熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

ウィキノミクス時代のICT・・・NTT Com.Forum 2007 

2007年11月30日 | 政治・経済・社会
  NTT Com. 2007 Forumの二日目、特別講演は、「ウィキノミクス時代のICTが作るメガコラボレーション」と言うテーマで、アクセンチュアの程近智社長、NTT Com.野村雅行副社長の講演後に、日経ビジネス寺山正一副編集長の司会で、座談が行われた。
   結論から言うと、先日このブログで書いたように、和才社長にウィキノミクスやオープンビジネスモデルに対する認識がないのであるから、
   野村副社長に至っては、ウィキノミクスのウも分かっていない感じで、「外部の情報や意見は、これまでも十分に受け入れていたが、もっと積極的に取り入れよということであろう」と、情報の共有を促進し協力会社間のコラボレーションを高めるべく努力をしているとか、オフイスワークの生産性アップの為に自律協創を促進すべく、ワイガヤの雰囲気を促進するなど事務所を模様替えしてスムーズなコミュニケーションに意を用いたいとか等々、全くナンセンスな議論を展開していた。

   程社長も、ウィキノミクス時代での自律協創ネットワークの典型的な組織として、シャープの堺の21世紀型コンビナートをあげていたが、協創を例示していただけでウィキノミクスを全く無視した議論を展開し、寺山氏も冒頭に、ウィキノミクスを「小が大を食う」ビジネスモデルだと言った紹介をするなど、スタートから迷走状態であった。

   尤も、私自身は、ウィキノミクスがどうと言うことではなく、正しい方向に向かったビジネスモデルなり、成長理論であれば何でも良いと思うのだが、ウィキノミクスと言った新しい概念をテーマにして議論を展開するのなら、その言葉なり概念を十分に認識した上で俎上に載せるべきだと言いたいのである。
   少なくとも、この3人とも、ウィキノミクスの造語を世に問うた、ドン・タプスコットとアンソニー・D・ウィリアムスの著書「ウィキノミクス」(この本、500ページの大著だが非常に面白い)を、まともに読んで理解していないことは事実で、世の中には、こんないい加減な識者(?)や専門家(?)の講演があまりにも多すぎる。
   昔、ピーター・ドラッカーの著書「断絶の時代」が一世を風靡した事があるが、大銀行の頭取が、親子の断絶について語ったというマンガのような話があるが、この類である。

   ウィキノミクスは、WIKIPEDEIAのウイキと同じ概念でハワイ語の速いと言う意味の言葉WIKIとECONOMICSと合わせた造語で、デジタル化とインターネット等のITC革命による創造破壊によって、根本的に変貌を遂げたフラット化した経済社会の特質を如実に示している。
   これまでのような階層型の社会ではなくて、インターネットで繋がった世界中の何処からでも誰でもが平等にものづくりに参加できるピア・ツー・ピアのマスコラボレーション、このピアプロダクションの真髄がウィキノミクスなのである。
   世界中の人々の自由参画によるボランティア活動で出来上がっている、そして、秒単位で、どんどん高度化してバージョンアップしている事典ウイキペディアは、人類の叡智の結晶であった大事典エンサイクロペディア・ブリタニカを遥かに凌駕してしまったし、
   会社組織も何にもなく世界中のプロのボランティアが結集して日進月歩で進歩し続けて、ビル・ゲイツのWINDOWSを脅かしているピアプロダクションによRINUXなどは、このウィキノミクスの典型的な産物である。

   タプスコットがウィキノミクスの基本原理として列記しているのは、次の4本柱だが、これこそがウィキノミクスのウィキノミクスたる由縁である。
   オープン性…オープンソース、オープンシステム、情報公開
   ピアリング…組織を超えた個人の自由参加、階層構造なしの自発的秩序形成
   共有…知財、ノウハウ等の開放、
   グローバルな行動…フラット化した新しいグローバリゼーション

   このようなバックグラウンドを背負ったウィキノミクス時代において、どのようにICTがメガコラボレーションを促進して経済社会を創造的破壊に導くかが論題であった筈なのである。
   この概念からも、程社長が例示したブラックボックス尽くめのシャープの液晶21世紀型コンビナートが、ウィキノミクスの産物でないことは自明である。
   余談だが、学生時代に一緒になって京都の河原町で安保反対デモに明け暮れ、宇治や京都で安酒とすき焼きのコンパで米帝国主義を語り合ったNTTの和田会長が、来週のNECのC&Cユーザーフォーラムで特別講演「NGNの目指すもの」をやるようだが、部下のようにおかしな講演をしないように祈りたいと思っている。
   
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経営とICTの融合・・・NTT Com.Forum 2007

2007年11月29日 | 政治・経済・社会
   NTT Communications Forum 2007でのNTT Com.和才博美社長と日経コンピュータ浅見直樹発行人の対談で、浅見氏が、IMD発表の日本の国際競争力が24位と極めて低いが、その根源には、世界的にも最低水準にある日本企業のIT投資やIT投資マインドの低さと言う深刻な問題があるのではないかと問いかけた。
   また、日本のIT投資の過半は、新しいビジネスの価値を生み出さない、収益性の向上やコスト削減、業務の合理化に向けた投資で、逆に、アメリカなどは新規事業やビジネスモデルの改革など成長を指向した戦略的なIT投資が多く、この辺りにも問題があるとする。
   IT投資と経営目標との整合性、CIOと経営者の連携などと言った経営と密着した問題にしても、アメリカと比べて、日本企業の企業は、各段に程度が低いのである。

   これに対して、和才社長は、日本のIT業務のカスタマイズに問題があると言う。
   コアビジネスについては、カスタマイズは有効だが、ノンコアのサポートなどには、パッケジ型のソフトを活用するなど、何でも自前主義と言う考え方を止めて、アウトソーシング、すなわち、外部のリソースを内部に取り込む努力をすべきであると言う
   
   しかし、問題は、日本企業の場合、IT投資による効果が現れずコストパーフォーマンスが悪いのは、ITそのものの活用の仕方に問題があるようである。
   ITシステムそのものが、経営者がITをあまり使っていない、経営者の手元に必要な時に必要な情報が集まってこない、と言ったようなことが根本にあって、要するに経営と直結したIT戦略が整備されておらず、経営に活かされていないと言うことであろう。
   もう一つは、先に指摘されていたような業務合理化や生産コスト削減や納期短縮と言った内部的な価値創造の視点のみにIT戦略が向いてしまって、肝心の顧客にとってプラスになるような、顧客にとって価値のあるITシステム、或いは、新規事業やイノベーションなどと言った創造的で発展型の戦略的ITシステムの構築などを指向してこなかったIT戦略の間違いである。
   東大の松島克守教授の「経営戦略はビジネスモデルに展開され、ITで実装されなければならない」と言うITシステム構築の不備なのではなかろうか。
   
   もう一つ松島教授が指摘しているのは、ITシステムは、コネクターで結ぶようにコネクタブルなシステムでないとだめで、アライアンス企業やサプライヤーとも切れ目なく繋がらないとシステムがネックとなって有効に動かなくなると言うことである。
   このフォーラムの後半で、日産自動車の行徳セルソCIOが「日産自動車グローバルONE NETWORKでのセクリティ戦略」と言うテーマで講演していたが、日産のONE NETWORK PROGRAMでも、サプライヤーなどと直結しておらず、システム全体のコネクションはまだまだ先のようである。
   やはり、日本企業の製造業では、CADなどで、設計・生産分野でのIT,デジタル化は、非常に進んでいるものの、サプライチェーンや、デマンドチェーンをITで直結してコネクタブルにすると言う面では、アメリカ企業などに大きく遅れを取っているようである。

   ところで、和才社長の講演では、IT業務のアウトソーシングについてはスマイルカーブ論など交えて結構突っ込んだ話がされていたが、今やウイキノミクスと共創の時代においては、ICT革命の申し子とも言うべきオープンビジネスモデルによるコラボレーションがグローバルビジネスの趨勢だが、全く言及もされなかった。
   日本の得意とする擦り合わせインテグラル型のビジネスモデルとは違った、ICT革命によって培われた新モジュラー型のものづくり・サービスとも言うべきグローバルベースでのオープンビジネスあってこそのICT戦略であって、アウトソーシングと言った近視眼的なビジョンではダメである。
   インターネットや携帯端末や半導体の容量のムーアの法則的な拡張・進歩を説いても、肝心のICT技術がどのようにものづくりやビジネスモデルを変革し活用されているのかを、本質的な視点からアプローチしないとICT革命を正しく捉えられない筈である。
   このオープンビジネスモデルそのものが、松島教授の言うコネクタブルなITシステムの構築によって、限りなくものづくり世界を変革して行くのである。
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堀場雅夫:21世紀の日本は地域主権国の活性化如何・・・クラスタージャパン2007

