熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

構造的失業論は逃げ口上~ポール・クルーグマン

2010年09月29日 | 政治・経済・社会
   クルーグマンが、ニューヨーク・タイムズのコラム「Structure of Excuses」で、アメリカの高い失業率は、一般論である、仕事はあるのだが労働者がその仕事に不適であるとか、その仕事も不都合なところにあったり、仕事に適合したスキルがないなどと言った構造的な要因で起こっており、問題の解決には時間がかかると言う考え方に、真っ向から、根拠なしと反論している。
   アメリカのこの高失業は、需要の不足以外の何物でもなく、失業危機は、知的な明快さと行動を起こす政治的意思があれば、速やかに解決すると説く。

   現実には、構造的失業などではなく、中小企業では、熟練労働者でも就業出来ず、失業率が5%以下と言うのは小さな州の3箇所しかなく、あらゆる主要業務分野で失業率が増えており、多くの労働者がパートタイムに追い込まれているのだと言う。
   なぜ、現実に反する構造摩擦失業論が、そんなに勢力を持つのか、それは、大恐慌時などの大不況の時の経験が影を落としているからである。

   しかし、あの時も、当初は、高失業は労働側の不適応や未熟練が原因だと言われていたが、戦争景気で需要が持ち直すと、一挙に労働問題は解決した。
   ミネアポリス連銀のコチャラコタ総裁やクリントン元大統領などの構造摩擦論を取り上げて反論しているが、要するに、
   需要さえ、十分となり、経済が活況をていすれば、失業問題は解決すると言うのが、クルーグマンの主張である。

   したがって、現在、強力な多くの反対勢力が、イデオルギー的に、経済を浮揚するために十分な規模の経済政策を政府が打とうとしているにも拘わらず、悉く反対して実行できなくなってしまっている。
   構造的な問題に直面しているので問題解決は大変だと言うクレイム論が蔓延するばかりで、しからば、現下の経済社会を麻痺させている大量失業をどのように解決すれば良いのかと言う提言は何もない。
   構造的失業など存在しない、これは、エクスキュースにしか過ぎない。
   アメリカの現下の緊急事は、オバマ政権の経済政策を遂行するアクションあるのみである、とクルーグマンは説いている。  

    私自身は、ヨーロッパや日本のように成熟した先進国では、最早、クルーグマンの説くようなケインズ的需要拡大政策の効果は薄いと思うが、人口が増え続けるなど経済的な若さがあり、市場原理が作用し自由経済が活況を呈する余地が多分に残っているアメリカでは、十分に需要政策は効果があり、インフラが老朽化するなどアメリカの経済構造にガタがきていることを考えれば、ある段階までは、オーバーホールの意味からも、サプライサイドが起動し始めるまで、ディマンドサイド側からのサポートは有効であろうと思う。

   さて、日本だが、同じように、民主党の迷走とねじれ国会の問題もあって、深刻な経済不況からの脱却をどうするか、与野党間の激しい論戦が続いている。
   まず、2010年度補正予算の編成をどうするかだが、細かいところでは、いろいろ議論はあるであろうが、クルーグマンの説くように、とにかく、緊急時であるから、アクションを一刻も早くとることが肝要であろう。

   私自身は、これまで、何度もこのブログで論じた如く、経済成長なき経済問題の解決はあり得ない、1にも2にも、経済成長であり、イノベーションの追及意外に日本の活路はないと言うのが持論だが、とにかく、補正予算は、短期決戦の緊急事項であるから、不毛な議論よりも、一刻も早い実行だと思っている。
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国立劇場九月文楽~「良弁杉由来」「桂川連理柵」

2010年09月27日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   9月の文楽鑑賞については、先に「鰯売恋曳網」について感想を書いたが、文雀と和生の「良弁杉由来」と、簔助と勘十郎の「桂川連理柵」も素晴らしい舞台で楽しませて貰った。
   しかし、いつも思うのだが、この国立劇場で困るのは、朝昼通して文楽を鑑賞すると、特に座席の椅子が悪いので、足腰に堪えて後半には耐えがたくなることである。
   
   良弁杉については、以前に、仁左衛門の崇高とも言うべき良弁と芝翫の渚の方の歌舞伎の素晴らしい舞台を見た感想と、桂川については、今回と同様の簔助と勘十郎が初めて組んだ文楽について、このブログで印象記を書いているのだが、5年前に私用があって中座して見られなかった桂川の舞台が、蓑助と玉男の最後の舞台だったような気がして、今でも残念に思っている。
   メトロポリタン・オペラなどでは、アーカイブ情報の検索で、過去の古い舞台の情報を具に見てチェックできるのだが、悲しいかな、日本の劇場などのホームページは貧弱で、殆ど資料らしき情報は得ることが出来ない。
   教養と知識に欠ける民主党の仕分チームが、「日本芸術文化振興会」の交付金や助成金をぶった切りにしたと言うから、益々、日本の文化芸術の不毛化が進む。

   余談だが、学者のScholarは古代ギリシャでは暇人と言う意味で、要するに、何もせずに勉強ばかりする人をさすように、文化芸術など偉大な文化遺産などは金に糸目をつけないような豊かな社会から生まれるもので、正に、衣食足って礼節を知る以上の世界である筈にも拘わらず、浮世の世界と同じ次元で仕分すると言う知性と教養を持ち合わせない政治の危うさを感じて慄然とせざるを得ない。

   さて、両弁杉由来の舞台だが、やはり、最後の二月堂の良弁杉の前で、渚の方が良弁に会うシーンがクライマックスだが、この文楽では、幼児光丸(良弁)が山鷲にさらわれる「志賀の里の段」、30年もの長きに亘ってわが子を探す途中で、東大寺の良弁の鷲伝説を聞く「桜宮物狂いの段」、東大寺の門前で伴僧に出会って杉の木に張り紙を書いて貰う「東大寺の段」が加わって舞台が展開するので、話が非常に分かり易くなる。
   宇治の茶畑や桜宮の桜風景が舞台を装飾していて、視覚的にも楽しませてくれる。

   この東大寺の初代別当で、東大寺大仏を建立し、鑑真とともに大僧都に任じられた高僧の物語だが、幼少の砌、鷲にさらわれて二月堂前の杉の木に引っ掻かっていたのを義淵に助けられて僧として育てられたと言う伝承については、一般論として否定されてはおらず不詳としているところが高僧の高僧たる所以であろうか。
   子を思う母の切ないまでの艱難辛苦の30年の日々が、証拠となる如意輪観音のお守りの仲立ちで、高僧となった雲の上の人の純粋無垢の親を思う気持ちが一つとなって昇華して行くラストシーンが感動を呼ぶ。
   そんな芝居になって、歌舞伎と文楽の舞台で生き続けているのが、この「良弁杉由来」なのでである。

   この由来の良弁杉だが、何代目であろうか、小さくて貧弱なので、この話を知らなければ、見過ごしてしまうのだが、あの「お松明」で知られている豪壮な修二会は、良弁僧正を祭る開山堂で参籠した11人の練行衆が主体となり、良弁杉を見下ろす二月堂の舞台を大松明を持って駆け抜ける「お松明」と神秘的な「お水取り」とで頂点に達する。
   良弁と渚の方が再開した場に立つ良弁杉は、ご本尊の十一面観音とともに、1200年の間、この荘厳な儀式を眺め続けていて、人間世界のことどもは何でもご存じなのであろう。

   ところで文楽の舞台だが、和生の良弁の神々しく上品な佇まいが秀逸で、殆ど動きのない人形遣いなのだが、和生の顔までが輝いて見える。
   玉男が、良弁の頭は、能面のような面差しで目も描き目で動かない上に、殆ど動きのない役どころなので、頭の微妙な角度や目線一つで感情の表現するなど非常に難しいと言っているが、和生は、文雀の左で玉男の芸を学んだのであろう。
   文雀の渚の方は、最初から最後まで出ずっぱりだが、品の良い奥方から、全国を流浪するうらぶれた老婆まで、しかし、襤褸を纏った乞食に落ちぶれようとも、心は錦、文雀の遣う人形が、苦しさに号泣しながらも高貴さをどこかに保ちながら、ただ一途に子を思うひたすらな生き様を髣髴とさせて感激しながら見ていた。
   歌舞伎もそうだが、この文楽でも、襤褸に見せかけた錦の衣装が、リアリズムと一寸ニュアンスの違う虚実皮膜の世界を体現していて、外国にはない日本独特の美意識であろうと思う。
   綱大夫の休演のために、千歳大夫が、清二郎の三味線で、二月堂の段の最後を、実に、感動的に語った。

   さて、9月の舞台の最後の「桂川連理柵」だが、14歳の少女と40がらみの中年男性の心中もので、旅先の宿屋でやむなく同衾したばかりに、子供を宿した幼ない乙女にひかれて桂川で心中すると言う実に切ない物語である。
   袖を繋ぎ合わせた中年男と乙女の死体が桂川から上がったと言う実話から起こした芝居のようだが、実際は、奉公に出る少女を知り合いの商人が連れて大坂へ下る途中盗賊に会っての心中に見せかけた被害だと言うことだが、
   この二人の物語がメインテーマで、この主人公帯屋長右衛門(勘十郎)の店を乗っ取ろうとする意地の悪い義母おとせとその子の儀兵衛の暗躍や、娘お半(簔助)を追い回す頭の弱い丁稚長吉、夫思いの貞女で健気な長右衛門の女房お絹(紋寿)、酸いも辛いも弁えた店の隠居・父繁斎(和生)などユニークなキャラクターが絡んだサブテーマが豊かで、チャリ場ありの喜劇、人情劇が入り混じった面白い芝居になっている。

   この舞台の感想は、一昨年のブログと殆ど変らないので、蛇足は止めておくが、やはり、簔助と勘十郎の子弟コンビの男女の微妙な心の綾を描いたしっとりとした舞台が、大分、地についてきたのか、ため息や呼吸まで聞こえてくるような雰囲気である。
   お先真っ暗で悲嘆に暮れている長右衛門の所へ、諦めて他へ嫁ぐと最後の別れに来たお半との語らい、虫の知らせに門口に出てみると死ぬと言うお半の置手紙、意を決した長右衛門が追いかけて行き、終幕の「道行朧の桂川」の死出の道行へと、奈落の底に突き進んで行くのだが、二人の遣うお半と長右衛門の人形の動きと嶋大夫と清友、そして、千歳大夫と清介の語りと楽に乗って、上質なオペラを見ているような雰囲気で感動的である。
   幼心に慕っていた長右衛門への思いをかき口説きながら、「定まり事とあきらめて、一緒に死んで下さんせ」とすがり付く、あたら蕾で散って行くお半が実に哀れで切ない。
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中国と米国の差、電気自動車への意気込み・・・トーマス・フリードマン

