熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

斎藤 泰弘著「誰も知らないレオナルド・ダ・ヴィンチ」

2021年02月28日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   芸術家で、軍事技師で、科学者であった天才が本当に成りたかったのは何か!?
   それは、「水」の研究者であり、アルキメデスだった。
   と、斎藤教授は説いていて、科学者であったレオナルドの側面を、残された膨大な図像や鏡文字で書かれた手稿を紐解いて、克明に、知られざる物語を展開していて非常に面白い。
   先に、ウォルター アイザックソン の「レオナルド・ダ・ヴィンチ」を読んで、レオナル・ド・ダヴィンチは、マルチタレントの芸術家であり、技術者だったと言うことで、そのマルチ人間のルネサンスに生き抜いた波乱万丈の人生の軌跡に魅せられていたので、興味深かった。

   ところで、この本で私が興味を持ったのは、その科学者としてのレオナルドではなくて、絵画の方で、「≪岩窟の聖母≫は、なぜ二点あるのか」という二章に亘って、「ロンドン版「聖母」の戸惑い」と「ルーブル版「天使」と「幼児」は誰か?」と、通説とは違った意表を突いたような自説を展開していることである。

   最初に見たのはルーブル版で、その後、ロンドン版で、ヨーロッパに住んでいたので、両方とも何度か観る機会を得たものの、同じ繪の別バージョンだというくらいにしか思っていなかったのだが、確かに、よく見れば違いがあり、斎藤教授の説明に興味を感じた。
   私が持っているレオナルド・ダ・ヴィンチ関係の本を引っ張りだして見てみると、面白いことに気づいたのだが、
   議論を展開するために、いつものように、まず、ウィキペディアから、その「岩窟の聖母」の図を借用する。ロンドン版、ルーブル版、問題の天使の部分の拡大図である。
   
   
   

   何故、レオナルドは、殆ど同じような「岩窟の聖母」を二点もつくったのか。
   よく似ているが、両者の僅かな違いは、ルーヴルの天使は、我々の方を見ながら、聖母に庇われた幼児を指さしているが、ロンドンの天使は、その幼児の方をうっとりと見つめていることだが、これは、何を意味しているのか。斎藤教授は、ミラノ時代にレオナルドが描いた銀筆の素描「若い女性の肖像」が、ルーヴルの天使にそっくりなので、一般論は、これに幻惑されて誤っていると、独自の推論を交えて、非常に興味深い持論を展開している。
   ロンドン版では、聖なる三角形を構成する聖母と二人の幼児の頭には、聖なる円光が付いているが、ルーヴル版ではなくなっていて、更に、ロンドン版のひざまずいて祈る幼児は、十字架になった杖を肩に立てかけているが、ルーヴル版ではその十字架杖も消えている。
   問題は、指差す天使と指差される幼児で、指差される幼児は、円光も、十字架杖も、牧人の衣服も剥ぎ取られて、代わりに体を薄いベールに包まれて、跪いて祈っている。天使は、その祈る幼児を指差しながら、我々に目配せして、「この祈る幼児が誰なのか、分かる?」と話しかけているようで、ルーヴル版は、宗教画としては異常である。と言う。

   教授の推論の結論から言うと、まず、この天使は、スフィンクスだという。
   ルーヴル版の天使の、赤いガウンに包まれた胴体と足の異様さである。その腰が異常に高いために、背中が四足獣のように水平に近く傾いており(ロンドン版の天使の背中は垂直に近い)、その腰自体も異様に巨大でガウンが側方に強く突出して、周囲を衣壁を同心円状に取り囲んでいて襞ができるのは、余程ウェストが細くて、腰が高い動物でなければならない。女性の頭、ライオンの胴体と足、猛禽類の翼を持ち、さらに人間たちに向かって謎かけをする動物と言えば、スフィンクス以外に考えられない。と言う。
   さて、このヨハネだと目される幼児だが、これは死者の霊で、ルイ十二世の最初の妻で、幼いときに天然痘を患って、身体は不虞で、虚弱で、醜く、親からも疎まれたが、善良で、信仰心厚く、とりわけ聖母マリアへの帰依心が強かったが、王位に就いたルイ十二世に疎まれて離婚されて早世したルイ十一世の次女ジャンヌ・ド・ヴァロアである。
   征服者としてミラノに到着したルイ十二世は、レオナルドを召し抱えて、罪滅ぼしに冥福を祈るために、祭壇画を描かせたのが、このルーヴル版の「岩窟の聖母」で、宗教画の形式を取りながら、実は極めて世俗的な繪だという。
   ルイ十二世が、自分の密かな心情を心ある宮廷人にのみ伝えようとして、レオナルドに作らせた謎かけの繪であって、宗教的なメッセージではない祭壇画なので、教会ではなく、王宮という世俗的権力の祭壇に展示され、聖職者ではなく宮廷人の崇敬を受けて、ルーブルに収まったのだという。

    カトリーヌ・ド・メディシスなど権力者たちからの依頼にも応じず、殆ど作品を残さなかったレオナルドが、ルイ十二世の依頼を受け手、細かい指示を帯してこのような大作を描いたのかどうかには、疑問があるが、確かにと言うフシがあって、非常に興味深い説である。
   もっと、克明に説明しており、何故、聖母マリアが、憂い顔なのかの謎解きなども語っていて、そういう風な見方が出来るのも、膨大な手稿を読み解き、並の学者や画家では理解し得ていないレオナルドの総合像を展望しての分析からなのであろう。
   とにかく、面白く読ませて貰った。
   
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わが庭・・・椿・朱月咲く

2021年02月26日 | わが庭の歳時記
   肥後椿朱月が咲き始めた。
   大観峯(別名:水前寺)の紅花枝変りだと言うのだが、蘂の大きく広がるのは肥後椿の特徴で、かなりの大輪で、朱色が鮮やかで綺麗である。
   わが庭には、肥後椿は、ほかに、那古井の春と王冠だけだが、まだ、蕾が堅く、咲き始める頃には、他の椿も一斉に咲き乱れるので、結実すれば、どんな雑種の花を咲かせるのか、楽しみに実生苗を育ててみたいと思っている。
   ところで、肥後椿は、花糸が満遍なく広がったものが良花とされると言うから、我が椿は、まだ、雌蘂の回りが空いているので、それ程善い椿ではないのであろうが、熊本スタンダードであろうから、気にはならない。
   私など、写真を撮るときには、蘂にフォーカスするが、好みは、むしろ、花弁の姿、色形であるので、鑑賞者としては失格なのであろうか。
   
   
   

   金魚葉椿が咲いている。椿の葉の先端が、金魚の尾びれのように分かれている椿で、雰囲気は、ピンク加茂本阿弥と殆ど変らない。
   タマカメリーナがまた咲き出したが、今度は、白い覆輪が殆ど消えた花姿である。
   兄弟のタマグリッターズとその実生苗が咲き続けているが、咲く時期と枝によって花姿がドンドン変化して行くのが面白い。
   
   
   
   
   
   
   至宝とエレガンス・シュプリームは蕾が大分膨らんできたので、来週には、綺麗に開花しそうである。
   
   
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米国:学歴が生んだ賃金格差をどうするのか

2021年02月25日 | 政治・経済・社会
   日経朝刊の一面に、「パクスなき世界」夜明け前 が連載されていて、今日は、「学歴が生んだ賃金格差」「困窮絶つ高度教育の輪」とサブタイトルの付いた記事が掲載されている。電子版では、「高学歴は賃金2倍に 格差埋める教育アップデート」である。

