熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

速読法を学ばずに読書人生70年

2025年02月24日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   小学生の低学年から、本屋に一人で出かけて好きな本を買って読んでいたほどの読書愛好家であるから、もう70年以上の年季が入っている。
   従って、読破した本は数千冊に及んでいて、いわば、読書が趣味というよりも、人生そのものであったような気がしている。

   さて、それで少し後悔しているのは、いわゆる、速読法をマスターせずに、普通に読んでいたので、実際の読書量が、少なかったのではないかと言うことである。
   音読という訳ではないので、飛ばし読みしたり、斜め読みしたり、適当に読んでいたので、何の問題もなかったので意識はしなかったし、十二分に読書に勤しんできたので、慰めはしている。

   私の場合、本の種類やシチュエーションによっても違ってくるのだが、これまで長い人生において、やはり、意識して多く読んできたのは、専攻の経済学や経営学と言った専門書であったので、結構難しいことへの挑戦もあって、じっくりと対峙しなければならなかった。早く読めればよいということではなく、読みながら、考え推敲する時間が必要だったのである。
   そして、趣味の歴史書や美術書など文化芸術関係の本の場合には、あらゆる背景やシチュエーションを脳裏に展開しながら、空想の世界であったので、読書にも間が必要であった。

   良く分からないが、著者が書く速度もそんななものであろうし、丁度、音読程度の速度で、考え空想しながら読んでゆくのが、一番馴染むような気がして、特に意識せずに、それを続けてきた。
   私には、無意識ながら、頭が本の内容に即応するような速さで、適当にアジャストしながら、読んでいたということであろうと思っている。

   もう、読書人生も、それ程残っていないので、このまま、速読法を気にせずに、じっくりと、積読の本の山を切り崩すことにしようと、
   プラトンの「国家」のページを開いている。
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斎藤 幸平 (著)ゼロからの『資本論』(2)

2025年02月17日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   さて、斎藤准教授の人新世の資本論で説く究極の「脱成長コミュニズム」について考えてみたい。
   「脱成長コミュニズム 」 とは、無限の経済成長ではなく、大地=地球を「コモン」として持続可能に管理する「合理的」な経済システムであり、この共同体は、経済成長をしない循環型の定常型経済である。ここでは、生産手段を自律的・水平的に共同管理する「(市民)営化」経済であり、平等な人間と自然の物質代謝を行うので、経済成長をしない共同体社会の安定性が持続可能な脱成長型経済の「コミュニズム」なのである。

   この「脱成長コミュニズム」の柱となるのは、次の諸点。
   まず、「価値」ではなく「使用価値」に重きを置いた経済に転換して、大量生産・大量消費から脱却すること 。
   次に、労働時間の短縮、必要のないものを作ったり、意味のない仕事をやめる。
   第3に、画一的な労働をもたらす分業を廃止して、労働の創造性を回復させる。
   第4に、生産のプロセスの民主化を進めて、経済を減速させる。ワーカーズ・コープによる「社会連帯経済」を促進する。
   第5に、使用価値経済に転換し、労働集約型のエッセンシャル・ワークを重視する。

   「脱成長コミュニズム」は、資本主義の人工的希少性に対する対抗策で、「コモン」の復権により成長を不要とするが、「反緊縮」の豊潤な経済「ラディカルな潤沢さ」の復活を目指す。
   マルクスは、「自由の国」、すなわち、生存のために絶対的に必要ではなくても人間らしい活動を行うために求められる領域、例えば、芸術、文化、友情や愛情、そしてスポーツなどを拡大することを求めていた。
   無限の経済成長を断念し、万人の持続可能性に重きを置くという自己抑制こそが、「自由の国」を拡張し、「脱成長コミュニズム」と言う未来を作り出す。と説く。

   具体的な「脱成長コミュニズム」像が示されていないので、私なりの解釈だが、 
   自然や人材を浪費収奪して環境を破壊するなど人類社会を窮地に追い込む利益追求第一の資本主義の成長発展を止めて、経済成長を断念して、
   人間社会の安寧と幸せを増大させてゆくために、成長はしないが、経済の深化、質の向上を目指して、脱成長の「ラディカルで潤沢な」経済を追求すると言う事であろうか。
   GDP増大と言った従来の経済成長は求めないが、循環型の定常型経済であるから、経済の質を向上させて更に価値ある経済を構築すべきであるから、イノベーションは当然必要であり、反緊縮ではなく、新次元の「人新世の発展」が希求される。

   この「脱成長コミュニズム」論については、特に異論はなく出来れば理想的かもしれないが、例えば、「国家規模は勿論地球規模で、生産手段を自律的・水平的に共同管理する「(市民)営化」する」など一つをとっても実現は殆ど不可能であり、現実性に乏しいと思う。
   それに、ここでは、議論は避けるが、従来の資本主義からの脱却、成長志向の経済学の否定など不可能であり、軌道修正によって、経済社会の改革を目指すべきであろう。
   脱経済成長も悪くはないなあと思ったのは、日本の失われた30年。GDPは500兆円台を超えられずに、成長には見放された経済ではあったが、この間、国民生活の質や水準は随分上がった。

   さて、環境破壊対策などに対して、「グリーン・ニューディール」が議論されている。
   再生可能エネルギーや電気自動車など普及させるための大型財政出動や公共投資を行う新たな緑のケインズ主義、「気候ケインズ主義」だが、経済成長と環境負荷の「デカップリング」が難しく、それに、資本主義であるから脱成長にはならない。と准教授は否定する。
   人類の未来について多くの楽観論が出ているが、その多くは、最近では、ICTに依拠した「認知資本主義」に至るまで、科学技術の進歩、イノベーションに期待している。マルサスの亡霊も潰えたし、とにかく、科学技術の発展によって、これまで人類はすべての難局を乗り切って来たという自信と神頼みである。
   さて、永遠に人類社会が続いてゆくのか、それとも、茹でガエル状態で墓穴を掘るのか、
   終末時計、1秒進み 地球滅亡まで「残り89秒」 
   「最も危険な瞬間」が、そこまで近づいてきている。

