久しぶりの文楽鑑賞で、今回は「心中天網島」、近松門左衛門の大作である。
天満の紙屋の主人治兵衛と曽根崎新地の紀伊国屋の抱え遊女の小春が、網島の大長寺で心中する物語だが、これに、貞女の鑑とも言うべき女房おさんが絡む大坂女の義理人情の哀れさ悲しさを歌い上げた心に響くストーリー展開が、悲劇の奥深さを醸し出していて感動的である。
今回の舞台の主な配役は、次の通り。
人形
紙屋治兵衛 玉男
粉屋孫右衛門 玉也
江戸屋太兵衛 玉助
紀の国屋小春 清十郎
舅五左衛門 玉輝
女房おさん 和生
義太夫・三味線
北新地河庄の段 睦太夫 勝平、千歳太夫 富千歳太夫 富助、助、
天満紙屋内の段 希太夫 友之助、藤太夫 團七、
大和屋の段 織太夫 燕三、(咲太夫病気休演)
道行名残の橋づくし 芳穂太夫ほか、錦糸ほか
舞台の前半は、「北新地河庄の段」
紙屋治兵衛と小春は深い仲だったが治兵衛には財力がなく、商売仲間の太兵衛に小春が身請けされることになり、切羽詰まった2人は心中を約束。真相を知るために武士に変装して河庄にやって来た治兵衛の兄粉屋孫右衛門が小春に尋ねると、本当は死にたくないと言う。この心変わりは、治兵衛の妻・おさんからの手紙を読んでのことだと分かる。これを中途半端に外で立ち聞きしていた治兵衛が、裏切られたと思って逆上して小春を踏んだり蹴ったり、孫右衛門に諭されて小春と別れて帰る。
後半は、「天満紙屋内の段」から終幕まで
仕事が手につかず寝てばかりいる治兵衛の所へ、小春の身請話を聞いた孫右衛門とおさんの母がやってきたので、自分ではないと起請文を書いて安心させる。小春を思って泣き続ける治兵衛から、小春が自害すると聞いたおさんは、自分の夫の命乞いの手紙が原因だと悟り、死なせては義理が立たないと、治兵衛に、太兵衛に先んじて身請けさせようと、商売用の銀四百匁と子供や自分のありったけの着物を質入れ用に与えて、小春の支度金を準備させようとする。運悪く、そこへおさんの父五左衛門が店にやって来て、真実を知り、無理やり嫌がるおさんを離縁させて連れ帰る。
万策尽きて望みを失った治兵衛は虚ろな心のままに新地へ小春に会いに行き、事情を話して再び心中を決心した二人は、夜陰に紛れて店を抜け出して、冥土の旅へと大長寺へ向かう。
この「心中天網島」や改作の「天網島時雨炬燵」の文楽の舞台や、「河庄」などの歌舞伎の舞台について、何度もレビューしているので、今回は、シェイクスピアの「オセロ」のハンカチではないが、この芝居で、義理人情の要という重要な役割を果たしている「手紙」について、書いてみたい。
この手紙については、歌舞伎では、舞台の冒頭で、治兵衛の妻おさんが、丁稚に、心中を諦めて夫の命を助けてくれと言う内容の手紙を持たせて小春に手渡すところから始まるのだが、文楽では、次の「天満紙屋内の段」で、切羽詰って、おさんが、この手紙のことを治兵衛に打ち明けて分かる。
治兵衛が、小春の心変わりを責めた時に、おさんが、言うまいと心に誓っていたのだが、「女は相身互ひごと、切られぬところを思ひ切り、夫の命を頼む」と書いて出したら、「身にも命にも換へぬ大事の殿なれど引かれぬ義理合ひ思ひ切る」との返事を貰ったことを語る。先の「北新地河庄の段」で、小春が、起請文の束からポロリと落として、孫右衛門が事情を察するという伏線が明らかになったのである。
もう一つ、大長寺での心中の今際の際に、小春は、
「死に場はいづくも同じこととは言ひながら、私が道々思ふにも二人が死顔並べて、小春と紙屋治兵衛の心中と沙汰あらば、おさん様より頼みにて殺してくれるな殺すまい、挨拶切ると取り交はせし、その文を反故にし大事の男を唆しての心中は、さすが一座流れの勤めの者、義理知らず偽り者と世の人千人万人よりも、おさん様一人の蔑み、恨み妬見もさぞと思ひやり、未来の迷ひはこれ一つ」と口説き泣く。