   冒頭、
   「もうログインしたくない」。米西海岸シアトル市のアドリエン・マックイアンさんの娘、アリアさん(9)は2020年9月、学校のオンライン授業初日で打ちのめされた。生徒同士のあいさつもなく朝から画面を見続ける6時間は苦痛でしかなかった。
   口絵写真(日経電子版より借用)は、「スクリーンは嫌だ、学校がいい、友達と会えなくて寂しい」という子供たちの姿である。

   幸い、鎌倉にいる我が孫たちは、ずっと、通常の登校で授業環境は変っていないのだが、英語の塾や通信教育などはオンラインで、タブレット相手の勉強が結構多くなっている。ITキッズの時代であるから、苦痛ではなさそうだが、勢い、インターネットでの学習の機会が増えてくるのは必然であろう。
   私の場合には、パソコン相手の生活が多いので、それ程変わりはないのだが、困っているのは、コロナで劇場へ出かけるのは控えているので、観劇やコンサートなどで、実演に接する機会がなくなって、オンライン鑑賞にならざるを得なくなったことである。この1年くらい、実演の舞台から遠ざかっていると、不思議なもので、それ程、行きたいという気持ち起こらなくなってくる。ビデオ等で多少は補っているのだが、かと言って、METやロイヤル・オペラやスカラ座など、オンラインでの配信案内が来るのだが、それを鑑賞したいという気持ちにもなれない。やはり、観劇やコンサートは、実演に勝ものはない。

   さて、更に、この子供たちの教育をサポートするために、新型コロナウイルスの感染拡大で対面授業が規制された米国で台頭しつつある私的な学習活動「ポッド」の利用で 信頼の置ける隣人や友達同士で教師を雇い、超少人数の授業を受けている。と言う。教師1人を雇う1家庭あたりの費用は月800ドルで、食費や光熱費を上回る出費だが、「成長には大事な時期。勉強の質と友人関係を考えれば払う価値がある」。コロナ禍は各国で一般市民の教育への不安を増幅させた。所得に余裕がある層は教育への支出をためらわない。と言うのである。

   何故、これほど教育に拘るのか、
   この記事が問題にするのは、このオンライン教育の問題ではなく、アメリカでは、学歴による賃金格差が激しくて、学歴が高くなければ、生活に恵まれないので、この格差を解消するために、教育をどのようにしてアップデートするかと言うことなのである。
   付言すれば、努力次第でいくらでも夢がかなうという「アメリカン・ドリーム」など殆ど幻想であって、特に才能があって運と奇跡に恵まれれば別だが、少なくとも、トップ教育機関の大学院卒以上でないと背伸びできるチャンスがない。

   そのことは、日経の次のグラフを見れば、一目瞭然である。
   
   

   この教育格差を増幅させているのが、WASP、すなわち、ホワイト・アングロ-サクソン・プロテスタント(White Anglo-Saxon Protestants)。
   アメリカの政治、経済、社会、文化等に絶大な勢力を誇り、婚姻、相続、及び縁故主義を通じて形成された、まさに、アメリカに君臨するエスタブリッシュメントたるWASPエリート集団が、米国を支配する。
   下のグラフのトップを占めるのが、東部のブラウン大学、コロンビア大学、コーネル大学、ダートマス大学、ハーバード大学、ペンシルベニア大学、プリンストン大学、イェール大学8校のアイビーリーグ卒などで、WASPと重なる。
   上のグラフの、全く賃金の上がらない下の大学中退以下の3層に、ラストベルトに住む低学歴の白人労働者がいて、2016年の大統領選挙で雪崩を打ってトランプを支持したプアーホワイトであるが、如何に、虐げられて深刻な格差に泣いていたかが分かる。
   

   不幸なことに、この教育格差が、経済格差を生むだけではなく、同時に、深刻な知的格差も惹起して、常識を疑わざるをえないような民度の低落を露呈して暴挙に走る、アメリカの民主主義を窮地に追い込んだ元凶ともなっている。

   ところが、この記事では、「困窮絶つ高度教育の輪」「格差埋める教育アップデート」と唱えながら、
   米国の哲学者ジョン・デューイは「教育は社会の進歩と改革の基本的な方法」だと説いた。社会が求める人材は時代とともに変わる。デジタル化の急速な進展に既存の教育システムは追いつかない。高度な教育の裾野をどう広げるか。模索する動きが出始めている。と言うのはともかく、
   全米科学財団(NSF)は大手IT企業などと組んで、中高生の段階から次世代テクノロジーの量子技術に触れる人材「量子ネーティブ」の育成を始めた。通常、量子技術にかかわる専門知識は大学で学ぶが、若い世代にも先端の教育機会を広げ、「将来の労働参加の幅を広げる」と意義を強調する。として、
   一気に、高度な「量子ネィティブ」教育に飛躍して、地に付いた有効な処方箋さえ示し得ていない。

   日本の国立研究開発法人情報通信研究機構の「2020年度 量子ネイティブ人材育成プログラム「NICT Quantum Camp」の受講生及び研究課題の募集開始」を見ても、
   「募集条件」は、量子ICTへの強い関心を有する方 特に若手 (高専生、大学生、修士・博士課程在学者)や量子技術の教育に関わる方など
   ハードルが、極めて高く、日本では夢の夢の世界である。
   
   世界経済フォーラム(WEF)は25年までに自動化で8500万人の雇用が機械に置き換わる一方、9700万人分の新たな仕事が創出されると分析する。日々進歩する技術に対応するには、学び直しができる環境の整備も急務だ。と言うのなら、
   その前に、格差拡大、賃金格差拡大で、底辺に泣く人々に、どのような学び直しチャンスを与えて如何に救い上げて、上部の雇用機会を与えて救済するのか、その道筋を立てて、
   AIやIOTの進展で、デジタル化、機械化、自動化によって、既存の8500万人の雇用が駆逐されるのは当然としても、
   このテクノロジーの発展著しい激変の時代に、新しく教育訓練を受けて知的武装をして転職することが至難の業である現実を考えれば、どうすれば9700万人の新たな仕事が創出されるというのか、夢のような話の実現性を検証すべきであろう。
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わが庭・・・椿・鳳凰咲く

2021年02月23日 | わが庭の歳時記
   急に良い天気になって春の雰囲気、
   椿の鳳凰が咲き出した。
   鉢植えであったので、水やりをミスって枯れかけさせたのだが、間一髪で生き返り、やっと咲き出した。
   本当は、鳳凰の尾のように、もう少し花弁が長く伸びて尾を引くのだが、病気上がりか、少し花弁の伸びが悪いのだが、来年に期待しよう。
   
   
   
   

   椿は、青い珊瑚礁が咲き続けている。
   今年は、青い色彩が上手く現われなかったのが、一寸残念だったが、濃い赤紫のシックな花弁に品があって良い。
   ピンク加茂本阿弥やその実生苗の加茂本阿弥、フルグラントピンク、越の吹雪、唐錦も咲いている。
   
   
   
   
   
   
   

   固い蕾であった至宝とエレガンス・シュプリームの蕾が動き始めたので、もうすぐ、開花しそうである。 
   3月になれば、わが庭は、椿が咲き乱れて、少しずつ花に興味を持ち始めた孫娘のひな祭りと誕生日を祝ってくれる。
   
   

   気づかなかったのだが、まだ、花芽が殆ど動いていないのに、サクランボの暖地が3輪咲いていた。
   ボケもエニシダも咲き始めている。
   クリスマスローズは、今、最盛期。
   今年は、春の到来が少し早いのかも知れない。
   
   
   
   
   
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18・ロイヤル・アルバート・ホールのPROMS(2)

