。
   年賀状を一枚一枚見ながら、懐かしい思い出を反芻して、過ぎ去りし昔のことどもに耽る。また、楽しからずやである。
   私自身は、元気なうちは、年賀状を書き続けていこうと思っている。

   さて、年賀状だが、最近は、富士通のパソコンに付属しているソフト筆ぐるめを使用しているので、昔ほど、年賀状の準備には造作がない。
   まず、住所録は、収納済みの住所録を、異動などはその都度修正しておけば問題ないし、喪中通知に注意すれば良い。
   問題は、裏面の通信欄のレイアウトだが、毎年、どうすれば良いのか、多少、悩むことになる。
   筆ぐるめにも、結構バラエティに富んだレイアウト例が示されているし、市販のソフトも多種多様で面白いのだが、シックリとくる作品はない。
   レイアウトのモデルを殆ど消し去って、新しいイメージの作品に作り替える以外になくなってしまうのだが、それも、思うように行かないので、白紙状態の画面に、文字と写真をアレンジして組み合わせて、我流の作品を作ってしまうことになる。

   通信文章だが、個々の賀状にペン書きしないので、すべて同じ文章で通すことになり、昨年まではかなり丁寧に近況などを綴ったが、今年は、
   「日本人の男性平均寿命は81.64歳、丁度少しオーバーしました。晴耕雨読の日々を、如何にして悠々自適で過して行けるか、これからの課題です。」とした。
   写真は、気の利いた花の絵をと思ったのだが、季節的に難しいので、何年か前に、大阪の国立文楽劇場の新春公演に行ったときに、JALの窓から撮った富士の写真を使うことにした。
   まだ、2~3日あるので、これで出すかどうか考えるが、
   まずまず、知人友人に、新年の挨拶は、伝えられると思っている。
   
   
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わが庭・・・日本スイセン咲き始める

2021年12月19日 | わが庭の歳時記
   気づかなかったのだが、木陰で、日本スイセンが咲き始めた。
   スイセンは、春の花だが、寒咲き日本スイセンなので、厳しい寒さが始まる頃に咲き始める凜とした草花である。
   群生だと見栄えがして素晴しいのであろうが、わが庭では、ところどころに、10株くらいが纏まって、数カ所に植わっている感じで、逆に、一茎一茎の可憐な花が愛おしい。
   日本スイセンは、寒さに十分当たらないと春に花が咲かない性質を持っているとかで、その分、暑さには弱くて、わが庭のように、陽当たりを避けて広がっているのは、その所為であろう。
   
   
   
   
   

   タマグリッターズが咲き続けている。
   シンプルではなく、派手派手しくてバターくさい感じはするが、私には、タマグループで一番気に入っている花で、鎌倉に移植してからは、玄関口のシンボルツリーの一本として存在感を示している。
   不規則と言えば不規則だが、蘂が花弁化するメカニズムがどうなっているのか、色形など花の姿の移り変わりを見ながら、自然の摂理の不思議さに感嘆し続けている。
   
   
   
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ポーリーン・ブラウン著「ハーバードの美意識を磨く授業: AIにはつくりえない「価値」を生み出すには」(1)

2021年12月17日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この本のタイトルは、Aesthetic Intelligence: How to Boost It and Use It in Business and Beyond
   ”美的知性、美意識(審美眼)のある知恵、美を理解できる能力を持った知性”、と言うことであろうか、
   ”ビジネス、更にそれを超えて、美的知性を如何に触発して活用するか”

   ビジネスで成功を収めるために、どのように美的知性を活用するのかを、
   「経営におけるアートとサイエンスの両極」をキャリアの中で経験してきた著者が、蘊蓄を傾けて説き起こした新しい経営学の本である。
   ドラッカーもミンツバーグも、経営はアートだと説いていたが、そのような経営学の理論の展開を超えて、具体的な成功事例やブレイクスルーした企業などのケースを克明に活写して実務に深く切り込んでおり、経営なりそれ以上の世界を、「美的知性 すなわち 第二のAI」を如何に縦横無尽に働かせて、活性化し発展させるかを論じていて、非常に面白い。
   数多の成功企業や失敗企業を例に挙げて展開されていたこれまでのMBAベースの経営学の戦術戦略論とは全く異なって、美意識、美的知性を主役に据えての経営戦略論であるから、とにかく、手に取るように説明が明瞭で興味深いのである。

