NHKホールで、素晴らしいヴェルディのオペラ「ナブッコ」を鑑賞した。
ミラノ・スカラ座では何度か機会を見てオペラを見ているのだが、公演回数が少ない所為もあって、ローマ歌劇場で実際に見る機会がなく(前回は、日本で「トスカ」)、ヴェルディの初期の成功作品「ナブッコ」も初めてで、今回は、期せずして、リカルド・ムーティ指揮の圧倒的エネルギッシュな舞台に感激した。
NBSによると、
ローマ歌劇場の魅力はイタリア人のアイデンティティがあることとムーティは語る。『ナブッコ』最大の聴きどころである合唱曲「行け、わが思いよ、金色の翼に乗って」
(この口絵写真は、劇場のHPより借用したこのシーンの舞台)は、囚われ人が故郷をしのぶ美しい合唱。初演当時、諸外国の支配下にあるイタリア人たちの心情にマッチしたこの曲は、イタリア統一運動を推し進める原動力となったといわれ、いまもイタリア人にとって第二の国歌として親しまれており、今回上演される『ナブッコ』は、2011年のイタリア統一150年を記念するものとして新演出された。
この曲も素晴らしいが、序曲が終わった後の幕開きの冒頭から、ヘブライ人の「祝祭の聖具は落ちて壊れるがいい」の地を這うような凄まじい合唱が場内を圧倒する。凄い迫力で、このオペラの魅力の一つは、ユダヤの民になったり兵隊になったり、殆どを白衣の長着で通して舞台のバックを荘厳するかのような合唱の途轍もない魅力であろう。
このオペラは、新バビロニア王朝のネブカドネザル王をモデルにしており、ユダヤ王国の離反で2度も遠征しており、その時のユダヤ人のバビロンへの大量移送・バビロン捕囚が扱われているのだが、創作が加わってストーリーが変わっていて、ハッピーエンドとなっている。
ユダヤに人質として捉えられているナブッコの娘フェネーナ(ソニア・ガナッシ)は、ユダヤ王の甥イズマエーレ(アントニオ・ポーリ)と相思相愛だが、進駐してきた姉の アビガイッレ(タチアナ・セルジャン 、休演にて、ラッファエッラ・アンジェレッティ)もイズマエーレを愛していて、靡けばユダヤの民を許すと迫る。
ナブッコは、イェルサム寺院を焼き討ちにしユダヤ人をバビロンに捕囚するが、神だと宣言して神罰を受けて狂人と化したナブッコに代わって、大司教に唆されたアビガイッレが、玉座を奪う。
幽閉の身の狂気から醒めたナブッコが、ヘブライの神に許しを乞い、ユダヤ人虐殺を中止して帰郷を許し、処刑寸前のフェネーナを助ける。
深手を負ったアビガイッレが現れ、フェネーナに許しを乞い息絶える。
ザカリーナは、ナブッコを「王の中の王」と讃える。
さて、実際の舞台だが、まず魅力的なのは、冒頭に登場するヘブライ人を統べる祭祀長ザッカーリア(ドミトリー・ベロセルスキー )の素晴らしいバスの朗唱で、危機に瀕した民に向かって「エジプトの海辺で」でイスラエルの栄光の歴史を朗々と歌うのだが、ここで、一気に「ナブッコ」の魅力に引き込まれてしまう。
若きウクライナのバス・ベロセルスキー の歌唱は圧倒的で、このローマ歌劇場だけではなく、METデビュー、ミラノスカラ座、ボリショイ劇場でも歌って脚光を浴びたと言うのであるから、ムーティが白羽の矢を立てるのも当然であろう。
もう一人の魅力的な歌手は、当然、タイトルロール・ナブッコを歌うバリトンのルカ・サルシ で、「ボエーム」のマルチェッロ、「ファルスタッフ」のフォード、「セビリャの理髪師」のフィガロ、「椿姫」のジェルモン、「ジャンニ=スキッキ」のタイトルロール、「蝶々夫人」のシャープレスなどがレパートリーだと言う。
新バビロニアの大王から、錯乱状態になり、奴隷に産ませた娘アビガイッレに王座を簒奪され、娘フェネーナの助命を嘆願し、最後には正気に戻って聖王に戻ると言う複雑な役割を、歌唱にメリハリをつけて性格俳優よろしく器用に歌い遂せたのは流石である。
さて、準主演でプリマのアビガイッレ役で出演予定であったタチアナ・セルジャンが、初日の公演には出演したのだが、急な体調不良により、ラッファエッラ・アンジェレッティに代わった。
主演が、代わってしまったようなものだから、観客にとっては、残念なことだが、私の場合には、歌手を聴きに行ったわけでもないので、それ程、気にはならなかった。
今を時めくロシアのプリマ・セルジャンを聴けなかったのは残念だったが、新進気鋭で人気上昇中だと言うラッファエッラ・アンジェレッティを聴けたのだから、良しとすべきであろう。
アンジェレッティは、「アレーナ・ディ・ヴェローナ & プラシド・ドミンゴ in 東京 2010 」で、ヴェルディの「オテッロ 」4幕目を、 オテッロのプラシド・ドミンゴを相手にしてデスデーモナを歌っている。
