熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

ユヴァル・ノア・ハラリ著「サピエンス全史」(2)種の多様性の破壊者

2017年08月31日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   サピエンス全史の上巻を読んでいて、結構、面白いのだが、新鮮に感じた個所が、2か所あった。
   一つは、巨大な恐竜など当時の大動物を殺戮して種の多様性を破壊して絶滅させたのは、サピエンスであった。と言うこと。
   もう一つは、サピエンスが、狩猟生活から定住化して農業生活に入ったことによって、生活が苦しくなり、人類の将来にとっても必ずしも良いことばかりではなかったと言うこと。である。
   まず、今回は、動植物の殺戮者サピエンスについて考えてみたいと思う。


   ハラリは、「史上最も危険な種」と言う章で、サピエンスが、認知革命の後、アフロ・ユーラシア大陸から抜け出して「外界」に移住するのに必要な技術や組織力、先見の明さえも獲得して、約4万5000年前に、オーストラリア大陸に移住した。この時、特定の陸塊で食物連鎖の頂点に達した瞬間に、人類は地球と言う惑星の歴史上で最も危険な種になった。と書いている。
   このオーストラリアへの航海は、コロンブスによるアメリカへの航海やアポロ11号による月面着陸に匹敵すると言っているのだが、サピエンスにとっては、広大な海洋を越えて新天地に到達すると言うのは、大変な偉業だったのである。

   海と言う障壁は、人類ばかりではなく、アフロ・ユーラシア大陸の動植物の多くにとっても、この「外界」に行きつくことを妨げ、巨大な動物を有する特有の動植物群を形成していた。この新世界を激変させたのは、気候頼みのアリバイを崩して、サピエンスが、オーストラリア大陸の大型動物相を捕獲殺戮して絶滅に導いたと言う証拠が3つあると言うのである。
   第1に、オーストラリアの気候はおよそ4万5000年前に変化したとは言え、あまり著しい変化ではなかった。
   第2に、気候変動が大規模な絶滅を引き起こす時には、大抵、陸上動物と同様に海洋動物にも大きな被害が及ぶのだか、その消滅の証拠はない。
   第3に、このオーストラリアでの原初の大量消失に類する大規模な絶滅が、その後の歳月で何度も繰り返されており、人類が、「外界」の新たな部分に住み付く度に、大絶滅が起こっている。
   シベリアのマンモスの個体群も同じ運命を辿った。と言う。

   なぜ、このような生態的大惨事を引き起こすことになったのか、3つの説明がある。
   第1に、絶滅の最大の被害者である大型動物は、繁殖に時間がかかり、個体数の増殖も少ない。
   第2に、サピエンスは、焼き畑農業を会得していたので、草地は獲物を狩りやすくした。
   第3に、気候の役割も無視し得ない。
   気候変動と人間による狩猟の組み合わせが、大型動物にとりわけ甚大な被害を与えた。と言うのである。

   アメリカ大陸においても同様で、アリューシャン列島やアラスカを経由して渡ってきたサピエンスによって、1万4000年頃には豊かだった動物相、マンモスやマストドン、クマほどもある齧歯類、巨大ライオン、オオナマケモノ等々、珍しい種の大半が消えて逝ったと言う。
   サピエンス移住の第1波は、生態学的惨事をもたらし、それは動物界を見舞った悲劇の内でも、とりわけ規模が大きく、短時間で起こったのだが、農業革命後も、この生態系の悲劇は規模を縮小して何度となく再現されて、今日に至っている。
   先に書いたネアンデルタール人、それに、デニソワ人といったヒトの仲間さえも駆逐してしまっているのであるから、恐ろしい限りである。
   参考のために、国立科学博物館の、ホモ・ネアンデルタールとホモ・エレクトスの模型を、下記に示すと、
   
   

   ガラパゴス諸島のゾウガメなどは、サピエンスから隔離された貴重な生き残り動物だが、先日、中国の漁船が、罰当たりにも、このガラパゴス近海に乗り込んで何千ものサメを捕獲しているのをエクアドル政府に拿捕されたと報じていたが、懲りないバーバリアンの悪行で、種の多様性は危機に瀕し続けている。

   もしこのままいけば、クジラやサメ、マグロ、イルカは、ディプトドロンやオオナマケモノ、マンモスと同じ運命を辿って姿を消す可能性が高い。
   世界の大型動物の内、人類の殺到と洪水を唯一生き延びるのは人類そのものと、ノアの方舟を漕ぐ奴隷の役割を果たす家畜だけということになるだろう。
   と述べて、ハラリは、この章を結んでいる。
   私は、この我々人類も、地球環境とエコシステムの破壊によって、宇宙船地球号もろとも消えて逝くかも知れないと危惧している。

   また、特に拘りがないので、何故、クジラやマグロ、それに、フカヒレに、日本人が執着するのか、全く、ナンセンスであり、養殖までもして、食文化を維持すべきだとは思っていないし、世界の趨勢なら、率先して種族保護に回るべきだと思っている。
   庭に咲く美しい椿やバラの花や、花に群れる蝶や小鳥を見ていると、創造主が想像を絶するような長い年月を費やして創造して育んできたが故に今日の輝きがあることを、肝に銘じて実感し、毎日、感に堪えない程感動し続けているので、一層、種の消滅には胸が痛む。

   そんな動植物を、食物連鎖の頂点に上り詰めたホモ・サピエンスが、生きて行くためとは言え、太古の昔から、どんどん、殺戮して種の多様性を破壊し続けているのだと思い知って、ショックを感じている。 
   
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孫と「上野動物園」「国立科学博物館」へ

2017年08月30日 | 生活随想・趣味
   子供の夏休みには、どこへ連れて行くか、親にとっては、結構頭の痛いことではある。
   たとえ幼稚園児でも、休み中何処へ行ったか何が印象的であったか等々、レポートにして報告しなければならないので、恥をかかせるわけには行かないのである。

   私の子供たちには、どうだったか、猛烈社員の時期であったから、一回くらいは、一泊か二泊の観光地旅行をしたことはあったかも知れないが、殆ど子供のことなどかまっておれなかったような気がする。
   尤も、その分、海外に住んでいた時には、欧米にいたので、真夏とクリスマスシーズンには、10日くらいの休暇は、取らざるを得なかったので、家族を連れて結構あっちこっちを歩いた。

   ところで、この夏は、江の島などへの海水浴や花火見物、旅行などは、機動力のある両親に任せて、私は、孫息子を、「上野動物園」と「国立科学館」に一日ずつ連れて行った。
   大船から上野へは、JRの東京上野ライン一本で往復すればよく、それ程、動作はないのだが、それでも、老骨に鞭を打ってと言わないまでも、気を使ったりするので、疲れる。

   横浜にも、野毛山動物園や横浜動物園などがあって行ってはいるのだが、私など、昔からの思い込みもあって、「上野動物園」が一番典型的な動物園だと思っているので、連れて行くことにしたのである。
   私の子供の頃には、近くにあった宝塚動物園にはよく行き、偶に、大阪の天王寺動物園に出かけた記憶はあるのだが、檻や獣舎など動物の住まいの様子は、今も昔も変わってはいない。
   海外では、ロンドンとワシントンの動物園に行った記憶はあるが、やはり、パンダであったのか、何の記憶も残っていない。

   上野動物園は、10年ほど前に、長女の息子を連れて行ってからなので、本当に久しぶりだったのだが、園内のボードなどでの説明は、かなり、詳しく書かれてはいるものの、読みながら園内を歩くと言うのは苦痛であり、結局、檻の外から動物を見ながら歩くだけということになる。
   それでも、孫は、大分前から、NHKの日曜日の大河ドラマの前の「ダーウィンが来た」を、毎回、熱心に見ているので、楽しみながら園内を歩いていた。
   
   

   「国立科学博物館」は、「国立西洋美術館」程は行かないので、馴染みが薄いのだが、今回は、恐竜が観たいと言うので、「地球館」で殆ど時間を過ごした。
   博物館と言うと、私の場合には、絵画や彫刻と言った美術品や歴史的遺産などの芸術品への趣味が勝って、どうしても、自然や科学と言った方面に関心が薄くて、訪れる機会が少なくなる。
   一度だけ、何故だったかは覚えていないのだが、イギリスにいた時に、「ロンドン自然史博物館」に行ったのだが、流石に七つの海を支配した大英帝国だけあって、そのスケールの大きさと展示の立派さに驚嘆した記憶がある。
   大英博物館でも、何日通えば、十分に鑑賞できるのか考えて、気の遠くなる思いをしたことがあるのだが、同じ、ものを集めて展示するにしても、桁の違う凄さである。

   しかし、この上野の「国立科学博物館」も、流石である。
   結構長い時間、館内にいたのだが、「地球館」をも十分見れずに、「日本館」は、一部を一寸素通りしたくらいで、後は、次に期待することにした。
   巨大な恐竜や展示物の前に、ディスプレィがあって、懇切丁寧な説明付きのプログラムが楽しめるようになっていて、デジタルキッズの時代であるから、子供たちが、ボタンやキーを操作して楽しんでいて、非常に良い。

   人間の化石や進化の様子などが展示されているのは当然なのだが、丁度、ハラリの「サピエンス全史」を読んでいるところなので、ルーシーやネアンデルタールの骨格や模型像を見て、興味津々であった。
   孫息子にとっては、どうだったか、楽しかったと言っていたので、おじいちゃんとしての役割の一端は果たせたのだろうと思っている。
   
   
   
   