   いずれにしろ、示唆に富んだ問題意識を喚起させてくれる本である。
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斎藤 幸平 (著)ゼロからの『資本論』(1)

2025年02月09日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   『人新世の「資本論」』を読んで、興味を持ち、毛嫌いしてそっぽを向いていたマルクスの「資本論」を、斎藤准教授の新解説で勉強してみようと手にした。
   新・マルクス=エンゲルス全集(MEGA)の編集経験を踏まえて、“資本主義後”のユートピアの構想者としてマルクスを描き出す。最新の解説書にして究極の『資本論』入門書!と言う本である。

   ケインズは、資本主義が発展してゆけば、やがて労働時間は短くなる。21世紀最大の課題は、労働時間や労働環境ではなく、増えすぎた余暇をどうやりすごすかだ、と予言した。
   たしかに、資本主義の発展に伴い技術革新が進み、世界の総GDPは急カーブで上昇し、世界は様変わりして、今や、ロボット開発やAI研究が進みChatGPT (チャットGPT) の時代になったが、
   しかし、現実は労働時間が減るどころか、過労死さえ常態化しており、世界の労働環境は悪化を辿っている。
   資本は価値の増殖運動であり、イノベーションを展開して生産性をアップして剰余価値を追求するのが資本主義である。また、このイノベーションは、労働者に対する「支配」の強化によって効率的に働かせるための「働かせ方改革」として作用しているので、ケインズの予想が当たる筈がない。と言う。

   生産性が上がれば上がるほど、労働者はラクになるどころか、資本に「包摂」されて自律性を失い資本の奴隷となる、とマルクスは指摘しているという。
   ここで、斎藤准教授は、「新陳代謝」論を展開。
   本来、人間の労働は、「構想」と「実行」、すなわち、作品を構想する精神的労働と作品を制作する肉体的労働が統一されたものであったが、資本家は、資本主義の下で生産が高まると、両者を分離して構想力を削ぎ労働者は「実行」のみを担うこととし、同時にギルドを解体するなどして、労働者の主体性を奪って単純労働しか出来ないようにした。
   20世紀初頭の「科学的管理法」のテイラー主義などその最たるもので、分業化された流れ作業を細分化して、各工程の動作や手順、所要時間を分析して標準作業時間を確定して、作業の無駄を徹底的に省いたというから、労働者は単なるスペアパーツに成り下がったと言えよう。
   よく考えてみれば、現代の労働者や高級知的職種・専門職と言えども、利益増殖至上主義の資本主義の現代版テイラーシステムの歯車に組み込まれて、それが生き甲斐だと思って必死になって働いている働きバチに過ぎないのではなかろうか。

   さて、今回は労働の問題について論じただけだが、利潤追求、富の増殖を求めて驀進する資本主義が素晴らしいものだと、殆ど疑いもなく信じていたが、これほど、労働者を非人間化して人格を奪い、かつ、内外共に経済格差を深刻化させ、地球温暖化や経済の外部性を軽視して宇宙船地球号を窮地に追い込んでいる。

   この本を読んでいて、マルクス経済学はともかく、私が学び続けてきた経済学や経営学、特に、経済成長発展論や経営戦略論、イノベーション論など資本主義促進ドライバーは、人間をどんどん窮地に追い込むための学問ではなかったのであろうか、
   とフッと不安が過ったのは事実である。
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納富 信留 (著):プラトンが語る正義と国家 不朽の名著・『ポリテイア(国家)』読解

2025年02月07日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   東大のテンミニッツTV講義録の納富 信留教授の「プラトンが語る正義と国家 不朽の名著・『ポリテイア(国家)』読解」
   プラトンの大部の「国家」を読まずに、手っ取り早く、解説書を読むことにした。 

   政治劣化、宗教紛争、多様化しすぎた価値観・・・混迷の時代に読むべき「史上最大の問題作」自分が変わる驚愕の書。ハーバード、MITなど全米トップ10大学の「必読書第1位」と言うのが、このプラトンの『ポリテイア(国家)』。
   この本の主題は、「正義とは何か?」
   「正義はそれ自体として行うに値する、素晴らしいことである。それは結果が伴っても伴わなくても素晴らしいことだ。」「私たちは、正義がそれ自体として魂それ自体にとっても、もっとも善いものであると言う事を見出した。魂は正しい物事を為すべきだ、そう分かったのだ。」とソクラテスは説いた。
   この本の本当のテーマは、「魂(プシューケー)」で、ポリスにおける正義・不正をみることで、類比的に、人の魂を」考察していると納富教授は言う。

   ところで、私自身が、このプラトンの「国家」で知っていたことは、ただ一つ、「哲人政治」である。
   哲学者が訓練を積んで国を支配する。あるいは政治家が真正に哲学をする。「その2つのどちらかが成り立たない限り、人間にとって不幸は終わらない。」と言う理論である。
   実際に哲人政治をするためには、初等教育から高等教育に至る哲学者教育を全部経た人たちで、最後に残った信頼できる人に政治を任せなくてはいけないと言うのである。

   ところで、この哲人政治論が、20世紀には全体主義のシンボルとなって、ナチズムや軍国主義の人たちが「自分たちは哲学者だ」と語って政権を握り、プラトンの趣旨をまったく損ねるような政治を行った悲しい歴史がある。
   哲人政治の「理想的なポリス」が、人間の「欲望」限定的には「金銭欲」、そして、「分断(スタシス)」「内乱」によって、「優秀者支配制」から「僭主制」へと堕落崩壊してゆく過程を5段階に分けて分析している。
   最後の「民主制」と「僭主制」については、現代に通じる貴重な示唆を与えてくれているので、プラトンの「国家」を読んでから考えてみたい。

   さて、今日、石破首相とトランプ大統領の首脳会談が行われる。
   哲人政治を考えると、非常に興味深い。 
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トマ・ピケティ , マイケル・サンデル「平等について、いま話したいこと」

2025年01月28日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   当代一の経済学者トマ・ピケティ と政治哲学者マイケル・サンデルが相まみえて、真の「平等」をめぐり徹底的に議論する!対話篇「平等について、いま話したいこと」

