熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

相曽賢一朗ヴァイオリン・リサイタル

2012年11月30日 | クラシック音楽・オペラ
   毎年恒例の「相曽ヴァイオリン・リサイタル」が、今回は東京文化会館の小ホールから場所を代えて、千駄ヶ谷の津田ホールで開催された。
   今回は、、一昨年に伴奏をつとめたピアニスト・サム・ヘイウッドとともに、ウィーンに関係ある作曲家ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第7番ハ短調と、R.シュトラウスのヴァイオリン・ソナタ変ホ長調を両端にして、サン=サーンスのワルツ・カプリースと「白鳥」を挟むと言うプログラムの素晴らしく格調の高い演奏会であった。

   結構、演奏会には足を運んでいるつもりなのだが、このプログラムでは、サン=サーンスの動物の謝肉祭の「白鳥」しか聞いたことがない。
   ロンドン響だったかコンセルトヘヴォー管だったか忘れたが、チェロのソロであった。
   映像でしか記憶はないが、ウラノワの瀕死の白鳥の優雅な姿が目に焼き付いているのだが、ヨーロッパに行ってからは、白鳥を、あっちこっちで見て、馴染みの鳥であることを知った。
   オランダの運河の畔で歩いている親子の白鳥などは、正に、醜いアヒルの子の行列なのである。

   
   相曽の白鳥は、実にピュアーな、しかし、実に温かくて優しい音色で、感動を呼ぶ美しさである。
   アンコールで演奏したエルガーの「愛の挨拶」もそうだが、どんな小曲でも、相曽の人間性そのものが迸り出ていて、実に滋味深い包み込むような豊かな響きが輝いていて、それに呼応して奏でるピアノのサウンドの美しさは、また、格別なのである。
   
   シュトラウスのソナタについては、”若いエネルギーがみなぎる青年シュトラウスの曲だ”と言っていたが、正に、ハプスブルグ王朝の世紀末の爛熟期に花開いた華やかな曲で、私には、後の壮大なオペラへの片鱗を感じさせる演奏であった。
   相曽は、自分のコンサートの最後に持ってきた曲であるから、流石に満を持したダイナミックな素晴らしい演奏であった。
   案内によると、朝日カルチャーで、相曽とヘイウッドは、プロシア皇帝ヴィルヘルム2世時代の国家風潮とその影響を、当時の美術と音楽=野心に満ちた青年シュトラウスのヴァイオリン・ソナタの中に探り、・・・生演奏にユーモアと心理的洞察を交えて解説すると言うことである。

   やや厳しいしっかりとしたベートーヴェンの第7番を冒頭に持ってきて、色彩豊かなサン=サーンスに繋ぐなど、芸の細かささえ感じるのだが、私は、いつも、相曽の演奏を聴きながら、イギリス、そして、ヨーロッパを感じている。
   紛れもなく、相曽は、徹頭徹尾、代表的な日本男児だと思うが、非常に人格円満で優しくて包容力のある人物なので、イギリス社会に受け入れられて、完全に、ヨーロッパ人に同化しており、相曽サウンドの中には、ヨーロッパ・オリジンのクラシックそのものの香りと息吹が滲み出ており、それが、年ごとに深まりながら、そして、それを、日本人としての魂が呼応して、相曽の芸術を高みへと導いているような気がしている。
   イギリス生活20年と言っていたが、このヨーロッパをベースにした相曽の音楽活動が、日本をベースにした日本人の音楽家とも、あるいは、ヨーロッパ・オリジンの音楽家とも違った、豊かさ深さ大きさを生み出しているのである。

   相曽青年が、初めてロンドンに着いて電話してきて逗留したのが、キューガーデンにあった我が家で、あれから、早20年。
   それから、相曽青年のRoyal Academy of Artsでの音楽修業が始まった。
   その合間に、我が家を訪れた相曽君に頼んで、ミニ・コンサートを開いて、子供たちと演奏してもらい、近所の娘の日本人小学校仲間の家族を招待して楽しんでもらった。
   20年前に、相曽賢一朗のファンになった昔の仲間たちが、毎年、相曽賢一朗コンサートの日に集まって同窓会を開いており、この日を楽しみにしている。

   この口絵写真は、昨夜のコンサート終了後、ファンにCDにサインしていた相曽賢一朗に、「相曽君、写真撮ってもよい?」と割り込んだのだが、厚かましい私の声を覚えてくれていたのであろう、にっこり、応えてくれたワン・ショットである。
   肖像権の侵害だと言わないと思うので、ついでに、相曽青年の20年前の我が家のミニ・コンサートでの2ショットをここに紹介しておきたい。
   
   

   相曽青年を招待して、ハンプトン・コート宮殿でのホセ・カレラス演奏会の帰途、交差点で、私の運転していたベンツが追突されるなど、随分いろいろなことがあったが、あれから、もう20年である。
   随分成長して、素晴らしい音楽家としてヨーロッパ各地で活躍している相曽賢一朗の演奏会を、毎年、楽しみにしていて、いそいそと出かけている。
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国立文楽劇場・・・通し狂言「仮名手本忠臣蔵」(3)

2012年11月29日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   さて、今回の通し狂言でも省略され、歌舞伎でも、殆ど公演されることがなく、稀有にも最近、平成22年1月大阪松竹座の通しで五代目片岡我當が務めたと言う「天川屋見世の場」浄瑠璃では「発足の櫛笄(天河屋)だが、討ち入りの武器や武具一切を調達した天川屋義平の胸の空く様な男気のあるシーンを映画の「忠臣蔵」で見て、いつかは見たいと思っている。

   役人の拷問に絶え忍び一切口を割らなかった天野屋利兵衛がモデルで、4歳の倅の喉に抜き刀を差しつけられながらも、茣蓙荷の長持の蓋にどっかと座って「天河屋の義平は男でござるぞ、子にほだされ存ぜぬ事を存じたとは申さぬ」と豪語する雄姿は流石である。
   確かに、あれだけの用意周到な討ち入りを実行するためには、槍刀など武器の調達も極秘裏にことを運ばねばならず、一つ間違えば、本懐の仇討が吹っ飛んでしまう。
   天野屋利兵衛は、赤穂との取引はなかったと言うのであるから、大石内蔵助の眼力と人望は大したもだったと言うべきであろう。

   この浄瑠璃では、由良助が、義平は生まれながらの町人であり、寵愛の一子に迷うは親心、捕えられて詮議あれば如何せんと信用しない義士たちを安緒させるために、義平の店に踏み込んだ捕手役人たちは、すべて変装した義士たちで、義平が、わが子をもぎ取り絞め殺そうとする寸前に、由良助が現れて平謝り、捕手たちも十手取縄打ち捨てて下座すると言う話になっている。
   この浄瑠璃では、仇討は由良助の当初からの本心で、随所にこれを匂わせており、カモフラージュするのはあくまで外野や敵方などに対してで、然るべき関係者には、はっきりと明言しているのである。

   歌舞伎でも、文楽でも、「塩谷判官切腹の場」では、判官の亡骸が菩提寺へ送られて行くところで終わって、その後の家来たちの動向が省略されている。
   ここで、金銀を分けて取るのが上分別と言う欲面の斧九太夫と斧定九郎親子が、討死と聞いて逃げ帰る様子や、屋敷明渡し後、師直公の罰があたったとどっと哄笑して勝鬨をあげる薬師丸たちの様子などが語られているが、
   由良助が、”亡君の御形見を抜きはなし。「この切先には。わが君の御血をあやし。御無念の魂を 残されし九寸五分。この刀にて師直が。首かき切って本意を遂げん。”とはっきり明言している。

   さて、ついでながら、斧定九郎だが、歌舞伎では、五段目の「二つ玉の場」で、決定版とも言うべき初代中村仲蔵の編み出したシンプルで絵のような演出が定番となっている。
   しかし、この浄瑠璃では、先に記したように判官切腹直後でも出て来るし、文楽の「二つ玉の段」でも踏襲しているのだが、夜道を急ぐ与市兵衛を追いかけて来て「良い道連れ」と声をかけて財布を奪い取るのだが、貸してくれと凄まれて、娘が夫仕官のために身売りした金だから助けくれと懇願するも殺すと言う山賊に成り果てたどうしようもない男として描いているのが面白い。

   もう一つ気づいたのは、「祇園一力茶屋の段」で、歌舞伎では、おかる(簑助)が、平右衛門(勘十郎)に、勘平の消息を聞きたいのに、恥ずかしそうに、中々切り出せない様子が、中々、魅力的なのだが、
   文楽では、平右衛門が、父親与市兵衛が人に切られて亡くなったと言った後に、”コリャ、吃驚するな吃驚するな。まだ後に吃驚の親玉があるわい。われが請け出されて添はうと思ふ勘平はなあ”と切り出し、勘平はやっぱり勘平だわい、よい女房さんでも出来たのかえ、そんな陽気な事はねえわい、勘平殿は、”腹を切って死んだわやい”とかなりシンプル化されていて、
   浄瑠璃の原文になると、もっと、シンプルで、”コリャまだびっくりすな。請け出されて添はうと思ふ勘平も。腹切って死んだわやい”で終わっていて、歌舞伎の舞台の創作が興味深い。

   この「祇園一力茶屋の段」のおかるは、簑助が遣った。
   二階の窓辺から顔を覗かせる冒頭から魅力全開で、こんなに美しくて魅力的な女性像を見たことがないほど感激であった。
   胸を軽く突きだして柱に身を任せる艶めかしさ、柱にぴったりと身を寄せて佇むアンニュイな憂いに満ちた表情のセクシーさ、
   それが一転して、勘平の死を聞いて、うつ伏して身を震わせて慟哭し失神、気が違ったように動転して、”オオお前は兄さん””勘平さんはどうさしやんしたえ”・・・おかる人形が断末魔の苦しみを全身で表現、
   今回、顏世を遣う筈だった文雀も、塩谷判官を遣う筈だった紋壽も休演し、住大夫も、千歳大夫も舞台に立たなかった。簑助の至芸を鑑賞できた幸せを噛みしめるべきであろうと思っている。
   この簑助のおかるに対する勘十郎の寺岡平右衛門の素晴らしさ、師弟コンビの阿吽の呼吸と言うよりも、丁々発止の芸の炸裂であろうか。