2007年11月28日 | 政治・経済・社会
   ビッグサイトで、文科省と経産省の共催で「クラスタージャパン2007シンポジウム」が開かれ、JANBO堀場雅夫会長が、総括スピーチで、21世紀の日本の生きる道は、地域主権国家化を推し進めて、ローカルの知を結集して地域を活性化することで、クラスター構想の推進とその成功に総てがかかっていると、参集した産官学の聴衆たちに激しく檄を飛ばした。
   地方分権推進の為に、税源の移管を騒いでいるが、地方が疲弊しておれば全く無意味であり、地方の産業を育成し活性化することが緊急必須事項であり、地方が活気付けば自然と税収が増え日本が豊かになる、と言うのである。

   今回のシンポジウムのタイトルは、「地域を変えるクラスター戦略~地域から世界そして未来へ~」だが、文科省と経産省に内閣府が参画して、地方活性化のためのクラスター育成運動に厚みが増してきた。
   クラスターとは、原子および分子が、数個乃至数十個、或いはそれ以上集合した状態を言うのだが、マイケル・ポーターが、著書「国の競争優位」の中で国の競争力について、産業集積論として展開した概念で、経産省などが、シリコンバレーなどに発想を得てイノベーション立国と関連させて打ち出した産業政策の一つであろう。

   ポーターは、クラスターを、「相互に関連する企業や機関が、狭い地理的な範囲の中で、ある分野に集中している現象で、これらの企業や機関は共通性や補完性で結び付けられている。」としている。
   限られた狭い場所での目に見える企業間の競争は、強いライバル意識を醸成し、活発なイノベーションへの強いインセンティブに繋がり、地域での激しい競争に鍛えられた企業は強い国際競争力を持ち、地域全体の経済発展を促進する。
   クラスターには、関連する企業や機関が集中するが、最終製品の製造業者以外に、生産機械、原材料、サービス、教育・研究機関といった幅広い産業が含まれ、最近のクラスターには、必ず中核となる大学が存在し、極めて重要な役割を果たしている。

   ところが、日本の場合は、政府主導の官製色の強いクラスターなので、欧米のような同業種企業間の激しい競争と言うよりは、同業種企業の連携と言うか同業種の集積と言う性格が強いような気がする。
   経産省の産業クラスター計画は、地域の中堅中小企業・ベンチュアー企業等が大学、研究機関等のシーズを活用して、IT,バイオ、環境、ものづくり等の産業クラスターを形成し、国の競争力向上を図ることを目的としており、そのための産婆役、仲人役としての産業クラスター機関を日本各地に展開して事業化支援を推進して行こうと言うことである。

   堀場会長は、現在の日本には、事業化のためのシーズは無限に転がっており、ここで事業化しなければ、何時何処でやるのか、これほど起業に恵まれた時はないと言う。
   しかし、最初に噛み付いたのは、一円株式会社制度で、資本金が一円でも、定款認証や登記など会社設立には31万2千円必要であり、金がないと仕事が出来ない。事業化し、会社が回りだして利益を上げるためには大変な努力と費用が要り、また、それを成功裏に継続させる為には更なる資金が必要で苦難が待っている。一円で会社さえ設立すれば、上手く行くなどと言う考え方は、根本的に間違っている、と言う。(この新会社法の推進者は、経産省だと言うことを承知で言っておられるのであろう?)

   地元京都の会社について面白い話をした。
   京都の会社で、本社を東京に移したのは一社もない。
   京都では、東京移転は「都落ち」と言うので、東京に移ろうと言う会社が出てくれば、「かわいそうやなあ。つぶれるんやったら、みんなで助けたろか。」と言う話になる。
   売上の三分の二以上は海外だから、東京を向く必要がない。
   京都は2%経済で、京都の会社は、1兆円と言うトランプ会社は別として、みんな中小企業で、会長が一人でやっている。
   空気の悪い東京に居るより、京都で芸子さんと遊んでいる方が活力が出る、と言うのである。
   中小企業とは言い過ぎだが、京都の会社は、どれもこれも優良企業で業績の良い会社が多い。京都の風土と文化と歴史が、独特の経営哲学と経営を育むのであろう。これこそ、優良なクラスターである。
   優良企業と言うのは、鳴り物入りで育成しなくても、反骨精神逞しいアンテルプルヌールが築き上げるものなのである。
   
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NHK:クローズアップ現代・・・狙われる退職後の夢

2007年11月27日 | 生活随想・趣味
   今夜、夜道を家路に向かう途中、携帯ラジオでNHKの7時のニュースの後、クローズアップ現代を聞いていたら、”狙われる退職後の夢”をやっていて、海外でのロングスティや自費出版で、騙されて夢破れた人々の苦衷を放送していた。
   団塊の世代の退職金が50兆円と言うのであるから、騙す騙さないは別にしても大変な購買力で、雲霞の如く金に狙いを定めて悪徳業者が鵜の目鷹の目で擦り寄ってくることは間違いない。
   私自身は、海外生活が長いので、異文化との遭遇の中で結構苦い経験も重ねてきているので良く分かるが、島国根性で排他的な日本人の特色として、純粋培養の所為か、人が良いというか馬鹿と言うか、お人好しで外には無防備なので騙され易いのである。

   良く例にあげるのだが、典型的な例はアラブ商人の話である。売り買いは鎬を削った両者の智恵の応酬であって、アラブ商人は、たとえ価値がなくても自分の商品を客に如何に高く売りつけるかがその商人の才覚で、自分の智恵を絞って、嘘も方便、口から出任せの三百代言を並べてたてて高く売りつけようと努力する。
   実際に価値が200ドル程度の絨毯でも極端に言うと1000ドル位の高値でオファーしてくるが、こちらから50ドルなら買うと粘ると、500ドルくらいには下がってくる。
   それなら諦めたと言って店を離れると、「ミスター、ミスター」と言って必ず後から追っかけてきて、結局300ドルくらいになって、手を打つことになる。

   客を騙して高く売りつけると言うのは商人の勲章で褒められこそすれ非難されることではなく、騙したという罪の意識など全くある筈もない。日本商人なら、多少心の疼きがあろうが、中国商人も含めて世界の多くはこれがノーマルな商習慣で、東京人がこだわる正札販売など、世界では少数派かも知れない。
   ケテルビーの「ペルシャの市場にて」と言う曲は実に旅情を誘う美しい曲だが、アラブもペルシャも、市場はそんなものであることを日本人は知らないから、夢のような生活が出来ると思って「魅惑の海外ロングステイ物語」に安易に乗って騙されるのである。

   余談だが、この世の中には、自分だけ得をする夢のような話などある筈がない。
   安易な投資話で騙される人々が跡を絶たないが、多少のタイムラグで悲喜劇が起こることがあるとしても、ぼろ口の儲け話がなければ、有利な投資話もある筈もなく、理論的には、株も外貨も土地もどれに投資しようと同じで、チャンスは総て平等な筈なのである。
   ここだけの話などと言った話に、良い話があったためしがない。

   ところで、海外でのロングスティであるが、島国気質の日本人が、まして、長い間日本に住み着いて外国生活の経験もない定年を迎えたようなコチコチの日本人が、余程の変わり者でない限り、日本より生活水準の低い国で長く住める筈がないと思う。
   水も空気も違う国で、言葉も不自由でカルチュア・ショックに耐えて生活をおくれるかどうかがまず第一の関門だが、病気など生活上でトラブルが起こればどう対処するのか、日本以上に環境が整備されていなければ、忽ちお手上げの筈である。
   サンフランシスコやパリなどにアパートを持って、何時でも日本の自宅に帰って生活出来ると言った二重生活が精々のところであろうと思う。欧米等で14年生活して十分に海外生活を楽しんできた(?)私でさえそう思うのだから間違いない。

   もう一つの自費出版だが、普通の出版のように売って儲けると言う商売ではなく、出版させて儲けると言うビジネスモデルであるから、何でも良いから本を作らせれば商売になる。
   普通の書物でさえ、大半は返本させて裁断機にかけられて焼却されると言うのに、文才もない素人が本を出せば、一般書店に並べられて売れるなどと言う夢を抱くこと自体が幻想だが、それさえ分からずに自費出版をする人が多いと言う。
   政治家が政治運動に本を出すのなら分かるが、個人では、精々何かの記念に自費出版して友人に配布する程度が関の山で、貰った友人も、ブックオフにさえ持って行けないので、処分に困るかも知れない。

   NHKは、狙われる退職後の夢とタイトルをつけて、不幸にあった人を被害者のように扱っている。しかし、まだまだ、正しいことが正しいとして総てが通るような完璧な社会から程遠いのが日本であるから、自分自身が賢くならなければ生きて行けないのだと言うことであろう。
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映画:ALWAYS続・三丁目の夕日

2007年11月26日 | 映画
   アカデミー賞を取った前編の「ALWAYS三丁目の夕日」を見ていないので後先が分からないが、あんな良き時代があったのだなあとしみじみと懐かしさと感動を噛み締めながら見ていた。
   昭和34年頃の、東京タワーの足元の三丁目の庶民の生活を舞台にした映画だが、まだ、高速道路が建設されていなかった頃の実に明るくてオープンな日本橋の風景が感動的である。
   3DCGの素晴らしさは映画の随所に展開されていて、当時の風景と錯覚するほどリアルな羽田空港や東京駅の風景、それに懐かしい走り始めたばかりの流線型の特急こだまとその車窓を流れる当時の東京の街工場の家並みなど、当時の日本を知っている私には、正に感激の連続であった。