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国立演芸場・・・柳家権太楼の「青菜」ほか

2017年08月28日 | 落語・講談等演芸
   久しぶりに、「国立名人会」に出かけた。
   真夏の暑い日に、鎌倉から出かけて行くのは大変だが、この3時間くらいは、ケセラセラ・・・何も考えずに、笑い飛ばして時を過ごす、一服の清涼剤でもある。
   隣の老婦人が、何を思ったのか、見知らぬ私の袖に手をかけて笑い転げていたのにはビックリしたが、異次元の世界である。

   プログラムは、
   落語「松曳き」               柳家甚語楼
   落語「不動坊」             林家彦いち
   落語「江ノ島の風」          桂藤兵衛
         -仲入り-
   講談「大岡政談 人情匙加減」宝井琴調
   奇術                 アサダ二世
   落語「青菜」               柳家権太楼 
  
   「青菜」は、
   夏のある日、仕事を終えた植木屋は、主人の隠居から労をねぎらわれ、「柳蔭」をご馳走しようと、座敷に誘われる。隠居は、酒肴として鯉の洗いを植木屋に勧めて、次に、青菜は好きかと聞いて、好きだと言うので、隠居は手をたたいて、「奥や! 奥や!」と台所の奥方を呼び青菜を出すよう指示する。隠居の妻は、何も持たず座敷に現れ、「鞍馬から牛若丸が出でまして、名も九郎判官」と言ったので、隠居は、「ああ、義経にしておこう」と言う。分からずに感心した植木屋が聞くと、隠居は、「青菜は食べてしまってもうない、と言うのはみっともないので、妻は『菜も食らう』ほうがん、と、源義経にかけた洒落言葉で言ったので、それなら『良し』つね、と返事をしたのだ」と答えたので、隠居夫婦の上品なやりとりに感心した植木屋は、自分も来客が来た時に、この手を使って尊敬を得ようと、長屋に飛んで帰って、妻にこれを教える。
   友人が来たので、再現すべく、ありあわせのもので酒と酒肴の用意をするのだが、植木屋の長屋には一間しかないので、手をたたいて「奥や!」と言って妻を呼び出せないので、困った植木屋は、妻を押し入れに放り込む。この友人が、植木屋ではなく大工であり、鯉の洗いがないのでイワシの塩焼きを出し、青菜が嫌いだと言われて困るなど、頓珍漢な受け答えが面白いのだが、大工に無理に青菜を食うと言わせると、植木屋は手をたたいて、「奥や! 奥や!」と声をかける。ホコリやクモの巣を顔に引っ掛けた妻が、汗塗れの顔で押し入れから転げ出てきて、息を切らせながら「鞍馬から牛若丸が出でまして、名も九郎判官義経」と一気にまくし立てたので、植木屋の後が続かず、困った植木屋は、「……弁慶にしておけ」

   とにかく、学とは縁のない長屋の住人が、街の先生や家主などの一寸文化程度の高い人の言動や行いや仕草にいたく感心して、それを真似て知人友人に、いいところを見せようとする話は、落語の常套手段の一つだが、元々、次元の違うつけ刃であるから、その試みは必ず失敗するものの、その落差の大きさと常軌を逸した頓珍漢ぶりが、面白いのである。
   相手がお殿様であったり、境遇の差や、生活空間の差が大きければ、大きいほど面白い。

   流石名人会である。
   権太楼の「青菜」は天下一品、年季が入っているだけでなく、リズム感と言い間の取りかた、タイミングの良さと言い、相好を崩しての熱演は、正に、感動ものである。

   上下の違いで、意思の疎通がままならないのは、今回の柳家甚語楼の落語「松曳き」も同じで、お殿様が、庭園の松を泉水の傍まで移植したいと思って、植木職人に聞く話で、呼び出された植木屋が、付き人三太夫に、散々、言葉遣いに注意せよと、接頭語接尾語を付け加えるように言われているので、何を言っているのか一向に通じない。朋友に語るようにと言われて喋れば、話し言葉そのものが違うのでサラサラ通じない。我々が、「ありんすわいな」で混乱するのと同じである。
   日本語程、男女は勿論、持ち分職業によって話す言葉が違えば、歳の上下や長幼の序、立場の違い、とにかく、話し言葉を聴けば、その人の人となりが一切分かってしまうと言う言葉を喋る人種は、日本人以外にいない。
   それ程、日本語は難しい。

   ところで、私も言葉で困ったことがある。
   イギリスにいた頃で、チャールズ皇太子とダイアナ妃にお会いする機会があったのである。
   ダイアナ妃の時は、あるレセプションで、お出迎えの役を仰せつかって、お迎えして握手して、二言三言お話しして、ダイアナ妃はニコリとされただけで終わったので事なきを得た。
   ところが、チャールズ皇太子の場合には、2回お会いする機会があって、1回目は、シティの大レセプションで、4人の一人として入り口で整列してお出迎えするのは、後にも先にも初めてなので、何をどのようにご挨拶すればよいのか、とにかく、緊張の限りであった。
   まず、ロイヤルハイネスと言って、後は、普通に喋ればよいと言われたので、そうしたのだが、何をどう喋ったのか、全く記憶がない。
   この時、チャールズ皇太子は、演説で、ロンドンのシティの乱開発を糾弾して、The Rape Of Britainと言う表現を使用して強烈な注意喚起のメッセージを発した。
   
   もう一度は、丁度、チャールズ皇太子が来日少し前の頃で、あるレセプションで、日本人は私だけだったので、お付きの人が、私のところへきて喋れと言うので、恐れ多くも、3~4分、日本のことについてお話しした。
   日本の経営については、評価しているというようなことを話されていたと記憶しているが、まだ、Japan as No.1の余韻が残っていた頃で、今の惨憺たる状態では、こんな言葉は頂けなかったであろう。

   ところで、この私の下手な英語でのチャールズ皇太子夫妻への受け答えが、正しかったかどうかは分からない。
   良く知っている皇室ともそれなりに接触のある知人が、私の事もよく知っていて、丁寧に普通の状態で話せばよいと言ってくれていたので、まずまずであったのであろうと、一人で慰めている。
   それに、まずい英語であっても、アメリカのトップクラスのビジネススクールで学んだ英語でもあると言う言い訳がどこかにあったことも事実である。

   そんなことを思いながら、権太楼の落語を聞いていると、何となく、ほろ苦い思いをしながらの笑いで、複雑な気持ちであった。
   
   落語「不動坊」は、以前に、桂小文治で聞いており、「大岡政談 人情匙加減」も、落語か講談か何かで聞いた記憶があるのだが、落語「江ノ島の風」は初めて聞く話で、面白かった。
   東京には、300人以上の噺家がいて、覇を競っているのだと言うが、やはり、真打になって年季を重ねた噺家の話は、いずれも上手いもので、楽しませてくれる。
   寄席は、やはり、楽しい伝統芸能だと、つくづく、思っている。
   
   
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ユヴァル・ノア・ハラリ著「サピエンス全史」(1)ネアンデルタール人は何故消えたのか

2017年08月27日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ネアンデルタール人は、ホモ・サピエンスに一番近い人類の仲間で、ほぼ20万年間にわたって、欧州全域から中東やアジアまでユーラシア大陸に散らばって暮らしていたが、忽然と地上から消えてしまった。
   ネアンデルタール人と現生人類の分布域が重なっていた約4万5000~3万年前に、いったい何が起きたのか。なぜ一方だけが生き残ったのか。
   私には、このネアンデルタール人が、何故、消えたのか、ずっと疑問であった。

      今回、ユヴァル・ノア・ハラリの「サピエンス全史」を読んでいて、その記述が現れたので、もう一度、疑問を追いかけてみることにした。  

   まず、「サピエンス全史」のハラリ説を検討したい。
   東アフリカを出たサピエンスは、中東とヨーロッパに達した時、ネアンデルタール人と遭遇した。ネアンデルタール人は、筋肉が発達し、大きな脳を持っており、寒冷な気候にもうまく適応していた。道具と火を使い、狩りが上手で、明らかに病人や虚弱な仲間の面倒を見ていた。と言う。
   このネアンデルタールとの関りについて、サピエンスとネアンデルタール人が交雑して一体化したと言う「交雑説」と、サピエンスは、他の人類種と相いれず、忌み嫌い、大量殺戮さえしたかも知れないと言う「交代説」があり、二つの論争に多くがかかってきた。

   2010年、ネアンデルタール人の「ゲノムを解析する4年に及ぶ試みの結果、中東とヨーロッパの現代人に特有のDNAのうち、1~4%がネアンデルタール人のDNAであることが分かって、この論争に決着がついた。
   更に、現代のメラネシア人とオーストラリア先住民に特有のDNAのうち、6%が、デニソワ人のDNAであることが分かったのである。
   サピエンスとネアンデルタール人などとの交合は、子孫を残すのを完全に妨げるほど大きくはなかったとは言え、そのような交合は非常に稀であり、やがて、新たな突然変異が起こって、両者を結びつける最後の絆が断ち切られ、両者はそれぞれ別の進化の道をたどり始めた。と言う。

