熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国立能楽堂・・・能・観世流「卒塔婆小町」

2019年09月30日 | 能・狂言
   9月の特別公演 梅若実の「蘇東坡小町 そとわこまち」。
   大分前に、片山融雪の「関寺小町」を観ているので、100歳の老いさらばえた小野小町のイメージは湧くのだが、私の小町の老女イメージは、歴史散歩に明け暮れていた若かりし頃、山科の南の小野にある随心院で見た卒塔婆小町像である。
   絶世の美女と言ったイメージなど、100歳の老女に期待しても無理な相談だが、痩せこけたぼろぼろの姿ではなく、老いてはいるが、まだ、一癖ありそうな風貌であった。
   日経の記事によると、「絶世の美女」とされるのも状況証拠でしかない。小野貞樹、文屋康秀ら歴史書に名を残す男たちと、しゃれた歌のやり取りを残しているため、美人でモテたに違いないというわけだ。と言うことである。
   100歳は、いざ知らず、歳老いても、益々、チャーミングに輝くレディもおられるので、彫刻家の思いが意味深で興味深い。
   インターネットの画像を借りると、次の通り。
   

   「卒塔婆小町」のストーリーは、ほぼ、次の通り。
   高野山で修行した二人の僧(ワキ/宝生欣也・ワキツレ/大日方寛)が阿倍野の松原で、一人の老女(シテ/梅若実)が現れて、卒都婆に腰を掛けて休んだので、見咎めて説教をはじめると、逆に、老女は、弁舌鮮やかに仏法の奥疑を説いて反論し、僧たちを屈服させる。この老女は、若かりし頃は、美貌と才覚を誇った小野小町のなれの果てであっって、華やかな昔を懐かしみ、今の零落ぶりを恥じていたが、にわかに狂乱状態になって、自分に恋慕して亡くなった深草少将の執心を語り始める。少将の怨念が、老体の小町の体に取り憑いたもので、百夜通いの有様を見せるが、やがて、我に返って、仏に仕えて悟りの道を願って消えて行く。

   さて、殆ど実像が明らかに残っていない小野小町が、何故、能の老女ものに名作が残っているのか不思議に思っていたのだが、銕仙会の解説では、
   『玉造小町壮衰書』と言う作品で、玉造小町という美貌の女性が年老いて零落してしまった様子が描かれていて、能楽の成立した中世には、この主人公・玉造小町を小野小町の別名だとする理解がなされ、小町伝説が作られてゆく上で重要な役割を果たした。この年老いて零落した小町のイメージに、もうひとつ「深草少将の百夜通い」の故事を交えて、この二つのイメージを結びつけることで、少将の執心ゆえに死ぬこともできず苦しみ続ける小町の残酷な運命が描き出されている。と言うのである。

   しかし、この能の眼目の一つは、僧たちを論破する小町の宗教論議であろう。
   「極楽の内ならばこそ悪しからめそとは何かは苦しかるべき・・・」
   「邪正一如」「煩悩即菩提」「一切無差別」禅的思想なので、真言僧と辻褄があったのかどうか。
   尤も、小町の言ではなく観阿弥の宗教観なのであろうが、良く分からないが、前半の山場であろうか。

   この高邁な宗教論を説く小町が、無残にも老醜を通り越して、朽ち果てた姿で、垢まみれの衣に飯袋をぶらさげ、物乞いをして日々を暮らし、施しを得られぬ時は癇癪を起こし狂気に変身する・・・
   僧たちに向かって、傘を差しだして、「なう物賜べなうお僧なう」と物乞いした瞬間に、深草少将の霊が乗り移って変身すると言う凄まじい舞台が展開されて行く。
   
   小町の登場、橋掛りの出は、途中の休憩を含め、百年の人生の歩みの深さを、歩行と言う能らしい最小の象徴的表現方法によって描き出していると言う説明なので注視していた。  
   脇正面前方中央の席だったので、橋掛かりを一番見ずらい状態であったのだが、
   シテは、左足を前に歩ませて、ほんの僅かな間をおいて、右手の杖を突き、右足を少し左足の前に出る程度に進めて、ゆっくりゆっくりと舞台へ向かう。杖の音は、微かに聞こえる程度で、途中、三の松の前で、小休止。
   ラストシーンは、「悟りの道に入らうよ」の地謡にのって、橋掛かりを目指して歩み始め、出の時よりは少しテンポを上げて、杖の音も普通に聞かせて歩み行き、二と三の松の間で立ち止まって、見所を向いて左袖を巻き上げて小休止、その後、ゆっくりと、美しく流麗な笛の音に伴われて、揚幕に消えて行く。

   五大老女物の一つだと言う。
   2013年に、大槻 文藏の小野小町の舞台を観て居る筈なのだが、記憶はない。超ベテランのトップ能楽師の舞う曲であるから、今回は、大変貴重な経験であった。
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わが庭・・・酔芙蓉咲く

2019年09月29日 | わが庭の歳時記
   昨年、酔芙蓉を一株植えたのが咲き始めた。
   スイフヨウ(酔芙蓉)、朝咲き始めた時には白い花だが、時間がたつと、少しずつピンクに変色して行くので、酔っ払いに例えられたという。
   八重咲の奇麗な花だが、花弁は薄くてか弱い。
   芙蓉は、本来、ハスを指すので、水芙蓉はハスで、木芙蓉と区別されるのだが、ハスと違って、木のわりには、花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき なのかも知れない。
   
   
   

   わが庭のバラも咲き始めてきた。
   柿の木の錦秋の葉が、色づいてきた。
   まだ、暑いが、明後日から10月、本格的な秋である。
   
   
   
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わが庭・・・彼岸花咲く

2019年09月28日 | わが庭の歳時記
   秋の彼岸の日に、必ず咲く花が、ひがんばな。
   曼殊沙華と言えば、何となくムードが湧くが、彼岸花と言うと、抹香臭くなる。
   「ハミズイハナミズ」すなわち「葉見ず花見ず」、花時には葉がなく、葉が出る時には花がない、不思議な花である。
   地中の球根から一気に茎をのばして、その先に、普通は、赤い大きな線香花火のような奇麗な形の花を咲かせる。白や黄色の彼岸花もあって、奇麗である。
   毒があるので、食べると「彼岸(死)」とかで、死人花や地獄花等と言って、不吉であると忌み嫌われることがあったのか、何故か、関西ではその傾向が強かったのか、子供の頃、良い印象を持たなかった。
   宝塚の田舎に住んで居たので、田んぼのあぜ道に、びっしりと一列縦隊に、真っ赤な花が鮮やかに咲いていたのを覚えている。
   わが庭には、2~3株ずつ、数か所に咲いている。
   
   
   

   柳宗民の「日本の花」によると、彼岸花は、中国原産で、人が持ち込んだか、球根が海に流されて対岸の九州に打ち上げられて野生化したのだろうと言う。
   シナスイセンが流れ着いて野生化してニホンスイセンになったり、ハマユウが南大西洋から流れ着いたとか言われているので、後者説を取っている。
   しかし、私は、この彼岸花は、生まず女で、球根でしか増殖しないと言われているので、東北以南で広く栽培されているのを考えると、球根を持ち歩いて伝播した可能性の方が高いと思っている。
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国立小劇場・・・9月文楽「心中天網島」

2019年09月27日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   近松門左衛門の心中物「心中天網島」、早くから、チケットはソールドアウト。歌舞伎の「河庄」「時雨の炬燵」の人気が増幅したのであろう。
   近松の原作は、あまり上演されなかったようで、シェイクスピアもそうだが、浄瑠璃の常として、その後変更が加えられて、近松半二が「心中紙屋治兵衛」に改作し、その後の半二の「天網島時雨炬燵」は今でも舞台にかかっているがストーリーは変わっており、現在の「心中天網島」や歌舞伎の「河庄」などは、先祖返りして、人気を博している感じである。

