熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

今月の観劇についての雑感

2014年04月30日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   私は、スポーツに殆ど関心がない分、色々なパーフォーマンス・アーツの鑑賞に過ごす時間が結構多い。
   ところが、何を鑑賞して楽しむか、その中身が、若い時とは勿論のこと、外国生活も含めて、様変わりである。

   今では、日本の古典芸能を観たり聴いたりすることが主体になってしまって、その相当部分は、日本芸術文化振興会にお世話になっている感じである。
   最近、能や狂言を鑑賞する機会が多くなっているのだが、国立能楽堂で、非常に充実した素晴らしいプログラムの公演を月4~5回行ってくれているので、その月例公演に殆ど出かけていると、他の能楽堂へのチャンスが殆どなくなってしまう。
   尤も、能楽協会から案内を頂くので、能楽協会主催の式能、能楽祭、納涼能、ユネスコ能などには必ず出かけて行くので、他の能の舞台を入れると、年に、50回以上は、能楽堂に通っていることになる。

   それに、歌舞伎と文楽へは、もう、20年以上も、途切れずに劇場へ通っており、これに、国立演芸場での落語鑑賞を加えると、殆ど、日本古典芸能の世界どっぷりである。

   クラシック音楽については、今は、東京都交響楽団のシリーズ公演を二つ定期メンバーで維持しているくらいで、オペラについては、今回、ローマ歌劇場公演に出かけるが、METやミラノ・スカラ座の訪日公演に時々出かける程度で、若かりし頃、そして、外国生活の頃に、目の色を変えて劇場にダッシュしていたのが懐かしいくらいである。
   それに、昔は、ミュージカルにも、バレーにも良く出かけて行ったものである。
   RSCなどの良質なシェイクスピア劇団などの来日公演がなくなってしまったので、芝居にも殆ど行かなくなってしまった。

   家では、WOWOWのMETのライブビューイングやNHK BSでのオペラやクラシック公演を録画して、偶に、観たり聴く程度で、殆ど、CDなども聴くことがなくなってしまった。
   収集癖が祟ってか、もう、半世紀ほどの歴史があるので、かなりのレコード、レーザーディスク、CD,DVDが残っているのだが、家族は、CDくらいしか聞かないので、倉庫に眠っている。
   流石に、ビデオや音楽テープは、移転時に、総て処分してしまったのだが、もう、聴いたり観たり出来ないとは思うけれど、私にとっては、人生遍歴の証でもあるので、このまま置いて逝こうと思っている。

   さて、今月の観劇だが、やはり、能・狂言が多くて、国立能楽堂企画分が4回、夜桜能と萬歳楽座能で、計6回である。
   文楽は、大阪で2回、歌舞伎は、歌舞伎座で1回だけであった。
   落語は、国立演芸場で2回。
   音楽や芝居関係は、一度もなかった。

   歌舞伎は、夜の部は、吉右衛門の「一條大藏譚」と幸四郎の「髪結新三」については、接近して見ており、マンネリ気味だろうと思って止めた。
   いくら鳳凰祭で記念公演だと言っても、歌舞伎座も、出し物がないのかと思う程(能は勿論)脳がなく、こう思うのは私だけでもないと思う。

   もう一つ疑問に思うのは、歌舞伎座の「字幕ガイド」の扱い。
   レンタル料  1 台 1,000 円 「鳳凰祭四月大歌舞伎」限定 特別料金500円
(保証金は不要です。代わりに、ご利用時に携帯電話番号、または松竹歌舞伎会会員番号をご登録いただくか、身分証をご提示願います)と言うことだが、
   私の記憶では、ミラノスカラ座をはじめ、国立能楽堂など、多くの劇場では、座席や、舞台上部や横などに、字幕ガイドがあるのだが、レンタル料と言う体の良い料金など、取っているところなどはどこにもない。
   能や外国語のオペラならいざ知らず、芝居である筈の歌舞伎などで、聞こえて来る役者の台詞が分からないようでは、まず、話にならないと思うのだが、その字幕ガイドで、料金を取ろうと言うビジネス・センスが分からない。
   これまで、客席を見ているのだが、極論すれば、誰一人として、座席の背もたれに、音声ガイド機器をつけている人はいなかった。
   デジタル機器であるから、コストがかかるのは、初期費用と機器の償却コストくらいで、いくら機器が増えても、限界コストはゼロの筈である。
   この程度なら、当然、お客に、サービスとして提供して楽しんでもらい、出来るだけ歌舞伎ファンを作って裾野を広げた方がはるかに賢いはずなのだが、松竹の社員は、FREEと言う本や昨今のデジタル革命時代のマーケティング本を読んでさえいないのであろうか。


   昼の部については、藤十郎の「曽根崎心中」と、狂言を基にした「靭猿」を見たくて出かけた。
   曽根崎心中については、このブログで印象記を書いた。
   「靭猿」は、元気になった三津五郎と又五郎のコミカルタッチの舞踊を観たいと言う思いと、それに、狂言の舞台を、どのように、歌舞伎では脚色されているのかと言う興味があった。
   これまで、三津五郎や又五郎の狂言を基にしたものなどのコミカルで漫画チックな舞台や舞踊を色々見ており、この二人以上に、素晴らしく喜劇を演じる役者は居ないと思っているので、何時も楽しみにしている。
   この「靭猿」は、アイロニー豊かな可笑しみとほのぼのとした人間味を感じさせて、もう少し質の高い味のある喜劇の狂言とは大分差があって、換骨奪胎、舞踊と仕草で楽しませる舞台となっていて、やはり、三津五郎と又五郎の舞台である。
   小猿を殺して靭にすると息巻く大名が、この舞台では、女大名三芳野(又五郎)と女になっていて、又五郎が、醜女風の恋多き女としてドタバタを演じるので笑わせる。
   猿曳寿太夫の三津五郎が、小猿を売るのを苦しみながらしんみりと小猿に説得する優しい好々爺なのだが、小猿の仕草があまりにも可愛いので、完全に喰われた感じ。
   しかし、前にも増して艶のある愉快な演技と元気な踊りを見せて、本調子の三津五郎に観客は惜しみなき拍手を贈る。
   

   国立演芸場の落語は、中席で、トリが歌丸だったが、病気で休演。
   代わりを円楽が務めた。
   円楽は、初めてだったので、酒飲みの話「ずっこけ」を楽しませて貰った。
   小文治が、「7段目」。歌舞伎に入れ込み過ぎたドラ息子の話で、同じく歌舞伎好きの丁稚と、仮名手本忠臣蔵の7段目の平右衛門とお軽との掛け合いを演じると言うところだが、いくら面白くて良く出来た落語で、噺家がいくら上手く語っても歌舞伎擬きで下手であり、何回も、この「一力茶屋」の舞台を観ている私には、一寸、場違いな感じで複雑な気持ちで聴いていた。
   遊雀が、「悋気の独楽」。前の三平の舞台と同様実に面白く、妾の色っぽさなど秀逸であった。
   夢太郎が、「竹の水仙」。左甚五郎の人情噺で、「ねずみ」同様に、しんみりと聞かせる。
   歌丸がトリの舞台では、やはり、素晴らしい噺家が、競演するので、結構面白いのである。

   能については、まだ、初歩の段階で、それ程、分かっているようには思えないので、感想は省略したい。
   
   
   
   
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トマト・プランター栽培記録2014(3)ミニトマト花咲く

2014年04月29日 | トマト・プランター栽培記録2014
   最初に植えたトマト苗が、30センチ以上に成長し、ミニトマトのレッドバニーとゴールデンバニーに、黄色い花が咲いた。
   まだ、どの程度の実付きなのか分からないのだが、イエローアイコも花が咲き始めたので、もう少し待てば、花房の全体像が分かるのであろう。
   中玉トマトも、花芽が膨らみ始めており、もうすぐ、咲きだしそうである。
   タキイの桃太郎などの苗は、プランターにもなじみ始めたのか、大分、成長してきた。

   口絵写真のように、レッドバニーの一本のメインの茎が、第1花房の上で枯れてしまった。
   再生茎が見えているのだが、待てないので、その下の葉の根元から出ている脇芽を、代わりの主柱として伸ばすことにした。
   少し成長が阻害されそうだが、仕方がない。

   タキイの苗には、それ程ばらつきがなく、問題がないのだが、昨年もそうだったが、国華園の苗には、時々、正常な育ち方がしないことがある。
   F1苗の所為なのかどうかは分からないが、最終的には、それ程問題がないので、そのまま、育てている。

   アイコについては、最もポピュラーなトマト苗なので、サカタは勿論だが、これまで、他の育種業者の育てた苗を使ってきたのだが、同じ種である筈なのに、実付きや成長にはかなりのばらつきがあるのが面白い。
   今回の国華園のアイコが、どのように育つのか、興味を持っている。
   
   
   
   
   
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わが庭:ミヤコワスレ咲く

2014年04月28日 | わが庭の歳時記
   広がったミヤコワスレを一株持ってきて、株分けして庭植えしていたのが、すっくと伸びて花が咲き始めた。
   ウイキペディアによると、この花の名前の由来は、承久の乱にて佐渡に流された順徳天皇がこの花を見ると都への思いを忘れられるとの話によるとされ、この由来によって花言葉は「別れ」や「しばしの憩い」などといわれる。と言うことである。
   別に、私には都を忘れる必要もないのだが、学生時代を京の都で過ごしたし、青紫の花色や名前に引かれて植え始めたのだが、椿とバラの間に咲く花なので、勢いも良く、楽しんでいる。
   
   

   同じような花色で、雑草のように、あっちこっちに広がってタワー状に咲いているのが、西洋ジュウニヒトエで、中々面白い形で咲いている。
   偶々、同じ色彩の花を開いたのがオダマキで、この花も、クリスマスローズのように、下向きに咲いていて、花の形もユニークであり面白い。
   春には、ピンクや赤い色の派手な花が良いのだが、熱くなってくると青い色のクールな感じの花が良く、これからの季節には、青い花が貴重なのである。
   朝顔の種を蒔いたのだが、ブルー基調にした。
   雑草の間から、小さなスズランが顔を出して、可憐な小さな白い花を覗かせている。
   