   しからば、彼らが、サピエンスと一体化しなかったのなら、何故消えたのか。
   まず、サピエンスによって絶滅に追い込まれた可能性がある。優れた技術と社会的技能のお陰で、狩猟採集が得意だったために、指針を増やし、拡大して行った。
   別の可能性として、資源をめぐる競争が高じて暴力や大量虐殺につながったことも考えられる。近代や現代でも、肌の色や方言、あるいは宗教などの些細なちがいから、サピエンスの一集団が別の集団を根絶やしにかかることが繰り返されてきたことを考えれば、古代のサピエンスが寛容だったと言う筈はなく、ネアンデルタール人と出会った時に、史上初の最も凄まじい民族浄化作戦が行われた可能性が十分ある。と言うのである。
   更に、ホモ・サピエンスが世界を征服できたのは、何よりも、その比類なき言語のお陰ではなかろうか。とハラリは、サピエンスの文化文明論を展開して行く。
   
   最近のハフポストUSA誌で、スタンフォード大学の生物学者マーカス・フェルドマン博士は、サピエンスとネアンデルタール人との遭遇について、2つのグループが対立した場合、知能程度は同程度であり、より発達した文明文化を持つグループの方が、たとえ人口が少なかったとしても、相手を侵略し打ち負かすことが出来ると言っている。
   狩猟の技術やコミュニケーションの能力、予期せぬ環境の変化に対応する能力が優れておれば戦いに勝利すると言うことで、前述のハラリ説と相通じるものがある。
  また、ネアンデルタール人とホモサピエンスの間で、多くの戦いがあったと考えられ、全ての道具が建設的な目的で使われたわけではなく、斧は破壊するためにも使われたと述べている。


   2008年に、「ナショナル ジオグラフィック」が、「ネアンデルタール人 その絶滅の謎」と言う記事を報じた。
   現生人類と共存していた時代、ネアンデルタール人の身に何が起きたのか。なぜ彼らだけが滅びたのか。そのヒントはDNAと歯に隠されていた。と言うのだが、詳細はよく分からない。
   興味深いのは、「わずかな差が命運を分けた」と言う記述である。
   技術や社会構造、伝統文化といった、集団生活から生まれる要素は、厳しい環境の影響を和らげて、集団の生存力を高めると考えられて、ネアンデルタール人の社会は、この点でも、私たちとは異なっていた。

   アフリカから移動してきた現生人類の集団では、男が大型の獲物を追って狩りをし、女や子どもは小動物をつかまえ、木の実や植物を採集する分業が成立していて、こうした効率的な狩猟採集の方法が、食生活を多様にしていたという。
   一方、ネアンデルタール人は、ウマ、シカ、ヤギュウなど、大型から中型の哺乳類をとらえる狩猟生活にほぼ完全に依存して、腕や頭の骨に折れた跡が多く見られることから、狩りは「荒っぽく危険な仕事」だった。
   片や、現生人類は集団内で分業が成立し、食生活が多様化していたので、リスクを分散できたはずで、この差が大きい。

   社会集団の規模も重要だった。ネアンデルタール人の社会単位は、3世代が集まった大家族ほどの規模だったが、それに対して、初期の現生人類の遺跡の中には、もっと大規模な集団だったことを示す遺跡が見つかっている。集団が大きくなると、その中の人々にも社会生活にも影響が出てくる。必然的に人と人とのやりとりが増え、成長過程で脳の働きが活発になる。こうした状況は、言語の発達を促し、間接的には平均寿命の伸びも促すことになる。長寿になれば、世代間で知識が伝承される機会が増え、生き延びる知恵や、道具づくりの技術が、ある世代から次の世代、さらにはある集団から別の集団へと伝えられるようにもなる。と言う。

   ネアンデルタール人が絶滅した頃は、欧州の気候が最も厳しくなった時期にあたり、およそ3万年前から、氷床の範囲が最も拡大した1万8000年前頃までの間に、地球の気候がめまぐるしく変動したことがわかっている。ときには、わずか数十年の間に気温が極端に変化した。
   現生人類は、ネアンデルタール人よりも社会集団の規模がわずかに大きく、わずかに生存能力が高かったおかげで、こうした過酷な条件下で生き延びたのかもしれない。ほんのちょっとの差が、極端な気候変動の中で、両者の命運を分けた。と言うのである。

   3万~2万3000年前、氷期の寒冷化の影響がイベリア半島南部まで及び、このあたりは低い草が生えているだけの半乾燥地帯となった。こうした視界が開けた場所では、ずんぐりとした筋肉質のネアンデルタール人よりも、投げ槍をもつ、長身で細身の現生人類のほうが、動き回るのに有利だったのかもしれない。
 しかし、イベリア半島のネアンデルタール人を絶滅に追い込んだのは、現生人類の進出よりもむしろ、気候の劇的な変化だったはずだ。

   滅亡のシナリオがどんなものであれ、ゴーラム洞窟には、その後の展開を物語る“署名”が残されていた。ネアンデルタール人の最後のたき火跡にほど近い、洞窟の奥のほうで、岩壁に残された赤い手形を見つけた。現生人類がジブラルタルに進出してきた証拠だ。 と言う。

   まだ、よく分からないが、ネアンデルタール人は、ずっと昔に、地上から消えて逝ったのである。
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わが庭・・・椿「荒獅子」咲き始める

2017年08月26日 | わが庭の歳時記
   秋から咲き始める椿が、珍しく、8月下旬に咲き始めた。
   随分、長い間、多くの椿を育てて来たが、8月に咲くのは、私には初めてであったので、嬉しくなった。
   「荒獅子」と言う椿で、鮮やかなピンクがかかった紅色の獅子咲きで、優雅である。
   真夏なので、花の命が短いのか、変化が急で、少し花弁の先が黒ずみ始めて来た。
   他の蕾も色づき始めているので、この木は、早咲きなのであろう。
   
   

   大分、他の椿の木の蕾も膨らみ始めてきているが、咲くのは、来年の3月から4月なので、まだ、小さくてかたい。
   傍の「久寿玉」や「至宝」の蕾も、まだまだ、咲くのには時間がかかりそうである。
   移り住んだ時には、この庭には、殆ど椿の木が植わっていなかったので、私が植え始めたのだが、まだ、木が小さくて生育段階なので、花の咲き具合が、それ程、良くない。
   しかし、その分、充実した綺麗な花が咲く。
   それでも、既に、20数種類の椿を植えたので、来年春までには、色々、椿の花を楽しめそうである。
   
   

   先日、前に住んでいた千葉の友人から電話がかかってきて、旧宅の千葉の家の話が出て、庭の花木が根こそぎ引き抜かれて廃却されて駐車場になったと話していた。
   80坪あった敷地であるから、中8年はヨーロッパに行っていたので抜けてはいるが、30数年かけて育てたわが庭には、沢山の花木が植わっていて、四季の移り変わりには、花が咲き乱れて楽しませてくれていた。
   特に、椿は、4~50種類は植わっていたであろうか、殆どは園芸種の銘椿で、3メートルを超える椿も10株以上はあったと思うのだが、ゴンドラの唄のように、儚く消えて逝ったと言う。
   その友人は、春には、5~6メートル傘を広げたように、美しく咲き乱れていたピンク八重の枝垂れ梅を眺めるのが楽しみであったのに、・・・語っていた。
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国立能楽堂・・・狂言「鼻取相撲」・落語「花筏」・講談「谷風情相撲」

2017年08月25日 | 能・狂言
   タイトルは、逆にしたが、国立能楽堂の恒例の8月の企画公演で、能抜きの講談・落語・狂言の興味深い公演で、今回の共通テーマは、相撲であった。
   相撲は、古くからあって、古代には「節会相撲」、中世では「武家相撲」、近世では「勧進相撲」で、江戸時代の勧進相撲で、一般化したと言う。
   力士と言うサムライ士身分をあてられたのも、この頃からだと言うことである。

   ところで、講談(一龍齋貞山)の「谷風情相撲」は、ざっくばらんに言えば、江戸時代の大横綱の谷風梶之助が仕掛けた一世一代の八百長相撲の話である。
   浪花節でもあるようだが、落語の「佐野山」の方で、よく知られていると言えようか。
   十両の筆頭に上がってきた佐野山は小兵ながら親孝行で知られているのだが、母親が大病を患って看病するも治らず、極貧芋を羅うがごとき生活をしていて食もままならず連戦連敗しており、廃業が囁かれていたのを、見かねた谷風が、千穐楽に佐野山との取り組みを設定して負けると言う話である。
   天下一の人格者の谷風の佐野山を思っての情相撲だったので、誰も後ろ指を指すものはいなかったと言う美談である。
   一龍齋貞山の名調子が爽やかだったが、能楽堂の音響効果が合わなかったのか、私には、聞きづらかった。

   次の落語は、上方落語のトップスター南光の「花筏」。
   NHKの「バラエティー生活笑百科」で、仁鶴の室長補佐(サブ司会)として12年ぶりにレギュラー復帰しているが、仁鶴の後を継ぐのであろうか。
   千早赤阪村出身だと言うから、こてこての河内弁を喋っていたのであろう、典型的な関西人で、私など、摂津だが、関西を離れて海外や関東など殆ど関西とは縁切りの生活をしてきたが、語り口から雰囲気総てが、ぴったり来て、聞いていて実に楽しい。
   