   念のために、近松門左衛門のオリジナル浄瑠璃「紙屋治兵衛 きいの国や小はる 心中天の網島」を読み返してみたのだが、大筋では、殆ど変化はない。
   上之巻 すなわち、河庄の段では、オリジナルにはない、河庄で、折悪しくやってきた太兵衛が、善六を相手に金のない治兵衛を散々笑いものにするコミカルなシーンが追加され、太兵衛が、店の格子に括りつけられた治兵衛に借金の証文を見せて煽り、孫右衛門が、その20両を叩きつけると言った挿話があるなど、多少、面白くした形跡はある。
   しかし、中之巻 天満紙屋内の段は、殆ど原文そのままである。
   最も、大きく変わっているのは、下之巻 橋尽しの段で、大和屋の場は、殆ど変化がないが、後半の 死出の道行と心中の場の「名残の橋尽し」は、この文楽では、「道行名残の橋づくし」となって、床本は非常に短縮されていて、視覚的で魅せる道行シーンとなっている。
   名文で名高い橋づくしが消えているのは残念だが、網島の大長寺での心中まで、随分長い詞章が続いているので、いくら近松門左衛門の名文でも、舞台にすると、見せ場がなくてダレてしまうのであろうと思われる。
   曾根崎心中でも、冥途の飛脚でも、簡潔で情緒連綿たる美しい死への道行の方が、良い筈なのである。
   

   今回の舞台の主な配役は、次の通り。
   人形
   紙屋治兵衛  勘十郎
   粉屋孫右衛門 玉男
   江戸屋太兵衛 文司
   紀の国屋小春 和生
   舅五左衛門  勘壽
   女房おさん  勘彌

   義太夫・三味線
   北新地河庄の段  三輪太夫 清志郎、呂勢太夫 清治、
   天満紙屋内の段  津國太夫 團吾、呂太夫 團七、
   大和屋の段    咲太夫 燕三、

   2015年、国立文楽劇場と国立小劇場での二代目吉田玉男襲名披露公演で「天網島時雨炬燵」を観ている。
   その前は、2013年、同じく両劇場で、「心中天網島」を観ていて、それぞれ、観劇記を書いている。
   興味深かったのは、10年前に、大阪の厚生年金ホールで、日経主催の「文楽の夕べ」が開かれ、住大夫と山川静夫さんとの対談、そして、近松の文楽作品・心中天網島のおさんの口説きのシーンの文楽ミニ公演であった。
   文楽ミニ公演は、おさん二題で、心中天網島と天網島時雨炬燵の夫々同じ天満紙屋内の段を実演。治兵衛が炬燵に入って、遊女小春のことで涙ぐむのを見て、おさんが、女の幸せを踏みにじっている夫に酷いつれないとかき口説く核心部分である「あんまりじゃ治兵衛殿。それほど名残惜しくば誓紙書かぬがよいわいの。」と言うくだりで、勘十郎のおさん、簔二郎の治兵衛で演じられた。
   大夫は、文字久大夫と呂勢大夫、三味線は、清志郎と清二郎。
   勘十郎が、「近松は字余り字足らずで、私きらいでんねん。近松、おもろまっか。」と言う住大夫を前にして、指を折って指し示し、半二の改作で、七五調に変わって良くなったと説明していた。

   さて、今回の通し狂言とも言うべき「心中天網島」は、恐らく、現在期待し得る最高の舞台ではなかったかと思っている。
   玉男が治兵衛なら、勘十郎が小春、和生か清十郎がおさんと言ったキャスティングであったと思うが、今回は、玉男が、渋い治兵衛の兄粉屋孫右衛門を遣っていた。
   どうしても、格調高い侍姿をイメージしてしまうのだが、舞台が進むにつれて、少しずつ町人ムードに変わって行って治兵衛の目線に近づいて行った。我當の孫右衛門は、刀を忘れて取りに引き返すと言った俄かサムライ姿を苦笑しながら上手く演じていたのを思い出す。
   どうしようもないガシンタレの大坂男治兵衛を勘十郎が、健気で優しい大坂女小春を和生が、感動的に遣い、情感豊かな道行名残の橋尽くしの美しくも哀れな余韻は忘れがたい。
   この舞台の主人公とも言うべきおさんを遣った勘彌の活躍は特筆ものであろう。

   人間国宝に認定された咲太夫や人間国宝の清治を筆頭に最高の布陣で演じられた義太夫と三味線の素晴らしさは、言うまでもなく、近松門左衛門の凄さを改めて感じ入ったひと時を過ごさせて貰った。
   
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秀山祭大歌舞伎・・・仁左衛門の「勧進帳」

2019年09月24日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   團十郎や、白鷗・幸四郎の高麗屋、吉右衛門の「勧進帳」で、傑出した弁慶を観続けてきたが、仁左衛門の弁慶には、何となく、上方歌舞伎の雰囲気が出ていて、今回で2回しか観ていないが、非常に味があって好きである。
   花道に立って六方を踏み出す仁左衛門の決死の形相を観ていても、この前の女殺油地獄の河内屋与兵衛を一世一代で演じたように、この弁慶も、まさに、その思いで、これが白鳥の歌、最後の弁慶の舞台となるのではないかと思っている。
   それだけ、鬼気迫る心魂を傾けた凄い舞台であった。
   富樫は、幸四郎、義経は、孝太郎。
   

   仁左衛門の弁慶は、11年前、「四月大歌舞伎」で、勘三郎の富樫、玉三郎の義経で、一度だけ観ている。
   剛直な弁慶の雰囲気濃厚な張り詰めた舞台と言うよりは、パンチの利いた華麗な美しい舞台であったように覚えている。

   富樫や義経は、代わっているが、一番多く観ている弁慶は白鷗で、殆ど目に焼き付いている感じだが、古くは、團十郎の弁慶、菊五郎の富樫、梅玉の義経の舞台や、吉右衛門の弁慶、菊五郎の富樫、梅玉の義経の舞台も印象に残っており、近年では、幸四郎や海老蔵の弁慶など、結構、沢山の勧進帳を観ているのだが、
   筋書きは同じでも、役者によって、大きく、舞台の印象のみならず、ストーリー展開に差が出てくるのが興味深い。
   勧進帳や山伏問答でも、役者に大変な緊張と負荷を課すようで、その上、延年之舞、最後に、六方を踏んで揚幕に消えるという大技を演じるのであるから、おそらく、今後は、幸四郎や海老蔵の弁慶の時代となろう。

   この勧進帳の舞台については、文楽も含めて、随分書いてきており、オリジナルである能「安宅」についても、何度も観劇記を綴っているので、これ以上書くこともないのだが、やはり、勧進帳を観る度に、能「安宅」の舞台を頭の中で反芻している。
   2012年12月19日 | 能・狂言に書いた「国立能楽堂:能「安宅」、そして、勧進帳との違い」が、結構、読まれているのだが、これが、その問題意識の発端で、勧進帳が、能「安宅」の舞台に影響を与えているのを知って、やはり、そうかと、歌舞伎の舞台でのアウフヘーベンと言うか、深掘り進化とも言うべき芸術の妙を感じている。

   能「安宅」について、九世観世銕之丞が、「能のちから」で、先代が、喝采を浴びた「勧進帳」に影響を受け、歌舞伎から逆輸入して「安宅」の演技を再構築した部分もあるのではないか、と言う言い方をしていた。と語っている。
   また、観世清和宗家は、「能を読む⓸」の「能の劇的身体」で、能役者が「安宅」を演じる時には、歌舞伎の「勧進帳」を意識せざるを得ない。「瀧流之伝」などをやる時に、「尾上松緑がこんなふうにやっていたな」とか、あのような華やかさを能にも逆輸入で取り入れようかなあなどと思ったりする、と語っている。「安宅」と言うのは、歌舞伎の「勧進帳」と相関関係にある、意識していないと言えば嘘だと思う、と言うのである。