   
   
   

   ツツジとシャクナゲの蕾が色づき始めて、華やかに咲きだした。
   ツツジは、やはり、群生すると面白いので、広い公園や庭園で見る方が良いのかも知れない。
   樹勢が弱いと思っていたハナミズキが、白もピンクも、しっかりと、苞が開き、華やかになってきた。
   ワシントンに贈ったソメイヨシノの返礼にアメリカから贈られて来た花木だが、無関心だった所為か、私自身は、アメリカで見た記憶はない。
   かなりの大木になり、桜のように、下から見上げて楽しむ花木である。
   秋に成る実が、中々、良い。
   
   
   
   

   先に咲いていた果樹の木に、結実した実が、少しずつ大きく膨らみ始めた。
   梅はかなり大きくなったので目立ち始めたが、プロフージョンや梨は、どうであろうか。
   キウイも、まだ、葉の茂りが遅れているのだが、実が動き始めたようである。
   
   
   

   五月に華やかに咲く花木の蕾が色づいて、咲く準備を始めている。
   バラで一番最初に咲きそうなのが、イングリッシュローズのアブラハム・ダービー。
   芍薬も、蕾が膨らみ始め、紫蘭は、もうすぐ、一斉に咲き出しそうである。
   今、咲いているのは、コデマリで、地面には、びっしりと、ハナニラが咲き乱れていて、花を踏まずに庭を歩くのが難しい程である。
   
   
   
   
   

   庭が、花で輝き始めると、何となく、嬉しくなってくる。
   今、一番気持ちの良い季節なので、ダージリンのカップを持って庭に出て、涼風に吹かれながら、シェイクスピアを読むのが楽しい。
   鎌倉山からおりてきたウグイスが、しきりに鳴き続けている。
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ビル・ジョイの「脱物質化」論を考える

2014年04月27日 | 政治・経済・社会
   先にレビューした「楽観主義者の未来予測」で、潤沢な世界を実現する力の項で、ビル・ジョイの「脱物質化」論をひいて、人類の過剰消費によって地球がパンクすると言う理論に反論している。
   ジェイ・ウィザースプーンが、地球上のすべての人が北米各国の人々と同じ暮らしをしたいと思ったら、地球五個分の資源が必要になると言ったが、最早、正しくないと言うのである。

   普通、脱物質化については、ものを売ると言うのではなくサービスを提供するビジネスへの転換、すなわち、ビジネスのサービス化と言った意味でつかわれているのだが、
   ジョイの「脱物質化」は、多少ニュアンスが違って、テクノロジーの進化発展による小型化によって、日常生活で使う非常に多くの製品が、その専有空間が急速に減少して行くと言うことである。

   我々は、現在、何でもかんでも、過剰に所有することに執着していると言う。
   これは、私も今回の鎌倉への移転で肝に銘じたのであるが、この20年間ほどで、どんどん本を買って、本箱を買い増ししても追いつかず、部屋のあっちこっちに積読ながら買い続けて、とうとう、移転直前になって、暗礁に乗り上げたのである。
   結局、選びに選んで、鎌倉に持ち込んだのは、15~1600冊くらいであったのだが、その内、300冊くらいは、長女の母校上智大へ記念行事資金のためにと古書を提供したものの、書斎へ置くのは限ったので、大半は、倉庫に書棚を新設して並べてしまい、お蔵入りに近い。
   移転時に、1000数百冊は、お寺に引き取って貰って中村文庫として御利用頂いたのだが、何箱かは友人に送ったものの、残りの1000冊以上は、ブックオフを嫌って古紙回収業者に持って行って貰った。
   都合4000冊以上はあったのだろうが、ナショナルジオグラフィックやForegin Affairs等々雑誌などを入れるともっと多くなるのだが、良く、あの3.11の震度6弱の地震に2階が堪えたものだと自分の家を褒めている。

   さて、カメラのデジタル化で、殆どDPE店を駆逐したと思っていたら、今や、携帯電話がそのカメラを脱物質化している。
   今日、被災地を訪問した安倍首相が、スマホでスナップを撮っていたのを見てもそうだし、最近では、観光地などでも、過半は、携帯で記念写真を撮っている。

   スマホで利用できる消費財やサービスをすべて上げようと言って、ディアマンディスたちが、列挙している。
   カメラ、ラジオ、テレビ、ウェブプラウザ、レコーディングスタジオ、編集ソフト、映画館、GPSナビゲーションシステム、ワープロ、表計算ソフト、ステレオ、懐中電灯、ボードゲーム、カードゲーム、テレビゲーム、あらゆる種類の医療機器、地図、資料集、百科事典、辞書、翻訳マシン、教科書、世界レベルの教育、アプリストアと呼ばれる成長し続けるバンキング方式のショップなど。
   私は携帯もスマホも持っていないので分からないが、カメラやパソコンの「脱物質化」などは序の口で、日本のスマホなら、それ以上の機能を内包しているのであろうから、テクノロジーの進歩とICT革命の威力は大変なものである。
   この調子で、テクノロジーが進化して行けば、「脱物質化」の進展で、多くの製品が小さくなって行き、専有空間が、どんどん縮小して行く。

   これら「脱物質化」された商品やサービスは、かっては、大量の天然資源を使って生産され、複雑な流通システムを通して世の中に拡散し、高度な訓練を受けた専門家グループが、上手く機能するようにサポートしていたのだが、最早、そんな必要もなくなり、どんどん、市場から消えて行ってさえいる。

   先のビル・ジョイが打ち立てた法則は、「プロセッサーの最大性能は1年単位で毎年倍増する」。
  「半導体の集積密度は18~24ヶ月で倍増する」というムーアの法則とともに、科学技術の限りなき成長と発展の証だが、
   楽天主義者は、これらの法則に基づいた科学技術が、指数関数的にイノベーションを生み出すことによって、マルサスの罠を駆逐出来ると信じている。

   世界自然保護基金(WWF)が、再生可能資源の人間による消費と、地球の再生能力を対照し、生態系に対する人間の需要を測る「エコロジカル・フットプリント」指標を基に、「生きている地球レポート2012」を発表し、人類の経済・消費活動の増大を支えるためには地球が1.5個必要だと指摘した。
   また、前述のジェイ・ウィザースプーン論のような、中国人がアメリカ人並の生活をすれば、天然資源不足で地球が破裂してしまうと言った理論に対してもそうだが、ジョイの「脱物質化」論などは考慮外であり、大体において、現状の延長線上においての予測なので、どうしても、悲観的な傾向にならざるを得ないのであろう。

   尤も、その悲観的な予測を阻止すべき科学技術が如何に発展進歩して、イノベーションを生み出してブレイク・スルーするのか、その将来を予測できない以上、おいそれと楽観論に組する訳にも行かないのが現実であろう。
   しかし、以前は、今の中国のように、公害の酷さが凄かった日本が、これだけ、環境浄化が進んでいることを考えたり、何度も警告されていた食糧危機にも陥らずに、曲りなりにも、生活水準がどんどん高まっていることなどを考えれば、案外、人間の能力も侮れないなあと言う気にもなる。
   いずれにしろ、人類の生活圏が、これまでは予想だにしなかった地球船宇宙号の限界にまで到達してしまったことは事実であり、人類の未来を、そう簡単には、予測が出来なくなって来たと言うのも事実ではある。
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国立文楽劇場:「通し狂言 菅原伝授手習鑑」(4)吉田玉女の菅丞相

2014年04月26日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   「菅原伝授手習鑑」で、最も重要な登場人物は、菅原道真、すなわち、菅丞租である。
   絶品だったと言う玉男の菅丞相を観たのは、もう10年以上も前の平成12年の5月で、それ以降は、今回も菅丞相を遣った玉女の舞台である。
   玉男は、「人形有情」で、菅丞相は、一番好きな役ですと言っている。
   来春、2代目玉男を継ぐ玉女であるから、ずっと、この玉男の足や左を遣い続けて、玉男の丞相を熟知していて継承するのであるから、今や、第一人者であろう。
   丞相は、神になった人物であるから、歌舞伎でも、今は、仁左衛門しか演じていないが、高貴な気品と威厳、それに、時には、匂うような美しさがなければならないのであるから、中々、難しい大変な役どころである。

   今回の公演では、菅丞相は、初段の「大内の段」「筆法伝授の段」「築地の段」「丞相名残の段」「天拝山の段」に登場する。
   歌舞伎では、筆法伝授と丞相名残の場が、かなり、頻繁に上演されるのだが、天拝山の段は、私自身、文楽でも殆ど記憶がなく、大宰府に左遷されてから時平の謀反に激怒して形相を変えて雷神となって都へ飛んで行くと言う舞台なので、菅丞相の雰囲気が一気に変わって興味深い。

   文楽や歌舞伎のように、人間道真の生き様を主体に描くか、あるいは、能のように左遷された道真の怨念を主体にして描くかによって、差が生まれるのが面白い。
   500年ぶりに能「菅丞相」を復曲したと言う大槻文藏氏によると、
   道真の陰謀により左遷されて筑紫で憤死した道真の怨念に悩まされ病気になった御門のために祈祷する比叡山の法性坊のもとに、道真の亡霊が現れ、無念の最後に至るまでのありさまを語り、勅命があっても祈祷のために参内しないように懇願する。しかし、勅諚を拒めない法性坊は内裏へ向かう。途中、法性坊の乗る牛車の前に火雷神を従えた道真こと菅丞相が立ちふさがるが、法性坊の説得に翻意して内裏まで送る。
   師匠の法性坊の説得により、自分の生涯をかえりみれば功をなしたことはたくさんあり、それは師匠への恩であり御門への恩でもあると気づき、恨みを取り去る。御門も平癒し、天下泰平となる。そういう道真公に対して天満天神というものが贈られた。という筋書きらしい。