   34年は、私がまだ高校生の頃であったが、皇太子殿下のご成婚で美智子さまにあやかって結婚ブーム、ブルーバードが発売されて自動車時代が到来、お手軽住宅のプレハブ登場、等々日本経済が成長に向かって始動し始めた時期であった。
   石原裕次郎の「嵐を呼ぶ男」に列を成し、ドラムのリズムに合わせて熱狂する観客の様子などがこの映画にも出てくるが、あの当時の劇場街風景の一端は、今でも少しだけ浅草ロックに残っているような気がする。

   渥美清に薫陶を受けた吉岡秀隆が、ボーっとした寅さんの面影をどこか色濃く残した浮世離れした小説家茶川竜之介を実に感動的に演じていて、それに、寄り添うようにくっ付いて離れない須賀健太の古行淳之介、それに茶川を思い続ける踊り子石崎ヒロミの小雪が何とも言えない味を出していて泣かせる。
   踊り子の身を恥じて金持ちの後家さんになろうと決心してこだまで大阪に向かうのだが、芥川賞の候補に上った茶川の作品を読んで、落選して悲嘆にくれる茶川の前に帰ってくる。茶川の小説のタイトルが「踊り子」。万感の思いを込めて愛するヒロミを思って書いた小説、「読んでしまったら何処へも行けない」と言って茶川に抱きつく小雪のいじらしい姿がたまらない。
   私が小雪を映像で見たのは、日経新聞のコマーシャルで、素晴らしい女優がいるなあと思ったのが最初で、その後映画やTVでちょくちょく見ることになり、現在は、松下のビエラのイメージが強烈であるが、あの自分を押し出さない控え目な女性らしさが、今回の映画でもそうだが、何とも言えない小雪の魅力である。

   副主人公の鈴木オートの小学生鈴木一平(小清水一揮)の一家、父則文(堤真一)と母トモエ(薬師丸ひろ子)、はとこの美香(小池彩夢)、住み込み・星野六子(堀北真希)が、正にあの頃の典型的な町工場の住人達であったのであろうか、とにかく、温かくて優しくてほのぼのとした家族的な雰囲気が何とも言えない。
   男気があり気風の良い江戸の職人風の主人を堤が好演しており、それに、薬師丸も実に素晴らしいお母さんになったもので滋味溢れた優しさと温かさが良い。戦争の悪戯で分かれた昔の恋人山本信夫(上川隆也)との偶然の日本橋上での再会が爽やかな挿話で雰囲気があって面白い。
   奇麗事だと言えばすべてそれまでだが、やはり、あの当時はこれが本当だったと思うし、今の時代のように、親が子を殺し、子が親を殺めるような殺伐とした家族関係などは殆ど考えられない時代であったと思う。

   悪い男が、芥川賞選考人だと偽って気の良い三丁目の住人達を騙して、芥川賞をとる為に賄賂を贈る必要があると言って、茶川や住人達からなけなしの金を巻き上げたり、ニセモノの万年筆をパーカーだと偽って露天で売るなど一寸した暗いシーンもあるが、全編善意と愛情に彩られた古き良き時代の物語で終始する感動的な映画である。
   私は、寅さん映画と同じで、人畜無害のこのような善意の人物が主人公の映画が好きである。

   最近は、この映画は漫画のようだが、昨夏見た「HERO」はテレビドラマで、漫画やテレビで人気の出たストーリーを映画にすることが多くなっているようだが、やはり、昔のように文学作品や戯曲が映画になることが少なくなってきたのは時代の趨勢なのであろうか。
   やはり、前奏曲が流れ、途中にインターミッションが入るような大作映画が出なくなってしまったには寂しい感じがしている。
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NHK:インドの衝撃・・・湧き上がる頭脳パワー

2007年11月25日 | 政治・経済・社会
   年初に放映されたようだったが見なかったので、NHKスペシャル報道班編「インドの衝撃」を読んだ。
   三部構成だが、最初の「湧き上がる頭脳パワー」が、今世紀のインドの衝撃的なグローバル舞台への登場を最も如実に語っていると思った。
   ゼロを発見したインド人の数学能力の卓越性は昔から有名であったが、やはり、その最も重要なスタートは、200年のイギリス支配からインドが独立した1947年に、時のネルー首相が、唯一の資源「頭脳パワー」による「頭脳立国」を標榜し、建国の為に、ダムや発電所、道路など国家の基盤となるものすべてを自ら作り出すことを企図して、 技術エリートの養成を目指して設立したIIT(インド工科大学)そのものであろう。

   IIT設立の場所は、多くのインドの知識人が、インド独立の為に戦って犠牲になった政治犯を収容していたイギリスの刑務所の跡・カルカッタに近いカラグプルである。
   同校の正面にネルーがモットーとした言葉:国家の為に身を奉げる(Dedicated to the service of the Nation)が掲げられていると言うが、NHKの取材では、必死に学ぶインドの若者達は、すべて異口同音に国家のため人のために頑張って勉強しているのだと言う。

   多くの優秀な技術者や学者を輩出し続けたIITだが、経済の低迷した貧しいインドには活躍の場がなく、多くはアメリカなど海外に出かけて行かざるを得なかった。
   しかし、1990年代に入って、ゴア副大統領の「情報スーパーハイウエイ構想」とインターネットの民間解放に呼応して爆発的に進展したIT革命が、IIT出身のインドパワーを炸裂させたのである。
   コンピューターソフトの需要が増加して、アメリカのIT企業の中枢に多くのIIT出身者が活躍しており、シリコンバレーをITブームにした起業家たちの15%がインド人でその殆どがIIT出身であった為に、同じくIIT出身でボストンに事務所を構えていたムルティのインフォシスなどを積極的に後押しし、一挙に、IT産業のアウトソーシング、オフシャリングが、インドに伝播して行ったのである。
   一世を風靡したフリードマンの「フラット化する世界」を発想させたのは、バンガロールにおいて、インフォシス本社で、ナンダン・ニレカニCEOの示唆であるといっているが、長い間眠り続けていた悠久の国インドが、何千年紀ぶりに世界文明の中心に躍り出たことを示す感動的な逸話である。

   農業や工業が、まだ、発展途上国の著についたばかりの貧しいインドが、一挙に最先端の情報産業にキャッチアップして、ロストウなどの経済発展論を覆してしまったのである。
   リチャード・フロリダの説く知が総てを制する「クリエイティブ・クラスの時代」の到来であり、国の命運を決するのは、軍事力でも鉄でも天然資源でも資本でもなく、頭脳なのであると言う厳粛な事実を如実に物語っている。

   このIITだが、学問水準はとも角、入試難易度は、アメリカのMITより遥かに高い超難関校であると言う。
   NHKは、この超難関校IITを突破する為に、最も貧しいビハール州のトタン屋根の予備校に犇めき合って必死に学ぶインドの若者達の感動的な姿を活写している。
   ケンブリッジ大学に招聘されながら渡航費など工面できなくて涙を飲んだ偉大な数学者アーナンド・クマールが、二度と子供たちに同じ苦渋を味わわせない為に、自力でトタン屋根の「ラマヌジャン数学アカデミー」を設立し、貧しい優秀な子供たちに奨学金を与え、IIT合格率ナンバーワンの学校を作り上げてしまったのである。

   世界のトップ企業を支える技術を開発し続けるインフォシスの快進撃の秘密は、頭脳が総てだと、ムルティは言う。
   成功の秘訣は、優秀な人材に拘り続けたことで、その優秀な人材に、品質の高いテクノロジーを備えさせ、彼らが存分に力を発揮出来るようしてきたことだと言うことだが、常に自分より優秀な人材に囲まれていなくてはならない環境を作り上げたということでもある。
   
   文部科学省が中心になって偉い人たちが、色々と日本の教育のことについて熱心に議論を展開しているが、バカな考え休むに似たりで、国立大学も独立行政法人化して多少突き放したお陰で独立独歩の革新的な歩みをし始めてきた。
   これほど文化文明の成熟した日本であるから、教育基本思想さえしっかりしておれば、ロクスッポ勉強もしてこなくて功なり名を遂げた学識経験者(?)などの諮問や意見など無視して、学校教育は出来る限り自由な運営に任せて、モラル欠如の学校やNOVAのようにのりを外せば行政介入すれば良いと思っている。
   欧米の水準には到底及ばず、インドや中国の追い上げについて行けるはずもない日本の教育をどうするのか、たった一人の優秀な人材を育成する為にも少なくとも最低25年を要するのだが、このままでは今世紀後半の日本の将来が思いやられると言うものであろう。
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大学の試練と挑戦(4)・・・大学のランキングとエリート教育

2007年11月24日 | 政治・経済・社会
   討論のセクションで、舟橋主筆が他にテーマに上げたのは、大学のランキングとエリートとは何かと言うことであった。
   ランキングについては、拘泥しすぎると問題だが、関係者にとっては参考にはなると言った常識的な意見や、一面から見た固定観念からの、それも過去に対する視点からの評価で、画一化を引き起こすと言った批判的な意見などが戦わせられていた。
   エリートについては、何をもってエリートと言うのかと言った議論から、考え方に相当差があって面白かった。

