熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

2000キロを渡る蝶・アサギマダラ

2007年04月30日 | 地球温暖化・環境問題
   春たけなわ、私の庭にも蝶が舞い始めた。
   蝶の喜びそうな花は咲いていないので、また、ひらひらと飛び去って行くのだが、それらしき木があるので卵でも産み付けるのかも知れない。
   昨年8月に、NHKのクローズアップ現代で、日本列島を東西南北に2000キロメートル以上も渡る蝶がいると言って詳しく報道していた。
   このブログでも触れたが、この口絵の写真の翅を広げると19センチメートル程度のアサギマダラと言う蝶である。

   最新のナショナル・ジオグラフィック5月号に、「海を渡る蝶アサギマダラ」と言う記事が載っている。
   この蝶を見つけた人は、蝶の翅に、見つけた場所や日付をマーキングするので、アサギマダラの途轍もない渡りの実態が分かるのである。
   南遥か南西諸島で生まれた蝶が、沖縄、日本列島を越えて、サハリンまで渡ったのが記録されていると言うから驚きである。
   この記事に、アサギマダラの写真が載っていて、翅に書き込まれたナガノ、アシズリと言う字が読み取れる。長野から足摺岬まで旅をしたことだけは、紛れもない事実であろう。

   蝶の飛翔を見ていて、人間の歩く早さより早く飛んで移動して行くのは分かるのだが、それにしても、あの小さい身体で2000キロメートルと言うのは大変な距離であり、生命力の凄さに恐れ入る。
   エネルギー効率だけ考えても、今の化石燃料に依存している人間世界の効率の悪さに愕然とせざるを得ないが、逆に、イノベーションによって、人間のエネルギー効率のアップは、まだまだ、無限にあると言うことであろうと慰めを感じている。

   昔、「人の言うことを聞かない男と地図が読めない女」とか何とか言った本が売れていたように、人間には方向音痴が結構多いのだが、アサギマダラの場合には、本州から沖縄の南大東島まで1000キロメートル飛んだ蝶が4例記録されているという。
   全く、途中に立ち寄るべき島もないのにどのようにして飛び切ったのか。
   NHKのテレビでは、大海原に死んだように浮かんでいたアサギマダラが、急に飛び立つのを放映していたが、例え、水の上に浮かんで小休止出来る能力を持っていたとしても、大荒れに海が時化る時もあろうし、何日も安全に飛び続けられるとは限らない。
   都合よく南大東島に向かう船がある筈もないし、ジグザグに移動しても、島と島の間の距離は大変なものであろうし、大体、どうして方向を察知するのか。
   あの小さな燕でさえ渡りの神秘さに驚かざるを得ないのだが、ほんの吹けば吹っ飛ぶような紙のようなアサギマダラの強靭さに脱帽せざるを得ない。

   アサギマダラは、何故、亜熱帯の南西諸島から亜寒帯のサハリンまで、気の遠くなるような遠距離を渡るのか。
   人間のように観光旅行や見聞を広める為に旅をする筈がないから、当然、生きる為、子孫を残す為に渡って行くのである。
   アサギマダラ自身は、遠い祖先から受け継いで来た運命であり、体内に埋め込まれたDNAであるから、この渡りの艱難辛苦を何の苦とも思っていないかも知れない。
   しかし、大切なことは、このような多くの生き物達が必死になって生きることによって我々の宇宙船地球号が成り立っていると言うことである。
   人権が大切だと人々は叫ぶが、この地球は、生きもの総ての地球であって、その総ての生き物が共存共栄しながら成り立っているエコシステムなのである。
   生きとし生けるもの総てが、生きる権利を持っている筈の、この均衡を保って息づいている地球のエコシステムを、無謀にも人間は破壊しつつある。
   たとえアミーバのような単細胞の生き物でも、一度破壊されて死滅すると永遠に再生不可能か、或いは、可能であっても、その為には悠久の時間を必要とする。

   生きとし生けるもの、生きる為に食べ、子孫を残す為に恋をする。
   アサキマダラも、人間も少しも変わらないが、人間には智恵があるばかりに、自分の力を過信して、この地球が、そして、自然が、自分たちのためだけにあるものと錯覚している。自滅の道を歩みつつあるのも意識せずに。
   友を求めて囀る小鳥達を、そして、花から花へと無心に飛び交う蝶を見ていると、その神秘さに感動して、ついそんなことを考えてしまう。
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庭は北向きが良い(?)

2007年04月29日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   私の家の庭は、建物の西南西方向にあって、リビングルームには、10時過ぎから日が差しはじめて夕方まで日が当たる。
   隣接して隣家が立っているので、3間くらい離れてはいるが、南側の空間は、植木2本程度の巾の狭い細長い緑地しか取れない。
   しかし、天気の良い日に、朝起きてリビングから眺める庭は、太陽の光をまともに受けて木々が輝いていて非常に美しいのである。
   これを見ていて思うのは、日本の住宅の庭は、どちらかと言えば日当たりを良くするために、南側の空間を広く取って建物の南側に庭を造ることが多いが、本当は、その逆に、北向きの庭を造る方が鑑賞目的の庭に適しているのではないかと言うことである。

   木々や花々は、殆ど南側の太陽の方角に向かって生育し花を咲かせると言う。
   フランスの田舎を車で走っていて素晴らしいひまわり畑の光景に感激したことがあるが、まさにサンフラワーで、花は総て南側に向かって咲いていて、方向を変えると様相が一変してしまう。
   あまり気付いていなくても、植物の一番美しい姿は、太陽を背にして見ないと見られないと言うことである。
   建物の北側に庭を造って木々を植えれば、木々にとっても日当たりの良い南側に広い空間が取れるので好都合であろう。

   もっとも、北向きの庭が良いと自分が思っても、一般の通念が南向きの庭を想定している以上、余程敷地に余裕がない限り、隣家に文句を言われるのがおちであり実現は不可能であろう。

   また、一方では、日本には、家を建てる時に、中国4000年の歴史とかで風水学が重要な位置を占めているので、これで建物の配置などが決まってしまう。
   風水については知識が全くないので、庭がどうなるのかなど何とも言えないが、昔、ブラジルに居た時に、日系移民の方から、「日本の風水を使って家を建てたらえらいことになりましたわ」と聞いた事がある。
   どんなことかは詳しく聞かなかったが、どうもブラジルは地球の南半球にあるので、南と北が反対だったと言うことらしかったように覚えている。
   
   ところで、ガーデニング好き、庭好きのイギリス人の場合であるが、イギリス人は、太陽の方向にあんまり執着していないようである。
   日本では陽がどれだけ当たるかと言う日照権が問題となるが、イギリスでは、rights of light, 光権と言うのであろうか、建物の窓から遮られずにどれだけ空を見ることが出来るのかと言う権利で、空が見える空間が規定の範囲をクリア出来ておれば、太陽が当たろうと、北を向いていようと、方角には一切関係がない。
   冷暖房は、といっても、今でもそうだと思うが一般家庭には冷房がない筈なので、暖房は暖房器具で取るべきで日当たりなど関係ないと言うことである。
   大体、イギリスの冬は、殆ど毎日リア王の世界で、天気の良い日など殆どないので、日中は陽の光よりも明るさが最大の問題なのである。

   話が脇道にそれてしまったが、今、野山も新緑が萌え出でて、緑の微妙な変化が本当に美しい。
   最初に、庭は、北向きにして太陽を背にして順光線で見るのが美しいと言ったが、しかし、逆行で見る木々の移り行く姿を見るのも実に美しく、写真に撮るならこの方が味がある。
   私の庭は、幸い西南西なので、時間の移動で両方楽しめるのだが、何れにしろ、一日中見ているわけでもないので、不定期に見るのなら、北向きの庭の方が何時も順光線の日当たりの良い庭を見ることが出来るので、この方が良いということである。

(追記)写真は、今満開の庭のこでまりの花。
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エジソンの電球・・・システムとしてのイノベーション

2007年04月28日 | イノベーションと経営
   発明家エジソンは、電球開発で有名だが、以前にスミソニアン博物館を訪れた時に、彼がその電球のフィラメントに使った日本の竹が展示されていたのを実際に見て感激した記憶がある。
   当時の灯りは、ガス、ローソク、灯油、鯨油などで取っていたが、ガス会社が隆盛を極めていた。
   しかし、1878年に、エジソンは、アーク灯を開発していたウイリアム・ウォレスの仕事場を訪れて、8個の電球が、夫々4000本の蝋燭に匹敵する明るさで同時に光り輝いているのを見て商機来たりと非常に喜んだという。
   アーク灯は、自家発電機が必要で、二つの電極の間を連続的に電気のアークが飛び交って凄まじい明るさの光を出すのだが、電極がすぐに燃え尽きてしまうので頻繁に取り替えなければならなかった。
   遅ればせながら、ここからエジソンの電球開発が始まったのである。