   道真の死後数年間に、道真失脚に関わった人物たちが、次々に死亡し、清涼殿への落雷や疫病の流行、大鬼の目撃者が現れるなど怪事件も頻発したので、道真の怨霊の祟りを恐れた朝廷が、怒りを鎮めるために、京都北野に道真の祠を建てて祀ったのであり、元々、神性があったからではないのである。
   道真で興味深いのは、京の都を去る時に詠んだ「東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」と詠み、その梅が、京の都から一晩にして道真の住む屋敷の庭へ飛んできた「飛梅伝説」であり、また、受験地獄の片棒を担ぐような学問の神様となってしまったと言う成り行きも面白い。

   菅丞相の登場する段としては、やはり、上演されることが多い「筆法伝授の段」と「丞相名残の段」であろう。
   この二つの段では、菅丞相が、主役だとしても、殆ど動きと言っても大きな動きのない舞台で、そこで、神がかり的な格調の高い丞相を、頭や目の表情や僅かな歩行や身のこなしで表現しなければならないのであるから、玉女の努力は大変なものであろう。
   
   「道明寺」では、木像の菅丞相と実際の菅丞相を演じ分けなければならない。
   歌舞伎では、木像の方の歩行を、正に人形のように、間欠的な動きをしていたのだが、玉女の丞相は、木像も殆ど本物の丞相の様な動きをしており、僅かに、足の動きをセーブしたり微妙にメリハリをつけながら差を演じているようであった。
   玉男は、「お客さんに木像と分からんでもええんです。後で木像やと分かったらええんです。」と言っているから、あんまり思い入れをせずに、大げさな動作をせずに淡々と人形を遣えと言うことであろう。

   しかし、その分、実際の丞相が、出発する時には、覚寿が、苅屋姫を伏籠に潜ませて丞相に合わせようとするのだが、その願いを聞き入れず、泣き声を漏らす伏籠にちらりと見かえるだけなのだが、この数分間の丞相の万感を胸に秘めた痛切な思いの表現は大変なもので、それを、能舞台のシテのように切り詰めた動きで人形に語らせているのだから、流石、玉女である。
   玉男は、娘の顏も見んと別れて行こう、と言う気持ちをあまり人形を動かさんと品格を出して表現するのが難しいと言っているのである。

   この丞相と苅屋姫の別れの場面は、やはり仁左衛門の丞相と孝太郎の苅屋姫の場合は、もっと、人間的で、一切視線を合わさない文楽と違って、実際に顔をわずかながらも見合わせて、扇の受け渡しがあるなど、ドラマチックで、感動的だし舞台としても面白い。

   ところで、玉男は、本物の菅丞相は、出て来るときから、目だけではなく歩き方にしても、ウレイがかっていると言う。ウレイを持っていても、泣いたらあかん。ハラで泣いてるけども、耐えてる人やからね。ウレイがこもってる。
   ウレイを表現するためには、人形を溜めて遣う。あからさまに遣う、というのやなしに。舞台に出て行ったら、いつも、すべて、溜めて遣う。と言うのだが、
   玉女が、緊張し切った面持ちで、じっと、耐えていたのはそのことであったのだろうか。
   また、玉男は、品格もウレイも、人形はすべて首です。大星由良助もそうだが、孔明の首は難しい。と言う。
   かなり、前の席で、それに、ニコンの双眼鏡で、玉女の丞相を凝視していたのだが、とにかく、感動しっぱなしで観ていたので、このあたりは、十分に気付かずに観ていた。

   「天拝山」の丞相は、左遷後であるから、表情も無精ひげが生えている感じで、牛に乗って、東風吹かば・・・と謡ながら登場したり、何度も裲襠や襦袢を脱いで肌脱ぎすると言った派手な演技をし、最後には、怒り狂って雷神となって天へ昇って行くと言う舞台であるから、どちらかと言えば、本来の玉女の立役の演技に近い。
   「天拝山」が舞台にかかると、楽屋に、この菅丞相の人形を祀るのだと言う。
   右大臣の頃の正装の丞相ではなく、この破格な人形を祀ると言うのが面白い。
   この段で、高みに上った玉女が、丞相の人形を大きく躍動させて、強烈な掛け声を発していたのが印象的であった。

   来春の玉女の二代目玉男襲名後、出来るだけ早く、玉女の仮名手本忠臣蔵を観たいと思っている。
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オバマ大統領来日での日米交渉

2014年04月24日 | 政治・経済・社会
   日経の電子版記事のタイトルの一つは、
   ”オバマ大統領「尖閣は安保対象」明言 ”
   オバマ米大統領は首脳会談後の共同記者会見で「日本の施政下にある領土、尖閣諸島を含め、日米安保条約第5条の適用対象になる」と明言した。大統領発言は日本側の求めに応じたもので、共同声明にも明記する。日米が足並みをそろえて海洋進出を活発にする中国をけん制した格好。

   その時のニューヨークタイムズの記事は、
   ”Obama offering Japan security, economic assurances”
   Facing fresh questions about his commitment to Asia, President Barack Obama will seek to convince Japan’s leaders Thursday that he can deliver on his security and economic pledges, even as the crisis in Ukraine demands U.S. attention and resources elsewhere.

   ”Obama Says Pact Obliges U.S. to Protect Japan in Islands Fight”
   President Obama offered a security blanket to a staunch Asian ally on Thursday, declaring on a visit here that the United States is obligated by a defense treaty to protect Japan in its confrontation with China over a clump of islands in the East China Sea.
   But Mr. Obama stopped short of siding with Japan in the dispute over who has sovereignty over the islands, urging both to refrain from provocations and emphasizing that the United States was determined to cultivate good relations with Beijing.
   The president’s carefully-calibrated statement, delivered alongside Prime Minister Shinzo Abe, captured a delicate balancing act: he sought to reassure Japan that the United States would back it at a tense moment but tried to avoid the perception of containing China.
   While offering security assurances to Japan, President Obama did not take sides over who has sovereignty over islands that are also claimed by China.

   ワシントン・ポストの」記事は、
   ”Obama says U.S. will stand by treaty obligations to Japan”
   President Obama affirmed Thursday that U.S. treaty obligations to Japan extend to a chain of contested islands in the East China Sea, even as he emphasized that Japan and China should seek a peaceful resolution to the dispute.
   Speaking at a news conference with Prime Minister Shinzo Abe, Obama said the United States does not take a position “on final sovereignty over the islands,” which are called the Senkaku by Japan and the Diaoyu by China. But he noted that a long-standing treaty dictates the United States would defend against any attack aimed at Japan.
  “We don’t take a position on final sovereignty determinations with respect to Senkakus, but historically they have been administered by Japan, and we do not believe that they should be subject to change unilaterally,” he said. “And what is a consistent part of the alliance is that the treaty covers all territories administered by Japan.”

   CNNが報じているように、
    訪日中のオバマ米大統領は24日、安倍晋三首相との首脳会談後の共同記者会見で日中間の摩擦材料となっている尖閣諸島(中国名・釣魚島)問題に触れ、不測の事態が発生した場合、日米安全保障条約の適用対象になると言明した。
   ロイターは、
   安保条約は過去数十年機能しており、尖閣諸島に絡む衝突などの事態が発生した場合、適用されると断言。しかし、オバマ大統領は尖閣諸島が日米安全保障条約の適用対象であることを明言したが、一方で、オバマ大統領は日中の領土問題に対する立場を明確にせず、中国に配慮する姿勢もみせた。

   これまで、米政府高官が、表明していたアメリカの尖閣諸島問題について、大統領が公式見解として明言したのだが、あくまで、日中の対話によって平和裏に問題の終息を図るべきと言うことである。
   尖閣紛争で米国は軍事力を行使するのかと聞かれて、シリアやウクライナを引き合いにして、何でもかんでも武力介入するのが米国の立場ではないと応えていたが、これが、米国の建前でもあり本音であろう。
   いずれにしろ、日米安保条約に基づき、日本は、アメリカの同盟国であり、米中関係とは、根本的に違うのだと言うことを肝に銘じておくべきであろうと思う。


   さて、中国だが、私は、前にも、ジョン・J・ミアシャイマー著「大国政治の悲劇」のブックレビューで書いたが、中国の覇権国家への傾斜が問題だと思っている。
   ミアシャイマーは、次のような見解に立つ。
   ”豊かになった中国は、「現状維持国」ではなく、地域覇権を狙う「侵略的な国」になる。どの国にとっても、自国の生き残りを最大限に確保するために最も良い方法は、地域覇権国になることであり、中国の狙うのは、北東アジアでの覇権国になることであり、これは、アメリカにとって最も起こって欲しくないことである。”
   ”もし、中国が世界経済のリーダーになれば、その経済力を軍事力に移行させ、北東アジアの支配に乗り出してくるのは確実である。中国が民主的で世界経済に深く組み込まれているかどうかとか、独裁制で世界経済から孤立しているかどうかとかは重要な問題ではなく、どの国家にとっても、自国の存続を最も確実にするのは、覇権国になることだからである。”

   現在の中国の動向や対日政策を見ていると、このミアシャイマーの指摘する傾向が、益々強く露骨になって来ているような気がする。
   最も気になるのは、アフリカなどで強力に展開している、中国の躍進動向が発展途上国の成長発展への新しい歴史的トレンドであるべきだと言わんばかりに、営々と民主主義を構築し公序良俗を育ててきた市民社会文化を排除するような動きをしていることである。

   いずれにしろ、これだけ、露骨に、尖閣や南沙諸島などで、隣国と領土関連で問題を起こし、更に、チベットや新疆ウイグルでの少数民族弾圧を続けており、アメリカが志向するこれまでの世界戦略を見直して、その重心をアジア・太平洋地域に移そうとする軍事・外交上のリバランス政策が必要なことが良く分かる。
   しかし、世界第2の経済大国であって、あまりにも経済的にも政治的にものめり込んでしまって、相互依存関係にある中国との関係を無視するわけには行かず、時には、同盟国日本を飛び越して、中国に良い顔をせざるを得なくなったと言うアメリカの対日、対中関係の変化をも、十分に考慮しておくべきであろう。
   Gゼロ時代に突入し、かつ、現下のオバマ大統領の時代では、カメレオン外交の色彩が強くなるような気がしているのだが、どうあろうか。

