熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

プラトン (著), 山本 巍 (翻訳)「饗宴: 訳と詳解」

2024年10月31日 | 書評(ブックレビュー)・読書
ソクラテスを中心に七人がエロスへの賛美を競った物語――この作品だけが、特定個人との対話でないのはなぜか。過去の語りが二重化されているのはどうしてか。そこに書かれなかった未知を読み解く。ギリシア語のテクストに徹底的に分け入り、正確な訳と詳細な註で、古典の新たな魅力を甦らせる一冊。 

   以上の能書きの山本 巍東大教授のこの本、
   翻訳は比較的易しくて親しめるのだが、倍以上もボリュームのある「詳解」が難しい。
   大判の418ページで、価格も7150円であるから、いわば、学術書である。
   いつもの読書癖で解説を読みたいと思って探したのだが、出てきたのは、この本と朴 一功 教授の「饗宴,パイドン」の京大版。
   先に読んだ納富教授の「プラトン哲学の旅 エロースとは何か」で、「詳細を検討しながら読みたい方には、この山本本が最良の導き手となる」とのことなので、まず、読んでみたのである。
   プラトンは勿論ギリシャ哲学にも疎いながら、なぜ、記録などを何も残さなかったソクラテスの哲学を、プラトンは、現存する著作の大半をソクラテスを主要な語り手とする対話篇という形式で残したのか不思議に思っていた。しかし、この「饗宴」は、プラトンの著作であり、プラトンの哲学だと気づいたのである。

   さて、山本教授の高邁な詳解の理解には、何回も熟読する必要があるのだが、これまで、どんなに素晴らしい本でも読み返した経験が殆どないので無理であり、興味を感じたアリストパネスの人間の起源について後半のディオティマ説を踏まえて触れてみたい。

   原始人間が二つに分断されて、片割れとの結合を希って分裂から合一なった男女が「永遠の陶酔」の内で無為に死んでいくことを哀れんだゼウスは、人間が大地に生むために背中にあった生殖器を前に移し、互いの中に、つまり男によって女の中に生むようにさせた。生殖を男女の関係に置き、存在論的性とは違う、生殖に直結する性が初めて登場した。
   人間の性を、生と死、死と創出が取り囲んでいる。個体としての自分は死んで、新しい生命の未来を生み出すという活動に振り向けられた。死すべき人間が、自己の中に自己を超える未来を胎蔵して妊娠し不死性を獲得する。死すべきものが永遠不滅性に参与する。のである。
   

   「饗宴」は、エロースの哲学であるから、エロースの道を正しく進む必要がある。この世の美しいものから始めて、更なる美を目標に昇ることで、階段のようにして、一つの肉体から二つの肉体へ(兄弟的類似性)、二つの肉体からすべての美しい肉体へ(一義性)、と進み、
   そして、美しい肉体から美しい振る舞いへ(こころの美)、さらに、美しい振る舞いから美しい学習へ(知識の美)へ進んで行く。
   最後に、その学習から〈あの美〉そのものの学習にほかならないかの学習に到達する。終極において、〈美しい〉それ自体を知る。ことになるという。

   哲学の世界と言うか、良く分からないが、納富教授の説明を再説すると、
   美の追求において、最初は美しい肉体を愛するが、次には、魂における美こそ尊いものだという、心霊上の美を肉体上の美よりも価値の高いものだと考える。美しさとは、見た目の綺麗さをはるかに超えて、内面の、あるいは、行動や生き方のすばらしさ、精神的な美であり、その経験によって芸術や文学を生み出し、共に生きていく論理につながる。
    次に感知すべきは、知識の美しさである。真理を探究し、学問に従事し研究してゆくと、純粋にそれを知りたいと思って学び、楽しいと感じる瞬間が訪れる。
   美しい様々な事柄から美しいもろもろの知識へ進み、美の全体を見渡す一つの知識という場所に立つ。これを観照して、その中で多くの美しく壮大な言語と思想とを、惜しみない知への愛において生み出してゆく。そこで力を得て成長し、まさにこのような美の中に一つの知識を見だすまで進んで行き、このエロースへの道程の極致に近づく時、滅することも増すことも減ることもない真の美そのものを観得し、不死の境涯を体得して、人生に生き甲斐を感じる。と言うのである。

   面白いと思ったのは、死生観の違いで、古代ギリシャでは、死すべき人間が愛の交歓によって不死性を得るという考え方で、中国など不老不死を願って皇帝たちが神仙術に明け暮れていたし、ファラオが永遠の生命を願ってピラミッドを作るなど、そのバリエーションが面白い。
   エロースへの希求はともかく、我々凡人は、いつかは死ぬ運命であるから、出来るだけ美しくて素晴らしいベターハーフを見つけて、善き子孫を残せと言うことであろうか。
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貴重な蔵書を殆ど処分した