2010年09月26日 | 政治・経済・社会
   トーマス・フリードマンが、ニューヨーク・タイムズのコラムで、「Their Moon Shot and Ours」と言うタイトルで、中国とアメリカの電気自動車、特にバッテリーへの取り組み方について言及し、アメリカの遅れに警告を発している。

   ここで言うフリードマンのMoon Shotとは、”big, multibillion-dollar, 25-year-horizon, game-changing investment”すなわち、長期未来への巨大プロジェクト投資なのだが、中国の4大事業は、超近代的空港ネットワークの構築、主要都市を結ぶ超高速鉄道の建設、バイオサイエンス、そして、電気自動車産業を創造するために、20のパイロット都市で、先導的な自動車およびバッテリー会社を立ち上げるために150億ドルのシード資金を投入すると言うプロジェクトだと言う。
   中国株式会社は、16の国営企業のドリームチームに、中国を石油から解放し、次代の産業成長のエンジンを電気自動車とすることを命じたのだと言う。
    
   心配しなくても良い、アメリカも、月ロケット打ち上げ級の巨大プロジェクトを持っている、それは、アフガニスタンの安定だと、いつもの調子で皮肉交じりのコメントをしているのだが、アメリカは、安全と繁栄のバランスを間違っており、アメリカの闘うべきは、アルカイダではなく中国で、それも、まず、電気自動車戦争だと説く。
   オバマ政権も、電気自動車に補助金を出すなどそれなりに努力をしているが、ガソリン税を上げるなど自動車産業を後押しするような政策実施に消極的で、5か年計画の成長戦略の柱としている中国政府の意気込みと差がありすぎると言うのである。

   電気自動車産業は、自動車産業がアメリカの中産階級を育成してきたように、そして、パワーエレクトロニクスやソフトウエアの集積であるなど産業の根幹であり、その貢献度は計り知れない。また、今後、石油価格が高騰し、逆に、バッテリー価格はどんどん下落し、コスト優位はますます進むのみならず、人類の悲願である石油からの解放にもプラスとなる。
   電気自動車のムアーの法則が働き、18か月ごとにバッテリー価格が半減すると言う人までいる。

   フリードマンは、2週間前に天津にあるコーダ電気自動車バッテリー会社を訪れたようだが、これは、アメリカのイノベーターと中国のリシェン・バッテリーと中国国営オフショア石油との合弁会社だと言う。
   石油会社が、バッテリー製造に金を注ぎ込むのも驚きだが、フリードマンは、米中合弁での事業は、両者ウインウインの関係で、風力や太陽エネルギーのための巨大な蓄電器を目指すなど更なるイノベーションを追及するであろうと言う。
   しかし、ガソリン価格やインフラ政策で、アメリカが遅れをとると、一挙に、中国に主導権を取られて振り子が中国側に振れてしまって、このままでは、石油をサウジアラビアから輸入するように、電気自動車を中国から買う羽目になると嘆く。
   中産階級育成の自動車産業が破たんして、中産階級破壊産業となってしまったが、この電気自動車産業こそ、振り子を逆に戻すアメリカ産業の起死回生策であるのに、 オバマ政権は、何をしているのかと言うことである。

   自動車産業は、グローバル・ベースで、雪崩を打って電気自動車に走っていると思うのだが、何故か、日本ではハイブリッド人気が高く、電気自動車には冷たい感じがする。
   しかし、問題は、バッテリーであるから、イノベーションと開発が、ムアーの法則が働いて安くなり効率が向上すれば、エンジン系統の自動車が駆逐されるのは時間の問題だと思う。
   電気自動車は、バッテリースペースがありさえすれば、モーターを車輪に取り付ければ良いだけだから、それ以外の空間はオープンとなりフル活用されるなど、車輪だけは同じと言うだけで全く違った乗り物であり、馬車が、汽車や自動車に変わった産業革命の時のイノベーションと全く同じ現象が起こる。
   今、ハイブリッドに抗して、ガソリンエンジン車の燃費がどんどん改良されおり、同じようにハイブリッド車でも、帆船効果が働いて、両者併存の時期があるかも知れないが、電気自動車の勝利宣言は時間の問題であるので、日本政府も、もっともっと電気自動車に傾斜すべきで、中国に遅れを取るようではダメである。
   
   私には、技術的なことは良く分からないが、バッテリーのイノベーションが起こって、一挙に価格が下がり軽量化されるなど臨界点を超えれば、これほど目的のはっきりしたイノベーションはないので、瞬時に自動車産業は電気自動車に転換すると思っている。
   
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市川亀治郎:TVはNHKしか見ないと言う

2010年09月25日 | 生活随想・趣味
   今朝、何の気なしにTVを見ていたら、亀治郎が登場していて、NHKしか見ないと言っていた。   
   TVで、NHKを見るか見ないかは、やはり、視聴者の好みがあって興味深いのだが、私の場合も、ニュース関連番組などは別にして、NHKばかりで、それも、BS放送である。
   しかし、私の知人で、TVは民放だけで、NHKは一切見ないと言う私には理解を超えた人もいれば、視聴料の徴収がけしからんと言って、一切、NHKを無視している人もいて面白い。

   私が、民放をあまり見ないのは、別に他意はなく、新聞のTVコラムなどを見て面白ければ見ているのだが、とにかく、無意識にチャネルを合わせれば、四六時中、大衆迎合型の低俗な馬鹿番組が流れているようで、時間の浪費だと思うし、それに、CMがあまりにも煩わしいからでもある。
   しかし、ニュース関連番組については、NHKのどうでも良いような、どっちつかずの無為無策と言うか、面白味のない報道よりは、民放の別な意味での大衆迎合型のメリハリのついた番組の方が面白いので、結構民放をはしごしながら楽しんでいる。
   
   パソコンの前に座っている時間の方が多くて、TVを見る時間が少ないのだが、後で見ようと勢い録画することが多くなる。
   ところが、沢山録画しても、見る時間も限られているので、DVDの数が増えるだけになってしまっているのが現状である。
   後で、と言うのが私の悪い癖で、レコードやレーザーディスク、CD、DVD、それに、極まれりは本だが、見もしないでうず高く積んだままに放置してあるのが多くて、見るたびに胸を痛めている。
   私にとっては、大切な財産だが、娘たちは、いつでも処分するから良かったら言って、と鮸謬もない。

   ところで、先月、同軸ケーブル一本で地デジもBSもTVを見ることが出来るNTTのフレッツTVに切り替えたら、非常に便利になった。
   尤も、ケーブルTVにすれば、何の造作もないのだが、また、配線工事をする必要もあり厄介だったので、光電話などフレッツ光でお世話になっていることもあって、これを追加したのである。

   しかし、一つ解せないのは、NTTだけでフレッツTVを敷設・伝送出来ないのかどうかは分からないが、CS放送のスカパーから、施設利用料が請求されて来たこと(事前に説明は受けた)である。
   尤も、CS放送受信をスカパーと契約しなければ、この初期費用である施設使用料2940円だけ支払えば済むことなのだが、私にしてみれば、視聴する意思もないCS放送の受信回線を一方的に敷設しておいて、そのコストを負担せよと言うのは、抱き合わせ販売とも言うべきで独禁法違反ではないかと言う気持である。
   NTTとすれば、スカパーのオプティキャストを下請けとして、敷設費用の明細に記入すれば済むことで、わざわざ、請求書を二つに分離して、オプティキャストから、スカパーの勧誘電話をさせたり支払いの手間をかけさせるのは、スカパーのセールス・プロモーションに加担しているとしか思えない。

   誤解を避けるために付言するが、私は、スカパーのCS放送の価値を認めているし、少し前まで契約もしていて、CNNやBBCなどの報道番組を視聴していたし、今も屋根にスカパーのアンテナが残っている。
   しかし、身は一つで1日24時間しかないのだから、時間が限られていて殆ど視聴しなかったので、やむを得ずキャンセルしたのである。

   さて、話が横道にそれてしまったが、当初のNHKしか見ないと言う論点だが、視聴者の価値観や趣味などにも依ると思うが、いくら世の中が進んで選択肢が増えたと言っても、やはり、一番の問題は、身が一つで1日24時間しかないと言う人間の体力の限界に尽きる。
   時間の節約のために、録画した番組を2倍速で再生したりCMを飛ばして見ても、タカが知れており、感興を削ぐだけである。
   本を速読術で沢山読んでみて知識情報の蓄積に効果があっても、じっくりと人間のリズムに合った読書速度で読んで、読書を楽しみたいと言う喜びには到底及ばないような気がする。

     いずれにしろ、TVとの付き合いはかくの如しだが、良いのかどうか、有効に時間を使っているのかさえ分からないけれど、案外、考えているようでも、毎日を惰性で生活している。
   少し前に、パソコンがダウンし使えなかった時、一挙に自由な時間が増えた感じで、如何に、自分の時間をパソコンに毒されてしまっていたかに気付いたのである。
   もう先が短いのだから、残りの時間を如何に有意義に過ごすか、まじめに考えた方が良いような気がし始めている。
   
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スーパー:PB(プライベート・ブランド)の高級化へ

2010年09月23日 | イノベーションと経営
   東洋経済オンラインで、「PB高級化の試練、競争は第2ステージに突入」と言う興味深い記事が出ていた。
   イオンやイト―ヨーカドーにとっては、PB製品は、利益幅が大きかったのだが、原材料費の低落で、メーカーのNB製品の値下げなどで需要が落ち込み、下手をすると逆ザヤになるケースも出るなど、曲がり角に差し掛かったので、値上げしてでも失地回復しようと、PBのプレミアム化に乗り出し始めたと言うのである。
   NBと同価格かそれ以上であって、より高付加化価値を訴求したPBに切り替えれば、落ち込んだPB比率の嵩上げのみならず、激安PB商品と違って利幅も大きくなるとの目論見である。

   PBは、元々、中間流通や販管費用などを省くことで低価格を実現してきたので、本来は、NBとの競争であり、プレミアム化を図れば、価格競争では、その差額の差別化されたプレミアム部分が、競争優位となるので、スーパーの利益の確保は出来る。
   しかし、単なるプレミアム化でブルーオーシャンたる新製品でなければ、同じ需要の食い合いなので、所詮時間が経てば、今回の様な平衡状態に収束するだけである。