   日本では、私たちが学生の頃は、大学のランキングについては、旺文社や予備校の影響が強かったのか、或いは入試突破そのものが最大の関心事であった所為なのか、入学難易度が即大学の良し悪しのランキングであったような錯覚があった。
   最近では、逆に就職率や出世率、人気度など社会的評価の方が強くなっているようだが、欧米のビジネス・スクールのランキングのように、総合的な調査によるようなランキング付けはないように思う。
   何れにしろ、日本人一人一人の頭の中に、大学のイメージがあって、夫々のランキングがあるのだろうし、私自身は、自分が何らかの形で関わる大学が良い大学だと思っておればそれで良いと思っている。

   私の場合は、関西を離れることは無理であったし国公立以外の大学は望めなかったので、可能な範囲で、古都への憧れもあって京都を選んで入ったということなので、偉そうなことは言えないが、学ぶ楽しさを少しづつ知り始めて、勉強に身を入れ出したというのが正直な所である。
 
   しかし、あの頃の京都の学生(理科系は分からないので文科系)が、本当に真剣に勉強していたかどうかと言うのは疑問で、勉強の厳しさを実感したのはアメリカのビジネス・スクールに入ってからであった。
   他でも書いたが、ウォートン・スクールでの多くの単位取得科目の内、経済学はマクロとミクロのたったの2科目だけだったが、この授業だけで優に京都の4年間で学んだ経済学よりも遥かに質量ともに勝っていた。
   サミュエルソンの「経済学」など、4回くらいの最初の授業で終わってしまい、後半の授業では最新の経済学論文を読みこなす所までいくのである。

   大学生だけではなく、教授の授業も甘かったと思う。
   中谷巌教授が、昔は、欧米から最新の専門書が国会図書館に入ると学者がその本をブロックして独占し、それをネタにして論文を書き、それだけで業績となったと語っていたのだが、要するに一冊の洋書を一年間講義していて授業になったのである。
   ところが、アメリカのビジネス・スクールに入ってみると、例えば、マーケティング学一つにしても、教授が利用していた本以外に何冊も専門書を読み、そして、他にも数多くの論文など資料を読んで勉強しないと単位を取得することが出来ないし、勉強量が桁違いに違うのであった。

   最近は知らないが、あの頃の学生は、デモや学園紛争にうつつを抜かしていたばかりではなく、雀荘に入り浸っていたりアルバイトに奔走していた輩も多かったのだが、入りさえすれば出してくれた大学のシステムそのものがどこか狂っていたのである。
   海外駐在員の大半は、そんな勉強不足のランキング上位の日本の有名大学卒のエリート(?)なので、厳しい教育を受けて訓練されてきた欧米の一線級のビジネスマンは、五玉をはねてまともには相手にしていなかったような気がする。いくら日本経済が飛ぶ鳥を落とす勢いであってもである。
   
   ところで、ランキングだが、ヨーロッパで仕事をしていた頃、幸いにも、ビジネスウイークでも、ファイナンシャル・タイムスでも、ウォートン・スクールのランクはビジネス・スクールのトップだったので、私にとっては暗に陽に結構役に立った。
   ヨーロッパ人が、私自身を自分たちの仲間に入れてくれたからである。

   さて、エリートと言う言葉だが、日本のパネラー達は、エリートとは泣ける人間だと言った宮田亮平芸大学長以外は、どうしても良い大学を出た人間がエリート候補生であり、大学でこそエリート教育を行うべきだと言う考え方に近いような気がした。
   しかし、リチャード学長など、英国ではエリートは社会的エリートと言う意味でしか使わないが、大学でのエリートと言うのは、どういう意味か、イノベイティブでクリエイティブな頭脳を持つという意味かと聞いていて、完全に温度差があった。
   丹羽会長が、エリート論を聞かれて、ノブレスオブリージェを持った教養力と人間力を備えた人間で、人、仕事、読書で育つ。部下に対して責任を持って対し、必要なら自己犠牲を厭わずに行動し、ドネーションの心を持った高潔な人物である。と言った話をしていた。
   
   私自身は、エリートなどと言うものはないと思うが、もし皆が考えるエリートが必要だとしても、知識水準で人を評価する日本の大学にはエリート教育は無理だと思っている。
   昔は下級武士でも武士は食わねど高楊枝と、武士としての誇りを持っていたが、今のトップ(?)大学を出た高級官僚の公僕と言う認識さえ欠いた体たらくや著しく企業倫理の乏しい経営者の所業を見ておれば、日本の何処にも誇りを持った高潔な指導者を育成する場がなくなってしまっていることが良く分かる。

   イギリスには、貴族制度があってエリート思想そのものが伝統的に維持されており、ハロー、イートン校やオックスフォード、ケンブリッジなどと言う典型的なエリート教育の場がある。
   また、貴族制度がなくなったフランスでは、ポリテクやENAと言った今様貴族を育成する目的で設立されている超名門校があり、そのための教育と場が確立されている。
   ヨーロッパでは、昔から、戦争をすると貴族やエリートが先頭に立って敵陣に打ってでるので、人的資源の消耗や損失が激しいために国力が疲弊するので戦争忌避思想が強いと聞いたことがある。
   ノブレスオブリージェの思想やキリスト教の施しと言った貴族や指導者に備わった厳しい倫理観とともに、人間として、或いは、国家への高潔な義務感と言った裏づけのあるヨーロッパと、武士道さえ失ってしまった日本とでは、大分違う。
   今のバカバカしい全く末梢的な問題ばかりで政争に明け暮れている政治の現状を見れば、日本は、一般庶民の高度な倫理観と企業などの素晴らしい現場力だけでどうにか持っている国のような気がして悲しくなってくる。
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ミュージカル:ウーマン・イン・ホワイト・・・青山劇場

2007年11月23日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   ニューヨーク・タイムズが、「オペラ座の怪人」と「レ・ミゼラブル」の再来と称したアンドリュー・ロイド=ウェーバーの新しいミュージカル「ウーマン・イン・ホワイト The Woman in White」が日本版で青山劇場で上演されている。
   1860年に、ウィキー・コリンズが著したビクトリアン・スリラーの傑作と言われた「白衣の女」が底本だが、出版と同時に友人のディケンズが絶賛し、ベストセラーとなってそれ以降ずっと再版され続けていると言う。
   私自身は読んだことがないけれど、岩波で3巻本で発売されているが、時の首相グラッドストーンが夢中になり、白衣の女香水や時計、ボンネット等が売り出され、はては、白衣の女ワルツ、カドーリールまで現れ熱狂的な人気を博したという。
   とにかく、ロイド=ウェーバーの中でも極めつきに素晴らしい音楽で、最初から最後まで甘美な美しいメロディーが聴衆を魅了する。

   ロンドン版はトレーバー・ナンの演出と言うことで人気を博しているが、青山劇場では松本祐子演出で、写真では雰囲気が大分違うようだが、パネル様式のバックを上手く使いながらテンポの速い舞台展開で、十分に19世紀のイギリスの雰囲気を出した素晴らしい舞台である。
   私自身は、ロンドンに居た時に、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーに通って「冬物語」などトレバー・ナンの絵のように美しい素晴らしい舞台を楽しんでいたので、是非、ロンドンに行って、まして、オペラ座の怪人を初演したと言うロイド=ウェーバーの劇場パレス・シアターで、オリジナル版を見たいと思っている。

   次女が好きだったので、マジェスティク・シアターへ、オペラ座の怪人を見に3回ほど通ったことがあるが、私自身は、ロンドンで「キャッツ」、ロサンゼルスで「エヴィータ」くらいしかロイド=ウェーバーの作品を見ていないが、ロンドンでは、何かとマスコミなどでウェーバーのニュースは聞えてくるので親しみを感じていたが、やはり、あれだけ素晴らしく美しい音楽を生み出せるのは流石だと思っていた。

   タイムズの公演評など見ていると、「ミュージカルを遥かに超えた、ロマンティックで壮大な、途轍もないオペラ。尊大で爆発するようなヴィクトリア朝のメロドラマ。逆巻く愛と陰謀の物語による視覚芸術の饗宴。偉大で・・・」とべた褒めだが、それほどでもないとしても、とにかく、2時間半のミュージカルとしては十分に楽しめる素晴らしい舞台である。

   貧乏画家のウォルター・ハートライト(別所哲也)が、地方地主フェアリー家の姉妹・異父姉マリアン・ハルカム(笹本玲奈)と妹ローラ・フェアリー(神田沙也加T)に絵を教えるためにやって来るが、途中で、白衣の女(山中カナコ)に出くわす。
   ハートライトは、ローラに恋するが親の決めた許婚パーシバル・グライド卿(石川禅)が居るので、諦めてロンドンに帰る。
   二人は結婚するが、グライド卿はフェアリー家の遺産が目的で悪友の医師・フォスコ伯爵(上條恒彦)と共謀して、ローラを白衣の女にすり替えて精神病院に送り込み、白衣の女をローラの身替りにして殺し遺産を相続する。
   二人の悪巧みを知ったマリアンが、ロンドンの貧民街にいたハートライトと協力して精神病院のローラを探し出してグライドの悪を暴き出し追い詰める。逃げるグライドは汽車に轢かれて死ぬ。
   白衣の女は、ローラの父が召使に生ませた異母姉で、グライドに母子とも秘密裏に預けられたが、グライドは母を殺して娘・白衣の女を精神病院へ送り込んでいたのである。
   こんな筋書きだが、実際のコリンズの小説からは多少脚色されているようである。