   さて、TPPの問題であるが、難航している。
   日経は。
   ”日米首脳、関税協議 早期妥結を指示 ”
   両首脳は環太平洋経済連携協定(TPP)を巡る日米間の懸案解決を目指し、同日午後も閣僚級協議を続ける方向で一致。TPP交渉全体の早期妥結も指示した。共同声明は閣僚協議の終了後に発表する。
   オバマ大統領は、
   米国のメーカーと農家はTPPに参加する日本を含む市場へのアクセスが必要だ。
   日本にはTPPで、アジア太平洋地域で大きな役割を果たすチャンスがある。だから大胆な措置をとって包括的な合意に達することができると信じている。
   と言って、日本が21世紀で経済大国として生きたければ、この劇薬を飲めと勧める。

   ワシントン・ポストは、
   ”Obama seeks to use Japan trip to unlock broader Asia-Pacific trade deal”
   The United States and Japan are among a dozen countries that have spent nearly four years negotiating the Trans-Pacific Partnership (TPP), an ambitious effort to create a free-trade zone that would stretch from North and South America to New Zealand and Asia. The nations working on the accord account for 40 percent of the world’s gross domestic product.
   Government officials and many experts describe the accord as a way to deepen America’s ties with a dynamic economic region without alienating China. National security adviser Susan E. Rice told reporters Friday that over the next five years, “nearly half of all growth outside the United States is expected to come from Asia.” The trade deal “is a focal point of our effort to establish high standards for trade across the Asia-Pacific and to ensure a level playing field for U.S. businesses and workers,” she added.

   米国のリバランス政策は、軍事・外交のみならず、経済的にも、極めて重要な政策なのであり、TPPの実現は、正に、アメリカにとっては生命線なのである。
   しかし、日本では十分に理解されているとは思えないのは、自由貿易圏a free-trade zone を確立することであって、究極的には、あらゆる障害を排して関税をゼロにする自由市場を実現することである。
   自由貿易を何よりも善として金科玉条のように信奉し、フリー・マーケットの実現を志向するアメリカであるから、それに対して、競争は共倒れでダメ、話し合いで決めようとする日本とは水と油で、日米間の貿易交渉で、激しいバトルは当然の成り行き。
   言うならば、TPPに加入するかどうかは、殆どオール・オア・ナッシングの戦いなのである。
   しかし、米国側が政治的配慮をしたのか、今回の日米交渉は、かなり、緩やかな感じがしている。

   私は、元々、TPP賛成であって、例え、劇薬であっても、将来の日本経済の健全化を考えれば、あおるべきだと思っている。
   詳細は避けるが、客観的に考えて、日本の経済社会に歪や犠牲を伴うとしても、被害を被る当事者への対応を十分にする必要はあるけれど、国民生活全体を俯瞰し、トータルで考えれば、はるかに、利点が多いと思うのである。
   第一、消費者にとっては、総体的な話だが、今より安くて良い品物やサービスを受けることが出来て、これ程素晴らしいことはない筈である。

   ただし、自由貿易圏の確立であるから、市場は大きくはなるのだが、スティグリッツが指摘するように、極端に言えば、弱肉強食の市場原理が働くために、競争力のないものやサービスは、市場から駆逐、淘汰されて行くと言う現象が発生し、心配されているように、体力の弱い保護しなければならないような産業や商品などは、生きて行けなくなる。
   このような自由市場経済に、日本経済そのものを、熾烈な国際競争の荒波に晒して、危機的な状態に持ち込むのが良いのかどうかは問題だが、今回の首脳会談で結論を得られなかったとしても、既に、サイは投げられてしまっている。
   進むに進めず、引くに引けず、が、日本の状態かも知れないが、如何なる障害を乗り越えても、万難を排して、TPP交渉を成功させようと日本政府は決めている。
   いつか来た道ではなく、全く新しい道であるが、大変な試練であると同時に、オバマ大統領が言うようにチャンスでもある。
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「海外ビール 女性つかむ」と言う記事

2014年04月23日 | 生活随想・趣味
   今日の日経夕刊のトップページに、「海外ビール 女性つかむ ハイネケンやカールスバーグ」と言う記事が載っていた。
   「洋風居酒屋人気で浸透」と消費者の嗜好の多様化を背景にして支持を広げていると言うことらしい。
   私など、ビールを買って飲む時には、サントリーのプレミア・モルツにしているのだが、正直なところ、あまり、ビールについては味の差は、良く分からない。

   日本のビールは質が高くて、海外でも人気が高いようだが、私の場合には、ずっと前のことになるが、海外にいた時には、日本のビールを飲みたくても飲めなかったので、アメリカではバドワイザー、オランダではハイネケン、イギリスではギネスを飲んでいた。
   先年、バドワイザーを、生まれ故郷のプラハで、飲んだ時には、旧知に会ったような懐かしさを感じて、たかがビールではないことに気付いた。
   ブラジルに居た時には、何を飲んだのか覚えていないが、地場ビールがまずかったので、殆ど飲まなかったのかも知れない。

   面白いのは、イギリスのパブでは、ギネスなど地ビールを飲む時には、地面下の樽からそのまま出て来るようなので、常に常温である。
   日本では当たり前の冷えたビールを飲みたければ、ハイネケンやカールスバーグなどの外国のビールをオーダーしなければならない。
   最初、知らなくて地ビールを注文して飲んだら、冷えていない生ぬるいビールだったので、随分、不味いと言う記憶が残っている。
   日本から来た客も、面くらってしまって、イギリスのビールは不味いと言いながら帰って行った。

   しかし、このビールだが、5年間もイギリスに居て、何度もパブで飲み続けていると、慣れてしまったのか、これが、美味くなってくるのである。
   午後に日本人とのビジネスが入っていれば、ダメなのだが、そうでなければ、昼など、手っ取り早く済ますために、近くのパブに出かけて行って、一品温かい料理を取って、1パイントのギネスを飲みながら昼食を済ますことも、しばしばであった。
   イギリスでは、郊外に出たり、カントリーサイドに出かけると、必ず、古くて由緒のあるパブがあって、ここで、ギネスを飲みながら憩うのが、楽しみであった。
   ひょろりと、シェイクスピアやディッケンズが、入ってくるような、そんな懐かしい古いイングランドのムードがムンムンしているのである。
   その後、帰国してからも、ヒースローなどイギリスの空港に降り立つと、ロビーのパブなどに直行して、黒い常温のギネスを1パイント頂くことにしていた。

   ところで、ロンドンにも、沢山、素晴らしいパブがあって、看板の夜11時まで、大変賑わっていた。
   日本から来客があると、トラファルガーからほど近いシャーロック・ホームズ・パブや、シティにあるディッケンズのThe Old Curiosity Shop(下記の写真はその置物)などを案内するのだが、それ以外でも、歴史の風雪に耐えてきた雰囲気のある素晴らしいパブが沢山あって、ビールが飲めなくても、楽しい。
   このパブは、古いビルを再開発して、立派な建物に衣更えしても、必ず、そのビルに新設して、ペパーコーンレイト、すなわち、格安の賃貸料で維持しなければならないのである。
   

   ビールなら、絶対に忘れてはならないのは、ドイツであろう。
   ドイツは、確か、日本の地酒と同じで、全国版のビールではなく、各地にある地ビールが主流であったと思う。
   それに、ソーセージが、ウィンナやフランクフルター、ニュールンベルガーと言うように土地によって違っており、このソーセージや土地土地の地の料理が、この地ビールに合っていて実に美味いのである。
   ビールと言えばアルコール度が皆同じだと思っていたので、ミュンヘンで、ストロングを飲んだ時には、酔っ払ってしまって、びっくりしたことがあり、運転手だった同僚が、長い間運転が出来なかった。

   もう一つドイツのパブでの思い出は、グラスの上の方に短い横線が入っていて、このグラスにビールを注ぐのだが、細かくてシックな泡が少しずつ消えて行って、この線まで琥珀色のビールが達するまで辛抱強く待っていて、それから客にサーブする。
   日本のビールのように泡がすぐに消えるのではなく、泡が長く残っていて、コクの深さは抜群であり、美味しくない筈がないのである。   

   ドイツで興味深かったのは、あっちこっちのラートハウス、すなわち、市庁舎の地下が大きなパブないしワインハウスになっていて、ビールやワインを存分に楽しめることである。
   あのロンドンのトラファルガー広場の前にあるSt.マーチン・イン・ザ・フィールド教会の地下にも大きな食堂があるのだが、ヨーロッパにある街中の重要なパブリックスペースに、庶民が心置きなく酔っ払って楽しい時間を過ごせる憩いの場があると言うのは、実に、素晴らしい文化的な空間の提供だと思う。

   海外ビールの女性人気記事で、脱線してしまったが、朝ドラではないが、酒は百薬の長。酒が楽しめなければ、人生の半分の幸せをふいにしていると言う人がいるが、晩酌をしなくても、時に及んで、酒を嗜み楽しむ程度の私でも、そう言う気がしている。
   悠々自適の生活に入ってからは、外へ飲みに出かける機会も少なくなってしまったが、私が、ビールやワインを楽しんだのは、やはり、旅の時が多い。
   正式な晩餐会やパ―ティ、会食などは、また別だが、外国でも日本でも、旅の途中で、地酒や地ビール、あるいは、その土地のワインを楽しみながら、その土地の食事を頂くのが、楽しみであった。
   ヨーロッパに居た時には、ミシュランのレッドブックを頼りに、あっちこっちの星付きのレストランを行脚したが、ワインは飲む食べ物、食事との相性が良いと至福の時間を楽しめる。
   