   さて、まず最初に感じたトピックスは、本論とはやや外れるが、「インビジブル・デザイン」ということ。
   同じ原料から作られているリップスティックだが、多くの女性は、高級百貨店でシャネルのルージュ・アリュール・ヴェルヴェット(37ドル)を買って、何故、ウォルマートで販売するレブロンのスーパー・ラストラス・リップスティック(チェリー色、約6ドル)を買わないのか。
   材料のワックスの質は同じだし、赤の色調にもそう違いはないのに、値段は6倍も違う。
   シャネルの方が、つけ心地が良いからとか、長持ちするから、などと女性達はあれこれと理由を挙げるかも知れないが、本当のところは、高価なリップスティックを使っていることの喜びを感じ、美意識とプライドが満たされているからだと言う。
   シャネルのリップスティックのケースも魅力的で、筒型ケースは重みがあり、メタリックゴールドで、キャップの刻印されたダブルCのロゴが優美であり、購入すること自体がエレガントで、ハイレベルで、楽しい。レブロンのように、薄暗いドラッグストアで、不正開封防止機能付きのパッケージを陳列棚から取り、精算するためにイライラしながらレジの前で待つのとは全く違う。
   
   尤も、シャネルには、ブランドの哲学や美学を表すブランド特有の識別子、シャネルのシャネルたる「ブランドコード」があり、レブロンが逆立ちしても凌駕できないが、レブロンは、一個あたり数セント投資すれば、さえないパッケージデザインを一新し、リップスティックを小さなボックスに収めることが出来て魅力が増す。レブロンもドラッグストアも、どうすれば生産コストや小売価格を必ずしも上げることなく、製品の美的価値を上げ、売り上げを伸ばすことが出来るのか、シャネルから一寸でも学ぶべきだと著者は言う。

   もう一つこれと関連する戦略戦術は、高い付加価値のある体験を売る「スターバックス式解決法」というコモディティ商品に新風を吹き込む美意識に基づく方法である。
   独自性のあるわくわくする体験を生み出し、そして商品にまつわる内容豊かなストーリィを紡ぐ。スターバックスは、効率よりも「快適さ」を重視して内装をデザインして、ヨーロッパ式のノウハウと職人技を感じさせる「バリスタ」をカウンタースタッフとして育成し、従来型のコーヒーショップとの差別化を図った。家庭でもない職場や学校でもない「サードプレイス(第三の居場所)」を提供するコーヒーチェンを展開して、喫茶店など全くなくて、真面なコーヒーを外では容易に飲めなかったアメリカに新風を巻き起こし、紅茶文化のイギリスさえも席巻したのである。

   尤も、ドラッカーでさえ、スターバックスはイノベーションだと高く評価して、アメリカでは、一世を風靡したのだが、日本の高級な喫茶店やウィーンのカフェハウスを知っている人にとっては、何を戯言を言っているのかと言うことだが、
   例えば、イノベーションだと目されているQBハウスも欧米の散髪屋の「カットオンリー」の変形だし、ドトール・コーヒーの初期の止まり木スタイルは、ブラジルのバールの模倣であって、所変れば、新ビジネスはイノベーションになる。尤も、イノベーションとして事業化に成功するためには、魔の川・死の谷・ダーウィンの海と言う大難関を突破しなければならないので、大変ではある。

   さて、私が、ここで語りたかったのは、殆ど関係はないが、ガルブレイスの「「社会的バランス(social balance)」の問題で、
   私的に生産される財貨およびサービスの供給は、国家によるそれを大きく凌駕する、すなわち、私企業が生み出す財サービスは、潤沢な資金を使った宣伝広告によって、嫌でも購買を煽られてどんどん豊かになって行くが、人の嫌がる税金で賄われる公共財やサービスは貧弱。たったひとりしか乗らない乗用車が必要以上に豪華に高級化していくが、公園などは十分に維持管理されなくて汚い。と言うことで、
   良いか悪いかは別問題だが、人間心理を煽って需要を恣意的に誘導して拡大することが、果たして、人類にとって良いことなのかどうかと言う疑問を感じていると言うことである。
   
   蛇足ながら、片山元知事が糾弾していた鳥取の下請けでは800円で納品されているブラジャーが、中間マージンはともかく、1万5千円で売られていると言う現実から、別な意味でのシャネル効果というか、ブランドによるデザインの威力、美的知性の活用の有効性は、有効性として働いていると言うことを付記しておきたい。
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わが庭・・・椿:越の吹雪咲く