   しかし、J.M.アッターバックは、著書「イノベーション・ダイナミックス」の中で、エジソンが電球と言う狭い概念ではなく、電灯と言うもっと幅広いシステムとしての開発を目指していたことに注目している。
   エジソンの意識にあったのは、電灯がガス灯に取って代わるためには、ガスがやっているすべてのことをそっくりそのまま真似をしなければならないと言う考えであった。
   従って、電球を作るだけではなく、効果的な発電、送電、分電、ソケット、ヒューズ、それらを固定する台など総てを創り出すことが必要だったのである。
   大型電灯が成功すれば必要になるので、改良を加えて効率90%の発電機を製作したり、高価な銅線を節約する為に、電圧を上げて送電する方法なども考案した。

   革新的なイノベーションの持つ重要なポイントだが、駆逐されて消えて行かざるを得ない古い製品や技術、この場合は、ガス灯だが、新技術に対する抵抗は激しい。
   エジソンが新製品を発表した日、ガス灯会社の代表が電線を持ち込んで供給回路の両端につないで電気をショートさせて妨害した。
   しかし、安全なヒューズや、小グループの電球が別々に作動するシステムが開発されていたのを知らずにやったので、消えた電球は4個だけで、犯人は取り押さえられたと言う。

   エジソンは、開発した電灯システムを、最初の商品として、1880年5月に、蒸気船コロンビア号に取り付けた。
   エジソン自ら、発電機と電線、115個の電球を監督して取り付けた。
   炎も煙も出ない明かりに光り輝く煌びやかな外観を残して、コロンビア号はデラウエア湾を外界に出て南下し、ホーン岬を経てサンフランシスコに向かって処女航海したという。
   
   続いて、ニューヨークの石版印刷工場を皮切りに、発展期にある団体など正に社会の主導者達と言うべき人達に、このシステムを販売して行った。
   シカゴ音楽アカデミー、パマー・ハウス・ホテル、英国下院、パリのボン・マルシェ百貨店、ミラノ・スカラ座等々顧客がドンドン広がって行き、ニューヨークのマンハッタンを輝かせるために事務所を移転までしたのである。
   これらの成功が効を奏して、工場や事務所、店舗や家庭にと、エジソンの電灯システムは売れに売れたのである。

   もう一つ、アッターバックが紹介したシステムでのイノベーションの例は、昨日のブログで論じたジョージ・イーストマンのイーストマン・コダック社の写真に関するシステム開発である。
   写真フィルムの開発だけではなく、カメラ、引き伸ばし機、印画紙、その他写真関連の色々な資機材などを同時に開発して、写真を安価に誰でも写せるようにシステムとして開発改良して、写真を大衆化したのである。
   勿論、エジソンも、映写機の開発に当たって、映画写真フィルムに関してイーストマンの助力を仰いだのは当然である。
   
   ところで、これまでに何度も書いているが、このシステム開発の発想でビジネス戦略を打つ日本企業が非常に少ないのである。
   今度の松下電器の中村改革で、システムとしての商品開発がテーマに上がっているが、いずれにしても、日本企業の場合、サービスやソフトと関連したシステム開発が非常に少ない。
   革新的な素晴らしい製品や部品を作り出すが、使い方は自分で勝手に考えてくれと言って、顧客や消費者に投げてしまう手法である。

   今回、ソニーの好調について書いた日経の記事で、最近ソニー映画で、ソニー製品を映し出すケースが多くなったので宣伝効果が上がっていると書いてあったが、大体遅すぎるのであって、ソニーなどあれだけ豊かな経営資源を持ちながら相乗効果の活用もシステムアプローチも非常に貧弱なのである。
   ソニーミュージックを守るための慮りがアップルのiPodに負けた一因と言うのなどは、新技術の導入時には当然発生する現象であり、戦略がなかっただけである。
   大体、知財の保護など、ソニー自身がテープレコーダーを開発した時点で、既に、コピーされるものだと言うことが分かっている筈なのである。

もう一つ、今、PASMOの登場で電子マネーが一挙に脚光を浴びているが、これなど、ソニーが、Felicaの開発時点で、活用方法を含めてシステム展開をしておれば、Felicity(至福)間違いなしだった筈なのに、今では、タダの部品メーカーに成り下がって、利益の大半は、持って行かれてしまっている。
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フィルムとカメラのイノベーション・・・J.M.アッターバック

2007年04月27日 | イノベーションと経営
   写真は、1839年に、フランス人ダゲールが、銀化合物を塗った銅版上に像を記録したダゲレオタイプが始まりだと言う。
   この銅版が、1850年代にガラス板に変わってコロジオン湿板写真となったのだが、撮影に時間がかかることと白黒だと言う以外は、写真の質はこの当時でも既に現在と変わらなくなっている。
   しかし、撮影直前に湿板を作成しすぐに現像を行わなければならないので、南北戦争の従軍カメラマンは、幌馬車様の巨大な装置を激しい戦場を引き回して撮影しなければならなかったと言われている。しかし、この時の記録写真が貴重な歴史の証言者となったのである。
   とにかく、今日のデジカメや携帯を考えると正に今昔の感である。

   1994年に出版されたJ.M.アッターバックの「イノベーション/ダイナミックス Mastering the Dynamics of Innovation」と言う経営学書だが、最近流行の現在のIT関連の難しい技術のイノベーションを扱うのではなく、オールドエコノミー、それも、歴史の古いローテクに近い産業を例示しながら書かれていて非常に分かりやすくて面白い。
   冒頭は、タイプライターの変遷で、ワープロからパソコンまでのイノベーションを取り上げて、新製品の出現から製品イノベーションと工程イノベーションの推移の中で決定版と言うべきドミナント・デザインに到達し、また、新製品が生まれ出るとこの過程を繰り返して展開して行く様子を克明に分析している。
   テレビとブラウン管、集積回路、自動車産業、電球と電気、板ガラス、レーヨン、製氷と冷蔵庫、等々多岐に亘っているが、私にとって一番身近に感じたのは、フィルムとカメラの分野のイノベーションであった。

   アマチュア写真家のジョージ・イーストマンが、乾板と言うイノベーションに興味を持って、イーストマン・コダック会社の前身を設立して、乾板を全国市場へ向けて大規模生産するための一貫工場を作った。
   イーストマンの偉いところは、他の多くの競合他社と違って、工程の改良と生産能力を、他の写真関連製品であるカメラ、引き伸ばし機、印画紙、写真関連資材へと幅広くシステムとして開発を続けたことである。
   当時、ゼラチン感光乳剤をガラス板に塗布して湿板が乾板に変わっていたが、さらに、感光剤を塗布した紙を使った巻きフィルムシステムを導入し、この紙を新しく使用可能となったセルロイドに置き換えた。
   
   セルロイド板の導入によって薄いフィルムが製造可能となると同時に、イーストマン達は、このフィルム専用の安くて簡単なコダック(Kodak)カメラを開発した。1888年のことである。
   アマチュア写真家は、シャッターレバーを引き上げ、フィルムを巻き、シャッターを押す3動作だけで写真が写せるようになったのであるから、写真がプロカメラマンの世界から一挙に大衆化し始めた。
   面子に賭けてもカラーフィルムはコダックが開発すると言う意気込みでイノベーションを追求し続けてきたコダックだが、コモデティ化していたにも拘わらず、フィルム産業の世界をごく最近まで押さえ続けてきた。

   しかし、面白いのはカメラの世界で、大量生産で大衆化を図ったフォードのT型車と同じで、少量生産で高価なドイツ製品を凌駕したが、その後は、この世界はメカニックに抜群の実力を持つドイツ・カメラに、そして、その後イノベーションを追及した日本のカメラの後塵を拝することになった。

   このアッターバックの書物は、1993年時点での著作なので、デジカメについては、写真ではアウトサイダーであるソニーの盛田社長が、1989年にマビカを発表して、デジタル電子技術を使って画像を再生する新システムを導入したことに触れて、新しいイノベーションの到来を語るだけに終わっている。
   
   このデジカメによるイノベーションによって、カメラがパソコンの周辺機器に成り下がり、フィルム産業が壊滅的な打撃を受けると同時に、カメラ専業メーカーが後退して、ソニーやパナソニックなどのコンシューマー・エレクトロニクス企業が前面に出て日進月歩の技術競争でしのぎを削っている。

   私は、もう何十年も写真遍歴を続けていて、大衆化し始めたカラーフィルムを使い始めた頃を覚えているが、その大半は殆どイノベーションのなかった銀塩フィルムカメラ時代であった。
   フィルムについては、感度が良くなったりカラーの色が良くなったり質が向上した程度であろうか。
   カメラについては、オートフォーカス、自動露出、など自動化が進んだが、多少手間を覚悟すれば、古い骨董のカメラでも立派に写真が撮れたし、その方が何となく味があった。