2021年02月22日 | 欧米クラシック漫歩
   1992年は、前年に予約をミスったので、4月末早々にプロムス92のプログラムを手に入れて、期日が来ると、すぐに申し込んだ。幸い希望通りの総てのチケットが手に入った。
   問題のラスト・ナイト・コンサートのチケット取得には、5演目以上の予約が条件で何組買っても二枚までと言うことであったが、これも、予約できた。しかし、このコンサートは、ソリストにキリ・テ・カナワが出演していたにも拘わらず、出張のために行けずに、家内と次女が出かけてお祭り気分を味わってきた。このラスト・ナイトのチケットは、取得困難で、どのようなルートで取得するのか、ホテルとのセットでプレミアム付きで売っているエージェントもあり、いずれにしろ、高値に拘泥しなければ、ロンドンでは、手に入らないチケットはないと言われていた。
   尤も、ラスト・ナイト・コンサートに行ける確実な方法があって、それは、このプロムスの全回分(オールシーズン・チケット)か後半の半回分の立ち見席チケットを買うことである。多くのファンのために、アリーナ(広い一階の平土間)と最上階のギャラリーが立ち見席となっていて、アリーナの全回分が95ポンド、半回分が60ポンドで、ギャラリー席では、それぞれ、25ポンド、20ポンド安くなる。
   特に、人気を博するのは、この夜の祝祭ムードで、アリーナの齧り付きの客が、仮装したりカラフルな帽子や服装を身につけて、旗を振ったり時には花火を使ったりと、派手なパフォーマンスで熱狂すると、お祭りムードが頂点に達して一気に感興を盛り上げる。

   この年、実際に出かけて行ったコンサートは、グラインドボーンのチャイコフスキーの「スペードの女王」、ドホナーニ指揮のクリーブランド管弦楽団、ロストロポーヴィッチ指揮のECユース・オーケストラ、ヤンソンス、そして、テルミカーノフ指揮のザンクト・ペテロスブルク・フィル、ティルソン・トーマス指揮のロンドン交響楽団、アシュケナージ指揮のベルリン・ラジオ交響楽団、そして、アバード指揮のウィーン・フィルであった。
   また、チケットがあって行けなかったのが、シャイー指揮のコンセルトヘボウ、ブーレーズ指揮のウィーン・フィル、そして、前述のラスト・ナイトである。
   因みに、チケット代金だが、在英オーケストラは15ポンド、クリーブランドが25ポンド、コンセウトヘボウが20ポンド、ウィーン・フィルで40ポンド、ラスト・ナイトは50ポンドである。
   他のコンサート・ホールのトップ・オーケストラやロイヤル・オペラのチケットと比べれば、随分安いのだが、それでも、3枚ずつ買ったので相当な出費となった。
   しかし、これは、ヨーロッパに滞在している故の、他では経験できない恵まれた幸運であり千載一遇のチャンスだと思って、オペラやコンサート、観劇など芸術鑑賞やヨーロッパ旅に糸目をつけなかったので、何時も火の車であったが、それでも、幸せであった。
   今にして思えば、引退してからゆっくり・・・等というのは間違いであって、足腰が丈夫で瞬発力が効き、好奇心が強くて感受性豊かな壮年期こそ、当然、仕事中心・激務の連続ではあったが、寸暇を惜しんででも、芸術文化知的行脚に没頭すべきだと思って必死であった、そんな自分を今になって慰めている。
   8年間のヨーロッパ時代では、シェイクスピア戯曲鑑賞には通い詰めたが、駐在員が入れ込んでいたゴルフには、クラブのメンバーではあったが、一度も行かなかったし、代表者ではあったが、夜の会食や付き合いを極力避けるなど変った過ごし方をしていたので、時間を捻出できたのかも知れない。

   さて、実際の公演だが、まず、グラインドボーンの「スペードの女王」は、指揮はホワイトタイで正装のA・ディビスで、オーケストラは、ロンドン・フィル。女性陣は、コンサート・ドレスで、男性陣は、ブラック・タイで威儀を正している。このオペラは、少し前に、グラインドボーンのオペラハウスで実際に鑑賞済みであり、全く同じキャストであり、今回はセミ・ステージではあったが、舞台が彷彿としてきて楽しませて貰った。グラインドポーンの舞台は、モノトーンのモダンな舞台セットであったが、ここでは、天井の高いオープンスペースで、雰囲気が大分違っていた。動きが少ない分、サウンドに集中したコンサートではあったが、舞台が広くてかなりの余裕があるので、多少の小道具もあり、ソリストたちも演技をしており、ただのコンサート・オペラのような単純さはなかった。
   若いライザのN・グスタフソンとヘルマンのY・マルシンは初々しく、逆に、トムスキーのS・ライフェルカスと伯爵夫人のF・パルマーが渋い味を出していて好演していた。ロシア語のオペラであったので、ロシア人歌手が中心となっていたようであった。

   このロイヤル・アルバート・ホールでは、その後、「オペラ座の怪人」や「レ・ミゼラブル」の記念公演が催されて、帰国後だったので、テレビ放映で見たのだが、凄い舞台であった。
   とにかく、巨大な多目的ホールなので、演出次第では、いくらでも、素晴らしいパーフォーマンス・アーツが上演できるのであろう。
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ニコラス・クリスタキス 「ブループリント:「よい未来」を築くための進化論と人類史」(3)

2021年02月21日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この本のタイトルは、Blueprint: The Evolutionary Origins of a Good Society、ブループリント:善き社会への進化の根源
   Blueprint shows why evolution has placed us on a humane path -- and how we are united by our common humanity.
   ブループリントは、人類の歩む道を進化させ、どのようにして、人類を共通の人間性によって結びつけて居るのかを示す。というのがこの本。

   これまで、科学界は、あまりにも長い間、人間の生物学的遺産の暗黒面、つまり、同族意識、暴力、利己性、残忍さなどを生み出す素質に焦点を当て過ぎて、明るい面には、注目してこなかった。が、これは間違っている
   大きな差異があるように思われている異文化は、実際には、共通の人間性によって結びついていている。この共通性の起源は、人間が共有する進化にあり、これは我々の遺伝子に書き込まれていて、人間は仲間同士で相互理解を実現できるようにビルトインされている。
   この異文化間の同類性を生み出す根本的な理由は、私たち一人一人が、自分の内部に、「善き社会を作り上げるための進化的青写真(ブループリント)」を持っていると言うこの原点にある。

   遺伝子は、人間の体内で驚くべき仕事をするが、遺伝子が影響を及ぼすのは、単に、人体の構造や機能だけではなく、人間の精神や行動の構造や機能のみならず、社会の構造や機能にも多大な影響を与える。このことは、世界中の人々を見れば分かることで、私たちに共通する人間性の源泉はここにある。
   自然選択は、愛し、友情を育み、協力し、学び、更に他人の独自性を認めると言った人間の能力をもたらす特徴である一連の「社会性一式 Social suite」の進化を先導しながら、社会的動物としての人間の生活を形作ってきた。(註:Social suiteを、どう訳すか、また、その概念を摑むのが、原書を読んでも難しい)
   
   クリスキタスの思想の核となる「社会性一体」は、あらゆる社会の核心にある普遍的な共有制に関わる次の特徴をさす。
   これは、個人の内部から生じるが、集団の特徴ともなっている。これらは一体となって働き、機能的で、永続的で、さらに、道徳的に善い社会を作り出す。
   (1)個人のアイデンティティを持つ、またはそれを認識する能力
   (2)パートナーや子供への愛情
   (3)交友
   (4)社会的ネットワーク
   (5)協力
   (6)自分が属する集団への好意(内集団バイアス)
   (7)緩やかな階層性(相対的な平等主義)
   (8)社会的な学習と平等