また、蝶々さんはウィーン国立歌劇場で2007年に歌って高く評価され、マチェラータ音楽祭の2009年の舞台がDVDになっている。
Operabaseを見れば、セルジャンの方が先輩故圧倒的だが、アンジェレッティに方も、活躍舞台が、どんどん広がっている。
ある外国評で、声は必ずしも美しくないと書いていたが、確かに、役柄の所為か、非常にパンチの利いた鋭角的な澄んだ歌声で、キャサリン・バトルやルネ・フレミングのような魅力的な声ではなかったが、あのマリア・カラスでさえ、私の声は皆さん嫌いな筈だと言っていたくらいだから、オペラ歌手としては、声など問題外なのであろう。
とにかく、美人だし、姿かたちも美しく、才色兼備のオペラ歌手だと思う。
ソニア・ガナッシとアントニオ・ポーリは、定評のある歌手とかで、安心して聴いていたが、ナッブコの舞台には、取ってつけたような愛の物語なので、役不足の感じで、私には、しっくりとしなかったが、素晴らしい歌唱を楽しませて貰った。
さて、ムーティの満を持してのヴェルディ公演で、帰途、ムーティの新著『ムーティ、ヴェルディを語る』を読んで、”作曲家の書いた楽譜通りに演奏する“原典主義”を貫き、慣習的に定着したものと異なる演奏に徹して、「楽譜に忠実というのは、音の正しさという意味ではありません。そこに書かれている音の意味を考えなければならないということです。ヴェルディはこのドラマがどうあるべきか、演出や心情にいたるまで、すべてを音楽に書いています。ヴェルディの音楽は劇場なのです」”と言うことを感じて、改めて、マエストロの熱熱たるヴェルディ賛歌を感じて、感激を新たにした。
ムーティのオペラ鑑賞は、前回のスカラ座公演で「オテロ」だが、一番最初にムーティの指揮に接したのは、もう、何十年も前、音楽監督になる前、オーマンディ時代のフィラデルフィア管弦楽団の定期公演で、最も新しいのは、ニューヨーク・フィルでの定期公演、ヨーロッパではウィーン・フィルなど、結構、楽しませて貰っている。
今回、カーテンコールに登場したマエストロを見ていて、随分、老成したなあと言う感じがした。
とにかく、久しぶりに、オペラを楽しみ、オペラ三昧であったヨーロッパの思い出を反芻していた。
ミラノ・スカラ座では何度か機会を見てオペラを見ているのだが、公演回数が少ない所為もあって、ローマ歌劇場で実際に見る機会がなく(前回は、日本で「トスカ」)、ヴェルディの初期の成功作品「ナブッコ」も初めてで、今回は、期せずして、リカルド・ムーティ指揮の圧倒的エネルギッシュな舞台に感激した。
NBSによると、
ローマ歌劇場の魅力はイタリア人のアイデンティティがあることとムーティは語る。『ナブッコ』最大の聴きどころである合唱曲「行け、わが思いよ、金色の翼に乗って」
(この口絵写真は、劇場のHPより借用したこのシーンの舞台)は、囚われ人が故郷をしのぶ美しい合唱。初演当時、諸外国の支配下にあるイタリア人たちの心情にマッチしたこの曲は、イタリア統一運動を推し進める原動力となったといわれ、いまもイタリア人にとって第二の国歌として親しまれており、今回上演される『ナブッコ』は、2011年のイタリア統一150年を記念するものとして新演出された。
この曲も素晴らしいが、序曲が終わった後の幕開きの冒頭から、ヘブライ人の「祝祭の聖具は落ちて壊れるがいい」の地を這うような凄まじい合唱が場内を圧倒する。凄い迫力で、このオペラの魅力の一つは、ユダヤの民になったり兵隊になったり、殆どを白衣の長着で通して舞台のバックを荘厳するかのような合唱の途轍もない魅力であろう。
このオペラは、新バビロニア王朝のネブカドネザル王をモデルにしており、ユダヤ王国の離反で2度も遠征しており、その時のユダヤ人のバビロンへの大量移送・バビロン捕囚が扱われているのだが、創作が加わってストーリーが変わっていて、ハッピーエンドとなっている。
ユダヤに人質として捉えられているナブッコの娘フェネーナ(ソニア・ガナッシ)は、ユダヤ王の甥イズマエーレ(アントニオ・ポーリ)と相思相愛だが、進駐してきた姉の アビガイッレ(タチアナ・セルジャン 、休演にて、ラッファエッラ・アンジェレッティ)もイズマエーレを愛していて、靡けばユダヤの民を許すと迫る。
ナブッコは、イェルサム寺院を焼き討ちにしユダヤ人をバビロンに捕囚するが、神だと宣言して神罰を受けて狂人と化したナブッコに代わって、大司教に唆されたアビガイッレが、玉座を奪う。