   ところが、デジカメ時代に入ると様変わりで、私自身、写真についてはカメラ店を使わずに、一切パソコンとプリンター相手に自分で好きなように楽しんでいる。
   本当は義理もあり良いカメラである筈のキヤノンを使わなければならないのだが、とにかく、安くて小さくて、手ブレ補正付きでまずまずのスペックのカメラと言う私のニーズに合ったので、今は、とりあえず、口絵写真のニコンのCOOLPIXを使っている。
   露出優先機能を使って、レンズ開放で使用しているが、如何せん小型なのでボケ味を十分に楽しめないのが残念だが、これはキヤノンの一眼レフで楽しんでいる。
   
   
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エタノール混合ガソリン・・・農産物価格高騰が最貧国直撃

2007年04月26日 | 政治・経済・社会
   再生可能な代替燃料としてのエタノールが、フランスから輸入されて、今日からこれをを3%混ぜた混合ガソリンが販売された。
   石油資源の保全と二酸化炭素の排出量の削減の為に止むを得ない選択だと言うことだが、まだ、生産コストが高いので、政府と業界の補助で石油ガソリンと同じ価格に維持されるのだと言う。 
   しかし、代替エネルギーとしてのバイオ燃料については、原料であるトウモロコシや小麦などの食料との資源争奪戦が発生し、人類史上更に深刻な問題を引き起こす心配がある。

   環境問題の世界的権威レスター・ブラウンが、早くから、穀物の確保を巡って、スーパーとガソリン・スタンドが熾烈な争奪戦を戦っていると警告していたが、先日、オレンジジュースの値上がりのニュースが流れて、これが現実のものとなった。
   ブラジル一国だけが先行していた頃は、問題はなかったが、欧米がバイオ燃料生産に傾斜し始めると、当然、農産物の増産余力が限られているので、本来食料や飼料に回っていた小麦やトウモロコシがエタノール原料に転用されるので価格が高騰する。
   それと同時に、他の農産物を作っていた農場がエタノールなどのバイオ燃料用の小麦やトウモロコシ生産用に転用される。
   作付面積が減れば当然影響を受けて、今回のように果物や野菜など他の農産物の価格も高騰し、飼料の価格が高騰すれば、当然、牛や鶏の肉、牛乳、鶏卵等々酪農製品の価格が上がって、それらを原料とする工業製品の価格アップに連鎖的に波及してくる。
   (もっとも、遺伝子組み換え農産物に早急に切り替えて増産するという方法もあるが、間に合わないであろうし、この選択をすれば人類破滅への劇薬になるかも知れない。)

   更に、悪いことは、ブラジルなどの熱帯雨林などが、アメリカの大企業が乗り込んできてドンドン破壊して農地に転用しており、異常な速度で環境破壊を加速化させている。
   最近、BRIC’sの台頭で食料需要が急速に伸びて、世界中の緑地が切り倒されて畑地に転用されて砂漠化を促進しており、水資源の枯渇と言う深刻な問題を惹起している。
   
   私が最も憂慮するのは、食料価格の高騰が、最貧国等発展途上国の人々の生活を直撃することである。
   ただでさえ、食糧難で生命線ぎりぎりで生活するか、餓死しか選択肢のない難民や最貧国の国民を、更に窮地に追い込むこととなる。
   地球を酷使しエコシステムを破壊し環境問題を深刻化させたのは、総て、先進国であり、更に、貧しい世界の民の生活を脅かす暴挙など許される訳がないし、断じてあってはならないと思う。

   無知と暴論を承知で言うならば、まず、自動車をハイブリッドカーや燃料電池カーなどを早急にデファクト・スタンダードにして化石燃料から極力解放することである。
   トヨタは、世界最高の会社の一つであることは誰も疑わないし、その素晴らしい経営力についても世界中の羨望の的だが、しかし、必要悪だとは言え、二酸化炭素を排出して走っている車を大量に生産して販売しており、世界でも有数の地球温暖化への貢献者であることも紛れもない事実である。
   一兆円も利益を上げてどうするのか。
   トヨタの実力をして、この利益の一部を活用して真剣に取り組めば、ガソリン・フリーの車を早急に開発してグローバルスタンダードにすることなど、そんなに難しいことではない筈である。
   これこそ、真のイノベーションであり、トヨタにしか出来ない人類歴史への最後の貢献であると思うのだがどうであろうか。
   イノベーション、イノベーションと猫も杓子も唱えているが、これほど真に価値あるイノベーションは皆無であろう。

   何かの警告と同じ様に、
   「警告:自動車は、地球環境に害を及ぼしますので、使いすぎに注意しましょう。」
   悲しいかな、そんな時代になってしまった。
   もう、地球破滅の足音がそこまで聞えて来ており、待ったなしなのである。
   

   
   
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JRのエキナカ・ビジネス・・・キヨスクの閉店

2007年04月25日 | 経営・ビジネス
   NHKの日曜番組で、JR駅のキヨスク(キオスクに変更予定)が最近閉店している所が多くなったと報道していた。
   JRは、商品知識に精通していたベテランの販売員を、コスト削減のために、IT技術を導入してバーコードを読み取れば良いだけのアルバイト店員に置き換えようとした。
   ところが、景気の回復とキツイ業務に人気がなくてアルバイトが集まらず、早期希望退職で辞めさせた店員の補充が効かないので、やむを得ず閉店せざるを得ないのだと言う。

   この問題は、経済社会の急速な変化とビジネスモデルの変革を求める経営環境の激変を物語っていて、非常に示唆に富む話題を提供している。
   エキナカ・ビジネスに開眼したJRの経営戦略の推進には目を見張るべきものがあるが、商業ビジネスについては、経験が少ないので、今後更にどのような展開をして行くのかと言う視点からの、キヨスクの見直しが大切であろう。
   
   今回の問題の一つは、労働市場に対する見方である。
   まず最初に、これまでは、中年のベテラン女性がキヨスクの店員をしていて、あの僅かに一坪くらいの店内にある沢山の商品については、価格は勿論十二分に商品知識を持っていて、即座に客の要求に対応していた。
   しかし、最近のコンビにもスーパーもそうだが、価格計算についてはバーコードを機械で擦れば完結するし、Suicaを使えばもっと楽で、それにポスシステムなので、商品の補充など品揃えは自動的に行われ、殆ど苦労を要することなく素人のアルバイトでも仕事が出来るようになった。

   景気の回復で、新卒等若年労働が、既に相当前から逼迫し始めて来ており、一人勤務での結構きつい単純労働となったキヨスクに対してアルバイトが魅力を感じて転職してくると考えたJRの脳天気ぶりと言うか、時代認識の甘さなど、まだ、お役所気分の延長であろうか。
   大体、IT手法を活用して人件費の固定費から変動費への転換を企図するなら、5年以上も現実の経済社会の動きから遅れている。
   仕方なく、この口絵の求人広告のように、月給制にして契約社員を募集するようになったようだが、キヨスク単独で雇用形態を維持するのは無理であろうと思う。
   私は、エキナカ・ビジネスのスタッフとして従業員を雇用してローテーションでキヨスクを担当する方法が適当ではないかと思っている。
   このキヨスク店員が、列車案内など他のサービスを提供するなど業務範囲を拡大するならイザ知らず、バーコードをなどる程度の仕事だけなら、ビジネス論理上ワーキングプアー待遇しか与えられない筈だからである。

   ところで、話は飛ぶが、
   エキナカ・ビジネスについては、片山治著「イノベーション企業の研究」の中で、JR東日本の大塚社長が、経営戦略を交えて、その推移などを語っていて興味深い。
   民営化後、試行錯誤の努力の結果、現在では、駅を舞台にした商業など非鉄道部門の売上高が3割を占めるようになっている。
   2005年に発表した中期経営構想「ニューフロンティア2008」では、「駅と鉄道」と並列させて、駅は鉄道の一部ではなくて、駅は鉄道と同様の大きな経営資源であり、重要なビジネスの場であると言う方針を打ち出したと言うのである。

   このブログでも触れているが、民営化でJRが国鉄から引き継いだ最大の資産は、交通至便の一等地に事業所を持ち、集客する努力を一切しなくても、わんさと自分で勝手に集まってくる膨大な消費者を、一網打尽にして商売が出来るビジネス・チャンスなのである。
   正に、そのビジネス拠点が、駅なのであるから、その意味では、先の中期経営構想は的を得ているのだが、これを場所としての駅と言う捉え方をするのではなく、JRの持つ経営資源をフル活用して事業展開するためのビジネスの場として考えることが大切であろう。

