春たけなわ、私の庭にも蝶が舞い始めた。
蝶の喜びそうな花は咲いていないので、また、ひらひらと飛び去って行くのだが、それらしき木があるので卵でも産み付けるのかも知れない。
昨年8月に、NHKのクローズアップ現代で、日本列島を東西南北に2000キロメートル以上も渡る蝶がいると言って詳しく報道していた。
このブログでも触れたが、この口絵の写真の翅を広げると19センチメートル程度のアサギマダラと言う蝶である。
最新のナショナル・ジオグラフィック5月号に、「海を渡る蝶アサギマダラ」と言う記事が載っている。
この蝶を見つけた人は、蝶の翅に、見つけた場所や日付をマーキングするので、アサギマダラの途轍もない渡りの実態が分かるのである。
南遥か南西諸島で生まれた蝶が、沖縄、日本列島を越えて、サハリンまで渡ったのが記録されていると言うから驚きである。
この記事に、アサギマダラの写真が載っていて、翅に書き込まれたナガノ、アシズリと言う字が読み取れる。長野から足摺岬まで旅をしたことだけは、紛れもない事実であろう。
蝶の飛翔を見ていて、人間の歩く早さより早く飛んで移動して行くのは分かるのだが、それにしても、あの小さい身体で2000キロメートルと言うのは大変な距離であり、生命力の凄さに恐れ入る。
エネルギー効率だけ考えても、今の化石燃料に依存している人間世界の効率の悪さに愕然とせざるを得ないが、逆に、イノベーションによって、人間のエネルギー効率のアップは、まだまだ、無限にあると言うことであろうと慰めを感じている。
昔、「人の言うことを聞かない男と地図が読めない女」とか何とか言った本が売れていたように、人間には方向音痴が結構多いのだが、アサギマダラの場合には、本州から沖縄の南大東島まで1000キロメートル飛んだ蝶が4例記録されているという。
全く、途中に立ち寄るべき島もないのにどのようにして飛び切ったのか。
NHKのテレビでは、大海原に死んだように浮かんでいたアサギマダラが、急に飛び立つのを放映していたが、例え、水の上に浮かんで小休止出来る能力を持っていたとしても、大荒れに海が時化る時もあろうし、何日も安全に飛び続けられるとは限らない。
都合よく南大東島に向かう船がある筈もないし、ジグザグに移動しても、島と島の間の距離は大変なものであろうし、大体、どうして方向を察知するのか。
あの小さな燕でさえ渡りの神秘さに驚かざるを得ないのだが、ほんの吹けば吹っ飛ぶような紙のようなアサギマダラの強靭さに脱帽せざるを得ない。
アサギマダラは、何故、亜熱帯の南西諸島から亜寒帯のサハリンまで、気の遠くなるような遠距離を渡るのか。
人間のように観光旅行や見聞を広める為に旅をする筈がないから、当然、生きる為、子孫を残す為に渡って行くのである。
アサギマダラ自身は、遠い祖先から受け継いで来た運命であり、体内に埋め込まれたDNAであるから、この渡りの艱難辛苦を何の苦とも思っていないかも知れない。
しかし、大切なことは、このような多くの生き物達が必死になって生きることによって我々の宇宙船地球号が成り立っていると言うことである。
人権が大切だと人々は叫ぶが、この地球は、生きもの総ての地球であって、その総ての生き物が共存共栄しながら成り立っているエコシステムなのである。
生きとし生けるもの総てが、生きる権利を持っている筈の、この均衡を保って息づいている地球のエコシステムを、無謀にも人間は破壊しつつある。
たとえアミーバのような単細胞の生き物でも、一度破壊されて死滅すると永遠に再生不可能か、或いは、可能であっても、その為には悠久の時間を必要とする。
生きとし生けるもの、生きる為に食べ、子孫を残す為に恋をする。
アサキマダラも、人間も少しも変わらないが、人間には智恵があるばかりに、自分の力を過信して、この地球が、そして、自然が、自分たちのためだけにあるものと錯覚している。自滅の道を歩みつつあるのも意識せずに。
友を求めて囀る小鳥達を、そして、花から花へと無心に飛び交う蝶を見ていると、その神秘さに感動して、ついそんなことを考えてしまう。