2024年10月25日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   最近、蔵書を殆ど処分した。
   これまで、欧米を含めて大阪東京など、10回以上転居を続けていて、その都度、蔵書を処理しなければならなかったので、その数は膨大である。
   今回は、もう傘寿の半ばを超えて人生が見えてきたので、60年の人生を支えてきてくれた最後に残った貴重な本なのだが、300冊ほどを手元に残して、全て、大手の古書買取専門店に送った。段ボール箱で60個強、
   倉庫に詰め込んでいた本と書斎や部屋の本棚や足元びっしりの積読本などである。

   部屋の本は多少吟味したが、倉庫の中の本など、自分にとっては選び抜いて守り続けてきた貴重な本なのだが、未練が残るので、一切チェックせずにそのまま箱に詰めさせた。

   
   さて、何故、蔵書を処分するのかだが、家族のうち誰もが私の本に関心がないし孫も幼いので引き継げないこと、
   知人友人にコンタクトするのも厄介だし、
   過日、encyclopedia americana 全巻を市のごみ回収置き場に出したが、どんなに貴重な本でも、関心のない人には、ただのゴミにしか過ぎないのである。

   もう一つ、何故、古書買取専門店に送ったかと言うことだが、
   これまで、公共図書館や卒業した学校にコンタクトして引き取りを照会したが、古本などいらないとケンモホロロの対応であった。私一人が読んだ本なので新本に近いしその多くは未読本であり、それに、充実度は、シェイクスピア関連本だけとっても、イギリスやアメリカなどで買った本を含めて100冊以上もあって、並みの図書館や大型書店などにも引けを取らないほど充実しているのだが、そんなものは無視して厄介もの扱い。
   古書専門店ならリユースであるから、何がしか人様の役に立つ可能性があると考えたからである。

   この蔵書処分だが、私にとっては掛け替えのない大切な財産だったが、不思議にも、それ程後悔はしていない。
   先に、体力がついて行けなくなったのを感じて、あれほど憧れていたフィラデルフィアとニューヨークへのセンチメンタルジャーニーを諦めたら海外旅行に関心がなくなったという心境と同じ変化であろうか。
   人生の黄昏を感じ始めると、不思議に執着がなくなって、淡々としてくる。

   ところで、今月も本を5冊も買ってしまった。
   机に向かって本と対峙していないと落ち着かない、悲しいサガと言うべきか、読書中毒は治りそうにもない。

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貝塚茂樹著「論語」 "政治は信頼が第一”

2024年10月23日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   貝塚 茂樹 教授の「論語」を読んだ。
   1964年出版の論語の抄訳解説本だが、非常に面白い。
   先日、吉川幸次郎教授の「論語について」を読んでいるので、ほぼ、基礎知識もついて理解も進んできていて、益々論語に入れ込んでいる。

   今回は、総選挙直前なので、このトピックスに関係する孔子や貝塚教授の見解を取り上げてみたい。

   まず、「道之以政」の、法律に頼り違反者を刑罰で取り締まる法治主義に対する徳治主義の主張、
   この当時の独裁政治撲滅運動のために、孔子は国外に逃亡して10有余年流浪の旅を続けざるを得なかったのだが、儒教が漢帝国の国学となって勝利した。この徳治主義の政治哲学は、現実の法治主義の政府に一つの理想をあたえることによって、独特の儒教国家を生み出し、二千年にわたって、中国を支配することになった。と言う。

   次に興味深いのは、「子貢問政」の政策論。
   子貢に政治の秘訣は何かと問われて、孔子は、「食を足し、兵を足し、民をしてこれを信ぜしむ」と回答した。三つを全部やるのは難しいので、その内どれを捨てるかと聞かれた孔子は、まず、武器を捨て、次は、食料を捨てればよい。食料を捨てれば死ぬかもしれないが、昔から死は人間の免れえぬものであり、やむを得なければ度外視してよく、政治にとって信頼しうると言うことが一番大事で、これを失えば国の政治は成り立たない。と答えた。
   貝塚教授は、経済より人民の信頼が優先するというのは、子貢の予想に反したと言っており、また、これは現代の政治に対する一つの批判をあたえるものだと言える。と述べている。
   人民が死んでしまえば、信頼も何もないのだが、それ程、政治に対する国民の信頼が重要であると言うことで、
   現下の日本の政治のお粗末さを考えれば、慙愧に耐えない。

   もう一つは、「君子周而不比」。
   君子は、心から仲の良い友とはなるが、徒党派閥は組まない。小人は、徒党は組むが、心から本当の友にはならない。と言うこと。
   一般には中国では、政党とは小人が比して周せず、利権を中心として集まった悪人どもと観念されている。政党などは君子のともがらのたずさわるも汚らわしいものだというのが通念で、政党には派閥がつきものだと言うことは、中国人はとっくにしっていたのだ。と貝塚教授は言う。