2021年12月15日 | わが庭の歳時記
   葉に特色のある珍しい椿は、葉の先端が金魚の尾のように枝分かれしたような金魚葉椿がポピュラーだが、葉に吹雪が散ったような模様の白い斑入りの椿越の吹雪も特色があって面白い。
   花は、侘助椿のような形の抱え咲きの小輪で、やや濃紅のシックな花姿が魅力的である。
   興味深いのは、ユキツバキなのであろうか、花弁を葉っぱが覆った状態で咲くので、開花しても気づかずに見過ごすことが多く、その奥ゆかしさも魅力であり、
   千葉の庭で大切に育てていた小磯に似ていて、気に入っている。
   
   
   

   実生苗で、白い花が咲いたのだが、どの椿の種であったか記憶はない。
   実生苗は、虫媒花で他の椿からの花粉で受粉するので、親と違った花が咲くのは普通なのだが、何かの拍子で、先祖返りしたのかも知れない。
   昨年、ピンク加茂本阿弥の実生苗で白い花が咲いたので、これは、本来の加茂本阿弥に先祖返りしたものと思っているのだが、わが庭には白い椿がないので面白いと思っている。
   タマグリッターズと三河雲龍が咲き続けている。
   正月までに、どんな椿が咲き始めるのか、楽しみである。
   
   
   
   
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国際郵便:カレンダーは印刷物では送れない

2021年12月14日 | 生活随想・趣味
    英国の友人とは、毎年、カレンダーを交換している。
   私は、能や狂言などの国立劇場関係のカレンダーを送っており、先方からはイギリスの田舎のカレンダーを送ってくる。
   さて、今回は、郵便局の窓口で、カレンダーが印刷物かどうかでトラブってしまった。

   イギリスのロイヤルメールだが、印刷物(PRINTED MATTER)の規定については、
   1848年に導入された「ブックポスト」がオリジンのようで、もともとは書籍専用で、中古の本を送付する規定であったが、その後緩和されて、1852年から、手紙が封じられていないこと、そしてパケットが検査を可能にするためにオープン状態であり、実質的に印刷された物質を送ることができるようになった。名称は、「ブックパケット」「ハーフペニーパケット」となり、今日は、「PRINTED MATTER」となっている。
   ロイヤルメールの規定では、確かに、カレンダーは規定の中に入っていない。規定の中で、 広告的な要素や商業など営利目的に関わるものを除外しようとしているので、カレンダーは、宣伝媒体に使用される可能性があるので、除外されているのであろう。
   どうせ、日本郵便の規定などは、文明開花時から見本であったロイヤルメールに右え倣えであるから、調べる必要もないのだが、やはり、精神は同じである。
   ところが、日本の規定では、カレンダーは、
   布地に印刷したもの(クリスマスカード・カレンダー)は許されている。何故、布と紙と違いがあるのか解らない。勿論、広告的な指摘もないので整合性不足だが、これは、経営知識の欠如・稚拙さであろう。

   さて、私の場合だが、毎年、カレンダーを郵便局から、印刷物として送っている。
   以前には、郵便局の係員がカレンダーなら印刷物だと推薦してくれたし、たまに聞かれるのはクリスマスカードが入っていませんかと言うことくらいであった。

   確かに、カレンダーには、企業などの発行分だと、広告宣伝臭が漂い営利目的要素が濃厚となる。
   しかし、私が今回送った卓上カレンダーは、コロナで国立能楽堂へは行けていないので、プロの撮影した花の写真の個人的カレンダーで、全く普通の本や雑誌と同じ無味無臭の印刷物である。
   たった一本の個人的なカレンダー送付を、規則違反だから許せないというのは、御上の日本郵便体質そのものである。
   ほんの数百円の追加出費を問題にしているのではなく、高飛車に規則違反を告げてイチャモンを付ける役所体質の対応が気になったので、多少、窓口でギクシャクしたのである。
   数ヶ月前に、特定局しか受け付けられないということなので、わざわざ、内容証明郵便を出すために地域の本局まで出かけていったのだが、字数が多いとか文章が様式に合っていないだとかと言われて拒絶された嫌な思い出が蘇ってきた。事前に、電話で指導を仰いで処理したつもりだったが、そんな規則については一言も言われなかった。
   