   この「花筏」は、相撲の興行を請け負ったが、部屋の看板力士・大関花筏が病気になったので、窮地に立った親方に懇願されて、全く相撲に縁のない素人の提灯貼り職人が、顔が良く似ているからという理由だけで、代わりに地方巡業に出かけて行くと言う話である。
   病気なので土俵入りだけすればよく、後は、宿舎で好きなように飲み食いしておれば良いと言う条件で行くのだが、地元相撲で連戦連勝の千鳥ケ浜大五郎と名乗る網元のせがれと千穐楽で取り組まなければならなくなる。
   病気だと言いながら、毎日、大酒大飯食らいで、宿の女中に夜這いをかけたと言うのであるから、親方も断れなくなったのである。
   ところが、この大五郎も、親が賄賂を渡して倅に勝たせていたと聞いて、両者とも、相撲を取れば殺されてしまうと怖気づいて戦々恐々。
   両者、南無阿弥陀仏を唱えながら対戦するのだが、両方、後ろに転げる筈だったのだが、先に提灯屋の突きで、大五郎が倒れる。
   オチは、さすがは花筏。張り手は大したもんだ。
   張り(=貼り)手が上手いのは、提灯屋だから。

   南光は、ひとくさり、祝儀の話をしていた。
   昔、相撲の谷町が、某力士を会食に招待した時に、お相伴で招かれて出かけたのだが、帰りに、お車代として、力士は一束100万円で、「ごっつあんです」。自分は、3万円もらったが、タクシー代は5000円くらいなので、嬉しくて三拝九拝してお礼を言ったと言って、客を笑わせていた。
   えらいちがいでっせえ。とも。

   メインは、京都の茂山千五郎家の狂言・大蔵流「鼻取相撲」。
   シテ/大名 千三郎、アド/太郎冠者 あきら、アド/新参者 千五郎
   「蚊相撲」「文相撲」と同じで、大名が、太郎冠者に、新しい雇人をリクルートしに送り出し、連れて来た新参者が、相撲が得意なので、大名が相手になって相撲を取ると言う話である。
   今回は、相手が、鼻取相撲の取り手なので、知らない大名が面食らう。
   偉ぶった大名の千三郎、軽妙なタッチが何とも言えないあきら、堂々と受けて立って舞台を締める千五郎・・・流石に上手い芸巧者たちで、楽しませてくれた。
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朝日デジタル:書店ゼロの自治体、2割強に 人口減・ネット書店成長

2017年08月24日 | 経営・ビジネス
   ヤフーを開いたら、朝日デジタルの「書店ゼロの自治体、2割強に 人口減・ネット書店成長」と言う記事が目についた。
   ゼロ自治体が多いのは北海道(58)、長野(41)、福島(28)、沖縄(20)、奈良(19)、熊本(18)の順で、ほとんどは町村だが、茨城県つくばみらい市や、堺市美原区、広島市の東・安芸両区の3行政区さえもゼロだと言うから、驚く。
   千葉県の某市で、産婦人科がなくて出産に隣町に行かねばならないと聞いてびっくりしたことがあるが、医療同様に、書店の地方空洞化が進んでいるのであろう。

   読書は、私の人生そのものであるので、これまで、本のことについては随分書いてきた。
   8年前に、「本を読まない日本の大人、特に四国人」と言うブログ記事で、文化庁の国語に関する世論調査「読書量の地域格差」を引いて、
   ”月に一冊も本を読まない大人が、全国平均38%もいて、四国は最悪でダントツに悪く、60%もの人が本とは全く縁がないと言うのである。
   仕事や生活によって本と関わりのある人がかなりいるであろうから、極論すれば、四国の普通の人は、平生は本など全く読まないと言うことであろう。”
   と書いた。
   日本人の大人が、このような体たらくであれば、子供の読書離れは当然で、地方の本屋が、どんどん潰れるのは仕方がない。と言うことであろう。

   今、丹羽 宇一郎の「死ぬほど読書 (幻冬舎新書) 新書」がベストセラーだと言う。
   アマゾンの内容紹介に、次のように書かれている。
   本を読む人にしか、わからないことがあるーー。
   もし、あなたがよりよく生きたいと望むなら、「世の中には知らないことが無数にある」と自覚することだ。すると知的好奇心が芽生え、人生は俄然、面白くなる。自分の無知に気づくには、本がうってつけだ。
   ただし、読み方にはコツがある。「これは重要だ」と思った箇所は、線を引くなり付箋を貼るなりして、最後にノートに書き写す。ここまで実践して、はじめて本が自分の血肉となる。
   
   そんなことを考えて読んだことはないが、全く異存はない。
   少しでも真実を知りたい、美しいものに触れたい、真善美を求めて行脚する喜びは、何物にも代えがたい幸せであるとは思っている。
   私の場合、線を引いて付箋を貼ると言うのは同じだが、書き写す代わりに、このブログで、ブックレビューとして残しており、私自身の拙い知的遍歴の軌跡でもあると思っている。

   これは、読書癖と言うか、私の人生における習慣の一部で、生活のリズムにビルトインされてしまえば、惰性とは言わないまでも、日々の喜び生きがいになっているので、特に、それを意識することもない。

   この記事で、思うのは、確かに、「人口減・ネット書店成長」によるリアル書店への打撃は大きいと思う。
   アマゾンを叩けば、ロングテイル現象もあって、殆ど探せないような古い貴重な本まで、探せて手に入るし、今のところ、どんな本でも、送料無料か送料257円で、即刻、送られてくる。
   それに、画面には、関連本など情報満載で、新しい発見があり、町の書店とは雲泥の差。
   アマゾンのマーケットプレイスやブックオフで、新古書を見つければ、最新の新刊本が、2~3割安で買えるので、書店へ行って、再販防止で高い定価の本を買う必要もないと某読書家は宣っている。
   しかし、この「人口減・ネット書店成長」と言う現象は、何も本だけではなく、ビジネス全体に与えている影響で、百貨店の淘汰まで言われている時代であり、時代の潮流であるから、紙媒体の本の維持存続のみならず、リアル書店としての魅力を追求して本屋存続を実現する以外に方法はないであろう。
   
   ロンドンにいた時、ピカデリー通りのハッチャーズ書店(1797年創業)によく行って、時には、何時間も過ごしたことがあったが、今、私が行っている東京や横浜のトップ大型書店は、何処も、雑なスーパーもどきの雰囲気で、そんな魅力のある店は、一つもない。
   新しい知的な出会いを期待して出かけて行くのだが、やはり、書店の醸し出す文化的な雰囲気と言うか、そこで過ごす何とも言えない心地よさ知的な喜びを味わう至福観と言ったものも、大切なのであろうと思う。

   全く蛇足ついでに記すと、私の親しい友人だが、読みたい本があれば図書館へ行くと言うのが二人いた。
   京大の経済を出た老人たちだが、これでは、本屋が潰れても仕方がないと思っている。

   この口絵写真は、中国の無錫:恵山古鎮にある恵山書局と言う書店である。雑誌や一般書籍などは殆どないようで、かなり、程度の高い格調のある書店のようで、学生や学者風の客が、熱心に本を品定めしていたのだが、文化の薫り高い静謐な雰囲気が、何とも言えなかったのを思い出す。
   下の写真は、魯迅達文化人を育んだ上海の内山書店の内部と内山完造の像だが、ロンドン・シティのロイズ・コーヒー店と同じように、貴重な文化文明の一里塚の布石となったのである。
   これこそ、本当の書店であろうと思う。
   
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晩酌の楽しみを感じ始めた今日この頃

2017年08月23日 | 生活随想・趣味
   この頃、大体、夕食時には、ワインか日本酒を、少しずつだが、飲むようになってきている。
   若い頃は、大学生の時のコンパに始まって、会社での宴会や付き合いで、酒を飲むことはあったが、自分で積極的に酒を飲むこともなかったし、殆ど、酒とは縁がなかった。
   幸と言うか不幸と言うか分からないが、酒に弱いわけではなく、人並みに飲めるので、付き合ってはいたが、やはり、慣れていないので、深酒をした時には、酔っぱらうことがあった。
   しかし、現役で、ビジネス活動に没頭していた時には、私の酒は、ビジネスでのパーティや会食、ビジネス・デイナーなどの仕事上や、社交上のハレの場など、付き合い上でのことが殆どで、やはり、自分の意志で酒を飲むことはなかったように思う。
   あるとすれば、ヨーロッパにいた時には、現地人との付き合いで、社交上の会食などで、ワインなど洋酒を飲む機会が多かったので、その流れもあって、ヨーロッパをビジネスなど旅行をした時に、一人旅でも、レストランでは、ワインを飲みながらの食事を楽しんでいた。
   それに、ロンドンにいた時には、よく、パブに入って、ギネスなどを楽しむことがあったし、昼食など、パブで過ごすこともあり、ボジョレー・ヌーヴォーなども、このあたりで飲んでいたので、全く機会がないわけでもなかった。

   ヨーロッパだけでも8年、南北アメリカを含めれば14年海外生活をしてきたので、門前の小僧をお経を習うで、ワインについては、結構、詳しくなって、ヒュー・ジョンソンのワイン・ブック片手に、好みのワインを探して歩いたり、試みたりしていた。
   ヨーロッパ各地のミシュランの星付きレストランやホテルを行脚していたので、ソムリエなどから指導を仰ぐなど、勉強の機会もあったし、とにかく、ワインや食前食後酒など、洋酒に関する知識が増してきたし、それに、結構、ワインの味が分かりかけて来たと言うか、食事を楽しむと言うことに果たすワインの重要さが、生活のリズムの中に入り込んできたのである。

   ロンドンから帰ってきて、随分経つので、何時頃からかは定かではないのだが、最初は、ビールからだったと思うが、夕食時に、ワインを飲み始めるようになった。
   それに、仕事で日本各地を回っていて地方の飲食店で地酒を飲みながら食事を楽しんだ経験があったので、日本酒もくわってきた。

