芸術家で、軍事技師で、科学者であった天才が本当に成りたかったのは何か!?
それは、「水」の研究者であり、アルキメデスだった。
と、斎藤教授は説いていて、科学者であったレオナルドの側面を、残された膨大な図像や鏡文字で書かれた手稿を紐解いて、克明に、知られざる物語を展開していて非常に面白い。
先に、ウォルター アイザックソン の「レオナルド・ダ・ヴィンチ」を読んで、レオナル・ド・ダヴィンチは、マルチタレントの芸術家であり、技術者だったと言うことで、そのマルチ人間のルネサンスに生き抜いた波乱万丈の人生の軌跡に魅せられていたので、興味深かった。
ところで、この本で私が興味を持ったのは、その科学者としてのレオナルドではなくて、絵画の方で、「≪岩窟の聖母≫は、なぜ二点あるのか」という二章に亘って、「ロンドン版「聖母」の戸惑い」と「ルーブル版「天使」と「幼児」は誰か?」と、通説とは違った意表を突いたような自説を展開していることである。
最初に見たのはルーブル版で、その後、ロンドン版で、ヨーロッパに住んでいたので、両方とも何度か観る機会を得たものの、同じ繪の別バージョンだというくらいにしか思っていなかったのだが、確かに、よく見れば違いがあり、斎藤教授の説明に興味を感じた。
私が持っているレオナルド・ダ・ヴィンチ関係の本を引っ張りだして見てみると、面白いことに気づいたのだが、
議論を展開するために、いつものように、まず、ウィキペディアから、その「岩窟の聖母」の図を借用する。ロンドン版、ルーブル版、問題の天使の部分の拡大図である。
何故、レオナルドは、殆ど同じような「岩窟の聖母」を二点もつくったのか。
よく似ているが、両者の僅かな違いは、ルーヴルの天使は、我々の方を見ながら、聖母に庇われた幼児を指さしているが、ロンドンの天使は、その幼児の方をうっとりと見つめていることだが、これは、何を意味しているのか。斎藤教授は、ミラノ時代にレオナルドが描いた銀筆の素描「若い女性の肖像」が、ルーヴルの天使にそっくりなので、一般論は、これに幻惑されて誤っていると、独自の推論を交えて、非常に興味深い持論を展開している。
ロンドン版では、聖なる三角形を構成する聖母と二人の幼児の頭には、聖なる円光が付いているが、ルーヴル版ではなくなっていて、更に、ロンドン版のひざまずいて祈る幼児は、十字架になった杖を肩に立てかけているが、ルーヴル版ではその十字架杖も消えている。
問題は、指差す天使と指差される幼児で、指差される幼児は、円光も、十字架杖も、牧人の衣服も剥ぎ取られて、代わりに体を薄いベールに包まれて、跪いて祈っている。天使は、その祈る幼児を指差しながら、我々に目配せして、「この祈る幼児が誰なのか、分かる?」と話しかけているようで、ルーヴル版は、宗教画としては異常である。と言う。
教授の推論の結論から言うと、まず、この天使は、スフィンクスだという。
ルーヴル版の天使の、赤いガウンに包まれた胴体と足の異様さである。その腰が異常に高いために、背中が四足獣のように水平に近く傾いており(ロンドン版の天使の背中は垂直に近い)、その腰自体も異様に巨大でガウンが側方に強く突出して、周囲を衣壁を同心円状に取り囲んでいて襞ができるのは、余程ウェストが細くて、腰が高い動物でなければならない。女性の頭、ライオンの胴体と足、猛禽類の翼を持ち、さらに人間たちに向かって謎かけをする動物と言えば、スフィンクス以外に考えられない。と言う。
さて、このヨハネだと目される幼児だが、これは死者の霊で、ルイ十二世の最初の妻で、幼いときに天然痘を患って、身体は不虞で、虚弱で、醜く、親からも疎まれたが、善良で、信仰心厚く、とりわけ聖母マリアへの帰依心が強かったが、王位に就いたルイ十二世に疎まれて離婚されて早世したルイ十一世の次女ジャンヌ・ド・ヴァロアである。
征服者としてミラノに到着したルイ十二世は、レオナルドを召し抱えて、罪滅ぼしに冥福を祈るために、祭壇画を描かせたのが、このルーヴル版の「岩窟の聖母」で、宗教画の形式を取りながら、実は極めて世俗的な繪だという。
ルイ十二世が、自分の密かな心情を心ある宮廷人にのみ伝えようとして、レオナルドに作らせた謎かけの繪であって、宗教的なメッセージではない祭壇画なので、教会ではなく、王宮という世俗的権力の祭壇に展示され、聖職者ではなく宮廷人の崇敬を受けて、ルーブルに収まったのだという。
カトリーヌ・ド・メディシスなど権力者たちからの依頼にも応じず、殆ど作品を残さなかったレオナルドが、ルイ十二世の依頼を受け手、細かい指示を帯してこのような大作を描いたのかどうかには、疑問があるが、確かにと言うフシがあって、非常に興味深い説である。
もっと、克明に説明しており、何故、聖母マリアが、憂い顔なのかの謎解きなども語っていて、そういう風な見方が出来るのも、膨大な手稿を読み解き、並の学者や画家では理解し得ていないレオナルドの総合像を展望しての分析からなのであろう。