   
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国立文楽劇場:「通し狂言 菅原伝授手習鑑」(3)「寺子屋の段」

2014年04月22日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   菅原伝授手習鑑で、最も上演回数も多くて重要な段は、「寺子屋の段」であろう。
   この後に、藤原時平が苅屋姫と管秀才に討たれ、管秀才が菅原の家を継ぎ、管丞相が天満大自在天神として祀られると言う結末が続くのだが、通し狂言でも、省略されて、この寺子屋が最後になるようである。

   「梅は飛。桜はかるる世の中に。何とて松のつれなかるらん。」
   この通し狂言の重要なテーマの一つだが、
   この段で、松王丸(勘十郎)が、自分の一子小太郎を管秀才の身替りに差し出して、武部源蔵(和生)に討たせた後で、いろは送りの前に、「管丞相には我が性根を見込み給ひ「何とて松のつれなからうぞ」との御歌を「松はつれないつれない」と世上の口に、かかる悔しさ。・・・」
   時平の舎人となったが故に、管丞相の側に立つ兄弟の梅王丸や桜丸と敵対して、父親白太夫(玉也)にも勘当された松王丸の、苦しい胸の内を吐露しながら、管丞相に恩を返す劇的な結末の述懐であるが、この段のすべてを物語っていて感動的である。

   三兄弟の長男の梅王丸は、主君管丞相の舎人として後を継げたのだが、後の弟は家を出て仕官する以外に道はなく、次男の松王丸は政敵の時平の、末弟の桜丸は斎世親王の舎人となったので、敵味方となって相争うこととなり、同じく管丞相の恩を受けながらも、松王丸だけが、恩を仇で返す役回りになったことで、この物語の悲劇が展開されるのだが、この段では、管丞相の奥方御台所(勘彌)を救出して管秀才に対面させるなど、一気に、善玉として脚光を浴びることとなる。

   さて、舎人だが、この文楽や歌舞伎の松王丸を観ていると、すごい侍のように見えるのだが、元々は、皇族や貴族に仕え、警備や雑用などに従事する下級の使用人と言ったところであって、本来なら、このように重要な役割を演じられる筈がない。
   あるとするならば、家が菅原家との付き合いで、管秀才の顏を見知っているので、春藤玄番(幸助)に従って首の検分役に来たと言うことなのだが、そこは芝居であって、印象が大分違っているのが面白い。
   いずれにしろ、舞台にかかれば、幸四郎や吉右衛門、仁左衛門たちが大見得を切り、玉男や玉女、勘十郎などが、巨大で厳めしい松王丸の人形を遣って大上段に振りかぶる見せ場を演じるなど、松王丸の偉丈夫ぶりは、文楽や歌舞伎でも、特筆ものなのである。

   
   実際の舞台だが、嶋大夫の浄瑠璃と富助の三味線が、素晴らしい。
   それに、勘十郎の松王丸、紋壽の女房千代、そして、和生の武部源蔵など人形遣いの布陣も素晴らしく、冒頭の源蔵戻りから、段切りのいろは送りまで、よだれくり(簑次)や、寺子や百姓のツメ人形が演じるチャリ場の息抜きはあるものの、息もつかせぬ緊張の連続で、非常に充実した舞台を見せてくれて、圧巻である。

   この寺子屋は、文楽よりは、歌舞伎で見る方が多いのだが、何回観ても記憶は定かではないものの、歌舞伎の方が様式美が勝っていて、文楽の方がドラマチックなような感じがしている。
   例えば、源蔵が奥に下がって小太郎の首を討つ時、大夫の「奥にはばったり首討音・・・」に合わせて、和生の「はーっ」と言う気合の入った掛け声が聞こえると、松王丸も、玄番も、大きく体勢を崩して動揺するのだが、歌舞伎では、自分の子供の首を討たれていると言う絶体絶命の苦痛を噛みしめ忍従に堪えていると言う感じで、松王丸の動揺も最小限に切り詰められている感じであったような気がしている。

   また、いろは送りの舞台にしても、義太夫は、悲しい程華やかだと言うこともあるのだろうが、悲しさの絶頂である筈の紋壽の千代は、踊るように舞うように優雅な姿で、全身で悲しみを表現していて、踊ってはいけないと言われている筈の三味線が華麗な分、勘十郎の松王丸も呼応していて優雅であり、私には、非常に劇的な展開で、興味深かった。

   
   勘十郎の松王丸だが、首実検で管秀才の首に相違ないと言って舞台を退場するまではあくまで公式的だが、衣装を変えて門口から「女房喜べ」と言って入ってくる時には、完全に宮仕えから解放された人間松王丸になり切って、普通の親と変わらない自分の子供可愛さが総て。
   そのあたりの、勘十郎の心の変わり目の表現は秀逸であり、つれなかりし松王丸との悲劇から解放された安堵もあるのであろう、小太郎の今わの際に、にっこりと笑って首を討たれたと聞いて、「笑いましたか」と絶句して、激しくも感動的な泣き笑いの表情の凄さなどは、正に、感動ものである。

   この場合も、そして、先の首討ちの瞬間もそうだし、いろは送りの哀調極まりないシーンもそうだが、大夫と三味線と人形の三業が、阿吽の呼吸とも言うべき協業によって紡ぎだした瞬間の連続の流れるような芸術の素晴らしさは、正に、融合による芸の昇華であって、芸術の極致であろうと思って観ていた。
   オペラなども総合芸術の華だが、文楽の場合には、非常にシンプルな形で、三人の人形遣いの芸の融合に加えて、大夫と三味線も舞台上に登場して、プレイヤーが総て眼前で、完全に一体となった素晴らしい芸術を生み出しているのを観ていると、私には、驚異なのである。

   これまで、何度も観ている「寺子屋」なのだが、特に、今回、これ程感動して鑑賞できたのは、やはり、通し狂言として、殆ど全編、連続して公演されたお蔭であり、それに、大事業として推進してきた、益々充実してきた文楽界の実力の成せる業なのであろうと思っている。
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P・H・ディアマンディス&S・コトラー著「楽観主義者の未来予測」上下(1)

2014年04月21日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この本のタイトルは、「ABUNDANCE The Future Is Better Than You Think」すなわち、”潤沢・豊富 未来はあなたが考えているよりもっと素晴らしい”と言うことで,
翻訳本のタイトルの如く、「テクノロジーの爆発的進化が世界を豊かにする 楽観主義者の未来予測」である。
   先々月、ブックレビューしたマット・リドレー著「繁栄 明日を切り拓くための人類10万年史」上下と相通じる、巷に流布する悲観的な未来予測や警告の書をあざ笑うかのように、人類の英知と進歩発展を謳歌する注目すべき本である。

   本書の帯にも引用されているが、ヴァージン・グループのリチャード・ブランソンが、
   “Abundance provides proof that the proper combination of technology, people and capital can meet any grand challenge.” Sir Richard Branson, Chairman of the Virgin Group
   この本ABUNDANCEは、テクノロジーと人々と資本が適切に融合すれば、如何なる人類が直面する大挑戦にも対処可能であることを証明していると賛辞を呈しており、多くのメディアからも称賛の書評を集め、アマゾンUSAのブックレビューでも、382のうち、272の5★を集めるなど、近年珍しいほど高評価を得た本である。
   読んでみて分かるが、非常に緻密に科学的根拠に基づいて理論展開されていて、悲観論者でもある程度納得の行く、非常に感動的でさえある専門書である。

   冒頭、我々人類の未来は明るいとして、アルミニウム抽出成功を例に上げて、人類にとって必要な資源は、入手不可能な資源である場合が多く、テクノロジーのレンズを通してみれば、本当に希少な資源などは殆どないにも拘わらず、希少性の脅威が、いまだに、我々の世界観を支配していると指摘している。
   WWWが、価格の安い通信と情報の蜘蛛の巣を実現したように、我々は、情報と通信の潤沢な世界に暮らしていて、コンピューターシステム、ネットワークやセンサ、人工知能、ロボティックス、バイオテクノロジー、バイオインフォマティクス、3Dプリンティング、ナノテクノロジー、ヒューマン・マシン・インターフェース、生体医工学等々時代を変える新しいテクノロジーが進歩し互いに融合することによって、指数関数的に変化発展して、人類にとって十分な「潤沢な世界」が実現可能である、と言うのである。

   本書の帯に、「3DプリンタとiPS細胞を組み合わせたら何ができるか?そこにあるのは身震いするほどの可能性」と記されているのは、そのケースで、人類の未来は、そのテクノロジー、人知、資本の融合による指数関数的な進歩発展によって、これから直面して行く偉大な挑戦を突破し得るのだと言う。
   想像だに夢であった月着陸の実現は勿論のこと、ムーアの法則が指数関数的増加のパターンを代表する如く、これまでの人類の歩みは、正に、その歴史の連続であって、イノベーションに全幅の信頼を置く文化文明論の展開である。
   「繁栄」の著者リドレーがかく言うのも当然であろう。
   "Now that human beings communicate so easily, I suspect that nothing can stop the inevitable torrent of new technologies, new ideas and new arrangements that will transform the lives of our children. Peter Diamandis and Steven Kotler give us a blinding glimpse of the innovations that are coming our way — and that they are helping to create. This is a vital book." Matt Ridley, author of The Rational Optimist

   さて、著者は、色々な指数関数的なテクノロジーの系譜や、人類の貧困の解消や生活環境の改善など「潤沢な世界」への挑戦などについて、非常に示唆に富んだ理論展開をしているのだが、この稿では、90億人を養うと言う章で、GMO(遺伝子組み換え生物)について論じており、非常に興味深いので、この点に絞って考えてみたいと思う。
   まず、マルサスの罠をクリア出来て来たのは、イノベーションによる石油化学製品を利用した土地生産性の向上による農業の普及に拠ったのであることは忘れるべきではなく、この持続不可能な力任せの方法ではなく、生態系を乱暴に扱うのではなく、共存して行くもっと細やかなアプローチを学びながら、食用作物や食品生産システムを最適なものに換えなければならないと言うことである。