   JRとして何を売り物にしてどのようなビジネスを展開すれば良いのか、鉄道産業と言う先入観を離れて、全く自由な発想で戦略・戦術を打てば、エキナカ・ビジネスなど当然に出てくる事業だが、まだまだ、もっと大きな膨大なビジネスの種とチャンスがある筈である。
   Suicaなどは、既に鉄道事業としてのJRの事業から独立して大きく飛躍しようとしているが、「JRは、元は鉄道会社であった」と言う時代もそんなに遠くないかも知れない。
   JRが民営化で得た重要な資産は、集客する努力なしに集まってくる膨大な消費者であること、そして、その資産をビジネス・チャンスとして活用出来るかどうかが、JRの経営の根幹であることを理解することが大切だと思う。
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「ホーム・エクスチェンジ」のラブ・ストーリィ・・・「ホリディ」

2007年04月24日 | 映画
   短期間だけ自宅を解放して旅に出る、そんな新しいタイプの旅行スタイルが欧米で流行りだしたと言う、「ホーム・エクスチェンジ」である。
   自宅も車もそっくり他人に任せて、自分もその相手の家も車も総て借り受ける「ホーム・エクスチェンジ」であるから、交通費などは別として、滞在費も殆ど必要としないので安上がりの上に、即日、そのまま自宅と同じ生活が開始出来て休暇を楽しむことが出来る。
   恋に破れて傷心した二人の30代の良い女、一人はロサンゼルスの豪邸に住む映画の予告編製作会社社長のアマンダ(キャメロン・ディアス)で、もう一人はロンドン郊外のシックな田舎家に住む新聞記者アイリス(ケイト・ウインスレッド)が、パソコンをたたいてグーグルのサイトからお互いの家を見つけて、心機一転・心を癒す為に旅に立つ。
   素晴らしい二人の女性が繰り広げる新天地でのラブ・ストーリィなのだが、ほのぼのとしたこの映画「ホリディ」が、3月から公開されている。

   ロマンティック・コメディを得意とすると脚本・監督のナンシー・メイヤーズが、二組の恋を演じる四人の俳優を想定して書いたというだけあって、俳優達の魅力全開で、素晴らしいキュートでコミカルなほのぼのとしたラブ・ストーリーが展開される。
   パンチの利いたキャメロン・ディアスと真面目で朴訥だがコミカルなジャック・ブラックは、正にヤンキーたるアメリカの俳優だし、一寸古風でまっすぐなケイト・ウインスレットと珍しく誠実で温かい鰥夫を演じたジュード・ロウは生粋のクーンズ・イングリッシュを喋るイギリス人俳優で、この組み合わせの海を越えた恋が素晴らしい。

   田舎家に移り住んだアマンダは、アイリスを訪ねて来た兄グラハム(ジュード・ロウ)とひょんなことで一夜を共にする。グラハムは、二人の小さな娘を持つ鰥夫だが、逢瀬を重ねている内に忘れられなくなる。
   2週間後の帰国の日に、ヒースローに向かって車を走らせるアマンダだが、切羽詰ってUターンさせ、涙に泣き濡れていたグラハムとシッカと抱き合う。

   一方、アイリスは、3年以上も一途に思い詰めていた男が婚約しながら、よりを戻そうとしてロスまで訪ねて来るが、両天秤を維持しようとする男の卑劣さを知って自分を取り戻す。
   ロスで出会った老脚本家との交流から生きる喜びを覚え、そんなアイリスを理解してくれ助けてくれる映画音楽の作曲家マイルス(ジャック・ブラック)に恋をする。

   イギリスの田舎サリー郡の目も覚めるような美しい田園をバックにして歩く、飛ぶ鳥を落とす勢いの成功キャリアーウーマン・アマンダのキャメロン・ディアスの颯爽とした姿と、その揺れ動く女心が、古風でシックな風景と実に上手くマッチしていて感興をそそる。
   美人なのかどうなのかは私には分からないが、実に表情豊かで、色々なシチュエーションをあれだけ変幻自在に自由に演じられる女優は少ないと思うし、その演技の上手さに脱帽しながら楽しんでいた。
   本人も言っているがシニカルでダークなイメージの映画が多くて、眉間に皺の俳優だったジュード・ロウが、真面目で一寸野暮ったい、しかし、鰥夫で幼い娘達の父親役を実に温かく演じていて、アマンダとの揺れ動く大人の恋が新鮮であり、じっと見据えてアマンダへの思いを吐露する誠実さが実に良い。

   アマンダが、決心して正装してグラハムを訪ねて行くと困ったような表情に出くわし、二人の幼い娘が居る鰥夫だと分かる。
   可愛くて人懐こい娘達に誘われて子供部屋に案内されて、そこに張られた大きなテントの中に入って、四人が川の字になって仰向けに寝るシーンなど絵になっていて実に良い。
   ナンシー・メイヤーズ監督の話では、寝息が聞えるので、見ると、気持ちが良かったのであろう、ディアスとロウがテントの中で眠ってしまって居たと言う。


   ケイト・ウインスレッドを見たのは、「タイタニック」とケネス・ブラナーとの「ハムレット」で大作中の大作のヒロインだが、今回のイギリス女役も、実に新鮮で上手い。
   特に、続・夕日のガンマンなどの老スクリーン・ライター(イーライ・ウォラック)との心の触れ合いが実に爽やかで、ジャックとの穏やかな恋への素晴らしい伏線となっている。
   私は、イギリスに5年居たので、多少イギリス人は知っている心算だが、このケイト・ウインスレッドも先のジュード・ロウも、ある意味では典型的な何処にでも居るイギリス人で、監督の意図した今回のホーム・エクスチェンジの特質を、このイギリス人俳優が支えていたような気がしている。
   ジャック・ブラックを映画で見るのは初めてだったが、あの豊かな温かい風貌とどこかコミカルな雰囲気が実に良く、アドリブを一切許さない監督が、ビデオショップでブラックがDVDの絵を見ながらテーマ音楽を口ずさみながらウインスレッドにおどける様子は自由に任せたと言っている。

   ところで、イギリスの舞台であるサリー郡であるが、これはロンドンの南西方面の郊外で結構広い。
   私自身は、サリー郡リッチモンド・キューガーデンに住んでいただが、この映画の舞台は、もっと南の田舎であろうと思う。
   とにかく、懐かしさ一杯でキャメロン・ディアスとジュード・ロウの舞台を見ていた。
   
   「ホーム・エクスチェンジ」であるが、自分の家を誰にでもオープンにして、来客に全室自由に出入りさせて見せたり、そのまま貸したりしても平気な習慣のある欧米だから出来るシステムかも知れない。
   私自身、持ち主が住んでいた家をそのままそっくり貸したとしか思えない様な一切合財揃っている家具つきの住居を、オランダやイギリスで借りて住んでいたが、住むとはこう言う事なのかも知れないと思った記憶がある。
   
   外に出なければ何も始まらない、とディアスは言う。
   旅に出れば、世界が変わる。
   シェイクスピアは言った、”恋人達の出会いは恋の始まり”。
   変身願望の人には非常にスイートなラブ・ストーリー。
   そんな映画であった。
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新緑萌える新宿御苑

2007年04月23日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   新宿御苑は、今、新緑が美しい。
   淡いパステルカラー調の新芽が一斉に萌え出して、緑陰を明るく輝かせている。
   遅咲きの八重桜が華やかに花を開き、強い春風に吹かれて吹雪のように空を舞っている。
   早かった染井吉野は、既に豊かな葉桜に変わってしまって、主役は八重桜に完全に取って代わられてしまった。
   咲き終わった桜の根元は真っ白に埋め尽くされて、その白い絨毯の上を子供たちが走り回っている。

   フランス式整形庭園のプラタナスの並木は、少し緑の新芽が出始めて動き出した。
   手前のバラ園は、まだ蕾が固くて、もうしばらく待たなくてはならない。
   今、満開に咲き乱れて華やかなのは、中の池の南側にあるツツジ山で、真っ赤なツツジの玉仕立ての大株が輝いている。

   私は、大体、天気が良くて時間が取れると、午後遅くに新宿御苑を訪れて、一通り歩いて閉苑間際に帰ることが多い。
   その通り道も、新宿門から入って一直線に日本庭園に向かって歩き、中の池の周りとその近辺を散策して、フランス式整形庭園を経て、時間があれば、玉藻池を回ってイギリス風景式庭園を通って帰って来る。
   本当は、ゆっくりと緑陰でシェイクスピアでも読めれば嬉しいのだが、何となく気持ちの余裕もなくて、悲しいかな、3丁目の角のドトールで買って持ち込んだコーヒーを頂き、小鳥のさえずりを聞きながら憩うのが精々である。

   子供連れの若いお母さん達が乳母車を引いて来て、子供たちを広い芝生の上で遊ばせている光景を見るが、この公園が庶民生活に直結している証拠である。
   私も、ロンドンにいた時には、キューガーデンのシーズン・チケットを買って通っていたが、この公園には、小さな子供を連れてキューガーデンに来て遊ばせると言った光景は殆ど見なかった。
   そこは、やはり、キューガーデンは、植物学、博物学の研究機関でメッカでもあると言う多少高貴なミッションを持った植物園であると言うことかも知れない。