   私たちは、自己の内部に、人間にとっての自然な社会状態を反映した生まれながらの性向を持っている。こうした社会状態とは、事実としても、さらに道徳的見地から見ても、何よりも善なるものである。人間は、こうした前向きな衝動に反する社会を作れないし、善行とは、単なる啓蒙主義的価値観の産物ではなくもっと深遠な、有史以前に遡る起源を有している。
   「社会性一式」を形作る古来の性向は、一体となって働くことによって、共同体を結束させ、それらの境界線を明確にし、メンバーを特定し、更には、人々が個人的・集合的目的を達成できるようにし、憎悪と暴力さえもを最小限に抑える。
   人間には多くの欠点もあれば違いもあるが、それでも、寄り集まって生きることに総じて成功してきており、全世界の人間は皆、愛情と友情と協力と学習に満ちた一定のタイプの社会を作るように最初から出来ている。と言うのである。

   これが、ほぼ、クリスキタスの主張する論点である。
   クリスキタスは、医師で、イエール大のヒューマンネイチャーラボとネットワーク科学研究所の所長であり、専門は、ネットワーク科学、進化生物学、行動遺伝学、医学、社会学等多岐にわたっているので、
   この本では、社会科学、生態学、進化生物学、遺伝学、統計学、データサイエンス、医用生体工学、医学等々、可能な限りの博学多識を駆使して、「社会性一式」を一つ一つ克明に分析検証しながら、自説を論証し、この楽観論とも言うべき人類の明るい未来展望を展開していて、非常に興味深く感動さえ覚える。

   「社会性一式」に裏打ちされて遺伝子と文化の進化発展によって高度化してきた「善き社会を作り上げるための進化的青写真(ブループリント)」が、どのように人類を高みに導いて行くのか。
   非常に示唆に富んだ夢を持たせてくれる素晴らしい見解だと思うし、ビル・ゲイツをはじめ、世界中の識者たちが激賞しているのだが、
   単純な話、トランプ程度ならまだしも、
   人類の歴史において、ヒットラーやスターリンが登場して、まだ、100年も経過していないのだが、このような人物が出現して核のボタンを握ったらどうなるのか、クリスキタスのように能天気では居られない。と言うのが私の気持ちである。
   ダイアモンドが、コロナの感染拡大が収束したとしても、核兵器、気候変動、資源枯渇、格差の拡大など、これまで世界が体験したことのない史上初めての世界的規模、グローバルな崩壊のの危機に直面している。と指摘しており、
   クリスキタスの見解は、人間の善なる遺伝子に刷り込まれた青写真であって、必然的にそうなるという鉄則でもなければ、必ず保障された安全安心でもないので、人類の運命は実に脆い土壌の上に築かれている以上、些細な蹉跌やミスで、宇宙船地球号の人類社会は、瞬時に吹っ飛んでしまう心配は拭い切れないはずである。

   ところで、最後にクリスキタスは、問題を提起する。
   これまでのテクノロジーの進歩は、「社会性一式」を根本的に変えなかったが、しかし、重大な影響力を持ちそうな新しい急進的なテクノロジーが二つ出現した。
   一つ目は、人工知能(AI)
   二つ目は、遺伝子編集ツールのCRISPR 
   これらの急進的テクノロジーが、人間に変って、善き社会を作り上げるための「社会性一式」を書き換えたらどうなるのかと言うことである。
   
   ユヴァル・ノア・ハラリ は「21 Lessons」で、
   バイオテクノロジーとAIの組み合わせで、ホモ・サピエンスは、ヒト科の枠から完全に抜け出て、身体的特性や物理的特性や精神的特性が生み出されるかもしれないし、意識はどんな有機的構造から分離することさえあり、AIの発達によって、超知能をもつものの全く意識はない存在が支配する世界が誕生しかねない。
   と、同じような問題を提起している。

   この辺りのテクノロジーの進歩が、人間を凌駕するのかどうか、
   それ次第だと思うのだが、いまの時点では、良く分からない難問である。

   いずれにしろ、この本は、人類の未来にたいする明るい展望論!!
   スティーブン・ピンカーの「21世紀の啓蒙 : 理性、科学、ヒューマニズム、進歩 」同様に出色の「元気にしてくれる本」である。
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地球温暖化~氷点下20度以下の世界

2021年02月20日 | 地球温暖化・環境問題
   jiji.comが、「氷点下20度以下の世界」記事で、積雪と氷結のヨーロッパの写真を掲載して、その一枚が、口絵のアクロポリスの丘の雪景色である。
   同じく、「1400万人が飲料水確保できず 米テキサス州、寒波で水道管破裂」「大寒波襲来~ナイアガラの滝も凍る」と報じて写真を掲載した。
   
   
   

   地球温暖化の影響については、海面上昇、降水量の地域的な変化、熱波などの異常気象の頻発、砂漠の拡大などが挙げられ、気温の上昇局面について語られることが多いのだが、異常気象を引き起こすという現象であるから、台風、地震・ツナミ、旱魃・乾燥、豪雨・豪雪等々、これまで経験したことのないような異常な現象に遭遇し、今回のように、逆に、寒波の襲来に見舞われることにもなる。

   トランプは意にも介さなかったが、アメリカを襲った異常な台風被害やカリフォルニアの異常火災、今回のテキサスの寒波などは、地球温暖化によって引き起こされた異常気象の結果であることは、明白であろう。
   バイデン政権は、「パリ協定」に復帰して、正気の沙汰とも思えないようなトランプの地球環境破壊政策から脱皮して、地球温暖化対策を軌道修正することになったので、燭光が見えてきた。
   しかし、既に、チッピングポイントを超えてしまったという観測もあり、地球温暖化によるエコシステムの破壊阻止には一刻の猶予もなくなっているという喫緊の課題であると言うことも事実であろう。

   加東大介が、南方の戦地で芝居した「南の国に雪が降る」時代に、実際になってしまったのである。

   モスクワの吹雪や寒波は風物詩だが、これまで普通だと思って詠んでいた季語が無意味となり、四季の歳時記を書き換えなければならない、と言う事態には絶対してはならない。
   既に、桜の開花が早まり、紅葉の季節が初冬にずれ込んでおり、私たちが口ずさんでいた童謡のイメージがずれ始めてきている。
   季節が変ったと言うだけなら問題はないのだが、我々は、「茹でガエル」、
   依って立つ宇宙船地球号をどんどん窮地に追い詰めている。
   

(注記)写真は、 jiji.com等から借用させて貰った。)
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ニコラス・クリスタキス 「ブループリント:「よい未来」を築くための進化論と人類史」(2)

2021年02月18日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この本の直接的なレビューではないのだが、アメリカのトランプ劇場の場外乱闘で益々深刻さを増してきたアメリカの分断について、示唆に富む記述を見つけたので、それについて論じてみたいと思う。

   クリスタキスは、今日のアメリカで政治的な分極化が進行し、それぞれの党派が互いに悪魔のように見做して、どぎつい極端な言葉遣いを益々酷くさせているのは、部分的には、ソ連が崩壊したことの反映かも知れない。と言うのである。
   国民が共通の敵を持っているときには、国全体にもっと非公式な連帯感が育まれ、国内政治ににもっと礼儀正しさが広まっていた。これは、一般原則だ。集団の境界線とそれに伴う内集団バイアスは、なんらかの課題を共有することによって広げられる。その広がりが、もっと大きな規模での協力を促すのである。と述べている。