   今回引っかかったのは、「PRINTED MATTER」と書かずに、「CALENDAR」と表書きしたからであろうか。
   しかし、イギリスに着いてしまえばどっちでも良いことで、日本の局が認めるか認めないかの問題だと思うのだが、係員はきつい通達があったのだという。
   どんなカレンダーか執拗に聞き、印刷物なら開いて中身を見るというので、開けてくれと応えた。
   どうせ、料金が少しは高くなるのであろうが、送るために郵便局に持ち込んだのであるから、どっちでも良いから差額は払うので送ってくれと頼んだ。

   もう一つ、引っかかったのは、クリスマスカードで、規定の25gを1gオーバーして26gであったので、グリーティングカード発送は出来ないと言う。全く同じ形態のカードで模様違いなだけで、去年までOKだったのに何故今年はダメなのか、計量ミスだと言おうとしたが、もう、馬鹿らしいので止めた。
   どっちでも送れたら良いので、両方とも、書状定形外航空便として送ることになった。
   わずか500円程度の追加出費で済むことで、嫌な思いをしただけだったのだが、これが、今の郵便局。
   かって、ヤマト運輸の小倉昌男社長が言っていたが、ヤマトの方が郵便局よりもはるかに効率がよいはずで、民営化しても埓が開かず、制度疲労を起して問題の多い郵便局と競わせて改革するために、ヤマトに郵便局と同等のライセンスを与えてはどうであろうか、その方が日本のためになると、たわいもないことを考えてしまった。
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わが庭・・・椿タマグリッターズ咲く

2021年12月12日 | わが庭の歳時記
   玉之浦の交配種タマグリッターズが咲き始めた。
   千葉から移植した苗木で、一番大きくなった椿で、例年ならもう少し早く咲き始めるのだが、今年は花数もやや控えめで温和しい感じである。

   ヌチオズナーセリーで作出された米国生まれの園芸品種で、八重咲きで、花弁と雄蘂が絡み合った牡丹咲きが普通だが、一本の木に色々な形の花が咲いて、非常に面白い。
   今回、最初に咲きはじめた花は、非常にシンプルで、八重咲きだが、蘂が中央に集中した一寸先祖返りに近い花姿で、繊細さが影を潜めて剛直な感じなのが面白い。
   先に咲いていたタマアリアケと比べると、白い覆輪が温和しい。
   
   
   
   
   
   

   長年、椿を愛でて、育ててきたので、実生苗や挿し木程度はやるのだが、接木や交配をした経験はないしやる根気もない。
   挿し木は、貴重な椿のクローンで個体を増やすことであり、実生苗は、親木と違った変った苗木が生まれるので、それぞれに楽しみはあるのだが、やはり、根気と長い期間が必用な世話を要することは無理で、残念ながら、これで終りそうである。

   綺麗に成熟した夏ミカン。
   椿。
   木の幹を這うツタの紅葉。
   まだ、漂う秋の気配。
   
   
   
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わが庭、緑陰での読書の楽しみ

2021年12月10日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   晩秋というか、初冬というか、師走に入っての緑陰での読書というのもおかしいのだが、私は、今でも、天気が良くて風が穏やかで暖かい日には、弱い陽の照る庭に出て、テーブルに本を広げて読書を楽しんでいる。
   多少寒いけれど、一寸したダウンのコートを羽織る程度で良いのである。
   本を読むのは、書斎でも和室でもリビングでも何処でもかまわないのだが、歳の所為もあって目のためにも明るいところの方が良いし、それに、オープンで気持ちが和むので、意識して外に出ることにしている。
   今日、持ち出したのは読み終わったタミム・アンサーリー の「世界史の発明 」で、飛ばし読みしながら面白いところを反芻しようと思ったのである。従って、ウィリアム・H・マクニールなどの世界史関係の本や地図や年表などを一緒に広げた。
   この本は、易しく書いた世界通史なのだが、言うならば、殆どくまなく世界の歴史を語り尽くそうとしているので、簡略化も良いところで説明不十分であり、逆に、世界史に相当通じた読者でないと解りにくいし楽しめないと言う不思議な本である。
   普段は、手に取っても取らなくても、全く関係のない本を複数持ち出して、並行読みしているのだが、それは、全くその日の気分次第である。
   しかし、場所によって読む本を代える気持ちはなく、何処でも同じで、読み続けている本は、このブログでレビューしているような無味乾燥な本が大半である。