   ところで、この舞台を支えていたのは、正に主役マリアン・ハルカムを演じた笹本玲奈である。容姿も声も、それに演技も舞台栄えがして中々素晴らしい。
   数ヶ月前、「マリー・アントワネット」でマルグリットを歌ったのを見て注目していたのだが、やはり溌剌としてパンチの利いた素晴らしい舞台で、それに、恋を知り染め少し女の雰囲気を醸し出して来た憂いを帯びた表情が何とも言えず魅力的で、日本のミュージカルを背負って立って行く歌手だと感じた。
   欲を言えば、まだ荒削りで不安定なところがあり、このブログでも書いたが、このまま上り詰めると、素質と能力がありながら日本の舞台だけでは限界が見えているので、今のうちに野村萬斎のようにロンドンかブロードウエィに行ってみっちり他流試合を経験して芸を磨いた方が良いと思う。

   ローラの神田沙也加だが、松田聖子に良く似たイメージが邪魔をするのか、歌も演技も可なりしっかりしていて、お母さんよりは芸術家ハダシだとは思うのだが、可愛さが先に立って、このミュージカルの実質的な主題である主役・富裕な地方地主フェアリー家の唯一の後継者としての風格なり威厳に欠けるので、舞台に重みがなくなっている感じがした。
   どうしても、あの頃のビクトリア朝のジェントルマン階級のイメージとしては、ブロンテ姉妹の嵐が丘やジェーン・エアーのようなどこか陰鬱な陰に籠もった独特の女の雰囲気が欲しいと思ったのだが、神田沙也加嬢だけに期待するのは酷であろうか。
   昨年末の大地真央との紫式部物語の中宮彰子からは、大分芸にふくらみが出てきた感じである。

   ハートライトの別所哲也は、実に美声で歌も演技も上手くてさすがだが、如何せん、一寸大人の画家の雰囲気で、若くて溌剌とした二人の姉妹とのラブロマンスのムードに欠けるのが難点であった。
   グライド卿の石川禅だが、レ・ミゼラブルのマリウスやマリー・アントワネットのルイ16世などと言ったいい男を見ているので、灰汁の強い極悪人を如何に演じるのか楽しみであったが、あの虫も殺さぬような紳士然とした姿が一転して邪悪な金の亡者に変身するあたりなど胴に入っていて上手かった。
   悪徳医者の上條恒彦だが、やはりベテランの味で、緩急自在の演技が冴えていてボリュームのあるバリトンが心地よかったが、もう少しあくどさを強調しても良かったのではないかと思った。

   ローラの叔父で後見人のフェアリーの光枝明彦は、劇団四季のやはりベテランで存在感十分。
   暗い所ばかりの出で気の毒な白衣の女の山本カナコだが、雰囲気のある歌の上手い歌手で、中々美人でありもっと表に出て活躍できるのではないかと思った。

   幕が開くとガード下のトンネルの雰囲気で、その上の二階の位置にオーケストラがあって途切れることなく素晴らしい演奏をしていたが、音楽監督・指揮の塩田明弘の活躍あってのロイド=ウェーバーであることも忘れてはならない。
   とにかく、美術・照明・衣装等々多くの人々の協力あっての三拍子も四拍子も揃った楽しい舞台であった。
   
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人権活動の最前線から・・・ノーベル平和賞シリン・エバディ弁護士

2007年11月22日 | 政治・経済・社会
   小柄で物静かなペルシャ婦人シリン・エバディさんが、イランでの女性と子供のための壮絶な人権運動について、淡々と語りかけて、読売新聞とNHK主催「平和フォーラム東京」で共立講堂に集まった多くの聴衆たちに、平和の尊さを訴えた。
   悪の枢軸とブッシュ大統領が名指しで非難するイランからのノーベル平和賞の闘志である筈だが、語りかける印象も話も全く我々と同じ次元の平和と民主主義の話で、何故あれだけイランが世界から非難されるのか、現実のイラン像は、やはり、アメリカが作り上げた虚像であると言う気がするのが不思議である。

   科学技術は大変な進歩を遂げたが、国によって異なるものの、男女間の権利格差は依然として大きく、最も進んでいる筈の北欧でも男女同権への運動は盛んであると口火を切って、エバディさんは、イスラムでの女性差別について語り始めた。
   サウディアラビアでは、最近まで女性の身分証明書さえなく国民として認められなかったし、今でも女性の社会的活動はダメで運転も禁止されている。
   女性の割礼を行っているイスラム国がまだ残っている。
   バーレンやクウエート等他の国でも、女性は二流市民で、一夫多妻で、男の値打ちは男の子が何人生まれたかによって決まるらしいし、息子の名前で呼ばれる母親も居ると言う。
   余談だが、そう言えば、昔シリアのビジネスマンが日本に来て接客した時に、丁度慶応大の医学部で男女の生み分けが出来る方法を発見したと言う報道があり、その客が、女の子ばかりで男の子を産まなければ男として面子が立たない、男として認められないので是非その方法を詳しく調べて教えてくれと私に懇願したことがあった。
   アホとチャウカと言って相手にしなかったが、継承は男でないとダメだという国がどこかにあるのを思い出して口を噤んでしまった。

   イランの話だが、大学生の65%は女性だと言うのに、女性の選挙権はスイスより早く50年以上も前に認めれれたと言うのに、女性の地位は法律で決められていて、男女差別が激しい。イスラムの教義にも、コーランにも何の根拠もないのにであるとエバディさんは言う。
   妻は4人まで持てて、男は何時でも妻を離縁できる。
   女性の命の価値は男性の半分で、法定の証言や発言でも、どんなバカな男でも一人で出来るが、判事で裁判長まで勤めたエバディさんでも女ゆえに、女二人一組でないと証言できないのだと言う。
   判事の職を追放され秘書に格下げされたので司法試験を受けて弁護士の資格を取ったらしい。女性が裁判官になれないとはイスラムには規定がないことを認めさせるのに13年もかかったが、法律を認めないので判事には戻れないのだと言う。
   女性が仕事や旅行をする為には夫の許可が必要なので、今回の日本への旅行には主人の許可書を貰ったと言う。

   女性の権利伸張キャンペーン、フェミニズム運動だが、指導者も中央組織もなく各家庭組織で戦っているようだが、その効果もあって、離婚した時の子供の親権については、それまで、母親の親権は、男2歳、女歳7歳までだったが、今では男女7歳までとなり、その後は裁判所が諸般の事情を勘案して判断することになったらしい。

   男性中心主義の考え方が間違っているのだが、問題は、何の根拠もないのに宗教のドクトリンだと勝手な解釈をされているので政教分離すべきだと言う。
   女性は、間違った文化の被害者だが、このように考える男を育てているのは女であるから、女は加害者でもあると言うあたりは中々ユニークである。
   女権伸張キャンペーンは、対面方式の署名集めで100万人の署名を集めて世界の世論を動かすのを狙っている。
   インターネットでのキャンペーンも行っているが、政府がすぐにホームページを閉鎖するので又新しく再開するなどイタチゴッコが続いているらしい。
   完全男女同権まで戦い抜くのだと言う。

   エバディさんの強調したのは、いくら合法的に選ばれた大統領であっても、人権尊重の宣言をしない限り、ヒットラーと同じで意味を成さないと厳しい。
   多数の支持で選ばれても、何をしても良いということではなく、人権の尊重と言う枠組みの中でしか権力を振るえない筈だと言うのである。
   あらゆる差別をなくすフェミニズム運動こそ、完全男女同権、人権の尊重を目指す民主主義への戦いだと何度も繰り返していた。

   最後に言いたいと言って、文明の衝突と言うハンチントンの理論は間違っている、文明の衝突が起こっているのは、現実の戦争だけで、アメリカに敵対するタリバンやイスラム急進派を育てたのはアメリカ自身である。
   西洋とイスラムと言った文明の違いや宗教の違いは、絶対に対立や紛争を引き起こす要因ではない。
   この文明の衝突論は、冷戦後の強大な軍事支出を糊塗する為のアメリカの教育に起因するもので、西洋とイスラムの対立はあり得ない、あるなら、サウジアラビアや他の親米イスラム国家が存在するのはおかしい筈だと言うのである。
   私自身は、殆どエバディさんの説に賛成で、イスラム急進派の動きや凶悪テロの原因はアメリカのイスラム・アラブ政策と外交にあると思っている。

