熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

わが庭・・・ツワブキ、ホトトギス

2022年10月31日 | わが庭の歳時記
   今、わが庭でヒッソリと咲いている秋の草花は、ツワブキとホトトギス、
   庭にあっちこっち広がっている千葉から移植した斑入りツワブキは、まだ、蕾は固いが、咲き出したのは普通のツワブキである。
   当然キク科であるから菊の花に似ているのだが、花弁の配置がアンバランスで、菊のように整った花弁が少ないのが面白い。
   随分前に、津和野を訪れたときに、路傍のあっちこっちに、沢山のツワブキの花が咲き乱れていて、無性に旅情を誘われたのを懐かしく思い出した。
   
   
   

   ホトトギスは、非常に変った特殊な花の形をしていて、いつも、神の造形の妙を感じて感動している。
   
   
   

   今年初めての椿で、ピンク加茂本阿弥が、一輪花を開いた。これから、少しずつ、春の桜の季節まで、椿が咲き続ける。
   モミジの鴫立沢が、ほんのりと色づき始めた。
   キウイの棚から、全部切り落とした筈が、まだ根元の古株を残していたので、勢いよく、芽を吹き始めてきた。凄い生命力である。
   
   
   
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鎌倉便り:大船フラワーセンターの秋

2022年10月26日 | 鎌倉・湘南日記
   久しぶりの大船フラワーセンターである。
   バスで、ほんの少しの距離だが、コロナコロナで、長い間来れなかった。

   この季節は、ハロウィーン一色で、フラワーセンターもパンプキンで溢れている。
   広場には、沢山のお化けカボチャが転がっていて、子供達が戯れている。
   作り物だと思っていたが、近づいて穴の開いた大きなカボチャを見ると、間違いなしに本物のカボチャである。
  市内の中学生達が育てた巨大なお化けカボチャも展示されている。
   あっちこっちに、ハロウィーンの飾り付けが施されていて、格好の被写体になっている。
   
   
   
   

   フラワアーセンターの醸し出す雰囲気は、まさに、秋そのもの、
   ススキが、雰囲気を盛り上げていて、素晴しい。
   
   
   
   

   さて、やはり、秋の典型的な花は、コスモス。
   このフラワーセンターには、コスモス畑というか、コスモスの群落はないが、縦列にコスモスを植えた花壇が、広場の縁と池畔にあって、コスモスが群列をなして咲き乱れている。
   
   
   
   
   
   
   
   

   まだ、バラ園には、バラが咲いている。
   最盛期が過ぎて綺麗な花弁を付けた株は殆ど残っていないし、やはり、イングリッシュローズは難しいのであろうか、殆ど消えてしまって、咲いていたのはジュビリーセレブレーション一株だけ。うららは綺麗に咲いていたが、花が小さく貧弱になってしまっていた。
   
   
   
   
   温室は、ハイビスカスなど、南国の花が咲いていたが、私が、いつも注目するのは、小さな水槽に植えられている睡蓮。
   今日も数株綺麗に咲いていた。
   バナナが、実をつけっていた。
   
   
   
   
   

   菊の季節だが、28日から「菊花大会」が開かれる直前なのでスタンドバイ、
   懸崖コーナーが細やかに開かれてるが、未開状態の株も多くて、まだである。
   
   
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80歳の坂を越すのは大変なのだ

2022年10月24日 | 健康
   先日、和田秀樹先生の「80歳の壁」を読んだと思ったら、また、半年の内に、80歳関連でも、先生の本が「70歳、80歳でとても幸せになる人、不幸になる人 」「70代で死ぬ人、80代でも元気な人」「70代、80代を楽しむためにこれだけは知っておこう!」など3冊も出ている。同じことが書いてあるのであろうから読む気にはならないが、健康関連の本の乱発も良いところである。
   先日、掛かりつけ医に、和田先生の言を引いて、80歳を超えれば、血圧やコレステロール値について高くても薬は飲まなくても良いし、気にすることはないのかと聞いたら、絶対にそんなことはないときつく叱られた。
   私は、和田先生の本で、多少気は大きくはなったが、疑心暗鬼で、一応こまめに、毎日血圧や体温、体重を量って、数値を追っている。

   さて、東大の高齢社会研究機構の秋山弘子教授の研究では、日本男性の老年について、
   約2割の人が、70歳を迎える前の段階から寝たきりになり、その状態を10年ぐらい過ごしていると言うこと、大半の人が、70歳を超え始めたところから徐々に歩けなくなると言うこと、そして、80を過ぎても元気に働ける人は、1割程度しかいない、と言うことである。

   私の身近な知人友人、80歳前半なのだが、を考えてみれば、約30%くらいが既に亡くなっていて、多くが、認知症や病気で何らかのかたちで介護状態になっていて、「80を過ぎても元気に働ける人」というか、特に不自由なく日常生活を送れている人は、10~20%と言うか非常に少ない。
   先日、大学時代のゼミの同窓会について書いたが、12名の内、7名が、コロナ開けの来年適当なときに、会おうと言うことになっているのだが、これは、上出来だと言うことであろう。
   近況を聞くにつけ、殆ど本も読めずに寝たきりに近い生活をしていたり、認知症で意識が希薄になっていたりして、日常生活もままならなくなった友と、口角泡を飛ばして天下国家を論じたあの頃が、無性に懐かしくなる。

   ところで、私の場合だが、毎朝、起きたときに元気で生活できていることに無上の幸せを感じて、深い感謝の気持ちを込めて合掌している。
   今、医者にかかっているのは、高血圧症の治療というか、薬を処方して貰うために、3ヶ月に1回通う程度で、ほかに、時折、定期健診に歯医者に行くが、これは任意である。もう一つの通院は、前立腺ガンの全摘が再発して放射線治療を受けたので、その経過健診で、これは、数年PSA値がゼロ近辺なので、殆ど無罪放免。
   何年か前から悩んでいた脊柱管狭窄症については、直ってはいないのであろうが、腰の温暖化療法で小康状態で、朝起きたときには多少痛みがあっても、日常生活には全く異常がなくなっている。
   それよりも、最近、急に、足腰が弱くなって歩くのが不自由になり始めて、転ばぬ先の杖で、遠出をするときには杖を持って出かけている。
   歳を取ると真っ先に弱るのは「歯目足」というのだが、まさに、その足に老いの直撃を受けている。
   秋山教授の言う「70歳を超え始めたところから徐々に歩けなくなる」という徴候なら致命的なので、毎日、散歩を欠かさず続けている。
   孫娘の幼稚園への送り迎えで、毎日、往復2回で都合4キロ弱の道を歩いていたのだが、近くの小学校に変ったので途切れてしまい、方向転換である。
   歯は、8020運動はクリアしており、特に問題はない。
   目はメガネを掛けてはいるが、まだ、英語の専門書でも2~3時間は読めるし、パソコンの前に何時間いても不自由はない。
   頭の方は、まだ、専門書や学術書などは読み続けているし、このブログも書けているので、当分は大丈夫であろう。

   しかし、これから、何が起こるか分からないので、臨終のことをを学ばなければならない。
   いずれにしろ、健康寿命も平均寿命も超えてしまって、いわば、余得の人生を生きているようなものであるから、健康寿命を全うして迷惑を掛けずに逝きたいと願っている。
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国立能楽堂:観世銕之丞の能「浮舟」

2022年10月22日 | 能・狂言
   昨日の国立能楽堂の定例公演で上演の能「浮舟 彩色」について、シテの観世銕之丞師が次のようにコメントした。と言う。
   「浮舟」は演ずる側にとって難しい能の一つで、風情を醸し出すのが大変です。
 『源氏物語』を基にした曲の中でも繊細なニュアンスを持ち、小品ながら音楽的にすごくお洒落に作られています。
 そういう不思議な魅力を持った本曲を、お楽しみいただけるとありがたいです。