   やはり、仮名手本忠臣蔵は、大星由良助あっての忠臣蔵。玉男の至芸を継承した玉女の気迫と燃えるような情熱に裏打ちされた颯爽とした舞台は、非常に新鮮で魅力的であり、祇園一力茶屋の段では、光っていた。
   その由良助を語った咲大夫は、現在の浄瑠璃語りの頂点とも言うべき感動的な舞台であった。

   ところで、師直の首を上げて後の浄瑠璃原文の結末が興味深い。
   現場での焼香の最中に、表門より師直の弟・師安が攻めかかるので、由良助は、”師直の一家の武士が攻撃を仕掛けて来たのであろう、罪作りになにかせん(更に罪作りの殺生をしても無益なので本望を達したのであるからここで自害しよう)。と覚悟する。
   そこへ、桃井若狭助が駆けつけて来て、”ここで腹切っては、敵に恐れしと後代までのそしり。塩谷殿の御菩提所光明寺へ立ち退くべし”と言われて、由良助は、敵の追撃の防御を頼んで菩提寺へ向かう。
   面白いのは、この期に及んで、薬師丸次郎と鷺坂伴内が討ちかかってきて、力弥たちに殺されて、「オオ手柄手柄」と称美のことば。末世末代伝ふる義臣・・・と言った調子で幕引きがなされていることである。
   文楽の「花水橋引揚の段」では、若狭助が駆けつけて来て、師直方の追っ手が来れば引き受けようと申し出るので、由良助は、お礼は冥途よりと言って、さらばと立ち去る。と言ったシンプルな形になっている。
   「仮名手本忠臣蔵」は、通し狂言でこそ、楽しむべき素晴らしい浄瑠璃だと思っている。
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国立文楽劇場・・・通し狂言「仮名手本忠臣蔵」(2)

2012年11月27日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   橋下市長の補助金問題で窮地に立った文楽協会も、補助金凍結が解除になったようだが、客足は、事件のお蔭で、大分良くなったようである。
   私が劇場に行ったのは、19日の月曜日。平日で、昼の部の入りは60%くらいで、夜の部は70%くらいだったが、これまでの私の記憶より多い方だが、演目が、「仮名手本忠臣蔵」であったからかも知れない。
   劇中、「祇園一力茶屋の段」で、大夫が、由良助の使う手水鉢に引っかけて、
   ”文楽協会の補助金とかけて、手水鉢の水と解く、
   こころは、凍結されてはたまりません。”
   と語ると、やんやの喝采であった。

   ところで、この「仮名手本忠臣蔵」で非常に傑出しているのは、加古川本蔵(勘十郎)の創作であると思っている。
   「「山科閑居の段」で、本蔵が、由良助に、「思えば貴殿の身の上は。本蔵が身にあるべきはず。」と言う言葉に集約されている。
   「桃井館本蔵松切りの段」で、若狭助が、本蔵に、師直を許せないので明日切り殺す、さらばだと言って座を立ったので、本蔵が、慌てて馬を駆って、お家大事と、過分な進物を用意して、「下馬先進物の段」で、師直に進上して懐柔するのだが、この賂進呈がなければ、正に、若狭助は、師直に刃傷に及んで、塩谷判官と同じ立場に立ち、本蔵が、仇討の使命を受けることになる。
   勘十郎の遣う加古川本蔵の素晴らしさは、特に山科閑居では突出していて、本蔵の魅力を倍加して、正に、特筆ものである。

   この師直懐柔のための賄賂については、「花籠の段」で、斧九太夫(文司)が、今回の刃傷事件は、原郷右衛門(玉輝)の「吝嗇・吝さから起こったこと。金銀をもって面をはりめさるれば、かやうな事はでき申さぬ。」と非難すると、郷右衛門は、”人にこびへつらふは侍でない。武士でない。”と言って争うのを、顏世が窘めて、”もとのおこりはこの顏世。”と受けて、”さよ衣の歌を書き、恥ぢしめてやったれば、恋のかなはぬ意趣ばらし”と語り始める。
   若狭家と塩谷家の追従賄賂に対する違いが出ていて面白いし、この対比を作者は際立たせて、由良助と本蔵の生き様を活写していて話に深みを増している。
   判官が、切腹申しつけを受けて、”恨むらくは館にて。加古川本蔵に抱きとめられ。師直を討ち洩らし無念。骨髄にとほって忘れがたし。・・・生き替り死に替り。鬱憤を晴らさん。”と言って、一気に、本蔵を悪者に仕立てあげてしまっており、この作者の設定が、娘小浪の恋を翻弄し、山科閑居の悲劇の伏線となっている。
   本蔵は、”相手死なずば切腹にも及ぶまじと。抱き留めたは、思い過した本蔵が。一生の誤り”と瀕死の状態で述懐しているのだが、運命の悪戯と言うかボタンのかけ違いであろうか。

   さて、おかると勘平の関係だが、この浄瑠璃では、第三「恋歌の意趣(館騒動)」の足利直義供応の当日に、おかるが顏世に頼まれて、例の返歌を、塩谷判官に随行して登城した勘平を通じて判官に届け、判官から師直に渡そうとするところで、二人が登場する。
   門前から中を覗いたおかるが、運良く勘平に呼び止められて、「勘平さん会いたかった、良かった良かった」と喜ぶのだが、面白いのは、顏世が「取り込み中で、間違いが生じないとも限らない。今宵は止しにしよう。」言うのを、「何のこんな歌の一首や二首、お届けなさるほどの間のない事はあるまい。」と言って、勘平に会いたいばっかりに、走ってきたと言うのである。

   その後、おかるに一物ある鷺坂伴内との恋の鞘当があって、うまく伴内を撒いた勘平が帰って来ると、おかるが、「首尾ついでに、一寸一寸、やがて夜が明けるわいな、是非に是非に」と勘平の手を取って、ここでは出入りがあって拙いと言うのだが、「下地は好きなり御意はよし」で、「イザ腰かけで」と手を引き合ひ うち連れて行く。のである。
   結局、この逢引きの最中に、塩谷判官の殿中での師直刃傷事件が起こる。
   館の大騒動に気づいて慌てた勘平が、門を叩くが既に固く閉門。
   ”主人一生懸命の場にあり合わさず、あまつさえ、囚人同然の網乗物、御屋敷は閉門。その家来は色にふけり、御伴にはづれし・・・”と切腹しようとするのだが、おかるに止められて、おかるの在所山崎へと落ち延びて行く。

   この場面は、今回の通し狂言では、「腰元おかる文使いの段」と「裏門の段」で、清十郎の勘平と勘彌のおかるが、三輪大夫と清志郎、咲甫大夫と喜一朗の語りと三味線に乗って、素晴らしい舞台を披露してくれている。
   歌舞伎では、殆ど演じられないようで、どうしても、おかる勘平の舞台は、仮名手本忠臣蔵には本来ない道行旅路の花聟や、五段目 山崎街道の場、六段目 早野勘平住家の場 早野勘平腹切の場、七段目 祇園一力の場 だけでの印象になっており、おかるの軽はずみが、勘平の「色に耽ったばっかりに」の悲痛な後悔の台詞に繋がって行く、この悲劇への伏線部分が、如何にも、人間的で興味深いのである。
   赤穂浪士の討ち入りの背後には、筆舌に尽くし難い家族たちの悲惨な人生模様や悲劇があったのであろうが、このおかる勘平の物語が、その一面を象徴していると言うことであろう。

   もう一つこの仮名手本忠臣蔵の特色は、女忠臣蔵とも言うべき性格を持っており、顏世、おかる、小浪と言った素晴らしい脇役に加えて、「山科閑居の段」での、戸無瀬とお石の男そこのけの代理戦争とも言うべき激しさと、作者の思いや哲学を滔々と語り継ぐ気迫などの凄さは、物語以上の迫力である。
   先に、北川智子著「ハーバード白熱日本史教室」について、ブックレビューしたのだが、北川さんも、この仮名手本忠臣蔵の浄瑠璃を読んでおれば、多少は、LADY SAMURAIへの思いが変わってきていたかも知れないと言う気がしている。



   
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国立文楽劇場・・・通し狂言「仮名手本忠臣蔵」(1)

2012年11月26日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   私は、文楽でも歌舞伎でも、出来れば通し狂言で鑑賞すべきだと思っているので、今回の大阪での「通し狂言 仮名手本忠臣蔵」公演は、願ったり叶ったりの舞台であった。
   これまでに、歌舞伎で1回、文楽で2回、仮名手本忠臣蔵の通し狂言の舞台を鑑賞する機会があった。
   文楽での最初は、90年代の後半だったか21世紀に入ってからかは忘れたが、玉男の大星由良助で、丁度、全編NHKで放映されて録画したのだが、ソニーのDVDレコーダーが壊れてダビングできなかった。
   2回目は、玉男が逝去した月の公演で、簑助が由良助を遣った感動的な舞台で、幸い、このブログで記録を残している。

   今回は、無精ながら怠っていたので、浄瑠璃集を紐解いて、竹田出雲たちの仮名手本忠臣蔵の原本を読んだ。
   文楽が、最も原文に忠実で、次に、上方歌舞伎で、一番脚色が進んでいるのが江戸歌舞伎だと言う感じはしていたが、文楽でも、かなり忠実に筋を追っているのだが、ところどころ違っていて、その違いの差が興味深い。

   この仮名手本忠臣蔵は、太平記に準えて舞台を室町時代に設定しているのだが、赤穂浪士による仇討事件を題材にしているので、本望を遂げようとする武士たちの忠義やその苦痛が主題であることには間違いない。
   しかし、今回原文を読んでいて、その背景に、一つの倒錯した愛と二つの純愛に近い男女の愛と、それに絡んだ人々の人間としての思いが、サブテーマとして色濃く流れていて、このことが、この浄瑠璃の魅力と価値を増しているのではなかろうかと言う気がしている。