   GM種子は、近代農業の歴史上で最も短期間で普及した作物技術で、既に、後戻りするには遅すぎる。GM作物は自然に反した「フランケンフード」だと言う考えも、かなりバカバカしいと言う。
   ほぼ本質的に、すべての作物は自然界に置いて「遺伝子組み換え」されている。農作物とは、今あるような素晴らしい果実を産出できる、奇異な突然変異種であり、人間の介入なしには生き延びられない。人参がオレンジ色なのも、小麦が三つの二倍体ゲノムを細胞にもつ突然変異の種の淘汰のお蔭であり、人間にとって良かれと思われた突然変異種を、人間が大切に保護して育て続けてきたから現在あるのであって、野生の植物としては生き残れない。のである。

   更に、30年にわたる研究によって、人間が作成したGM種子に抱いている不安は大部分解消されていて、健康上の懸念が現実になる可能性はなさそうである。
   遺伝子組み換えが病気を引き起こした事例は一件も見つかっていないし、生態系の破壊と言う心配もあったが、全体的に考えれば、GM種子は、環境に良いと思われる。
   これまでのGMOは、第一世代であって、洪水にあった土地や、塩分を含んだ土壌でも育つ作物や、栄養分を強化したGM作物、更には薬として機能する作物や、収量を増やし化石燃料の使用を減らす作物が利用できるようになり、そのような機能の多くを一度に実現できる作物が設計できれば上出来だ。と言うのである。

   問題は,GM種子を開発した少数の企業が世界の食料供給を管理する危険で、GM種子の知的財産を共有するオープンソース化するなど対策を取らねばならないであろう。
   また、GM種子のオープンソース化が実現できても、世界全体を養う保証はなく、現在のように一方では食物の半分は廃棄処分しながら他方では食糧不足に泣くと言った流通システムの問題や、農場の移転などを含めて垂直農場論を展開するなど、更に、興味深い指摘もしていて面白い。

   さて、遺伝子組み換え作物の問題だが、自然が突然変異で行った作物と、人為的に行った作物と、同じ遺伝子組み換えであるのに、なぜ、人為的なGMOを「フランケンフード」として忌み嫌うのかと言う指摘は、一考に値する。
   この見解には、両論並立で、歩み寄りの余地は少ないのだろうが、私自身は、人為的な遺伝子組み換え作物については、それ程抵抗感はない。
   化石燃料による農業の生産性向上の余地がなくなれば、むしろ、マルサスの罠を突破するためにも、人為的GMOのイノベーションは必須であり、宇宙船地球号のエコシステムを健全に保持するためにも必要だと思っている。
   延々と繰り返されてきた自然による遺伝子組み換えによる突然変異に頼るのではなく、確固たる目的を持って人為的な遺伝子組み換えを行うことによって、GMO作物作出を促進加速化すると言うことであろうから、人類の高邁な英知が試されることとなるのは、当然ではあるが、これも宿命であろう。

   先に、リドレーの「繁栄」でも付言したのだが、地球環境が危機的な局面に差し掛かってきた以上、悲観論に組して嘆くよりも、人類の英知を信じて、やるべきこと出来ることは、万難を排してでも推進すべきだと思っている。
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トマト・プランター栽培記録2014(2)桃太郎ゴールドを植える

2014年04月20日 | トマト・プランター栽培記録2014
   タキイに注文していたトマト苗が届いたので、早速、プランターに植え替えた。
   今回、オーダーしたのは、黄色いトマトの桃太郎ゴールドが入ったセット苗で、2セットなので、大玉の桃太郎ゴールドと桃太郎ファイト、そして、ミニトマトの小桃が、4本ずつである。

   桃太郎ゴールドは、上手く栽培すれば、果物のように甘くなり、食感も良く、非常に素晴らしいトマトなのだが、結構、栽培が難しい。
   桃太郎ファイトも同じで、大玉トマトで、1本で、上出来のトマトを10個以上収穫したことがないので、私には、大玉トマトの栽培は鬼門であるのだが、試みる価値はあるとは思っている。
   小桃は、特に変わったことはなく、普通のミニトマトだと思うのだが、サカタのアイコ程ではないけれど、ピンクがかった縦長のミニトマトで、結構、いけるので昨年も植えている。

   不思議なもので、トマトの玉が小さくなればなるほど、実なりも良く楽に収穫でき、マイクロトマトなどは、雑草のように育って実が成るのだが、私には、ミニトマト程度が、丁度良い加減と言うところであろう。
   昨年は、2本仕立てを試みて、ほぼ成功したのだが、今年も、ミニトマトの何本かは、2本仕立てにして、各々、寿命は短くなるのだが、4番花房程度でトリミングしようと思っている。

   ミニトマトで、1本100個くらいの収穫は、それ程、難しいことではないのだが、先を伸ばさずに、出来るだけ、花房の下の段階で、止めた方が、実も充実するし、美味しいトマトが収穫できるので、その方が良いのであろうと思う。
   しかし、この数年そうだが、厳しい猛夏を乗り切れるのかどうか、その前にダウンする可能性が高い。
   いずれにしろ、市販のトマトのように、ほんのり色付いて青いうちに収穫して出荷するのとは違って、完熟したトマトを、早朝に収穫して、美味しく頂けると言うのは、幸せなことで、自家栽培の醍醐味と言うところであろうか。
   たかがトマトではあるが、味の違いは、歴然としている。
   
   
   
   
   

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わが庭:エリナ椿、菊枝垂桜咲く

2014年04月19日 | わが庭の歳時記
   庭に植えたエリナ椿が咲き始めた。
   スズランのような形をした小さな椿が、か細い枝に鈴なりに咲くのだが、美人薄命の如く、すぐに花が落ちてしまうのが、少しさびしい。
   最近、園芸店などでも良く見かけるので、かなり、ポピュラーになったようだが、椿の種類の多さにはびっくりする。
   ジョリーパーやナイトライダーも咲き続けている。
   
   
   
    
     
    もう一つ、千葉から持ち込んで植えたのが、菊枝垂桜で、少しずつ、花が開いて、なかなか、エレガントである。
   東京近辺は、桜と言えば、殆どがソメイヨシノで、それなりに豪華で美しいのだが、関西のように桜の種類が多くて、3月の初旬くらいから4月の下旬あたりまで、順繰りに咲く方が面白く、また、夫々の桜に、夫々の雰囲気や風情があって、中々、見ていて楽しいのである。
   今頃は、御室の桜が美しいであろう、などと言って、あっちこっち、桜行脚をする楽しみが関西にはあったような気がする。
   
   

   新しく庭植えしたのが、クラブアップルのプロフュージョンで、ピンクの少し大きめの花を咲かせていて面白い。
   姫リンゴが出来るようである。
   

   モミジも動き始めた。
   復活した獅子頭も大分茂って来たし、鉢植えだが、琴の糸や鴫立沢も芽吹き始めて来た。
   庭の大きなモミジは、野村であろうか。種が蝶のように風で舞っていて面白い。
   
   
   
   

   バラの蕾が見えるようになって来た。
   アブラムシが見えたので、薬剤散布し、最後の追肥をした。
   来月に綺麗な花を咲かせてくれるのを期待している。
   牡丹と芍薬の蕾も少しずつ膨らみ始めた。
   梅の実も大分大きくなり始めて来た。今年は豊作のようである。
   面白いのは、松の実で、小さな松かさが可愛い。
   
   
   
   
   

   前の住人が植えていた花木が、咲き始めている。
   落葉樹だと、馴染みがなければ、どんな花が咲くのか分からないのだが、千葉のわが庭にはなかった花が咲き始めると、何となく、新鮮な喜びを感じる。
   カイドウ桜が、少しずつ散り始めたと思ったら、梨であろうか、白い花を付け始めたのだが、これも花の命は短く、すぐに散り始める。
   ドウダンツツジが、釣鐘状の小さな花を沢山つけている。
   アメリカハナミズキが、ピンクと白に色づき始めたのだが、肥料切れか、少し貧弱で可哀そうである。
   
   
   

   春の訪れで、花が咲き乱れると、一気にガーデニングが忙しくなる。
   プランタートマトの世話もあり、ボケている暇がないのが有難い。
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鳳凰祭四月大歌舞伎・・・藤十郎の「曽根崎心中」

2014年04月17日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   口絵写真は、大阪日本橋の国立文楽劇場の2階ロビーの壁にかかっている近松門左衛門の「曽根崎心中」の死出の道行への冒頭の名文である。
   住大夫が、「文楽のこころを語る」で、浄瑠璃を語る大夫の立場からか、「近松ものは字余り字足らずで、私嫌いでんねん」と言うのだけれど、この文章は、実に美しくて素晴らしい。
   私は、イギリスでシェイクスピア劇鑑賞に通い詰めた記憶からも、近松門左衛門を日本のシェイクスピアだと思っているので、歌舞伎でも文楽でも、必ず出かけている。

   今回の藤十郎の「曽根崎心中」は、
   ”坂田藤十郎一世一代にてお初を相勤め申し候”と言うのであるから、言うならば、見納めである。

   5年前のこの歌舞伎座での藤十郎の「曽根崎心中」を観た私の感想は、次の通りなのだが、今回観ても、殆ど舞台の印象は変わらない。
  
   ”歌舞伎の舞台でのお初は、藤十郎の専売特許とも言うべき役柄で、既に、1300回出演だとかだが、70歳を超えてのお初の瑞々しさ、初々しさは、恐ろしいほど衰えていない。
   堂島新地の遊女であるから、花魁、太夫と言った高級遊女とは桁違いの下級遊女なので、冒頭の「生玉神社境内の場」での徳兵衛(翫雀)との会話などで示す(手を叩いて喜んだり、しなだれかかったりする)お初の仕草など、今でも、道頓堀や心斎橋筋で見かける女の子と少しも変わらない生身の臨場感があって面白いのだが、
   一転して、「北新地天満屋の場」では、軒下に隠れている徳兵衛の首に素足の右足をナイフのようにあてがって、死ぬ覚悟があるか確かめるところの(不気味なほどの)凄さや、夜中を待って天満屋を抜け出し徳兵衛の手を引っぱって落ち行く姿などは、流石に大坂女の面目躍如であり、
   最後の哀切極まりない死への道行きの、健気でいじらしい涙が零れるような女らしさなど、徹頭徹尾お初の魂が乗り移ったような藤十郎の芸に脱帽である。”