   良く分からないが、源氏物語でも、非常に人気の高い宇治十帖の「浮舟」だが、能の舞台で上演されることは非常に少ないという。
   銕之丞師の著書も父君の著書も読んでいるし、剛直な感じの能が好きで、確か、「安宅」と「道成寺」だったと思うが、コロナでチケットをフイにしてしまっていたので、久しぶりの舞台であって、私にとっては一寸イメージの違う優雅で心理的な能(?)であったので、非常に楽しみであった。
   私には、一寸ふっくらとした可愛い感じの浮舟で、朗々として心にずっしりと響く素晴しい謡が最後まで魅了して感動的であった。

   「浮舟」の観劇記については、2019年05月11日に「国立能楽堂・・・能「浮舟」」に書いているので、それ以上は蛇足なので、今回の舞台を観て感じたことだけを記す。

   この舞台で、最も源氏物語らしくて、絵になるのは、匂宮が浮舟を連れ去り小舟で宇治川を渡って対岸の隠れ家で愛を交わすシーン、
   ・・・其夜にさても山住の めづらかなりし 有様の心にしみて有明の 月澄み昇る程なるに
   シテ「水の面もくもりなく
   地「舟さしとめし行方とて 汀の氷踏み分けて 道は迷はずとありしも浅からぬ 御契なり  

   尤も、宇治川は、平等院の前方の水の流れを見れば分かるように、まさに、平家物語の「宇治川の先陣争い」のように激しい急流で、小舟が優雅に流れる風情など及びも付かないが、そこは「浮舟」の舞台、
   私には、王朝絵巻のような美しい舞台が彷彿とする。
   薫中将は、光源氏の子であるが、実は正妻女三宮と柏木(頭中将の子)との密通による子であり、非常に淡泊で、浮舟を囲うが面倒見が悪い、
   一方、匂宮は、冷泉院の皇子であるから光源氏の孫であり、源氏の血を受けているだけに、色好みで、芸も細かく、浮舟も、しだいに、匂宮に靡く気配。
   二人の貴公子の板挟みになって苦悶して宇治川に入水した浮舟であるから、格好の夢幻能の題材になったのだが、折角の王朝絵巻が暗くなる。

   ところで、京都から宇治だが、私は宇治分校に通っていたときに、宇治で下宿していたので、東一条の京大へ自転車で何度か往復していて、歩くと大変だが、そう遠くはないので、二人の貴公子も、足繁く通ったのであろう。京から山間を抜けると一気に明るい宇治にでる。

   平家物語と違って、源氏物語の位置づけだが、藤原俊成が「源氏見ざる歌詠みは遺恨のことなり」と評して以来、歌人必須の古典となったとのことだが、本居宣長が源氏物語を研究して、「源氏物語玉の小櫛 」を書くなど、江戸時代に置いても、知識人たちの教養書として定着していたという。

   さて、この能「浮舟」が、もののあわれを色濃く体現しているのかどうかは分からないが、この能の舞台では、後場で、後シテが、思い乱れるさまを見せるカケリに、少し動きがあるくらいで、殆ど、シテには舞いらしい舞いはなく、常座や正中など定位置での謡いの連続で終始している。
   いつもの通り、空想をめぐらせて鑑賞しなければならなかったのだが、元々、知識も鑑賞眼もないので、100回以上も能楽堂に通っていても、今回、小書「彩色」で、「カケリ」が、心うつろな「イロエ」に替えられて、全体に静謐な趣を増します、と言われても何のことか分からない。
   能鑑賞者には、今でも、和装を装った婦人客が多いのだが、やはり、能狂言は、奥深くて敷居が高い。コロナ騒ぎで、3年ぶりの国立能楽堂であった。

   中庭には、いつものように、萩とススキが秋の風情を醸し出していた。
   資料室での企画展示は「秋の風 能楽と日本美術」で、萩、菊、ススキ、モミジなど秋の花鳥風月をデザインした能舞台関連の美術品が展示されていた。
   
   
   


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西鎌倉の路傍に咲く秋の草花

2022年10月20日 | 鎌倉・湘南日記
   珍しく綺麗な秋日和だったので、午後早くに散歩に出た。日頃は夏の延長で、散歩は夕刻か夜になってからであった。
   関東は、梅雨時よりも10月の方が雨が多いと言うから、気の遠くなるような澄み切った秋晴れの経験など、殆ど皆無である。
   元関西人なので、すぐに気候を比べてしまうのだが、蒸暑い大阪の夏や寒い京都と比べれば、東京の夏や冬は快適で良いのだが、花鳥風月を愛でる春と秋は、はるかに上方が勝る。学生時代から、古社寺など文化行脚の歴史散歩に明け暮れていたので、この風情ある季節の風物など今でも脳裏から離れない。

   ところで、この鎌倉も、もう少しして紅葉の季節になると、美しく彩りを増して魅力的になるのだが、今日は、その観光地には行けずに、近所の住宅街を散歩したので、路傍の花しか鑑賞出来ない。
   あっちこっちに咲き乱れているのは、コスモスの花である。
   雑草化していて、毎年、同じところに咲いているのだが、誰も、種を蒔かないので、ピンクと白ばかりで、代わり映えがしない。
   千葉に居た時には、あっちこっちにコスモス畑や群落があって、豪華に咲き乱れるコスモスを楽しめたが、鎌倉にもあるのかどうか知らない。大船フラワーセンターには、コスモスも、他の草花も咲き乱れているのであろう。
   それに、ピンクのシュウメイギクが咲いている。
   
   
   
   

   何故か、紛れ込んだように咲いているのが、ケイトウとホトトギス。
   鎌倉山の急斜面に、パンパスグラスが綺麗に穂を伸ばしている。
   
   
   

   花木では、ネムノキ、
   咲き遅れの芙蓉、
   名前は分からないが、小さな桜の花が咲いている。
   それに、一本だけモミジ。
   
   
   
   
   

   
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日経:喫茶店、芥川が流行拡散

2022年10月18日 | 生活随想・趣味
   先日、日経夕刊に、「喫茶店、芥川が流行拡散」という興味深い記事が出ていた。
   毎朝、メリタでコーヒーを煎れて、朝食を取っているので、コーヒーとは切っても切れない関係にある。
   はじめてコーヒーを飲んだのは、河原町の喫茶店で、阪神間の普通高校を出てポット京都に出た新大学生なので、東京の西高校を出た学友に誘われるまで、喫茶店など行ったこともなければ、コーヒーも飲んだこともなかったので、新しい経験であった。60年も前の話である。
   ところが、その後、海外生活も長くなり、いろいろな国を回ってきたので、ところ変れば品変るで、結構、変ったコーヒー体験をしてきており、コーヒー文化と国民性の違いなど勉強することが多かった。

   さて、日本の喫茶店の草分け的存在は、「カフェーパウリスタ」と言うことのようだが、芥川龍之介や菊池寛などの文人達が集ったのは、銀座にある店舗なのであろうが、前を通るだけで入ったことはない。
   神田神保町の古書店街には、昔懐かしいシックな喫茶店がいくつかあって楽しめるのだが、あのような雰囲気であったのかも知れない。
   文人や学者達が憩うシックなサロンのような喫茶店は、ウィーンにあって、よく、カフェ モーツァルト(Café Mozart)に行って、旅情を楽しんでいた。
   夜に時間が取れるとウィーン国立歌劇場でオペラを観ていたので、ホテルは、隣のザッハーにして、ほんの近くにあるカフェモーッアルトには、便利だったのである。当時は、このカフェーは、三越の所有で雰囲気も良かった。
   いろいろ試みたが、何故か、ウィーンナコーヒーとザッハートルテの味しか覚えていない。