   私は、PBの最大の強みは、コスト削減による低価格にあるのではなく、スーパーが、商品の開発及び生産に、主導権を取れると言うサプライチェーンのモデルチェンジにあると思っている。
   したがって、これは千載一遇のチャンスであって、大口購買と言う優位な地位をフル活用して、メーカーを手玉に取った流通戦略を打たねば意味がない。
   すなわち、スーパーは、膨大な消費需要を抱えたサプライチェーンの最先端に接したマス集団を束ねているのであるから、そのニーズ・ウオントを適格に把握して、その需要を満足させ得るような、付加価値の高い新商品を開発することが何よりも肝要であって、その製品をメーカーに発注して意図通りに生産させ、ブルーオーシャン市場を開拓することによって、メーカーは勿論、競合他社との競争をも制する戦略を遂行することである。
   謂わば、ファブレス・メーカー志向であって、既存メーカーをファウンドリーに位置づけて、最も付加価値の高いクリエイティブなステージで利益を追求する経営戦略でもある。
     
    さて、それでは、どのようにして、ブルーオーシャン商品を生み出すのかと言うことだが、スーパーのインナー社員の能力ではタカが知れているので、オープン・イノベーションの手法を活用することである。
   ウイキノミクス、ツイッターノミンクス、色々な捉え方があるが、要するに、SNSなどウエブ2.0の各メディアをフル活用して、オンライン・コミュニティから消費者の提案、ニーズ、ウオントなど需要の需要たる根幹の情報・知恵をキャッチして、隠れた商品を発見して、商品化することである。

   先日も論じたが、ドラッカーは、企業の目的は、顧客の創造にあり、この目的達成のためには、マーケティングとイノベーションが如何に重要であるかを説き続けて来た。
   スーパーが、どのようにしてブルーオーシャン商品を開発して、無競争の市場を開拓できるのかは、正に、この経営戦略の遂行如何にかかっている。
   徹頭徹尾自前主義であったP&Gが、今や、新製品の50%近くを、オープン・イノベーションによって生み出していると言うことである。開発コストをセーブしイノベーションのシーズを外部から得られるばかりではなく、オンライン・コミュニティにおいて、タラ・ハントが説く膨大なウッフィーを蓄積し続けてブランド・イメージをどんどん引き上げていると言うのであるから、オープン・マネジメント・システムの威力が如何に凄いかが分かろうと言うものである。

   スーパーのホーム・ページを開いて見たが、一方的な会社の押しつけ情報ばかりで、顧客の商品に対する提案など顧客の意思を重視した対応のパートなど皆無に等しい。
   ICT革命によって、売り手やメーカーから、消費者に主権が移ってしまって、消費者が総ての需要の主導権を握っているのは、楽天の快進撃や、アマゾンや価格コムの消費者のオーバープレゼンスを見れば一目瞭然の筈で、消費者の意思表示と口コミ情報の凄まじさは強烈である。

   私自身、トーマス・フリードマンの「フラット化する世界」を皮切りに、ドン・タプスコットの「ウイキノミクス」「デジタルネイティブが世界を変える」、シャーリーン・リー他の「グランズウェル」、ジェフ・ジャービスの「グーグル的思考」、それに、先のタラ・ハントの「ツイッターノミクス」など限られた書物しか読んでいないのだが、
   それでも、ICT革命が生み出した怒涛のように凄まじく激動する時代の潮流の中で、ウェブ2.0で展開されているオープン・ビジネスやオープン・イノベーションなどの目を見張るような強烈なパワーを感じることが出来るので、無尽蔵の宝とも言うべき膨大な情報を持った消費者を顧客として抱えているスーパーが、何故、ICT革命の粋たるインターネットなどの千載一遇のICT武器を駆使して、ドラッカーの説く顧客の創造のために、マーケティングとイノベーションを追及しないのか、不思議で仕方がない。
   顧客である消費者の途轍もないパワーと情報を、最先端のICT技術を駆使して、フル活用できないような流通企業は、正に、ガラパゴスのゾウガメと言うことであろうか。

   なお、ここでは、プロダクト・イノベーションについて論じたが、サービス業に近い流通業界では、内装やディスプレイ手法を始めとしてプロセス・イノベーションなど広範なイノベーションの可能性が存在しており、ビジネス・モデルの革新機会は無尽蔵にあり、差別化、それも、無消費者かつ無競争のブルーオーシャン市場が、前途に洋々と広がっているのではなかろうか。
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わが庭の歳時記・・・アサガオ咲きバラほころびる

2010年09月22日 | わが庭の歳時記
   今日の猛暑を最後に、涼しくなると言う。
   完全に暑さにやられてダウンしていた私の庭も、やっと、動き出した。
   先週からの涼しさの到来で、元気のなかったアサガオも、やっと、綺麗な花を咲かせ始めた。青い西洋アサガオも蔓が伸びて、庭木の天辺で、輪舞し始めた。
   西洋アサガオは、一本の茎から複数の蕾を出すので、同じところから連続して毎日のように咲くので、晩夏には、迫力を増す。

   トマトは、先月の初めころから、花が咲いても仇花で、一切結実しなくなり、その後、花も咲かなくなっていたのだが、放置していたら、今になって、花が咲き出してきた。
   涼しくなったら、プランター苗をすべて処分しようと思っている。
   キュウリも駄目であったが、とにかく、この真夏日連続の猛暑は、野菜には大変だったのだろうと思う。

   イングリッシュ・ローズとフレンチ・ローズも、蕾をつけて咲き始めて来た。
   秋になれば、当然だが、真夏日の間は、別に、蕾をピンチする必要もなく、とにかく、咲かなかったのである。
   これらの花は、綺麗な中輪なので、切って数輪ずつバカラなどのガラス器や淡い陶器の花瓶などに生けると、部屋の中が優雅な雰囲気になり、なかなか気持ちの良いものである。

   この厳しい夏のために、水切れで、結構、色々な草花や花木の苗木を枯らせてしまった。
   植物は、動物のように泣かないので、総て私の不注意の為であり、可哀そうなことをしたといたく後悔している。

   紫式部が色づき始めて来たが、今年は、何故か、実が貧弱で紫色も冴えない感じなのだが、猛暑の悪戯であろうか。
   しかし、下草のヤブランの淡い紫色の花房は、実に元気で、立派にブラシ状にびっしり花をつけている。これが、冬には、黒光りのする真っ黒の仁丹状の実をつけるのである。
   咲き終わったと思っていた一才サルスベリが、また、何故か、花をつけ始めた。

   元気に飛び回っていたアゲハチョウが訪れなくなって久しい。
   もう、セミはとっくに消えてしまい、いつもなら、赤とんぼが庭木の先に止まる頃だが、今年は、まだ見ていない。
   
   東京の秋は、熱い夏が終わりやっと涼しくなったかと思ったらすぐに寒い冬が訪れてくる感じで、正に、秋分を過ぎると釣瓶落としで、何故か、関西に比べて、毎年非常に短いように感じている。
   それに、関西と比べて、紅葉がそれ程鮮やかではないのは、その所為かも知れないと思っているのだが、どうであろうか。
   モミジは勿論、桜にしろ、カキにしろ、関西の田舎では、秋の紅葉が美しいのだが、東京よりも、特に京都盆地など、夏は耐えられなしくらいむし暑いし、冬も堪らないほど寒くなることも、その一因かも知れない。
   ヨーロッパにいた頃は、元々、夏が短い上に寒くてどんよりとした冬が長いので、季節の変わり目が日本ほどはっきりしていない感じであったような気がする。

   野には彼岸花が咲き始めた。
   もうすぐ、気の遠くなるような静かな秋が訪れてくる。
   今夜は、中秋の名月のようだが、千葉は曇り空で、残念ながら月は顔を出していない。
   中秋の名月と言えば、何故か、アジアとヨーロッパを跨いで煌々と輝いていたボスポラス海峡の月を思い出す。
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クレイグ.L.ピアース他編「ドラッカー・ディファレンス」

2010年09月21日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   クレアモント大学院ドラッカー・スクールの必須科目である連続講義「The Drucker Difference」 を編集して出来上がったのがこの本で、ドラッカーの著作の、特に、組織と個についての遺産を継承することを目的として同僚教授たちが更にドラッカーの理論を一体となって展開しており、没後も、ドラッカーの業績が生成発展しているようで、非常に興味深い。
   ウォーレン・ベニスが言うように、この本に掲載されている素晴らしい論文の集積を見るだけでも、ドラッカーの叡智の裾野の途方もない広さに驚嘆せざるを得ない。
   
   何故、このようにドラッカーは次々と新しいコンセプトを世に問うことが出来たのか、野中郁次郎先生が、冒頭の「推薦の辞」で書いている。
   それらが見えたのは、大きなプロセスの関係性で見ていたからにほかならない。その関係性の幅が広かった。われわれの世界とは、日常のハウツーをはるかに超えたところで動いていたからだと言うのである。
   更に進めて、それらとリンクするには、知の関係性を深め広げる以外に方法はない。すなわちリベラル・アーツを復権するほかはない。として、マネジメントは、サイエンスだけではなく、むしろ、アーツである。マネジメントとは、リベラル・アーツなのだと言うことをドラッカーの見逃しえない功績だと思う、と述べている。

   このドラッカー・ディファレンスの中でも、最も感動的なのは、このドラッカーの哲学を敷衍して展開されている第1章の「教養としてのマネジメント」で、「マネジメントは教養である」とするドラッカーの命題から逸脱した結果故に起こった、アメリカ経済の蹉跌及び正常な価値観と倫理観が地に落ちた経営者の惨状を分析しながら、本来のマネジメントのあるべき姿を追及している。
   組織には価値観が不可欠だと説き続けて来たドラッカーの視点に立って、アメリカ社会の企業観の現状を踏まえるなら、「企業幹部が価値ありとすべきものは何か、それは何故か」「組織が人間に関わるものであるならば、彼らが拠り所とすべきは何か」と考えるのが緊急の課題である。
   リベラル・アーツとマネジメントに共通する際だって重要な要因が価値観である以上、歴史的に見ても、リベラル・アーツにおいて最も重視されてきたものが、それぞれの文明における最高度の道徳律と価値観、すなわち、善悪の観念と、それに基づく信条、行動、思想の修養と人格の形成であるから、絶えず、原点への回帰が必要だと説くのである。