   能と歌舞伎の違いは、色々あるのだが、大きな違いは、歌舞伎では、富樫が、義経だと分かっておりながら、男の情けで、安宅の関を通させるのだが、能では、弁慶が力づくで富樫と対決して関所を突破すると言うことになっている。
   今回の仁左衛門の弁慶も、幕が引かれた後、花道に一人佇んで、富樫が見送って立っていた舞台に向かって深々と頭を下げて、富樫の切腹覚悟の武士の情けに感謝し、六方を踏んで退場する。

   さて、力の対決で安宅関を突破するとする能「安宅」を舞う能役者が、義経と弁慶一行だと分かって演じているのかと言うことだが、かって書いたように、弁慶の清和宗家も、富樫の宝生閑も、分かっていたと言っており、そのあたりの微妙な感触を、清和宗家が、「能を読む⓸」の「能の劇的身体」で、その舞台での対応で、非常にビビッドに表現していて興味深い。
   「虎の尾を踏み、毒蛇の口を、逃れた心地して」と言った時に、脇座から富樫が弁慶をスッと、その危うい心地そのものの眼差しで見ておられるわけです。・・・ただ弁慶をスッと見ているあの眼差しというのは、拝見していて、情は見せないとは言いつつ、そこに人間としての無言のメッセージを送っているのです。・・・その時の閑先生の眼差しというのが、情があってはならないのだけれど、正に情をもって舞台でやっておられる。

   私は、清和宗家が、「一期初心」で、富樫もハナから義経一行だと喝破し、弁慶も見破られていることに気付いていて、お互いに相手の心を読み、もうこの先は、刀を抜いて斬り合うしかないと言うギリギリのところでぶつかり合っている。表舞台で進む派手なやり取りの後ろで、もう一つのドラマが進んでいる。この二重構造が「安宅」の特徴であり、演者にとっての醍醐味だと言っていて、。
   「安宅」が大曲と言われるのは、展開する舞台の華々しさによるのではなく、背後で同時に進んでいる緊迫した心理劇をどう表現するか、そこに演じるものの力が問われているからだ。と述べているのが正しいと思っており、
   それに、宝生閑が、「幻視の座」で語っているように、富樫が、弁慶に心酔したと言う伏線があって、そのアウフヘーベンが、この感動的な歌舞伎の「勧進帳」に昇華されたのだと思っている。

   弁慶が、勧進帳を読み始め、富樫がにじり寄ると、弁慶が身構えて、両者の緊迫した見得が演じられるが、その後、幸四郎の富樫は、中空の一点を凝視しただけで身動きもぜず聞き入っていたが、既に、偽勧進帳であると見破った所為の仕草だと思って観ていた。
   第一、真面な勧進帳であれば、弁慶が隠す必要もなく身構えることはない筈なのである。
   尤も、能「安宅」には、このシーンはなく、弁慶の、高らかに、天も響けと大音声の勧進帳の読み上げに、「関の人々肝を消し、恐れをなして通しける」と言う展開であるから、これは、歌舞伎演出のドラマチックな脚色なのである。

   以前に、勘十郎の弁慶を観たのだが、義太夫の魅力を味わいながら、文楽の「勧進帳」を久しぶりに観たいと思っている。
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大島 真寿美著「渦 妹背山婦女庭訓 魂結び 」

2019年09月23日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   「第161回 直木賞受賞作」の大島 真寿美著「 渦 妹背山婦女庭訓 魂結び 」
   浄瑠璃作者・近松半二の生涯を描いた作品だということで、日頃、何々賞などと言った本を読んだことがないのだが、文楽、それも、近松半二と言うことなので、文句なしに書店に出かけて、本を手に取った。
   まず、作者の頭に去来するストーリーをそのまま、関西弁の文章に綴ったような軽快な語り口が非常に面白く、楽しませてもらった。  
   作者も、"声"が聞こえてくる、半二の声を聞いて、それを書き進めていく感覚であったと、楽しみながら一気に書いたと言ったようなことを語っていたので、小説の神が、作者の手に筆を執らせて書かせたのであろう。
   豊竹呂太夫に義太夫を習っているというから、並みの文楽ファンではない。

   人形の三人遣いを考案した人形遣いの吉田文三郎や、回り舞台や宙乗りを考案して名作を手掛けた歌舞伎作者の並木正三などの指導と薫陶、切磋琢磨、そして、多くの先輩や後輩などの刺激を受けながら、半二の浄瑠璃作家への一代記が展開されていて、面白い。
   この近松半二の作品は、合作も含めて、
   この小説のタイトルの「妹背山婦女庭訓」のほかに、「本朝廿四孝」「新版歌祭文」「伊賀越道中双六」「日高川入相花王」「奥州安達原」等々、現在、我々文楽ファンを楽しませてくれている作品が、目白押しなのである。

   操浄瑠璃の竹本座や豊竹座、そして、歌舞伎劇場などが立ち並び大衆芸術が犇めいて活況を呈していた当時の道頓堀、その激しい渦の中で、如何に、近松門左衛門の向こうを張った浄瑠璃の名作を生み出したか、大作「妹背山婦女庭訓」制作への軌跡を詳細に追いながら、その苦闘と葛藤を描いて、半二の作劇への生き様を活写している。
   「妹背山婦女庭訓」のヒロインお三輪に、語り部として登場させて、文楽や歌舞伎で心情を吐露させているのが面白い。

   ところで、「妹背山婦女庭訓」上演で、一気に、浄瑠璃人気が沸騰して、竹本座は、復活活況を呈したが、この上演のたった2年で、客は、再び、操浄瑠璃から歌舞伎芝居に移って行って、あの活況は幻として消えてしまって、道頓堀は、歌舞伎芝居一色。
   その後、「新版歌祭文」を書いたが、まずまずの人気、「伊賀越道中双六」途中で死去して娘おきみが仕上げたという。
   結局、半二は、歌舞伎芝居の人気に押されて操浄瑠璃が萎んで行くのを心配しながら逝ったというのである。

   私など、文楽も歌舞伎も芸術性においては、甲乙付け難いと思うのだが、いくら高度であっても、三業による文楽は地味であり、人気役者が百花繚乱の歌舞伎は、舞台の上だけではなく、役者の暮らしぶりや私生活、醜聞やら、誰と誰が喧嘩した、仲が良いとか悪いとか、始終、舞台の延長のように話題にされ、より役者の面白みが増して、その上、浮世絵が流布して、衣装や髪型などファッションの先駆けになるなど、飽きられる暇がない。と言う。
   その所為かどうか、松竹は文楽を手放し、その後、大阪府・大阪市を主体に文部省・NHKの後援を受けた財団法人文楽協会が発足し今日に至っている。
   いずれにしろ、文楽は、高度な日本の誇る重要な古典芸能、
   ひよわな花ゆえに、日本人挙って大切にサポートしなければならない。

   特大の大作を書いて起死回生を目指さない限り、先の見えない操浄瑠璃作家の苦悩が滲み出ていて、それに、大阪弁の乗りで泣き笑いの人生を描いた近松半二の一代記。
   面白かった。
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国立能楽堂・・・能・観世流「蝉丸」

2019年09月22日 | 能・狂言
   今回の能・観世流の「蝉丸」は、シテ/逆髪 野村四郎、ツレ/蝉丸 大槻文蔵 と言う二人の人間国宝が舞い、小鼓に大倉源次郎、地謡頭に梅若実と言う同じき人間国宝が演ずる豪華な顔ぶれの舞台であった。
   「蝉丸」を鑑賞したのは、大分前に、横浜能楽堂で、明治初年の能楽の危機時代に、宝生と観世の異流共演が実現したのを記念した公演で、シテ/逆髪が宝生和英宗家、ツレ/蝉丸が人間国宝梅若玄祥、ワキ/清貫が殿田謙吉、アイ/博雅三位が人間国宝野村萬と言う凄い布陣の舞台であった。
   今回の公演の面は、シテ逆髪、ツレ蝉丸、
   