   ところで、サンパウロに4年間住んでいたので、ブラジルのコーヒーはよく知っている。
   一般的に普及しているブラジルコーヒーの典型は、エスプレッソやアフターディナーコーヒーに使われている小型の「デミタスカップ」になみなみと注がれたコーヒーに、同量とは言わないまでも、ビックリするような量の砂糖をつぎ込んで混ぜて飲む。
   深煎りの微細に挽いたコーヒー豆を高圧力で抽出するイタリアのエスプレッソとは抽出の違いがあるのであろう。私は、一度だけ、事務所のメイドのコーヒー作業を観たのだが、捕虫網のような布製の網に、豪快に溢れんばかりにタップリとコーヒー粉を入れて、熱湯の鍋に入れて、何度も上下して抽出していた。
   濃厚すぎるというか、とにかく、これでもかこれでもかと言わんばかりに、コーヒーのエキスを抽出するのであるから、コーヒーと同量の砂糖を入れても、甘すぎるという感じはなく、最初は、はしなくも美味しいと感じたのである。
   しかし、どこへ行っても、まず、差し出されるのは、日本のお茶のサーブと同じで、このコーヒーであるから、体が持つわけがない。
   家では、日本流のコーヒーマシンを買って、日本流にコーヒーを煎れていたが、ブラジルでは、付き合いだとは言え、コーヒーはほどほどにしていた。

   まさか、芥川や菊池が、パウリスタで、こんなコーヒーを飲んでいたとは思えないが、日本のコーヒー文化は独特で、喫茶店文化などは文化財に等しいほど貴重だと思う。
   アメリカなど、スターバックスコーヒーが出るまで、喫茶店どころか、コーヒーを普通に楽しめる簡易なレストランなどなくて、マクドナルドやケンタッキーなどで、不味いアメリカンコーヒーを飲む以外になかったのである。
   イギリスもそうで、紅茶文化は抜群でそれなりに楽しむ機会があったが、真面にコーヒーを飲もうと思えば、しかるべきホテルに行ってラウンジなどでオーダーする以外にはなく、多くの紅茶ショップがスターバックスに駆逐されたのは、当然であった。
   ドラッカーが、スターバックスが、イノベーションだと言っていたが、何のことはない、イタリアの美味しいカフェオレに感激してイタリア方式を真似て、日本の喫茶文化にヒントを得て事業を進展させただけで、大それたイノベーションでも何でもない。しかし、不味いコーヒーしか知らなかったアメリカ人にコーヒーの味を知らしめてコーヒー文化を向上させた功績は評価すべきであろう。

   その日本の喫茶店文化を逆手に取ったのが、ドトール・コーヒー。
   たかが、コーヒー豆を煎れるだけで、1杯400円も500円もするのがおかしいと言う発想であろう。
   創業者はブラジル移民経験者とのことだが、これは、ブラジルのどこにもある街角のバールの止まり木の喫茶システムをそっくり取り入れて、止まり木形式でコストを切り詰めて100円コーヒーを実現して脚光を浴びた。
   これも、イノベーションでも何でもないが、「魔の川・死の谷・ダーウィンの海」を乗り越えて、今や、和光の対面、銀座の一等地に店を構えている。

   トルコでのコーヒー、サウジアラビアでのコーヒー、フィンランドでのコーヒー・・・、いろいろ思い出があるが、エチオピアから広まったというコーヒーの歴史や遍歴を勉強するのも面白いかも知れない。
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都響:定期C トーマス・ダウスゴー指揮

2022年10月16日 | クラシック音楽・オペラ
   10月16日(日) 東京芸術劇場コンサートホール でのコンサート、
   
   指揮/トーマス・ダウスゴー
   チェロ/宮田 大
   曲 目 ランゴー:交響曲第4番《落葉》
      シューマン:チェロ協奏曲 イ短調 op.129
      ニールセン:交響曲第4番 op.29《不滅》

   ランゴーもニールセンもデンマークの作曲家で、100年前の近代音楽で、始めて聴く曲である。
   オランダに居た時に、コンセルトへボーのシーズンメンバーチケットを3シリーズ持っていて、そのうちの1つが、近代および現代音楽だったのだが、中々ついて行けずに、しばしば、敬遠して行かなかったことがあった。
   今回のプログラムで馴染みのあるのは、シューマンのチェロ協奏曲だけである。
   最近では、大分慣れてきて拒否反応をしなくなったが、ウィーン・フィルやベルリン・フィルやと言って目の色を変えてクラシック音楽のコンサートに半世紀以上も通っていても、私には、まだまだ、近代音楽は遠い存在なのである。

   さて、ニールセンの第4番op.29は《Det Uudslukkelige=消しがたきもの(不滅)》という標題をもつ作品で、この標題は、作曲家によると「偉大な芸術のみならず、人間の魂も滅ぼし得ないものであること」を強調するために付されたものだという。
    初演は1916年2月1日、コペンハーゲンで、1914年6月28日のサラエヴォ事件に端を発した第一次世界大戦(1914~18)の影響は、中立国であったデンマークにも及んでおり、人々は隣国ドイツの脅威に怯えながら、不安の中で日々を過ごしていた。そのような情勢下で、《不滅》のタイトルを持つ力強い生命力の漲る交響曲が作曲、発表されたことの意味は、当時のデンマークの人々にとってとりわけ大きかったことだろう。
   と言うことであるから、まさに、ロシアに侵攻されて蹂躙されている戦下のウクライナ国民の思いで、聴こうと思って出かけた。
   バルト三国、ポーランド国民の思いも同じであろう。

   東京芸術劇場の観客席は、普段と変っていなかったが、私の臨席はお休みであったので、何となく、現代曲を嫌っての空席が増えていたかも知れない。
   しかし、実際に聴いてみると、「不滅」など殆ど違和感なく、高揚したクライマックスの終曲など実に感動的である。
   難しい音楽談義は無理なので、語れないが、興味深かったのは楽器の配置で、今回特に活躍した木管が中央後方に2列に横並び、金管は、第二ヴァイオリンの後ろのひな壇に列んだホルン以外の金管がその後ろに列び、
   その後ろ、舞台中央最後方のティンパニーと、舞台右手最後方、ビオラの後ろのティンパニーの掛け合いは圧倒的であった。
   キーウかオデッサのオペラハウスで、演奏できれば、ウクライナの国威発揚に必ず貢献するはずである。

   宮田大のチェロの音色は、何故、あれほどまでに温かくて芳醇なのか、
   アンコールで、ユーモレスクを挟んだ赤とんぼを演奏した、感激であった。
   
   
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AFP:イグアスの滝、豪雨で水量10倍に

2022年10月14日 | 海外生活と旅
   10月14日、AFPが、「イグアスの滝、豪雨で水量10倍に」と動画付きで報じた。
   ”アルゼンチンとブラジルの国境にある世界遺産のイグアスの滝(Iguazu Falls)で、豪雨の影響で水量が通常の10倍に増加した。当局は安全のため、観光客向けの主要遊歩道を閉鎖した。
   イグアス国立公園(Iguazu National Park)の職員がAFPに語ったところによると、滝の流量は通常、毎秒150万リットルだが、12日夜には同1450万リットルに到達。水位の上昇により、絶景スポットとして知られる遊歩道「悪魔の喉笛(Devil's Throat)」が一部水没し、閉鎖された。これほどの増水は10月としては「異例」だという。アルゼンチン側の遊歩道も11日に閉鎖された。”という。