   Gゼロ時代となり、国力が低下して世界的な覇権を喪失したと雖も、超大国アメリカは、まだ、経済的にも軍事的にも、絶大な力を持っており、互角に、刃向かう敵がなく、国民挙って外集団に対抗する必要がなくなったために、太平天国に胡座をかいて、内紛が激しくなったということであろう。
   確かに、そう言われれば、第二次世界大戦後ソ連の崩壊までの冷戦時代、絶えず、ソ連の脅威に対処するために政治経済社会体制は緊張を続けていたかも知れないが、内政的には、経済成長を続けて中産階級の健全な民主主義体制が機能しており、経済格差が徐々に拡大したとは言え、今日のように、民主保守両党が水と油のように対立し、国家の左右分裂が極に達するようなことはなかった。

   クリスタキスは、「友か、敵か」の章で、人間は、「自分の属する内集団を好む」のは文化的な普遍性の一つであって、自民族中心主義で外国人嫌悪を出現させることは、社会的アイデンティティの概念で説明出来ると述べている。
   興味深いのは、限られた資源をめぐっての対立と競争は、集団間の敵意や、外集団への偏見と差別を生み、資源をめぐる競争で一つの集団しか勝者になれない場合には、特に恨みが生じやすい。競合する集団の間でポジティブな関係が復活できるとすれば、それは、全集団にとっての関心事となる「上位」のゴールが設定されているときだけである。として、「ロバーズ・ケイヴ実験」を説明していることである。
   要は、国民全体が一致団結して対処すべき高度なゴールが設定されれば、内紛や分裂などは起こりえないということである。

   この実験は、22人の少年をロバーズ・ケイヴ公園で3週間キャンプをさせて、内集団の連帯と帰属意識を育む訓練をした。もう一方で、同じ訓練を受けた少年たちの集団があって、両チームを合わせて、野球やサッカーやテント張り競争などを競わせた。最初は仲良く試合に興じていたが、次第に関係が険悪となって、完全に不和状態となった。第3段階の実験は、キャンプ場全体に水を供給している巨大な貯水タンクの破壊工作で、タンクの側面についている蛇口を詰まらせ、タンクの元栓を閉めて、その位置を大きな岩で隠した。命の水が一滴も出なくなったので、困った少年たちはハシゴでタンクの天辺に上って水が満杯なのを確認して、どうにかして水を流そうと必死になって、仕方なく両チームの少年たちは協力して対処し始めた。努力が実った頃には、何時しか少年たちの間にあったワダカマリが消えて、一緒にキャンプ生活を楽しみ始めた。キャンプ体験が終ったときには、少年たちは、別々ではなく、同じバスに乗り込んで帰り、外集団へのネガティブな見方は消えて、集団間の友情が高まった。と言うのである。

   さて、先のソ連の崩壊で、アメリカの分断が加速したという見解についてだが、現今は、まだ、中国が低位にあるので、アメリカは脅威と感じていないが、一説によると、2028年には、中国のGDPが、アメリカのGDPを超えて、名実ともに、中国がアメリカを凌駕すると言う。
   そうなれば、本格的な新冷戦の到来で、アメリカは、国内の不協和にうつつを抜かしている余裕などなくなってしまう。
   バイデン改選の4年後だが、異常事態が発生しないとすると、アメリカは、迫り来る中国の脅威を身近に感じざるを得なくなる。
   ほっておいても、トランプの陰はあだ花として消えて行き、冷戦時代のように、アメリカは一つに結束する方向に向かう。というのは希望的観測であろうか。

   誇り高いアメリカ人が、No.2に凋落することなど夢想だにして居ないと思うし、現実となれば、どんなに醜態を晒すか、
   トランプ流に、統計が盗まれたと言うのかどうか、
   私も、アメリカで学び、アメリカに一宿一飯の恩義を感じている人間なので、アメリカの繁栄を願っており、驚天動地を見たくはないと思っている。
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2月は雛人形飾りとe-Tax

2021年02月17日 | 生活随想・趣味
   2月になると、一寸緊張すると言うか気になるのは、雛人形の飾り付けとe-taxである。
   毎年やっていることなので、何も、取り立てて気構えることもないのだが、何となく気が重いのである。

   雛人形は、押し入れに入っているのを引っ張りだして、7段飾りのディスプレィをするだけなのだが、これが、結構大変で手間暇が掛かって、老人には一仕事である。
   何時、飾ろう、腰を上げて作業に掛かるまでが、一寸、大変で、
   この雛人形は、ブラジル勤務から帰ってきて小学生であった長女のために買ったもので、二人の娘と、ずーっと離れて、孫娘の三代に亘ってお世話になっているので、もう40年ほどの付き合いだが、全く傷んでは居ないので、飾ってしまえば、綺麗で華やかになって良いので、ホッとするのだが、これだけのことを逡巡するのは歳の所為であろうか。
   普段は、月末の3月直前になるのだが、今年は、幼稚園でお雛さまが飾られて、孫娘が、「ひな祭り」の歌を口ずさみ始めたので、一寸早く腰を上げた。

   もう一つは、確定申告で、会社を離れてからは、自分で自己申告をせざるを得なくなったので、3月初めに税務署に出かけてやっていたが、e-taxがスタートしてからは、インターネットを叩いている。
   当初は、利用者識別番号・暗証番号手法でやっていたが、マイナンバーカードを取得してからは、この方式に切り替えた。
   いずれにしろ、年に一回なので、前の年のやり方を忘れたり、様式が変更になったりして、毎年、どこかで引っかかって前に進まなくなって、e-taxヘルプデスクに電話をかけて処理している。
   しかし、ここで問題が解決することは少なく、更に、マイクロソフトや富士通に電話してテクニカルサービスにお世話になる。

   まず、今回、頓挫したのは、microsoft edgeを使用しているので、Chrome拡張機能を処理しなければならないのだが、これが上手く行かず、マイナポイントの時にもこれでダメだったし、富士通に電話したら、e-taxやマイナンバーに聞けとケンモホロロ。
   しからば、前年までと同様に、internet explorerを使うしかないのだが、新しいパソコンで、最新windows 10をupdate済みなので、Windows アクセサリのinternet explorerをクリックしても出てくるのは、edgeの画面で、古いinternet explorerが開示できず埓があかない。
   富士通のQ&Aで解決法は分かったが、まだ、パソコンを購入して1年が経過しておらず、無料相談期間なので電話して解決したのだが、
   とにかく、解せないのは、何処もそのようで、この富士通は特に酷いのだが、ヘルプデスクに電話が繋がらなくて、無人の音声で「しばらくお待ちください」と言ってつまらないお知らせを1時間以上も聞かされる理不尽さ。このような日本のメーカーの顧客サービスの酷さは、そのまま、日本企業の凋落を反映している。「売りはよいよい、修理トラブル処理はこわい」と言うことであろうか。

   後は、どうにか、パソコンが作動してくれて、確定申告は無事完了したが、表示された控除額の数字などが、前年と違ったりしていて、税法の変更などスタディしていないので、正しく打ち込まれたかどうか分からない。

   高橋英樹が、テレビのデモンストレーション報道で、簡単だと言ってニコニコしていたが、側に係員がいてサポートしているから簡単なのであって、また、日常業務で慣れておれば簡単ではあろうが、毎年、どこか様式が変っていたりして、私のように記入項目の少ない申告者にとっても、何年やっていても、正しく打てたかどうかには全く自信が持てない。
   税務署の申告コーナーに、沢山のパソコンのブースが設置されていて、多くの人が詰めかけていたのだが、まともに資料を揃えて出かけていって、無事申告に成功した人はそれ程多いようには思えない。

   私の場合、少しだけだが、税金が返ってくるから、これで良いか、と言った感じである。
   とにかく、完了となったので、ホッとした。
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17・ロイヤル・アルバート・ホールのPROMS(1)