   まず、私が意識したのは、先日ブックレビューした斎藤幸平の「人新世の資本論」で、ピケティが、「飼い馴らされた資本主義」ではなく、「参加型社会主義」を意図した社会主義者に「転向」したと書いてあったので、主義信条がどのように変わったのか、新しい価値観に興味を持ったことである。
   この対談でも、ピケティは、わたしが標榜しているのは民主社会主義、連邦制の国際社会主義です。と発言しており、世界連邦にまで言及している。世界連邦については、もう70年以上も前中学生の頃に入れ込んで勉強した政治機構なので懐かしい限りだが、稿を改めたい。

   所得と富の不平等を説いたピケティが、冒頭で、世界中で多くの不平等が存在するものの、長期的に見れば常に平等へ向かう動きがあったことを強調している。社会運動や政治的要求、基本的財である教育、保健医療、選挙権などの機会を得る権利、民主的な参加への権利の平等や自治への意欲などが原動力になっている。と言う。
   不平等が問題である理由は、一つ目はすべての人による基本的な財の利用機会、二つ目は政治的平等、三つめは尊厳。二人の意見が一致して、これらの問題について議論を進めており、
   不平等の大きな制約要件となっているのは、第一は、学歴格差の問題で、高等教育に平等主義を実現しようとする意欲的な目標が事実上放棄されていること、第二は、世界の南北問題で、繁栄の大部分は国際分業によるものだが、残酷な北による実質的な南の資源の搾取(天然資源と人的資源の搾取)で、その代償として地球の持続性が脅かされている。言う。

   能力主義が機能していないとして、サンデルは、ハーバードなどアイビーリーグ大学の入学者を決めるのに、「くじ引き」を提言している。一定の入学適正基準を設けて、点数や成績がその基準を上回った出願者を入学定員の10倍に絞って、その10%を合格者とする方法である。
   これに、マーコヴィッツの「親の所得が国の下位の3分の2の学生が半数以上になる」など階級構成を変えて利用機会をもっと公平にするなど考えている。
   この考え方を政治にも適用して、二院制の立法府や議会を改革し、一方の議会は選挙制度で構成し、もう一方の議院は、古代ギリシャの発想にさかのぼって、くじ引きで選ばれた市民で構成される議会にするという。

   いずれにしろ、学歴偏重主義が、最後まで容認されている偏見で、トランプやルペン現象は、労働者や大卒でない人たちの多くが、エリートに見下されている、自分たちの仕事の価値をないがしろにされているという感覚の現れ、
   全体的な問題について、仕事の尊厳を肯定し、経済や共通善に――仕事や子育てやコミュニティでの活動を通じて――貢献している人々の生活をもっとよくすることに重点を置くべきだと説く。

   南北問題の最たる温暖化対策については、南の環境保全技術に必要な投資額が著しく不足しているので、階級闘争的に、最富裕層の億万長者や多国籍企業にグローバル税を課し、その税率の一定割合を特定名目分に定めて、人口や気候変動の影響に応じた割合で南側諸国に直接分配する必要がある。必要なのは、発展する権利、自治の権利、自決の権利について、基本的視点に立ち返ることだと、ピケティは、国際社会主義論を展開している。

   この対談で、最後の論点”尊厳”が最も重要で、この側面が政治的にも倫理的にも最も影響が大きく、経済と政治における不平等を減らすためには、より平等な承認、敬意、尊厳,尊重を実現する条件を整えることだと、結んでいる。

   私など、経済格差の拡大、経済的不平等が、一番の関心事であったので、多岐にわたった不平等の存在と深刻さに教えられた。
   私事ながら、私もアイビーリーグ大学の卒業生なので、受験当時を思い出したが、TOEFLとATGSBのテストを受けて、履歴書や推薦書、それに、結構多くの論文を添付して入学願書をウォートン・スクールに送った。どのような判定で入学が許可されたのか分からないが、点数だけではなく、卒業大学だとか職歴なり、それに上り調子の日本企業の経営についての論文なり、総合評価だという。

   ところで、この本、小冊子だが、結構示唆に満ちていて、左派リベラルのサンデルの見解などが垣間見えて面白かった。
   気付いたのは、斎藤准教授の「人新世の資本論」の世界と非常に近い理論展開であったことである。 
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斎藤 幸平 (著)人新世の「資本論」

2025年01月25日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   人類の経済活動が地球を破壊する「人新世」=環境危機の時代。気候変動を放置すれば、この社会は野蛮状態に陥るだろう。それを阻止するには資本主義の際限なき利潤追求を止めなければならないとする「脱成長」の資本論。マルクス経済学の再生を説くのがこの本。
   経済学を学びながら、無知の偏狭さでマルクス経済学に一顧だにせずに半世紀以上も経って、やっと、経済学の奥深さに感じ入った思いで、この本を読んだ。
   先日、NHKのBSスペシャルの
   人新世の地球に生きる 〜経済思想家・斎藤幸平 脱成長への葛藤〜を見て、まず、読まなければ議論はできないと思ったのである。
  
   まず、本書で、著者が最初にマルクスを引用したのは次の点。
   大量消費・大量消費型の豊かな帝国的生活様式を享受するグローバル・ノースは、そのために、グローバル・サウスの地域や社会集団から収奪し、さらには我々の豊かな代償を押し付ける行動が常態化している。のだが、
   19世紀半ばに、マルクスは、この転嫁による外部性の創出とその問題点を分析して環境危機を予言していた。資本主義は自らの矛盾を別なところへ転嫁し、不可視化するが、その転嫁によって、さらに矛盾が深まってゆく泥沼化の惨状が必然的に起き、資本による転嫁の試みは破綻する。このことが、資本にとって克服不可能な限界になる。

