アメリカの留学の帰りには、ロスとシスコ、ホノルルの事務所に立ち寄って海外事業の教示を受けた。
船便が着いたと思ったら、サンパウロに事務所を開設するので赴任せよとの命令を受けた。日本に居たのは、たった、3ヶ月で、ポルトガル語も分からないのに、新天地に向かった。
ブラジル・ブームの頃で、日本企業は、大挙して太平洋を渡って行った。
アメリカやヨーロッパの先進国を経験した日本人は、何故かあまり良い印象を持っていなかったが、初めてブラジルに赴任した人々には、別天地の様に生活をエンジョイしていた。
物価は安いし、豊かな生活が出来るし、日本の移民の人々が沢山居て不便は無かったので、仕事の苦労以外は、生活は楽しかったのかも知れない。
私は、ラテン的なアミーゴ社会に多少違和感があったが、少しづつ慣れていった。ビジネス・スクールで、異文化の中での事業活動が如何に難しいかを教えられていたので、全く頭を切り替えて仕事にあたった。
アミーゴ社会のラテン気質は、華僑やユダヤの様な閉鎖された社会に近く、極端に言えば、法律や契約は朝令暮改、一切気にしない社会で、アミーゴ、即ち、自分達の仲間だけにしか信義則は通用しないのである。
実際、法律はしょっちゅう変えられるし、大型機械や設備の契約書の納期を守られた事などなかった。政府の規則が変わったとか、鉄が納入されなかったとか、とにかく、すった転んだと言われて門外漢は相手にされないのである。
驚異的なのは、インフレ。
ブラジルでも、インフレが激しいときには、スーパーの値札が何度も上に貼られて厚くなっていたことがあるし、1万クルゼイロ札に新10クルゼイロのハンコを押したデノミ札が流通していた。
アルゼンチンでは、100万ペソ札が使われていたし、1万や千ペソ札などは、色が完全に付いていない半刷り札が流通していた。
タクシーに、何万ペソも払い、一寸したバーでも数百万ペソも散財(?)することになる。
ところで、興味はなかったが、一回だけサッカーを見学に競技場に行った事がある。
試合に熱中すると、客席で焚き火はするは、コーラのビンは投げるは、危なくて次から行かなくなった。
一度、万年最下位だったサンパウロのチーム・コリンチャンズが、昔の阪神のように奇跡的に優勝した。サンパウロは、その日は、昼も夜も熱狂した群集で街中は革命騒ぎのように沸きに沸いた。
ワールド・カップがアルゼンチンで行われ、ブエノスアイレスで、ブラジルとアルゼンチンが優勝を争った。
バス会社の社長が、男気を出して、只だったか極めて安かったのか忘れたが、大散財してバスを仕立ててファンをブエノスアイレスに大挙して送り込んだ。
試合当日は、官公庁も開店休業、交通機関はストップ、街の商店は殆どシャッターを下ろし事務所は閉鎖、街路には、犬猫しか歩いていない。
喧騒を極める巨大な大都市サンパウロが、廃墟の様に不気味なほどシーンと静まりかえった。
1点入った瞬間、何千本もある高層アパートから、大変な紙ふぶきと天を突くような歓声が巻き起こった。
私は仕方なく家に帰って(尤も、事務所から歩いて5分)テレビを見ていたが、残念ながらブラジルは負けてしまった。
ブラジル人は、良く遊び生活を最大限にエンジョイするが、若者は良く勉強するし、それに良く働く。
何が悪くて先進国の仲間入りが出来ないのか、やはり、政治に求心力がなく、国民のパワーを国つくりの為に結集できない為かもしれない、と思っている。
写真は、ブラジル、アルゼンチン、パラグアイの国境にある巨大なイグアスの滝であるが、ナイアガラのように2箇所だけで巨大な滝が落ちているのではなくて、何キロにも亘る壮大な特異な滝である。
尤も、中心の「悪魔の喉笛」は、大変な水量で凄い迫力があるが、周りのジャングルには、美しい極彩色の蝶や鳥が飛んでいて、高木にはランの花が咲いている。
私は、隣のパラグアイの首都アスンションには、このイグアス経由で良く出かけたので、この滝を何度も訪れている。
パイロットは、このイグアスの滝の上空で、サービスの為に、ジエット機を滝に近づいて右左旋回しながら客に見せてくれていた。軽飛行機ではない、巨大なボーイング727を、である。
一度、この巨大なイグアスの滝が干上がりかけて、悪魔の喉笛にも殆ど水がなくなったことがあった。地獄の喉笛に変わってしまっていたのである。
このイグアスの近くに、キリスト王国を作ろうとした映画「ミッション」の舞台の教会跡がある。
そして、ナチスの残党が捕まったドイツ移民の村がある。
ブラジルは、日本の23倍の大きさ。アマゾンをはじめ、色々な所を見て来たが、結局、4年間、サンパウロで生活した。
その間、南アメリカ全域担当であったので、ウルグアイを除いて総ての国を回った。出張の旅、個人の私的な旅、色々な事に遭遇した異文化との出会いであったが、懐かしい思い出である。