   倒錯した愛と言うのは、当然、師直(玉也)の顏世御前(和生、勘彌)に対する横恋慕だが、刃傷後の「花籠の段」で、顏世御前が、はっきりと、家来たちの面前で、事件の原因は、自分が師直の恋を拒絶したからだと明言している。
   このことは、師直と塩谷判官(和生)が渡り合う舞台を見ていれば分かるのだが、あの時代に、勅使が切腹の沙汰に来る直前の死活の混乱状態に、判官を慰めようと桜の花籠を飾った座敷で、恋歌の意趣返し発言をする凄さである。
   中村歌右衛門が、顔世が美しかったからこそ忠臣蔵が成ったのだと言っていたが、この顏世だが、”花籠に活けられる花よりも、活ける人こそ花もみぢ。”とあるからには、相当なもので、冒頭の鶴岡の場で、”をなご好きの師直・・・”と語るなどは蛇足であろう。 

   ところで、もう二つの男女の愛は、加古川本蔵(勘十郎)の娘小浪(一輔)と大星力弥(文昇)、そして、おかる(勘彌)と勘平(清十郎)の愛である。

   まず、歌舞伎でも文楽でも、大体、小浪が登場するのは、「道行旅路の嫁入」から「山科閑居」の場である。
   しかし、原文では、「諫言の寝刃(松切り)」の場で、(今回の文楽では「桃井館本蔵松切の段」の前半で省略されてしまっていたのだが、)若狭助(幸助)が本蔵に、師直切捨ての決意を吐露する前に、力弥が、判官の伝言伝達の使者として訪れるので、気を利かせた母・戸無瀬が病気だとして、小浪に使者供応を任せる。
   ”日ごろ恋しゆかしい力弥様。逢はばどう言をかう言をと。娘心のどきどきと。胸に小浪を打ち寄する。” ”じっと見かはす顔と顔。たがひの胸に恋人と。ものもえいはぬ赤面は。梅と桜の花相撲に、枕の行司なかりけり。””・・・水を流せる口上に。小浪はうっかり顔見とれ、とかう。答えもなかりけり。”
   二人の初々しい嬉し恥ずかしい狼狽ぶりが、実に爽やかである。

   このシーンが分かっておれば、道行での小浪のはしゃぎ様や、籠から降りて門口に立った小浪が、”ほほゑがほ、・・・わしゃ恥づかしい」となまめかし。”の様子や、切羽詰って”力弥様よりほかに余の殿御。わしやいやいや」と一筋に、恋を立てぬく心根を。””母親の手に掛けて、わたしを殺して下さりませ。早う殺して下さりませ。」”と言う必死の恋心が分かるのである。

   もう一つ感動的なのは、大石の妻お石に、祝言許す代わりに本蔵の首を差し出せと言われて、本蔵は、力弥の槍に倒れるのだが、本蔵が、死を賭して述懐する、”一生の誤りは、娘が難儀としらが(知らず・白髪)のこの首。婿殿に。進ぜたさ。」””約束のとほりこの娘。力弥に添はせて下さらば 未来永劫御恩は忘れぬ。手を合わせて頼み入る。忠義にならでは捨てぬ命。子ゆゑに捨つる親心 推量あれ由良殿。”血を吐く様な娘への思いである。
   私も二人の娘の親なので、この本蔵の心根は痛いほど良く分かる。

   おかるの勘平へ思いも一途であり、両方とも、女性の方から積極的で、近松門左衛門の描く大坂女を彷彿とさせて面白い。
   おかる勘平の話は、次にしたいと思っており、また、この文楽でも省略されている「天河屋の義平は男でござるぞ。」と言う「発足の櫛笄(天河屋)」の場など、原文の浄瑠璃と実際の歌舞伎や文楽との違いの微妙な面白さについても考えてみたいと思っている。
   
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久しぶりの関西の秋(4)

2012年11月24日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   これまで、鞍馬寺には2回ほど来ているのだが、まだ、本殿までは上っても奥の院までは行ったことはない。いつも、鞍馬街道の町並みを見て引き返して、詩仙堂など叡電沿いの古寺を歩いていたのである。
   この日は、本格的に鞍馬寺の奥まで上って、鞍馬山を越えて、山道を貴船神社まで下ろうと考えた。
   この鞍馬寺は、開基は鑑真の高弟鑑禎だとされている歴史のある寺院であるが、入口の山門を含めて伽藍の殆どは20世紀の建物なので、朱塗りが鮮やかであり、古いのは、国宝の木造毘沙門天立像、木造吉祥天立像、木造善膩師童子立像と言った仏像や、鞍馬寺経塚遺物と言った文化財だけである。


   さて、地図を見た程度でロクに考えもせずに歩き始めたので、結構な難路であることに気づいて、友はスマートな元スポーツマンだが、私の方は、歳のことも考えて、湿った山道を下るのに、手すりのお世話になったのだが、元気だった学生時代を思い出して、今昔の感しきりであった。
   この写真は、グーグル・アースから転写したのだが、結構な傾斜で、右手中央の鞍馬駅から山越えして左手の貴船川沿いの貴船に抜けたことになる。距離は3~4キロ程度で短いが、急坂である。
   帰りは、紅葉の川沿いを、貴船神社から貴船口駅(地図のY字合流地点)まで歩くつもりだったが、雨足が繁くなったのでバスに乗った。
   
   

   山門から多宝塔まで、寺経営のケーブルカーが通じているのだが、途中に鞍馬寺の鎮守社である由岐神社があるので、歩いて登った。
   このケーブルカーは、寺の経営で建前上は無料だが、運賃と言うことになると課税されるので、寄付金ということで100円取っているようだが、一種の節税、悪く言えば脱税であろう。
   この駅舎に入って横の椅子に座って、地図を見ながら打ち合わせをしていたら、乗るつもりもないので支払わなかったので、厳しく注意されて場末へ追いやられたのだが、これなど、寄付金ではなく、正しく、運賃徴収であることを立証している。 

   ところで、由岐神社は、鳥居と山門の背後に巨大な京都市指定天然記念物である大杉社の神木が3本そそり立っており、その急な石段の斜面の上に、豊臣秀頼の再建の本殿と拝殿が建っていて、拝殿は、割拝殿形式の桃山建築で重要文化財だと言う。
   実に愛嬌のある石の狛犬が拝殿の両脇にあるのだが、これも、重要文化財である。
   この神社は、鞍馬の火祭の舞台でもあり、鞍馬寺とは、大分性格が違うのが興味深い。
   

   本殿のある高みまで登ると、遠くに比叡山が遠望できる。
   境内にはもみじなど紅葉していて綺麗だが、このあたりでは、遠くの山々の紅葉の華やかさはあまり感じられなかった。
   本殿金堂の裏には、霊宝殿があって国宝仏などが展示されているようだが、今回は、何故か食指が動かず素通りして先を急いだ。
   
   
   

   この鞍馬山なり鞍馬寺は、義経伝説で有名なのだが、途中に、義経が、奥州に下る時に名残を惜しんで背を比べたと言われる背比べ石が立っていたが、随分小さい。
   義経を遮那王尊として祀る義経堂や、謡曲の鞍馬天狗が牛若丸と出会ったと言われる僧正ガ谷不動堂など義経ゆかりの故地があるのだが、場違いにも、東京から移築したと言う与謝野晶子の書斎冬柏亭が境内にあるのにはびっくりした。
   奥の院を越えると、貴船までは、一気に下り坂で、雑木の根っこが網の目のように張り出した山道を下る。
   まだ観ていないのだが、貴船近くの西門にかけての厳しい山中が能「鞍馬天狗」の舞台だという。12月の狂言が、「鞍馬参」なのだが、今回の旅は、能狂言鑑賞のイメージ増幅には役に立つかも知れない。
   元気な昔のお嬢さんたちが、ストックをつきながら登って来たので、貴船からの山道の方がキツいのにと言ったら、坂道は滑るので上り専門だと言う。

   貴船に降り立つと、自動車道となって、急に娑婆に帰ってきたような感じになって、その落差が激しい。
   貴船川に沿って料亭や旅館が並んでいて、それなりに小奇麗な観光地になっているのだが、舗装道路が、如何にも無粋で興ざめである。
   川沿いにモミジが紅葉しているのだが、殆どが黄色から薄いオレンジ色なので、真っ赤に萌える紅葉がなくて、華やかさに欠ける。
   私は、ヨーロッパでも、森や林全体が、黄金一色に輝く眼の覚めるような紅葉を随分見てきたのだが、やはり、真っ赤に色づく日本のもみじが懐かしかった。
   尤も、私の好みは、一本のもみじの木が同時に、緑から黄色、オレンジ、真っ赤に色づく華麗な錦織りのような紅葉なのだが、宇治分校での下宿時代に慣れ親しんだ平等院沿いの宇治川の紅葉が忘れられない。
   

   貴船口から叡電で出町柳に出た。
   帰りの飛行機まで時間があり、天気も良くなったので、先日、能「賀茂」を鑑賞した後でもあるし、駅からほんの10分も歩いて、糺の森を抜ければ、下鴨神社に着くので、川べりを北上した。
   糺の森の入口の石碑の向こう側に、朱塗りの鳥居の河合神社が見える。鴨長明の方丈の庵の模型があると言うことだったが、境内の紅葉を見て素通り。
   糺の森は、真ん中に綺麗に澄んだ御手洗川が流れていて、非常に空間の豊かな鬱蒼とした、下鴨神社の南口鳥居まで一直線に伸びている素晴らしい森である。
   神社の船島脇のイチョウが夕日を受けて真っ黄色に光り輝いていたのが印象的であった。
   随分前だが、イギリスの友人夫妻を伴ってこの神社でお神楽を見たのを思い出した。
   西参道を抜けて大通りに出て、バスで京都駅に向かったのだが、風邪を押しての強行軍だったけれど、久しぶりの親友との京都歩きだったので、非常に充実した時間を過ごすことができた。
  
   
   
   
   
   
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久しぶりの関西の秋(3)

2012年11月23日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   3日目は、朝早くホテルをチェックアウトして、京阪で出町柳に出た。
   8時台の特急なので、いつもなら、京都へ行く観光客で満員なのだが、次の北浜からでも座れる状態で、一寸、拍子抜けである。

   終点の出町柳で、名古屋から来てくれた大学時代の親友に会って、叡電に乗り換えて鞍馬に向かったのである。
   私が学生の頃には、京阪は、三条までだったのだが、今では、大阪の方も中ノ島まで伸びている。
   近鉄奈良から、阪神に繋がって三宮への直通電車が走っているのも知らなかったのだが、JR西日本では、大阪の真ん中を通る尼崎から京橋への東西線の開通で、京阪奈から阪神が繋がって便利になっており、何十年も関西を離れて、偶に来ると、交通もそうだが、町の様相も変わってしまっていて、カルチュア・ショックを感じる。