   さて、戸外での読書のメリットだが、特に意識しているわけではないのだが、自然環境の中で、直に空気に触れて天気の移り変わりを感じていると、気分的に壮快なのである。森林の中のレストランで食事を楽しんだり、気持ちの良い庭園に臨んだ喫茶店で憩っているときの心境と同じであろうか。
   それに、私の場合は、私好みの花木を庭に植えて、何らかの花を絶やさなくするなど自分で作り出した空間であり、それに、日々その生長や変化を見続けているので、他人感覚ではないのである。
   最近は、寒さの所為で少なくなってしまったが、小鳥や小さな昆虫たちが時折訪れてきては、花木をはしごするのを感じて楽しい。
   今日も、メジロのツガイが飛んできて、椿の花びらを落とした。遠かったので写りが悪いが、上の椿にメジロが止まっている。
   

   秋から冬が深くなってくると、落葉樹が殆ど葉を落として、私の庭では、ヤマボウシ、アメリカハナミズキ、梅が大きな木で庭を覆っているので、一気に陽当たりが良くなって明るくなるので、風がなければぽかぽかと暖かくなる。
   春が近づくと、一斉に花が咲き始めるので賑やかになるが、真冬のように色彩が単純になって寂しくなっても、椿の花など、わずか数輪の花でも咲いていると、何となく華やぐ感じで、無性に愛しくなる。
   モミジなど、ほんの束の間ではあるが、一気に散り去るまで、晩秋の名残を告げてくれる。
   色付いた万両が小鳥を誘う。
   
   
   
   
   
   
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晩秋の紅葉に遠き友をおもう

2021年12月08日 | 生活随想・趣味
   わが庭のモミジ獅子頭が綺麗に紅葉を始めている。
   大分前、千葉にいたとき、小さな苗木を園芸店で買ってきて育てていたら、真っ赤に燃えるように美しく咲いた年があり感激したことがあって、ずっと大切に育てている。
   その後買った新しい苗木を加えて、2本の獅子頭が、わが庭に植わっていて、楽しませてくれているが、年によって気象条件が異なり、鎌倉に移植してからは、あまり、綺麗に紅葉したことがない。まだ、鮮やかな真っ赤にはなっておらず、雨の中なので輝きがない写真だが、今年は、まずまずであった。
   
   
   

   これまで、紅葉の季節になると、いそいそと京都や奈良の古社寺など紅葉の名所などに出かけていたのだが、歳の所為か億劫になってきて、それに、鎌倉の紅葉で美しいと思って感激した記憶もそれ程ないので、出かけるのを止めて、小宇宙としてのわが庭のモミジを見続けている。
   京都や奈良へは、学生の頃から随分あっちこっちを歩いてきたが、何故か、今でも一番強烈に印象に残っているのは、宇治川河畔のモミジで、桜なら京都醍醐の三宝院の枝垂れ桜である。
   講義が早く終ると、吉田山から銀閣に出て、哲学の道を歩いて永観堂から南禅寺・・・
   早いと、大原まで足を伸ばしたたり、逆に、帰途、桂で乗り換えて、嵐山や嵯峨野へ

   若い頃、古社寺散策や四季の自然を味わう旅歩きは、殆ど一人で通していたが、仕事が多忙になり始めた熟年に入ってからは、京都や奈良へは、親友達との出逢いを兼ねて出かけることが多くなった。
   私自身が、関東に拠点を移して、それに、海外生活が多くなって、関西へ行く機会が減ったこともあるのだが、それだけ、京都や奈良歩きが貴重になってきたことにも依る。
   奈良には、奈良に生まれ育って奈良なら何でも知っているという学友がいて、奈良には結構訪れている私にとっても珍しいような所へ、あっちこっち連れて行ってくれて随分素晴しい経験をさせて貰った。
   京都や宇治は、学生時代を4年間、京都でそれぞれの生活を送ってきてよく知っているので、阿吽の呼吸で歩いたのだが、学生時代とは違った楽しさがあった。
   京都で生まれ育った親友は、東京で多忙であったので、京都へは、名古屋に住んでいる学友を誘うことが多かった。

   しかし、その京都や奈良を一緒に歩いた親友達も、後期高齢者になり始めた頃から、何らかの体調の不良を来していて、「さあ、今度の土曜日、室生寺へでも行こうか」と言うことが出来なくなってしまった。
   まだ、少しは元気な私が、近いうちに、名古屋や奈良を訪れることになっている。
   気の遠くなるような静寂に包まれた晩秋の庭に出て、しみじみと楽しかった友との古社寺散策を思い出している。
   
   
   
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