   何故、この記事を書く気になったかというと、もう、半世近くも前になるが、1974年から1979年にかけて、サンパウロに駐在していて、パラグアイに仕事があって、アスンションに飛行機で、イグアスの滝経由で、何度も往復しており、それに、現地にも行っているので、馴染みの滝であり、この報道を見て当時を思い出したのである。
   その間に、一度、イグアス河の渇水で、このイグアスの滝が殆ど干上がって、滝壺の「悪魔の喉笛」だけに、水が落ちていた記念すべき記憶が鮮明に残っているからである。
   
   興味深いのは、当時、ブラジルのヴァリーグ航空が、サンパウローアスンション間往復の航空便を、イグアスの滝経由で運航していて、イグアス空港を飛び立つと、ボーイング727ジエット機が、イグアスの滝上空に急接近して、大きな巨体にも拘わらず、遊覧飛行機のように左右に旋回して、特に、悪魔の喉笛を中心に飛行して、乗客に観光サービスを提供するのである。
   それを知っているので、この飛行機に乗ると、必ず前方の窓側に席を取って、カメラを構えていたので、水涸れも含めて、悪魔の喉笛近辺の写真は随分撮っている。
   ただ、残念なのは、写真もネガも持ち帰って残っているはずなのだが、倉庫の堆く詰まった本や資料の山の中に埋もれていて、取り出せないのである。
   14年間の海外生活やそれ以外の海外旅行で撮った写真は膨大なのだが、この調子では、陽の目を見ずに処分されそうである。

   確か、空港から歩いて滝壺まで行けたような気がするのだが、ブラジル側から、いつも、ジャングル道を歩いて、悪魔の喉笛に一番近い展望台まで行って、巨大な滝を見上げていた。途中、生い茂った木々に、蘭が顔を出したり綺麗な蝶が舞っていたが、若気のいたりで、十分鑑賞する余裕がなかった。
   アルゼンチン側からは、遊歩道が滝壺の上側に設えられていたので、悪魔の喉笛を上から見下ろす感じであり、イグアスの滝の豪快さは、一寸削がれる感じで、違った滝の雰囲気を味わうことができた。

   ところで、この口絵写真は、ウィキペディアから借用した。中心の滝壺方向を写した写真だが、私の知っている滝壺は、激しく豪快に抉られたように切り込んだ、まさに、「悪魔の喉笛」そのものであった。
   毎年、膨大な水量と巨大な水流で浸食されて行くので、日々、姿を変えて行くのであろう。
   ルーズベルト大統領夫人が、イグアスの滝を見て「My poor Niagara... (かわいそうなナイアガラ)」と言ったと言われているが、私は、米国側とカナダ側と両方からナイアガラを見たが、滝壺だけのスケールというか水量はナイアガラの方がボリューム感はあるが、周囲何キロにも及ぶ延々と続く巨大なスケールのイグアスの比ではないことは事実である。

   蛇足ながら、イグアス近辺は、グアラニー族のキリスト教化を主題にした映画「ミッション」の舞台でもあり、当時の遺跡である世界遺産のトリニダー遺跡がパラグアイ側に保存されていて、訪れたことがある。
   

(追記)写真は、ウィキペディアより借用しています。
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ボジョレーヌーボーも大幅値上げ

2022年10月13日 | 経営・ビジネス
   日本のみならず、世界中が、物価高騰、値上げに悲鳴を上げている。

   さて、ワインの値段だが、極端な円安なので、当然、輸入ワインの値段が上がっているのだろうが、特に、銘柄を選んでワインを買っているわけではないので、気にもしなかったのだが、ボジョレーヌーボーを予約しようと思って、ビックリしてしまった。
   これまでに、某ワイン輸入会社の看板商品である ボジョレー ヌーヴォー 6本ワインセット (赤6本)を買っていたことがある。ヴィラージュ ヌーヴォー も入ったセットで、まずまず適当なワイングラスが3脚付いて、1万円少しで売っていたのが、今年のメニューを見ると、16800円に値上がりしている。

   ボジョレーヌーボーを、別に、飲みたいわけではないのだが、ヨーロッパ生活が長かったので、毎年、季節になると、何となく気になって、帰国してから、ずっと、適当なワイン専業者を選んで、ネットショッピングを続けている。
   ロンドンなどでは、レストランで、正式なワインとは別に、一杯くらいグラスワインでボジョレヌーボーを頂いていたような気がするが、私の記憶では、パブで、飲むことの方が多かったように思う。季節ものと言った感じである。
   イギリス人と会食やレセプションなどで会うことが多かったが、ボジョレヌーボーが話題になったり、一緒に味わったという記憶もないし、街中でも別に変化もなかった。

   さて、ボジョレヌーボーが高くなっているからと言って、止める気もないので、いつもワインを買っているAEON de WINEのHPを叩いてみた。
   確かに、大分高くなっている感じで、早得で買っても、1本3000円くらいはする。
   年代物のヴィンテージと違って、たかが、今年の新酒なのである。
   鳴り物入りで、空輸されるのであるからご祝儀相場もあろうか。

   結局、調べても、何が良いのか良く分からないし、イオンがメインで推薦しているので、
   2022 ロングセラー!こだわりヌーヴォー3本セット / オリジナル(Beaujolais Noubeau 3 Bottle set 2022)
   本体価格 7,680円 (税込価格 8,448円)の予約を入れた。
   11月第3木曜日に、スーパーか近くの酒屋に行って、店頭に並んだボジョレーヌーボーを買ってくれば良いのだが、それも味気ないし、その日の朝にピッタリと初荷のように到着する便を待つのも悪くはない。

   さて、気になるのは、今後の輸入ワインの値動きである。
   当然、ボジョレーヌーボー並に、5~6割の値上がりは覚悟せねばならないのであろう。
   まだ、あまり飲んだことはないが、日本のワインも随分質が高くなったようであるし、場合によっては、切り替えようかとも思っている。
   それに、別に拘りもないので、日本酒に比重を移しても良い。
   いずれにしろ、老齢を慮って、ワインもグラス1杯程度に抑えているので、気にするほどでもないのだが、孫達に、値上がりに託けて、おやつを抑えようとしている手前、一寸、苦しいところである。

   赤ワインは、ヨーロッパでの食習慣の延長と、動脈硬化や脳梗塞を防ぐ抗酸化作用があって健康に良いということで、続けているのだが、この頃では、細やかな夕食での憩いの一時ともなっており、私にとっては、まさに、ワインは、格好の飲む食べ物なのである。
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PS:ジョセフ・ナイ「ウクライナ戦争の原因は何か? What Caused the Ukraine War?」

2022年10月11日 | 政治・経済・社会
   PROJECT SYNDICATEのジョセフ・ナイ教授の新しい論文「ウクライナ戦争の原因は何か? What Caused the Ukraine War ?」が興味深い。
   ウクライナ戦争の最重要な原因は、プーチンが脅威だと感じるウクライナのNATOへの加盟だと目されているが、ナイ教授は、ソ連崩壊後のロシアの腐敗荒廃とエリツィンがプーチンを後継に指名して台頭させたことにもあると述べている。
   プーチンは、2008 年に NATO が最終的にウクライナの加盟を支持する決定を下したことが、実存的な脅威をもたらしたと述べている。しかし、ウクライナ戦争の原因を、冷戦の終結とソ連の崩壊後に西側がロシアを適切に支援できなかったことにまで遡る見解も有り、何年も続くかもしれないこの戦争の起源をどのように見るのか、これが、この論文のテーマである。

   2008 年のブカレストサミットでの NATO の決定は、潜在的な将来の加盟国としてウクライナ (およびジョージア) を含めることで、西側に対するプーチンの最悪の敵意を裏付けたが、しかし、プーチンの態度の変化はそれ以前からあり、2007 年のミュンヘン安全保障会議での彼の演説において、既に西側に対して険悪になっていた。したがって、NATO 拡大の可能性は、いくつかの中間的な原因の 1 つにすぎず、また、ブカレストでの首脳会談の直後に、フランスとドイツが、ウクライナのNATO加盟を拒否していた。