   さて、叡電の終点鞍馬で下車して、左手に回り込むと、高い石段の上に朱塗りの大きな建物が見えるのだが、これが、鞍馬寺の仁王門である。
   この仁王門を入って奥ノ院から貴船に向かったのだが、その前に、門前を右に折れて久しぶりに、静かな鞍馬街道を散策することにした、
   鞍馬口から岩倉、鞍馬川を経てこの鞍馬寺門前へと至る古道を鞍馬街道と言うのだが、道沿いに格子のついた江戸時代の民家が並んでいて、高低高低とリズムをつけたように美しい街並みなのである。深い軒、太い柱、広い土間といった特徴を今なお残している。
   訪れる人は殆ど居ないのだが、歴史の重みをずっしりと町並に込めたこの静けさが、堪らなく、好きなのである。
   
   

   京都では、景観条例があって、景観保存の制度が整備されていて、かなり、美観地区が美しい状態を保っているのだが、昔の蜷川都政のように徹底的に近代化を禁止していた頃とは違って、全体としては、やはり、都市景観は乱開発に近いのかも知れない。
   昔は、随分、町並保存地区や歴史的な建物などを熱心に見て回ったことがあったのだが、結局は、観光開発を優先するのか、今の京都は、鄙びた感じが殆ど消えてしまっていているので、昔の佇まいの思い出を大切にしたくて、最近では殆ど訪れなくなってしまった。

   学生の頃の祇王寺や滝口寺などは、正に、平家物語の世界で、踏み分けて・・・と言う感じであったし、嵯峨野の気の遠くなるような静けさの魅力は格別であった。
   ”亀山のあたり近く、松の一むらあるかたに、かすかに琴ぞ聞こえける。峰の嵐か松風か、たづぬる人の琴の音か、おぼつかなくは思へども、駒をはやめて行くほどに、・・・” 小督の一節だが、そんな風情が残っていた。
   私は、学部時代には、阪急京都線で、百万遍まで通っていたが、気持ちの良い日には、嵐山線に乗り換えて、嵯峨野や北山の方へ方向を代えて、あっちこっちで沈没していた。


   余談だが、泊まっていた宗右衛門町のホテルでの朝食が15階のレストランだったのだが、そこから南側を見晴らす展望の酷さは、戦後と見紛うほどの景観で、ある意味では、大阪は何も変わっていないなあと言う感じであった。
   夜の道頓堀は、正に、ネオンと電光の世界で厚化粧の美しさと言うか、豊かさの証ではあろうが、一夜明けた裏の世界は、ペルシャの市場の寂しさを越えた悲しさである。

   イギリスにいた時、晩餐会に出席して、チャールズ皇太子が、ロンドン・シティの無秩序な(?)な乱開発によるシティの景観特にスカイラインを、ヒットラーの空爆による廃墟よりも酷いと、RAPE OF BRITAINだと糾弾した演説を聞いていたのだが、この大阪南の街の景観の酷さは、そんな比ではない。
   これまで、随分、世界中を歩いて、高みから、都市や街の景観を展望することがあったのだが、まず、この大阪の街のようなスカイライン、そして、上から見た美的感覚からは程遠い景観の酷さを見たことがない。
   世界に冠たる経済大国であった日本が、今まで何をしていたのか、豊かさとは何だったのか、つくづく考えさせられた。

   長く住んだヨーロッパの都市景観や街並みも、新市街や新開発地は、多少、美観を損なっているキライもあるのだが、しかし、旧市街の美しさなどは格別で、生活空間を大切にする民度の高さ豊かさはどこから来るのか、文化とは、文明とは一体何なのか、一寸、考えさせられた一日であった。
   
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久しぶりの関西の秋(2)

2012年11月22日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   二日目は、朝から晩まで、日本橋の国立文楽劇場で、「通し狂言 仮名手本忠臣蔵」鑑賞であった。
   この通し狂言を文楽で、最初に見たのは、随分前の話で、大星由良助を吉田玉男が遣っていて、次に見たのは、正に、玉男が逝去した2006年9月の公演で、当初病気休演と言うことで、由良助を簑助が遣うと言う非常に稀有な素晴らしい舞台を見せてもらった。
   今回は、久しぶりの通し狂言で、簑助の極め付きのお軽はそのままだったが、文雀や紋壽が病気休演もあった所為もあって、玉女の由良助を筆頭に、世代交代した感じの舞台で、浄瑠璃も三味線も、若い世代の意欲的な舞台が精彩を放っていた。
   この公演印象記は、別稿で書くことにする。

   朝、開演まで時間があったので、宗右衛門町のホテルを出て、道頓堀に出た。
   夜の賑わいとは違って、道頓堀通りも静まり返って雰囲気は全く違うのだが、けばけばした派手な看板やデコレーションはそのままで、観光客がちらほら、張り出した床几でラーメンをすする中国人家族や、つぶれた筈のくいだおれ人形の前でポーズをとって写真を撮る高校生など、少しずつ動き出している。
   
   
   
   大阪松竹座の前には、元旦からの壽初春大歌舞伎の猿翁・猿之助・中車の襲名披露公演の立て看板が立っている。
   その反対側には、上演中の松竹新喜劇の看板がかかっており、吉本と張り合っている感じである。
   京都の南座もそうだが、歌舞伎公演よりも、それ以外の演劇や歌謡舞台公演の方が多くかかるのは、やはり、関西歌舞伎の人気低落の証であろうか。
   
   
   千日前通りを越えて難波駅の方に向かって、中華料理店蓬莱に行った。
   娘たちにぶたまんなどを送るためなのだが、大阪では、「蓬莱551」でなければいけないと言う。
   並んで隣に蓬莱本店があるのだが、何故か、551の方が活気があって繁盛している感じで、郵送は10時からだが、客が待っている。
   私は、中華が好きでもないので、何が良いのかも良く分からないので、間違いなかろうと、季節限定と言うセット商品を手配した。
   この店の前に、お好み焼きで名の通ったぼてじゅうがあったが、本店は、道頓堀ガーデンロードの大きなカニの看板が動いているかに道楽の横にあり、大分前に、小さかった孫を連れて行ったら美味しそうに食べていたのを思い出した。
   大阪の台所黒門市場を見ながらと思って、劇場に向かったのだが、時間が無くなって、そのまま、劇場に直行した。
   

   舞台がはねて、9時ころに、夜の道頓堀を一寸歩いてみようと思って歩き出したのだが、やはり、華やかなネオンに誘われてか、若い人たちで賑わっていた。
   道頓堀から一歩入り込んだ宗右衛門町は、バーやナイトクラブ、飲み屋が多いのだが、9時だと言うのに結構メートルの上がった酔客が歩いている。
   もう何十年も前には、こんなところで遊んでいたなあと思いながら歩いていたら、若い女の子が近づいてきて、どこか遊ぶところをお探しですかと聞いてきた。
   
   
   
   
     
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久しぶりの関西の秋(1)

2012年11月21日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   国立文楽劇場で、「通し狂言 仮名手本忠臣蔵」公演を行っているので、関西に出かけた。
   二泊三日の短い旅だったが、忠臣蔵に通った中日は別にして、両端の日は、丁度秋のシーズンでもあったので、奈良と京都を訪れることにした。
   
   朝早く東京を発つつもりでも、千葉からでは結局9時30分発のJAL便がやっとで、伊丹から、バスに乗り継いでも、奈良に着いたのは、午後の1時過ぎである。
   大学時代の友人と、春日ホテルのレストランで、昼を一緒にしたのだが、体調を崩していたので、別れて、唐招提寺が改装なったようだし、近くの薬師寺に向かうことにして、時間があれば、秋篠寺に寄ろうと思って出かけた。
   しかし、県庁の屋上にまず登れと勧められたので、目の前であるから多少は良かろうと思ったのだが、結構、見晴らしも良くて気持ちが良かったので、時間を取ってしまった。
   私も、何回も奈良に通っているのだが、この県庁の屋上は、殆ど観光客もいない正に穴場であった。
   東大寺の大仏殿や南大門から若草山、それに興福寺の五重の塔が間近に望遠できるのが良い。
   
   

   結局、この日は、西ノ京へ行くのを諦めて、時間がない時にはいつも歩く東大寺の境内をを散策することにした。
   丁度、興福寺の再建中の中金堂の北川にある仮金堂の、普段公開されていない本尊・釈迦如来坐像などが公開されていたので、これと、興福寺の国宝館に入って阿修羅像などを見ることにした。
   新しい本尊以外は、薬上菩薩と薬王菩薩立像、四天王像、吉祥天女像、大黒天立像などは重要文化財である。
   真っ黒な顔をして釣り目で頭巾を被った大黒天や、美女ではないが非常に福与かで鮮やかな極彩色の吉祥天女など、非常に興味深い仏像であった
   国宝館は、正に、素晴らしい国宝仏が沢山展示されている宝物館で、何回訪れているか分からない程通っているのだが、今回は、場内が非常にすっきりと改装展示されていて、LED照明を採用されたとかで、見易くなっていた。
   しかし、私には、前のように、阿修羅像など、ガラスケースの中で、身近に鑑賞出来て、立ったり座ったりして位置を変えながら表情の豊かさを楽しめる方が良かったと思っている。
   それに、ハイシーズンであった所為もあり、丁度、上野の美術館の特別展の雰囲気で、順路に沿って数珠つなぎの見学者の長い列で、私などは、見知った興味のある仏像しか見ないので、追い越せなくて苦労した。
   
   

   奈良公園の紅葉は、もっと、春日神社の方に歩いて行けば楽しめるのであろうが、興福寺と東大寺の境内には比較的モミジの木は少なくて、京都の紅葉で有名な古寺のような華やかさはないのだが、弱い薄日に霞む風情は、中々、見事である。
   
   
   
   
   