   ところで、私自身は、ワインや日本酒を、酒として楽しむと言うのではないような気がしている。
   ワインは、食中酒の典型的な酒だと思うが、要するに、欧米では、飲む食べ物と言う位置づけであるから、食事中、飲むのは当然で、酔うためにワインを飲むと言う意識はないようである。
   ワインブックにも書かれているのだが、このワインは、ビーフステーキに合うとか、ヒラメのムニエルに良いとか、とにかく、相性が良ければ、食事もワインも増幅して美味しくなり、その上に、良い気持ちになって酔いが回ってくるとなれば、これ程良いものはない。

   そうであれば、本当は、料理の皿毎に、ワインを変えて飲まなければならないのだが、普通、権威のあるホワイトタイの晩餐会でも、同じ銘柄のシャンパンと白と赤のワインくらいだし、あらたまったビジネスディナーであっても、大体、ワインは同じ赤白で終わっている。
   一度だけ、ベルギーの田舎にあるミシュランの二つ星レストランで、特別メニューだと言うことで、皿毎にワインが変わるフルコースのディナーを取ったことがある。
   食前酒から、最後の食後酒やコーヒーまで、延々4時間くらいかかった会食だったが、良い思い出となった。

   晴耕雨読、浪々の身での夕食の食中酒なので、ミシュランのレストランと言うわけには行かないので、高級酒ばかりではないが、一応、ビンテッジのワインを心掛けているが、夕食が豊かになっていることは、事実である。

   ところで、今、日経の連載小説・伊集院静の「琥珀の夢」を愛読しているのだが、不思議なことに、ウィスキーの本場であるイギリスに5年在住して、随分、イギリス人と会食したり、色々付き合ってきたのだが、ウィスキーを一緒に飲んだことは一度もない。
   メンバーであったロイヤル・オートモビル・クラブのバーでは、飲む機会があったが、パブでも、客の大半はビールで、ウィスキーの影は薄かったように思う。
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ウェブの魔力、メディア・ジハード

2017年08月22日 | 政治・経済・社会
   先日レビューしたファラッド・コスロカヴァール 著「世界はなぜ過激化するのか?」では、流石に、仏社会科学高等研究院の社会学者だけあって、ラディカリザシオンについて、学術書ながら、極めて詳細な研究成果を惜しみなく開陳していて、興味深く読ませてくれる。

   やはり、今日のテロが、時代の潮流をはっきりと体現したのは、ICT革命、すなわち、ウエブを駆使したメディア・ジハードとも言うべき傾向であろうか。
   アラブの春では、SNSがフル活用されたと言うことは周知の事実だが、過激イスラムのジハード主義者が、如何に、ウェブの魔力を駆使してテロ活動を展開しているか、コスロカヴァールが語っていて興味深い。

   過激派イスラムにとっては、ジハード聖戦は、欧米社会に屈辱を与えながら、自らは殉教者の身分を勝ち取り、その行為は、天に昇って報われ、天国の特に選ばれた場所を与えられて報われる。
   この論理を、ウェブを通して体得した過激派ジハード主義者が、テロ行為に赴くと言うのであるから、中南米を除いて、グローバルベースで、過激テロが拡散するのは避け得ないと言うことであろう。
   
   ジハード主義は、イスラム教が政治宗教的な正当性を体現して世界全体の宗教の座に就くまで、永続した聖戦を実行すべしと説いたサイイド・クトゥブなどの大知識人が檄を飛ばし、そのイスラム国家と言う理念は、シーア派の革命的な思想家に継承され、
   このイスラム教に依る権力を求める戦いは、実現しそうもない理想だと思われていたが、イランのイスラム革命によって、アヤトラ・ホメイニの思想による神権政治国家が出現して現実となり、この革命が、過激化の潮流を奔流へと変え、9.11米国同時多発テロが起きて、イスラム過激派を歓喜させたのと同様に起爆剤になった。と言う。

   欧米から人民主権の名で吹き込まれた世俗政治体制に対する容赦ない戦いで、民主主義を糾弾し、
   欧米の帝国主義によって、世界各地でイスラム教徒を隷属させられていることに憤りを感じて欧米の支配を拒否し、反帝国主義を神学的内容に盛り込み、
   女権拡張や男女平等や同性愛の合法化など家族制度の破壊を断罪して、復古調の新家父長制による家族の安定を説くなど、
   ジハード主義者の大知識人の透徹した理論が、欧州に住む沢山の急進的サラフィー主義者の小知識人へと、こだまして行った。と言うのである。
   
   コスロカヴァールが例示しているのは、アメリカで教育を受けた過激なジハード主義者で、沢山のヨーロッパのテロを主導したアンワル・アウラキが、ウエブサイトやフェイスブックなどニューメデイアを駆使して思想を伝播し、
   この新しい型の「世界市民」が、多文化性と多国籍を背景として、世界のはるかかなたにいる人々に、対面した説教や説得の必要なしに、決定的な影響力を行使して、「メデイア・ジハード」を可能にした。と論じている。

   ヨーロッパの抑圧され阻害されたイスラム系若者のみならず、欧米文明の犠牲に喘いで苦しんでいるイスラム世界の現状に義憤を感じている者など、多くの若者たちに、ジハード主義者の扇動的なメッセージで充満したウェブで、アイデンティティを構築し、興奮を掻き立てる共同体を提供してくれ、無規則状態を吹き払ってくれる。いつまでもネット上をサーチし続けられる無限の画像と映像の中で、ついに、確かな意味を醸成して、それまでと一変した世界を創造して鼓舞してくれる。
   まして、ジハードに参画して命を捨てても、英雄として列せられて天国に行ける。と説かれているのである。から、影響は大きい。

   あのベルリンの壁の崩壊を引き起こしたのは、ラジオなどのメディアを通じて、豊かで進んでいた西ヨーロッパの現状を知った東ヨーロッパの人たちのエネルギーの爆発だと言うことだが、欧米は、多くの新興国や発展途上国とは違って、メディアが自由に飛び交う別天地であるから、過激的イスラムのジハード主義者の教宣を妨げる方法はないと言うことであろう。
   
   
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ファラッド・コスロカヴァール 著「世界はなぜ過激化(ラディカリザシオン)するのか?」

2017年08月21日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   なぜ、ヨーロッパでテロは続発するのか。
   先に、エマニュエル・トッドの「ヨーロッパのテロ事件はヨーロッパ発」を書いたが、コスロカヴァールが、もう少し、専門的な、多少違った切り口から解説しているので、考えてみたい。

   「シャルリ・エブド」襲撃事件までのパリを現場とする都市型テロは、確かに、トッドの言うように、抑圧され阻害されたイスラム系フランス人による、自国民のテロであった。
   テロの実行犯は、大都市郊外の移民系住人が多い地区で育った「バンリューザール」と呼ばれる若者たちであった。
   彼らは、社会において、未来を閉ざされ、見捨てられ、頬舌されたと自覚した若者たちで、社会に対する報復をもくろみ、過激ジハード主義を掲げて、テロへと突き進んだ。
   底辺の暮らしから犯罪に手を染め、刑務所を経て、そこで過激イスラム主義を介して仲間を得て、社会への報復をテロと言う暴力で果たす、そういう強い意志を持つ者たちであった。と言う。
   
   ところが、「シャルリ・エブド」襲撃10か月後、パリを震撼させた連続多発テロの犯人たちは、「バンリューザール」ではなくて、中産階級やパリ交通公団のバス運転手やバー経営者など、少し違う背景を持っており、中流の暮らしをしていた者が、内戦のイラクやシリアへ渡航して初めて過激化して、凶暴なテロ実行犯となっている。
   彼らは、トッドの言う二重国籍のフランス人だけではなくて、モロッコ系ベルギー人であったり、シリア難民に交じって欧州へ来たものであったり、多様な背景を持つ者たちが、過激ジハード主義を共通項として復讐の惨劇に向けて自爆し、銃の引き金を引いた。
   フランスとベルギー、それに内戦中のシリア、イラクと言う複数の組み合わさった上に、背景でイスラム国ISが、過激思想の理論教育や爆弾取り扱いなど物心両面でテロ集団を支えると言う国境を越えた構図になっている。
   
   8年前に、アラン・B・クルーガー著「テロの経済学」をブックレビューして、「テロリストは貧しく教育なしはウソ」を書いたことを思い出した。
   当時、ブッシュ大統領やブレア元首相を筆頭に世界中の指導者や識者は、口々に、経済的貧困と教育の欠如がテロリストの発生と結びついていると説き、この考え方が常識かつ通説のようなになっていたのだが、ニューヨークのワールド・トレード・センターでの9.11事件の首謀者は、豊かな高学歴者ばかりであったように、テロリストは、貧困層の出身ではなく、十分教育を受けた中産階級または高所得家庭の出身である傾向が見出されるとしたのである。

   クルーガー教授の研究による結論は、ほぼ、次のとおりである。
   政治的暴力やテロリズムに対する支持が、教育水準が高く世帯収入も高い人々の間で多くなっている。
   テロリストは、出身母体の人口全体に比べ、教育水準が高く富裕階層で、貧困家庭の出身である傾向はない。
   国際テロ活動では、市民的自由が抑圧され、かつ政治的権利もあまり与えられていない国の出身者である傾向が強い。
   テロリストは、全体主義体制で抑圧的な貧しい国を攻撃するよりも、市民的自由や政治的権利が多く与えられている富裕な国を攻撃する可能性が高い。
   距離が重要で、国際テロリストや外国人反乱者は近隣諸国出身者が多い。
   テロリストは、テロ活動に対する恐怖感を広げ、彼らの望む効果を得るためには、メディアを必要としている。
   しかし、ある国の一人当たり所得や非識字率は、その国出身者の国際テロリストの人数とは無関係である。