   この背後には、冷戦の終結に続く遠いかつ深い原因があった。当初、ロシアと西側双方で、ソ連の崩壊がロシアの民主主義と市場経済の台頭を可能にするであろうという非常に楽観的な見方があり、初期の頃、クリントンとエリツィンは良好な関係を築くために真剣に努力した。しかし、米国がロシアのガイダル首相の政府に融資と経済支援を提供したが十分ではなく、ロシア人はそれ以上のものを期待し必要としてていた。
   さらに、70 年間も続いた計画経済体制の呪縛から抜けきれず、繁栄する市場経済への突然の転換は不可能であった。急速な変化を強制しようとした拙速な西側の努力は、ロシアに、巨大な混乱、腐敗、極度の不平等を生み出して、政治経済社会体制を混乱に陥れて、一部の寡頭政治家や政治家が国有資産の急速な民営化によって富を収奪集積したが、ほとんどのロシア人の生活水準は低下し続けて、国民の窮乏化が進んだ。
   経済状況の悪化による政治的影響に対処できず、当時健康状態が悪化していたエリツィンは、正体不明の元 KGB エージェントであるプーチンに秩序の回復を託したのである。政権移譲が、エリツィンの身の安全の補償と引き換えだったとも言われている。
   これは、ウクライナ戦争が避けられなかったことを意味するものではないかも知れないが、しかし、それは時間の経過とともにますます可能性が高くなっていった。 2022 年 2 月 24 日、プーチンは計算を誤り、大火の原因となった戦いに火をつけた。

   徒花を咲かせたのは、あの国家経済の崩壊寸前までに至ったロシアの革命処理後の蹉跌と、それを助け得なかった西側のロシアの民主化支援への不十分不徹底な対応故であって、ロシアの行く末を歪めてしまったことに依るという。
   ナイ教授も、このウクライナ戦争は、プーチンの戦争であることを認めている。従って、プーチンを生んだ土壌にその原因があると言うことも分かったが、それを追求しても済んでしまった過去のことである。ウクライナ戦争を原因も含めて理解するためには、誇大妄想、常軌を逸した戦争の元凶のプーチンその人となり、その深層心理や世界観、思想や哲学などを含めて、何を考えて戦争しており、どうしようとしているのかを、徹底的に分析して対処することが喫緊であろうと思う。

   昨年12月に、このブログ記事「ゴルバチョフ:“民主主義”“対話”強調を説く」で、私は次のように書いた。
   ”ソ連崩壊後、経済的にも壊滅状態に陥った新生ロシアに、欧米先進国から、政治家や財界人達が大挙して訪問してロシアの再生に奔走していたのを、ロンドンにいて具に見ている。
   もしもだが、あの時、西側に高度な哲学とビジョンを持った卓越したリーダーが居て、ロシアの民主化と資本主義化を適切に誘導していたら、世界の歴史は変っていただろうと思っている。”

   西側が、民主化資本主義化した東欧諸国へ対したように、ロシアに対応していたら、そして、マーシャル・プランのような強力な経済的支援を実施するなど、ロシアを、民主化近代化へ教化誘導していたら、21世紀の人類の軌跡は大きく変っていたであろう。と言う思いである。
   ロシアの歴史を画したピヨートル大帝自らヨーロッパ視察団に参加して、アムステルダムやロンドンに長期滞在して先進技術を学び、エカテリーナ女帝はドイツ人であり、ロシアそのものの歴史や伝統、文化文明がヨーロッパと共通の土壌に立っていて、異文化異文明の中国やインドとは違う。
   それに、冷戦終結後、国家経済が崩壊寸前まで行き地獄を見たロシアであるから、いくら、落ちぶれたとは言っても、欧米にはロシアを苦境から救う程度の経済的余力はあったはずであり、援助次第では、ロシアのヨーロッパ化は可能であったのではなかろうか。 
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最初はポンペイに入れなかった

2022年10月09日 | 海外生活と旅
   今日、先日録画した「ヨーロッパ街角󠄂中継 4Kで旅する永遠の都・ローマ」を観ていて、イタリア旅行のことを思い出した。
   私の場合、イタリアには何度か行っているが、出張の時も個人旅行の時も、自分ですべて手配して旅をしており、最初の頃は家族旅行であったので、予定通りに行かなかったり、失敗することが多かった。
   
   番組を観ていて、まず、思い出したのは、ポンペイである。
   はじめてポンペイに行ったのは、1973年12月。
   行ったと言っても、入り口までである。

   これは、フィラデルフィアで勉強していた時で、フランスからの留学生がクリスマス休暇で里帰りにチャーターしたパリ往復パンナム便に空席が有り、格安チケットが手に入ったので、ヨーロッパ旅行をしたのである。
   確か2週間ほどだったと思うが、パリからローマ、ウィーン、ザルツブルグ、アムステルダムを、ユーレイルパスで移動した。
   そのイタリア旅行の途次に、ナポリからポンペイに向かったのである。

   ローマから正午頃に、ナポリについて、ホテルにチェックインした。
   そこまでは良かったのだが、昼時であったので、軽い昼食と思って、ホテルのレストランに入って、何を注文したのか忘れてしまったが、待てど暮らせど中々食事が出てこず、食事が終ったのは、2時をはるかに回ってしまっていた。
   急いで、駅に行ったが、予定の列車などとっくに出てしまっており、良く分からないままに、直近の汽車でポンペイに向かった。
   ようよう遺跡に着いたが、太陽が燦々と照っていて、結構早い午後であったが、もう、閉館になって入れなかった。

   その当時、ウォートン・スクールの「國際ビジネス」の講義で、フランクリン・ルート助教授から、授業の冒頭で、「TIMEとPLACE」に関して、世界中で、考え方や対応の仕方など認識が大きく違っていて、これの理解を誤ると、大変な失敗をすると教えらた直後であったので、ショックであった。
   「一寸昼食を」と2~30分程度で終る東京の街角と違って、悉くスロースローで時間感覚のないイタリア、それも、頼りにならない南部イタリアで、日本人感覚で旅を始めたのが間違いだったのである。
   その後、再びポンペイを訪れて、ポンペイ見物を経験できたが、開園時間などいい加減なので、この時は念入りにチェックして早く出かけた。

   今回、この番組を観ていて、ビックリしたのは、もう半世紀も前になるのだが、あの当時は、まだ発掘が初期段階であったので、遺跡も全貌を現していなかったが、この口絵写真を見ると、ポンペイの街全体が現われているようで、今昔の感である。

   何故だか、理由が思い出せないが、フォロ・ロマーノも、3回目のローマ訪問で、やっと見物できたのを覚えている。

   時間感覚で、日本と根本的に違うのは、鉄道のタイムテーブル。
   クックの時刻表を念入りにチェックしても、この時間通りに発着するかどうかは、極端に言えば、その日にならなければ分からない。
   数分遅れても、お詫びのアナウンスを流す日本など、いわば、世界標準では、天然記念物なのである。