   私の歩くコースは、県庁横から道を渡って依水園前を左折れして、入江泰吉旧宅を越えて真っ直ぐ歩いて、戒壇院前を右折れして回り込み、大仏池を左にして、二月堂三月堂を目指す道である。
   大仏殿の裏側を回って、講堂跡を通り過ぎて、小川沿いに坂道を上るコースだが、二月堂を仰ぎ見る坂道は、写真にもよく出てくる場所だが、季節の花が美しいと中々雰囲気があって良い。 
   何時もなら、二月堂で長い時間を過ごして、不空羂索観音など多くの国宝仏と対話するのだが、今は、改装中で、閉館である。
   不空羂索観音や日光月光は、南大門脇にあたらしく新築なった「東大寺ミュージアム」に展示されているのだが、この日は、残念がら、閉館時間を過ぎて行ったので、拝観できなかった。 
   
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桂文治襲名披露公演、そして、能・観世流「玄象」

2012年11月17日 | 今日の日記
   芸術鑑賞を、一日に纏めて鑑賞することが多くなったのだが、この日は、昼に国立劇場の寄席・中席の「十一代目桂文治襲名披露公演」と夜の国立能楽堂での定例公演であった。
   両方とも、満席の盛況で、実に充実した舞台の連続で、芸術の秋を堪能させて貰った。

   いつものように、銀座で一仕事をして、三宅坂の国立演芸場に出かけたのだが、少し、開演まで間があったが、威勢の良い前座が始まっていた。
   遅く切符を手配したので、最前列の端の方だったけれど、臨場感があって良かった。

   
   この日、文治が語ったのは、「鈴ヶ森」。
   間抜けな追剥の話で、親方の指導で、初めて鈴ヶ森に出かけて、泥棒デビューを果たすのだが、当然へまをすると言う滑稽噺。鈴ヶ森は刑場の跡だが、今、隣の国立劇場の歌舞伎で、白井権八と幡随院長兵衛とが遭遇する「鈴ヶ森」の場を演じており、引っかけて聴衆を笑わせる。
   豊かな声量と大きな構えが文治の長所だと言われているが、実に愛嬌のある顔をフルに生かして、迫力十分のスケールの大きな語り口で、引き込まれて行く。


   面白かったのは、三遊亭小遊三の「崇徳院」。
   「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢わんとぞ思う」と言う崇徳院の歌を巡っての若い男女の恋煩いの噺である。
   和歌が主題で、面白かったのは、在原業平の「ちはやふる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは」をテーマにした「千早振る」なのだが、この三遊亭小遊三が得意とする演目のようで、『小遊三の千早か、千早の小遊三か』と言われた程だと言う。ぜひ聞いてみたとと思っている。

   
   ところで、襲名披露にも登場した桂右團治(女性初の真打 早大法学部の出身)が、次の披露は、高砂や~で文治と並ぶ時だと言っていたが、嘘か本当か、三遊亭小遊三が、襲名披露でプロポーズは初めてと語っていた。
   文治がダメでも、もう一人独身がいて、春風亭 昇太だが、最近、ハムスターと結婚したと、何か訳の分からないことを言って、笑わせていた。

   とにかく、来月は、この演芸場の改装で、休みとなるのだが、桂伸治の「片棒」、夢太郎の「絹の袈裟」など、非常に充実した中席で、非常に面白かった。
   しかし、鈴ヶ森もそうだし、子供をテーマにした「子ほめ」や「初天神」などにしてもそうだが、まだ、落語に通い始めて間もないのに、同じ演題の落語を聞く機会が多いのには、いくら噺家によってバリエーションがあるにしても、一寸、閉口している。

   いつものように、神保町で時間をつぶして、6時半からの国立能楽堂の定例公演に出かけた。
   狂言・大蔵流の「梟」と能・観世流の「玄象」であった。
   「梟」は、修業が足らない山伏が、梟の霊が乗り移った弟を救うために兄に調伏を頼まれるのだが、ボロロンボロロン、いろはにほへとと怪しげな祈祷をして、兄は勿論のこと、自分まで梟に憑りつかれると言うしまらない話である。
   家の中に、茸が生えて困っているのを、山伏に頼んで解決しようとするのだが、未熟ゆえに、どんどん茸が増えてしまう狂言「茸(くさびら)」と同じような話で、どうも、狂言の世界では、ろくな山伏が出て来ないようである。
   この話は、あのディズニーの「ファンタジア」の魔法使いの弟子と同じで、どんどん箒の数が増えていって困るミッキー・マウスの魔法使いの弟子とそっくりで面白い。

   さて、能「玄象」は、琵琶の名手ツレ/藤原師長(観世清和)が修業のために唐へ渡ろうとするのだが、その前に須磨を訪れて名月を鑑賞する。そこに現れた後シテ/村上天皇(梅若元祥)と梨壷の女御の霊が素晴らしい演奏を奏でるので、恥じいった師長が都に帰る話である。
   観世流の頂点とも言うべき長老能役者玄祥が素晴らしいシテを舞い、観世流の宗家清和がツレにまわって、ワキ/師長の従者に人間国宝の宝生閑、アイ/師長の従者としてアイ狂言を語るのが人間国宝の山本東次郎と言う、非常に素晴らしい役者たちが演じる充実した舞台であった。

   能楽鑑賞一年の私には、シテの舞や地謡や囃子の音色で、越天楽の楽の音や素晴らしい琵琶の演奏などをイメージしろと言われても一寸無理な話で、奥深い能の素晴らしさは、まだまだ、殆ど分からないのだが、後シテの終幕の早舞の優雅さなど、少しずつ、瞬間瞬間だが、はっとする感動を覚えるようになってきた気がしている。
   白洲正子の「お能の見方」に、福原麟太郎の「能の秘密」の一文を引用して、理屈抜きの美しさへの感動について書いてあったような気がするのだが、多くを理解しようと思っても無理なので、少しずつ年季を積んで、美しさに感動する瞬間を重ねて行きたいと思っている。

   私は、どうしても、女性の美しさ優雅さを探し求めながら能を観ているところがあるのだが、前回の「普及公演」で見た「賀茂」の後ツレ/天女(武田宗典)の天女ノ舞は、本当に美しいと思って、感激しながら見ていた。
   もう一つ、この「賀茂」で感じたのは、アイ狂言に、人間国宝の野村萬が登場して、ワキ/室明神の神職の人間国宝宝生閑と対話するシーンで、このような脚光を浴びるような場面ではないところでも、全力投球している能舞台の凄さである。
   これまで、狂言方の演じるアイ狂言を、中つなぎの説明くらいにしか思っていなかったのだが、野村萬や山本東次郎の舞台を観ていて、狂言に対する認識を新たにした思いである。
   
   
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ボジョレ・ヌーヴォーの季節

2012年11月16日 | 生活随想・趣味
   昨日解禁された2012年の仏ワインの新酒「ボジョレ・ヌーヴォー Beaujolais Nouveau」は、天候不順で収穫量は激減したものの、最大市場の日本には優先配分され、輸入量は前年を上回る見通しだと言う。

   私がボジョレ・ヌーヴォーを意識したのは、やはり、ヨーロッパに行って、本格的にワインを飲み始めてからである。
   出張に出かけていた頃からなのか、向こうに在住してからなのかは、記憶が定かではないのだが、とにかく、もう何十年も前からのことである。
   しかし、オランダでもイギリスでも、あるいは、他のヨーロッパでも、ボジョレ・ヌーヴォーを賞味する習慣はあるのだが、日本ほど、大騒ぎするところはなかったような気がする。

   私自身も、当時は、特別に、11月の第三木曜日に、ボジョレ・ヌーヴォーを買って飲んだこともないし、レストランに行った時や、パブなどで偶に気づいた時に飲むと言った感じであった。
   ボジョレ・ヌーヴォーが、他のワインと比べて特別に美味しいと言うわけでもないし、それに、レストランでの食事に合うわけでもないし、それ程、関心もなかったと言うのが正直なところであった。
   むしろ、新酒と言うことであれば、ウィーンなどのホイリゲで白ワインを飲んでいた記憶の方が残っている。

   Google Earthで、Beaujolaisを検索すると、リヨンの少し北北東のフランスアルプスに近いところで、ボジョレ・ヌーヴォーは、本来は、その年のブドーの出来具合を調べるもののようだったが、美味しさを引き出すために、ブドウを潰さずにそのまま発酵させるマセラシオン・カルボニック醸造法を駆使して造られ、軽快で渋みがほとんど無くやさしい口当たりの良い赤ワインだと言うことらしい。

   ところで、特別にボジョレ・ヌーヴォーに関心があるわけでもなく、日常的に、適当に赤ワインを夕食時やレストランなどに行った時に、飲んでいるので、同じことだと思って、いつも、ネット・ショッピングで買っている店で、案内のメールが入ると、注文を入れて買っている。
   普通の赤ワインや白ワインについては、多少、長い経験があるので、銘柄やブランドなどには拘るのだが、ボジョレ・ヌーヴォーについては、新酒なので上等なものに固守することもないであろうし、良いのか悪いのか分からないが、まずまずだろうと思って、買ったのが、この口絵写真である。
   間違いなしに、毎年、11月の第三木曜日の朝に配達されてくる。
   何故この日なのかと言うことだが、先駆け禁止と質の維持が目的のようである。

   偶々、イオンに行ったら、ボジョレ・ヌーヴォーが通路にはみ出してまで、沢山並べられていた。
   インターネットでも、これまで、頻繁に広告が入っていたし、昨年などは、ペットボトルでも売られていた。
   フランスから海外市場に出るボジョレ・ヌーヴォーの半分近くが日本だと言うのだが、異常と言うか、初物好きの日本人の嗜好のなせる現象であろうか。
   私は、ヨーロッパに8年住んでいて、ヨーロッパ人の友人たちと随分会食をしていたが、一度も、ボジョレ・ヌーヴォーが話題になったこともないし、一緒に飲んだこともない。
   折角のレストランやパーティでの会食であるから、ボジョレ・ヌーヴォーなどの新酒を飲むなどは考えられないということであろう。

