ミートホープなどと言う意味不明の和製英語名の会社が世間を騒がせているが、これなどは古い形の経営の腐敗である。
しかし、NOVAやコムスンなどの場合は、新しい時代の潮流と言うか時流に乗って生まれ出でたる新規事業で、云わば、今様ベンチャー企業の、マネジメント体制の不備による典型的な不祥事のケースである。
久しぶりにドラッカーを読みたくなって、22年前の著書「イノベーションと企業家精神」を読んでみたのだが、ベンチャー企業についての面白い記述があって、これらの2社の不祥事を考えるのに参考になった。(余談だが、この本、決して色あせては居ない現役の経営学書である。)
ドラッカーは、”ベンチャーは、いかにアイデアが素晴らしくとも、いかに資金を集めようとも、いかに製品が優れていようとも、いかに需要が多くとも、事業としてマネジメントされなければ生き残れない。
19世紀最高の発明家トーマス・エジソンは、このことを理解できなかったために手がけた事業の総てに失敗した。マネジメントとはボスであると考えていた彼は、マネジメントのチームをつくらなかった・・・”
回りくどい説明など不要で、要するに、NOVAの場合も、コムスン(と言うよりもグッドウイル)の場合も、ベンチャー企業がその成長過程で、金儲けの才覚には長けているが本来のあるべきマネジメント能力に欠けるワンマン社長が、暴走したケースであり、更に、遵法精神に欠け、企業道徳まで喪失して、政府の補助金事業を悪用して、本来社会に貢献すべき教育や福祉までも食い物にしたと言う単純な事件である。
勿論、ドラッカーは、悪徳経営者によるベンチャーは想定していないので、これらのケースは問題外ではある。
余談だが、ヒューマニズムの発露か性格かは分からないが、ドラッカーの本には、最近の自分で自分の報酬を引き揚げる経営者を非難した以外は、悪徳経営者についての記述は皆無に近い。
この本でドラーカーが強調しているのは、成功のためには、トップマネジメントチームを実際に必要となるずっと以前から用意しておくことと、事業拡大と継続のために創業者は自らの役割、責任、位置づけについて何が適切かを見極めて対処すべしと言っているのである。
要するに、企業家としての創業者の使命は、自分自身の意思とは関わりなく企業家精神を会社組織の中にビルトインして経営すべしと言うことで、ワンマンであったり、暴走してはならないと云うことである。特に、ドラッカーは、創業者に対抗できるご意見番、第三者の助言の必要性を強調しており、創業者の規律のない放縦、独裁への堕落を戒めている。
継承が上手く行かないと、カリスマ的な初代が逝くと崩壊する企業が殆どだし、経営チームの構築に失敗して、自分を導き支える同僚の経営者を擁することの出来なかった企業も成長が頓挫したり問題を起こすケースが多いのは、この辺の事情であろう。
これらベンチャー企業の不祥事と挫折については、ヒューザーやブックオフ、ライブドア問題などにも相通じるところがあるが、企業道徳やモラルの欠如した企業家精神旺盛なイノベーターかつ創業者が暴走すると、マネジメント機能は勿論カウンターベイリングパワーが働かず、行き着くところまで行かないと止まらないと云うことである。
それに、世の中が複雑になり変化が激しくなってきており、高度なマネジメント能力を欠いて、アイデアと金儲けだけに長けた経営者であるというだけでは、企業を操縦できなくなって来ているのである。
江戸時代や明治時代の創業者の創った家訓や社訓と言った商業道徳に裏打ちされた企業家精神は消えてしまったのであろうか。
日本社会、特に、経済社会体制が、アメリカ型に傾斜し、その会社経営や商習慣の導入が進めば進むほど、ルール違反者は徹底的に追及して厳しく罰するなどといった社会的制裁を科す以外に方法がないのかも知れない。
(追記)写真は、南天の花。
しかし、NOVAやコムスンなどの場合は、新しい時代の潮流と言うか時流に乗って生まれ出でたる新規事業で、云わば、今様ベンチャー企業の、マネジメント体制の不備による典型的な不祥事のケースである。
久しぶりにドラッカーを読みたくなって、22年前の著書「イノベーションと企業家精神」を読んでみたのだが、ベンチャー企業についての面白い記述があって、これらの2社の不祥事を考えるのに参考になった。(余談だが、この本、決して色あせては居ない現役の経営学書である。)
ドラッカーは、”ベンチャーは、いかにアイデアが素晴らしくとも、いかに資金を集めようとも、いかに製品が優れていようとも、いかに需要が多くとも、事業としてマネジメントされなければ生き残れない。
19世紀最高の発明家トーマス・エジソンは、このことを理解できなかったために手がけた事業の総てに失敗した。マネジメントとはボスであると考えていた彼は、マネジメントのチームをつくらなかった・・・”
回りくどい説明など不要で、要するに、NOVAの場合も、コムスン(と言うよりもグッドウイル)の場合も、ベンチャー企業がその成長過程で、金儲けの才覚には長けているが本来のあるべきマネジメント能力に欠けるワンマン社長が、暴走したケースであり、更に、遵法精神に欠け、企業道徳まで喪失して、政府の補助金事業を悪用して、本来社会に貢献すべき教育や福祉までも食い物にしたと言う単純な事件である。
勿論、ドラッカーは、悪徳経営者によるベンチャーは想定していないので、これらのケースは問題外ではある。
余談だが、ヒューマニズムの発露か性格かは分からないが、ドラッカーの本には、最近の自分で自分の報酬を引き揚げる経営者を非難した以外は、悪徳経営者についての記述は皆無に近い。
この本でドラーカーが強調しているのは、成功のためには、トップマネジメントチームを実際に必要となるずっと以前から用意しておくことと、事業拡大と継続のために創業者は自らの役割、責任、位置づけについて何が適切かを見極めて対処すべしと言っているのである。
要するに、企業家としての創業者の使命は、自分自身の意思とは関わりなく企業家精神を会社組織の中にビルトインして経営すべしと言うことで、ワンマンであったり、暴走してはならないと云うことである。特に、ドラッカーは、創業者に対抗できるご意見番、第三者の助言の必要性を強調しており、創業者の規律のない放縦、独裁への堕落を戒めている。
継承が上手く行かないと、カリスマ的な初代が逝くと崩壊する企業が殆どだし、経営チームの構築に失敗して、自分を導き支える同僚の経営者を擁することの出来なかった企業も成長が頓挫したり問題を起こすケースが多いのは、この辺の事情であろう。
これらベンチャー企業の不祥事と挫折については、ヒューザーやブックオフ、ライブドア問題などにも相通じるところがあるが、企業道徳やモラルの欠如した企業家精神旺盛なイノベーターかつ創業者が暴走すると、マネジメント機能は勿論カウンターベイリングパワーが働かず、行き着くところまで行かないと止まらないと云うことである。
それに、世の中が複雑になり変化が激しくなってきており、高度なマネジメント能力を欠いて、アイデアと金儲けだけに長けた経営者であるというだけでは、企業を操縦できなくなって来ているのである。
江戸時代や明治時代の創業者の創った家訓や社訓と言った商業道徳に裏打ちされた企業家精神は消えてしまったのであろうか。
日本社会、特に、経済社会体制が、アメリカ型に傾斜し、その会社経営や商習慣の導入が進めば進むほど、ルール違反者は徹底的に追及して厳しく罰するなどといった社会的制裁を科す以外に方法がないのかも知れない。
(追記)写真は、南天の花。