   後には飛行機に代えたが、当初はイタリア国内移動は、鉄道にしていたので、その苦い思い出を過去のブログを引用しながら書いてみると、

   最初の旅は、半世紀も前の前述の旅であり、殆ど記憶から消えてしまったのだが、ローマだったかフィレンツェだったか、始発のローカル列車だったと思うのだが、大幅に遅れて、プラットフォームも変わってしまって、大慌てしたのを覚えている。
   駅の放送がイタリア語なので殆ど理解できなくて、駅のサインボードもコロコロ変わり、本来のプラットフォームで待っていても、一向に列車がくる気配がない。
   目的の列車のアナウンスらしきものに気付いたけれど、イタリア語なので分からなかったのだが、ホームの端にいた尼さんグループが走り出してホームを移動したので、とにかく、ケースを引っ張って娘を抱えて後を追った。
   幸い、目的の列車だと分かったのだが、発車寸前なので、急いで飛び乗った。
   一番後ろの車両だったので、予約席はずっと前方である。
   どうして移動すれば良いのか、分からなかったのだが、とにかく、日本方式に、車内を移動しようと思って、少しずつ歩き始めたのだが、列車が長くて、途中に貨車風の列車があって、開けっ広げの戸口から放り出されないように、必死になって前に進んだのだけは鮮明に覚えている。

   もう一つの鉄道の旅の失敗は、21世紀に入ってからのイタリア旅の思い出で、アッシジからシエーナへ移動した時に、これも、乗り継ぎ駅で列車が異常に遅れて、次の列車を待っていては間に合わなくなるので、案内所で聞いて、ローカルバスで次の乗換駅に行くことにした。
   ヒマワリが咲き乱れ、のぞかな葡萄畑を眺めながら、緩やかに起伏するイタリアの田舎のバス旅も悪くはないのだが、とにかく、のんびりした田舎のおんぼろバスのことであるから、何時着くかこの方が心配になって後悔したが後の祭りであった。
   駅に着くと、丁度列車が走り込んできたので、とにかく、乗ろうと行き先を確認せずに、発車寸前の列車を止めて乗り込んだ。
   しかし、この列車が反対方向の列車だった。仕方なく、次の駅で、対向する列車を待とうと下りたのだが、全く廃墟のような無人駅で、駅横には、放置された工場跡があるだけで、駅前には何もなければ誰もいない。
   一人だけ、鄙にも稀れな可愛い女の子が降りたのだが、お母さんが迎えに来ていて、去って行くと、静まり返ってしまった。
   地図も何もなく、何処にいるのかさえも分からない状態で、イタリアの廃墟の様な田舎駅には時刻表もある筈がなく、いつ来るのか分からない列車を待つ不安。
   2時間近くも待ったらやっと反対方向からローカル列車が来たので、ほっとして乗って、随分遅れてシエーナに着いた。
   この日は、あの有名な競馬パリオの当日であった。

   列車数が極端に少なくて乗り継ぎを何度も繰り返すイタリアのローカル鉄道で旅程を組んだのが間違いで、その上に、もっと頼りにならないローカルの路線バスに乗り換えるなど、今考えれば愚の骨頂だが、日本感覚でイタリア旅を緩行したので自業自得、
   何が起ころうとも、ケセラセラ、そんな大様な気持ちで、脱線旅行を厭わないスロートリップがイタリアには似つかわしいのかも知れない。

   ハチャメチャのイタリア旅行の思いでは五万とあって、思い出すのも嫌になることが多いのだが、
   しかし、レオナルド・ダ・ヴィンチの国であり、ダンテの故郷であり、限りなき憧れの国であり、体が持てば、また、行きたいと思っている。
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PS:サイモン・ジョンソン「プーチンはエスカレート、ヨーロッパは逡巡 Putin Escalates, Europe Hesitates」」

2022年10月07日 | 政治・経済・社会
   昨日同様に、Project SyndicateのMITのサイモン・ジョンソン教授の「Putin Escalates, Europe Hesitates プーチンはエスカレート、ヨーロッパは逡巡」を紹介したい。
   同じ大学教授の論評でもこれだけ違うのかと思って読むと面白い。

   プーチンは、ウクライナの 4 つの地域を違法に併合して、ロシアの一部と見なすと主張しており、これは、2 月に開始した戦争の大変なエスカレーションであり、ヒトラーの拡張戦略との類似点が、日に日に強くなってきている。ウクライナ軍の前進に、プーチンは、軍にミサイルと大砲を無差別に民間人に向けて発射するよう命じており、ロシア軍が押し戻されたところではどこでも、戦争犯罪と大量殺戮のさらなる証拠が発見されている。
   それでも、ヨーロッパの一部では、プーチンが望んでいるものの少なくとも一部を与えたいという願望が残っており、プーチンが停止し、経済関係が以前のような状態に戻る可能性があることを期待している。少なくとも個人的に、ドイツの有力な実業家たちはミュンヘン型の宥和政策を主張しているのだが、ネビル・チェンバレンの和解はヒトラーを止め得なかったし、同様のアプローチは、バルト諸国、ポーランド、およびおそらく他の国々を計画しているプーチンを止めることは出来ない。
   興味深いのは、ドイツなどでプーチンへの融和政策を推進しようという動きがあると言う反動主義の台頭であり、現下に否定して、失敗するという教授の指摘である。

   次に興味深いのは、
   幸いなことに、より良い方法がある。それは、ロシアの石油と石炭の輸出に対する厳しい価格上限( a tight price cap on Russian oil and coal exports)と、プーチン大統領がさらにエスカレートするたびにその上限を下げる意欲と相まって、欧州連合による省エネと再生可能エネルギーへの積極的な推進であるとして、
   危機回避のために、石油価格上限政策の推進と欧州のエネルギー政策の転換を説いていることである。

   ロシアのウクライナ侵略は、ヨーロッパの最大の脆弱性を完全に露呈させた。過去 30 年間、西ヨーロッパの指導者、特にドイツでは、ロシアは安価なエネルギーの信頼できる供給者であり、今後もそうなるという考えを受け入れてきた。いくつかの個人的な財産だけでなく、産業部門全体がこの前提に基づいて構築されてきたが、今、それが罠だったことを知らされた。
   しかし、消費者と生産者として、いまだに、ロシアの天然ガスから脱却できずにプーチンに必要な外貨を送金し続けており、ウクライナ難民を家から遠ざけ、残っている人々の居間にイランの自爆ドローンを墜落させている。

   さて、この状況に対するヨーロッパの正しい対応は、3 つの側面からなるとして、
   第一に、EU は、再生可能エネルギーへの協調的な投資プログラムとともに、可能な限りのすべてのエネルギー効率対策を直ちに実施する汎ヨーロッパ戦略を採用する必要がある。 EU が今後 5 ~ 10 年間でエネルギー源を大幅に切り替える必要があることを債券市場に納得させるのは簡単であり、そのメリットはヨーロッパをはるかに超えて広がるであろう。ヨーロッパ人は、適切なレベルとタイプのリソースが統合されたエネルギーシステムでコミットされた場合に、創出される雇用と、世界で最も革新的な人々によって改善される可能性のあるテクノロジーについて考えるべきである。と説く。
   これは、既に、EUで進められている対応であり、ロシア離れの要諦でもあろう。

   第 2 には、提案されている G7 の原油価​​格上限を適切に採用し、完全に実施することであり、同じ原則を石炭にも適用することである。
   最後には、キャップ上限がどれだけ「世界価格よりも低く」あるべきかということで、プーチンがエスカレートするたびに、キャップをカットする必要がある。ロシアの石油の限界生産費が 10 ドル未満であることを考えると、クレムリンにはまだ輸出のインセンティブがあり、如何に上手くコントロールするかであろう。

   更に興味深い指摘は、ノルド・ストリームのガス・パイプラインの攻撃疑惑だが、目的は、ガスの流れを中断することでもなければ、それに、既に停止していて破壊工作を行う必要はなく、むしろ、プーチンは、次の攻撃はどうするか、彼の政権がやり遂げることができる戦略の限界をテストしていたのだという卓見である。
   製油所が火事になったら?原発で「事故」が起きたら? 西側が、ロシアとのより直接的な軍事衝突を恐れて何もしない可能性が高いと考えているため、プーチンは、際どい瀬戸際戦略を頻発して、ヨーロッパの指導者がどのように反応するかを知りたがっている。プーチンが適切な圧力ポイントを見つけたら、さらにエスカレートし、ウクライナの武器と財政支援の供給を遮断することを目指している。と言うのである。