   キューガーデンで良いのは、個人の寄付で置かれたベンチが園のあっちこっちに置かれていて非常に便利で好ましいことである。
   ベンチの背もたれには、「この植物園をこよなく愛しガーデニングを終生の生甲斐とした亡き両親の思い出の為に ジャック スミス」と言った献辞が書き込まれていたりする。
   こんな制度を日本の公的な公園でも採用してはどうかと思っているのだが、あくまで善意の個人ということにしても、売名行為になるとか何とかと言って潰れてしまうであろう。

   欧米の建物には、有名人などに縁があると壁面にその来歴やエピソードを掘り込んだプレートが貼り付けられているし、レストランなどでは、誰々が座ったイスと言うので名前入りのプレートが打ち込まれていたりすることが結構ある。
   文化の違いだとは思うが、経験や思い出を共有しようと言うことであろうか。
   
   ところで、この新宿御苑であるが、訪れる度毎に、風景を変えて自然の豊かな営みを見せてくれる。
   働き過ぎて病気になった友人に、「お天道様が、こんなに美しく素晴らしい自然をお創りになったのに、ろくに見もせず有難く感謝もせずに過ごして来たから罰が当たったのだ。」と言う話がスペインにあると聞いたが、そうかもしれない。
   いくらIT革命で、我々を取り巻く経済社会が激変しても、森や林の木々や植物は、太古の昔から人間と共存しながら、風のささやきを伝え、地球の息遣いを教えてくれている。
   
   
   
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乱れ咲く 羽衣恋し たいつりそう・・・上野のぼたん

2007年04月22日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   今、上野の東照宮のぼたん苑で、春ぼたんが咲き乱れていて美しい。
   中国から特別に贈られてきたぼたんも多数あるようで、冬の清楚で静寂な雰囲気と違って、春のぼたんは非常に華やかで、その種類の多様さと華麗さに圧倒される。
   回遊式の庭園にびっしりとぼたんが植えられていて、ゆっくり歩きながらぼたんを鑑賞し、五重塔や東照宮本殿の建物が見渡せる一番奥の庭園の赤い毛氈の床机に腰をかけて、名物の甘酒を頂いてほっとすると言う寸法なのだが、毎年同じことを繰り返しながらもこれが結構楽しいのである。

   冬のぼたんは藁のコモを被っているが、春のぼたんの木の上には白い番傘が立てかけられている。
   永く行っていないので、長谷寺や二上山の麓にある石光寺の雰囲気は分からないが、大和でもあり、確かもっと広々としたところで大らかに咲いていたような気がしている。
   昔から、古社寺の襖絵など豪快なぼたんの障壁画を見ているが、故宮博物館など中国博物館や美術館で見た絵なども、とにかく、豪華絢爛と言った感じで、やはり、中国では花の王様なのであろう、扱い方が違うような気がする。

   私は、キューガーデンによく通ったが、何故か、ぼたんの記憶はない。
   シャクヤクばかりで、それも、栽培農園の方でしか見た記憶がないが、ヨーロッパ人は、大体、トピアリーや生垣以外には、日本のように木を剪定するとか切り戻すとと言ったことには興味がないような気がしているのだが、ぼたんが少ないような気がするのはその所為であろうか。
   オランダの花の絵でも、チューリップは嫌に多いが、ぼたんの花の絵の記憶はない。

   ところで、上野のぼたん苑で、シャクヤクも植わっているが、一つだけ異質な花は、この口絵写真の花・苛包牡丹(たいつりそう)である。別名はケマンソウである。
   葉や茎は全くと言って良いほどぼたんに似ているが、しかし、これは、ケシ科コマクサ族の花で、ぼたんはボタン科の花であるから違う種類の花である。
   ひょろりと伸びた釣竿のような茎に、タイを釣った時のように2~3センチの小さな花が一列に並んでぶら下がって咲いているのだが、面白いので携帯で写している人が多い。
   タイと言うよりは、ピンクの可愛いカブトガニのような雰囲気だが、ピンク色の優雅なハート型の蕾の下が裂けていて白い突起が出ているがこれが花のようである。
   面白いのは、真ん中あたりから両端に向かって花が咲いて行くと言う。
   仏堂内陣の欄間などにかける装飾の華鬘に似ているのでケマンソウ、何れにしろ優雅な面白い花である。
  
   もう一つ、このぼたん苑で、妍を競っているのは、アヤメの小型のようなシャガである。
   余談だが、黄色い花のぼたんはまだ咲いていなかったし、白い花もちらほらで、この地球上の花のうち白と黄色で70%もあると言われているのに、ぼたんの世界は赤系統の暖色優勢である。
   しかし、同じ赤系統と言っても、濃い紫のシックな花もあれば、淡いピンクの匂い立つように輝く花もあり、良くこれだけ色を変え形を変えて神様がお創りになったと思うと驚嘆せざるを得なくなる。
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四月大歌舞伎・昼の部・・・素晴らしい「頼朝の死」

2007年04月21日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   二代目中村錦之助襲名披露歌舞伎の昼の部も豪華で、私にとっては、真山青果の「頼朝の死」が一番面白かったが、「京鹿子娘道成寺」の書き替え版「男女道成寺」の舞台も、仁左衛門の白拍子桜子実は狂言師左近と勘三郎の白拍子花子で結構楽しませて貰った。
   仁左衛門の白拍子の踊りを見られるなど予想もしなかったが、そこはそこ、色気も華もある優雅な勘三郎の白拍子花子とは格段の差だが、良いものを見せて貰ったというインパクトは強烈であったし、所化達に見破られて、ちょん髷姿で白拍子桜子の衣装のまま小走りで退場する仁左衛門の姿が印象的でもあった。

   最後の演目の「菊畑」は、富十郎の説明によると、初代錦之助が、映画に去る最後の歌舞伎の舞台・こども歌舞伎で初代吉右衛門の肝いりで演じた縁の舞台のようであるが、二代目錦之助も、同じ奴虎蔵実は源牛若丸を演じて、中々、凛々しい素晴らしい舞台となった。
   吉岡鬼一法眼を師匠の富十郎、奴智恵内実は鬼三太を縁の吉右衛門、皆鶴姫を兄の時蔵、笠原湛海を従兄弟の歌昇、腰元白菊を息子の隼人など身内で固めていて、劇中で襲名口上が行われた。
   富十郎は、足を痛めたとかで正座が出来ずイスに座っての口上であった。

   「頼朝の死」の舞台だが、昭和7年に青果が発表し、歌舞伎座の舞台にかけられた新作なので、古典歌舞伎のようにオーバーの上から背中を掻いているような比現実性や違和感がなくて非常に分かりやすくてすっきりしていて面白い。
   ところで主題の頼朝の死だが、天下の大将軍の53歳と言う働き盛りの急死であるから色々な憶測を呼んでいて定かではない。
   御家人稲毛重成が亡妻(政子の妹)の供養のために橋を架け、その橋供養の帰りに頼朝が稲村ガ崎付近で落馬してそれがもとで亡くなったと言う説が一般的だが、脳溢血だと言う説もあるが大将軍が、そんなに簡単に落馬で死ぬのか疑問なしとしない。
   北条氏の陰謀説に結構信憑性がありそうだが、ほかに糖尿病説、義経や安徳天皇の怨霊説、頼朝が館の侍女のところへ忍び込もうとして家来に斬られてそれがもとで亡くなったと言う夜這い説まで色々あるが、真山青果は、この最後の夜這い説を採って舞台を展開している。

   頼朝が、尼御台所政子(芝翫)の侍女小周防(福助)の元に通おうとして築地塀を乗り越えようとしたのを畠山六郎重保(歌昇)が三度誰何するも答えがないので切り捨て、それがもとで死ぬ。
   これを知るのは尼御台所と重臣大江広元(歌六)だけだが、頼朝の名誉のために秘す事にし、重保は許される。
   しかし、重保は主殺しの大罪を犯した呵責に苦しめられ苦悶するが、相思相愛の相手が小周防。
   頼朝の死に疑問を抱き、自分には秘されて明かされないその秘密を知りたい一心で、将軍源頼家(梅玉)が、重保、広元、尼御台所の心の丈を訴えて攻め付けるが誰も口を割らない。
   打ち明ければ総てを許すと言われて小周防が語ろうとした時、重保が自分の愛を告げて切り捨てる。
   頼家が激怒するが天下政道のためと言い、尚も勇む頼家の前に尼御台所が、総ては源氏の為「家は末代、人は一世」と言って抜き身の槍を構えて立ちふさがる。
   棒立ちになって号泣する頼家を残して幕が下りる。