   延喜帝の皇子・蝉丸(ツレ)は、盲目故に捨てられる勅旨を受けたので、清貫(ワキ/福王茂十郎)は、逢坂山に随行して、そこで蝉丸を剃髪し、蓑・笠・杖を与えて、ひとり残して山を下りる。その後、博雅の三位(アイ/山本則重)が訪れて、哀れに思い蝉丸を庵に住まわせる。そこへ、狂乱した皇女・逆髪(シテ)が、京を彷徨い出て逢坂へとやって来て、蝉丸の琵琶の音を聴いて庵を訪れる。逆髪は弟・蝉丸との思わぬ再会を喜ぶが、しばしの間で、名残を惜しんで去って行く。彷徨い旅立って行く逆髪を、留まる蝉丸が見送る。

   逢坂山は、京都と大津の間、大津寄りの山で、標高324.69mであるから、それ程高い山ではないが、新幹線だと大津を抜けるとトンネルに入りすぐに山科に出る。
   昔、近江商人が毎日この山を越えて京都に行商に行ったというのだが、京の人が、「大変ですなあ」と言ったら、「競争が少なくなるので、もっと高かった方が良い」と答えたとか、近江商人の面目躍如の逸話を聞いたことがある。

   いくら、時代だと言っても、皇子や皇女が、このような悲惨な運命を辿らざるを得ないのかと思って解せなかったので、銕仙会の解説を読んだら、
   もともと蝉丸は、平安時代成立の『今昔物語集』では琵琶の名人・敦実親王に仕える使用人で、盲目の身となってからは逢坂山に独り侘び住まいをしていたが、蝉丸自身が皇子であって、盲目の身と生まれたことで逢坂山に捨てられたとする伝承が生まれ、さらに、それが逢坂山の坂の神の信仰と結びつき、蝉丸の姉として坂神=逆髪というキャラクターが生まれるに至った、こうして、貴い血筋に生まれながら花の都を追放された姉弟の、悲劇のストーリーが生まれた。と言うことで、
   貴い血筋に生まれながら花の都を追放された姉弟の、都の繁栄の陰で生み出される悲劇。逢坂山を舞台に、二人の貴子たちの零落と離別を描いた、人間世界の無常という運命をテーマとする作品。となったと言うのである。

   滋賀を舞台にする能が演じられると、滋賀県の観光団体が、会場に小さな売店を開き客を楽しませてくれるのだが、この日は、ほかに百人一首かるたの展示をして、蝉丸のカードをディスプレイしていた。
   
   

   この蝉丸の「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」という歌は、中世には「会者定離」、出会った者は必ず別れる運命にあるというこの世の無常を詠んだ歌で、逢坂の地に留まり続けることを宿命づけられた蝉丸と、放浪する運命を背負った逆髪とが泣く泣く別れてゆかなければならない人間の運命を描いた作品である。と言うのであるが、そう考えれば、人生のどん底に落ちた皇子皇女の出会いが奇跡だとしても、その後、救いようのない運命に遭遇して朽ちて行く、突き放したその行く末の残酷さが悲惨でさえある。
   世阿弥の夢幻能では、最後には、シテの成仏で幕を閉じることが多いのだが、この能には、人間の宿命としての悲しい別離の余韻は残るとしても、その末路は、救いがなく悲惨なのである。
   昭和9年から終戦まで、皇室を慮って上演が自粛されていたというのだが、分かるような気がする。
   
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秀山祭九月大歌舞伎・・・吉右衛門の「寺子屋」

2019年09月21日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   歌舞伎座の9月公演秀山祭は、凄い舞台の連続である。
   今回は、吉右衛門の「寺子屋」、仁左衛門の「勧進帳」、歌六の「松浦の太鼓」を期待して、夜の部に出かけた。
   

   それぞれ、何回も観ている演目だが、吉右衛門の寺子屋は案外少なく、仁左衛門の勧進帳は2度目だが、流れるような造形美の感動的な弁慶をもう一度観たくて、そして、初役だという歌六の好々爺ぶりの松浦のお殿様に滋味深い味のある芸を期待して、夜の部に出かけた。
   最近、若手の歌舞伎役者の台頭が著しく、歌舞伎座は賑わっているが、私には、少なからず違和感があって、古い世代の、ある意味では、古色蒼然たる伝統の染みついた歌舞伎の舞台の方が、本来の姿だと思っているので、このような定番歌舞伎の舞台が好ましいのである。

   まず、寺子屋だが、時間の関係であろう、その前の「寺入の段」がなくて、直接、「寺子屋の段」に入って、すぐに、戸浪が小太郎を紹介するので、味も余韻もなくて気がそがれる。
   同じ兄弟でありながら、芸風の違いと言うのか、白鷗と吉右衛門では、かなり、雰囲気が違った松王丸で、興味深かった。
   まず、子供たちの顔検分のシーンでも、吉右衛門の場合には、春藤玄蕃(又五郎)の問いかけには、殆ど無表情に近く目立った派手な受け答えをしないのだが、小太郎の首を討たれた直後の断腸の悲痛、しかし、首実検では小太郎の机の存在で顛末が分かっているので特に表情を強張らせずに首を凝視し、源蔵(幸四郎)から、小太郎がにっこり笑っていさぎよく首を差し出したと聞くと、感極まった泣き笑い表情で、「でかしおりました、利口なやつ立派なやつ、健気な…」と万感胸に迫る心情を吐露・・・感情表現が実に緩急自在で、その落差をうまく際立たせて表現し、
   自分だけ運命の悪戯で、菅丞相に報いられない松王丸の苦悩を、「梅は飛び 桜は枯るる 世の中に なにとて松の つれなかるらん」で苦しかった胸の内を、
   小太郎の死の断腸の悲痛を、菅秀才の身代りとして野辺送り、
   このシーンのいろは送りの情緒連綿たる美学は、日本語の素晴らしい美しさがあってこそであろう。
   

   配役は、次の通り。
   園生の前 福助、千代 菊之助、戸浪 児太郎、涎くり与太郎 鷹之資、菅秀才 丑之助、百姓吾作 橘三郎、春藤玄蕃 又五郎、武部源蔵 幸四郎

   幸四郎の格調高き源蔵、存在感十二分の又五郎の玄蕃、
   菊之助の品格と児太郎の初々しさ、
   福助は姿を観られるだけでも幸運、
   涎くり与太郎の鷹之資、菅秀才の丑之助の成長を感じた舞台、
   今、考え得る最高の配役陣の寺子屋ではなかったかと思っている。







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国立小劇場・・・9月文楽「艶容女舞衣」

2019年09月18日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今回の「艶容女舞衣」は、お園の「今頃は半七さん。どこでどうしてござろうぞ・・・」の台詞で有名な「酒屋の段」と、死出の「道行霜夜の千日」。
   手代や丁稚までもが、「今頃半七さん・・・」と、出前の道すがら、謡っていたと言う。

   ストーリーは次の通り。
   元禄時代にあった茜屋半七(玉助)と島の内の遊女美濃屋三勝(一輔)の心の心中事件を題材にし、1773年1月18日大坂豊竹座で初演された。
   大坂上塩町の酒屋「茜屋」の息子半七(は、お園と言う妻がありながら、女舞芝居の芸人美濃屋三勝と恋仲になってお通(勘昇)という子供まで成して出奔し、三勝をめぐる鞘当がもとで今市善右衛門を殺害してお尋ね者。お園(清十郎)の父宗岸(玉也)が怒って、娘を連れ戻し、半七の父半兵衛(玉志)は、町役人に呼び出されて、縄目をかけられて帰ってくる。そこへ丁稚が捨て児を連れてくる。
   宗岸は、処女妻ではあるが、半七を思い続ける娘の貞節に負けて、お園を改めて嫁にやりたいと詫びを入れる。半兵衛は、お園の心根に心打たれるのだが、息子の罪を思いわざと冷淡なそぶりを見せ拒絶するが、宗岸に縄目のことを指摘され、お互いの子を思う気持ちが通じて和解する。
   一人残ったお園は「今頃は半七さん。どこでどうしてござろうぞ・・・去年の夏の患いにいっそ死んでしもうたらこうした難儀はせぬものを」と苦しい胸の内を切々と口説く。隣室で聞いていた半兵衛らが出てきてお園を慰める。
   お園の説明で、捨て児がお通とわかり、お通の懐から半七の書き置きが見つかり、四人で流し読むと、善右衛門殺しの責任を取って三勝との死を決意したと、半兵衛、お幸、宗岸あての別れの言葉が切々と書かれていて、最後に、お園に詫びの言葉と「未来は必ず夫婦」と書いてあって、お園は「ええ、こりゃ誠か。半七さん、うれしゅうござんす」と喜ぶ。
   そんな有様を、門口から覗き見ていた半七と三勝は、不幸をわび両手合せて伏し拝み、さらば、さらばと、死出の旅に出る。