幽閉の身の狂気から醒めたナブッコが、ヘブライの神に許しを乞い、ユダヤ人虐殺を中止して帰郷を許し、処刑寸前のフェネーナを助ける。
深手を負ったアビガイッレが現れ、フェネーナに許しを乞い息絶える。
ザカリーナは、ナブッコを「王の中の王」と讃える。
さて、実際の舞台だが、まず魅力的なのは、冒頭に登場するヘブライ人を統べる祭祀長ザッカーリア(ドミトリー・ベロセルスキー )の素晴らしいバスの朗唱で、危機に瀕した民に向かって「エジプトの海辺で」でイスラエルの栄光の歴史を朗々と歌うのだが、ここで、一気に「ナブッコ」の魅力に引き込まれてしまう。
若きウクライナのバス・ベロセルスキー の歌唱は圧倒的で、このローマ歌劇場だけではなく、METデビュー、ミラノスカラ座、ボリショイ劇場でも歌って脚光を浴びたと言うのであるから、ムーティが白羽の矢を立てるのも当然であろう。
もう一人の魅力的な歌手は、当然、タイトルロール・ナブッコを歌うバリトンのルカ・サルシ で、「ボエーム」のマルチェッロ、「ファルスタッフ」のフォード、「セビリャの理髪師」のフィガロ、「椿姫」のジェルモン、「ジャンニ=スキッキ」のタイトルロール、「蝶々夫人」のシャープレスなどがレパートリーだと言う。
新バビロニアの大王から、錯乱状態になり、奴隷に産ませた娘アビガイッレに王座を簒奪され、娘フェネーナの助命を嘆願し、最後には正気に戻って聖王に戻ると言う複雑な役割を、歌唱にメリハリをつけて性格俳優よろしく器用に歌い遂せたのは流石である。
さて、準主演でプリマのアビガイッレ役で出演予定であったタチアナ・セルジャンが、初日の公演には出演したのだが、急な体調不良により、ラッファエッラ・アンジェレッティに代わった。
主演が、代わってしまったようなものだから、観客にとっては、残念なことだが、私の場合には、歌手を聴きに行ったわけでもないので、それ程、気にはならなかった。
今を時めくロシアのプリマ・セルジャンを聴けなかったのは残念だったが、新進気鋭で人気上昇中だと言うラッファエッラ・アンジェレッティを聴けたのだから、良しとすべきであろう。
アンジェレッティは、「アレーナ・ディ・ヴェローナ & プラシド・ドミンゴ in 東京 2010 」で、ヴェルディの「オテッロ 」4幕目を、 オテッロのプラシド・ドミンゴを相手にしてデスデーモナを歌っている。
また、蝶々さんはウィーン国立歌劇場で2007年に歌って高く評価され、マチェラータ音楽祭の2009年の舞台がDVDになっている。
Operabaseを見れば、セルジャンの方が先輩故圧倒的だが、アンジェレッティに方も、活躍舞台が、どんどん広がっている。
ある外国評で、声は必ずしも美しくないと書いていたが、確かに、役柄の所為か、非常にパンチの利いた鋭角的な澄んだ歌声で、キャサリン・バトルやルネ・フレミングのような魅力的な声ではなかったが、あのマリア・カラスでさえ、私の声は皆さん嫌いな筈だと言っていたくらいだから、オペラ歌手としては、声など問題外なのであろう。
とにかく、美人だし、姿かたちも美しく、才色兼備のオペラ歌手だと思う。
ソニア・ガナッシとアントニオ・ポーリは、定評のある歌手とかで、安心して聴いていたが、ナッブコの舞台には、取ってつけたような愛の物語なので、役不足の感じで、私には、しっくりとしなかったが、素晴らしい歌唱を楽しませて貰った。
さて、ムーティの満を持してのヴェルディ公演で、帰途、ムーティの新著『ムーティ、ヴェルディを語る』を読んで、”作曲家の書いた楽譜通りに演奏する“原典主義”を貫き、慣習的に定着したものと異なる演奏に徹して、「楽譜に忠実というのは、音の正しさという意味ではありません。そこに書かれている音の意味を考えなければならないということです。ヴェルディはこのドラマがどうあるべきか、演出や心情にいたるまで、すべてを音楽に書いています。ヴェルディの音楽は劇場なのです」”と言うことを感じて、改めて、マエストロの熱熱たるヴェルディ賛歌を感じて、感激を新たにした。
ムーティのオペラ鑑賞は、前回のスカラ座公演で「オテロ」だが、一番最初にムーティの指揮に接したのは、もう、何十年も前、音楽監督になる前、オーマンディ時代のフィラデルフィア管弦楽団の定期公演で、最も新しいのは、ニューヨーク・フィルでの定期公演、ヨーロッパではウィーン・フィルなど、結構、楽しませて貰っている。
今回、カーテンコールに登場したマエストロを見ていて、随分、老成したなあと言う感じがした。
とにかく、久しぶりに、オペラを楽しみ、オペラ三昧であったヨーロッパの思い出を反芻していた。