とにかく、面白く読ませて貰った。
それは、「水」の研究者であり、アルキメデスだった。
と、斎藤教授は説いていて、科学者であったレオナルドの側面を、残された膨大な図像や鏡文字で書かれた手稿を紐解いて、克明に、知られざる物語を展開していて非常に面白い。
先に、ウォルター アイザックソン の「レオナルド・ダ・ヴィンチ」を読んで、レオナル・ド・ダヴィンチは、マルチタレントの芸術家であり、技術者だったと言うことで、そのマルチ人間のルネサンスに生き抜いた波乱万丈の人生の軌跡に魅せられていたので、興味深かった。
ところで、この本で私が興味を持ったのは、その科学者としてのレオナルドではなくて、絵画の方で、「≪岩窟の聖母≫は、なぜ二点あるのか」という二章に亘って、「ロンドン版「聖母」の戸惑い」と「ルーブル版「天使」と「幼児」は誰か?」と、通説とは違った意表を突いたような自説を展開していることである。
最初に見たのはルーブル版で、その後、ロンドン版で、ヨーロッパに住んでいたので、両方とも何度か観る機会を得たものの、同じ繪の別バージョンだというくらいにしか思っていなかったのだが、確かに、よく見れば違いがあり、斎藤教授の説明に興味を感じた。
私が持っているレオナルド・ダ・ヴィンチ関係の本を引っ張りだして見てみると、面白いことに気づいたのだが、
議論を展開するために、いつものように、まず、ウィキペディアから、その「岩窟の聖母」の図を借用する。ロンドン版、ルーブル版、問題の天使の部分の拡大図である。
何故、レオナルドは、殆ど同じような「岩窟の聖母」を二点もつくったのか。
よく似ているが、両者の僅かな違いは、ルーヴルの天使は、我々の方を見ながら、聖母に庇われた幼児を指さしているが、ロンドンの天使は、その幼児の方をうっとりと見つめていることだが、これは、何を意味しているのか。斎藤教授は、ミラノ時代にレオナルドが描いた銀筆の素描「若い女性の肖像」が、ルーヴルの天使にそっくりなので、一般論は、これに幻惑されて誤っていると、独自の推論を交えて、非常に興味深い持論を展開している。
ロンドン版では、聖なる三角形を構成する聖母と二人の幼児の頭には、聖なる円光が付いているが、ルーヴル版ではなくなっていて、更に、ロンドン版のひざまずいて祈る幼児は、十字架になった杖を肩に立てかけているが、ルーヴル版ではその十字架杖も消えている。
問題は、指差す天使と指差される幼児で、指差される幼児は、円光も、十字架杖も、牧人の衣服も剥ぎ取られて、代わりに体を薄いベールに包まれて、跪いて祈っている。天使は、その祈る幼児を指差しながら、我々に目配せして、「この祈る幼児が誰なのか、分かる?」と話しかけているようで、ルーヴル版は、宗教画としては異常である。と言う。
教授の推論の結論から言うと、まず、この天使は、スフィンクスだという。
ルーヴル版の天使の、赤いガウンに包まれた胴体と足の異様さである。その腰が異常に高いために、背中が四足獣のように水平に近く傾いており(ロンドン版の天使の背中は垂直に近い)、その腰自体も異様に巨大でガウンが側方に強く突出して、周囲を衣壁を同心円状に取り囲んでいて襞ができるのは、余程ウェストが細くて、腰が高い動物でなければならない。女性の頭、ライオンの胴体と足、猛禽類の翼を持ち、さらに人間たちに向かって謎かけをする動物と言えば、スフィンクス以外に考えられない。と言う。
さて、このヨハネだと目される幼児だが、これは死者の霊で、ルイ十二世の最初の妻で、幼いときに天然痘を患って、身体は不虞で、虚弱で、醜く、親からも疎まれたが、善良で、信仰心厚く、とりわけ聖母マリアへの帰依心が強かったが、王位に就いたルイ十二世に疎まれて離婚されて早世したルイ十一世の次女ジャンヌ・ド・ヴァロアである。
征服者としてミラノに到着したルイ十二世は、レオナルドを召し抱えて、罪滅ぼしに冥福を祈るために、祭壇画を描かせたのが、このルーヴル版の「岩窟の聖母」で、宗教画の形式を取りながら、実は極めて世俗的な繪だという。
ルイ十二世が、自分の密かな心情を心ある宮廷人にのみ伝えようとして、レオナルドに作らせた謎かけの繪であって、宗教的なメッセージではない祭壇画なので、教会ではなく、王宮という世俗的権力の祭壇に展示され、聖職者ではなく宮廷人の崇敬を受けて、ルーブルに収まったのだという。
カトリーヌ・ド・メディシスなど権力者たちからの依頼にも応じず、殆ど作品を残さなかったレオナルドが、ルイ十二世の依頼を受け手、細かい指示を帯してこのような大作を描いたのかどうかには、疑問があるが、確かにと言うフシがあって、非常に興味深い説である。
もっと、克明に説明しており、何故、聖母マリアが、憂い顔なのかの謎解きなども語っていて、そういう風な見方が出来るのも、膨大な手稿を読み解き、並の学者や画家では理解し得ていないレオナルドの総合像を展望しての分析からなのであろう。
とにかく、面白く読ませて貰った。