   以上のクルーガーの見解と、トッドやコスロカヴァールの見解を合わせれば、ヨーロッパのテロのイメージが何となく浮かび上がってくる。

   さて、トッドが説いていた「バンリューザール」だが、戦後成長期の工業化時代に非熟練労働者として大挙して入ってきたイスラム系植民地からの移民の子孫たちで、貧困や家庭環境の劣悪、学業が振るわず、人種や就職で差別体験を重ねるうちに、社会に対する恨み、報復の感情を抱くようになったのだが、
   移民家庭に育ちながら豊かな中産階級に属するような者でさえ、シリアやイラク、イスラエル占領下のパレスチナなど、イスラム圏の国々や地域が、西洋列強の力によって手ひどい仕打ちを受けており、同じイスラムの同胞が地中海の向こうで過酷な境遇に置かれているのを見て、ヒューマニズム精神を刺激されて、自分にできることで彼らを助けたいと思いこむ者も出てくる。
   欧州から多数のイスラム系や、他宗教から改宗した若者が、シリアやイラクへ続々と渡航し、ISに飛び込んでいる背景には、そのような心象風景が関係する。と、コスロカヴァールは言っている。

   今のイスラム系の若者たちにあるのは、民主主義でも資本主義でもなく、イスラムと言う宗教精神である。
   しかし、自分たちの今住んでいる「ヨーロッパ」は、彼らにとっては、外部のもの、外在化されたもので、「自分たちのもの」でもなく、欧州各国に住む約1,500万のイスラム系住民にとっては、父祖の土地ではない。
   「バンリューザール」の若者が抱くような憎悪の対象とさえなる存在である。とするならば、どうするのか。

   コスロカヴァールは、
   ISの力は侮れない。北アイルランドのIRAや、コルシカ、スペインのETAによるテロは「ソフト・テロ」と呼ぶ国内問題だが、ISの絡むテロは、「戦争状態」と言う、外部からの攻撃と捉えられているから違う。と言う。

   コスロカヴァールが指摘するもう一つの問題は、「フェミニザシオン」。
   少女や成人の女たちが内戦地シリアへ渡航しており、多くが中産階級出身で、しかも、最近イスラムに改宗した者が多い。
   欧州からISに加わった約5000人のうち700人は女性で、フランス人の場合、ほぼ半数は12から17歳で、そのうち30%が非イスラム教徒と見られている。
   現在社会から消えた理想の男、つまり危険を顧みず、仲間の救出に飛び出す勇気のある男を見つけたいと言う願望、フランスの弱弱しい草食系の頼りない男と違って、男らしさを復権させた理想の夫となれる勇敢な青年がIS支配地にいると言う思い込み・・・
   以前に、フランスかイギリスか忘れたが、シリアへ渡航する10代の少女2人が空港で引っかかったと報道されていて、不思議に思っていたのだが、
   文明の崩壊とも言うべきか、信じられないような世界が、ヨーロッパでは展開されているのである。

   よくは分からないが、やはり、サミュエル・P. ハンチントンの「文明の衝突」
   キリスト教文明の欧米とイスラム教のイスラム圏 との衝突、と言うよりも、
   その皮を被った権力と権力の衝突の様な気がしている。

   人間の悲しい性と言うべきか、抑圧し、抑圧される、権力闘争が、消えない限り、この地球上から、テロは消えそうにないという気がしている。
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ミシェル・ウエルベック著「服従」

2017年08月20日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   日頃、小説は殆ど読まないのだが、エマニュエル・トッドの本を読んだ後であり、この「服従」の本の帯に大書されていた「フランス大統領選で 同時多発テロ 賛否渦巻く予言的ベストセラー」と言うタイトルに興味を持って読み始めた。

   「2022年、フランスの大統領選挙で、イスラーム同胞団のモアメド・ベン・アッベスが極右・国民戦線のマリーヌ・ル・ペンを破ってフランス大統領となる」と言う、一寸、考えられないようなテーマで物語が展開される小説。
   と言っても、先の大統領選挙で、既成政党の社会党と共和党・中道右派を排除して、彗星のように登場した「共和国前進」のエマニュエル・マクロンと「国民戦線」のマリーヌ・ル・ペンが決選投票を行って、マクロンが当選したということや、英国のBrexitや米国のトランプ現象を考えてみれば、絶対に有り得ない話でもなさそうな気もして、興味深々であった。

   この小説については、かなり、文学的な評価が高く話題沸騰なのだが、私自身は、文学的な知識が希薄だし関心もないので、ストーリーとして時事評論的な感想を述べてみたいと思う。
   どこまでが真実で、どこからがフィクションかの境目が微妙であり、フィクションなら何も言うことはないのだが、「近未来思考実験小説」などと言う表現もあり、未来予言的な受け止め方をしている評論もあるので、自分なりの考え方を書く。
   
   まず、最も有り得ない仮定は、大統領選の第一次投票で、国民戦線に次いでイスラム同胞団が第二位に選ばれて、どうして決選投票に臨めたかと言うことで、シャルリー・エブドのテロ以降、フランス人の反イスラム感情が高まり、人口的にも、イスラム系が極めて少数派であることを考えれば、考え得ないと思われる。
   次に、決選投票では、国民戦線が優勢となったので、エスタブリッシュメントのアイデンティティ運動家とイスラムのジハード主義者がテロを起こして選挙を延期させて、その後、UMPと民主独立連合と社会党が、「拡大共和戦線」を立ち上げて、イスラーム同胞団の候補者を支持する構図で大統領選に臨んで勝利する。
   イスラムが権力を握った場合、キリスト教徒はどうなるのか、必然的に二級市民、ズィンミー(被保護民)の地位を受け入れなければならないのだが、イスラム原理主義とは違って、この位置づけは極めて柔軟で、キリスト教は何の妨害もされないどころか、カトリックの様々な組織や教会の維持管理に配分される補助金はかえって増加するであろう。と言うのである。
    極右・国民戦線の支配よりも、イスラム支配の方がマシだ。と言う発想なのだが、荒唐無稽も甚だしい発想である。
   トッドは認めていないが、ハッチンソンの「文明の衝突」などありえないと言う前提である。

   尤も、世界の歴史を展望すれば、高度な学問芸術に加えてギリシャ文明を継承してルネサンスのもとになるなど、イスラム文明が、世界に冠たる最高峰であった時期が結構長く、ズィンミーながら、宗教政策については、かなり、寛容であったことを考えれば、現在優勢な西洋文明よりは、ある意味では、優れていたのかも知れない。と考えられないこともない。
   ウエルベックにそんな思いがあったのかどうか、私には分からない。

   さて、この小説の主人公ぼくは、ジョリス=カルル・ユイスマンス を研究するパリ第三大学の文学部教授、40代半ばで独身。
   物語は、大学の同僚やその関係者などとの関係やメディアなどの情報を織り交ぜながら展開されて行く。
   ユイスマンスが、”エミール・ゾラに共鳴して自然主義小説を書くようになり、娼婦の世界を描いた『マルト、一娼婦の物語』でゾラに認められ・・・(ウィキペディア)”と言う所為か、かなり、際どい描写もあって、流石フランス小説である。

   興味深いのは、イスラムの天下になった瞬間に、イスラム教徒でないと勤められなくなって、大学教授を首になること、しかし、サウジアラビア・バックの政府なので、潤沢な年金は支給されて、不本意な浪々生活を送る。
   最後には、イスラム教に改宗して、ソルボンヌ大学の教授職について、ハッピーエンド。
   女性が男性に服従、人間が神に服従・・・人間の絶対的な幸福が、「服従」にある。と言うのだが、さて、どうであろうか。

   イスラム化したフランスが、どう変わったか。
   アラブマネーの投入でフランスの不動産市場が活況を呈し始めたとか、女性の服装や姿に色気がなくなったとか、書いているが、一寸変わった指摘は、アッペス大統領が、「ディストリビュティヴィズム」と言う、資本主義でもなければ共産主義でもない、第三の道の経済政策を打ち出したと言うことである。
   インターネットにさえ記述がないのでよく分からないのだが、経済の基本的単位は、一般的に家族経営にあり、ヒレア・ベロックの「一般市民がそれぞれ財産や生産手段を所有していた「分配型体制」を再建すること」のようで、イスラムの教えと一致しており、「政府は、大企業への支援を一切停止する」と言う方針を取るので、ブラッセルにも受けが良いのだと言う。

   とにかく、小説の筋に関係ないのか、イスラム化後のフランスについての記述は、殆どないのだが、フランスの政治経済社会の驚天動地の大混乱は勿論のこと、EUは無茶苦茶になってしまう筈で、Brexitの比ではない。

   私など、文学的な読み方ができないので、すぐに、現実的な関係が気になって、一寸、躓くとすんなりと読めなくなってしまう。
   まして、評者たちに、いい加減な文明評論を展開されて称賛されると、益々、気になる。
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ヨーロッパのテロ事件はヨーロッパ発・・・エマニュエル・トッド