2021年02月15日 | 欧米クラシック漫歩
   日本でも、毎年、夏のロンドンのロイヤル・アルバート・ホールの「プロムス」のラスト・ナイト・コンサートが、NHK BSPで放映される。
   ロンドンに5年間も居ながら、知ってはいたが、いくらでも何処でも、素晴らしいクラシックのコンサートは聴けるし、どうせ巨大なサーカス劇場かドーム状の競技場でのコンサートだからと見向きもしなかったのだが、良く通っていたピカデリーのタワー・レコードで、何の気なしに堆く積まれていたPROMS 91の100ページほどの立派なパンフレットを開いて、その豪華さにビックリした。アバードやハイティンクや小澤の写真が目に入り、マリア・ユーイングやギネス・ジョーンズからブレンデルや内田光子の写真が出てきて、びっしりと素晴らしいプログラムが目白押しである。
   小澤指揮のボストン交響楽団はベートーヴェンの交響曲第8番とベルリオーズの幻想交響曲、アバード指揮のベルリン・フィルはブラームスのピアノ協奏曲第2番とマーラーの交響曲第4番という調子であったが、時既に遅しで、総てソールド・アウト。手にしたチケットは、アバード指揮のグスタフ・マーラー・ユーゲント・オーケストラと、コリン・デーヴィス指揮のドレスデン国立交響楽団、ロンドン・フィルのグラインドボーン祝祭歌劇の「皇帝の戴冠」だけであった。

   さて、このプロムスだが、BBCプロムナードコンサート、正式には、Henry Wood Promenade Concerts。
   毎年、世界中から、クラシック音楽関係の名だたる音楽家が集まり、7月中旬から9月の上旬にかけて、毎夜、コンサートが開催されて、主なものは、BBCで放映される。
   平土間のアリーナ席は立ち見席で、毎日売り出されるが、熱心なファンなどは、1シーズン通し、または、半シーズン通しのチケットを購入して通っていて、楽譜を持って熱心に聞き入る音楽学生もかなり見かける。
   人気があるのは、ラスト・ナイト・コンサートで、ポピュラーなクラシック音楽に始まり、後半は、TOP演者が登場し、エドワード・エルガーの行進曲「威風堂々」第1番や国歌「女王陛下万歳」など愛国的な音楽が奏されるなど、それぞれ趣向を凝らした観客たちが華を添えるので、お祭り気分が頂点に達する。
   オーケストラは、当然、BBC交響楽団である。
   プロムスの光景は、説明しても分かりにくいので、ウィキペディの写真を借用すると、
   
   

   アバードの方は、チケットが殆ど残っていなかったので、奥深い天上桟敷であったから気の遠くなるような距離で、シューマンのチェロ協奏曲とマーラーの第5番を聴いたのだが、凄まじいカーテンコールの渦。このオーケストラは、鉄のカーテンの東西から集めた若い音楽家によって形成されたウィーンに本拠を置く楽団だが、翌年、ロストロポーヴィッチ指揮のEUユース・オーケストラのショスタコーヴィッチの交響曲第11番を聴いたのだが、これも、すごい熱演で、偉大な巨匠たちが、若い音楽家たちのオーケストラを心血注いで積極的にバックアップし育成している姿に感動し、ヨーロッパの若い音楽家の力量と層の厚さにびっくりした。

   デービスとドレスデンは、人気がないのか良い席が取れた。私は、このコンビをテレビで何度か見ていたので、非常に興味があった。当日のプログラムは、モーツアルトの交響曲第31番、シューベルトの第6番、ドボルザークの第7番であった。英国人のデービスと、旧東独のドレスデンとの相性がどうか、気になったが、きわめて端正な演奏で、ドボルザークの7番など、機械のように正確無比で、旧共産圏の鬱積したエネルギーが爆発したような激しいサウンドであった。ベルリンの壁が崩壊した直後に、ドレスデンを訪れたことがあるが、歴史のある凄い大都市が、廃墟のように無残な姿を呈していたのを覚えていて感慨深かった。
   
   グランドボーンは、その年、現地へ行って、「フィガロの結婚」と「イドメネオ」の舞台を実際に鑑賞しており、非常に質の高い舞台を見せてくれるので、このコンサート形式の公演にも、興味を持っていた。グラインドボーンは、常設のオーケストラを持っていないので、ロンドンの4大オーケストラのロンドン・フィルが、オーケストラピットに入る。アムステルダム・オペラでは、コンセルトヘボウがピットに入っていたが、普通は、ウィーン国立歌劇場のオーケストラも兼ねているウィーン・フィルを除いて、コンサート・オーケストラのオペラ演奏は少ないのだが、ロンドン・フィルは、グラインドボーンのお陰で、素晴らしいDVDやCDを沢山出していて、その殆どが名盤として人気が高い。このモーツアルトは、それなりの水準ではあったが、歌手のアクションが限られており、天井が限りなく高いオーディトリアムなので、一寸セミステージの限界を感じて感興はもう一つであった。

   とにかく、このプロムスは、クラシック音楽鑑賞の別な楽しみ方を教えてくれ面白かった。
   ここでは、それ以前に、テニスの国際試合を見ており、日本の大相撲のロンドン場所を見ており、異次元の体験もしていて、興味深い場所であるが、円形の巨大なオーディトリアムなので、パブリックスペースが限られていて、丁度、後楽園球場をもっと切り詰めて小さくしたような雰囲気である。
   ロイヤル・オペラ・ハウスが改装されて、レストランなど広大なパブリックスペースを取り込んで一体化した理想的なアミューズメント施設の良さを思うと惜しいと思う。
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わが庭・・・椿:唐錦咲き始める

2021年02月14日 | わが庭の歳時記
   ピンク地に紅色の吹掛け絞りの椿唐錦が咲き始めた。
   絞りには、小絞りや縦絞りなどもあるのだが、好みもあって、わが庭にある唯一の絞り椿である。
   江戸時代からある古い椿のようだが、洋椿には絞りを見たことがないので、これは、日本人好みの椿なのであろう。
   
   
   
   

   クリスマスローズも、いつの間にか咲き始めている。
   野生のクリスマスローズは、森林の木漏れ日が落ちる木陰で育っているので、花木の下草のような状態の方がよいであろうと思って、何株か地植えにしてほったらかしにしておいたら、大きく育ったという感じである。
   植え場所を間違って、枯らしたり失敗することも多いのだが、自然に任せて、消えたら消えたでそれまでで、根付いて成長すればそのままにして置くという主義で、どうにか花木や草花も、所を得て育っているので、良しとしている。
   まだ、芽を出し始めたというところで、葉が茂っている割に花茎が低いので写真に撮りにくい。
   
   
   
   

   中国ミツマタが咲き始めた。
   沈丁花も甘い香りを漂わせて咲きだしたので、春一番が吹いて、こんなに温かくなるともう春である。
   今年は、桜が早いという。
   
   
   
   

   バラ、まず、ルージュ・ロワイヤルが芽吹き始めた。
   昨年も失敗しているので、今年こそ、まともに、春のバラを咲かせたいと思っている。
   
   
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わが庭・・・紅梅:紅千鳥咲く

2021年02月13日 | わが庭の歳時記
   わが庭には、梅の木は3本しか植わっていないのだが、最も小さくて遅咲きの紅千鳥が、鮮やかな濃い紅色の花を咲かせ始めた。
   一重の典型的な花姿が好ましくて、緋色に魅せられて庭植えにしたのである。
   
   
   
   
   
   
   