   次への展開は、進歩史観の脱却から「脱成長コミュニズム 」へ。
   マルクスの進歩史観には、「生産力至上主義」と「ヨーロッパ中心主義」と言う2つの特徴を持つ「資本主義がもたらす近代化が、最終的には人類の解放をもたらす」と言う楽観的な考えであった。
   しかし、「資本論」では、無制限な資本の利潤追求を実現するための生産力や技術の発展が、「掠奪する技術における進歩」に過ぎないと批判している。
   「価値」追求一辺倒の資本主義では、民主主義も地球環境も守れないので、生産力の上昇の一面的な賛美をやめて、社会主義における持続可能な経済発展の道を求めて「エコ社会主義」ビジョンを立てた。
   無限の経済成長ではなく、大地=地球を「コモン」として持続可能に管理する「合理的」な経済システムであり、この共同体は、経済成長をしない循環型の定常型経済である。ここでは、経済成長をしない共同体社会の安定性が、持続可能で、平等な人間と自然の物質代謝をしていた、というマルクスの認識が重要になる。マルクスが最晩年に目指したコミュニズムとは、平等で持続可能な脱成長型経済の「脱成長コミュニズム」なのである。

   「コモン」は、人々が生産手段を自律的・水平的に共同管理する「市民」営化であるから、労働者たちが共同出資して、生産手段を共同所有し、共同管理する「ワーカーズ・コープ(労働者協同組合)」である。
   資本主義の終わりのない利潤競争と過剰消費が気候変動の元凶だと糾弾して気候非常事態宣言を発して、国家が押し付ける新自由主義的な政策に反旗を翻す革新的な地方自治体「フィアレス・シティ」の先陣を切るバルセロナの、脱成長社会を目指す「経済モデルの変革」は最先端のモデルケース。
   非常事態宣言が、社会的生産の現場にいる各分野の専門家、労働者と市民の共同執筆であり、この運動を推進しているのが地域密着型の市民プラットフォーム政党で、この運動とのつながりを捨てない新市長は、草の根の声を市政に持ち込み、市庁舎は市民に開放され、市議会は、市民の声を纏め上げるプラットフォームとして機能するようになった。と言う。

   「脱成長コミュニズム」も、「市民」営化だとしても、組織である以上、ドラッカーの説くごとく、マネジメントが必要である。マネジメントが絡むと、利害得失が跋扈して、組織を歪め、本来の理想目的から逸脱する。
   問題点はあろうが、「脱成長」への資本主義への変革は必要だと思っているので、理想論に近いとは思うのだが、斎藤説には殆ど異存はない。
   しかし、マルクス経済学には、まだ、疑問を感じてはいる。

   著者は博学多識、詳細にわたって「脱成長コミュニズム」論を展開しており、極めて貴重な啓蒙書であるとともに、あらゆる文献を駆使してマルクス経済学の神髄に迫ろうとする真摯な貢献に脱帽する。
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日経:鈴木保奈美さんとリアル書店

2025年01月19日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   日経の日曜版に、
   ”〈直言〉「読書は独り」だけじゃない 俳優・鈴木保奈美”が掲載されている。

   鈴木さんは幼いころから読書に親しみ、物語を通じて日常から離れた世界に触れてきた。現在は俳優として活動しつつ、読書をテーマとしたBS番組「あの本、読みました?」の司会も務める。 
    漫画、ゲーム、動画配信。私たちの身の回りにはコンテンツがあふれ、家に居ながら情報と娯楽を得ることが可能な時代だ。それでも俳優の鈴木保奈美さんは、書店へ出向き、本を買い、時間を費やし読むことが好きだという。その醍醐味を深掘りすると、体験を共有できるメディアとしての読書が浮かび上がる。 と言う興味深い記事である。

   「リアルな書店、奇跡の空間」という箇所で、私は単純に書店が好きで、・・・書店でリアルなものを見たいのは、洋服を試着せずに買うのと同じ。本も、装丁やサイズ感を含めて、実物を見てから買って読みたい。小説を買いに行っても、旅行ガイド、料理本、新書と、時間があればぶらぶらと、ウインドーショッピングのように眺めるのが好き。自分が欲しいと思っていた本以外のものを見つけることがある。と言う。
   リアルな書店は自由で平和な社会の縮図、私は書店に来るお客さんの様子を眺めるのも好き。色々な人が来て、どんな職業の人もみんな平等で、みんなが尊重され、お互いを尊重し、知らず知らずルールを守っている。生身の人がいて、知らない人たちが平和に、一緒に居られる空間が書店だと思います。と言うのである。
   まぎれもなく、徹頭徹尾、リアル店舗派の読書家である。

   試着しないとと言う感覚は、私にはないが、ネットなどで買うと、広告やレビューなどと全く違うことがあるので、一部試読して確認したいという気持ちはある。
   それに、書店で沈没することがあっても、やはり、専門書や自分の関心のあるジャンルの書棚からあまり離れることなく、精々、新書や新刊のベストセラーコーナーくらいで、動かないことが多い。
   私は、専門書が多いので、どうしても大型書店に行かざるを得ないのだが、リアル書店の良いところは、関係本を一望のもとに一覧できるので、新しい知識への渉猟の楽しみを実地体験できることで、保奈美さんではないが、新しい知へ遭遇して嬉しくなることがある。

   最近、遠出がし辛くなって、東京や横浜などの大型書店に行けなくなって、本の購入はネットショッピング一辺倒になってしまった。
   しかし、読みたい本のターゲットは決まっているし、読書量も減っているので、Amazonの「サンプルを読む」から、はじめに、とか、序章くらいの一部は読めるので、ほぼ、これで助かっている。
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藤澤 令夫 (著) プラトンの哲学 (1)

2024年11月03日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   「饗宴」を読み始めて久しぶりにプラトンに出会った感じだが、肝心のプラトンをよく知らないので、イロハを勉強しようと思って、一寸古い本だが、藤沢令夫京大教授のこの本を手に取った。