書けば切りの無いほど、豊かな、そして、地球の素晴らしさを実感した4年間であった。
船便が着いたと思ったら、サンパウロに事務所を開設するので赴任せよとの命令を受けた。日本に居たのは、たった、3ヶ月で、ポルトガル語も分からないのに、新天地に向かった。
ブラジル・ブームの頃で、日本企業は、大挙して太平洋を渡って行った。
アメリカやヨーロッパの先進国を経験した日本人は、何故かあまり良い印象を持っていなかったが、初めてブラジルに赴任した人々には、別天地の様に生活をエンジョイしていた。
物価は安いし、豊かな生活が出来るし、日本の移民の人々が沢山居て不便は無かったので、仕事の苦労以外は、生活は楽しかったのかも知れない。
私は、ラテン的なアミーゴ社会に多少違和感があったが、少しづつ慣れていった。ビジネス・スクールで、異文化の中での事業活動が如何に難しいかを教えられていたので、全く頭を切り替えて仕事にあたった。
アミーゴ社会のラテン気質は、華僑やユダヤの様な閉鎖された社会に近く、極端に言えば、法律や契約は朝令暮改、一切気にしない社会で、アミーゴ、即ち、自分達の仲間だけにしか信義則は通用しないのである。
実際、法律はしょっちゅう変えられるし、大型機械や設備の契約書の納期を守られた事などなかった。政府の規則が変わったとか、鉄が納入されなかったとか、とにかく、すった転んだと言われて門外漢は相手にされないのである。
驚異的なのは、インフレ。
ブラジルでも、インフレが激しいときには、スーパーの値札が何度も上に貼られて厚くなっていたことがあるし、1万クルゼイロ札に新10クルゼイロのハンコを押したデノミ札が流通していた。
アルゼンチンでは、100万ペソ札が使われていたし、1万や千ペソ札などは、色が完全に付いていない半刷り札が流通していた。
タクシーに、何万ペソも払い、一寸したバーでも数百万ペソも散財(?)することになる。
ところで、興味はなかったが、一回だけサッカーを見学に競技場に行った事がある。
試合に熱中すると、客席で焚き火はするは、コーラのビンは投げるは、危なくて次から行かなくなった。
一度、万年最下位だったサンパウロのチーム・コリンチャンズが、昔の阪神のように奇跡的に優勝した。サンパウロは、その日は、昼も夜も熱狂した群集で街中は革命騒ぎのように沸きに沸いた。
ワールド・カップがアルゼンチンで行われ、ブエノスアイレスで、ブラジルとアルゼンチンが優勝を争った。
バス会社の社長が、男気を出して、只だったか極めて安かったのか忘れたが、大散財してバスを仕立ててファンをブエノスアイレスに大挙して送り込んだ。
試合当日は、官公庁も開店休業、交通機関はストップ、街の商店は殆どシャッターを下ろし事務所は閉鎖、街路には、犬猫しか歩いていない。
喧騒を極める巨大な大都市サンパウロが、廃墟の様に不気味なほどシーンと静まりかえった。
1点入った瞬間、何千本もある高層アパートから、大変な紙ふぶきと天を突くような歓声が巻き起こった。
私は仕方なく家に帰って(尤も、事務所から歩いて5分)テレビを見ていたが、残念ながらブラジルは負けてしまった。
ブラジル人は、良く遊び生活を最大限にエンジョイするが、若者は良く勉強するし、それに良く働く。
何が悪くて先進国の仲間入りが出来ないのか、やはり、政治に求心力がなく、国民のパワーを国つくりの為に結集できない為かもしれない、と思っている。
写真は、ブラジル、アルゼンチン、パラグアイの国境にある巨大なイグアスの滝であるが、ナイアガラのように2箇所だけで巨大な滝が落ちているのではなくて、何キロにも亘る壮大な特異な滝である。
尤も、中心の「悪魔の喉笛」は、大変な水量で凄い迫力があるが、周りのジャングルには、美しい極彩色の蝶や鳥が飛んでいて、高木にはランの花が咲いている。
私は、隣のパラグアイの首都アスンションには、このイグアス経由で良く出かけたので、この滝を何度も訪れている。
パイロットは、このイグアスの滝の上空で、サービスの為に、ジエット機を滝に近づいて右左旋回しながら客に見せてくれていた。軽飛行機ではない、巨大なボーイング727を、である。
一度、この巨大なイグアスの滝が干上がりかけて、悪魔の喉笛にも殆ど水がなくなったことがあった。地獄の喉笛に変わってしまっていたのである。
このイグアスの近くに、キリスト王国を作ろうとした映画「ミッション」の舞台の教会跡がある。
そして、ナチスの残党が捕まったドイツ移民の村がある。
ブラジルは、日本の23倍の大きさ。アマゾンをはじめ、色々な所を見て来たが、結局、4年間、サンパウロで生活した。
その間、南アメリカ全域担当であったので、ウルグアイを除いて総ての国を回った。出張の旅、個人の私的な旅、色々な事に遭遇した異文化との出会いであったが、懐かしい思い出である。
書けば切りの無いほど、豊かな、そして、地球の素晴らしさを実感した4年間であった。