先日、悲しい訃報が入った。
奈良の親友T君の奥方から、夜半に電話が入ったので、すぐに、悲しい便りであることを直感して手が震えた。
21日に亡くなって、今日お葬式を済ませました。お葬式が済むまでは誰にも連絡するなと言う主人の遺言だったので、今夜になって申しわけありませんでした。と言うことであった。
私は経済原論のゼミだったが、彼は、、金融論のゼミで、損保会社に就職した。
若くて現役パリパリの時には、お互いに多忙を極めていたこともあって接触する機会は少なかったが、熟年に達する頃から、私は海外が長く東京に転勤したので、大阪勤務のT君とは頻繁に会って、旧交を温め情報交換に勤しんでいた。
お互いに現役を退いてからは、機会を見ては会っていたが、私が、結構定期的に、大阪国立文楽劇場に、文楽鑑賞に通っていたので、彼に都合がつくときには、1日時間を取って奈良に出かけていった。
古社寺巡礼が主体ではあったが、食事処や喫茶店は勿論、季節の展示など、余所者には分からないような穴場や通の奈良の味わい方などを教えてくれた。
この口絵写真の東大寺遠望は、彼が教えてくれた奈良県庁舎屋上からの眺望である。
最初は車で、奈良中を駆け回ったが、彼の眼が悪くなってからは、近場が多くなった。
現役を退いてからは、彼は、家族と一緒に頻繁に海外旅行に出かけていた。
1年に、4~5箇所は出かけていたであろうか。電話を掛けても掛からなかったのはそのためで、最初は、定番の旅行会社の有名ツアーへの参加旅行だったが、地中海クルーズとかアジアの僻地やアフリカなど、ドンドン広がって行き、パリなど何回訪れたであろうか。
非常に凝り性で、パリ市内の地図など裏通りの路地は勿論、地図上の通りの名前を全部覚えたと言うから、その熱心さも尋常ではない。
何故かフランスに興味を持ており、フランス語を独習して、奈良公園や東大寺に出かけて、フランス人を見つけて会話を楽しむのが無上の喜びだと語っていた。
法蓮町から転害門を抜けて東大寺に入ったり、近鉄奈良駅を経て興福寺から奈良公園にぬけるなど、彼にとっては格好の散歩道であった。
大学時代からESSで英語も堪能であったので、暇を見ては、趣味と実益を兼ねて、奈良で、私設観光大使を務めていたのである。
私など逡巡するのだが、彼は何の抵抗もなく見知らぬ外人に近づいて、話しかけていた。
私に真似の出来ないのは、終活についての潔い身の丈に合った生活態度である。
60代の後半に入った頃、膨大な本など身の回りのものを殆ど処分して、大々的な断捨離を行って身軽にした。
その後、しばらく経ってから、法蓮町の旧宅を処分してマンションに移ったと言ってきた。
馬留もあるような立派な歴史的な邸宅で、先祖からの貴重な思い出も残っていた住み慣れた家だったはずだが、アッサリと見切りを付けて、近くのマンションに移ってしまった。
目が不自由になって、本を読めなくなり、パソコンもままならず、TVも見づらくなって来て、情報源が、聞く本など限られるようになって来た。
家で転倒して骨折など病気を併発して歩行困難になるなど、不自由な生活が続いた。
しかし、今回の逝去は、誤嚥性肺炎だという。
1ヶ月半毎くらいに、奈良に電話して近況を聞いていたが、本人との直接会話は少なくなり、奥さんとの話が主体になって来た。
最後に話したのは、本人から掛かってきた1年ほど前の電話、
最後にあったのは、同じく親友と3年前に奈良を訪れて奈良町で、
実に悲しくて辛い。
心から、冥福をお祈りする。
私も酷暑の遠出は無理なので、秋口になったら、お墓参りに奈良を訪れて、彼との懐かしい思い出を反芻したいと思っている。
奈良の親友T君の奥方から、夜半に電話が入ったので、すぐに、悲しい便りであることを直感して手が震えた。
21日に亡くなって、今日お葬式を済ませました。お葬式が済むまでは誰にも連絡するなと言う主人の遺言だったので、今夜になって申しわけありませんでした。と言うことであった。
私は経済原論のゼミだったが、彼は、、金融論のゼミで、損保会社に就職した。
若くて現役パリパリの時には、お互いに多忙を極めていたこともあって接触する機会は少なかったが、熟年に達する頃から、私は海外が長く東京に転勤したので、大阪勤務のT君とは頻繁に会って、旧交を温め情報交換に勤しんでいた。
お互いに現役を退いてからは、機会を見ては会っていたが、私が、結構定期的に、大阪国立文楽劇場に、文楽鑑賞に通っていたので、彼に都合がつくときには、1日時間を取って奈良に出かけていった。
古社寺巡礼が主体ではあったが、食事処や喫茶店は勿論、季節の展示など、余所者には分からないような穴場や通の奈良の味わい方などを教えてくれた。
この口絵写真の東大寺遠望は、彼が教えてくれた奈良県庁舎屋上からの眺望である。
最初は車で、奈良中を駆け回ったが、彼の眼が悪くなってからは、近場が多くなった。
現役を退いてからは、彼は、家族と一緒に頻繁に海外旅行に出かけていた。
1年に、4~5箇所は出かけていたであろうか。電話を掛けても掛からなかったのはそのためで、最初は、定番の旅行会社の有名ツアーへの参加旅行だったが、地中海クルーズとかアジアの僻地やアフリカなど、ドンドン広がって行き、パリなど何回訪れたであろうか。
非常に凝り性で、パリ市内の地図など裏通りの路地は勿論、地図上の通りの名前を全部覚えたと言うから、その熱心さも尋常ではない。
何故かフランスに興味を持ており、フランス語を独習して、奈良公園や東大寺に出かけて、フランス人を見つけて会話を楽しむのが無上の喜びだと語っていた。
法蓮町から転害門を抜けて東大寺に入ったり、近鉄奈良駅を経て興福寺から奈良公園にぬけるなど、彼にとっては格好の散歩道であった。
大学時代からESSで英語も堪能であったので、暇を見ては、趣味と実益を兼ねて、奈良で、私設観光大使を務めていたのである。
私など逡巡するのだが、彼は何の抵抗もなく見知らぬ外人に近づいて、話しかけていた。
私に真似の出来ないのは、終活についての潔い身の丈に合った生活態度である。
60代の後半に入った頃、膨大な本など身の回りのものを殆ど処分して、大々的な断捨離を行って身軽にした。
その後、しばらく経ってから、法蓮町の旧宅を処分してマンションに移ったと言ってきた。
馬留もあるような立派な歴史的な邸宅で、先祖からの貴重な思い出も残っていた住み慣れた家だったはずだが、アッサリと見切りを付けて、近くのマンションに移ってしまった。
目が不自由になって、本を読めなくなり、パソコンもままならず、TVも見づらくなって来て、情報源が、聞く本など限られるようになって来た。
家で転倒して骨折など病気を併発して歩行困難になるなど、不自由な生活が続いた。
しかし、今回の逝去は、誤嚥性肺炎だという。
1ヶ月半毎くらいに、奈良に電話して近況を聞いていたが、本人との直接会話は少なくなり、奥さんとの話が主体になって来た。
最後に話したのは、本人から掛かってきた1年ほど前の電話、
最後にあったのは、同じく親友と3年前に奈良を訪れて奈良町で、
実に悲しくて辛い。
心から、冥福をお祈りする。
私も酷暑の遠出は無理なので、秋口になったら、お墓参りに奈良を訪れて、彼との懐かしい思い出を反芻したいと思っている。