   尤も、この戦略は、NATOもアメリカも同じで、際どいジャブを打ちながら、相手の反応を観て戦略戦術をエスカレートしている。
   核戦争をちらつかせて威嚇するプーチンを泳がせながら、アメリカはチャンスを覗っているのである。
   今回のウクライナ戦争は、ICT革命の恩恵とテクノロジーの優越性を縦横に駆使して対応しているアメリカに対して、天然ガスと石油しか切り札のない脆弱な経済力と国力のロシアでは、対応が難しいのではなろうか。

   専門家と称する同じコメンテーターが、オウム返しに同じことを論じている日本のテレビとは違って、一寸毛色の変った異国の先生のウクライナ戦争論も面白い。
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NW:スティーブン・ウォルト・「ロシア敗北」という現実が近づく今こそ、

2022年10月06日 | 政治・経済・社会
   Newsweekの電子版に、ハーバード大学のスティーブン・ウォルト教授の”「ロシア敗北」という現実が近づく今こそ、アメリカが思い出すべき過去の苦い失敗”という興味深い論評が掲載されている。
   「ロシア敗北」という現実の可能性を踏まえて、過去のアメリカの戦後処理などの蹉跌や過去の苦い失敗を例証して、転ばぬ先の杖を論じているのである。

   当面の私の関心事は、主題の見解よりも、教授が、ロシアのウクライナ戦争について、どう考えているのかと言うことである。

   まず、
   アメリカとその同盟諸国が、現下のウクライナ戦争で見事に勝利する可能性が見えてきたからだ。むろん、西側陣営にもっと先を見る目があれば、そもそもこの戦争は防ぐことができた。そうすればウクライナの領土も人の命も、こんなに失われずに済んだはずだ。
   いずれにせよ、まだまだ仮定の話だが、ロシア政府の誤算とその軍隊の無能さ、ウクライナ人の不屈の闘志、西側陣営の強力な軍事支援と経済制裁が合わされば、最後に勝つのはウクライナと、その背後にいる西側陣営だろう。
   これ以上に戦闘が拡大しないと仮定すれば(拡大する可能性は排除できないが)、そしてウクライナ軍の反転攻勢がこのまま続くとすれば、ロシアのメンツは丸つぶれだ。ウラジーミル・プーチン失脚の可能性もある。そうなったら西側陣営の天下は安泰だと、思う人もいることだろう。
   核兵器の使用を回避でき、ウクライナの領土を(全てとは言わぬまでも)回復できるのであれば、道徳的にも戦略的な観点からも、上記のような展開は好ましいものと言える。筆者もそういう展開を強く望んでいる。だが、問題はその先だ。戦勝後に、アメリカはどう動くべきか。勝利の果実を腐らせないために、何をすればいいのか。
   現時点でこういう話をするのは不謹慎かもしれない。だが軍事的勝利の勢いで暴走が始まったら、止めるのは難しい。実際、ソ連の平和的な解体で地政学的な大勝利を収めたとき、アメリカは古代ギリシャの賢者ペリクレスの忠告に耳を貸さず、結果として恒久的に平和な世界を構築する機会を逃した。私たちはその苦い経験に学び、今度こそ賢明に対処すべきだ。と説くのである。

   さらに、
   8年前のクリミア併合に対する西側の反応が鈍かったので、プーチンはウクライナ本土に攻め込んでも大丈夫と踏んだのかもしれない。
   そうだとすれば、彼は1939年3月にチェコスロバキアの一部を占領し、続いてポーランドにまで侵攻したアドルフ・ヒトラーと同じ誤りを犯したことになる。超大国との距離感は微妙だ。手間がかかるし、時には他国に責任を転嫁したくもなる。だが露骨な軍事侵略が起きた場合に、適当な距離を保つという選択肢は取りにくい。

   ここでは、割愛するが、ウクライナ戦争後の米国の外交政策等についての教授の提言は注目に値する。終戦後のロシアの立ち位置や地政学的な地殻変動などについては、言及していないが、
   次の文章で、論文を結んでいる。
   そもそも、ウクライナ戦争が西側の勝利に終わっても、各国が取り組むべき外交上の課題は何一つ変わらない。つまり①破滅的な気候変動を回避し、既に顕在化した深刻な影響に対処する、②中国とは距離を置きつつも関与を続ける、③イランには核兵器を持たせない、④失速気味の世界経済を浮上させる、そして⑤次なるパンデミックの襲来に備えなければいけない。
   いずれも死活的に重要な課題だ。まずは明確な優先順位を決め、(西側の価値観を押し付けるような)無謀な冒険に乗り出さないこと。ウクライナの人々が勝利の美酒に酔いしれ、好戦的になるのは避け難い。しかし彼らにつられて、私たちが過去の過ちを繰り返す事態だけは何としても避けたい。

   いずれにしても、このウクライナ戦争では、西側、すなわち、アメリカの勝利については、疑いを持っていない。
   昨日引用したニーナ・L・フルシチョワ教授の「クレムリンの自殺的帝国主義」論と同じような論調で、アメリカの識者の間では、このウクライナ戦争は、西側の勝利で終ると言う観測が一般的なのであろうか。
   それに、最近では、NYタイムズやWashingtonポストにおいても、ウクライナ戦争の記事がメインになることは殆ど皆無で、アメリア社会のウクライナ離れが加速しているような雰囲気である。
   
   16日からの中国共産党第20回全国代表大会、11月のアメリカ中間選挙など世界的な大行事が近づいており、ますます、ウクライナ戦争の影が薄くなる。
   それに、ウクライナやロシア、それに近接するヨーロッパは、夜長の厳しい極寒の真冬に突入する。
   私も、オランダとイギリスで8年間暮らしたので、午後から暗くなって夜明けが遅い、毎日、リア王の世界のような暗くて陰鬱な極寒のヨーロッパの厳しい冬を知っている。
   平安だったはずの生活環境がズタズタに破壊され、インフラが荒廃して廃墟のようななった国土のウクライナの人々の生活を思うと胸が痛む。
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PS:クレムリンの自殺的帝国主義 The Kremlin’s Suicidal Imperialism

2022年10月05日 | 政治・経済・社会
   プロジェクトシンジケートの最新論文
   ニューヨークの名門校ニュースクールの国際問題教授ニーナ・L・フルシチョワの論文「The Kremlin’s Suicidal Imperialism クレムリンの自殺的帝国主義」が興味深い。
   尤も、プーチンの自殺的な帝国主義がが失敗に終りつつあると認めつつ、微妙な問題なので、ハッキリと論述していないのが限界だと思うが、ロシアの現状を言い得て妙なので紹介しておきたい。