   昨夜、深夜・零時の解禁を待って、レストランに集まったワイン・ファンが、如何にも重要なセレモニーに参加したような面持ちで、ボジョレ・ヌーヴォーで祝杯を挙げていたのをテレビで放映していたのだが、ヨーロッパもそうだったのであろうか。
   随分以前に、ウォートン・スクールに留学していた時、学生たちのバス・ツアーに参加して、偶々、マイアミで、元旦を迎えて、丁度、大晦日にパーティが開かれて、零時の時報に合わせて、歓声を上げて抱き合うなど大いに盛り上がったのを覚えているが、やはり、どこでも、何かを祝うとか解禁日を喜んで騒ぐと言うのは同じだと言うことかも知れない。
   尤も、関心のない人にとっては、「アホとチャウカ」と言うことかも知れないけれど、とにかく、時に及んで、景気をつけると言うことは、世の中の活性化のためには良いことなのである。
   日本もそうだが、世界中のお祭り騒ぎの凄さと素晴らしさを見れば、それがよく分かる。
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吉例顔見世大歌舞伎・・・「熊谷陣屋」「四千両小判梅葉」

2012年11月15日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   顔見世と言うことで期待の舞台なのだが、夜の部は、「熊谷陣屋」で、期待の仁左衛門が休演で、それに、鶴屋南北の「四千両小判梅葉」が、初めて見る舞台だったので、一寸、いつもと違った印象を持って舞台に臨んだ。
   
   熊谷陣屋は、何回も見ている芝居で、歌舞伎でも文楽でも、演じる役者や文楽の三業によって印象が大きく違っていて、仁左衛門の熊谷直実は、幸四郎、吉右衛門、染五郎の高麗屋系や團十郎とは、一寸、違った雰囲気の舞台で、7年前に見ていて、非常に印象に残っていて、ぜひ見たいと思っていたのだが、残念ながら、今回は叶わなくなってしまった。
   急遽代役を務めた松緑の若々しくてエネルギッシュな初役の舞台については、良いとか悪いとかと言う次元の問題ではなくて、とにかく、殆ど準備なしに初登板したのであるから、それなりに敢闘精神を褒めて置くべきであろう。

   今回は、7年前の仁左衛門の舞台についての私の感想を再記して留めたい。
   ”今回の仁左衛門、僧衣に着替えて舞台を花道に去りながら、すっぽんの位置でつぶやく「16年も一昔。嗚呼夢であったなア」。
   毅然と振りかえって、目をしっかり閉じて右手で耳を押さえて動かない、宇宙の遠い彼方の天の声を聞いているのであろうか、万感の思いを込めて舞台を去ってゆく。
   先月体調を崩していた雀右衛門は、実に感動的な相模を演じて聴衆の涙を誘う。”

   文楽については、”その2年前の2月に、熊谷陣屋の段で、吉田玉男の素晴しい熊谷直実を見た。相模は、桐竹紋寿、人形の慟哭が胸に沁みた。” 玉女や和生や勘十郎たちの舞台も観たが、文楽の場合には、人形と浄瑠璃と三味線が相まって醸し出す雰囲気が更に感動を呼ぶ。
   私は、この熊谷陣屋につては、歌舞伎の敦盛を後白河院の落胤と言う脚色よりも、「平家物語」の琵琶法師の語るストレートな物語の方が好きである。
   直実が敦盛を組伏せた時に、実子小次郎を思って助けようとして敦盛を説得するのだが、後ろから50騎ばかり駆け込んで来たので、どうせ討たれるであろうと思って涙を飲んで首を掻く。鎧直垂を解くと錦の袋に入った笛「小枝」が引き合わせに差されており、朝、城から聞こえて来ていた優雅な笛の音の主はこの人だったのかと感激して、このことを陣に帰って義経に語ると、見る人聞く人、荒くれ武骨な坂東武者でも泣かぬものは一人も居なかったと言う。
   直実は、夜もすがら敦盛のことを嘆き悲しみ、この思いが仏門に入る発心となった。
   熊谷は、敦盛の衣装、鎧以下の兵具などひとつ残らず、笛も取り揃えて、丁寧な牒状を書き添えて、船を仕立てて、父君・修理大夫平経盛に送り届けおり、経盛も感動的な返書を送っている。

   さて、「四千両小判梅葉」だが、幕末に実際に起きた話で、江戸城に忍び込んで御金蔵を破って四千両を盗んだ強盗事件を題材にした南北の歌舞伎である。
   「四谷見附より牢内言渡しまで」と言うことで、野州無宿富蔵(菊五郎)と藤岡藤十郎(梅玉)が、その御金蔵破りの張本人として登場する素晴らしい舞台である。
   四谷見附のお堀端での悪巧みの相談から、捕まって牢屋に打ち込まれて、牢内言い渡しで浅草の刑場送りまでの舞台までだが、途中、藤十郎宅へ四千両を運び込みの場、捉えられて江戸送り途中富蔵が熊谷宿で義父妻子と交わす涙の別れ、そして、牢内模様などのシーンが展開されていて、結構面白い。
   御金蔵破りや、最後に故郷の母に300両届けるところで富蔵が捕縛されるなど、肝心のシーンは欠落しているのだが、案外、本番を見せないところが良いのかも知れない。

   非常に興味深いのは、「伝馬町大牢の場」である。
   初演時の座元興行師が、幕末に小伝馬町の牢に勤めた役人であったとかで、奉行所の書類調査や、もと囚人からの聞き込みなどから実際の牢内の様子を描き出して、芝居に演出したと言うのだが、嘘か本当か、とにかく、極めて秩序だった囚人たちの世界が面白い。
   映画やテレビで見て知っている牢内とは違った大部屋の世界なのだが、どうして、このような整然とした社会が生まれ出でるのか、非常に興味深い。

   幕が開くと、大きな 牢屋内の一室で、20人くらいの罪人が左右に並んでいて、"牢名主 松島奥五郎(左團次)"が畳を15枚程度重ねた下手の高い位置に、そして、反対側の上手に"穴の隠居(由次郎)"が畳10枚程度重ねた高座に、夫々左右に居を占めて座っていて、残りの罪人たちがそれを取り囲んで、みな板敷きか、畳が1枚か2枚の低い位置に整然と並んで座っている。
   新入りの罪人を一人一人、吟味しながら居場所を定めるセレモニーを行うのだが、富蔵は、大それた犯罪を犯した為か、上席の顔役の二番役で、牢内を取り仕切っている。
   新入りに、牢入りに何を持ち込んだかと詰問して、大枚の金子を隠し持って入って来たものや、男前で器用で調子のよい新入り・寺島無宿長太郎(菊之助)などに甘く、「地獄の沙汰も金次第」と言うのがこの世界でも通用するのが面白い。
   処刑が決まって出牢する富蔵に、牢名主が着物と帯、穴の隠居が数珠を贐として与えるところなども興味深い。

   もう一つの見どころは、熊谷の宿の場で、囚人籠に囚われて運ばれて来た富蔵に、義父うどんや六兵衛(東蔵)と女房おさよ(時蔵)と娘が会いに来て、涙ながらの別れを交わすシーンで、しみじみとした味があって良い。
   江戸城の御金蔵に盗みに入ると言う大それたことをした富蔵だが、逃げ隠れして気の休まる時がなかったとか自分が死んだら線香をあげてくれとか、苛められるから父は3年前に死んだと言えなどと娘に言うなど小心者で弱い姿を見せているのだが、囚人籠の中から微かに見える姿と声音だけで、人間の弱さ悲しさ、肉親への情愛を、菊五郎は、実に感動的に演じていて、ほかの場と違ったしっとりとした雰囲気が良かった。
   この場では、東蔵も時蔵もはまり役で、前後の一寸重たい場に挟まれた、世話物の場としては、一幅の清涼剤でもあった。

   ところで、この同じ「四千両小判梅葉」の何十年も前の舞台を、YouTubeで見たのだが、富蔵の松緑、羽左衛門の藤十郎が中々良い味を出していたし、それに、おさよの田之助が実に良く、流石に、人間国宝の資格十分だと思った。
   若い團十郎(当時海老蔵)が菊之助と同じ役で出ており、三津五郎(当時八十助)が、松緑と同じ浅草無宿才次郎で登場するなど、時代の流れを感じた。
   左團次が、同じ囚人だが、この時は、三番役で登場して、どすの利いた声音を演じていた。 
   やはり、一昔前の舞台と言うことで、中々、魅力的な芝居だったが、今回の菊五郎や梅玉の舞台の方は、随分、こなれて現代化している感じで、親しみやすい感じがしている。
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急進派がスフィンクスとピラミッドの「破壊」呼びかけ エジプト

2012年11月13日 | 学問・文化・芸術
   表題のような記事が、CNN日本語電子版に掲載されている。
   もっと見ると、
   ”急進派のイスラム指導者がエジプトの民間テレビ局の番組に出演し、世界遺産にも指定されたピラミッドとスフィンクスは破壊すべきだと発言した。
   発言の主はイスラム指導者のモーガン・ゴハリ氏。10日、エジプトの民間放送局ドリームTV2の番組に出演し、もし自分たちが実権を握れば、スフィンクスとピラミッドを躊躇なく破壊するだろうと語った。
   同氏はまた、自分はアフガニスタンで2001年3月に、当時の支配勢力だったタリバーンとともにバーミヤンの大仏破壊に加わったとも公言している。”

   恐ろしいことだが、現にバーミヤンの大仏が破壊させるシーンをテレビで見てしまった以上、あっても不思議ではない話である。
   それほど、今や、世界中に急進思想が蔓延っており、公序良俗と言うか、人類が延々と築き上げてきた文化文明、価値観を根底から破壊しようとする動きが台頭し始めている。
   文明の衝突と言った程度では、納まらない程、原理主義とか急進思想と言った極端な思想が勢いを増し、ICT革命による文明の機器をフル活用しての動きであるから、場合によっては止めようがない。 

   CNNのベン・ウェデマン記者は、こうした発言がテレビで流れるようになった背景について、「熱狂の中で生まれたエジプト革命は、『パンドラの箱』のような様相を呈してきた」とし、希望だけでなく、急進主義や大衆扇動、犯罪、無秩序、恐怖などが入り混じり、誰も元に戻す術を持たないと解説している。と報じている。
   ICT革命によって世界中がフラット化してしまった今日、価値があろうとなかろうと、瞬時にして、極端な危険思想がグローバルベースで駆け巡り、破壊を齎す。
   ギリシャやスペインなどの現状を見れば分かるが、国民の20%以上、若者の50%以上が失業していると言った極端に悪化した経済社会を、もとに戻すなどは至難の業で、希望に燃えたアラブの春も、巨大なダイナマイトを抱えたままで、混沌の闇の中で燭光さえ見えていない。世界中は、正に、燃えているのである。