   藤十郎のお初は、文楽のお初と違って、徳兵衛の手をぐいぐい引っ張って、天神の森へ突っ走る。
   そして、天満屋の場で、お初の不幸に同情した主人惣兵衛(東蔵)が、「はつも二階に上がって寝や、早う寝や」と言うと、「そんなら旦那さま、もうお目にかかりますまい、さらばでござんす。」と応えて死の決意をきっぱりと匂わせる。
   そして、天神の森での死期を迎えた藤十郎のお初は殆ど恍惚境に近い表情で何の迷いも感じさせない程、澄み切っている。
   悲惨な苦界で人間としてギリギリの生活を送って来て、何も美しくて素晴らしい価値ある世界も見る機会がなかった薄幸の安女郎が、愛しい徳兵衛と、実際には、目くるめくような幸せ(?)を感じて死出の旅路に立つ・・・歌舞伎でも文楽でも省略されているのだが、近松門左衛門の原本の冒頭にある重要な段「観音廻り」が、お初のあの世での幸せを保証したかのように。

   ところで、この歌舞伎だが、
   醤油屋の手代徳兵衛が、主人から妻の姪と夫婦になれと強いられて江戸詰めを言い渡され、堂島新地の遊女お初にも身請け話があって、義理に追い詰められた相思相愛の二人の切羽詰った心中事件と言う実話に、近松は、徳兵衛を騙して金を取った悪人九平次(橋之助)を創作して付け加えて、話を面白くした。
   お初と徳兵衛は、損得抜きで恋に溺れ込み離れられない間柄になってしまった。他の舞台に登場するような傾城、花魁、太夫と言った高級遊女ではなく、場末の堂島新地の安女郎であるお初には客を選べず、身請けと言われても嫌いな男で、心中しか恋を貫き通す道は残っていないし、手代の徳兵衛も義理との板ばさみのみならず、身請けする力もなければその算段もない、優男でがしんたれで、二人が添い遂げられるのはあの世しかなかったのである。
   離れたくない添い遂げたい、ただ、一途に恋をしたが故に、死への旅路を選ばなければならなかったしがない薄倖の二人に心を動かされた近松は、九平次と言う小道具を使っただけで、素晴らしく昇華された恋の物語を創りあげたのである。

   大坂商人は、女の子が生まれると喜んだと言う。
   バカ息子に身代を潰されるよりも、雇い人の中から有能な人物を選んで婿養子として跡取りにして事業を継承すると言う風習があったようなので、手代の徳兵衛にとっては、妻の姪を娶って醤油屋を継ぐなどと言う運命は、願ったり叶ったりで、しがない安遊女にうつつを抜かして、折角のチャンスを棒に振るなど、正に、アホとちゃうかと言うことだが、恋一筋の徳兵衛には、愛しいお初以外には何も目に入らなかった。

   その純粋さ故に、天神の杜へ向かう二人の死出の道行は、あまりにも切なく美しく、冒頭の近松門左衛門の名文が、断末魔の最後まで連綿と尾を引いて観客を泣かせる。
   ほんの一瞬だが、この世の何の柵も、何の制約もなく、生まれたままの自我に目覚めて徳兵衛が徳兵衛になり、お初がお初になって、純粋にお互いを見つめて愛を昇華できる幸せ、
   この世のなごり 夜もなごり 死にに行く身をたとふれば、
   あだしが原の道の霜 一足づつに消えて行く 夢の夢こそあはれなれ
   あれ数ふれば暁の 七つの時が六つ鳴りて 残る一つが今生の
   鐘の響きの聞き納め 寂滅為楽と響くなり
   歌舞伎の舞台でも、文楽でも、天神森の段、死出の道行の冒頭では、大夫の哀切極まりない「この世のなごり・・・」語りで始まるのである。

   この最後のシーンだが、藤十郎の舞台では、手を合わせて祈るように恍惚境で中空を仰ぐお初の喉元に、徳兵衛が、刃を近づけるところで幕となる。
   ロンドンでの文楽では、あるいは、その後日本でだったかは、簑助のお初が、玉男の徳兵衛の刃を受けて仰け反り、徳兵衛も喉笛を切って刀を落とし、お初を抱きしめるように重なって頽れると言うリアルな表現であったような気がするのだが、住大夫の話だと、「心中の場のラストは、玉男はんと簑助君の相談で演出が変わります」と言うことらしいのだが、やはり、生身の人間と人形では違うのであろう。
   玉男が、「はよ 殺して、殺して」と言われても、好きな女に刃を向けるなど正気の沙汰ではなく、最後のシーンでは、徳兵衛の顏を背けるのだと言っていたのを思い出す。


   長らく再演されていなかった近松門左衛門の『曽根崎心中』を、1953年、2代目中村鴈治郎、中村扇雀(現坂田藤十郎)のために、宇野信夫が、脚色・演出し、現在も、近松の原作や文楽とは違ったこの宇野版が上演され続けている。
  すなわち、歌舞伎では、近松にも文楽にもないのだが、徳兵衛の叔父平野屋久右衛門(左團次)が帰らない徳兵衛を探しに天満屋を尋ねてくる場面と、お初と徳兵衛が天満屋を抜け出した後に、油屋の手代が天満屋を訪れ、なくした筈の印判が自宅から見つかったと報告し、九平次が徳兵衛の金をだまし取ったことが露見するのだが、それを隣室で聞いていた久右衛門が出て来て、九平治を締め上げると言う場面が追加されている。
   確かに、この方が、ストーリー展開としては良く分かるし、見ている観客も溜飲を下げてほっとするのだが、近松門左衛門の原本があまりにも素晴らしいので、私は、蛇足のように思っているのだが、どうであろうか。

   また、先日、角田光代の「曽根崎心中」をブックレビューしたが、近松に想を得たこの小説でも、お初を別な側面から描いており、女性からの視点が面白い。
   藤十郎の言うように、今も、お初は、我々の中に、生き続けているのである。
   
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国立文楽劇場:「通し狂言 菅原伝授手習鑑」(2)引退狂言「桜丸切腹の段」

2014年04月16日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   三段目の切場「桜丸切腹の段」が、引退狂言で、浄瑠璃語りと三味線を住大夫と錦糸、それに、桜丸を簑助、その妻八重を文雀が遣うと言う人間国宝勢揃いの今回最大の話題を呼んでいる注目の段である。
   最初と最後に、住大夫への称賛と引退を惜しむ観客の盛大な温かい拍手が、長く続いて、正に、感動的であった。

   私が、初めて住大夫の浄瑠璃を聴いたのは、1991年10月ロンドン公演での「曽根崎心中」で、名調子にのって踊り舞う(?)玉男の徳兵衛と文雀のお初に涙したのを思い出す。
   その後帰国してから、東京半蔵門(時には大阪日本橋)の国立劇場へ通い詰めているので、住大夫のファンになって、ほぼ四半世紀、ずっと感動を頂き続けてきた。

    桜丸夫妻の取り持ちで実現した斎世親王と菅丞相の娘苅屋姫の密会を、政敵の藤原時平に陰謀だと姦計を弄されて、菅丞相は、九州・大宰府に流罪になってしまう。桜丸が、その責任を感じて、切腹を決意して帰って来て、その固い覚悟を知らされた父白太夫は、氏神詣の神籤でも兄たちの喧嘩で桜の枝が折れたことでも凶と出たので、運命と諦めて、わが子の切腹を前に、親としてしてやれることは撞木と鉦を打ちならすことだけだと悟る。妻八重は、切腹を止めさせようと、桜丸にしがみ付いて必死に懇願して説得するが、それも叶わず、桜丸は切腹を遂げる。
   この哀切極まりない愁嘆場が、この桜丸切腹の段である。

   体力の衰えを感じて引退を決意した住大夫の最後の浄瑠璃語りだが、確かに心なしか迫力と元気さにはあがらえないのであろうが、しみじみと心の底から迸り出る伝道者のような、切々と訴えかける心情の吐露が、肺腑を抉るように胸を締め付ける。
   運命を受容しようと腹に刀を当てる桜丸と、どうしても桜丸の命を助けたい一心で断腸の悲痛を訴える八重の、寄り添って必死に争う二人の姿が、儚くも輝いていて、実に美しく悲しいのである。
   住大夫と錦糸の浄瑠璃に乗って、浮世の未練をすべて清め捨て去って、従容と死に赴く桜丸を簑助が、悟りきれなくて号泣し続ける八重を文雀が、生身の役者以上に生き生きと人形を遣って演じ切っており、そのまわりを実直そうな白大夫の頭をつけた玉也の父・白大夫が、撞木と鐘を打ちながらうろうろ右往左往する・・・正に、哀切極まりないこの世の終わりの光景であり、観客を忍び泣かせて、場内は水をうった様に静寂の極致。

   この桜丸切腹は、自分で本読みしていても、「かわいそうやなー」と泣けてくる。床本読んでるだけで、語っているだけで「悲しいなー」と涙が出そうになるのだが、自分で泣いているうちはあかん、それを通り越してこないと語れないと言うのである。
   また、この桜丸切腹の段は、「名作中の名作です。お客さんがないてくれはらなんだら、よっぽど演者が悪い。」