   まず、掻い摘まんで要約すると、
   ソビエト連邦が崩壊して以来、プーチンは、ウクライナの 4 つの地域が現在ロシアであると宣言した。
    かつて、共産主義が人類を帝国主義者の搾取から救うと考えられていたように、ロシアは今や、国々を西側の属国に変える「新しい植民地主義」にさらされないようにする権利を擁護する責任があるとして、プーチンのロシアでは、まさに、戦争は平和であり、奴隷制は自由であり、無知は力であり、主権国の領土を不法に併合することは植民地主義と戦うことであるとしている。
   プーチンは、併合されたドネツク、ルハスク、ヘルソン、ザポリージア地域が、エカテリーナ 2 世によってロシア帝国にもたらされたノヴォロシア (新ロシア) の一部であったことから、歴史的な不正を正していると考えている。 西側、特に冷戦以降、資源を奪い、行動を指示してきた米国に対して、世界を代表して立ち向かっていると考えている。
   プーチンは、彼の知的な英雄であるロシアの哲学者イヴァン・イリンに触発されている。したがって、彼はロシアの優越性に対するイリンの信念を反映している一方で、ロシアについて「嘘をつく」西側の指導者たちをゲッベルスと比較し、ウクライナでの彼の「特別な軍事作戦」を、国を「非ナチ化」する必要があるとして正当化しているのである。
   ここ数週間、ロシアはウクライナ北東部で一連の軍事的敗北を喫している。プーチンは、ますます攻撃的なレトリックでそれを補っていて、ロシアが負けていることが明らかになればなるほど、プーチンはそうではないと強く宣言する。これが「圧政のパラドックス」で、国家が弱体化すればするほど、人々の基本的自由が奪われてゆく
   すべてのロシア人がプーチンの物語を支持しているわけではない。
   プーチンの側近も、最近の展開に特に興奮しているようには見えない。彼らは規律と従順を維持しなければならないことを知っいて、これはプーチン大統領のショーであり、皇帝の服がすべてではないかもしれないという提案は、刑事告発、または早すぎる死さえもたらす可能性がある。
   これは、ロシアの専制政治のパラドックスの別の側面を示していて、すべての権限を 1 人の人物に集中させると、効果のない、または非生産的な政策の実施を許し、軌道修正のためのすべてのメカニズムを抑圧することによって、ガバナンスが弱体化し、政策の間違いを特定するなどしてリーダーに挑戦することは、すべてを危険にさらす。プーチンの顧問の誰も、ウクライナでの戦争がロシアにとって戦略的な惨事であると進言する可能性は低いし、キエフに進軍し、「ロシアの土地」を再統一するという当初の目的を、彼がすでに達成できていないことを彼らは指摘しないであろう。そして彼らは、国際社会が彼の最近の領土主張を決して認めないだろうとは説明しないのも、これは、プーチンが核爆破で覆い隠したいと望んでいる真実だからである。

   いつの日か、ロシアの指導者は、特に経済のために、世界の他の国々との関係を修復したいと考えるであろう。そして、自発的に土地を放棄する国はほとんどなく、これらの違法に併合された領土は、進歩への高い障壁を形成している。

  プーチンはロシアの擁護者として記憶されることを望んでおり、彼はこの観点から歴史の本に自分自身を書くことさえあるであろう。しかし、今日、多くのロシア人がウクライナでの彼の戦争から逃れているのと同じように、将来のロシアの指導者たちは、彼の帝国の遺産とそれが生み出すすべての問題を歓迎しないであろう。

   ウクライナを舞台にしたNATOとロシアの熾烈な戦争、
   実際はアメリカとの代理戦争だが、アメリカは後ろで暗躍しているだけだが、相手は、敵将自らが武器を取っているので、新冷戦と言えども危険度は極に達している。
   これだけ誤算続きで、戦争が長引けば、いくら、側近が正しい情報を上げなくても、プーチンもロシアの負け戦を感知し得るはずだが、それさえ出来ないとすれば、プーチンの誇大妄想や世界観の欠如が如何に深刻か、宇宙船地球号の命運がかかっている。
   日本人も、アメリカも、太平天国を決め込んでいるが、誇り高いロシアを窮地に追い込めば、ただの、窮鼠猫を食む状態どころか、大変なことになることを銘記しておくべきだと思う。
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懐かしいドイツ製の銀塩カメラ

2022年10月04日 | 生活随想・趣味
   私の机の引き出しの上段に、大切なカードなどを入れてあるのだが、その奥に何故か、小型のミノックスのカメラがある。
   デジカメ時代になって久しいのだが、懐かしいので、ドイツのカメラの思い出を反芻してみたいと思う。

   さて、このカメラは、ドイツ製のスパイカメラと言われていたミノックスの後継機で、長さ12センチくらいで、箸箱の半分くらいの大きさである。
   1970年代後半、ニューヨークへの出張時に、小さなカメラをと思って、好奇心で、このカメラを買って、ブロードウェイのミュージカルで、試し撮りをした記憶がある。
   電池もフィルムも特別仕様なので、あまり使ったことはないが、コンパクトなので便利であった。
   尤も、フィルムが小さいので、精密カメラだと言っても、画質がもう一つで、相当習熟しないと、スパイカメラになるのかは疑問だが、当時としては珍しくかなりの接写が可能で、近接距離を測るスケール・チェーンが付属しているのが面白い。
   ASAは400,シャッター速度はオート付属で1000まで、いずれにしても、半世紀以上前の銀塩カメラである。

   次に買った外国製カメラは、ライカの一眼レフR3サファリである。
   ライカは、高級レンジファインダーカメラ「Mシリーズ」で有名だが、一眼レフカメラ「Rシリーズ」のR3が、ミノルタとの提携で、1976年に発売された。  
   その後、丁度、サンパウロでの赴任が終わって、東京への帰途、ドイツに立ち寄た時に、フランクフルトで、毛色の変わったサファリ塗装のサファリバージョンが、カメラ店に、ディスプレィされていたので買った。
   レンズは、ズミクロンR F1.4で、単焦点なのだが、日頃は、日本製のズームレンズ付きの一眼レフを使っていたので、別に不自由はなかった。
   シャッターを押したときの何とも言えない重厚な感触が秀逸で、日本のカメラで慣れたシャッター音とは違ったずしりとくる感じが魅力的であった。
   いずれにしろ、日本製のカメラで十二分であり、ヨーロッパでも、ライカのカメラもレンズも桁違いに高価であったし、それ以上、手を広げる気にはなれなかった。
   このサファリは、2,500台しか製造されなかったようなので、貴重品なのかもしれないが、これも、半世紀前のフイルムカメラなので、お蔵入りになって久しい。
   

   1985年にヨーロッパに赴任して、日本から持って行ったコンパクトカメラが、ダメになったので、その代わりに買ったのが、ライカ版のフィルムが使える小型のミノックス35GTである。
   何も、高い日本製カメラを、ロンドンやパリで買うこともないので、コンパクトなドイツ製のカメラを探して、たまたま、先のスパイカメラのミノックスの簡便なカメラに出会ったのである。
   日本のカメラのように高級感は全くなくて、裏蓋を引き下ろして、フィルムを装填するだけと言ったシンプルなもので、絞り優先で、距離は合わせなければならないが、他は自動で撮影ができる。
   レンズは、ミノタールF2.8。
   35ミリの普通のフィルムを使えるたので、まずまずの画質であり、スナップを撮るのに役立ってくれた。
   このミノックスと、コンパクトなデジカメ:ソニーのDSC-RX100と殆ど同じくらいの大きさで、ヨーロッパでは携帯カメラとしては、重宝した。
   なくしてしまったが、サファリ版も持っていたので、ヨーロッパ在住中は、日本製の一眼レフがメインであったが、旅行中は重いので、このミノックスをサブで通した。
   

   アムステルダムとロンドンに8年いたので、珍しい欧州製のカメラを手に入れる機会があったのだが、骨董趣味がなかったので、機会を逸した。  
   日本のカメラが最高だと思っているので、脇目を振る必要もなかったので、この3台のドイツ製のカメラが、30台を優に超える我がカメラ遍歴の一里塚として残っている。
   日本製だが、帰ってきてから、コンタックス CONTAX TVSを買ってしばらく使っていたが、質は兎も角、何となく日本離れしたしっとり来るエキゾチックな感触が、不思議に魅力なのである。
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