   このリベラル・アーツ教育の大切さ、特に、リーダーにとっては必須の要件であることなどについては、ウォートン・スクールの先輩である小林陽太郎さんが、私にも語り、アルペン・クラブ活動などを通じて絶えず説き続けていることで、このブログでも、何度も取り上げて論じて来たが、悲しいかな、日本の学校では勿論、アメリカの大学でも軽視され続けていると言う。
   中世にオックスフォードやケンブリッジで育まれたアルテ・リベラレ重視の高等教育モデルが、特にアメリカでは消え失せて、教養課程教育の衰退が、企業社会の貧欲と利益至上主義を招いたとして、また、ビジネス・スクールの株主価値至上主義が、経営者を、社会に対しても、自らの働く組織に対しても、道徳的、社会的、倫理的に全く責任感を欠いた存在としてしまったと、MBA教育を糾弾している。
   このあたりは、ニュアンスが大分違うが、ミンツバーグの「MBAが会社を滅ぼす」と併読すると面白い。
   
   それ以降の論文も、夫々、素晴らしい論文ずくめだが、興味深いのは、最早、政府にも企業部門にも、社会を救済する力はないとして、今世紀をソーシャルセクターの世紀だとしたドラッカー哲学を更に展開した「ソーシャルセクターの世紀」と言う章である。
   企業トップの破格な報酬制度や倫理の欠如などで、ドラッカーが、早くから現在の資本主義制度に見切りをつけていたことは周知の事実で、社会の破局を救いうる唯一のものは、宗教、社会、経済上の活動を支援し推進しながら社会に貢献する、健全な市民社会の推進主体たる非営利のソーシャルセクターであると、社会の変革機関と位置づけ期待していた。
   イノベーションは、ドラッカー経営学の根幹だが、ソーシャルセクターにおけるイノベーションの担い手は、「社会企業家」と呼ばれて、変革機関として他者の見逃す機会を掴み、社会の問題を解決するために、新たな手法を開発し解決策を編み出し、大規模に実行する役割を果たすのだと言う。

   ここで大切なのは、ドラッカーの「事業の目的として有効な定義は、ただ一つ、顧客の創造である。企業には二つの基本的な機能が存在する。マーケティングとイノベーションであり、この二つの機能こそまさに企業家的機能である。」と言う大命題である。
   如何なる目的の組織であろうとも、夫々の組織には、多様なニーズとステークホールダーが存在し、そのステークホールダ―がすなわち顧客であり、その創造と満足が組織の目指すところだと考えると、ドラッカーのマネジメントは、如何なる組織体にも適用応用可能である。
   また、外部環境、技術、政策や規制、競合状況、市場セグメント等々の変化は、顧客のニーズの変化を観察することが大切で、そのためにはマーケティングは最も大切であり、更なる組織の発展のためには、そのニーズに合わせて顧客を満足させるために、適切な絶えざるイノベーションの追及は必須となる。

   今、100万部を突破して益々売れている「もし高校野球部の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら」と言う本だが、弱小高校野球チームがドラッカーの「新版マネジメント」に啓発触発された女子マネージャーに引っ張られて甲子園を目指す青春小説である。
   こじつけた要素もかなりあるのだが、正に、前述したように企業ではない野球部と言う組織の運営に、ドラッカーのマネジメント論を適用するとどうなるかをシュミレーションしている新しい試みの小説で非常に面白い。
   顧客とは何か、マネージャーの資格とは、マーケーティングとは、イノベーションとは、と言った調子で、ドラッカーのマネジメント論のエキスとも言うべきコンセプトが次々と料理されて行き、爽快でさえある。
   これもドラッカー、ドラッカー・ディファレンスも、また、ドラッカー。
   ウォーレン・ベニスの言をもう一度表記すると、
   ”We all stand gratefully in his shadows, silent in awe.”

(口絵写真)丸善のドラッカー棚。2段目が、「ディファレンス」、最下段が、「もしドラ」。
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タラ・ハント著「ツイッターノミクス」

2010年09月20日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   まず、この本だが、原題は「THE WHUFFIE FACTOR Using the power of social networks to build your bisiness」、「ウッフィー効果 ビジネス成功のためのソーシャル・ネットワーク・パワーの活用法」と言ったところであろうか、ICT革命におけるソーシャル・ネットワーク効果が、如何にビジネス・企業環境を激変させたか、そして、ソーシャル・ネットワークの有効な活用こそが、企業の命運を決すると言う非常に時宜を得た経営学書であって、ツイッターのことを述べたものでもないし、ツイッター経済学でも何でもない。
   ツイッターは、そのソーシャル・ネットワークの一つだと言う位置づけである。

   それでは、ウッフィーとは何かと言うことだが、ソーシャル・ネットワークで結ばれた人々の間で育まれた信頼、尊敬、評価などの総称で、市場経済におけるお金に匹敵し、ソーシャル・ネットワークで結ばれたギフト経済においては、富の源泉であり、人々に好かれること、人とつながること、尊敬され一目置かれることなどによって蓄積されるもので、ハントは、これをソーシャル・キャピタルと呼び換えている。
   したがって、このソーシャル・ネットワークの世界で、大勢の人々と信頼関係で繋がり、コミュニティを形成して、ウッフィーを蓄積する人をソーシャル・キャピタリストと言う。
   ざっくばらんに言えば、ツイッターに代表されるようなウエブ2.0によって花開いた様々なツール――ブログやSNS,ウイッキ、ポッドキャスト、ソーシャルブックマーク、フォーラム、チャット等々を通じて蓄積された信頼、尊敬、評価、すなわち、与えることによって価値を創造するソーシャル・ネットワークの様なギフト経済で得たウッフィーの蓄積こそが、個人であろうと企業であろうと成功の源泉だと言うことである。

   このことは、現実に、インターネットの普及によって、ネットショッピングが実際の店舗を駆逐し、メディアなどの広告媒体がグーグルなどのネット広告に取って代わられつつあり、消費市場の主役が企業から消費者に徐々に変わってしまったことなどICT革命の影響を見れば一目瞭然であるし、その中でも、ブログやツイッターなどの影響力には目を見張るものがあり、オバマのように若者のボランティアを糾合して大統領選挙を制する媒体となることもあれば、ウォルマートなど巨大企業であろうともPR会社を使ってサクラもどきのなりすましブログを立ち上げてウッフィーを失うとその結果は壊滅的であるなど、ソーシャル・ネットワーク・パワーの威力の凄さは強烈である。
   いずれにしろ、インターネット革命とも言うべきICT環境を如何に企業経営に戦略的に取り入れるかと言うことは、正に、企業の命運を決する最重要事項である筈だが、この本では、ハントは、ウッフィー、すなわち、ソーシャル・ネットワーク社会での未来のマネー・キャピタルの重要さ、そして、その蓄積の方法について論じているので、企業の経営戦略の中でも、どちらかと言えば、マーケティングや生産販売などについての示唆的な提言が多い。
   ソーシャル・ネットワークでのウッフィーを如何に豊かに蓄積するかと言う視点から説いているのだが、そのことは、実際の経営にも十分に当て嵌まり、見方によれば、インターネット社会での経営戦略を語っていると言っても良い。

   したがって、ハントの示唆で興味深いのは、
   ”リアルの世界とオンライン・コミュニティとはウッフィーを介して繋がっており、ソーシャル・キャピタルは、長い目で見れば、マーケット・キャピタルに変わるのである。”と言うことで、ウッフィーを増やす努力を続けておれば、結果はついてくると言う論点である。

   もう一つ面白いのは、ソーシャル・ネットワークの世界では、グーグルが膨大なデータや情報を殆ど無償で提供しているように、この2.0の世界では、どちらかと言えば、原始時代や動物の世界と同じようにギフト経済の社会で、ギフトを与えれば与えるほど、ウッフィーが蓄積する社会だと言うことである。
   オンライン・コミュニティは、贈り物から始まり、贈り物の交換によって生まれる繋がりが原動力になって、拡大して行き、良い贈り物をすると言う高い目標を掲げること、そして、社会に貢献することが、これからの企業哲学であるべきだとも説く。
   企業の社会的責任論が、ソーシャル・ネットワークの世界でも、有効な経営戦略であると言う示唆が面白い。

   ハントは、ウッフィーを増やす5つの原則を掲げている。
   大声でわめくのはやめる、オンライン・コミュニティの一員になる、わくわくするような体験を創造する、無秩序を受け入れる、そして、高い目標を見つける。
   市場はICT革命によって対話、すなわち、双方向型広告の時代に入ったのであるから、大声でわめくマス・マーケティング型の広告などは時代遅れなのに、まだ、役に立つと信じている人がいるなどと、細かく例証しながら既成概念を次から次へと論破していて面白い。

   オープンにすると思いがけないアイデアに出会えるなどとして、秘密主義や知的財産の保護に拘るのはもう古い。これからは、オープンネスとコラボレーションの時代だ。と言う。
   すべてをオープンにして、顧客に愛され支持される企業になることの方が、よほど価値がある、と言ったウッフィー論からのオープンソース・マネジメントの提言だが、私の興味があるオープン・イノベーション論とも似通っており興味を感じた。

   著者のハントは、30代のアルファブロガーにして、ウェブを使ったマーケティングの第一人者と言うことだが、ドン・タプスコットなどよりは、くだけた調子の叙述なので非常に面白かった。
   
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題名のない音楽会公開録画~ユンディ・リの華麗なショパン

2010年09月18日 | クラシック音楽・オペラ
   友人に誘われて、久しぶりに、オペラシティに、「題名のない音楽会」の公開録画演奏会に出かけた。
   黛敏郎から、羽田健太郎と、随分長い間出かけているのだが、コンサートには何度か聴きに行ってはいるが、佐渡裕になってからは初めてである。
   実際のTV番組の方はあまり見なくなってしまったが、録画コンサートは、2回のプログラムを同時に収録し、番組づくりのバックグラウンドが分かると言った楽しみもあり、2時間のコンサートだが、非常に興味深く、普通のクラシック音楽の演奏会とは一寸違った味があって面白い。

   黛の時には、謹厳実直と言うか、非常にまじめなアカデミックな雰囲気で、NGなしのそのまま本番放送が出来るような寸分違わぬ完璧な録画風景だったが、羽田健太郎になると脱線とは言わないまでも多少砕けた雰囲気で、話題が比較的あっちこっちに飛んだりして、NGがあって撮り直しもあったが、これが結構面白かった。
   佐渡裕の場合には、この時は、NGなしだったが、もう、20年も経つから時代の流れであろうか、非常にリラックスした感じのモダンな雰囲気で、前半に登場した高島さち子の一寸パンチの利いたウイットに富んだ語り口と、佐渡裕の関西弁の微妙なニュアンスと間がうまくマッチしていて面白かった。