2017年08月19日 | 政治・経済・社会
   エマニュエル・トッドの本を読んでいて思うのは、今回のバルセロナのテロ事件はスペイン在住のモロッコ人によるようだが、先のロンドンやパリなど、ヨーロッパで起こっているテロ事件の殆どは、ISイスラム国やイスラム教徒の仕業と言うよりも、抑圧されたイスラム系のヨーロッパ人、自国人によるものだと言う彼の見解に注目すべきだと言うことである。

   この口絵写真に借用した、アメリカ同時多発テロは、サウジアラビア人のオサマ・ビンラディンをリーダーとするテロ組織「アルカーイダ」によって計画・実行されたとされ、国際的なテロ集団による大事件であったが、最近のヨーロッパ各地で頻発しているテロは、明らかに様相が激変している。

   トッドは、今、新石器時代の到来以降、産業革命よりももっと重要な二番目の移行期に入っていると言う。
   3千年紀に入るところで始まったこの大きな転換期は、人は高齢化し、高い教育を受け、女性が男性以上に教育を受けることになる。そして、人は最早何も信じなくなる。
   この背景を分かった上で、何故、米国に時々おかしな人物が登場して無差別に発砲するのか、何故、フランスで同じようにだれにでも銃を向けるマグレブ系の若者が登場するのか等々を、理解すべきだと言うのである。

   オランドのイスラム系テロリストの国籍を剥奪すると言う政策に対して、彼らは、既に、後ろ指を指されていると感じており、他の人とは違い、抑圧されて犠牲にされていると感じているので、二重国籍が社会的立場を特殊にしているものの、国籍剥奪などを恐れる筈がなく、むしろ、テロをもっと促すとして反対した。
   ユーロの失敗、ゼロ成長、貿易赤字・・・経済政策の失敗やグローバル化、自由貿易の進展によって、失業の不安や賃金の削減圧力が高まるなど生活環境が悪化して行き、益々、抑圧され阻害されていくイスラム系若者たちを、どんどん、窮地に追い込んで行き、政治的支配層に対する不満が極に達する。
   経済問題にも社会問題にも取り組めない政府、フランスの指導者は心の底からテロが起きたことを、自分たちの失敗だと認められない愚かさ。
   問題は、フランスが若者をその経済や社会に、最早、包摂できなくなってしまっていると言う深刻な状況にあること。フランスのテロの問題を解決するのは、空母シャルル・ドゴールを派遣してISの本拠などを空爆することによってではなく、テロの発生は、すべて、国内問題に起因しているので、国内の政治経済社会を改革せよと言うのである。

   トッドは、フランスのテロリストは、ISが送り込んだ若者ではなく、ISと何らかの関りがあったり、思想的影響などは受けているかもしれないが、二重国籍と雖も、フランス人なのだと強調している。
   アラブ世界の基本的な弱点は、国家を建設する能力の弱さで、ひどいとは言えども国家を形成しつつあったサダムフセインのイラクを、国家秩序に敵対的な新自由主義思想を掲げた米国が破壊してしまい、アラブの春の混乱も加わって、中近東の政治的均衡を壊して、空白化空洞化して行ったアラブ世界に、ISを擡頭させてしまった。
   迷走するシリアに対して、欧米列強が寄って集って介入して混乱の坩堝と化すなど、膨大な中近東やアフリカからの移民を輩出してヨーロッパに押し寄せているが、結局は、欧米の勝手気ままな中東アラブ政策によるブーメラン効果ではないのか、と言うことであろう。

   注目すべきは、トッドのアルジェリアの知人が、「なんでまた、君たち欧米人は、こんな困った連中を我々のところに送り込んでくるのか」と言ったと言うことで、ジハードに行く若者たちは、欧米人だと見做していると言うことである。
   イスラム教徒の家の出身で、中東にイスラム聖戦に向かう若者たちの出現と言う、奇妙な現象に直面しているのは、欧米社会の大部分を占める欧州であり、あの若者たちは欧州の産物であると言うことである。

   こう言った認識は、欧米人、特に、欧米の為政者や指導者には、殆どないようで、ISを叩くことが、テロ撲滅対策の根幹だと思っているところに、深刻な問題がある。
   トッドの言う第二次移行期をどう解釈するかが重要だが、とどのつまりは、ある意味では、暗礁に乗り上げてしまった欧米文明社会、危機に立つ先進国の政治経済社会を、どのように改革して行くかと言うことであろう。
   健全なヨーロッパ社会を再構築しない限り、ヨーロッパでのテロの根絶はあり得ないと言うことである。
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市川團十郎著「歌舞伎十八番

2017年08月18日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   先に逝った十二代目市川團十郎が、團十郎家のお家の芸・歌舞伎十八番を、小川知子の撮った舞台写真に飾られて語った芸論である。
   十八番と言っても、かなり、優劣や上演機会などを加味しても、相当差があって、廃曲同然であったり上演されることの殆どない七つ面など七番くらいは、團十郎は演じておらず、象引は、この本の出版当時には、「時機を見て本格的に取り組むつもり」と言っており、21年に国立劇場で演じている。
   したがって、勧進帳や助六、暫、矢の根、毛抜、鳴神などと言った、團十郎が良く舞台にかけた演目については、立派な舞台写真もふんだんに掲載されていて、團十郎の語り口も好調で、非常に面白くて参考になる。

   初代の「暫」や二代目の「矢の根」に見られるように、市川家の始まりは、「荒事」。
   新興地で、町も文化も人の気性も荒い江戸の観客の好みに合わせるためには、豪快な英雄に神がかり的な活躍をさせて、超人的な力を持つ若者が悪を倒すことで好評を得る。
   「神が荒ぶる」有様を見せるのが荒事で、荒事を演じる時には、荒ぶる心、英雄の豪快さ、勧善懲悪の正義、邪心のない心を大切に勤めて、舞台の上で人間を超えた存在になる、そう言う演技を見せると言ったつもりで、演じていると團十郎は語っている。

   面白いのは、「童の心で演じよ、邪気のない気持ちで勤めよ」と言われている同じ荒事でも、初期の「暫」や「矢の根」は、少年の荒事で、十代の少年が撒き散らす迫力でそこから飛び出さないといけないが、七代目が加えた「勧進帳」や「助六」は、大人の荒事で、形がきれいにおさまることが大事だと言う。
   初代や二代目が活躍していた時期は、丁度、近松門左衛門の全盛期と一致するのだが、学問芸術のみならず文化の爛熟していた上方とは全く違った、神がかり的な力強い江戸歌舞伎が誕生したと言うことが、非常に面白い。

   團十郎は、市川家の歴史を随所に鏤めながら、「勧進帳」から初めて歌舞伎十八番を、宗家のトップ演者の立場から歌舞伎の舞台や物語や故事来歴など、非常に分かり易く丁寧に語っており、それに、小川知子の素晴らしく臨場感あふれる写真の醸し出す雰囲気が抜群で、楽しませてくれる。

   細かい感想など詳細は省くが、これまでに、能「安宅」と歌舞伎や文楽の「勧進帳」との違いや、演者の思い入れ、特に、富樫が義経の一行であることを知っていたのか知らなかったのか、知ったとしたらどの段階で知ったのかなどに興味を持って調べてきたので、それに関する團十郎の見解に注目した。
   尤も、力と力の対決で安宅関を突破したと言う能「安宅」とは違って、歌舞伎と文楽の「勧進帳」では、富樫は義経一行だと見破っていたのだが、武士の情けで関所を通したと言うことになっているので、それでは、何時、富樫が義経一行だと分かったかと言うことである。

   團十郎の考えは、次のとおりである。
   ”富樫はどこで義経主従を見破るのかと考える時、私は、問答までは本物かどうかは分からない方がよいと思います。問答では、「これはなみなみならぬ高僧だな」と思い、番卒に耳打ちされてはっとする。それ以前に気づいていたら、芝居がおかしくなります。弁慶が強力を打擲する時、一瞬逡巡の色をみせ、ここで富樫は「あ、これは・・・」と確信して、義経主従と知りつつ許す、というふうに気持ちが繋がっていくわけです。”

   更に、
   弁慶が延年の舞の途中で、先に行くよう義経を促すが、その時、富樫が微かに頭を下げて目をつぶる。富樫は、義経主従の絆に感動して「仁」の気持ちで見逃し、腹を切る覚悟を決める。のだと團十郎は言うのである。

   能「安宅」でも、何度か紹介しているが、
   観世清和宗家は、「一期初心」の”「安宅」の心理劇の項で、山伏の一行が到着した時から、それが義経主従であることを見破っていて、弁慶の読み上げる勧進帳がおかしいことも分かっていたと書いている。
   一方、弁慶も見破られていることに気付いていて、お互いに相手の心を読み、もうこの先は、刀を抜いて斬り合うしかないと言うギリギリのところでぶつかり合っている。表舞台で進む派手なやり取りの後ろで、もう一つのドラマが進んでいる。この二重構造が「安宅」の特徴であり、演者にとっての醍醐味だ・・・と言っている。

   その意味から考えると、ストーリーとしては、歌舞伎の「勧進帳」の方が、無理なく筋が通っていると言うことになろうが、團十郎の見解も、弁慶役者が、義経打擲時に逡巡する微妙な演技の冴えあっての心理劇となろう。
   切腹覚悟で関所突破を許す男気を示した富樫の心尽くしと言うか、ささやかな義経主従の無事を祈る送別の宴が、何とも言えない程感動ものである。
   これに応えて、幕が引かれた後、ひとり花道に残った弁慶は、まず、富樫に礼をし、次に、天を仰いで天の加護に礼をして、六法を踏んで幕に消えて行く。
   松緑は晩年「六法で揚幕までたどり着けるかどうか分からない限界状態でやっている」といっていたが、私もそのとおりだと思うと、延年の舞の後揚幕まで行けるかなあ、と思うくらい辛かったと團十郎は語っている。

