9月の特別公演 梅若実の「蘇東坡小町 そとわこまち」。
大分前に、片山融雪の「関寺小町」を観ているので、100歳の老いさらばえた小野小町のイメージは湧くのだが、私の小町の老女イメージは、歴史散歩に明け暮れていた若かりし頃、山科の南の小野にある随心院で見た卒塔婆小町像である。
絶世の美女と言ったイメージなど、100歳の老女に期待しても無理な相談だが、痩せこけたぼろぼろの姿ではなく、老いてはいるが、まだ、一癖ありそうな風貌であった。
日経の記事によると、「絶世の美女」とされるのも状況証拠でしかない。小野貞樹、文屋康秀ら歴史書に名を残す男たちと、しゃれた歌のやり取りを残しているため、美人でモテたに違いないというわけだ。と言うことである。
100歳は、いざ知らず、歳老いても、益々、チャーミングに輝くレディもおられるので、彫刻家の思いが意味深で興味深い。
インターネットの画像を借りると、次の通り。
「卒塔婆小町」のストーリーは、ほぼ、次の通り。
高野山で修行した二人の僧(ワキ/宝生欣也・ワキツレ/大日方寛)が阿倍野の松原で、一人の老女(シテ/梅若実)が現れて、卒都婆に腰を掛けて休んだので、見咎めて説教をはじめると、逆に、老女は、弁舌鮮やかに仏法の奥疑を説いて反論し、僧たちを屈服させる。この老女は、若かりし頃は、美貌と才覚を誇った小野小町のなれの果てであっって、華やかな昔を懐かしみ、今の零落ぶりを恥じていたが、にわかに狂乱状態になって、自分に恋慕して亡くなった深草少将の執心を語り始める。少将の怨念が、老体の小町の体に取り憑いたもので、百夜通いの有様を見せるが、やがて、我に返って、仏に仕えて悟りの道を願って消えて行く。
さて、殆ど実像が明らかに残っていない小野小町が、何故、能の老女ものに名作が残っているのか不思議に思っていたのだが、銕仙会の解説では、
『玉造小町壮衰書』と言う作品で、玉造小町という美貌の女性が年老いて零落してしまった様子が描かれていて、能楽の成立した中世には、この主人公・玉造小町を小野小町の別名だとする理解がなされ、小町伝説が作られてゆく上で重要な役割を果たした。この年老いて零落した小町のイメージに、もうひとつ「深草少将の百夜通い」の故事を交えて、この二つのイメージを結びつけることで、少将の執心ゆえに死ぬこともできず苦しみ続ける小町の残酷な運命が描き出されている。と言うのである。
しかし、この能の眼目の一つは、僧たちを論破する小町の宗教論議であろう。
「極楽の内ならばこそ悪しからめそとは何かは苦しかるべき・・・」
「邪正一如」「煩悩即菩提」「一切無差別」禅的思想なので、真言僧と辻褄があったのかどうか。
尤も、小町の言ではなく観阿弥の宗教観なのであろうが、良く分からないが、前半の山場であろうか。
この高邁な宗教論を説く小町が、無残にも老醜を通り越して、朽ち果てた姿で、垢まみれの衣に飯袋をぶらさげ、物乞いをして日々を暮らし、施しを得られぬ時は癇癪を起こし狂気に変身する・・・
僧たちに向かって、傘を差しだして、「なう物賜べなうお僧なう」と物乞いした瞬間に、深草少将の霊が乗り移って変身すると言う凄まじい舞台が展開されて行く。
小町の登場、橋掛りの出は、途中の休憩を含め、百年の人生の歩みの深さを、歩行と言う能らしい最小の象徴的表現方法によって描き出していると言う説明なので注視していた。
脇正面前方中央の席だったので、橋掛かりを一番見ずらい状態であったのだが、
シテは、左足を前に歩ませて、ほんの僅かな間をおいて、右手の杖を突き、右足を少し左足の前に出る程度に進めて、ゆっくりゆっくりと舞台へ向かう。杖の音は、微かに聞こえる程度で、途中、三の松の前で、小休止。
ラストシーンは、「悟りの道に入らうよ」の地謡にのって、橋掛かりを目指して歩み始め、出の時よりは少しテンポを上げて、杖の音も普通に聞かせて歩み行き、二と三の松の間で立ち止まって、見所を向いて左袖を巻き上げて小休止、その後、ゆっくりと、美しく流麗な笛の音に伴われて、揚幕に消えて行く。
五大老女物の一つだと言う。
2013年に、大槻 文藏の小野小町の舞台を観て居る筈なのだが、記憶はない。超ベテランのトップ能楽師の舞う曲であるから、今回は、大変貴重な経験であった。