   前半は、「絶滅危惧種を救え!さち子教授の音楽レッドリスト」で、地球環境の破壊などで多くの動植物が危機に瀕して地球上から消えて行きつつあるが、楽器も同じで、世につれ人につれ時代の流れに消えて行くものがあると言うことで、珍しい楽器の紹介とオーケストラとの共演など興味深いコンサートであった。
   私も、世界中を歩いていて、いくらか珍しい楽器に遭遇しているのだが、この日登場したオンド・マルトノ、セルパン、ハーディ・ガーディは知らなかった。
   珍しい楽器と言えば、私は、良く行ったサンパウロのオットンパレス・ホテルの最上階のスイス・レストランで、チターの演奏が流れていたのを思い出す。アントーン・カラスの「第三の男」や「ウイーンの森の物語」の哀調を帯びた澄んだ音色が印象的だが、異国で聞いたので余計に思い出深いのかも知れない。

   後半は、「ユンディ・リの華麗なる大ポロネーズ~ショパン生誕200周年」。
   この日、ユンディ・リが演奏したのは、冒頭、東京フィル(十塚尚宏指揮)との共演で「華麗なる大ポロネーズ」、そして、ポロネーズ 第6番「英雄ポロネーズ」とノクターン 第2番 変ホ長調で、非常にポピュラー曲でもあったので、ムード音楽を聴くような感じで楽しませてもらった。
   ユンディ・リが語っていたが、ショパンは、華麗で情熱的。実に美しい音楽で、私は、若い時、レコードでショパンのピアノ協奏曲ばかり聞いていて頃があり、中村紘子とワルシャワ・フィルとの演奏会に出かけて行き感激したのを覚えている。
   パリではショパンの故地を訪れたことはないが、マジョルカ島へは出かけて、ショパンがジョルジョ・サンドと結核療養のために短期間滞在したところを訪ねて行き、その当時使ったと言われているピアノなどを見た。
   ここで、ショパンは、「雨だれのプレリュード」を作曲したと言うのだが、私の行った時には、太陽が燦々と輝く美しい日で、ショパン記念館の庭には、綺麗な花が咲き乱れていた。

   ユンディ・リは、貴公子のように甘いマスクの素晴らしいピアニストで、立ち居振る舞いは優雅で、同じ超有名な中国人ピアニストであっても、あのダイナミックで本当に中国人と言った感じのランランとは、大分雰囲気が違う。
   曲にもよるのであろうが、ユンディ・リのショパンは、その言葉のごとく実に優雅で、内に秘めた情熱が迸り出るような感動的な演奏で、丁度、2階の中央から見ていたので、流れるようなユンディ・リの指の動きが良く見えて更に感激であった。
   私は、ヨーロッパ滞在中に、随分コンサートに出かけたので、ショパンを聞いている筈だが、印象に残っているのは、あのドイツ・オーストリア音楽の大家アルフレート・ブレンデルのコンセルトヘボーでのリサイタルくらいであろうか。

   ユンディ・りは、5年に一度しか開かれないショパンコンクールの2000年のコンクールで、ブーニン以来15年ぶりの優勝と言う逸材で、これからが楽しみである。
   ワルシャワの食事の不味さに閉口したと言うことで、日本のとんこつラーメンが美味しいと語っていたのが面白い。
   写真が趣味で、いつもカメラを持ち歩いているようで、この日は、雲南で撮ったと言う雄大な風景写真を披露していた。  

(追記)口絵写真は、レコード会社のホームページから借用。
   
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日本政府・日銀は、どこまで為替介入を続けるのか

2010年09月16日 | 政治・経済・社会
   昨日、政府・日銀の円売りドル買い介入により、瞬時に円ドル相場が急変し、85円台にまで円安が進んだ。
   為替介入に消極的であった菅内閣の突然のアクションであったので、サプライズ効果も働いて、円安誘導への介入効果は十分にあり、アジア市場のみならず、ロンドン、ニューヨークでも介入を継続して、その額も2兆円を超えたと言うから、今現代でも、円相場は、85円の半ばを維持している。
   大方の日本の反応は良好で、輸出関連株を中心に、少し株価を戻し始めている。

   しかし、私の心配は、円ドル相場を期待の水準に維持し続けるために、いつまで、日本政府が、為替介入を続けられるのかと言うことである。
   今年に入って、スイス中央銀行(SNB)が、スイスフラン売り・ユーロ買いの単独介入を続けたが、スイスフランは対ユーロで史上最高値を更新し、SNBは、介入の中止を余儀なくされた。
   また、私の記憶に焼き付いているのは、1992年秋、ジョージ・ソロスが弱体化していた英国ポンドの過大評価に目をつけて挑戦して、ポンドを売り浴びせて、安くなったところで買い戻して莫大な利益を上げ、ポンドを暴落させて、英国は、ERMを脱退して変動相場制に移行しなければならなくなったことで、サッチャー革命で蘇っていた筈の英国を完膚無きまでに叩きのめしたのだが、その英国の苦渋と屈辱を、ロンドンにいて具に見ている。
   巨大なグローバル・ベースの経済パワーに対抗して、外国為替を支えるために必要な介入に、どれ程膨大な資金が必要かと言うことは、このスイス中銀やイギリスのケースが、如実に示しており、はるかに一国の中央銀行の予想を超えてしまっている。

   過去の日本の例を見ても、円高を阻止し、その状態を維持するための介入が、如何に、長期間を要して、膨大な資金をつぎ込まなければならないかが良く分かる。
   2003年1月から2004年3月までの1年3か月の間に、円売り介入金額は35兆円にも達したのである。
   円高の要因が何であるかによるのだが、今回の為替介入も、これ限りで済むわけがなく、今後も、政府が言うように注意深く為替の動向を監視しながら、介入を続けて行かなければならないであろうと思われるので、長期間、膨大な資金を注ぎ込んで行く力が、今の政府・日銀にあるのかどうかと言う心配をせざるを得ない。

   アメリカ議会下院のレビン歳入委員長が公聴会で、政府・日銀の為替介入について非常に憂慮すべきだと懸念を表明した。
   ドル安で、アメリカの輸出産業である製造業の業績が向上しつつあった時期であるから当然の発言であろうが、今度の為替介入で海外からの不協和音を抑えようとしていた菅内閣には、多少の誤算であった。
   オバマ政権も、輸出の拡大と雇用の創出には積極的で、ドル安政策へシフトしていたし、EUもギリシャ危機でユーロが一挙に暴落し、その結果、EU諸国の輸出が拡大するなどユーロ安を容認しており、欧米とも、為替安政策を取っているので、協調介入を期待した菅政権は、結局単独介入せざるを得ず、いわば、為替切り下げ競争になってしまった。
   しかし、昔から交易条件に絡むので、為替の切り下げには不協和音が伴うのは当然であり、日本政府としては毅然たる態度を貫くことが最も賢明であろう。

   今回の円高については、一部では、中国が日本の国債を買い始めた(これは、非常にシリアスな問題で、将来国益に絡む)からだとか囁かれたりしているが、世界的な経済状態の悪化で、先行き不確定かつ不透明になったために、資金の流れが、消去法で比較的安定していてリスクの少ない円にシフトしたからで、日本の経済が好転したからでも、日本経済に良い材料があるのでも何でもなく、外的要因による円高である。
   したがって、日本独自の努力では如何ともし難い円高であるので、非常に対応が難しい。

   また、日本の大手輸出企業が利益を本国に送還する必要があるための資金流入だとも言われているようだが、このことは、生産の海外移転をも含めた為替リスク・フリーのグローバル展開、すなわち、グローバル版の地産地消戦略との絡みで考えるべき問題であろうが、いずれにしろ、アジアを中心とした成長著しい新興国市場へのシフトが進行するのなら、日本市場・日本経済の縮小は避けられないであろう。
   グローバル・ベースでのシェアリング、バリュー・チェーンのグローバル最適化だが、これに、本格的に日本企業が取り組めば、現実的には、日本特有の保守的経済社会構造によって摩擦的に維持されている障害等が取り除かれ、一挙にスリム化して、市場や雇用の縮小となり多くの問題を引き起こすことになろう。
   
   ところで、日本政府が為替介入などで貯め込んだ膨大な外貨準備だが、その運用利回りは、日本国債よりはマシとしても、米国国債の利回りよりも低いと言う。
   中国では、一部を使って「中国投資有限公司」と言う巨大な政府系ファンドを設立して、世界戦略的な投資を始動しはじめているが、日本でも話題になった如く、先日このブログで触れた寺島実郎の為替介入投入資金を民間の資金と合わせて政府系ファンドを立ち上げると言うマドロッコシイ方法を取らなくても、この外貨準備を何らかの形でファンドに変換して、国家戦略的な投資に活用すればよい。
   為替介入で得た外貨であるから、一石二鳥だし、これだけ肥大化してしまうと、更に円高が進むと目も当てられなくなるし、リスク回避や運用利回りを気にするよりも、グローバリゼーションと天然資源の枯渇や環境問題を含めて宇宙船地球号が、危機に直面している今日、国家戦略的な視点から、日本にとって必要な天然資源やエネルギー資源などを、グローバルベースで確保すべく活用した方がはるかに効果的である。
   政府などは、企業の戦略的M&Aを説いているが、むしろ、日本政府こそが、蓄積しすぎた現預金、すなわち、外貨準備を、更なる発展のために、国家100年の計を見越して戦略的活用を図るべきであろう。
   既に、欧米では、この世界的な趨勢でもあるSWFに対して規制する動きがあり、日本のSWFが始動しはじめれば、快進撃を続けてJapan as No.1と言われた頃に、欧米の不動産を買い漁った時のように、インパクトが大きくなると思うが、日本の将来にとっては、食料、天然資源、エネルギーの確保などは、正に、死活問題であり、生命線でもあるので、果敢なる政府自らの対応が必要であろう。

   国際金融などについては、詳しくないので、この持論には誤解があるかも知れないが、要は、円高対応の介入にしろ、外貨準備金の活用にしろ、長期的な戦略的な国対応が、今ほど、必要な危機的な時期はないと言うことを強調したい。
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円高を好機とする戦略的施策を・・・寺島実郎

2010年09月15日 | 政治・経済・社会
   円高も82円台に突入したとか騒がれている。
   日本中は、民主党代表選よりも、こちらの方が問題だとする世論も強く、深刻な状態だが、私が、いつも疑問を感じるのは、自国通貨の価値が高まることが、そんなに悪いことなのかと言うことである。
   円高は、日本のものづくりの実力を世界が認めていることであり、デフレは論外としてもインフレ・フリーである日本経済の相対的な健全性が評価されていることでもあり、いずれにしろ、日本経済の実力のなせる技の反映であり、本来、国是とすべき政策であろう。