    実際の浄瑠璃では、入れ違いに来た役人宮城十内が善右衛門が大盗賊であったことが分かって、半七の罪は放免となることを告げて半兵衛の縄を解き、半兵衛は急ぎ二人の後を追う。 ことになっている。
   しかし、この文楽では、次の幕、「道行霜夜の千日」で、情緒連綿たる悲しい死出の道行が演じられて、半七は脇差を三勝の胸に突き立て、自分の喉をかき切って果てる。

   さて、この文楽の主人公とも言うべきお園だが、中之巻で、出奔中の半七が、新町橋でお園を見かけて、大道易者の小屋に逃げ込み、お園が、知らずに、俄か易者に化けた半七に、占いを見て貰って、愛想づかしを言われて、半七の正体を見破る。「嫁入りしてからモウ3年、女房と言うは名ばかり、帯紐解かぬ他人向き」、よその女に入れあげて、抱いてももらえない処女妻でありながらも、ひたすら半七を慕い続けるいじらしい哀れな女である。
   その後、離縁したお園が、半七の勘当を解くために、三勝のところへ出向いて、三日でも良いから縁を切ってくれと頼みこんでいる。

   このお園が、今回の舞台で、半兵衛夫妻に手をついて、「いったん夫と決まった半七様、嫌われるはみな私が不調法。鈍に生まれたこの身の罪、今から随分お気にいるようにいたしましょう程に、やっぱり元の嫁娘とおっしゃって下さいませ。」と懇願し、
   哀切極まりないクドキでは、去年の秋の患いにイッソ死んで自分がいなければ、良かったのに、添い伏しは叶わずとも、お気にいらぬを知りながら、お傍に居たいと辛抱して・・・と心情を吐露する。
   半七に一途な愛慕の気持ちを失わず、恋しい、抱かれなくても側にいるだけで良い。しかし、自分がいない方が良いのではないかとの思い悩み、恨み辛みも微塵もない、自分の存在さえ責めて泣く。
   夫が罪人でも別れるのは嫌じゃ、妻であることを貫き通したい。
   それに、最後のダメ押しは、半七の書置きで、お園に詫びの言葉と「未来は必ず夫婦」と書いてあって、お園は「ええ、こりゃ誠か。半七さん、うれしゅうござんす」と喜ぶ。 と言うこの心境。
   このような女性の姿は、当時では普通だったと大谷晃一先生は言うのだが、今昔の感である。
   いい加減な人生を送って、あたら好意を無にして、来世で添おうなどと言った信じられないような戯言を言われて喜ぶと言う発想が、まず、分からない。

   お園の「今頃半七さん・・・」の舞台シーンだが、行燈に寄りかかるのと、戸口の柱にたたずむ二通りがあると言うのだが、清十郎のお園は、奥にあった行燈を正面に持ち出して、じっと頭を垂れて行燈の上縁を拭いながら、かき口説き始める。
   両袖で泣き入ったり、すねたり、大きく手を広げて前に手をついて夫に仕える仕草をしたり、優雅な後ろ振りを交えながら、憂き辛き思いを連綿とかき口説き舞い続ける。
   清十郎は、簑助とは違った雰囲気の女らしい女を遣う女形の最高峰の人形遣いだと思って、いつも、楽しみに観ている。目を瞑って、渋い顔ををしながら人形を遣っているのだが、それが、素晴らしく情感豊かで、生身の女性のようなビビッドな表情の女性像を紡ぎ出してくれるのである。

   一寸、気になったのは、肝心の舞台の重要な小道具の行燈だが、円錐形のプラスチック製のような、量販店で買ってきたような今様のもので、観客は江戸時代の雰囲気を期待しているのだから、紙と木とローソクの雰囲気のある古風な行燈で、やって欲しかった。
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国立小劇場・・・9月文楽「嬢景清八嶋日記」

2019年09月17日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今回の文楽「嬢景清八嶋日記」は、能「景清」からの脚色曲で、非常に、劇的な展開で面白かった。
   文楽の舞台では、やはり、芝居がかった演出に変わっていて、その差が面白いので、注視して観ていた。
   今回は、玉男の景清と簑助の娘糸滝を観たくて、最前列の正面席を取ったので、烈しい呼吸の息吹まで感じる熱演を鑑賞して幸せであった。

   まず、能「景清」のあらすじだが、銕仙会の説明をそのまま借用すると、
   鎌倉時代初頭。九州に流された平家の侍 景清を訪ねて、娘の人丸(ツレ)が従者(トモ)を連れて日向を訪れる。それと知らず景清の庵を訪れた二人であったが、景清(シテ)は自らの正体を隠し、「景清のことはよく知らない」と言って二人を帰す。次いで里人(ワキ)に景清の在所を尋ねた二人は、先程の人物こそ景清だと教えられ、再度景清の庵を訪れる。里人は人丸を景清に引き合わせるが、景清は今の境遇を嘆き、自分が名乗らなかったのは人丸の世間体を守るためだったと明かす。景清は所望されるままに、屋島の合戦での武勇を誇らしげに語るが、やがて我にかえり、今の身を恥じる。親子は別れの言葉を交わすと、人丸は、景清に見送られながら、宮崎の地をあとにするのだった。  

   さて、文楽「嬢景清八嶋日記」のほうだが、この能の舞台の「日向嶋の段」の前に、「花菱屋の段」があって、
   景清の娘糸滝は,日向の盲目の父を都に迎えて仕官させたいと願って金策のために、肝煎の佐治太夫を伝手にしてわが身を手越宿の花菱屋に売ろうとする。この孝心に感じ入った花菱屋の主人は、糸滝に金と暇を与えて、左次太夫を供につけて日向まで父を尋ねて行かせることにする。

   次の「日向嶋の段」は、能を踏襲していて、両眼を失って日向島に流された景清を、娘糸滝が訪れると、景清は、訪ねてきた娘を、父は餓死したと偽って追い返すが、里人の仲介で親子の対面を果たし、娘に抱き着かれて娘を引きよせ相抱き涙にくれる。
   このシーン、
   ・・・と縋りついて泣きければ、父の引き寄せ撫でさすり、もしやと我が子の顔見たげに、指で瞼を引っ張っても、暗きに迷ふ盲目の心の闇にかきくれて、前後も分かず見えけるが、・・・
   清経の人形は、この舞台のみの首で「清経」、俊寛のような雰囲気の首で、盲目ゆえに、眼球は真っ白だが、この目が真っ赤な目に変わり、壮絶た血の涙、糸滝をかき抱きながら、熱田の大宮司の娘との児で、女児なので足手まといになるので乳母にくれたれば、子でもないし親でもない、
   「親は子に迷わねども子は親に迷うたな。礼は言わぬ、出来しをつた。・・・」と言うのだが、
   剛毅でも意地を張っても、親は親、思い余って、・・・孤児の年端も行かず、誰を力に何とか暮らす。きかせてくれ。と肺腑をしぼる。
   「アイ」と応えて泣き崩れる糸滝に代わって佐治太夫が、身を売ったことを隠して豪農に嫁して幸せであり婿の親の配慮で景清士官の金を持たせたと説明すると、ど百姓の嫁などもっての外、何故、武士の身分を全うしなかったのかと凄い剣幕で叱りつけ、あざ丸の名剣を投げ与え、早く帰れと追い立てる。
   離れて行く船を追いながら、今は叱ったのは偽り、夫婦仲良く暮らせと叫ぶ。
   佐治太夫が里人に残した財布と文箱を開けて里人に読ませて、糸滝の書置きで、身を売って得た金であることを知って、景清は、地団駄踏んで慟哭して船影を追う。この後の清経の狂乱錯乱ぶりが凄い。
   「ヤレその子は売るまじ。・・・船よのう、返せ、戻れ」と声を上げ、心乱るる足弱車、・・・大地にがばと投げつけ打ち付け、苦しみは肝に焼金刺す、見えぬ目玉の飛び出るばかり、押しぬぐい押し擦り、大声上げて泣き口説く、理せめて哀れなり。
   頃は良しと、里人が、頼朝の隠れ隠密であったことを明かして頼朝の意を便へ、剛気に信義を貫いてきた景清も、娘の孝心と目付の説得に折れて源氏へと降参し、船に乗って鎌倉へ向かう。
   何故か、床本にはないが、玉男の景清は、大切に供養を続けていた重盛の位牌を取り出して海中に沈める。