   頼朝の死をテーマにした面白い舞台だが、案外、歴史の偶然で他愛もない原因で頼朝が死んだのかもしれないと思わせて興味が尽きない。
   あまりにも強烈な独裁者頼朝の陰に隠れて印象の薄い、そして、将軍でありながら殆ど意のままに世の中を動かせない苦悶と葛藤を、品格と威厳をしっかり保って、父頼朝に対する限りなき憧れと憧憬を切々と吐露しながら二代目将軍を通して、梅玉は実に感動的に演じていて上手いと思った。
   人間国宝の芝翫の尼御台所は、苦悶しながらも微動だにしない威厳と格調、そして、他を圧倒するような迫力は流石で、北条天下の鎌倉幕府を軌道に乗せた政子の面目躍如であった。
   福助の小周防も上手いと思った。一途に思い詰めて必死に打ち込もうとする女の健気さをあれだけ情熱を込めて身体全体で演じられる役者は稀有に近いと思って見ていた。

   そして、この頼朝の死の舞台を支えたのは、何と言っても歌六と歌昇の萬屋兄弟であろう。
   重臣広元を演じた歌六の冷静沈着で格調の高さが、凛とした素晴らしい美声に増幅されて惚れ惚れとするような鎌倉武士の理想像を示しているような気がして、このような重臣が支えているから頼家でも源氏が三代持ったのだと思わせてくれた。
   主殺しへの罪悪感を意識し過ぎてか多少ナイーブになっているかなあと思う節もあったが、歌昇は、謹厳実直、武士としての節度と分を守ろうとする姿を非常に難しい立場ながら、小周防へは勿論、頼家、尼御台所、広元、夫々に表情を変えながら真摯に表現していて清々しかった。

   
   
   
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カストリの時代・・・林忠彦写真展

2007年04月20日 | 展覧会・展示会
   日本の終戦直後の混乱と雑踏を余すことなく活写した林忠彦写真展「カストリの時代」が、数寄屋橋の富士フォトサロン東京・銀座で開かれている。
   引き揚げ、焼け跡、闇市、戦災孤児、飲み屋やストリップ劇場等々、あの当時の混乱期に逞しく生きていた日本人の生活が実に生々しく描かれていて隔世の感があるが、しかし、まだ、ほんの半世紀と一寸前の現実なのである。

   殆ど一世代違うので私自身にとっては記憶に残っている筈はないのだが、映画で見たのか、或いは、自分自身の実体験なのか殆ど判別は付かないものの、実に懐かしい風景が展開されていて見ていて飽きさせない。
   実際には、戦後がずっと後まで尾を引いていて、我々の生活に色濃く陰を落としていたので、自然と頭の中に刷り込まれた心象風景だと思うが、とにかく、一枚一枚のモノクロ写真の中に、色々な物語が内蔵されていて、それらがふつふつと湧き出してくるのである。

   会場に入るとすぐ目に付くのは、「誰か故郷を思わざる」、復員軍人達が駅頭に降り立つ品川の雑踏である。
   第一印象は、皆同じ様に戦闘帽を被り大きな背嚢と毛布を背負った出で立ちだが、ひげ面など誰もいないきりりとした若者達の姿で、過酷な運命を背負って生きながらも故郷に無様な姿で帰りたくはなかった兵士たちの思いにうたれた。
   その後に続く焼け跡や闇市、戦災孤児たちの無残な写真を見ると天と地ほどの差があり、あの廃墟から良くもJAPAN AS NO.1と言われるまでに回復した日本を思うとその落差の凄さに感嘆せざるを得ない。

   戦後の新橋、品川、上野など、全く面影など片鱗もない廃墟だが、焼け野原と化した三越のあたりの酒場のビール券を貰う為なのか「配給をうける長蛇の列」を撮った写真には、背後に焼け残った服部時計店が聳えている。
   前景に大写しになっている一人のチャップリンの姿をしたちょび髭のサンドイッチマンが、三編みの少女にビラを渡している光景など、当時の世相を現していて面白い。

   印象的だったのは、大森近くの「ゴミ捨て場のバー」で、ゴミ捨て場の残骸の背後に、火野葦平が「吾作」と名付けた飲み屋に並んで立つ一間四方程の掘っ立て小屋のスタンドバー・チエリオの写真である。
   入り口には、男女のラブシーンを描いた西洋の絵が斜めに張られ、その上には「BAR CHERIO」と看板が架かっていて、その前で、上品な和服姿のマダムがカンテキに火を熾して何かを焼こうとしている。
   いい育ちの奥さんがバーのマダムをしている、カンテキの火が勢いよく燃え上がり、店の前に一つだけぶら下げられて明るく光っている角提灯様のランプが悲しい。

   上野の浮浪児たちや健気に靴磨きをしている少女達を活写した戦災孤児のコーナーは、何故か、寅さんの渥美清の世界とダブる。
   西郷さんの銅像の前で何かを口にしながら生きる為の情報交換をしている二人の浮浪児、いっぱしのヤクザ気取りでエンタをふかせて顔を顰めながら手下に指図する不良少年、リームを回して芸を見せて物乞いする孤児、等など必死に生き抜こうとする戦災孤児達の姿が実に凄まじい。
   今のロスト・ジェネレーションにもつながる憤りを感じるが、上に立つ為政者がバカだと如何しようもないのである。

   飲み屋の風景や、国際劇場の楽屋などの踊り子達の姿など、少しづつ食と色に蠢き始めた日本人の胎動も見逃さず写し出している。
   この口絵の左側の写真など、「名画アルバム」と言う額縁ショーとかで、セミヌードの女性がポーズしているだけなのだが大受けに受けたと言う。

   芸能界やスポーツ関係、それに、有名作家達の写真など興味深い写真があったが、黒澤明監督の「わが青春に悔いなし」を撮ったスチール写真の「原節子」を見て、初めて原節子を美しい女優だと思った。
   
   
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八重桜が咲きそろえばもうすぐ夏

2007年04月19日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   近くの大通りの並木に八重桜が植えられていて今満開なのだが、何故かあまり美しいようには思えない。
   木がまだ小さいのでそう思うのかと思ったがそうでもなさそうである。
   何となく重たい感じがして、ピンクの色の濃さも五月蝿い感じがして、過ぎたるは及ばざるが如しと言う印象である。
   チューリップに、一本の茎に何個も花が付く種類があるが、美しい筈のこのチューリップが何故か魅力に欠けていたのを思い出した。そのような感じでもある。

   私の庭にも八重桜の普賢象を植えていた。大体狭い住宅の庭に桜を植えるのなどは愚の骨頂で、虫食いが酷くて枯れてしまったのだが、身びいきか、この方が、色が淡いので多少嫌味が少なかったような気がする。
   何れにしろ、かく言う自分は、どちらかと言うと一重より八重が好きで、バラにしろ椿にしろ大体花は八重が多いし多かった。
   今、庭に咲いている山吹も八重だが、これがまた美しい。

   同じ様な八重桜の印象は、ヨーロッパの桜を見た時も感じたが、私の住んでいたオランダもロンドンも、何故か、民家などの殆どの桜がピンクの色の濃い八重桜ばかりであった。
   ヨーロッパ人はバラが好きなので、一重でパッと散る種類の桜を好むようには思えないから、当然の選択と言えよう。
   もっとも、キューガーデンの桜は、染井吉野のように一重の桜が大きく育っていて豪快な感じがしてほっとしたが、一本だけポツンと松前桜が植えられていて白い花を一面に咲かせていて感激したことがある。
   このキューガーデンは、世界に冠たる植物学の総本山のような植物園なのだが、日本の椿も、日本のモミジも、日本から移植された原種のまま維持されて育っているので、私にとっては懐かしくて、散策に出かけた時には必ず遠回りしても顔を見て帰った。

   日本では一番最初に珍重された花は椿だと聞いているが、その次は、梅であった。
   何時頃から、花の王者が梅から桜に代わったのか、平安あたりではなかったかと思うのだが、染井吉野が江戸で生まれてからは、押しも押されもしない日本の象徴のような花になったのであろう。

   八重桜が咲くと春もたけなわで、一気に暖かくなり陽気が良くなるのだが、地球温暖化で気候が異変を来たしたのか、今年は異常気象でここ2~3日寒くて仕方がない。
   八重桜が咲くと、アサガオの種を蒔いても良いと言われているのだが、この調子ではアサガオも可哀想なので、今年は、少し遅らせようと思っている。

   咲き乱れていた庭の椿も寂しくなって、急に勢いよく新芽が出始めてきた。
   まだ、咲いているのは羽衣で、本来の薄桃色の花と紅羽衣が残っている。
   底白で花先に向けてピンクに変わって行く天賜も、優雅な花姿を緑陰に映しながら咲き続けている。
   一寸派手なブチの八重の紋繻子も今盛りだが、これが終わるともう9月まで待たないと椿の季節は来ない。