蝶の喜びそうな花は咲いていないので、また、ひらひらと飛び去って行くのだが、それらしき木があるので卵でも産み付けるのかも知れない。
昨年8月に、NHKのクローズアップ現代で、日本列島を東西南北に2000キロメートル以上も渡る蝶がいると言って詳しく報道していた。
このブログでも触れたが、この口絵の写真の翅を広げると19センチメートル程度のアサギマダラと言う蝶である。
最新のナショナル・ジオグラフィック5月号に、「海を渡る蝶アサギマダラ」と言う記事が載っている。
この蝶を見つけた人は、蝶の翅に、見つけた場所や日付をマーキングするので、アサギマダラの途轍もない渡りの実態が分かるのである。
南遥か南西諸島で生まれた蝶が、沖縄、日本列島を越えて、サハリンまで渡ったのが記録されていると言うから驚きである。
この記事に、アサギマダラの写真が載っていて、翅に書き込まれたナガノ、アシズリと言う字が読み取れる。長野から足摺岬まで旅をしたことだけは、紛れもない事実であろう。
蝶の飛翔を見ていて、人間の歩く早さより早く飛んで移動して行くのは分かるのだが、それにしても、あの小さい身体で2000キロメートルと言うのは大変な距離であり、生命力の凄さに恐れ入る。
エネルギー効率だけ考えても、今の化石燃料に依存している人間世界の効率の悪さに愕然とせざるを得ないが、逆に、イノベーションによって、人間のエネルギー効率のアップは、まだまだ、無限にあると言うことであろうと慰めを感じている。
昔、「人の言うことを聞かない男と地図が読めない女」とか何とか言った本が売れていたように、人間には方向音痴が結構多いのだが、アサギマダラの場合には、本州から沖縄の南大東島まで1000キロメートル飛んだ蝶が4例記録されているという。
全く、途中に立ち寄るべき島もないのにどのようにして飛び切ったのか。
NHKのテレビでは、大海原に死んだように浮かんでいたアサギマダラが、急に飛び立つのを放映していたが、例え、水の上に浮かんで小休止出来る能力を持っていたとしても、大荒れに海が時化る時もあろうし、何日も安全に飛び続けられるとは限らない。
都合よく南大東島に向かう船がある筈もないし、ジグザグに移動しても、島と島の間の距離は大変なものであろうし、大体、どうして方向を察知するのか。
あの小さな燕でさえ渡りの神秘さに驚かざるを得ないのだが、ほんの吹けば吹っ飛ぶような紙のようなアサギマダラの強靭さに脱帽せざるを得ない。
アサギマダラは、何故、亜熱帯の南西諸島から亜寒帯のサハリンまで、気の遠くなるような遠距離を渡るのか。
人間のように観光旅行や見聞を広める為に旅をする筈がないから、当然、生きる為、子孫を残す為に渡って行くのである。
アサギマダラ自身は、遠い祖先から受け継いで来た運命であり、体内に埋め込まれたDNAであるから、この渡りの艱難辛苦を何の苦とも思っていないかも知れない。
しかし、大切なことは、このような多くの生き物達が必死になって生きることによって我々の宇宙船地球号が成り立っていると言うことである。
人権が大切だと人々は叫ぶが、この地球は、生きもの総ての地球であって、その総ての生き物が共存共栄しながら成り立っているエコシステムなのである。
生きとし生けるもの総てが、生きる権利を持っている筈の、この均衡を保って息づいている地球のエコシステムを、無謀にも人間は破壊しつつある。
たとえアミーバのような単細胞の生き物でも、一度破壊されて死滅すると永遠に再生不可能か、或いは、可能であっても、その為には悠久の時間を必要とする。
生きとし生けるもの、生きる為に食べ、子孫を残す為に恋をする。
アサキマダラも、人間も少しも変わらないが、人間には智恵があるばかりに、自分の力を過信して、この地球が、そして、自然が、自分たちのためだけにあるものと錯覚している。自滅の道を歩みつつあるのも意識せずに。
友を求めて囀る小鳥達を、そして、花から花へと無心に飛び交う蝶を見ていると、その神秘さに感動して、ついそんなことを考えてしまう。