   エバディさんの講演の後に、旧ユーゴ戦犯法廷判事であった多谷千香子法政大教授が人権について語り、ドバイでの西洋とイスラムの協調などに触れて文明の衝突について疑問を呈していた。
   更に、旧ユーゴでの、同じ民族でありながらセルビアとイスラム系ユーゴ人との戦いは、本来は小規模の権力闘争が悪徳政治家に煽られて拡大したもので、決してキリスト教徒とイスラム教徒間と言った文明の衝突が原因ではなかったと語っていた。

   両講演者の間に、アグネス・チャンが、日本ユニセフ協会大使として、世界の子供たちの24億人の内11億人が、戦争や貧困の間で如何に悲惨な生活を送っているか、その惨状について実に感動的に聴衆に語りかけた。
   歌手ですからと言って、最後に祈りを込めて歌を披露したが、当時の健気で必死な初々しいアグネス・チャンの雰囲気は今でも健在で、平和大使としての姿は感動的でさえあった。
   元NHKの平野次郎アナウンサーが学習院女子大教授として素晴らしい司会を務めていた。
   
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大学の試練と挑戦(3)・・・東大・朝日連続シンポジウム

2007年11月21日 | 政治・経済・社会
   アメリカにおける海外留学生の動向について語ったのは、UCSBのヤン学長であった。
   東アジアからの留学生は激増しているが、それは主に中国からで、逆に、日本からの留学生は漸減しており、大半は大学レベル、それも語学留学のようで、大学院レベルは少ないと言うことであった。
   日本の学問水準が高いので留学の必要はないと言うことであろうとヤン学長が言ったので、司会の舟橋洋一朝日新聞主筆が、まさかと言うニュアンスで真意を聞いたら、統計上の事実を述べただけだと言うことであった。
   ケンブリッジのリチャード学長も、日本人留学生は少ないし、世界の趨勢に逆行しているとコメントしていた。
   すかさず、丹羽会長が、日本では、留学生、例えば、アメリカ帰りのMBAを、その価値を認めてそれなりの待遇で受け入れる体制になっていないからだと述べた。海外留学のインセンティブが欠けていると言う事である。
   私の場合には、MBAは、ヨーロッパでの仕事では随分役に立ったと思っている。

   日本の現状では、丹羽会長が指摘する点は真実であるが、何れにしろ、大学や企業で職についてから派遣留学される場合、帰ってからそれなりの待遇で遇されるのならそれほど深刻な問題はないが、自費で目的を持って大学院に入学して勉強するには、MBAで2000万円と言う費用の問題をクリア出来ても、相当の覚悟をして不利を承知で留学しなければならないことは事実である。
   私たちの若い頃には、日本自身が伸び盛りであり、官庁も企業も積極的に海外留学生を派遣して勉強させていたが、バブル崩壊後は、企業からの派遣留学が激減してしまったので、このことが日本からの大学院ベースの海外留学生が激減した一因である。
   1970年代だが、ウォートン・スクールの日本人留学生は、毎年10数人づつだったが、それでも、アジアからは勿論、海外組では大集団であった。今では、中国は勿論、韓国等からの留学生が何倍も多く、中国などは政府が大量に送り込んでいるのだと言う。

   日本での外国人留学生の多くは中国からだと言うことだが、欧米でも中国人留学生の数は突出していると言うことである。
   このブログでも、何度か海外留学のことに触れて持論を展開しているが、海外、特に欧米での最高水準の学問や研究分野において、若者達の、トップクラスの欧米の大学院生や学者達と渡り合って激しく切磋琢磨する高等教育での経験が、彼らが活躍するその国の将来にとって如何に貴重かと言うことは歴史の示す所で、2~30年先に、大きく国際競争力と国際外交に響いてくる。
   この意味からも、海外留学外交と知の吸収に狂奔する中国のみならず、韓国と比べても、日本の将来のグローバリゼーションでの位置づけの陰が薄くなることは分かるであろう。

   先日、東大の英語教育について触れたが、日本でいくら英語教育に力を入れても、NOVAが示しているように手段としての英語と言う意識にしか過ぎず、外国に対する理解や異文化交流は、その外国にどっぷりつかって丸ごと経験しない限りつけ刃に終わってしまうと言うことである。
   尤も、IT革命のお陰で、世界中の知識情報は居ながらにしてアクセス可能で、知的交流には不便はないと言う見解もあるが、異文化・文明との遭遇は、やはり、その地の水や空気、暑さ寒さ、歴史や文化などをじかに感じない限り不可能であることも厳粛なる事実である。

   イギリスでも、かって、貴族達は子供たちを、グランド・ツアーとして、ヨーロッパ大陸に送り出して進んだ異文化に触れて勉強させた。
   可愛い子には旅をさせろという古い言葉が日本にはあるが、グローバリゼーション、グローバリゼーションと言うならば、一番適切な対応は、若者達を海外において遊学させることである。
   サムスンが、「地域専門家」教育制度で、何の制限も条件も付けずに社員を毎年何千人単位で1年間海外に送り出している。開発途上国など世界中で、サムスン製品の市場占拠率が抜群に高いということが分かるが、それよりも、会社全体の真のグローバル化への発展が会社の財産となろう。

   イノベーションの源泉である発明や発見、創造性等は、異なった分野の知識の遭遇と組み合わせから生まれると茂木健一郎先生は言っているが、手っ取り早い方法は、やはり、異文化との遭遇によるカルチュア・ショックが一番有効だと思っている。
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ジェームス・マン著「危険な幻想」・・・中国の一党独裁は不変?

2007年11月20日 | 政治・経済・社会
   中国に経済発展と貿易拡大が続けば、間違いなく中国は開かれた国になり、民主的国家に変わって行くと言うのが、アメリカの一般的な中国感である。
   すなわち、
   ①今の中国は共産党の支配下にある。
   ②中国には中産階級が形成されつつある。
   ③この二つの勢力はやがて衝突し、中産階級が共産党に迫って民主主義を実現させる。と言うものである。
   しかし、これは、全く「気休めのシナリオ」に過ぎない。
   今から四半世紀後の中国は、確かにより豊かで強力な国になっているだろうが、依然何らかの形の独裁国家に止まっている可能性は高く、今と同じ様に、組織的な反対党の活動を許容しないであろう。
   アメリカは、中国を間違ったパラダイムで扱ってきた。アメリカ政府当局者は、中国の将来についての極めて疑わしい前提に基づいて、日々の政策を実施しているのである。

   このように結論付けて、中国の将来について、その民主化について非常に懐疑的で、経済政策の開放政策とは裏腹に、政治的には非常に危険な民主主義に逆行した一党独裁政治を継承すると主張するのは、前のロサンゼルス・タイムス記者で外交評論家のジェームス・マン氏である。
   確かにそう言われてみれば、中国の経済成長と躍進の姿しか見えておらず、その背後にある政治的な動きについては、何か特別な動きがない限り、殆ど表面には出てこないので分からないし、関心が薄い。

   中国が、これまで通り政治的抑圧を続け、アメリカとの軍事的衝突を避けて経済の発展に精力を注ぎ国力を涵養し続ける、ソ連のようにバカな冷戦型の対決はしないであろう。
   選挙を実施しないのは、権力を握っている共産党のみならず、現体制に依存して様々な特権や経済的利益を享受する人々がいるからである。しかし、中国共産党には、指導部内の抗争を解決する確立した方法がないなどを含めて、このような中国の現在の非民主的な体制が内包する不安定が、中国だけではなく世界全体にとっても非常に深刻な問題となる可能性がある。

   マンは、更に、地球上の何処でも良いから、独裁者に目を向ければ、そこには必ず中国からの支援の手が伸びていると指摘する。
   ジンバブエのロバート・ムカベしかり、ミャンマーの軍事政権しかり、ウズベキスタンのイスラム・カリモフ大統領、スーダン政権しかりである。
   中国がこうした独裁国家に対して、民主主義などと言うのは西洋に特異な概念で欧米が好き勝手に押し付けているに過ぎないと、独裁制維持のイデオロギーを提供し続けていると言うのである。
   自国民に対しても、自由化への動きは勿論、法輪功への徹底的な弾圧を筆頭に、ダライ・ラマが史上最悪の緊迫と言うほど酷いチベットなど少数民族への弾圧など、恐怖政治が収まるところを知らず、これらの観点などから、中国のミャンマーなどに対する対応を直視すれば、中国の戦略が克明にはっきりと見えてくるのが興味深い。
   マンの言うアメリカの能天気外交に影響されている日本も、もう少し賢くなって考えなければならないのかも知れない。
   
   マンは、このような中国の真の姿を見ずして、中国が経済成長を続けながら民主化するとして、中国に対して「関与engagement」や「統合integration」などの戦略で中国に対峙してきた米国政府に対して、国民にどう謝罪するのかと詰問までしているのである。
   マクドナルドのある国とは戦争しないとか、デルが操業している国とは戦争はあり得ない言うことが言われたことがあるが、マンは、スターバックスが有るからと言っても中国では一握りの人間が享受するだけで信用出来ないと言う。