大分前に、片山融雪の「関寺小町」を観ているので、100歳の老いさらばえた小野小町のイメージは湧くのだが、私の小町の老女イメージは、歴史散歩に明け暮れていた若かりし頃、山科の南の小野にある随心院で見た卒塔婆小町像である。
絶世の美女と言ったイメージなど、100歳の老女に期待しても無理な相談だが、痩せこけたぼろぼろの姿ではなく、老いてはいるが、まだ、一癖ありそうな風貌であった。
日経の記事によると、「絶世の美女」とされるのも状況証拠でしかない。小野貞樹、文屋康秀ら歴史書に名を残す男たちと、しゃれた歌のやり取りを残しているため、美人でモテたに違いないというわけだ。と言うことである。
100歳は、いざ知らず、歳老いても、益々、チャーミングに輝くレディもおられるので、彫刻家の思いが意味深で興味深い。
インターネットの画像を借りると、次の通り。
「卒塔婆小町」のストーリーは、ほぼ、次の通り。
高野山で修行した二人の僧(ワキ/宝生欣也・ワキツレ/大日方寛)が阿倍野の松原で、一人の老女(シテ/梅若実)が現れて、卒都婆に腰を掛けて休んだので、見咎めて説教をはじめると、逆に、老女は、弁舌鮮やかに仏法の奥疑を説いて反論し、僧たちを屈服させる。この老女は、若かりし頃は、美貌と才覚を誇った小野小町のなれの果てであっって、華やかな昔を懐かしみ、今の零落ぶりを恥じていたが、にわかに狂乱状態になって、自分に恋慕して亡くなった深草少将の執心を語り始める。少将の怨念が、老体の小町の体に取り憑いたもので、百夜通いの有様を見せるが、やがて、我に返って、仏に仕えて悟りの道を願って消えて行く。
さて、殆ど実像が明らかに残っていない小野小町が、何故、能の老女ものに名作が残っているのか不思議に思っていたのだが、銕仙会の解説では、
『玉造小町壮衰書』と言う作品で、玉造小町という美貌の女性が年老いて零落してしまった様子が描かれていて、能楽の成立した中世には、この主人公・玉造小町を小野小町の別名だとする理解がなされ、小町伝説が作られてゆく上で重要な役割を果たした。この年老いて零落した小町のイメージに、もうひとつ「深草少将の百夜通い」の故事を交えて、この二つのイメージを結びつけることで、少将の執心ゆえに死ぬこともできず苦しみ続ける小町の残酷な運命が描き出されている。と言うのである。
しかし、この能の眼目の一つは、僧たちを論破する小町の宗教論議であろう。
「極楽の内ならばこそ悪しからめそとは何かは苦しかるべき・・・」
「邪正一如」「煩悩即菩提」「一切無差別」禅的思想なので、真言僧と辻褄があったのかどうか。
尤も、小町の言ではなく観阿弥の宗教観なのであろうが、良く分からないが、前半の山場であろうか。
この高邁な宗教論を説く小町が、無残にも老醜を通り越して、朽ち果てた姿で、垢まみれの衣に飯袋をぶらさげ、物乞いをして日々を暮らし、施しを得られぬ時は癇癪を起こし狂気に変身する・・・
僧たちに向かって、傘を差しだして、「なう物賜べなうお僧なう」と物乞いした瞬間に、深草少将の霊が乗り移って変身すると言う凄まじい舞台が展開されて行く。
小町の登場、橋掛りの出は、途中の休憩を含め、百年の人生の歩みの深さを、歩行と言う能らしい最小の象徴的表現方法によって描き出していると言う説明なので注視していた。
脇正面前方中央の席だったので、橋掛かりを一番見ずらい状態であったのだが、
シテは、左足を前に歩ませて、ほんの僅かな間をおいて、右手の杖を突き、右足を少し左足の前に出る程度に進めて、ゆっくりゆっくりと舞台へ向かう。杖の音は、微かに聞こえる程度で、途中、三の松の前で、小休止。
ラストシーンは、「悟りの道に入らうよ」の地謡にのって、橋掛かりを目指して歩み始め、出の時よりは少しテンポを上げて、杖の音も普通に聞かせて歩み行き、二と三の松の間で立ち止まって、見所を向いて左袖を巻き上げて小休止、その後、ゆっくりと、美しく流麗な笛の音に伴われて、揚幕に消えて行く。
五大老女物の一つだと言う。
2013年に、大槻 文藏の小野小町の舞台を観て居る筈なのだが、記憶はない。超ベテランのトップ能楽師の舞う曲であるから、今回は、大変貴重な経験であった。