二人はせめてものおさんへの義理立てとして、出家と尼の姿になってこの世から縁を切り、死に場所も別々に、治兵衛は、小春に止めを刺し、もだえ苦しむ姿を後にして、切り離した小春の帯を鳥居にかけて首を吊る。しっかりと抱き合って冥土へ旅立った「曽根崎心中」のお初と徳兵衛とは違うのである。
この当時の大長寺は、今の大阪市長公館のあるところあたりだと言うから、JR大阪城北詰で下りて、造幣局の桜の通り抜けへの途中にそばを通っている。
ここからは、前のブログ記事から引用するが、
この心中天網島では、最も重要なキャラクターのおさんだが、
商家の内儀として店の切り盛りから一切を健気に勤め上げ、夫に対しては献身的な愛を捧げ、夫の愛人である小春に対しても優しい思いやりを示すなど人間として見上げた人物でありながら、運命の悪戯か、結局は、小春への思いやりと義理立てで自分の生きる場を失おうとする。
小春を身請けしたらお前はどうなるのだと治兵衛に聞かれて、何も後先を考えていなかった自分に気づいて、「アツアさうぢや、ハテ何とせう子供の乳母か、飯炊きか、隠居なりともしませう」とわっと突っ伏して号泣するのである。
それに、治兵衛が、炬燵で泣いているのを見て、苦衷に泣く切ない胸の内をかき口説く、「一昨年の十月中の亥の子に炬燵明けた祝儀とて、マアこれここで枕並べてこの方、女房の懐には鬼が住むか蛇が住むか。二年といふもの巣守にしてやうやう母様伯父様のお蔭で、睦まじい女夫らしい寝物語もせうものと楽しむ間もなく、ほんに酷いつれない。さほど心残りならば泣かしゃんせ泣かしゃんせ」と、しっかり者のおさんながらも、切羽詰って慟哭しながら女の奥深い心根を吐露ぜざるを得ない悲しさ哀れさ。
女形遣いの最高峰の人間国宝和生が、愛情深い貞女の鑑おさんを、実に感動的に演じる。先の口説きのシーンなど、立ち居振る舞いに色香さえ感じさせて秀逸。
一方、小春も、この浄瑠璃では、「心中よし、いきかたよし、床よしの小春殿」と言うことで、遊女としても理想的な姿で描かれているのだが、おさんの、女として同等に扱ってくれ信頼してくれている心に真心から応えて、同じように治兵衛を愛する心情に共感する思いを必死に生き抜こうとして心中を諦める。
そうだからこそ、冥途への旅立ちで、小春のただ一つの心の迷いは、おさんと交わした約束を破ること。
もう一人の女形人形遣いのエースである清十郎の遣う小春も、舞台で、美しくそして悲しく息づいていて胸に迫る。
近松は、おさんと小春の生きざまを通して、悲しくも儚い、しかし、実に大きくて深い女心の深淵を描こうとしたのではないかと思っている。
このあたりは、ある意味では、シェイクスピアを越えた戯曲作家としての近松門左衛門の真骨頂だと言う気がしている。
さて、あかんやっちゃなあ、がしんたれで、救いようもどないしょうもない大坂男治兵衛を遣っているのが玉男、
襲名披露公演では、改作の「天網島時雨炬燵」の治兵衛を遣っていて、私は、大阪と東京で二回観ており、玉女時代の舞台も観ているので、今回は、何度目かの治兵衛だが、玉男には骨太の豪快な立役の印象が強いので、優男でなよなよとしたがしんたれ男の人形は非常に新鮮であった。
先代も好きなキャラクターだったと言っているので、玉男の舞台にも思い入れがあるのであろう。
小春を失うのが悲しくてメソメソ泣くのをおさんに咎められて、小春への未練ではなくて、金がなくて、小春を身請け出来なかったと太兵衛に言いふらされ、面目潰れて生き恥かき男の意地が立たないのが口惜しいと強がりをほざく治兵衛、
頭が、源太で、颯爽たる若いイケメンなので、一寸イメージが違うのだが、そんな治兵衛を、さすがに玉男で、実に上手く遣って魅せてくれる。
詳細は省くが、義太夫・三味線は、千歳太夫 富助、藤太夫 團七、織太夫 燕三、をはじめ、名調子で素晴しいことは言うまでもない。