   マンが主張したかったことは、
   「中国は絶対に路線変更を行う筈がなく、今から30年たっても中国が依然として抑圧的な一党独裁体制を維持し、それでも国際社会で重きを置かれる国になっていたとしたら、その場合の中国は、世界中の独裁者、軍事政権、非民主的政府のモデルとなるとともに、間違いなくそうした国々の大きな支えとなっている。」と言う心配で、アメリカ民主主義への重大な挑戦であり脅威となると言うことである。

   ところで、この本の末尾で、翻訳者の渡辺昭夫氏に、高木誠一郎青山学院大教授と畠山圭一学習院大教授が加わった興味深い「中国はどこに向かうのか」と言う座談が掲載されていて、ダニエル・ベルやハンチントンを引用しながら、中国モデルを、アメリカ型とは違った非西洋的な成長モデルとして捉えている箇所があって示唆的である。
   確かに、マンの言うアメリカ型民主主義が絶対に正しいのだと言う前提を離れて考え、今後の推移が未知数である独裁制経済発展型の中国モデルが、今現在において破竹の勢いで成長路線を突っ走っていることは事実であり、インド型の経済発展理論も含めて文明の発展の推移を考えるのも面白いかも知れないと思っている。
   
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大学の試練と挑戦(2)・・・東大・朝日連続シンポジウム

2007年11月19日 | 政治・経済・社会
   ケンブリッジ大学学長のアリソン・リチャードさんは、初の女性学長で人類学の学者である。
   MITのスーザン・ホックフィールド学長はじめ、ハーバード、プリンストン、ペンシルヴェニア、ブラウンと言った米国のアイビーリーグ7大学の内4大学の学長なども女性で決して珍しいケースではないが、ケンブリッジの場合は、ノーベル賞学者を82人輩出し800周年を記念する超名門大学であり、華奢で静かな、しかし、闘志満々のリチャードさんの話を聞くと流石にイギリスだと思う。
   
   ケンブリッジ・クラスターとも呼ばれるシリコン・フェンは、ソフトウエア、エレクトロニクス、バイオテクノロジーなどのヨーロッパ一のハイテク・ビジネス・クラスターで、ケンブリッジ大学によって成り立っていると言うことを冒頭にリチャード学長は語り、如何に大学の地元ローカルへの貢献が大切かを語った。
   リチャード学長は、大学の世界的な連携が深まれば深まるほど、大学との国際社会と地元との連携が深まるとして、グローバル社会への貢献も大切だが、大学独自のの歴史と本拠地の特殊性を誇りを持って維持しなければならないと強調する。
   ケンブリッジ大学の重要な選択は、外国に分校なりサテライト施設を設置しないことで、教育と言うだけなら可能かも知れないが、研究やリサーチなど一切揃ったケンブリッジ大学がトータルで生み出す高度な知的な価値は、このイギリスの南東部にある故地ケンブリッジ以外では不可能だからだと言うのである。
      
   私は、一度だけケンブリッジ大学に行ったことがあるが、オックスフォードと一寸違って、街全体が一つの大学と言った感じで、正に知を創造する学術クラスターの佇まいで、この雰囲気は、アメリカのプリンストン大学に似ていた。
   私の学んだ京大もペンシルヴェニア大も大都市の中の大学なので、何となく雑多な感じがするが、あのケンブリッジは中世から息づいている学問の町で、リチャード学長は、このケンブリッジから世界を変えたと言うが、その誇りと気概が良く分かる気がする。
   大学に席を置きながら全く授業に出たことがないと言ったピーター・ドラッカーでさえ、ケンブリッジのケインズの講義だけは聞いたと言うから、やはり、学問の府としての魅惑的な力があるのかも知れない。


   リチャード学長は、ケンブリッジーMIT連携プログラムで、サイレント・エアクラフトの開発を進めているとして素晴らしい航空機の写真を披露していたが、東大・京大は勿論、世界の大学との知の交流は大変活発なようで、大学生の80%位はイギリス人のようだが、大学院生やリサーチ関係者の過半は外国人のようである。

   カリフォルニア大学サンタバーバラ校も、ノーベル賞学者を輩出している名門校である。ヘンリー・ヤン学長は、同校の看板学者中村修二教授が、ミレニアム・テクロロジー賞2006受賞について語り、同校のノーベル賞学者ハーバート・クローマー教授の受賞祝賀スピーチでの「電球の終わりの始まり。我々は、物事をもっと良くすることではなく、これまでに出来なかったことをすると言うことを語っているのだ。」と言う言葉を引用して中村教授の業績を称えていた。
   ヤン学長の言葉で印象的だったのは、多様性と卓越性はお互いに補完し合う(Diversity and Exellence Complement Each Other)と言葉で、学問の場において、異質な文化や技術の遭遇が如何に大切か、言うならば、大学が高度な学問芸術を生むためにはメディチ・エフェクトを発生させる場を如何に作り出すかと言うことが大変重要であることを示唆していたことである。

   ヤン学長は、冒頭に、岬に突き出した素晴らしいキャンパスを俯瞰する航空写真を見せてくれたが、欧米では、大学が美しいとか、素晴らしい環境の中にあると言うのは、当たり前と言うか極普通の話で、観光資源となっていることは常識である。  
   私も機会を利用して歩いているが、ドン・キホーテのセルバンテスが学んだと言うサラマンカ大学などボロニア大学とともに世界最古の大学の一つとあって、正に骨董品的な大学で、新世界に雄飛したあの当時のヨーロッパの姿が彷彿として感激したことがある。
   ところで、最近、この東大にも、結構観光客が訪れて、時計台のあたりで記念写真を撮っている姿を良く見かけるようになった。
   名物の銀杏並木は、色づき始めたばかりで、黄金色に輝くのは月末あたりであろうか。
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大学の試練と挑戦(1)・・・東大・朝日連続シンポジウム

2007年11月18日 | 政治・経済・社会
   土曜日の午後、東大安田講堂で、欧米日の学長達が集ってシンポジウム「大学の試練と挑戦」が開かれた。
   激しく激動する経済社会のグローバル展開の中で、如何に大学がその使命を果たす為に対峙すべきか、標題をテーマにして非常に興味深い議論が戦わされた。
   小宮山宏東大総長の基調講演に始まり、アリソン・リチャード・ケンブリッジ大学長、ヘンリー・ヤン・カリフォルニア大サンタ・バーバラ校学長の講演と続いて、最後に、宮田亮平東京芸大学長や丹羽宇一郎伊藤忠会長などが加わって討論が行われた。

   小宮山総長は、冒頭、現代は「曲線」の時代だとして、様々な方向へ向かう価値や考え方を受け止め、発信することが大切だと述べた。
   20世紀における知の爆発によって、知識の専門化、細分化が進んだが、広い視野から俯瞰して、知を構造化して、発信することが大学の使命だと言うのである。

   その為には、東大では、まず、外国語教育を重視して、「アカデミック・ライティング」を1年生に履修させて、これまでの知識の「受容」:読む力から、知識の「発信」:書く力の涵養へと比重を移し、発信能力を高める。
   第2外国語も重視し、2つ以上の異なった文化や世界に接することによって多様で複眼的な知的能力を養うとともに、フランス人が日本語で中国哲学を講義すると言った場を作り出すなど、異文化との遭遇の場を作り、フュージョン型の文化の多様性を追求する。

   次に、教養教育の重視で、知識の幅の広さをキーワードにして、一般教養とリベラル・アーツに力を入れる。この幅の広い知識はものづくりに不可欠で、特に、この面での学生への教育は工夫が必要だと言う。
   東大では、「学術俯瞰講義」と言う特別な講座があり、東大の学者のみならず卒業生のノーベル学者などその道の第一人者を全学に渡って糾合して、非常に幅の広い学際的な教育の場を持っている。
   これは、小宮山学長の「細分化した学問分野間を最先端の視点から俯瞰し、「知」の大きな体系の中に位置づける」の発案で昨年からスタートし、これまで、物質の科学、社会の形成、生命と科学、エネルギーと地球環境、数理の世界等々テーマは多岐にわたって実施されている。
   「基盤的能力(InfraCompetence)」を養うことを基本として課題を発見して課題を作る能力を養う為小クラス制をとったり、人間的魅力やコミュニケーション能力を身につけるためカレッジ型のアプローチなどに力を入れているとも言う。

   東大には、生命科学関係に携っている人は1600人もいるようで、この生命科学教育支援ネットワークでは、知の構造化と最新の情報技術を活用し、知の急速な進歩に対応した教科書作りをしている。生命科学専攻のみならず、理工系の人のために、続いて、文科系の人のために、と言った異分野の人々にも、最先端の知を構造化して発信し続けるのだと言うのである。
      
   
   司馬遼太郎が、東大を知識の配電盤と言ったが、私自身、最近、開かれた東大になったお陰で、法学部や経済学部などの公開講座などで結構東大キャンパスに行く機会が多くなったが、非常に有り難いことだと思っている。

   後半の討論会で、浅島誠東大副学長が、東大の教育方針等について語っていたが、ハーバードやケンブリッジなど外国大学との連携(Global Alliance)による教育や研究・リサーチなどが活発に行われているようである。