   さて、冒頭から面白い。
   プラトンは、はじめから哲学を自分の仕事として考えたわけではなく、そう定めたのはようやく40歳に差し掛かった頃であった。政治的伝統の濃厚なアテナイでは、成年に達すれば「国家公共の仕事」に携わる政治家になろうというのが大多数の若者たちの共通した気風であって、有力な家柄に生まれ素質にも恵まれていたプラトンにとっては特にそうであった。と言うのである。
   ソクラテスとの出会いは、興味深い逸話もあるが、兄や近親が古くから親しい間柄にあり、ソクラテスの言行は、幼少の頃からの長い間に、目立たないが確実に若い魂の内に影響を蓄積したと言う。
    しかし、この潜在的な影響の蓄積が顕在化したのは、30人政権がソクラテスをサラミス島のレオンへ強制連行しようとしたことに憤慨し、その後、28歳のプラトンにとっては驚天動地のソクラテスの刑死であった。
    プラトンは、ありし日のソクラテスを生き生きと伝える一連の対話篇「ソクラテスの弁明」「クリトン」「ラケス」「カルミデス」等々を執筆した。ただしこれは、プラトンが、一挙に政治への志を捨てて、哲学に向かったのではなく、最後まで政治への志を捨てることはなかった。
    かくして、プラトンは、このように根強い政治の実践への志向と、今やその影響が顕在化してきたソクラテスの教える哲学の生き方との相容れないような二つの方向のはざまで、これからの生涯をいかに生き、何をなすべきかを見定めるための長い遍歴を12年間も続けた。のである。

   どのようにして、プラトンは回答を得たのか。
   ソクラテスは、不正なこと不敬虔な事を何一つ行わず、言葉ではなく行動によって、「よく、正しく、美しく」という価値規範を芯とする人間の幸福を追求する営みに徹していた。
   しかるに他方、「政治(国事)の実践」が本来目指さなければならないのは、まさにそのような生き方と行動の価値規範と、それに基づく真の幸福を、国民の間に実現させることである。
   「社会の片隅での発言」にとどまっているソクラテス的な「哲学」を、望ましからぬ状態にある政治の実践のあり方に影響を与え、その内実を規制し得るまでに強力な営為へと、成長させること、そのようにして、二つの相反する方向と思われているものを一本の大道に合流させた。
   正しく真実に哲学している人々が国政の支配の座に就くか、あるいは、現に諸国において政権を握っている人々が、何らかの神の配慮によって、本当に哲学するようになるか、このどちらかが実現するまでは、人類が災いから免れることはないであろうと、
   正しく哲学する者の政治、「哲人王」か「哲人統治(者)」と呼ばれる思想に至ったのである。

   こうした考えを胸中にして、プラトンは、十二年間にわたる遍歴生活の締めくくりとして、イタリアとシケリアに赴いて、アテナイに帰還後、
   何よりもまず、先の結論の必然性に応えるだけの〈哲学〉の内実を確立すること、そのためには、ひとつは、「アカデメイア」と言う学園を創設して、自分の理想と目的にかなった教育活動を行うことであり、もうひとつは、それと並行して、既に始められていた著作活動の継続を通じて、自分自身の哲学思想を形成し発展させて世に問うことであった。
   このようにして、プラトンの「生の選び」は完結した。アカデメイアの教育活動も、著作〈対話篇〉の執筆活動も生涯の最後までたゆみなく続けられ、両者相まって、ここに〈哲学〉は、社会における人間の営為としても、学問的な内実そのものにおいても、はじめて確立されたのである。

   ここまでが、この本の冒頭部分だが、こんな初歩さえ分からずにプラトンを読んでいたのが恥ずかしい限りであるが、これから、少しずつ、対話篇を読んで勉強しようと思っているので、どこまで、入り込めるか楽しみである。

   さて、余談ながら、藤沢教授は、ラファエロの「アテネの学堂」のプラトンとアリストテレスの複製画に触発されて書斎にかけていたという。
   私も、システィナ礼拝堂のミケランジェロの「最後の審判」とラファエロのこの壁画が、中学時代から目に焼き付いていて離れなくて、実際にこの巨大な壁画の前に立った時には、感激しきりで、長い間佇んでいた。
   中央の赤い衣服がプラトン、その右隣がアリストテレス、また、二人の左側の群像の中で左側を向いている鶯色の衣服がソクラテス、
   すべてラファエロの創作だが、実在のレオナルドダヴィンチをモデルとしたプラトン像が、現実美を見せて興味深い。
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プラトン (著), 山本 巍 (翻訳)「饗宴: 訳と詳解」

2024年10月31日 | 書評(ブックレビュー)・読書
ソクラテスを中心に七人がエロスへの賛美を競った物語――この作品だけが、特定個人との対話でないのはなぜか。過去の語りが二重化されているのはどうしてか。そこに書かれなかった未知を読み解く。ギリシア語のテクストに徹底的に分け入り、正確な訳と詳細な註で、古典の新たな魅力を甦らせる一冊。 

   以上の能書きの山本 巍東大教授のこの本、
   翻訳は比較的易しくて親しめるのだが、倍以上もボリュームのある「詳解」が難しい。
   大判の418ページで、価格も7150円であるから、いわば、学術書である。
   いつもの読書癖で解説を読みたいと思って探したのだが、出てきたのは、この本と朴 一功 教授の「饗宴,パイドン」の京大版。
   先に読んだ納富教授の「プラトン哲学の旅 エロースとは何か」で、「詳細を検討しながら読みたい方には、この山本本が最良の導き手となる」とのことなので、まず、読んでみたのである。
   プラトンは勿論ギリシャ哲学にも疎いながら、なぜ、記録などを何も残さなかったソクラテスの哲学を、プラトンは、現存する著作の大半をソクラテスを主要な語り手とする対話篇という形式で残したのか不思議に思っていた。しかし、この「饗宴」は、プラトンの著作であり、プラトンの哲学だと気づいたのである。

   さて、山本教授の高邁な詳解の理解には、何回も熟読する必要があるのだが、これまで、どんなに素晴らしい本でも読み返した経験が殆どないので無理であり、興味を感じたアリストパネスの人間の起源について後半のディオティマ説を踏まえて触れてみたい。

   原始人間が二つに分断されて、片割れとの結合を希って分裂から合一なった男女が「永遠の陶酔」の内で無為に死んでいくことを哀れんだゼウスは、人間が大地に生むために背中にあった生殖器を前に移し、互いの中に、つまり男によって女の中に生むようにさせた。生殖を男女の関係に置き、存在論的性とは違う、生殖に直結する性が初めて登場した。
   人間の性を、生と死、死と創出が取り囲んでいる。個体としての自分は死んで、新しい生命の未来を生み出すという活動に振り向けられた。死すべき人間が、自己の中に自己を超える未来を胎蔵して妊娠し不死性を獲得する。死すべきものが永遠不滅性に参与する。のである。
   