   「文楽のこころを語る」で、この桜丸切腹の段の初演が、古住大夫の頃、前半を語っていた実父・住大夫が入院したので、その代役であったと語っている。
   古住大夫が代役ではカネが取れんと松竹が反対したのだが、八世綱大夫や義父の鶴澤藤蔵のとりなしで千秋楽までやった思いで深い演目だと言う。
   尤も、その時は、無我夢中で、舞台のお客さんよりも、後ろに控える山城少掾に気ィ遣ったと述懐している。
   後半を語る山城少掾が、7~8分前に、裏の盆に座る音が聞こえると緊張して往生した、代役が良かったと褒美を貰ったが、と語っている。

   さて、住大夫の引退だが、2012年7月に脳梗塞で倒れて以降、舞台で思うように語れず、今年2月の公演の最後に引退を決意し、自ら申し出たと説明。「今までやれていたことがやれなくなった。残念です」と話した。と朝日が報じている。
   やはり、文化不毛の橋下府政の文楽協会への補助金打切り政策に対する心痛が原因だと言うのが一般の見方のようだが、朝日の記者が、引退インタビューで、その文楽予算をぶち切ろうとした橋下が、結果が明々白々で何の大義名分もない全く無意味な市長選挙に持ち込んで、6億3千万もの無駄遣いをしたことにたいして、何か言い分がないかと執拗に住大夫に詰め寄っていたのが印象的で、「言いたいことはあります。でも厳しい財政、しゃーおまへんな。」「私は芸のこと以外、政治とか全然分かりませんねん。」と応えていたのが、文化国家としての日本として、実に悲しいと思っている。

  
  ところで、引退披露インタビューで、浄瑠璃の魅力は、と聞かれて、住大夫は、
  やっぱり、情でんな。情を伝えるのが太夫の使命であって、お客さんに泣いてもろたり、笑ろうてもろたり・・・、情を出そうと思って出せるもんやない。長年の稽古の積み重ね。でもこんな難しいもん、誰が考えはったのか。浄瑠璃ってええもんでっせ。文楽ってようできてまっせ。と言うのだが、
  相方の人形遣いが、また、大変な修練を要する難行苦行の世界であって、このような古典芸能師の厳しい奮闘努力によって、我々は、文楽の至芸を鑑賞させて貰っている。

   「浄瑠璃はぜったい、理屈なしに、基本に忠実に素直に。あとは人間性です。」と言うのだが、「うちは教養番組と違いまんねん。要は娯楽でんねん。」とも言う。
   ええ浄瑠璃、そして、よくできた文楽が、観客を熱狂させて感動を呼ぶのは当然であろうが、これだけの高度で質の高い操り人形芝居と言う娯楽を生み出し育て続けて来た日本人の文化意識と民度が、途轍もなく高いと言うことであろうか。


   このインタビューでも、他の本でも、兄とも師とも慕う薬師寺の故高田好胤管長との交友について語っている。
   この方の法話を聞いていると、時には涙し、時にはユーモアがあって、早う僕も人を引きつける浄瑠璃を語りたいな、そればっかり思いましたけれどねと語る。
   89年に人間国宝に認定された時に、
   「奥深き 語りの技を ただただに 磨ききたりて 今日の功 なほになほなほ」と言う言葉を貰った。『これを励みに慢心することなく、一層勉強しいや』と言うてくれているんやと思います」と言う。

   住大夫の色々な本やインタビューなどの報道記事など結構読んでいるのだが、TV番組などの話を聞いても、やわらかくて軽妙な大阪弁で語る話術の冴えが秀逸で、並の落語や漫才を聞いているより面白い。
   それに、私にとっては、懐かしい古い関西の雰囲気やムードがむんむんする住大夫の話を聞いたり読んだりするのが楽しい。

   益々のご健勝をお祈りしたいと思っている。
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半世紀ぶりの県立伊丹高校同窓会

2014年04月15日 | 生活随想・趣味
   大学を卒業してから、会社に入って、大阪万博が終わると同時に、東京本社へ転勤し、そのまま、関東に移り住みながら、海外生活14年を送って来たので、ずっと、昔に関西人を卒業している。
   しかし、私の話す言葉は、今でも、関西訛りのようで、意識的にも関西人で、大阪に降り立ち、京都や奈良を歩くと、全くアットホーム感覚。

   初旬に、高等学校の同年度の同窓会があると言うので、丁度、国立文楽劇場での菅原伝授手習鑑の鑑賞も兼ねて、出席することにした。
   大阪を離れるまでは、高校の同窓会の役員も兼ねていたのだが、東京以降転々とした住所変更を学校に届けていなかったので、かなり最近まで、行方不明者扱いとなり、同窓会とは没交渉であった。

   高校で、同窓会主催の観桜会が開かれていたので、同窓会前に訪れたのだが、殆ど半世紀ぶりの母校訪問で、微かに残る記憶や雰囲気を反芻しながら、咲き乱れる桜木の下で涼風を楽しみながら、懐かしい思い出に耽っていた。
   
   
   
   

   同窓会は、伊丹市の中心街にあるホテルで開かれた。
   卒業生450人くらいだったと思うのだが、出席者は、90人弱、元気な人で、出席できる人たちだけが来たのであろうが、既に、1割くらいの人が物故者となっていて寂しい。
   
   出席者の殆どは、関西ないし近県の住人で、私のように、卒業後完全に故郷を離れて異郷で暮らしてきた人間にとっては、会う同窓生の殆どは、半世紀ぶりの再会であるから、微かに残っている面影や記憶の片鱗を結びつけながら、旧交を温めるのがやっとであった。
   

   高校時代に親しかった友人たちとは、共通の接触空間があったので、当時の生活や思い出に花を咲かせて、どんどん、当時の様子が蘇って来る。
   遠路鎌倉からやって来た、半世紀ぶりの再会だと言うこともあってか、席に座っていると次から次へと懐かしい顔を見せてくれて、話が随分弾んだ。
   私もその一人かも知れないのだが、みんな、想像を絶するような経験を経ながら生きて来ており、年輪の重みをつくづく感じて感動的であった。

   しかし、私にとって興味深かったのは、高校時代に、恐らく一度も話したことのない同窓生たちとの会話の新鮮さであった。
   高校時代に、私自身は、生徒会長を務めるなど、かなり、活発な生活を送っていたので、殆どの同級生は、私のことを知っているのだが、私自身は、自分の同じクラスや生徒会、クラブ活動などで一緒した同窓生など極めて限られた人しか知らず、話題に大変困ったのだが、どのように自分が映っていたのか、温かく語ってくれていたのが有難かった。
   そして、話題がどんどん膨らんで、私の知らないような高校生活が展開していたことを知って、益々、あの頃の生活が愛おしくなってきた。

   時代ばかりでもなかろうが、私自身の性格もあって、当時、半数いた筈の女子の同窓生とは、親しくどころか、殆ど話をしたことがなかった。
   ところが、歳がそうさせるのか、あるいは、人生の積み重ねの所為か、今回は、かなりフランクに話せて楽しかった。
   もうかなりのお歳(?)である筈なのだが、若さは実年齢の8掛けくらいで考えろと言われているように、実に若々しくて、日頃とは違った異次元の会話で、話題に味と深みがあって、実に温かいのである。
   チャーミングなレディが、席の傍に来て、懐かしい京都での話などを語ってくれていた。
   感激しながらも、女性には苦手なので、勝手なことを話していたようで心苦しいのだが、このように、同級生の皆とは、実に感動的な会話を交わせた筈なのに、高校時代、私は一体何をしていたのか、反省しきりであった。
   

   私には、5つの同窓会がある。
   小学校、中学校、高校、大学、そして、アメリカの大学院。
   中学校の同窓会は、まだ、知らないのだが、私自身が行方不明者のままなのか、これは、宝塚なので、是非、行きたいと思っている。
   同窓会は、誰か、マメで熱心な有志がいなければ実現が難しい。
   私など率先してやらねばならない筈だったが、残念ながら、すぐに故郷を離れてしまって、世界のあっちこっち、地球の反対側まで行って暮らしていたので、お役に立てなかったので偉そうなことは言えないが、多少の責任は感じてはいるものの、同窓会を開くには、継続して同窓生の動向をフォローしていなければ、難しいだろうと思っている。
   
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トマト・プランター栽培記録2014(1)植栽開始

2014年04月13日 | トマト・プランター栽培記録2014
   鎌倉へ移って初めてのトマト・プランター栽培である。
   先日、国華園にオーダーしていた4月発送のトマト苗が届いたので、プランター植えした。

   今回は、千葉のように、近くに何軒かの便利なホームセンターがないので、トマト苗は、すべて、これまでにも購入していた国華園とタキイ種苗にネット・オーダーして、値段が倍くらいはするのだが、接木苗を調達した。
   プランターや支柱など、資材の殆どは、新しく、ケーヨーディツーで調達したのだが、ここでは、確実に期日に、好みのトマト苗が買えると言う保証はないので、苗の調達は、止めている。

   国華園で買ってプランター植えしたのは、ミニトマトでは、レッドバニーとゴールデンバニー、そして、アイコとイエローアイコで、F1苗を夫々4本ずつ。アイコ苗は、何処で買っても同じだと思うのだが、何故か、本家のサカタの苗は高いので止めた。
   このアイコは、長楕円形の少し大きめのミニトマトだが、非常に良いトマトだと思っているので、毎年、必ず植えている。
   中玉トマトは、特に好みもないので、完熟むすめとフルーツボールで、これらもF1苗。
   今回は、サントリーのイタリアントマトやデルモンテ等のトマト苗は諦めた。

   毎年のように、肥料入りの野菜栽培用の培養土を使ってプランターに植えただけだが、支柱は、少し大きくなるまで、細くて短い支柱を使うことにして、園芸用のワイヤー入りビニールひもで仮止めした。
   問題は、プランターの置き場である。
   玄関に面した前庭に置くわけにも行かないので、日照は半日くらいだが、真夏になって陽が高くなると条件もよくなるので、裏庭の出来るだけ境界近くに並べることにした。
   大型のプランターを、10個、並べるのだから大変だが、まだ、未着のタキイからの苗も植えなければならないので、少しは、前庭にもプランターを置かなければならないと思っている。
   
   
   
   
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