   以前に、榊原英資ミスター円のドラスティックな介入による円高対応が、結局、日本の経済の健全性を削ぐ要因となったのではなかったかと、日本の円安誘導政策に疑問を呈してきたが、昨日の講演会で、寺島実郎が、自国通貨の価値が高まること、すなわち、円高は、むしろ、日本経済としては健全なことで、問題は、日本政府に円高に対する戦略的意思が欠如していることだと説いていた。
   欧米の協調介入のない日本単独の為替介入を含めて、円高阻止のための有効な施策などないのだとして、唯一あるとすれば、禁じ手だが、日本への短期流入資金に対して課税することだと言う。

   また、為替介入する金があるのなら、たとえば、その5000億円に民間の5000億円を加えて1兆円の政府系ファンドSWFを組成して、国家として、将来の日本の弱点となる資源、食料、エネルギーなどへの投資をするなど戦略的な施策を打てとも言う。
   SWFで天然資源を確保すると言う考え方には賛成だが、しかし、これはおかしな話で、SWFなら、現在保有する膨大な外貨準備を転用すれば済む話であり、介入は介入である。
   もう一つの寺島実郎の主張は、このファンドで、日本が、国家戦略的に資源などを買収に入れば、世界が恐れて円高が危険だと悟り、円高対策になると言うのだが、かって、日本企業が欧米の目ぼしい不動産などを買収した時には、必ずしも、円安になったわけではなく、そんな短絡的に為替が動いて効果が出ると言う保証もないし、事情次第で、円高にも円安にもなるのである。

   途中で会場に入ったので、聞き違いがあるかも知れないが、気の利いた日本企業なら、既に、十分に円高に対する施策は実行しており、マスコミ報道や世論の円高危機説に便乗して、更に、コスト切り下げなどの合理化を推進しており、デフレを促進するだけだと言う。
   私自身は、円高に十分に対応できない中小企業の受注減や価格切り下げ圧力などに対する経営の対応は、極めて深刻だと思っているが、大企業については、既に、何十年もの間、円高円高と言われ続けているので、これまでに、円高対策を十分に取っておらず、経営を円高シフトにしていない企業があれば、余程、経営が拙いか、経営陣が無能だと思っている。
   それに、一頃、1ドル120円くらいで推移していた円が、今では、1ドル84円前後。企業も、この40%近い円高を利用して、豊かな内部留保の金を使って、グローバルベースで戦略的なM&Aや天然資源・原材料を抑えるなどして、千載一遇の円高チャンスを活用すべきであろうし、いくらでも、前向きの経営戦略を実施することが出来る。こんな有事の時こそ、攻撃は最大の防御である。

   尤も、今回の円高は、ICT革命とグローバリゼーションの進展で、新興国の追い上げとチャレンジが熾烈を極めた国際競争場裏での円高であり、かっての円高対応の比ではなく、イノベイティブでクリエイティブな頭脳戦争であるから、前門の狼アメリカと後門の虎新興国に追い詰められていて、日本の生き抜く道は、僅かなニッチしか残っていないので、困難を極める。
   官民一体となって、イノベーションを追及して価値を創造し、ブルーオーシャンを目指す以外に、坂の上の雲も、そして、前には道がない筈である。

   もう一つ、政府に提言したいのは、アメリカの新幹線プロジェクトにしろ、新興国の原発やインフラ整備にしろ、世界中の世紀の大プロジェクトには、政府自ら民間を率いてトップ営業を行えと言うことである。
   昔、スイスで、政府が民間企業に賄賂の渡し方を指導したなどと物議を醸したことがあるが、昔から、欧米の政府の積極的な民間営業サポートは常態であったし、今や、世紀の大プロジェクトに対しては、グローバルベースでの政府主導の戦略的な受注合戦が常識となっており、これで、日本が最も力のある筈の原発受注さえ落としてしまっている。
   政官財の癒着が問題となることが多いが、そんな低次元の話にうつつを抜かしている時代ではなく、グローバル経済戦争は、食うか食われるかの死闘である。
   政治主導と言うのなら、大臣自らが交渉の場に立ってリードし、日本の総合力を結集して当たることで、有能な官僚と実力の充満した民間企業を糾合すれば、負けるはずがないと思う。
   したがって、私は、菅内閣の新成長戦略に大いに期待しているが、もう一つの成長戦略は、菅内閣主導で、如何に、世界的な世紀の大プロジェクトの受注に成功して、日本経済に活を入れることが出来るかと言うことだと思っている。
   もう一度、株式会社日本を復活させることで、日本の生きる道は、日本が世界をリードしていると言う誇りの再生以外にはないと思っている。

   先日、サッチャーのイギリス国民に告ぐイギリス再生の「ストーリー」のことをこのブログで取り上げたが、菅首相の次の「ストーリー」が、ニューヨーク・タイムズで、世界に発信された。日本国民を再び奮い立たせる日本再生のストーリーとなることを祈りたい。
   ”I have a dream, This is to break the 20 years of blockage, to point a new way for Japan, to revive Japan and to pass a vibrant Japan on to the next genaration."
   
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リーダーの資質~菅か小沢か、サッチャーと比べて

2010年09月13日 | 政治・経済・社会
   今日の日本に一番求められているのは、リーダーの登場である。
   そのリーダ―を巡って繰り広げられているのが、民主党の代表選挙だと言われているのだが、本当にそうであろうか。

   先日、ハワード・ガードナー・ハーバード大教授の「リーダーなら、人の心を変えなさい Changing Minds」を読んだのだが、その中で、国家のリーダーとしてマーガレット・サッチャーを取り上げて、リーダーシップのあるべき姿を述べているので、考えてみたいと思う。

   サッチャーは、「私が首相になったら、すべてが変わるだろう。」と公約して選挙に勝ち、実際に、イギリス病で疲弊し落ちぶれていた英国を、商才と企業家魂を蘇らせ、組合の呪縛を解き離し、産業や重要なインフラを活性化させ、再び、アメリカとの特別かつ対等なパートナーとして、そして、世界の指導的な国家として再生させたのである。
   1980年代の初め頃、あの世界の都ロンドンの街に、処理されずに灰塵が巻き上がっていた廃墟のような時代を知っており、その後のロンドンの目を見張るような復興と、ビッグバンを成功させてシティが世界の金融センターとして蘇ったサッチャーの時代を、現地に居て具に経験しているので、惨めにも、傲慢故に追放された晩年の悲劇を除けば、サッチャーの偉業と英国への貢献には、疑問の余地はなかろう。

   切れ者でタフなたたき上げの政治家サッチャーは、間違いなく多くの英国人の心を捉え、そしてその心を変えるのに成功し、その影響力によって、イギリスをまるで別の国のように変えてしまったのである。
   リーダーの語るストーリーとその生き方とが、有権者の心を変える決め手となる。
   サッチャーのストーリーは、極めて簡潔で力強い。
   「イギリスはかって大国であった、ここ数十年で道を見失った、けれど、イギリスがその精神を取り戻すのは不可能ではない。」と言うメッセージであった。
   サッチャーが国民の信頼を得たのは、慎ましやかな家庭の出で、オックスフォードで化学と法律を学んだダブルメイジャーであり、二人の子供を育て上げ、落ち目の保守党の慎重な正当保守派として強靭な意見と原則の持ち主であることを明確に意思表示し続け、公正だが英国病の元凶となっている民主社会主義を改めて、国家の軌道を回復しようとする熱烈な祖国愛とその生き様である。

   ガードナー教授は、このサッチャーのストーリーの重要さを強調する。
   これは単なるメッセージ、スローガン、イメージ、ビジョンを送り出しただけではなく、優れた叙述の持つ本質的な要素が含まれていると言うのである。
   つまり、主人公はイギリス国家であり、ゴールは偉業の回復とイギリスに相応しい国際的役割であり、妨害物は近年の誤った談合政治や他国に平気でリーダーシップを手渡してしまう意気地なさ、労働組合の力、厄介者のイギリス連邦諸国、方向性を持った国家意思の欠如である。
   そして、サッチャーにはこれらの妨害と闘うツール、すなわち、保守党党首として送り出す調和のとれた総合政策があったが、その遂行のためには、遠慮なくものを言い、国民を意図的に、改革ビジョン、新しいストーリーに賛成か反対かで二分して、多くの人々を説得し続けたのだと言う。
   
   ガートナー教授は、サッチャーの偉業について、その成功を、心の変化に作用する7つの要素(てこ)、すなわち、理性、リサーチ、共鳴、指示の再叙述、リソースと報酬、現実世界のできごと、抵抗、夫々について分析している。
   これについては、取り敢えずの論点については関係がないので端折るが、いずれにしろ、国民の頭の中には、政治、経済、社会、文化などに関する相当な数のストーリーが入り込んでおり、反対のカウンター・ストーリーを含めて、心の巨大な闘牛場となり、生き残りをかけて多くのストーリーが、心/脳に出来るだけ食い込み、その結果として起こる行動をうながす機会を求めて、戦い、取っ組み合い、互いに優劣を競っている。
   国家のリーダーとなるためには、まず、価値あるビジョンを打ち立てて、有能なストーリー・テラーとして、国民を啓蒙し続けなければならないのである。

   さて、このサッチャーのケースだが、イギリスを、今の日本に置き換えれば、すっぽりと嵌る話ではないであろうか。
   歴史には、大国の再生の例は少ない。このイギリスの例以外には、中国が歴史上何度か再生を繰り返しており、アメリカも経済のダイナミズムで覇権を維持し続けているのだが、果たして、日本は、かっての経済的栄光を取り戻せるのであろうか。

   菅か小沢か、どちらの方が有能なストーリー・テラーかと言うことだが、悲しいかな、サッチャーの様な高邁な理想もなければ、日本の進むべき国のあり方を示した明確なビジョンもない。
   
   本論から外れるが、経済政策から言えば、2兆円の緊急対策支出と不足なら国債を発行してでも新幹線や道路などの建設のために財政出動して経済を浮揚させると言う小沢案だが、このような焼け石に水の無意味なばら撒きケインズ政策を20年も打ち続けて来たから、日本経済をここまで疲弊させ悪化させてしまったので、正に、論外。
  瞬間的には、多少経済浮揚効果があり株価などは上がるであろうと言わざるを得ない経済評論家も悲し過ぎるが、確固たる成長戦略なき経済政策では、更なる債務の蓄積で日本経済を窮地に追い込み、益々日本の将来を危うくするだけである。田中角栄時代とは、時代が違う。
   資金と権限の地方への移譲も、道州制を布くなど地方の体制を整えない限り効果なく、ナンセンス。