   さて、偶像を認めない急進的なイスラム教徒が、バーミアンの大仏もそうだったが、これまで、アジア各地で、随分多くの仏教遺跡やヒンズー教遺跡などの多くの仏像や絵画の頭部や顔を破壊しており、折角の文化遺産を無残な姿にしてしまっている。
   しかし、今回は、顔や頭部だけではなくて、世界文化遺産そのものを破壊しようとしているのである。

   ゴハリ氏は、「シャリア(イスラム法)に従えば、偶像はすべて破壊しなければならない」「崇拝されている、あるいは崇拝されている疑いのある偶像、地球上で1人でも崇拝者がいる偶像は、破壊する必要がある」と言う。
   何も、偶像破壊は、イスラムの専売特許ではなく、ウイキペディアによると、
   ”ヘブライ語聖書、旧約聖書には、イスラエルの神が異教の偶像を破壊するように命じた記述があり、すべてのキリスト教会において、教義上偶像崇拝(εἰδωλολατρία)は禁じられているが、教会、教派によって破壊する偶像の範囲が異なる。イコンを偶像と捉えて否定する教会と、偶像と捉えず肯定する教会にわかれる。”と言う。
   中国の焚書坑儒なども、バンダリズムの最たるものであろうが、とにかく、人類の歴史は、異教、異文化等排外思想による破壊の歴史であったと言っても間違いではなかろう。

   また、文化遺産の破壊は、宗教や思想的な要因だけではなくて、国家の荒廃によっても引き起こされる。
   ヨーロッパのように血塗られた革命騒ぎが起こらなかった平和革命であったが、江戸から明治への移行期に、廃仏毀釈で、多くの貴重な仏教寺院・仏像・経巻などが破毀されたし、終戦後の荒廃の時期には、多くの国宝級の建築物や仏像が野ざらしにされて放置されたままで、随分破壊され来たと言う。

   これと違うが、日本の多くの文化遺産や文化財が、明治や昭和の日本の混乱期に、随分海外に流失してしまっているのだが、これも、国家存亡の危機にあって生きること自体に国民が汲々としていたのだ言えば言えるが、文化文明、国民意識とアイデンティティの荒廃であろう。

   
   世界中の動きを見ていて、何故、あんなアホなことをしてとか、バンダリズムだとか、程度が低いなあとか、揶揄したくなるようなことが多いのだが、良く考えてみれば、ほんの少し前まで、日本も全く同じようなもので、偉そうなことは言えないのだと言うことに気が付く。
   とにかく、人類の貴重な文化遺産を守り、更に豊かな文化文明を築き上げて行くためには、一人一人の国民が、賢くならなければならないと言うことだけは確かである。
   
   
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北川智子著「ハーバード白熱日本史教室」

2012年11月11日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ハーバードの短期特講・日本史の「ザ・サムライ」と言う夏期講座を受けて、わんさと歴史上の「ある種のサムライ」が登場するサムライ文化を称賛する男ばかりの日本の歴史を聴いて、おかしいと感じて、とにかく、「Lady Samurai」がいた筈だと確信して、日本歴史の研究を志して、プリンストン大学で博士号を取得したと言う。
   幸い、20代最後に、ハーバード大学の東アジア学部のレクチャラーになって、「Lady Samurai」を開講したら、1~2人しか受講生がいなかった筈の講座がスパークして大人気を博して、学生が押しかけて来て、その上、ティーチング・アワードまで獲得した。
   その経緯や、著者が開講した「LADY SAMURAI」とアクティブ・ラーニングの「KYOTO」の講義の模様が、この新書に収容されている。
   実に爽やかで、彼女の語り口が正に痛快そのものである。

   早速、ハーバード大のホーム・ページをひらいて、Department of East Asian Languages and Civilizations,を見たが、既に彼女の名前はなく、
   英国ケンブリッジ大構内ののニーダム研究所THE NEEDHAM RESEARCH INSTITUTE, a centre for the study of the history of East Asian science, technology and medicine.に移っていて、更なる歴史学者としての研鑽を積んでいる。
   アメリカの大学者には、アイビーリーグなどとオックススブリッジとを懸け持って研鑽を積む人が多いのだが、やはり、歴史の研究では、大英帝国として一昔前に7つの海を支配して世界帝国を築いていた英国の歴史と伝統の重みとその成果から得られるものには、大変なものがあるのであろう。

   私にも、欧米生活とフィラデルフィアでのMBA経験があるので、多少は、著者の語るアメリカの大学事情や学問環境などが分かるので、この本を読んで、関心のあったのは、著者の日本歴史に対する歴史観なり考え方、そして、講義の内容などであった。
   読後に、念のために、アマゾンのこの本のレビューを見たのだが、非常に投稿者が多くて人気の程は分かるのだが、極めて評価が悪くて、悪評には参考になりましたかとの問いに賛成者が多くて、好評には反対者が多かったのには一寸意外であった。
   しかし、私には、特に悪評をするレビューアー自身の無理解と質の悪さがまず第一で、非常に偏見が強くて、それに、若くて青二才(?)の可愛い(?)学問経験の少ないヤングレディが突出しすぎている生意気さへの反発と、出る釘である人気者を叩き潰そうとする外野たちが、それに迎合して評価していると言った感じで、非常にさびしく感じた。
   この講座は、正に最初の試みで、それもハーバードと言う途轍もない大舞台での初戦であり、これだけの実力を見せる学者であるから、将来の成長発展が大いに期待されると言うべきであろう。

   中には、著者が、大学の専攻が、数学と生命科学で理系であり、それが、大学院で日本歴史学と言う文系に転向して学者になれるのかと言ったようなコメントがあったのだが、これは、アメリカでは、大学はあくまで教養過程に過ぎず、勉強は大学院でするものであるから、大学院には、(特にMBAコースなどでは多いのだが)畑違いの者が大学院で新しい専攻に変わって研究を続けるなどと言うのは、異例でも何でもなく、大学者にもそんなケースが結構多い。それに、欧米のトップ大学の大学院教育の学問水準の高さと質量における広さ深さは桁違いであり、著者の学問研鑽努力は並大抵のものではなかった筈である。
   むしろ、理系と文系両方を勉強したと言うダブルメージャーの経験があると言うことは、学者として願ってもないキャリアと言うべきであろう。
   これは、企業経営にも言えることで、大学で理学や工学を勉強して、大学院へ入ってMBAを取得するか、あるいは、その逆と言ったΠ型の経営者は理想的なケースと考えられている(尤も、人として資質が必須条件だが)。近年、工学部で経営学への傾斜でMOTが重視されているのも、その辺の事情である。

   さて、実際の授業の「LADY SAMURAI」だが、大学院を終えた新米の学者が、初年度で、これだけ豊かで充実したプログラムを組んで、秀吉の正室ねねなど突出した日本女性を歴史の表舞台に引き出して、秀吉など為政者のペア・ルーラーとして「LADY SAMURAI」を語りながら、日本歴史を別な新しい視点から甦らせると言った快挙は、正に、特筆に値する。
   

   ねねが、大名やその妻女たちに送った書簡やフロイスなど宣教師の書いた文書などをも紐解いて、歴史の裏面・深層にまで分け入っており、
   「一般的に、守護大名とその本妻は、「ペア・ルーラー(夫婦統治者)」として考えられていたために、女性にも政治に介入できると言うより介入せざるを得なかった。」との仮説を立ち上げている。
   戦国時代末期の武士の上流階級の女性は、直接戦うことはしなかったが、本妻たちは本妻らしくペア・リーダーとして、また、側室は側室で斬首されるなどサムライらしい最期を遂げることで、Lady Samuraiらしく生きた。と言う著者の見解なり歴史観には、異論なり色々な見解はあろうが、非常に斬新な切り口で日本歴史に挑んで、問題提起をした功績は大きい。
   異論反論は当然であろうし、白紙の状態からアメリカで日本史を学んだのであるから、むしろ、アメリカなり欧米の日本歴史学に対する実像虚像を垣間見せてくれたのでもあるから、はるかに、そのインパクトは大きいのではなかろうかと思っている。

   歴史学には、詳しくないので、偉そうなことは言えないが、政治や、経済や、文化や、社会や、視点の置き方によっていくらでも史観が変わるであろうし、第一、正確な真実など把握不可能であろう。
   現実にも、私が大学時代に学んだ日本史と今読んでいる日本史とも大きく変わっているし、私の専攻分野の経済史(特に経済発展史)や経済学史などの変わりようなどは、激しくてついて行けないくらいである。
   歴史学に、もとより、決定版などある筈もないし、固定観念に凝り固まった日本歴史に、新しい史観や思想・哲学を注入して新風を吹き込むことも大切であろうし、そのようなクリエイティブかつイノベイティブな試みによって歴史学が発展して来たのではないかとさえ思っている。

   ところで、日本でも、ねねやまつ、政子、篤姫など、傑出した女性を主人公にした小説やTV・映画などあって、何も、女性を無視した歴史認識などしていないと言う反論もあったのだが、これらは物語の世界であって、全く、著者の考えているLady Samuraiとは、次元の違う話である。
   とにかく、洋画の世界で見た日本女性(中国人スターが多い)しか知らず、全く、時代遅れの日本歴史観や日本人観しか持ち合わせていないアメリカの学生たちに、派手なサムライの世界だけではなく、サムライとLady Samuraiとがペアになって日本の歴史を作ったのだと語ることによって、サムライで完結していた日本史を超える日本史概論を大きな物語として語ろうとした著者の試みは、称賛に値する。

   さて、もう一つのアクティブ・ラーニングの「KYOTO」は、現在のICT技術を駆使した壮大なプログラムで、正に、理系文系ダブルメイジャーの著者の面目躍如たる授業であろう。
   京都にタイムトラベル。1542年から1642年まで100年の京都をテーマにして、歴史事実と向かい合ったうえで、京都の歴史地図を描いてコンパクトにまとめ、その後、学内のスタジオを活用したラジオ番組作りや動画作りに進むのだが、自分の責任でラジオの番組や動画を作らねばならないので、きちんと史料を読むことや講義の受講は欠かせないし、その作品を校内向けに発信する。最後は、大学のメディアセンターでの4D映画での仕上げで、グループ作業でタイムトラベルを4Dにして、それも本人が必ず出演する作品をしあげて、再び、学内のWEBに流すのであるから皆が見るので手が抜けない。成功者は、YouTubeに登場させたと言う。