   わが庭の白梅と鹿児島紅梅は、ほぼ、満開である。
   大船フラワーセンターの梅林も梅が咲き乱れているであろうが、コロナで一寸行くのを遠慮している。
   
   

   遅れていた残りの寒肥を、椿やブルーベリーなど、気になる花木に施した。
   大きくなった梅や夏みかんやユズなどと言った果実樹は、殆ど施すことはないし、庭木の殆ども、樹勢が強いので、申し訳程度の施肥にとどめている。
   本格的な日本庭園なら植栽が整理されているので施肥も秩序だってやれるのだが、元々植木職人がまともに整備した庭に、空いた空間にこれ幸いと好き勝手に花木を加えて、草花の球根をねじ込んで変形した庭なので、四季の花の彩りや移ろいの妙を楽しめても、手入れは大変である。

   しかし、欧米人を相手に切った張った激務に明け暮れていた時に、オランダのリセの極彩色に咲き乱れていたチューリップ畑や、キューガーデンに咲いていた巨大なオオオニバスなど異国情緒タップリの花々や、ヨーロッパの田舎を歩きながらふと感慨を覚えたひっそりと咲く路傍の花々などに触発されて、少しずつ育まれてきた花への愛おしさを大切にしたいと思っている。
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METライブビューイング・・・「カルメン」

2021年02月12日 | クラシック音楽・オペラ
   METが、コロナで閉鎖されているので、今期のMETライブビューイングは、過去の公演記録で、今回は、2010年1月16日放映分の「カルメン」である。
   現在METの音楽監督であるヤニック・ネゼ=セガンのMET初登場の舞台で、非常に溌剌とした素晴らしい指揮で、後年の大活躍を彷彿とさせる。
   カルメン:エリーナ・ガランチャ、ドン・ホセ:ロベルト・アラーニャ、ミカエラ:バルバラ・フリットリ、エスカミーリョ:テディー・タフ・ローズ と言う豪華な布陣で、演出のリチャード・エアの素晴らしい舞台が、弥が上にも感興を盛り上げている。
   それに、解説案内役のMETのトップスター・ルネ・フレミングが、絶妙な司会で、指揮者や歌手などから巧妙に話題を引き出していて流石である。

   これまで、何回かこのビゼーのカルメンを観ているが、衝撃的であったのは、ロンドンのロイヤル・オペラのアグネス・バルツァの凄い舞台(1986.5.28)。
   バルツァは、その後、ヴェルディ『ドン・カルロ』のエボリ公女でも観る機会があったが、カラヤンに口答えしたという程の凄い歌手で、この「カルメン」では、雌豹のような精悍な出で立ちで舞台に飛び出てきて、「ハバネラ」を歌い出した意表を突いたような演技と素晴らしい歌唱。
   自由奔放に生きる気の強いジプシー女の心意気を存分に表出して、一途に愛する誠実で真面目なドン・ホセを翻弄しまくる悪女の典型のような、しかし、魅力満開のバルツァ。
   ドン・ホセは、ホセ・カレーラス、エスカミーリオはジーノ・キリコ、ミカエラは、マリー・マクローリン、指揮はマルク・エルムレルであったが、このMET版が、ジェイムス・レヴァイン指揮で、DVDで出ている。
   白血病で入院するする少し前のカレーラスのホセだが、涙が零れるほど感動的なホセで、この舞台は、バルツァ・カレーラスあってのオペラであって、ドミンゴでもパバロッティでもない。

   その後、二回、METライブビューイングで、「カルメン」が放映されていて、
   2014年に、指揮:パブロ・エラス=カサド 演出:リチャード・エア 出演:カルメン:アニータ・ラチヴェリシュヴィリ、ドン・ホセ:アレクサンドルス・アントネンコ
   2018年に、指揮:ルイ・ラングレ 演出:リチャード・エア 出演:カルメン:クレモンティーヌ・マルゲーヌ、ドン・ホセ:ロベルト・アラーニャ
   この18年については、このブログに印象記を書いているが、総て、リチャード・エアの演出なので、指揮者や歌手が変っても印象はよく似ており、18年版は、ドン・ホセを同じアラーニャが演じているので、今回のと大分印象が近い。

   さて、タイトルロールのカルメンだが、ラチヴェリシュヴィリは凄く上手いドラマチックな歌手だが、一寸グラマー過ぎてイメージが違う感じであり、マルゲーヌは、若くてパンチが効いて、エキゾチックな美人で魅力は抜群で、踊りも芝居も非常に上手くて、女性の多様性を総て秘めた女だと言うカルメンを感動的に演じて感激とメモにかいている。
   しかし、私には、アグネス・バルツアの舞台が強烈に印象に残っているので、この野性味たっぷりで自由奔放な悪女を演じているガランチャが最もカルメンのイメージには近いと思っている。誠実で真面目一方、カルメンへの思い入れしか脳裏にない単細胞のホセを翻弄し尽くして死に追い詰めて行く、何ものにも束縛されずに意のままに生き抜くジプシー女の面目躍如の生き様など、心地よいほど凄い迫力である。R rate紛いの迫りようでホセを籠絡させて行き、その成り行きを冷めた目で横から傍観するふてぶてしさ、ガランチャの芝居は、並のイギリスのシェイクスピア役者より遙かに上手い。
   このあたりは、METの平土間席の前列で双眼鏡で追っかけても、中々、表情の機微は見えないのだが、流石に映像技術の冴えたライブビューイングだけのことはあって楽しませてくれる。

   このオペラ「カルメン」は、フランスの作家プロスペル・メリメの作品を基にした、フランスの作曲家ジョルジュ・ビゼーの作品、
   竜騎兵伍長のドン・ホセが、カルメンに誘惑されて恋に落ち、婚約者ミカエラを捨てて軍隊を脱走して盗賊の仲間入りをする。しかし、すぐに、カルメンはホセに愛想をつかして闘牛士エスカミーリョに心を移し、嫉妬に狂ったドン・ホセは、歓声に沸く闘牛場の陰で、復縁を哀願するも拒絶されてカルメンを刺し殺す。
   歌舞伎の「忠臣蔵」と同様に、劇場が潰れかけたらこれを舞台にかけろと言われるほどの人気演目。

   冒頭の前奏曲から、観客の心を鷲づかみにして、
   カルメンのハバネラ「恋は野の鳥」
   エスカミーリオの闘牛士の歌「諸君の乾杯を喜んで受けよう」
   ホセの花の歌「おまえの投げたこの花を」
   ミカエラのアリア と言った素晴らしいアリアの数々が、観客を夢の世界に誘う。

   イギリスの演出家リチャード・エアの演出は、クラシックながら、上手くセットされた舞台を、本舞台の回り舞台と新設の二重の回り舞台をうまく使って移動させながら、実に機動的で、舞台とシーンを素早く激変させており、シェイクスピアの国の舞台演出家としての面目躍如で流石である。
   
   前奏曲に合わせて幕が半開きで、バレーダンサーが、カルメンとホセの行く末を暗示させるバレーを踊って幕が開き、
   舞台には、ジプシームード満開で、フラメンコやスペイン舞踊の素晴らしいシーンがふんだんに取り込まれていて、
   カルメンの狂気や激しくも美しいスペイン気質爆発の踊りと音楽など、これは、マドリッドやバルセロナのナイトクラブで夜明け近くまで演じられる咽返るようなフラメンコの熱狂を観れば納得いくのだが、グラナダの洞窟で見たジプシーの素朴な舞踊の激しさに原点があるのであろうと思うと実に愛おしい。
   カルメンのガランチャや仲間たちの踊りも半端ではなく本格的で素晴らしい。