   この舞台を見ると、能の「俊寛」や歌舞伎や文楽の近松門左衛門「平家女護島」の舞台と、完全にダブって、どうしても、見比べてしまう。
   俊寛の方は、自分だけ赦免されずに鬼界島に取り残されると言うシチュエーションで、景清の場合には、娘糸滝の身売りまでして自分を助けようとした孝心に気付かなかった悔恨だが、世捨て人と言う境涯にありながらも、人生の最後の最後に直面する断腸の悲痛を、どう生き抜くかと言うことである。
   それに、景清を残して嶋をさる糸滝と、平家物語の俊寛を残して去る有王とが、よく似たシチュエーションであり、感慨深い。

   今回の文楽「嬢景清八嶋日記」の玉男の景清の断末魔の悲痛は、俊寛の舞台よりはるかに真に迫って激しく、舞台狭しとのた打ち回る鬼気迫る迫力は、流石であって、断腸の悲痛を通り越して、人間の業と言うべきか、悲しさ哀れさ弱さ切なさなど一切を、舞台にたたきつけて、それが、美しくさえあるのである。
   歌舞伎と違って、人間の役者ではない、人形だからできる、そんな人形の動きを見て感動した。

   簑助の糸滝の可憐さ健気さ、近松の心中物のヒロインのように体当たりでぶつかって愛情表現するのではなく、控えめに父に寄り添ってしなだりかかる簑助の糸滝、その優しい必死の心根に応えて、玉男の清経は、見えぬ目を中空に仰いでひっしとかき抱く。
   少し体を外して、後ろにそり気味でじっと清経の顔を見上げる糸滝の可憐さ、正面を向いて微動だにしない清経だが、その健気な面立ちを眼に映し得れば、どれ程感動したか、しかし、盲目の悲しさ、父娘の思いが、すれ違っていて切ない。
   父に餓死したと騙されて絶望した時も、父に帰れと強要された時も、今回、簑助は、うつ伏して泣く糸滝の上体をを上下に震わせながら慟哭を表現していたが、舞台の進行に合わせて、人形とも思えないような美しい姿態表現で、流れるようにしなやかに、体全体で、心の動きを表現していて、感動して観ていた。
   それに、うしろぶりの美しさ。

   花菱屋の段の織太夫と清助、日向嶋の段の千歳太夫と富助の義太夫と三味線の素晴らしさは、言うまでもない。
   ただ、義太夫が、特に、日向嶋の段では、長セリフの漢語交じりの難しい表現が多くて、最前列であった所為もあって、字幕が読めなかったので、聴き取り難かったのが、一寸難であった。
   
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映画「LBJ ケネディの意志を継いだ男」

2019年09月15日 | 映画
   WOWOWで録画していた映画「LBJ ケネディの意志を継いだ男」を見た。
   民主党の院内総務と言う超ベテランの上院議員のリンドン・ジョンソンが、ケネディ大統領に副大統領に指名されて閑職を託っていたが、1963年11月22日、ダラスで暗殺されたケネディに代わって大統領に昇格し、ケネディの遺志を尊重して公民権法を成立させると言う劇的なアメリカ史を浮き彫りにした映画である。
   ケネディは、南部議員対策のために老練なジョンソンを起用したようなもので、飾り同様に閑職に干され、北部エリートのジョン・F・ケネディの弟ロバート・F・ケネディ司法長官から疎外され続け、人種差別反対の師弟関係にあったリチャード・ラッセル上院議員ほか南部議員から徹底的に公民権法に反発されながら、ケネディ大統領の意思を継いで、公民権法を成立させる。

   「スタンド・バイ・ミー」「ア・フュー・グッドメン」のロブ・ライナー監督で、「スリー・ビルボード」のウッディ・ハレルソンが、この第36代米大統領リンドン・ジョンソンを好演した政治ドラマで、副大統領の執務時には典型的な「外交儀礼用の副大統領」に終始し、国政の蚊帳の外に置かれながらも、一たび、大統領になると果敢に反対勢力を説得して、公民権法の成立を熱っぽく説いた上下両院合同議会での感動的な演説を行う。
   人種差別に対して否定的になり、公民権運動に理解を示したジョンソンは、公民権法の成立に向けてキング牧師などの公民権運動の指導者らと協議を重ねる傍ら、人種差別的な議員の反対に対して、院内総務を長年務めた経験を生かして粘り強く議会懐柔策を進めたと言うことで、南部の頑なな人種差別意識の染みついた議員たちへの説得シーンが非常に興味深い。

   ケネディは言論こそ巧みで、理想論を説いたが、実際には公民権法の成立への行動には躊躇していたようで、老練なジョンソンの意志の強さと行動力によってこそ、成立したようなものであろうか。
   タイトルの「LBJ ケネディの意志を継いだ男」と言うことであろう。
   1964年7月2日に公民権法に署名し、1965年8月6日に、選挙権登録における差別をなくすための投票権法にも署名し、連邦政府の介入で投票権の保障を強化することなどを定めて、アフリカ系アメリカ人への差別撤廃に対する積極的な姿勢を示した
   ワシントンのリンカーン記念堂から夜光に照り映えて輝くリンカン大統領の像を仰いで、「俺がこの国のケツを拭く」と呟く劇的シーンが印象的だが、この思いが、ジョンソンの最大のドライブ要因であったのであろう。

   次の大統領選挙では、共和党のバリー・ゴールドウォーターに大勝し、幸運にも、当時司法・行政・立法の三権がイデオロギー的に民主党系に同調していた時期に、大統領の職にあり、議会と大統領と最高裁判所が、ともに連邦政府の庇護のもとで、国民の権利拡大を図るべきだという思想を共有していたことが幸いして、貧困撲滅や教育振興や福利厚生の強化など「偉大な社会」構想を、どんどん推進したが、ヴェトナム戦争に深入りして泥沼に足を取られて人気が地に落ちて、次の大統領選出馬を断念した。

   今回の映画のタイトルは、LBJ、
   この呼称にたいして、JFKの向こうを張って、と批判されていたが、あくまで、ケネディの意思を継いでの公民権法の成立に焦点を当てたジョンソンの軌跡なので、自伝風に映画を作れば、また、大分違ったジョンソン像が見えたであろう。

   いずれにしろ、アフリカ系アメリカ人への人種差別の凄まじさは、私が、フィラデルフィアで勉強していた、1072年6月から1974年5月の間でも、まだ、その片鱗が色濃く残っていた。
   オバマ大統領が出現したことは、この公民権法が大きく貢献していると思うが、また、トランプ体制になって、人種差別的な動きが出てきており、憂慮される。
   ホモ・サピエンスの起源は、アフリカ。
   人類、悉く、平等、
   グローバル時代のコスモポリタンとしての心意気であろうと思うのだが。