   「饗宴」は、エロースの哲学であるから、エロースの道を正しく進む必要がある。この世の美しいものから始めて、更なる美を目標に昇ることで、階段のようにして、一つの肉体から二つの肉体へ(兄弟的類似性)、二つの肉体からすべての美しい肉体へ(一義性)、と進み、
   そして、美しい肉体から美しい振る舞いへ(こころの美)、さらに、美しい振る舞いから美しい学習へ(知識の美)へ進んで行く。
   最後に、その学習から〈あの美〉そのものの学習にほかならないかの学習に到達する。終極において、〈美しい〉それ自体を知る。ことになるという。

   哲学の世界と言うか、良く分からないが、納富教授の説明を再説すると、
   美の追求において、最初は美しい肉体を愛するが、次には、魂における美こそ尊いものだという、心霊上の美を肉体上の美よりも価値の高いものだと考える。美しさとは、見た目の綺麗さをはるかに超えて、内面の、あるいは、行動や生き方のすばらしさ、精神的な美であり、その経験によって芸術や文学を生み出し、共に生きていく論理につながる。
    次に感知すべきは、知識の美しさである。真理を探究し、学問に従事し研究してゆくと、純粋にそれを知りたいと思って学び、楽しいと感じる瞬間が訪れる。
   美しい様々な事柄から美しいもろもろの知識へ進み、美の全体を見渡す一つの知識という場所に立つ。これを観照して、その中で多くの美しく壮大な言語と思想とを、惜しみない知への愛において生み出してゆく。そこで力を得て成長し、まさにこのような美の中に一つの知識を見だすまで進んで行き、このエロースへの道程の極致に近づく時、滅することも増すことも減ることもない真の美そのものを観得し、不死の境涯を体得して、人生に生き甲斐を感じる。と言うのである。

   面白いと思ったのは、死生観の違いで、古代ギリシャでは、死すべき人間が愛の交歓によって不死性を得るという考え方で、中国など不老不死を願って皇帝たちが神仙術に明け暮れていたし、ファラオが永遠の生命を願ってピラミッドを作るなど、そのバリエーションが面白い。
   エロースへの希求はともかく、我々凡人は、いつかは死ぬ運命であるから、出来るだけ美しくて素晴らしいベターハーフを見つけて、善き子孫を残せと言うことであろうか。
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貴重な蔵書を殆ど処分した

2024年10月25日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   最近、蔵書を殆ど処分した。
   これまで、欧米を含めて大阪東京など、10回以上転居を続けていて、その都度、蔵書を処理しなければならなかったので、その数は膨大である。
   今回は、もう傘寿の半ばを超えて人生が見えてきたので、60年の人生を支えてきてくれた最後に残った貴重な本なのだが、300冊ほどを手元に残して、全て、大手の古書買取専門店に送った。段ボール箱で60個強、
   倉庫に詰め込んでいた本と書斎や部屋の本棚や足元びっしりの積読本などである。

   部屋の本は多少吟味したが、倉庫の中の本など、自分にとっては選び抜いて守り続けてきた貴重な本なのだが、未練が残るので、一切チェックせずにそのまま箱に詰めさせた。

   
   さて、何故、蔵書を処分するのかだが、家族のうち誰もが私の本に関心がないし孫も幼いので引き継げないこと、
   知人友人にコンタクトするのも厄介だし、
   過日、encyclopedia americana 全巻を市のごみ回収置き場に出したが、どんなに貴重な本でも、関心のない人には、ただのゴミにしか過ぎないのである。

   もう一つ、何故、古書買取専門店に送ったかと言うことだが、
   これまで、公共図書館や卒業した学校にコンタクトして引き取りを照会したが、古本などいらないとケンモホロロの対応であった。私一人が読んだ本なので新本に近いしその多くは未読本であり、それに、充実度は、シェイクスピア関連本だけとっても、イギリスやアメリカなどで買った本を含めて100冊以上もあって、並みの図書館や大型書店などにも引けを取らないほど充実しているのだが、そんなものは無視して厄介もの扱い。
   古書専門店ならリユースであるから、何がしか人様の役に立つ可能性があると考えたからである。

   この蔵書処分だが、私にとっては掛け替えのない大切な財産だったが、不思議にも、それ程後悔はしていない。
   先に、体力がついて行けなくなったのを感じて、あれほど憧れていたフィラデルフィアとニューヨークへのセンチメンタルジャーニーを諦めたら海外旅行に関心がなくなったという心境と同じ変化であろうか。
   人生の黄昏を感じ始めると、不思議に執着がなくなって、淡々としてくる。

   ところで、今月も本を5冊も買ってしまった。
   机に向かって本と対峙していないと落ち着かない、悲しいサガと言うべきか、読書中毒は治りそうにもない。

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貝塚茂樹著「論語」 "政治は信頼が第一”

2024年10月23日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   貝塚 茂樹 教授の「論語」を読んだ。
   1964年出版の論語の抄訳解説本だが、非常に面白い。
   先日、吉川幸次郎教授の「論語について」を読んでいるので、ほぼ、基礎知識もついて理解も進んできていて、益々論語に入れ込んでいる。

   今回は、総選挙直前なので、このトピックスに関係する孔子や貝塚教授の見解を取り上げてみたい。

   まず、「道之以政」の、法律に頼り違反者を刑罰で取り締まる法治主義に対する徳治主義の主張、
   この当時の独裁政治撲滅運動のために、孔子は国外に逃亡して10有余年流浪の旅を続けざるを得なかったのだが、儒教が漢帝国の国学となって勝利した。この徳治主義の政治哲学は、現実の法治主義の政府に一つの理想をあたえることによって、独特の儒教国家を生み出し、二千年にわたって、中国を支配することになった。と言う。