   一方、菅首相の「仕事が増えれば所得が増え、消費が増え、経済が活性化する。働く人が税金を払って、財政再建にも繋がる。」とする雇用を起点とした好循環論だが、風が吹けば桶屋が儲かると言った類の議論で、古今東西、雇用重視で、成熟して疲弊した経済が活性化した例がない。(雇用の重要性は、疑う余地はないし、特に、新卒者の雇用は、完全に確保すべきである。しかし、雇用と言うより、もっともっと大切なことがあるだろうと言うことである。)
   先の選挙時の消費税増税論よりはマシだが、非常事態に、唯一のキャッチフレーズとして雇用、雇用と連呼する見識を疑う。
   まだ、環境、健康・医療、アジア、観光の4分野に集中して予算を配分して企業のイノベーションと事業拡大を図るとする「新成長戦略」を、本気で実行するつもりなら期待が出来る。
   ただし、首相一人では何も出来ず、1億2千万人の国民の協力が必要だと言うようなリーダーシップに欠ける発言をするようではリーダー失格。
   サッチャーのように、敵は幾萬ありとても蹴散らして進む勇気と気概、そして、リーダーシップがなければ、この日本の難局・非常事態を乗り切ることは出来ない。

   
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TM研究会シンポジウム:2050年を見据えて日本の向かうべき方向

2010年09月11日 | 政治・経済・社会
   2050年技術・マネジメント知の育成研究会(小宮山宏会長)が、「2050年を見据えた日本の向かうべき方向~未来に向けて解決すべき課題~」と言うテーマで公開シンポジウムを開いたので聴講した。
   産業界の経営者と科学・技術両分野の学者を糾合した訳30名の知の集団と言うことだが、環境・エネルギー、人材・育成・リーダーシップ、技術革新・イノベーションと言った分科会に分かれているようなので、この研究会の大体の目的なり意図は察することが出来る。

   悲しいかな、雇用や景気刺激策だけが争点になり、日本の行く末を見据えた長期ビジョンも展望もない総理大臣を選ぶ民主党の代表選挙の不毛さは目も当てられないのだが、
   マニフェスト、アジェンダ、ロードマップなどと言った日本人には意味不明(?)の言葉が飛び交い、霞が関からは秀才の作文の様な長期ビジョンばかりが打ち出され、殆ど真面な日本の将来像を見据えたビジョンや海図が示されていない日本であるから、非常に意義ある試みであろう。
   多少気になるのは、この研究会のメンバーの大半が、先日、このブログで紹介した石倉一橋大教授の指摘する「鎖国派」の人々の多いオールド・エコノミーの代表であり、また、学者側も、直近の問題意識に近い実際派が多く、長期ビジョンや人間社会のあるべき姿などを展望できるような高邁な智者がいないことで、果たして、有効な海図を描けるかどうかである。

   この会の目指すべき方向については、小宮山会長の「これからの日本の向かうべき方向」と言うテーマで語られた、小さな国土、少ない資源、大きな人口、高齢化社会、産業先進国と言った課題先進国の日本が、率先して「低炭素化社会」を目指して邁進し、課題解決先進国になろうと言う理想に集約されている。
   このために目指すべきビジョンは、エコロジカルで 高齢者が参加し 人が成長し続け 雇用がある社会、すなわち、プラチナ社会であり、これこそが持続可能社会だと言うのである。
   市民主導で、プラチナ社会を目指して、暮らしを良くしようとすれば、新しい産業が興り、新しい雇用も生まれ、経済が活性化して、GDPが増えて国も強くなるのだと説く。

   さて、このテーマはこれとして、問題意識として気になったのは、日本の経済社会の現状を、まず、どう考えるのかと言う基本的な問題である。
   「グローバル化に対応できる人材の育成について」と言う演題で、吉見俊哉教授が、冒頭で、何の疑問も挟まずに、菅内閣の「新成長戦略」を引用して、過去の日本の経済政策の失敗は、公共工事中心の経済政策の失敗と行き過ぎた市場原理主義の失敗だとして、これからの脱却こそが、強い経済、強い財政、強い社会保障を実現し、小宮山モデルである課題解決型国家戦略だと述べた。
   問題の一つは、成熟して疲弊し切ってしまい、需要が飽和状態に達してしまった経済社会には、ケインズ政策が有効に働かない。すなわち、馬を池の傍まで連れて来ても水を飲まされないと同様に、経済を刺激して成長を促進することは出来ないと言うことを理解せずに、馬鹿の一つ覚えのように従来通りの公共投資で需要を補完しただけに終わってしまったのだが、公共工事が悪いのではなく、タコが足を食うように花見酒の経済を続けていた、そのやり方が間違っていたのである。

   もう一つの論点は、市場原理主義の行き過ぎが、消費・雇用の社会的基盤を崩壊させたと言う問題意識だが、私は、むしろ、日本経済には、市場原理が十分に働いていないことこそが問題だと思っている。あのバブル崩壊後も、ゾンビ企業の救済ばかりに汲々とし、外資を遮断して国内企業を守ることのみに腐心して、日本市場をオープンにして日本経済を、轟音を轟かせて進行するICT革命とグローバリゼーションと言う革命的な時代の潮流に晒して、激烈な国際競争に勝ち抜こうとしなかったために、生産性の向上や国際競争力の涵養意欲を削いで、経済体質を弱体化してしまったのである。
   ベルリンの壁が崩壊し、新興国や東欧諸国が資本主義市場になだれ込み、グローバリゼーションが始動し始めた1990年代の初頭あたりから、日本の市場をオープンにして、日本経済に市場原理を働かせて、企業の創意工夫とイノベイティブでクリエイティブな発想を喚起しておれば、、まだ間に合った筈で、多少の劇薬は飲んだとしても、20年以上もデフレ経済に呻吟し名目成長率がゼロだと言うこんな惨めな状態にはならなかったと思っている。
   
   小泉・竹中路線の市場原理主義の行き過ぎた経済政策が、日本の格差社会を増長して、消費も雇用も無茶苦茶にしてしまい、日本経済社会を崩壊させてしまったのだと言うのが、大方の議論だが、
   私は、”やったのが、もう遅すぎた。複雑骨折で10年以上も病床に臥し足腰立たなくなってしまった病体に、劇薬を打って荒療治を施したのだから、身体は益々悪化して死の恐怖に直面するのは当然。それが、今の日本の状態だ。”と思っている。
   日本経済そのものから言えば、現下のグローバル化した国際経済にキャッチアップして生きて行くためには、市場原理が有効に働く経済社会への転換以外に選択肢はないのであるから、極論すれば、むしろ、小泉・竹中路線が中途半端に終わってしまったことをこそ問題にすべきであろう。

   パネリストに立った伊藤元重東大教授が、日本の将来を展望して、「どこかで、どかっとくる。その覚悟が必要だ。」と語った。
   国債バブルの崩壊、日本国債の暴落である。
   起きた時にどうするか、正しい方向に向かえるように、長期ビジョンが必要だとも語った。
   
   吉川洋東大教授が、決まっていた高齢者医療制度が廃止に向かっていることを例にあげて、日本の経済社会改革には、日本の民度・民意の低さ(?)が問題だと指摘した。
   75歳で所得のある役員などに応分の負担をさせ、35歳で子育てが大変なフリーターの負担を軽減する等と言った趣旨で合意を得て決定された制度を、ネーミングが悪いなどとかで非難されると、政治家を筆頭に誰一人としてこの制度が正しいと弁護する人は居なかった。

   意外に感じたのは、日本郵船草刈隆郎相談役と第一生命森田富治郎会長が、極めて適切に日本の経済社会の問題点を浮き彫りにして、聴衆の改革への意欲と危機意識を喚起していたのだが、何故、経団連としては、総体として保守的で、鎖国派的な姿勢を脱皮できないのか不思議に思ったことである。

   さて、日本の将来だが、いくら無駄の削減で辻褄を合わせても経済の縮小均衡へ向かうだけで、経済成長を目指して、名目でのGDPをドラスティックにアップしない限り、一切の問題は解決しないし、日本国債の暴落は、時間の問題となる。
   TM研究会の目指す経済成長志向のプラチナ社会の実現を祈るのみである。
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世界経済フォーラム:世界経済力レポート2009-2010

2010年09月09日 | 政治・経済・社会
   世界経済フォーラムが、国際競争力レポート2009-2010を発表した。
   昨年首位をスイスに明け渡したアメリカが2位から更にランキングを、4位に落とした。
   日本は、デンマークとフィンランドが順位を落としたので8位から6位に浮上したのだが、他の国々の指標が、この世界的な経済混乱で上がらなかったと言う所為もある。

   日本の点数が高いのは、ビジネスの高度性とイノベーション力の項目(business sophistication and innovation)で、前者が1位、後者が4位で、トータル1位で、日本の産業の競争力が群を抜いて高いからである。
   日本企業のR&D支出が高水準であり、イノベーションを推進するための戦力となる科学者やエンジニアが豊富に存在しているのが日本の強みであり、イノベーションの創出から見ても、国民一人当たりのパテント率(100万人あたり279.1)は、米国に次いで2位である。と、WEFも高く評価している。

   しかし、基礎指標(BASIC REQUIAMENTS)は、政府(institutions)は25位、インフラ(infrastructure)は11位、マクロ経済環境(macroeconomic environment)は105位、健康と初等教育(Health and primary sducation)は9位で、トータルが26位となり、国家財政の大幅赤字が大きく足を引っ張っている。
   また、効率の向上性向(EFFICIENCY ENHACERS)の項目は、比較的良くて、高等教育と訓練(Higher education and training)は20位、商品市場効率 (Goods market efficiency)は17位、労働市場の発展(Labor market development)は13位、金融市場の発展( Financia market development)は39位、技術基盤(Technological readiness)は28位、市場規模(Market size)は3位で、トータル11位となっており、日本の金融制度の未熟性が問題となっている。

   日本の全般的な競争力は、これまで通りに、何年間も続いている異常な財政赤字(137位)の蓄積で、2009年でGDP比217.6%と言う世界最高水準の政府債務(137位で世界のブービー)と言うマクロ経済指標の弱点がもろに反映している。
   日本がランキングを上げるためには、このマクロ経済の不安定性と金融セクターの弱点を克服することだと、WEFはコメントしている。
   尤も、後者の財政と金融の悪化については、多くの国々も苦しんでいると付記しているのが面白いが、日本の場合は、異常であろう。

   このレポート作成には、日本からは、一橋大学と経済同友会、それに、石倉洋子教授たちが関わっているようであり、他国の状況は分からないが、全般的には比較的に穏当な納得の行く評価のように感じている。