   余談だが、私は、ソプラノで準主役の役割だが、この舞台のミカエラとトゥーランドットのリウが好きで、先の可愛いマクローリンも素晴らしかったが、熟年のフリットリィの初々しいミカエラにも感激した。1992年にフィラデルフィアで、1994年にMETで、ミカエラでデビューしたようで当たり役なのであろう。
   エスカミーリオのテディ・タフ・ローズは、開演3時間前に依頼された代役だというのだが、素晴らしい舞台を務めた。キリ・テ・カナワと同じマオリの血を引くのだという。
   ミカエラとエスカミーリオに人を得ると、素晴らしい「カルメン」になる。

   この「カルメン」で旋風を巻き起こしたE・ガランチャ&R・アラーニャの伝説的カップルが、2018年のMETライブビューイングで、再び誘惑する女&破滅する男に扮して激突する話題作サン=サーンス「サムソンとデリラ」で凄い舞台を展開していて興味深い。

   松竹のHPの写真を一部借用すると、
   
   
   
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蘇ったホームベーカリー

2021年02月11日 | 生活随想・趣味
   鎌倉に移ってから、スコーンが容易に手に入るようになったので、千葉で続けていたレーズンパンの朝食をスコーンに切り替えたのだが、それまでの習慣で、レーズンパンを、パナソニック ホームベーカリーを使って作っている。
   もう、何年これを使っているだろうか、鎌倉へ移転した前後だと思うので、大分経っている。

   昼食も、私好みのメニューを私自身で決めて自分で作っているので、このレーズンパンを使うことが多い。
   ところが、ここ、1週間ほど、パンの膨らみが悪くなって、7割くらいの高さのやや膨らみの悪いパンしか焼けなくなってしまったのである。
   何度、手を替え品を替えて試みてもダメである。

   もう、こうなってしまったら、短絡的に、どこかおかしくなって機能しなくなったのだと考えて、買い換えを考え始めた。
   価格コムやアマゾンを叩いて、探し始めた。
   どうも、主流は、シロカとパナソニックのようである。
   シロカは、全く知らなかった製品で、どうも、レーズンパンなどの混ぜ物を作る機能はなさそうで、自動と言いながら、パナソニックより、多少操作が厄介なような感じがした。
   結局、使い慣れているので、パナソニックにする方が、ベターだと分かったのだが、一番安いものでも、16,000円するし、私の意図した製品だと35,000円くらいはする。シロカなど他のメーカーの製品と比べるとかなり割高である。
   
   一寸待てよ、と考えた。
   これまで毎回、何も考えずに、セットしたメニューそのままに、ルーチン操作で予約ボタンを押し続けていて、誤って誤操作したのかどうかさえもチェックせずに、遣い続けているのに気づいた。
   当然、次の手順は、操作マニュアル、取扱説明書を観ることだが、そんなものは、何処に行ったのか分からない。

   結局、自己流に操作ボタンを押して、適当なメニューを選んで設定し直して、焼いてみることにした。
   メニューを操作していると、パン・ド・ミが出てきたので、これをクリックして、いつものように、「レーズン選択」の「あり」を押して、具材をセットして予約ボタンを押した。
   翌朝、起きてから、ホームベーカリーを開けると、前のように、中央が高く盛り上がった素晴らしいパンが焼けているではないか。

   何のことはない、インターネットに機種番号SD-BMS106-NWを打ち込んで検索すれば、古いので生産終了としながらも、「取扱説明書ダウンロード」の表示が出て、「取扱説明書」のオリジナルが表示されるので、問題なく、操作方法が分かる。
   アマゾンのこの機種のページを開いたら、「最後にこの商品を購入したのは2014/9/11です」という私の購入記録の表示まで出てきた。
   まさに、ICT革命、デジタル時代の為せる技である。

   「蘇ったホームベーカリー」と言うことではなく、使い方を誤っていたのを正常に戻したと言うことだけなのだが、何となく、ホッとしている。
   そのことよりも、日本の工業製品の良さに感心することで、何年も使っている東芝の餅つき器もそうだが、カシオのソーラー計算機など半世紀以上も現役である。
   尤も、当たり外れなのか、何故か、ソニーのカメラもそうだが、音響機器は良く故障したし、パナソニックはTVとビデオレコーダーが故障した。
   キヤノンやニコンのカメラは、まず、故障がなく、随分長く使っている。
   問題は、何処も、修理費が高すぎることで、元の製品の後続機種をアマゾンで買うよりも、悪くすれば高い場合があったりするので、廃却せざるを得ないのが資源の無駄使いである。
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16・モーツアルト200(2)

2021年02月10日 | 欧米クラシック漫歩
   モーツアルト200は、ロンドンでもそれなりに、盛大に行われていた。
   私は、モーツアルトの命日の翌日の12月5日に、バービカン・ホールへ、ジェフリー・テイト指揮イギリス室内管弦楽団のモーツアルトのレクイエムを聴きに行った。早くからチケットはソールドアウトで、4日に追加公演が売り出されたがこれもすぐに売り切れて大変な前人気であった。
   ソプラノはジョーン・ロジャース、メゾソプラノはキャスリン・クールマン、テノールはジョン・マーク・エィンズレィ、バスはグイン・ホウエル、合唱はタリス室内合唱団で、非常に厳粛なムードの演奏であった。テイトが、タクトを静かに下ろして瞑目すると長い黙祷の沈黙が続く。そして、割れるような拍手。 
   このレクイエムの前に、モーツアルトのクラリネット協奏曲K622がテァ・キングのソロで演奏された。
   この作品は、殆ど亡くなる寸前に、それも病苦に悩み不幸のどん底で作曲された作品でありながら、最も天国の音楽を感じさせる素晴らしい曲で、神が、モーツアルトの姿を借りて作曲したとしか思えないほど美しい。
   私は、モーツアルトの協奏曲の中でも、この曲とフルートとハープのための協奏曲が好きで、キューガーデンの自宅とサビル・ロー通り近くの事務所までの行き帰りの車の中で、聞き続けていた。

   MOZART200では、ヨーロッパの主要都市で、一年中、モーツアルトの音楽のコンサートが開かれていた。
   ロンドンでは、先のイギリス室内管弦楽団のジェフリー・テイト指揮、内田光子ピアノのモーツアルトのピアノ協奏曲のコンサートの人気が高かった。しかし、実際の演奏会には、内田光子単独の指揮・ピアノの演奏会の場合が多かったように思う。
   私が出かけたのは、バービカン・ホールでの、ホルン協奏曲と内田光子の指揮・ピアノで、ピアノ協奏曲第15番と第19番であった。丁度、この第19番は、BBCでオンエアーされた直後に聴いたので、その美しさに感激した。
   ピアノ演奏の時には、あの能面のように美しい顔が百面相のように表情豊かに変化するのだが、指揮をするときには、やはり、日本女性を思わせる優しいアクションで、特に、手の動きが実に柔らかである。
   私が感激するのは、内田光子の素晴らしさは当然として、イギリス室内管弦楽団の質の高さとそのサウンドの美しさである。
   このバービカン・ホールで、ロンドン交響楽団をはじめとして随分色々なオーケストラを聴いてきたが、本当に美しいと思って聴いたのは、この楽団だけだったような気がしている。

   ロイヤル・オペラも、ロンドン交響楽団やフィルハーモニアなども、メンバー・チケットを持って通っていたので、それぞれがMOZART200のプログラムを組んでいたはずなので、出かけて行ったと思うのだが、メモが残って居ないので、ここには何も書けない。
   倉庫には、当時のパンフレットやプログラムなど残っているので、探せばよいのだが、到底無理なので、後日に書いてみたいと思う。
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