   次に興味深いのは、「子貢問政」の政策論。
   子貢に政治の秘訣は何かと問われて、孔子は、「食を足し、兵を足し、民をしてこれを信ぜしむ」と回答した。三つを全部やるのは難しいので、その内どれを捨てるかと聞かれた孔子は、まず、武器を捨て、次は、食料を捨てればよい。食料を捨てれば死ぬかもしれないが、昔から死は人間の免れえぬものであり、やむを得なければ度外視してよく、政治にとって信頼しうると言うことが一番大事で、これを失えば国の政治は成り立たない。と答えた。
   貝塚教授は、経済より人民の信頼が優先するというのは、子貢の予想に反したと言っており、また、これは現代の政治に対する一つの批判をあたえるものだと言える。と述べている。
   人民が死んでしまえば、信頼も何もないのだが、それ程、政治に対する国民の信頼が重要であると言うことで、
   現下の日本の政治のお粗末さを考えれば、慙愧に耐えない。

   もう一つは、「君子周而不比」。
   君子は、心から仲の良い友とはなるが、徒党派閥は組まない。小人は、徒党は組むが、心から本当の友にはならない。と言うこと。
   一般には中国では、政党とは小人が比して周せず、利権を中心として集まった悪人どもと観念されている。政党などは君子のともがらのたずさわるも汚らわしいものだというのが通念で、政党には派閥がつきものだと言うことは、中国人はとっくにしっていたのだ。と貝塚教授は言う。

   さて、前述の二件、
   自民党は、国民の信頼を踏みにじり、利権塗れの派閥闘争に没頭してきた、
   自民党が、寄って立つこの土台が地響きを立てて崩れ去り、新しい再生を目指し始めたのだが、さて、どうであろうか。
   2500年前の孔子に教えられるのが悲しいのか、60年前の貝塚先生の指摘が悲しいのか、
   民主主義だ法治国家だ唱えているわりには、日本の政治は、いつまでたってもお粗末である。
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古書をどうして探して買うか

2024年10月18日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   私は、最近、これまでの新刊の経済学や経営学の本を読むことから少し離れて、何となく、古典に興味を持ち始めた。
   少し前に、ダンテの「神曲」やゲーテの「ファウスト」やその関連本を読み始めてからで、最近では、プラトンや孔子の「論語」などに移っている。


   古典と言っても、結構、どんどん、翻訳本や解説本など新しい本が出版されているのだが、これまでの経験からは、出版年代には関係なく、風雪に耐えた古書に良い本があることに気付いている。
   若くて元気な時は、神田神保町の古書店街を渉猟して歩いたが、その楽しみも体力的に無理になって、最近では、もっぱら、インターネット検索に頼って本を探している。


   一番、検索に重宝しているのは、Amazonである。
   例えば、冒頭の検索欄に「論語」と打ち込めば、沢山の論語関係本が芋ずる式に表示される。適当に目星をつけて、個々の本の詳細を確認して選べばよい。
   古書は、すべて、マーケットプレイスの出品なので、状態を、「ほぼ新品」「非常に良い」、時には「良い」から選べばよく、経年など物理的な痛みは仕方がなく、かなり良い古書が手に入る。


   ほかに利用しているのは、bookoffのオンライン。
   これも、検索すれば芋ずる式に古書が表示され、ここは、Bookoff直営なので、もう少し便利である。
   本の状態は表示されないが、かなり良質な本が送られてくる。


   もう一つ重宝しているのは、「日本の古本屋」。
   これは、まさに従来の古書店の集合で、骨董本を含めて膨大な古書が探せる。
   個々の本や書店情報などが詳しいので、電話をすれば、詳細が掴めて便利である。


   さて、値段だが、普通は何十年も経た古書なので、二束三文の筈なのだが、本によっては、それ程でもなく、それなりの価値を保っているのが面白い。

   その後買った論語関係の本は、
   宮崎市定の論語 現代語訳 岩波現代文庫  
   貝塚 茂樹の論語 (講談社現代新書 13) 新書
   何のことはない、60年も前、宮崎先生は授業を受けたし貝塚先生は講演を聴くなど当時の京大教授の古書だったのである。
   懐かしいというより、先の吉川幸次郎教授もそうだが、当時の京大の凄さを感じて感動している。

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吉川幸次郎「論語について」(2)

2024年10月16日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   吉川幸次郎の1か月にわたるNHKのラジオ講演であるから、非常に懇切丁寧な語り口で、何となく深遠な論語の世界に入り込めた感じがして感激している。
   論語を読もうと思って、物語として読むと銘打った比較的新しい翻訳の山田史生の「全訳論語」を読み始めたのだが、面白いけれど現在っぽくてナラティブが多過ぎて違和感を感じたので積読になっている。やはり、吉川教授のように、時代感覚を損なわずに、壮大な中国文化の歴史と文化を彷彿とさせる重厚な論語解釈の方が、嬉しい。

   さて、論語の言葉だとは知っていたが、記憶に強く残っているのは、
   「逝くものは斯くの如きかな、昼夜を舎かず」流れ行くものはこの水のごとくであろうか、昼も夜も一刻も停止することなく流れて行く、という一節。
   方丈記の冒頭の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。」のオリジナル版だといえようか。

   この言葉には二様の解釈があって、宋の朱子は、人間の進歩というものは、この川の水のように一刻の休みもない、それが宇宙の本来の姿である。と解釈して、「学ぶ者の時時に省察して 毫髪も間り断ゆること無きを欲するなり」しばらくの間もなまけてはいけない、
   川の水の流れを進歩の原理、つまり人間が天から与えられた使命に応じて努力すべき、その方向の原理として川の水をさしていた、と言う。

   もう一方の悲観的な説は、「逝」という字を、進むではなくて、過ぎ行くものとして読む。過ぎ行くものはこのように時々刻々として休みなく過ぎて行き、我々は死に、歴史は過ぎ去ってゆく。論語の古い注釈は、どちらかと言えば、この方の説だったという。

   ところで、吉川先生は、悲観、楽観、両方の意味を含めていると読む。時間は確かにものを時々刻々と過去に移す滅亡の原理ではあるが、同時にまた、時間があればこそ人間の生命はあり、進歩がある。すべては移り行いて過去となるが、同時にまた進歩も極まりがない、そういう風な感覚が同時に孔子の頭の中を流れていたという風に考えてこの言葉を読んでいるという。