   トップ10には、アジアのシンガポールが3位、北アメリカのカナダが10位に入っているが、他は、スイス1位、スエーデン2位、ドイツ5位、フィンランド7位、オランダ8位、デンマーク9位でヨーロッパ勢が占めており、所謂、カントリーリスクの低さと経済環境の優秀性を示している。
   したがって、興味深いのは、BRIC'sの中国が27位、ブラジルが58位、インドが51位、ロシアが63位で比較的評価が低いのだが、評価指標の多くが、どちらかと言えば、その国の文化文明と言うか政治経済社会の成熟度完成度に基づいているので、仕方のないところであろうか。
   言うならば、この場合の国際競争力と言っても、実感としての経済力や貿易の強さなどとは大分違和感があると言うことで、日本の格付けがボツワナと同じだと言われて物議を醸したのと良く似ているようで面白い。

   
   問題は、素朴な疑問だが、これほど国際競争力ランキングが高い日本が、何故、これほどまでにバブル崩壊後のデフレ不況に20年以上も呻吟して、いまだに、経済復興の兆しが見えずに、どんどん、国際経済上の地位が落ち、国民生活が悪化して行くのかと言うことである。
   シェイクスピアではないが、素晴らしい檜舞台があるにも拘らず、その舞台で演じる人間、すなわち、役者がすべてダイコンで、素晴らしい芝居が演じられない、芝居にならないと言うことなのかも知れない。
   
   これについては、諸説あり、私もこのブログで何度も論じて来たが、先の石倉洋子一橋大教授が、「戦略シフト」と言う非常に時宜を得た素晴らしい近著で、日本の企業の問題点について指摘しているので、触れてみたい。
   21世紀初頭に、ICT革命と資源高騰による経済構造の革命的変化が起きているにも拘わらず、その現実を直視せず、旧態依然たる経済・経営システムに固守している「鎖国派」の存在が頑強だと言うのである。
   技術の進歩や、人口の増大と偏在が資源の枯渇を原動力とする変化を加速させ、ICTによって世界がオープン化しており、場所や経歴、属性にも拘わらず個人を結び付けている革命的な変化から日本は無関係であると思い込んでいる。また、この資源や環境など人口の爆発的増大が原因で急速に悪化している地球レベルの課題から、少子高齢化や人口減少に悩む日本は独立していると認識さえしており、この変化の急激さと永続的現象であることに対する感度が乏しい。
   したがって、「次から次へと登場する、色々な企業や組織を巻き込んだオープンで新しい、かつ激しい競争」が世界のルールになりつつあるのに、日本では、経済や業界をリードする企業の顔触れが変わっていない。それ程、日本の経済および産業構造が硬直化していて、激しい時代の潮流に逆行しガラパゴス化している。
   鎖国派の鎖国派たる所以は、①ICTに対する理解と自らの経験不足、②世界が狭いこと、③試してみることの回避、であるとして、日本経済界のブレイクスルーのためには、この鎖国派メンタリティーを脱皮する以外にないと言うのである。

   戦後の復興期以降、日本が急速な経済成長を続けて快進撃していた頃は、欲しい欲しいの膨大な国民の内需と更なる成長のための設備投資・公共投資によって支えられてきたが、これがバブル崩壊で頓挫して、それ以降は、外需に頼りすぎ、どうにか、公共投資で補完して需要を維持して、鳴かず飛ばずの不況局面の経済を20年間も維持してきた。
   グローバル化した激しい国際競争場裏で活躍したのは、熾烈な競争に打ち勝った国際競争力のある優良企業と、独自技術を開発して国際市場を押さえた一握りのオンリーワン中小企業だけで、日本国全体が、「鎖国派」になってしまって、ゾンビ企業のみならず、時代錯誤かつ時代の潮流から取り残されて競争力を失った生産性の低い産業・企業を後生大事に温存し続けて、日本経済を根底から弱体化させ、轟音を轟かせて突き進むグローバリゼーションに立ち向かえなくしてしまった。
   ところが、ICT革命とグローバル経済の時代だから、成熟して成長の止まった日本に対して、情け容赦なく外圧が猛威を振るい、日本経済を益々窮地に追い込む。この国際競争力レポートには見えない日本の悲劇である。
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国立劇場九月文楽・・・鰯売恋曳網

2010年09月08日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   三島由紀夫が歌舞伎のために書いた芝居を、人形浄瑠璃に脚色して新しい装いで登場したのが、今回の文楽版「鰯売恋曳網」。
   この歌舞伎は、歌右衛門のために三島が、擬古典様式で書いたもので、先代勘三郎との舞台で人気を博し、今では、玉三郎と勘三郎が、その芸を継承し、今様御伽草子のコミカルな芝居を展開して人気が高い。

   しがない鰯売りの猿源氏(勘十郎)が、天下の美女・傾城の薄雲(清十郎)に一目惚れして恋煩いで仕事にも身が入らなくなったのを心配して、道楽を経験した遊び人の父親・海老名なあみだぶつ(玉女)が、あろうことか、猿源氏を、上京間際の宇都宮候に成りすまさせて、薄雲の座敷に上がりこませる。
   宴の途中で、疲れた猿源氏が、浮雲の膝の上で寝込んでしまうのだが、そこが、鰯売りの悲しさ、寝言で、「伊勢の国の阿漕ヶ浦の猿源氏が鰯かうえい」と商売の口上を口走ってしまう。
   浮雲に、寝言の口上について詰問されて、猿源氏は苦し紛れに弁解するが、正真正銘の鰯売りでないことを聞いて、何故か、浮雲は、落胆して泣き出してしまう。
   実は、この浮雲は、紀の国丹鶴城の姫君で、10年前のある日、街道から聞こえる鰯売りの呼び声の美しさに心惹かれて城を抜け出し後を追ったが帰れなくなって、かどわかされて売り飛ばされて傾城の身となったが、いまだに、鰯売りに恋焦がれていたのである。
   結局、最後は、浮雲も鰯売りとなりめでたしめでたしで終わるお伽噺。
   
   これだけであれば単純な話だが、初めて来た客は、傾城の望みを叶えることが決まりなので、軍物語を求められた猿源氏は、咄嗟に平家物語をパロディにした魚の名前を使った物語を語り、多少の和歌の心得があるので、寝言の言い訳を、和歌尽くしで言い逃れるの等は、並みの鰯売りではないことを示そうとした三島のアイロニーであろうか。

   玉三郎と勘三郎の生身の役者が演じる歌舞伎の臨場感と迫力には少し欠けるが、今を時めく文楽界のホープ玉女、勘十郎、清十郎の遣う人形の表情の豊かさと活き活きとした舞台展開の素晴らしさは特筆ものである。
   更に、この物語を、死の直前まで三島の傍にいた織田紘二が脚色したのを、咲大夫と燕三が作曲しており、この二人が、語り弾いているのであるから、本邦初演と言う意味からも意気込みが違う。

   私にとって印象深かったのは、浮雲のスタイルで、上手く表現できないが、非常にスマートでモダンな感じがしたのである。
   まず、顔が非常に小さく見えて、それに、桃割れの髪が耳のところで短くトリミングされていて断髪スタイルに近い感じで、パリコレのファッションから抜け出たような粋な印象で、これまでの、少し下膨れの穏やかな娘の頭とは違い、実に魅力的なのである。
   それに、さすがに清十郎で、気品のある傾城と、高貴さを感じさせる丹鶴城の姫を上手く使い分けて、魅力を倍加している。
   勘十郎の猿源氏の得も言われぬ滑稽ぶりは筋金入りで、玉女は、子故に揺れる親心と人生酸いも辛いも知り尽くした男の大博打とも言うべきペテンを仕掛けるしたたかさを何のてらいもなく演じていて興味深い。
   
   ところで、この三島の歌舞伎だが、初演当時、リアリズムに走って現代風にさらりと流した平凡なコミカルな舞台に、天明歌舞伎のような古風なシニカルなパロディ型アイロニーを意図して擬古典風に書いたので、三島は、不満だったようである。
   勘三郎の猿源氏に対して、「ばかなところがないな。ばかになりたくない一心でなんだね。」新しい近代人的な笑いを隠して内在するシリアスな笑いを匂わせるような舞台にしてほしかったと言うのである。

   この物語の眼目は、逆さまの喜劇である。
   元々水と油ほどの違いのあるものが、何かの拍子に、逆さまになり、それが、何らかの平衡状態に陥って収まると言う、そんな物語に興味を感じて、三島は、ファースとして歌舞伎の台本を書いたのであろう。
   この文楽で言えば、しがない鰯売りがお殿様に化け、お姫様が売り飛ばされて傾城になると言う身分の逆転があり、その逆転故に、二人の出会いがあって、狂った歯車が動き出して結ばれると言う有りえないような人生のアイロニーが、沸々とした笑いを誘うのである。

   さて、私が興味を持ったのは、先に書評で書いたドナルド・キーンの「私の20世紀のクロニクル」で、最初に三島に会ったのは歌舞伎座の前で、演劇は二人の友情を深める役割を果たしたと書いた後で、
   「三島は私を歌舞伎や能に誘ってくれた。文楽に行かなかったのは、東京で生まれ育ったことを誇りにしていた三島は、人形浄瑠璃を田舎芸術と軽蔑していたからである。」184p
   近松を愛読し大学で講義をし「心中天網島」を翻訳した偉大な日本文学者のキーン先生が、三島と近松や文楽について語らなかった筈はなく、三島の文楽への関心の低さは真実であろう。

   しかし、面白いのは、この文楽版「鰯売恋曳網」を脚色・演出の織田さんが、プログラムと国立劇場のホームページのインタビューなどで、死の直前の三島と文楽に関して興味深い話を語っていることである。
   死の間際に、三島から「椿説弓張月」の文楽版の上巻を受け取っており、鰯売の文楽版についても語ったとか、あるいは、歌舞伎「弓張月」の義太夫には特に力を入れて、作曲者の五世燕三の舞台は必ず見たと言っており、三島が晩年には、文楽に非常に興味を持っていて、もう少し生きておれば、文楽の新作をものしたであろうと言うのである。

   その意を対してか、あるいは、時期が来たと言うのか、織田さんは、三島への万感の思いを籠めて、咲大夫と燕三に作曲を依頼して「鰯売」を「擬古典様式」の曲に仕上げた。
   人形浄瑠璃を通して、能のように、幽玄で奥に沈潜した心の底から沸々と湧きだしてくるような上質な笑いが垣間見えれば、三島への供養となろう。
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