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わが庭・・・ムラサキシキブ色づく

2019年09月14日 | わが庭の歳時記
   ムラサキシキブは、すっくと真っすぐに伸びた放射線状の細い枝に、6月頃に、葉腋から対に咲いた小花が小さな実を結び、秋になると、紫色の奇麗な実に色づく。
   わが庭には、たった、一株しかないのだが、これは、鉢植えで千葉から持ってきた黒椿ナイトライダーの株にくっ付いてきた小苗を、そのまま、椿と一緒に庭植えしたのが、やっと、成木になったものである。
   千葉の庭には、沢山の紫式部が植わっていて、門扉の横には、かなり大きな木に育って、豪華に輝いていた。
   この子供だから、私にとっては、思い出の詰まった大切な木なのである。
   初めて、ムラサキシキブを知ったのは、京都の学生時代に、確か、良く訪れていた詩仙堂の庭の清楚な佇まいに魅かれた時である。
   しかし、実際に庭植えしたのは、ずっと後になってからで、千葉の一戸建て住宅に移った時であった。
   秋を象徴する花木は、色々あるが、京都の思い出と連動しており、ムラサキシキブの色づきを見て、秋を感じている。
   
   
   

   わが庭は、植木が主体で、花壇らしきところも、花木が占領していて、草花を植えるような花壇がないので、今は、色彩に乏しい。
   少し色づき始めたのは、トラノオの仲間などで、薄紫の色の小花を咲かせ始めた。
   これらの花は、特に意識して植えなくても、木陰や適当な緑地の空間から芽を出して、花を咲かせてくれるので、ずぼらなガーデニング愛好家の私には適しているのである。
   
   
   
   

   初旬に施肥しておいたのだが、椿とバラの鉢苗に、液肥ハイポネックスを施した。
   今年は、挿し木や実生の椿の幼苗の何本かに、花芽がついているので、楽しみにしている。
   バラも、10月には、何鉢かは咲かせたいと思っている。
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台風15号による甚大な停電被害

2019年09月13日 | 政治・経済・社会
   今回、首都圏を襲った台風15号による停電の被害で、住民の日常生活のみならず、町工場や農漁業など、産業にも甚大な影響を与えており、まだ、収束のめどがついていないと言う。

   いろいろな原因があるであろうが、最大の要因は、「電線の地中化」をやっていなかったことに尽きると思っている。(千葉の電柱倒壊・損傷2000本 台風15号被害、経産省試算 と産経が報道)
   以前には、欧米に倣って、「無電柱化」「電線地中化」を目指す動きがあったようだが、
   太平洋戦争で都市が焼け野原になり、速やかに復興するために、電線を地中に埋設すると、架空線をかけるよりも高い費用がかかるので、当座一時的にと言うことで、電柱が立てられた。ところが、その後、高度経済成長期に突入し、電気や電話の需要が一気に高まって、一時的であった筈の電柱を、どんどん無秩序に立てて対応しなければなかったので、「無電柱化」「電線地中化」は無視されて今日に至っている。
   安上がりで安直な戦後復興を遂げ、Japan as No.1へと快進撃したものの、そのツケが、今、重大な障害となって日本を苦しめている。
   ある調査によると、欧米は100%、香港や台北やシンガポールもほぼ100%近く、ソウルで46%、ジャカルタで36%無電柱化されているが、東京23区は8%、恐ろしい程文明果てる都市で、恥ずかしい限りである。

   まず、「電柱や電線があると、景観が悪くなる」のは必定である。
   この口絵写真は、ボストンの一角だが、地上には、街灯しかない。
   私は、欧米に長く居たので、痛切に感じているのだが、電柱や電線のない風景の素晴らしさは格別で、電線を張り巡らせて青空さえ真面に鑑賞できない日本の都市景観の醜さとは、比較にならない。
   京都の三年坂が美しいのは、少なくとも、電柱のない江戸風景を維持しようとしているためである。
   悲しいことに、当時の美意識や民度から、遥かに下落してしまって、何が、日本人の誇り高き文化か疑いたくなるような国籍不明の今日の都市景観のお粗末さ、
   各地に復元された小京都に集う外人観光客、ヨーロッパの風格ある古都にも劣らない、あのような美しくて心地よいアットホームな生活環境が、本来の日本だったのである。

   災害時には、電柱の倒壊がおこり危険だが、阪神淡路大震災の時には、倒れた電柱や電線が道路をふさぎ、消防車や救急車の通行を妨げ、火事の鎮火や救護、物資の輸送が遅れてしまい、大きな問題になった。
   今回の千葉の停電などは、倒木などの影響で復旧作業が難航している。
   倒木や電線や電柱に飛来した障害物が被害を増幅し、多くの倒木を切断撤去するのが大変だと言うのである。
   勿論、電信柱システムにも利点があって、無電柱化にも、デメリットがあるので、完全に、電信柱が悪いとは言えないであろうが、今回のあまりにも後手後手に回って、セーフティラインの命とも言うべき電気の復旧に時間を要して困難を極めているのは、「無電柱化」「電線地中化」を怠った故である。

   時を見て、「無電柱化」「電線地中化」を進めるべきだと思うが、地中に埋まっているガス管や水道管とのかねあいや、地盤の液状化による地中線被害の心配や、それに、困難な道路工事等膨大な費用がかかるであろうし、今の電柱システムの解消にも役所や利害関係者との調整など、さらに困難とコストが増す。
   少なくとも、今後、新開発や再開発事業には、「無電柱化」「電線地中化」を義務付けて、徹底的に、景観と安全を保護すべきだと思う。
   
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木村泰司著「巨匠たちの迷宮 (名画の言い分) 」

2019年09月12日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   再び、木村泰司の本、
   この本は、盛期ルネサンス以降のバロック絵画の巨匠たち8人の絵画論である。
   この中で、オランダに3年間住んで居た所為もあって、一番親しみを持って鑑賞してきた画家は、レンブラントとフェルメールであり、実際に、レンブラントの故地ライデンやアムステルダム、フェルメールのデルフトなども歩いてきており、また、意識して、二人の作品を鑑賞するために、世界の美術館を巡ってきたので、このれらの項は、楽しく読んだ。

   レンブラントが、あれだけの画業を輝かせ業績を残せたのは、彼の才能や努力もあろうが、当時のアムステルダムが、世界で最も栄えた文化文明の絶頂期にあって、いわば、質の違いは多少あったとしても、ルネサンス時のようなメディチ効果が現出されていたためだと思えて興味深かった。
   当時、アムステルダムには、世界中のものが何でも集まって来ていて、収集癖のあったレンブラントは、日本の兜を持っていたと言うのである。

   アムステルダム国立美術館に行って、最初に驚くのは、レンブラントの巨大な「夜警」の絵だが、レンブラントが一躍名声を博しスーパースターとなったのが、同様の集団肖像画であるマウリッツハイス美術館にある「トゥルプ博士の解剖学講義」だったと言う。
   集団肖像画と言っても、記念写真のような整列して全員正面を向いた肖像画ではなくて、芝居の舞台の一瞬を切り取ったようなドラマチックな絵画なので、「夜警」など、余計な人物が幅を利かせたり、描かれた人物に差があり過ぎて、同じ100ギルダーを出した依頼人から苦情が出たと言うのは当然であろうが、レンブラントの創作魂が、傑作を生んだのであるから貴重な絵画の記念碑であろう。

   当時、オランダ絵画の黄金期で、絵画ブームに沸いていたが、絵画は、チューリップのように投機商品でもあり、画家は市場が好むような絵を描いて画商に託すと言うプレタポルテのような美術市場が確立されていた。
   オランダは、プロテスタンの国で、教会からの大きな宗教画の注文もなく、絶対王政を敷く専制君主も君臨せず、従来需要が高かった巨大な歴史画や宗教画に変わって、顧客は富裕な一般市民であったので、絵画の需要は、風景画や静物画、風俗画、人物画などの小品に移っていた。
   ところが、レンブラントは、様々なジャンルの絵を描いていて、旧約聖書の世界のみならず新約聖書のキリストの受難も描いており、ギリシャ神話も主題にしており、私が、最近、やっと巡り合えたエルミタージュ美術館の「ダナエ」など、途轍もなく感動的で美しい。