   かく人間への楽観を中心として、人間の可能性を強く信じるとともに、そこには、人間の力ではどうすることもできないものも人間を見舞うことがある、そうした嘆きに対しても孔子は鈍感ではなかった。
   人知を超えた超自然の存在を認めていたのであろう、「天」という言葉で触れているが、天についても死についても殆ど語っていないのが興味深い。

   さて、この「逝くものは斯くの如きかな、昼夜を舎かず」は念頭にはあったが、殆ど深い考えはなくて、どちらかと言えば、運命肯定論者で、眼前に遭遇する運命に、無我夢中で大鉈を振るいながら生き抜いてきたような気がしている。

   先日、プラトンの「饗宴」のところで、生命について、死にゆくべき人間は死んでゆくが、「生む」ことによって生命を維持し続けると書いたが、死生観の違いというか、その差が面白い。
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吉川幸次郎「論語について」(1)

2024年10月13日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   もう60年ほど前のNHKラジオ放送や講演会録を集めた吉川幸次郎の「論語」に関する解説集だが、初心者にも分かり易い語り口なので嬉しい。
   丁度その頃、京大教授で講義をされていたはずで、経済学部の学生であったので、隣の文学部の教室に潜り込んで聴講すればよかったのに、と今になって思って後悔している。アメリカの時には、学際は普通で、自由に他学部の授業も取れたが、日本ではまだ厳格であった。
   別に経済学を専攻したことには後悔しているわけではないが、歳をとった今、文学部で学んでいた方が良かったかなあと思っている。

   さて、論語に関するレビューに入る前に、この本を読んでいて非常に興味を感じた論点に触れておきたい。
   それは、聖書と論語の思想対比である。
   吉川先生は、丁度その頃ベトナム戦争の時であったので、アメリカと中国を対比している。

   孔子が何よりも尊重したのは人間自体であったので、人間自体の可能性を信じた論語読者と人間も信じるがより多く神を信じる聖書読者の世界観の違いが顕著で戦争に影を落とした。
   中国人に言わせると、共産主義者のみならず他の主義者も、西洋人は今でも迷信に取りつかれている、キリスト教という迷信に取りつかれている、その点であれは文明人ではない、野蛮人である。西洋人というものはキリスト教みたいなものを信じているという点で、西洋文明に対して反感ないし軽蔑を持っている。それに対してアメリカの人たちにとっては、中国風の人道主義というものが人間の可能性に何よりも信頼を置く教えであることは、これまた非常に知られていない。というのである。

    今大陸中国とアメリカの間に深い対立があるが、これは二つの世界観の対立で、これらを話し合うこともなかったし、その違いをお互いに理解もしていなかった。戦争をする前に、そういう思想の話し合いをすることが必要ではないかと吉川先生は述べている。

   中国人の考え方について、教えられた感じで、西欧が強調する人権問題の視点がどうなのか、考えてしまった。
   現在の骨肉を争う熾烈な戦争は、キリスト教やユダヤ教やイスラム教など一神教地域の戦争で、人類を窮地に追い込んでいる。
   どうも、我々の考え方は、西洋の思想や情報知識にバイアスがかかっていて、時に、バランス感覚を欠く場合があるようである。
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ダロン・アセモグル :技術革新と不平等の1000年史

2024年10月10日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   原著の本題は、権力と進歩: 技術と繁栄をめぐる千年にわたる闘い
   (Power and Progress: Our Thousand-Year Struggle Over Technology and Prosperity)
   アセモグルの新著で、これまで、「国家はなぜ衰退するのか——権力・繁栄・貧困の起源 」と「自由の命運——国家、社会、そして狭い回廊 」を読んでレビューもしているが、非常に啓発される素晴らしい経済学者である。
   
   過去1千年の人類の技術革新の歴史とその社会への影響を分析して、技術革新における楽観的と悲観的との悲喜こもごのの展開を詳述している。そして、技術革新が、成長発展を齎すと同時に不平等を生み出し続けてきたが、技術革新の成果を人類の幸せのためにどう役立てるか、それは「経済的、社会的、政治的な選択」次第だとして、未来の道標を模索する。

   技術革新の社会への影響については、二つの見方がある。技術革新楽観論と技術革新悲観論である。
   技術革新楽観論は、技術革新を進め、それを経済活動に広めることによって、その成果は、おのずと社会全体に均霑する。本書では「生産性バンドワゴン」と称して展開していて面白い。
   ネガティブな側面として、農法の改良は飛躍的な増産を実現したが農民には殆ど益しなかったとか、産業革命による工場制度の導入で生産性がアップし労働時間は延びたにもかかわらず、労働者の収入は約100年間上がらなかったとか、農法改良、産業革命などの技術革新によって成長発展を遂げたたにも拘らず、労働者には恩恵が及ばなかった。という。
   技術革新による「進歩」のはずが、逆に社会的不平等を増大させてきたという人類史上のパラドックスをどう解決するか、という問題である。

   さて、過去はともかく、現下のデジタル革命やAIによる技術革新はどうであろうか。
   技術革新の進展は驚異的で、デジタル技術と AI による仕事の変革は、我々の世界観を根本的に変えてしまった。
   ところが、世界中で、デジタル技術と人工知能は、過度の自動化、膨大なデータ収集、侵入的な監視、偽情報の拡散などによって、監視社会の強化、人権の侵害や民主主義を弱体化させるなどネガティブな側面を産む。
   しかし、我々が行う経済的、社会的、政治的な選択次第によって、この技術の進路を改変し、それを制御できる方法を見出し得る。として、
   テクノロジーの方向転換として、デジタル技術を作り直す、対抗勢力を再び作る、方向転換への施策を行う等々その方法を提言している。
   最先端の技術の進歩は、人類に力を与えるツールになる可能性が高いが、ただし、すべての主要な決定が、少数の傲慢な技術リーダーに、そして、経済格差を益々助長する権力者や支配階級の手に委ねられてはならない、ということであろう。

   要するに、技術革新が、人類を破滅に導くのも不平等を拡大するのも、「我々が行う経済的、社会的、政治的な選択次第」であって、その対策は、我々人間の英知にかかっていると言うことである。
   正論ではあろうが、我々人間の選択が正しく行われるのかどうか、それが問題である。
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