   早い牡丹が咲き終わったが、昨秋植えた新苗の牡丹の蕾はまだ固い。
   勢いよく芍薬が枝を広げて、しっかりとした蕾を沢山つけて伸び始めてきた。
   蕾をつけ始めたバラと共に庭を明るくしてくれるであろう。
   手入れが雑で、草取りなどこまめにやっていないので、見栄えのしない庭に何時も家内から苦情を言われているが、それもそうだと反省しながら、花の美しさと健気さに感動している。
   
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不都合な真実(本)・・・アル・ゴアの地球人への遺言

2007年04月18日 | 地球温暖化・環境問題
   アフリカの秀峰キリマンジャロの頂を荘厳していた真っ白な雪が消え、ヒマラヤなどの世界各地の名だたる山岳氷河がドンドン後退して消えて行き、3000メートルも厚さのある南極の氷床が轟音を立てて崩れ続けている。
   このままの状態が続き、南極とグリーンランドの半分が溶けたり割れたりして海中に滑り落ちると、世界中の海水面は6メートル上昇して、オランダは殆ど水没し、上海周辺では4000万人、バングラディッシュとカルカッタでは6000万人が家を失う等世界各地で多くの国土が水没する。世界地図を根本的に書き直さなければならなくなるのである。
   このような地球環境の大激変が、人間の暴挙による地球温暖化によって益々進行し、人類を未曾有の危機に追い込んでいるのである。

   アカデミー賞を獲得したアル・ゴア元副大統領の映画「不都合な真実 AN INCONVENIENT TRUTH」のブック・バージョンを読んだのだが、1960年代から地球温暖化に関心を持って問題を追及してきた筋金入りの環境主義者アル・ゴアの使命感と情熱に感激し、ことの重大性を革めて喚起された。
   自然のエコシステムを破壊し続け、地球環境を危機に追い込んでいる真実を誰よりも熟知し、政治の舞台で最高峰に上り詰めた政治家であり、あらゆる問題点を的確に把握しているので、論点には些かの迷いもなく正鵠を得て清々しくさえある。

   冒頭に、アポロ8号から撮影した有名な美しい地球の写真を示し、カール・セーガンの言う「球にニスを塗ったそのニスの厚さしかない薄い地球の大気」の組成を、「温室効果ガス」の中でも最も大きな鍵を握る二酸化炭素の量を増大させて変えてしまった。
   このために地球上の各地の温度がドンドン上昇し、海水温度の上昇をもたらし、1970年以来、猛威を振るう大型の暴風雨は、大西洋でも太平洋でも、その勢力を保つ期間も強度もかっての約1.5倍になっている(MIT)。このことはハリケーン・カタリーナが証明した。
   このほか、スマトラ沖地震やヨーロッパの熱波、オーストラリアの旱魃など地球の反撃とも言うべき異常な天変地異でもその自然の驚異の増大が顕著だが、早晩、保険業界が引受を拒否する事態になろうと言う。

   経験したこともないような恐ろしいナチスの嵐が、ヨーロッパ大陸を襲った時、イギリス国民に告げたウインストン・チャーチルの言葉を引用してゴアが警告を発する。
   「先送りや生半可な対策、聞えの良いよく分からない急場しのぎ、遅延の時代は終わりつつある。その代わりに私たちは、結果の時代に入りつつあるのだ。」

   さんご礁の破壊と赤潮の発生、旱魃と洪水。
   新興感染病の発生と絶滅病の復活。
   人口増、特に都会の人口増と貧困の深刻化。
   熱帯雨林等森林破壊と緑地の後退、砂漠化。
   水資源の枯渇の進行。 等々ゴアの追及は止まる所を知らない。

   アル・ゴアは、自分の目の前で、最愛の息子が車に跳ねられて10メートル吹っ飛び、ずずっと歩道を這ってピクリとも動かなくなったのを目撃し、死地を彷徨うわが子を前にして、殆ど絶望に近い辛苦と艱難に呻吟した過酷な経験をしている。
   そして、無二の姉弟であった姉を煙草の吸い過ぎで失くし、タバコ産業の悪辣さを知り尽くしている。
   このような悲しくも過酷な経験を通して、神が、ゴアに、人間の命が、そして、家族が如何に大切かを教え示し、この人間が生きている瀕死の状態の、美しかった地球船宇宙号を死守すべき大切な使命を与えたのであろう。

   笛吹けど汝等踊らず。アル・ゴアが、地球の温暖化を阻止する為に、早くから国会等に働きかけたが京都議定書を破棄されるなどアメリカの世論は踊らず大変な苦労を続けてきたが、特に、ブッシュ政権の背信行為と環境問題軽視は極に達している。

   ブッシュ大統領は、就任第一週目に、二酸化炭素排出量を規制すると言う選挙運動中の約束を反故にし、温暖化汚染物質を制限する為の政策は総て断固として阻止する方針を固めて、既存の法規制を後退させ、弱め、そして可能な場合には、全く失くしてしまう為の全面的な努力を開始したのである。
   京都議定書の批准拒否などは序の口で、温暖化に対する警告をしようとしたNASAのジェームス・ハンセンをはじめとする政府機関の科学者さえ黙らせようとし、ほんの数ヶ月前にも、科学者達から報告数字を改ざんさせられたと抗議を受けている。
   今回の「国連の気候変動に関する政府間パネル」の報告でも、ブッシュ政権は強引にレポートを修正させている。

   ゴアは、ニューヨーク・タイムズがすっぱ抜いたフィリップ・クーニー事件に言及している。
   ブッシュ大統領は、米国石油協会のロビイストとして温暖化に関する情報に関する情報かく乱を担当していたフィリップ・クーニーを、2001年にホワイトハウス直属の環境問題諮問委員会委員長に採用し、科学的な訓練を全く受けていないにも拘わらず、環境保護庁をはじめとする連邦政府の省庁から出される温暖化に関する公式な評価に手を入れたり検閲する権限を与えた。
   クーニーは、温暖化が米国民にもたらす危険について言及している箇所には一つ残らず、微に入り細に入り手を入れていたのである。
   ニューヨーク・タイムズの修正記事のコピーをゴアは本書に掲載しているが、これでクーニーは首を切られたが辞めたのは2005年6月で、翌日、驚くなかれエクソン・モービルに入社しているのである。
   
   ブッシュ政権とエクソン・モービルなどの石油、石炭、電力・ガス会社を中心とした小規模だが潤沢な資金を持った特別利益団体が、地球温暖化をめぐって科学者の意見が真っ二つに割れているとメディアを利用して報道させてきた。
   しかし、過去10年間に論文審査を受けて科学の学術雑誌に発表された「地球温暖化」に対する論文928の内、温暖化の原因を人為的であることを疑う論文は皆無だった。
   サイエンス誌のドナルド・ケネディ編集長に、「科学において、この件に関する意見ほど皆の見解が一致することは、稀である。」と言わしめた由縁である。

   アメリカの民主主義とは、一体何なのであろうか。
   さらに、イラク戦争に伴うブッシュ政権の経済界との癒着である産軍複合体について考えると、もう気が遠くなって頭がおかしくなってしまう。
   火星人が、自分たちの歴史に次のような文章を書き残すかも知れない。
   「21世紀に、地球上では、ブッシュと言う偉人がいて、地球と人類の破壊に最も貢献してくれたお陰で、我らの天下が早く到来した。」
   
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佐倉のチューリップと風車

2007年04月17日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   公式の佐倉のチューリップ祭は終わったが、印旛沼の畔、オランダ風車リーフデ号の側の畑に、一面に色とりどりのチューリップが咲き乱れている。
   印旛沼を渡ってきた風に吹かれて風車が静かに回っている。背後に長く広がっている池畔の桜並木の中に、ひょろりと箒のように突き出したポプラが4本ゴッホの絵のように霞んでいて、フッとオランダの風景を思い出した。

   このチューリップ畑に来るのは久しぶりだが、今回気付いたのは、初めて回っているリーフデ号を見たのと、背後に広がる畑をチューリップ畑にしてチューリップの花が随分広がったことである。
   土日のチューリップ祭りの時期を避け、雨上がりの時間に訪れたので、その喧騒ぶりは分からないが、観光客がちらほらだと、チューリップが静かな風に吹かれて一方向になびきながら揺れる姿など風情があって中々良い。
   何の音もしないが、極彩色のチューリップが大きな波を打って豪快に揺れる姿をオランダのチューリップ畑で何度か見ているので、チューリップの群舞には興味があるのである。

   追加された広いチューリップ畑には、区画に分けて珍しい新種のチューリップを含めて沢山の種類のチューリップが植えられていて、まだ蕾の花もあって咲き具合は風車の側のチューリップよりは遅いようである。
   しかし、このチューリップは、観光客に自由に選んで掘り上げて貰って、6本500円でお持ち帰り頂くと言う寸法のチューリップ畑なのである。
   佐倉市観光協会の知恵で、全域有料駐車場にして、この駐車料500円とチューリップ売上収入で100万本のチューリップ植栽を目指そうと言うことだが、何となくお役所の商売と言う感じで垢抜けがしない。
   もっと、訪れてくれる観光客の満足度を高めるようなカスタマーサティスファクションを考えた資金回収が出来ないかと言うことである。