   私は、随分、以前に團十郎の弁慶を何度か観ており、最後の舞台は、幸四郎の弁慶で、團十郎の富樫であった。 
   あの時は、二人のダブルキャストであったのだが、残念ながら、私は、一回しか見る機会を得なかった。

   感想は、「勧進帳」だけになってしまったが、
   とにかく、歌舞伎十八番に、蘊蓄を傾けてお家の芸を語り切った團十郎の芸論であるから、素晴らしいのは言うまでもない。
   それに、小川知子の写真が素晴らしい。
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エマニュエル・トッド著「グローバリズム以降」

2017年08月17日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   トッドの見解ではっきりしているのは、英国のEU離脱、ドナルド・トランプの大統領当選、欧州での移民危機などの出来事は、西洋社会が深いところで後戻りすることのない進化をしていることの帰結であって、一つの時代の終わりと、別の勝利の始まりを示している。と言うことである。
   進化かどうかは、別として、とにかく、西洋世界は変わってしまって、歴史の新しい段階に突入したと言うことである。
   一つの時代の終わりだと言うのは、理解できるとしても、トランプやルペンの登場が進歩と言えるのかどうかは大いに疑問で、私は、一種のノック青島現象だと感じており、必ず、スパイラル現象的なリベラルへの揺り戻しが起こると思っている。

   もう一つ、飛び上がったグローバリゼーションは墜落した、と言うこと。
   国民国家の弱体化、そして、自由貿易にたいする強烈な拒否反応とでも言うべきであろうか。
   世界の開放、ある種のエリート主義、階級への分裂、収入の格差拡大、社会的経済的不平等の広がり・・・アメリカ帝国の凋落と期を一にしていると言う。

   興味深いのは、以前に、専門の人口学的見地から、一本調子で人口減少の続いていたロシアに対してきわめて悲観的な未来を予測していたのだが、最近、かなり好意的にみており、ただ、人口が減少して日本並になってしまったので、国家の安全が脅かされた時には、核兵器の使用も辞さないと言う核ドクトリンのドゴール的な修正を行ったと言っている。ことである。
   これに関連して、日本に対して、弱体化していくアメリカ、縮んでゆくロシア、解体して行く欧州、次第に不安定になって行く中国が形成する世界の中で、核兵器が依然として力と均衡の道具となっている世界で、日本はかってないほどに、経済的、軍事的安全にかかわる構造的な問題の解決を迫られており、核武装を促している。
   この見解は、平和日本を国是とする日本人には、馴染めない考えだが、私が、欧米人と付き合ってきた関係から言えば、確かに、私の知人友人の殆どの欧米人は、何故、能力がありながら、核を保持しないのか理解しかねていることは事実である。

   中国をはじめとして、新興国の将来については、それ程期待していないが、人口学的な知見、特に家族制度から、ロシアと、そして、中近東イスラム圏では、イランとトルコの安定性を高く評価しているのが興味深い。国家を組織する能力を持っていると言うのである。
   中国の将来に対しては、極めて悲観的だし、サウジアラビアなど、崩壊するとまで言っている。
   面白いのは、イラクや中国は、農業も、都市も、国家も、文字も、あらゆるものを発明した国だが、家族システムでも実験をはじめ、女性を抑圧したり、個人の位置づけを低くしたりすることも発明し、そうやって、国々は、文化的、教育的、経済的なダイナミズムを壊してしまった。と言っていることである。
   そうかどうかは分からないが、文明の発祥地であったり古代の文化文明大国であった国々が、今や、光も輝きも失った弱小国家になっているケースが多いのだが、色々な歴史的展開があったのであろう。

   さて、トッドの見解で、興味深いのは、エリートに対する考え方である。
   現在の政治経済社会の深刻な断絶は、エリート、すなわち、エスタブリッシュメントと大衆との断絶であり、英国のBrexitやトランプ現象と言った新時代の到来は、エスタブリッシュの政治経済社会の否定なのだが、民主主義は、エリートなしでは機能しないので、教育における階層化、不平等を解消することで、高等教育を受けた人が、そうではない人と共通しているところがあるのだと言う理解にたどり着くことが必要だと言う。
   高等教育を受けた人が、自分たちの国の人々のことをほったらかして、この惑星を眺めようとしたり、自分たちが世界中のすべての人と連帯しているのだと考えることをやめて、責任あるエリートになることだと言うのである。

   尤も、最近では、多くの高等教育を受けた人々が、老いも若きも、グローバリゼーションの直撃を受けて、We are the 99%.運動やサンダース現象であぶりだされたように、深刻な経済的や将来不安を感じて、体制破壊に動いており、期せずして、同化現象が起こっている。
   イギリスの保守党の大物ボリス・ジョンソンが、Brexitに走ったのを、トッドは、イギリス社会の健全性の表れだとして、評価していたが、トップ・エリートのジャンヌダルクの登場を期待している節があり、面白い。

   日本の場合には、エリートと言う意識は、欧米程、学歴による処遇など評価されていない所為もあって、高くないような気がするのだが、逆に、ヨーロッパのようなノブレス・オブリージェの意識もあまりなく、リーダーの劣化の激しさも、政治経済社会にビルトインされているような気がする。
   今回の森友や加計、東芝などを見ておれば、政財官のその酷さに戦慄さえ覚えるのだが、これで、憲法問題を軽々しく論じられると、先が恐ろしくなる。

   トッドの本だが、人口学的な切り口からの時評の興味深さも流石だが、アナール学派的な長期展望の冴えもあって、示唆に富んだ文化文明論が非常に面白い。
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木村伊兵衛「六代目 尾上菊五郎―全盛期の名人芸」

2017年08月16日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   先日、「松緑芸話」について書いたが、その師匠であった六代目尾上菊五郎の舞台写真を撮った木村伊兵衛の本があると知って、手に取った。
   私自身が生まれる以前の戦前の写真であるから、この本が出版された時にも既に60年前、すなわち、80年も前の菊五郎の舞台姿である。

   木村伊兵衛は、著書も読んだし、曲がりなりにも写真を趣味にしてきた私には、見上げるような大写真家であるのみならず、色々な作品を見ていてよく知っている。
   伝統芸術を海外に伝えようとの外務省の依頼で、木村伊兵衛は、ライカを持って、5~6年、菊五郎の舞台を追い続けたと、奥方の木村久子さんが語っている。
   ライカの明るいレンズのお陰で、手持ちで撮ったという写真だが、ウイキペディの木村伊兵衛の項に、1933年12月に、ヘクトール73mmF1.9レンズを多用した写真を『光画』に発表したと書かれているから、確かにレンズは明るいが、フィルムの感度が低かった筈なので、無理は出来なかったであろうが、フラッシュなし撮影の素晴らしい写真が収載されていて、感動的である。
   
   戦争で随分ネガが焼けて焼失したが、幸い知り合いの写真館の地下室に保存されていたので残っていて、監修者の千谷道雄のところに、三千枚のべた焼きが送られてきて、木村伊兵衛が背後で指図する気配を感じながら、収載作品を選んだのだと言う。
   とにかく、モノクロの写真だが、現在の歌舞伎座の舞台を観ているような臨場感たっぷりの舞台写真で、端正な顔立ちの六代目の舞台姿の決定的な瞬間を取り続けているので、その素晴らしさが髣髴としてくる。
   梅幸によると、木村伊兵衛は、「この舞台を撮ろうと思ったら、カメラを持たずに、十五日くらい通って、ここと、ここと一々シャッター・チャンスをきめて撮影に取り掛かるんだ」と言っていたと言う。

   冒頭、「楽屋にて」と言うタイトルで、化粧前で、中啓(扇)を手にする六代目の写真や化粧する様子などが掲載されていて、次の舞台写真のトップは、「鏡獅子」である。
   この鏡獅子だが、ウィキペディアを引用すると、
   九代目團十郎はこの『鏡獅子』を一度しか演じておらず、その後大正3年(1914年)に市川翠扇から『鏡獅子』の振付けを教わった六代目尾上菊五郎が演じ、以後自身の当り芸とした。六代目菊五郎没後もほかの役者によって演じられ今日に至っている。

   この六代目の鏡獅子を最高のシーンでフリーズした巨大な「鏡獅子像」が、国立劇場の正面ロビー、客席へ入る直前に飾られていて、いつも、その素晴らしい雄姿を眺めながら客席に入る。
   木彫家平櫛田中が、六代目をモデルにして、20年をかけて完成させた入魂の傑作で、感動的である。
   木村伊兵衛の写真は12点、流れるような勇壮な毛振りシーンは圧巻で、この写真と平櫛田中の巨像が封じ込めた「鏡獅子スピリットは、六代目に尽きると言う。

   その後、仮名手本忠臣蔵をはじめとする時代狂言、弁天小僧などの世話狂言、汐汲や藤娘などの所作事などの素晴らしい舞台写真が掲載されている。
   歌舞伎鑑賞の期間が長いだけに、結構多くの舞台に接しているので、その思い出をも加味しながらイメージを膨らませて、木村伊兵衛の舞台写真を楽しませて貰った。
   千谷道雄の「六代目の生涯」も、六代目理解に、非常に役立った。
   
   とにかく、この木村伊兵衛の写真が、すべてを物語っており、小冊子ながら素晴らしい本である。
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