   ところで、東大の理想の教育の追求として、浅島氏が指摘したのは次の点である。
   ・世界最高の人材育成の場を提供
   ・本質を捉える知、他者を感じる力、先頭に立つ勇気を持つ人材の育成
   ・地球持続性に貢献する人材の育成
   ・英語教育による国際化の加速
   小宮山総長も最前列で聞いていたのでこれが正しいのであろうが、大上段に構えた最初の理想はとも角としても、小宮山総長の話も含めて英語教育云々などは末梢的な話で、入学試験に、英語の能力試験を課すとか、大学の授業を英語乃至英語交じりで行えば済むことで、英語力がなければ、東大に入学できないし卒業できないようにすれば自然に解決し、大学が力を入れて教育することではないと思う。
   そうすれば、優秀な外人教授を招聘できて国際化が進む。
   立命館の本間政雄副学長は、立命館の某学部は、授業のすべてが英語だと言っていたし、伊藤忠の丹羽会長など、伊藤忠の公用語は英語だとハッパをかけていて英語力はマストだと断言していた。

   余談ながら、サイマルなどの同時通訳は実に質が高くなり充実してきたが、やはり、それでも、時には誤解や間違いがあって、英語力があれば通訳なしで話を聞くに越したことはないと思う。
   しかし、専門外の話になって専門用語や耳慣れない外国語に接するとどうしても通訳が欲しくなることもあり、両刀使いになるには相当の修練が必要である。
   ところで、グーグルの自動翻訳だが、時々、私自身のこのブログを英語の翻訳で見るが、酷いもので殆ど使い物にならない。
   結局、自動的な翻訳・通訳機械の出現等はずっと先の話で、このグローバル化した世の中においては、英語能力が、生きて行くためには必須だと言うことである。

   NOVAの問題などは、文部科学省がいい加減な対応をするから発生した問題で、嘆かわしい限りであるが、日本の英語教育の現状をいみじくも露呈してしまった。
   ところで、本シンポジウムで、世界の趨勢に逆行して、日本のアメリカ留学生が減少傾向にあると言うことなどが話題になったが、このコメントは次回に譲る。
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枇杷の花

2007年11月17日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   一昨年庭植えにしたビワの木が2メートルくらいに育って、今年初めて沢山の花をつけた。
   白い一センチくらいの小さな花だが、上に向かって房状に沢山つけるので、実を生らせるのなら花を間引く必要があるらしい。
   しかし、どのように間引けば良いのか見当が付かないので、来春始めに小さな実をつけてから間引こうと思っている。
   ところで、良く見ていると、寒くなって来たと言うのに、少し小型の蜂のような虫が飛んできて密を吸うのであろうか、受粉の助けをしているらしい。
   
   私の庭には、果物と言うか食べられる実の生る木は、イチジクとブルーベリー、それにフェジョアの木があるが、フェジョアは、同じ種類の木なので花は沢山咲くが、実なりが少なく、それに、すぐに落ちて食用にはならない。
   それに、ブルーベリーもイチジクも、注意しないと鳥にやられるので、大概、鳥のおこぼれを頂くと言った調子になる。
   昨年、植木職人が剪定した所為であろうか、ゆずの木が、今年は花をつけなかったので、全く実が生らなくて、今年は、恒例の孫とのゆず湯が出来なくなった。
   
   実の生る木を庭に植えるためには、相当庭の広さに余裕がないとダメである。
   イチジクの木も四方八方に枝を広げたので、今年はばっさり切ってしまった。
   近所には、柿の木が多くて、今、たわわに沢山の実をつけているが、小学校の塀越しに植えられた木にも沢山実をつけていた(? 誰かが取って今はない)ので、どうも、柿は植えるだけで実が生り造作がないらしい。
   一昨年、知人が結婚記念に欲しいと言ったので、菩提寺の空き地にリンゴの木を種類を違えて3本庭植えたら、千葉でも実が生った。
   同じ様に、さくらんぼの木も種類を変えて5本植えたが、来年の春には実が生るであろうか。

   私のロンドンの家には大きなアメリカンチェリーの木があって、毎年沢山の実をたわわにつけたので、小枝を切って切花代わりに活けていた。
   最初、綺麗な立派な大粒の実を食べた時にはすっぱかったのでダメだと思っていたのだが、たまたま、花瓶に挿したさくらんぼを一つ戯れに口に含んだら、市販のさくらんぼの味と同じで美味しいことが分かった。摘み取って、数日おいて熟成しなければならならないことを知らなかったのである。
   果物屋の綺麗なさくらんぼがそれほど高くなかったし、それに、イギリスでは日本のように旬だとか言う感覚がない所為もあって、結局庭のさくらんぼは食べなかったが、10メートル以上の巨木だったので農家なら十分に商売が出来るほど毎年厖大な量の実が実っていた。
   これだけ大木になると、付近にさくらんぼの木はなかったのに、一本でも十分に受粉出来るようだが、花時に、昆虫が来ているようにも思えなかったのが不思議である。

   ところが、バナナのように青い時に摘み取って長い時間かかって熟成するものもあれば、果物によっては、木で熟成した実を食べるのが一番美味しいものもあって、区別が難しい。
   それに、肥料をやって丹精込めて育てないと美味しくならない果物もあるようで、例えば、南ヨーロッパには街路樹にオレンジが沢山植えられているが、あれは、拙くてそのままでは食べられないと聞いた。

   ところで、私の庭の木は、勿論、すべて出来るだけ剪定して小さく育てているのだが、多少、庭植えで果物らしきものを楽しめるのは、土地の安い千葉のトカイナカであるお陰である。
   若い時には、毎日の東京通勤が大変だったが、時間に余裕が出てくると、自然と向き合えるトカイナカも捨てたものではない。
   庭のナンテンの実も赤く色づき、シランの実も真っ黒になった。
   ジョウビタキも北の国から帰って来て敏捷に庭を飛び回っている。
   もう、冬がそこまで来ている。
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日本の会社法制の現状と課題・・・東大神田秀樹教授

2007年11月16日 | 政治・経済・社会
   先日、新日本法規出版の60周年記念講演会で、神田秀樹教授が、2時間あまり標題の講演を行った。
   昨年出版した著書「会社法入門」に沿った会社法の推移や現状について語り、後半は、特に金融商品取引法との関連について解説し、最近話題のM&AやMBOなどのカレントトピックスについて触れ、最後に、むすびに代えて、会社法を取り巻く日本の今後について語った。

   神田教授の日本の今後についての考え方は、会社法を改正して公開会社法を作るべきだとラジカルな議論を展開している早大上村達男教授の新著「株式会社はどこへ行くのか」に、神田教授と一緒に具体的な公開会社法の構想を作ろうと言うことになったと書かれているので、興味を持っていた。
   日経の「経済教室」で9月始めに神田教授が、「新会社法と金融商品取引法 公正な市場へ統合視野に」で、ご自身でも、公開会社法を作るべきだと言う意見があるが、そのほうが望ましいと書いている。

   上村教授は、新会社法改正については会社法の堕落でしかない、危険が一杯だと言っており、従来あった規律を取り除いた有限会社こそ株式会社であるという、殆ど民法に限りなく近い株式会社像を肯定してしまったので、それだけに証券市場を正面から意識した株式会社像を示すべきだと言う。
   会社法に対する両教授の見解には相当の温度差がある気がするが、神田教授の新聞記事のサブタイトルや講演で示唆している、大企業にとって金商法が重みを増すとか、規制改革後のルール不足問題、「法の不足」と言う概念は、上村教授の考え方に近いと言えよう。
   
   今回の金商法の成立によって、証券市場を有する株式会社は、最低の要請として、金商法が求める情報開示・会計・監査・内部統制・証券不正行為の防止、と言った事柄を確実に実行することが求められ、株式会社の運営機構は金商法の要求を実現する為に機能しなければならないので、そのミッションなどを訴える対象はまず投資者になると上村教授は指摘する。
   神田教授も、中小企業については、会社形態については多くの選択肢があるが、大企業にとっては、株式会社制度がドミナントだと言う。

   神田教授が、日本の今後:ロジック、で指摘したのは、
   ・基本:(敵対的買収・三角合併・MBOを含めて)「良い買収(M&A)は実現されるべきで、悪い買収(M&A)は実現されるべきではない」
   ・会社法と金融商品取引法の不整合
   ・課題は、「法の不足」を補う必要があること――金融商品取引法や証券取引所の役割の増大

   法の不足については、不備と言うニュアンスのようで、規制改革や構造改革をしても、その後のルール不足で、市場の公正さを担保するに十分なルールが日本にはいまだに整備されていないと言うことである。
   上村教授が、米国型の法制度に倣って会社法など改正しても、保安官やピストルやジョン・ウェイン等の必要な怖い制度を導入整備しないから、ホリエモンや村上ファンドがのさばるのだと言う論理である。

   いずれにしても、厖大なボリュームの新会社法は、非常に自由度の高い会社法制を作り上げてしまったので、何でもありの世界になってしまった。
   金商法、証券取引所のルールも含めて、本来は投資家保護が目的であるから、株主意思中心の会社法と整合性を持たせるためにも、公開会社法の成立は、日本企業が有効にグローバル展開する為にも必要なのであろう。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                               
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