   問題は、メインとなる施設の貧弱さで、特に気になるのは売店と飲食施設である。
   食堂については分からないが、売店の貧弱さは街の駄菓子とみやげ物店を合わせたような雰囲気で、幾らか並べられているオランダ土産などもアムステルダムの路地裏の露天でも売っていないような貧弱なものばかりである。
   どこかのスーパーかコンビニなどのプロに、運営など一括任せてアウトソーシングできないのであろうか。
   飲食については、チューリップ祭の時には露天が出たのであろうが、元々オランダ料理は、インドネシア流の中華料理の影響を受けているので簡単に出来る筈なので、他の工夫も含めて会場の空スペースを利用して仮設レストランを充実させたらどうであろうかと思った。勿論、これもアウトソーシングである。

   ところで、2億円かけたと言う立派なオランダ風車であるが、初めて中に入った。
   2階まで上れるのだが、小窓からの展望は雰囲気があって良い。この風車は、オランダの普通の作業用の風車なのでどんな作業も出来るのだが、現在は周りに作られた池の水を循環させる為に使われている。
   しかし、所詮観光用なら、キューケンホフ公園にもあるのだが、上部に帽子のツバ状に張り出したバルコニーを付けたバルコニー風車を何故作らなかったのか、行き止まりの2階の部屋に入っても意味がないのである。
   
   先日このブログで、私が中に入ったキンデルダイクの粉弾き風車が、音が大きくて大揺れに揺れて大変だと書いたが、この風車は、流石に新築13年程度の新しい近代的な風車なので羽が回っていても音は静かだしビクともしない。
   あのキンデルダイクの風車は、使い古された骨董だったのである。

   ところで、オランダ在住の時には良く行ったのだが、アムステルダムの郊外のアムステルフェーンに、モーレン・デ・ディッカートと言う大きな風車を転用したミッシュランの星付きのレストランがあった。
   古いので修復のために休んでいたこともあった。羽は取り外されていたので一寸見ただけでは風車とは思えないのだが、可なり店内は広かったので、風車にも大小は勿論、形なども色々バリエーションがあるのである。

   ところで、この佐倉の風車だが、畑の中にポツンと一基立っているだけで、風景の一つにはなるが、チューリップ祭りと言ってもホンの数日限りのことで、この風車を見るためにわざわざ来る観光客もあるとは思えないし、他には何の役にも立ちそうにはない。
   日本各地に何基かあるが、何故、オランダ風車なのか、佐倉は、江戸時代に殿様が蘭学好きでオランダと付き合いがあり、その後姉妹都市を結んでいる縁もあるが、やはりバブル当時のハコモノの一環であろうか。
   いずれにしても、本国では新築など考えられない本物のオランダ風車など、あのバブルの時の日本にしか建設出来なかったと言うことでもあろう。
   この佐倉の風車は、跳ね橋なども付属していて記念碑としては素晴らしいので、難しく考えずに、縁の地での文化遺産継承と言うことで良いのかも知れない。
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イギリスで一番美しいのは樹木・・・カレル・チャペック

2007年04月16日 | 海外生活と旅
   戯曲「ロボット」で有名なチェコの作家カレル・チャペックが、1920年に国際ペンクラブ出席で訪れたイギリスについて書いた紀行記「イギリス便り」を読んだが、時代の違いもあるが、非常にユニークな視点が面白い。
   第一印象と言う書き出しで、語り始めるのはロンドンのお巡りさんの素晴らしさで、古代ギリシャの神々もかくやとばかり、美と壮大さを基準に採用されたと断言せざるを得ないと言っているのだが、この警官や牧草地と共に、特に美しいのは主として樹木、みごとに肩幅の広い、年輪を重ねた、枝を四方に張りめぐらし、のびのびとした、おごそかな、とても大きな樹木である、と言っているのである。

   手元にあった写真を口絵に使ったのだが、これは、初夏グリーンパークを急ぐ乙女を撮った写真で、こんな感じの公園がチャペックのイメージかと思う。
   チェコは、残念ながら、プラハだけしか知らないのでチャペックの故郷の森や林がどんなのか分からないが、私の見たドイツやハンガリーに近いとするならば、どうも、原始林的な鬱蒼とした森林がかなり多く残っていて、大木はその一部を形成していてイギリスの森と違うと言うことかも知れない。
   イギリスでは、徹底的に原始林を切り開いて開発して、新たに植林しなおされているので、大きな木は、広々とした公園や芝生の緑地に、単植されていたり、比較的空間を作って植えられている。
   このために、木が自由に伸び伸びと大らかに育って行って、あの品格と威厳を備えてくるのであろうと思う。

   私の良く通った散歩道でもあったキューガーデンなども典型的なイギリスの庭園で、こちらの方は、植物学の学問研究のために多少の違いはあるが、やはり、広々とした空間に、巨大な大木が、堂々と風格と威厳を備えてそそり立っている。
   この風景や景観は、幾分新宿御苑に似ているが、もう少し自然に近い。

   もう一つ、公園でチャペックがビックリしているのは、東欧のように公園に歩行者用の小道を作って通るのではなくて、芝生の緑地をそのままじかに歩けると言うことであった。
   古い樹木の醸し出す森の中に一面に敷き詰められた緑の絨毯の上を、自由に散歩を楽しめるイギリスは、これまで見てきた国々のうちで、いちばん、おとぎ話のようで、ロマンチックな印象を与えたと語っている。

   ハンプトン・コート、リッチモンド・パーク、ウィンザーなどを訪れたようで、これらは何れも王室の宮殿や狩場の森や林だが、原始林的なところは一切ない綺麗に再開発された公園なのでそれなりに整備されていて美しい。
   勿論、イギリスのことだから、徹底的に自然らしく維持管理されているのは当然である。
   
   チャペックは、オランダから船でドーバーを渡ってフォークストンに降り立ったようだが、真っ白な断崖絶壁の出迎えが印象的だったのであろう、絵に描いている。
   鉄道でケント州の田舎をロンドンに向かった時、公園のように美しい自然風景に感激しているが、確かにイギリスのカントリーサイドは美しい。
   コンスタブルの絵のような牧歌的な風景は少なくなったが、車窓から見える田舎の風景には、豊かな自然がそのまま息づいている。
   河や湖沼なども、日本のようにコンクリートで固めたり目に見えるような形での河川工事が少ないので非常に自然である。

   チェコのボヘミアンスタイルの自然風景は、荒削りの自然そのままなので、イギリスの人の手の入った農村風景が美しく見えたのであろう。
   イギリス人が作り出すイングリッシュガーデンは、大変な人の世話と手が入っているのだが、如何にも自然そのものであるかのような風情を漂わせている。

   イギリスの名園を随分歩いたが、大陸ヨーロッパのような巨大な幾何学文様風に力で自然を組み伏せたような庭園は少ない。
   ローマやギリシャの廃墟のような点景を取り入れた不成形な造形を主体としたような庭園が多いが、この美意識は大陸ヨーロッパ人とは大いに違っている。
   自然の風景を徹底的に訓化して理想的な自然の佇まいを創り出す、それがイギリス人の美意識の根底にあるような気がしている。
   
   ところで、ここが凡人と違う所だが、チャペックは、この巨大な古木とイギリスの社会との接点を語っている。
   これらの樹木が、イギリスの保守主義に大きな影響を与えており、貴族的本能、歴史主義、保守性、関税障壁、ゴルフ、貴族達で構成されている上院、その他の特殊で古風な物事を維持している。巨大なオークの足下で、古い物事の価値、古い樹木の持つ崇高な使命、伝統の調和ある広がりを認めたいという危なっかしい気分、そして多くの時代を通じて、自らを維持するに足るだけの強さを持つ、あらゆるものに対するある種の尊敬の念を感じたと言うのである。
   私自身は、古木と伝統的保守主義のイギリス人気質の関係は、どっちがどっちと言うのではなく、両方が因であり結果だと思っている。

   更に面白いのは、古い樹木や古い物事自身には、悪戯な小鬼、風変わりで冗談好きのお化けが住んでいると言うチャペックの指摘である。
   真面目くさって謹厳実直な筈のイギリス人が、ユーモアたっぷりの冗談を連発して人を煙に巻き、何でも賭け事にしてしまう無類のギャンブル好き、これが世界に冠たるイギリス人のイギリス人たる由縁でもある。
   正装ホワイト・タイでの大晩餐会で、フィリップ殿下のスピーチ中、何分で終わるかを賭けて掛け金を集める為に帽子を回しているイギリス紳士の仲間に入ると、不思議にイギリス社会が分かったような気になった、そんなロンドン生活が懐かしくなった。
   
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