   1542年から1642年と言えば、織豊時代の初めから、家光の時代で、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が活躍した時代であり、京都にはポルトガル人宣教師たちが訪れるなど国際色豊かな時代であり、日本の歴史の中でも、政治経済、文化文明的にも一番面白い活気のある時代であったから、この時代を徹底的に勉強して、自分自身がタイムスリップして、その時代の人間として、ラジオの実況や自作自演の4D映画まで作り出して公衆に披露すると言うのであるから、見上げたものであり、この授業から得た学生の知識教養なり日本観に対する理解などは、計り知れないものがあろうと思う。

   最後に、著者は、「海外で教えられる日本史は、それ自身がいわば「外交官」的役割を持っています。」と言う。
   軍備無き(?)ハードパワーの欠けた日本の国威発揚は、ソフトパワーをフル活用することが必須であり、最近の日本軽視日本無視の世界的風潮を跳ね返す意味でも、この著者の言を肝に銘じるべきであろう。
   著者は、ハーバード大学の日本学に対する水準の低下と極めて低調な学生のアプローチについて語っているが、これこそ、日本の国際社会における最大の危機として受け止めるべきであろう。
   北川現象に対して、日本歴史学界やその道の権威筋などの反発や反論があったようだが、それならば、自分たちの説く日本歴史学の真髄の世界へ向かっての発信力の無さ、無力さこそを恥ずべきであろうと思う。

   私自身は、近年稀にみる熱狂的な敢闘魂に燃えた若人である著者北川智子さんの快挙を、日本人として大いに誇るべきだと思っている。
     
   
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佐倉城址公園:くらしの植物苑の古典菊

2012年11月09日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   12月初めまで、佐倉城址公園の「くらしの植物苑」で、「伝統の古典菊」が展示されている。
   嵯峨菊、伊勢菊、肥後菊、江戸菊と言った古典菊が主体なので、豪華な大輪の菊や懸崖や大作りと言った目を見張るものはないが、実に、清楚で上品な日本の古典菊の佇まいが堪らなく魅力的である。
   実際に、この植物園で、交配を行って新種を作り出しており、その途中の作品なども展示さていて面白い。
   この写真が、その一部である。
   
   江戸菊は、開花し始めてから、左右にねじれ運動を行い、最後には、よれて巻き上がると言う狂いを演じるようで、1ヶ月ほど、花弁の変化を楽しむことができると言うことで、夫々の株にその変化が見えて興味深い。
   

   温室では、若い園芸員のスタッフが、菊の手入れをしていたが、非常に手の込んだきめ細かい世話が必要なようで、私のようなレイジーな園芸愛好家は、菊栽培には向かないようである。
   この植物苑では、嵯峨菊の鑑賞には、京都嵯峨野の天龍寺に模して、縁台を設けて高みから菊を愛でるようにしている。
   とにかく、この植物苑は、くらしの植物苑であるから、身近な存在であり、特に美しいと言った感じはしないが、非常にアットホームで植物を鑑賞できて非常に良い。
   隣の銀杏並木の銀杏が少し色づき始めて、逆光を浴びた銀杏が植物苑に影を落として美しい。
   
   
   
   
   

   来月から始まる「冬の華・サザンカ」展示の準備か、咲き始めたサザンカの鉢植えが並んでいて美しい。
   もうすぐすると、色々紅葉した珍しいモミジの鉢植えが並ぶ筈である。
   苑内には、ザクロやサンザシ、かりん、カキなどの実がなっている。
   
   

   帰りは、城址公園の中を歩いて駐車場へ向かったのだが、本丸の芝生の広場で、女子中学生の集団が昼食後の小休止を楽しんでいた。
   制帽を被っているので、どこか遠くからこの城址にある国立歴史民族博物館の見学に来た中学生の団体であろうが、非常に有意義な日本歴史の勉学ツアーだと思う。
   海外生活をしていた頃、ニューヨークのメトロポリタン博物館やロンドンの大英博物館やパリのルーブル博物館などで、小中学生の集団が、絵画や彫刻の前で、先生の講義を聴いている風景を随分見てきたが、この歴史民俗博物館の丸1日の見学ツアーは、教室での何か月もの授業にも匹敵するほど、効果的だと思っている。
   特に、マッカーサーによって日本史教育を禁止された後遺症がいまだに残っていて、祖国日本の歴史を良く知らない日本人が多いので、尖閣問題で風雲急を告げている今日、特にそう思っている。
   
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国立劇場11月歌舞伎公演「通し狂言 浮世柄比翼稲妻」

2012年11月08日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   染五郎が、国立劇場の11月歌舞伎公演『浮世柄比翼稲妻』で、名古屋山三・白井権八役で出演する予定になっていたのだが、残念ながら、この劇場での転落事故で出演が叶わず、代役の、山三の錦之介も、白井権八の高麗蔵も、それなりに好演をしたのだが、やはり、エースを欠いた舞台の所為か、客足が悪くて、かなりの空席が目立った。
   不破伴左衛門と幡随院長兵衛を演じた幸四郎や腰元岩橋・傾城葛城と下女お国と長兵衛女房お近を演じた福助など、非常に意欲的な舞台を務めており、それに、通し狂言と言う格好の出し物でありながら、一寸、残念な気がしている。

   この口絵写真は、劇場ロビーに飾られた幸四郎の文化功労者選任の祝賀パネルなのだが、シャッターを切る人が結構いて、私も仲間入りをした。
   高麗屋の女房・藤間紀子さんが、そばで微笑んでいた。

   さて、この「浮世柄比翼稲妻」だが、鈴ヶ森の場と吉原仲之町の場「鞘当」は、結構頻繁に上演されるので、お馴染みである。
   「鈴ヶ森」は、年初に、新橋演舞場で、吉右衛門の長兵衛と勘三郎の権八と言う豪華キャストで、素晴らしい舞台を見せていた。
   吉右衛門の堂々たる貫録の大きな長兵衛と、流れるように美しくて華麗な舞姿(?)を披露した勘三郎の権八は、正に、魅せて見せる舞台で、南北の、時には美文調で美しく、時にはメリハリの利いた重厚な胸のすく様なせりふ回しが、正に、感動であった。
   勿論、今回も、高麗屋のお家芸にも等しい長兵衛であるから、幸四郎の長兵衛も極め付きであり、高麗蔵の権八には、一寸ぎこちなさが残っていたが、素晴らしい鈴ヶ森を見せれくれた。
   それに、コミカルタッチの飛脚早助の宗之介や、雲助の市蔵や右之助、権八と渡り合った芸達者な雲助役者たちも、中々、楽しい芸を見せてくれた。

   吉原仲之町の場は、両花道を使って、上手から山三の錦之介、下手から伴左衛門の幸四郎が登場して、左右の花道から、七五調の美文をわたりぜりふで聞かせ、舞台中央に出て鞘当て。
   互いに、深編笠をとって、鞘当ての争いから決闘へ発展するのだが、そこへ、花道から走りこんできた長兵衛の女房お近に止められる。
   一旦抜いた刀を納められないと言う2人に、お近が双方の刀を抜いて納めさせると、不思議に両方の鞘にぴたりと納まり、伴左衛門の刀は権八の父から奪ったものだと分かる。と言うところで、3人が客席に向かって正座して、本日の芝居の幕切れの口上を述べる。
   勿論、この南北の話は、まだ、大分先があって、続くのだが、演じられることはなさそうである。
   とにかく、全編上演されたことがあるのかないのか知らないが、江戸時代の通し狂言は、朝から晩まで、延々と続いたようである。

   福助の言によると、
   ”今回は物語の発端である「初瀬寺」、権八の出奔を描く「助太夫屋敷」、貧乏長屋への花魁道中という奇抜な面白さや山三を救う下女お国の健気な献身という愛のドラマなど、南北の筆が冴え渡る名場面の「山三浪宅」と、見所満載の場面を加えて、現代の我々にも面白くわかりやすい、通し狂言でご覧いただきます。”ということである。
   
   特に面白くて見ごたえのあるのは、「浅草鳥越山三浪宅の場」で、昨年年初に見ており、山三は、三津五郎で、下女お国と花魁葛城は、福助が演じていた。
   雨が降れば、雨漏りを避けるために天井から盥をぶら下げ、薪がないので床板を外して飯を炊くと言う徹底した貧乏長屋に花魁道中一行がやって来て宴を張ると言う奇想天外なシーンが展開される。
   印象深くて面白いのは、
   山三が、お国に髪の手入れを頼んだ時に、その腕に「旦那様命」と彫ってあるのを見て、お国の手を引っ張って寝屋に入るシーン。お国は、寺で拾った役者絵にそっくりの男前の山三に恋焦がれていたのだから、天にも昇る気持ち。福助の何とも言えない程上気した嬉しさと幸せと官能を綯い交ぜにしたような絶頂の顔の表情は秀逸で、観衆からどよめきが起こる程。とにかく、山三へのときめく切ない恋心の表現が真に迫っていて感動的である。しかし、このお国は、父に唆されて毒酒を飲んで死に悶えながら山三を送り出す。
   

   今回の福助は、大車輪の活躍で、夫々の役柄を実に起用に演じ分けて、素晴らしく充実した芝居を見せてくれた。
   それに、山三を演じた錦之介だが、悠揚迫らず雨漏りのする貧乏長屋に端然と座りながら、時代離れ浮世離れした良家の若侍を実に大らかに演じていて素晴らしかったし、今回は、幸四郎を相手に渡り合って、存分に持ち味を出していて、好演していた。
   幸四郎あっての今回の歌舞伎なので、書くのも蛇足だが、幸四郎の久しぶりと言うか、非常にキャラクターのはっきりした悪役を、実にすっきりと痛快に演じていて、良かったし、恥ずかしそうに、市蔵の石塚玄番に、岩橋へのラブレターの首尾を聞き出すところなど中々芸が細かくて面白かった。

   いずれにしろ、国立劇場の歌舞伎は、通し狂言を上演することが多くて、私などは、名場面をアラカルト形式で上演する松竹のケースよりも、好ましいと思っている。
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