   晩年のレンブラントの凋落は、私生活の乱れもあったようだが、大衆の恐ろしさとしての急激な好みの変化で、オランダ人の嗜好が、レンブラントの個性的で重厚な画風から離れて行ったのだと言う。
   人は財を成して社会的な地位を築くと、お金で買えない者、例えば、「優雅さ」を求め、フランドル人画家ヴァン・ダイクの影響を受けた宮廷風な様式やフランス絵画的な優雅な画風に移って行ったと言うのである。
   現在も、巨万の富を築いても、あるいは、功成り名を遂げても、知識や教養、美意識の涵養などは、付け刃が利かないので、似非環境で飾り立てようとするようなものであろうか。

   さて、私が、フェルメールに感激したのは、1973年、留学先のフィラデルフィアから、フランスからの留学生のクリスマス休暇帰国のエールフランスのチャーター便に便乗して、アムステルダム国立美術館で、「牛乳を注ぐ女」を見た時。特に、主婦の腕にまくり上げたシャツの辛子色からくすんだ黄色に変わって行くグラディユエーションとその微妙な美しさが強烈に印象に残っている。
   1980年に入って何度か出張し、1985年以降住んで居たので、何度、この絵を見に訪れたか分からないが、ハーグのマウリッツハイス美術館で、「真珠の耳飾りの少女」「デルフト風景」などを見て、一気にフェルメールに傾倒し、デルフトを訪れては、フェルメールの雰囲気を探索して味わい、幸い、欧米に住んだり歩く機会が多かったので、35前後しか残っていないフェルメールの作品を30以上は、実際に見る機会を得て感動し続けている。
   フェルメールの絵の大半は、左側に窓があって、その傍に佇んで、淡い光を帯びて何かをしている女性、時には、男性の人物像なのだが、気付かなかったのは、初期の「取り持ち女」の、娼家の絵で、男性客が、女性の胸を鷲掴みにしている絵で、こんな絵を描いたのかと言う驚き。ドレスデン国立絵画館に展示されているので、記憶にはないが、見ている筈である。

   レンブラントの時代は、バブル景気に沸く黄金時代であったが、フェルメールの時代には、英蘭戦争が勃発し、フランスの侵入を受けて、経済的にも文化的にも厳しい状況に追い込まれて、大変であったと言う。
   父の居酒屋・宿屋「メーヘンレン」や美術商の継承や、財産のあった富裕な妻方のサポートなどで、画業には支障がなかったと言う。
   贔屓筋の援助もあったのだが、「真珠の耳飾りの少女」のように、純金と同じくらいに高かったラピスラズリを使った顔料ウルトラマリンの青を使って、ターバンを描けたのである。

   フェルメールは、レンブラントのように工房経営者でもなく弟子もいなかったので、美術商をしたり、美術教師をするなど、何足かの草鞋を履いた生活をしていた。
   初期には、歴史画や風景画を描いていたようだが、その後、風俗画および風俗画的性格を持つ「真珠の耳飾りの女」のような、トロニーと呼ばれる頭部肖像画に専念するようになったと言う。
 
   とにかく、小品で寡作なので、人気が出たのは、ずっと後、「19世紀に脚光を浴びた慎ましやかな巨匠」と言う訳である。
   フェルメールの描いた世界は、市民階級を描いた作品なのに、その卓越した技法によって風俗画の域を超え、品格を感じさせる温かみのある筆触は独特の味があって人気が高い。
   1970年から90年にかけて、フェルメールの作品4点が、5回にわたって盗難に遭い、「合奏」は、いまだに行くへ不明だと言う。
   
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颱風15号一過、猛烈な暑さ

2019年09月09日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   颱風15号が、真夜中の2時ごろか、鎌倉の極直近、三浦半島に上陸した。
   猛烈な風雨を感じながら、殆ど意識せずに、寝ていたので、これまでに来襲した最強の颱風だと言われても、その意識がない。
   朝起きて、家の周りをチェックしたら、北側の金属製のフェンスと、その内側の風呂の目隠しのコンクリート柱の竹塀が倒れて、その横の5メートルほどの柿の木が、2メートルくらいのところで、真っ二つに折れていた。
   家の南と東側は、住宅に面しているのだが、北側と西側は、少し距離をおいて、2~3メートル段差の下に小川が流れていて、やや、斜面気味のオープンな地形になっているので、この方から吹き上げた風雨の影響であろう。
   被害は、これくらいで済んだのだが、数軒先の家の北面の窓ガラスが、二部屋分割れていたので、強烈な風雨に、それも、深夜に急襲されて、大変であっただろうと思った。
   最近の家は、欧米風に、ガラス窓とカーテンで、雨戸のない家が結構多いのだが、自然災害の多い日本では、雨戸は必須だろうと思う。

   心配していた鉢花の被害も、思ったより軽微に済んだ。
   バラの鉢は、転がっただけであった。
   椿の鉢は、数が多いので、家の中に取り込むわけにもいかず、軒下に接近して並べただけだったので、鉢は、あっちこっち転がって、小さな鉢の中には、苗木が抜け出て飛ばされていたものもあったが、まだ、根が乾いていなかったので、植え替えだけで済んだ。

   大変だったのは、庭木の小枝の折れたものや、本来ならまだ落ちない筈の落ち葉が、辺り一面に散乱して、足の踏み場もないような状態になっていたことで、庭はともかく、真っ先に、道路に広がった落ち葉や枯れ枝を、掃除することであった。
   嵐の去った翌朝は、良い天気で、まだ9月初旬なので、急激に、猛暑がぶり返してきた。
   孫娘が、幼稚園を休んだので、アップダウンの激しい坂道の送り迎えのなかったのを幸い、老骨に鞭を打って、庭の大まかな片付けと街路の掃除を行った。

   寺田寅彦は、どこかで、日本は自然災害が多いが、この新陳代謝が、日本の文化を育んできたのだと言っていたような気がするのだが、被害に遭って大変な目に合っている人々のことを考えると、そんな悠長な気にはなれない。

   私が、台風で、最も記憶に残っているのは、もう、半世紀以上も前の子供の頃、京阪神間を襲ったジエーン台風。
   当時、田舎家に住んでいたので、木製の大きな門が吹っ飛ぶのを見て、自然の脅威にびっくりしたのを思い出す。
   当時は、アメリカに倣って、台風は、アメリカ人の女性の名前で呼ばれていたのである。
   その後、著名な台風は、伊勢湾台風などと称されるようになって記憶に残っているが、今のナンバー台風では、年度を付けないと判別が出来ない。

   アメリカの東部海岸を襲うハリケーン、インド洋のサイクロン、東南アジアのタイフーン、
   これが、地球上の大嵐であるが、
   ヨーロッパでは、台風があるのかないのか、
   地理的にヨーロッパまで到達するほどの熱帯性低気圧が発生することは、殆どないので、ないと言った方が良いかも知れない。
   しかし、8年間、ヨーロッパに住んでいて、一度だけ巨大な台風級の大嵐にあった。
   当然、台風などと言う言い方はないので、すべて、ゲイル(Gale 大風、疾風、強風、爆発、あらし)である。
   私が住んでいたすく側のキューガーデンの何百年も経った貴重な巨木が、ばたばた、倒壊した。
   その日、大嵐が小康状態のアムステラダムから、ロンドン経由で、日本へ出張したのだが、KLMが遅れて、予定のJALに乗れなかったものの、遅れて、BAに乗り換えて東京に向かった。
   日本のように、気候がどうだと言わずに、ヨーロッパでは、飛行機は飛ぶので、気にせず乗っていたが、ところ変われば・・・である。
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