   さて、前述の二件、
   自民党は、国民の信頼を踏みにじり、利権塗れの派閥闘争に没頭してきた、
   自民党が、寄って立つこの土台が地響きを立てて崩れ去り、新しい再生を目指し始めたのだが、さて、どうであろうか。
   2500年前の孔子に教えられるのが悲しいのか、60年前の貝塚先生の指摘が悲しいのか、
   民主主義だ法治国家だ唱えているわりには、日本の政治は、いつまでたってもお粗末である。
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古書をどうして探して買うか

2024年10月18日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   私は、最近、これまでの新刊の経済学や経営学の本を読むことから少し離れて、何となく、古典に興味を持ち始めた。
   少し前に、ダンテの「神曲」やゲーテの「ファウスト」やその関連本を読み始めてからで、最近では、プラトンや孔子の「論語」などに移っている。


   古典と言っても、結構、どんどん、翻訳本や解説本など新しい本が出版されているのだが、これまでの経験からは、出版年代には関係なく、風雪に耐えた古書に良い本があることに気付いている。
   若くて元気な時は、神田神保町の古書店街を渉猟して歩いたが、その楽しみも体力的に無理になって、最近では、もっぱら、インターネット検索に頼って本を探している。


   一番、検索に重宝しているのは、Amazonである。
   例えば、冒頭の検索欄に「論語」と打ち込めば、沢山の論語関係本が芋ずる式に表示される。適当に目星をつけて、個々の本の詳細を確認して選べばよい。
   古書は、すべて、マーケットプレイスの出品なので、状態を、「ほぼ新品」「非常に良い」、時には「良い」から選べばよく、経年など物理的な痛みは仕方がなく、かなり良い古書が手に入る。


   ほかに利用しているのは、bookoffのオンライン。
   これも、検索すれば芋ずる式に古書が表示され、ここは、Bookoff直営なので、もう少し便利である。
   本の状態は表示されないが、かなり良質な本が送られてくる。


   もう一つ重宝しているのは、「日本の古本屋」。
   これは、まさに従来の古書店の集合で、骨董本を含めて膨大な古書が探せる。
   個々の本や書店情報などが詳しいので、電話をすれば、詳細が掴めて便利である。


   さて、値段だが、普通は何十年も経た古書なので、二束三文の筈なのだが、本によっては、それ程でもなく、それなりの価値を保っているのが面白い。

   その後買った論語関係の本は、
   宮崎市定の論語 現代語訳 岩波現代文庫  
   貝塚 茂樹の論語 (講談社現代新書 13) 新書
   何のことはない、60年も前、宮崎先生は授業を受けたし貝塚先生は講演を聴くなど当時の京大教授の古書だったのである。
   懐かしいというより、先の吉川幸次郎教授もそうだが、当時の京大の凄さを感じて感動している。

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吉川幸次郎「論語について」(2)

2024年10月16日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   吉川幸次郎の1か月にわたるNHKのラジオ講演であるから、非常に懇切丁寧な語り口で、何となく深遠な論語の世界に入り込めた感じがして感激している。
   論語を読もうと思って、物語として読むと銘打った比較的新しい翻訳の山田史生の「全訳論語」を読み始めたのだが、面白いけれど現在っぽくてナラティブが多過ぎて違和感を感じたので積読になっている。やはり、吉川教授のように、時代感覚を損なわずに、壮大な中国文化の歴史と文化を彷彿とさせる重厚な論語解釈の方が、嬉しい。

   さて、論語の言葉だとは知っていたが、記憶に強く残っているのは、
   「逝くものは斯くの如きかな、昼夜を舎かず」流れ行くものはこの水のごとくであろうか、昼も夜も一刻も停止することなく流れて行く、という一節。
   方丈記の冒頭の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。」のオリジナル版だといえようか。

   この言葉には二様の解釈があって、宋の朱子は、人間の進歩というものは、この川の水のように一刻の休みもない、それが宇宙の本来の姿である。と解釈して、「学ぶ者の時時に省察して 毫髪も間り断ゆること無きを欲するなり」しばらくの間もなまけてはいけない、
   川の水の流れを進歩の原理、つまり人間が天から与えられた使命に応じて努力すべき、その方向の原理として川の水をさしていた、と言う。

   もう一方の悲観的な説は、「逝」という字を、進むではなくて、過ぎ行くものとして読む。過ぎ行くものはこのように時々刻々として休みなく過ぎて行き、我々は死に、歴史は過ぎ去ってゆく。論語の古い注釈は、どちらかと言えば、この方の説だったという。

   ところで、吉川先生は、悲観、楽観、両方の意味を含めていると読む。時間は確かにものを時々刻々と過去に移す滅亡の原理ではあるが、同時にまた、時間があればこそ人間の生命はあり、進歩がある。すべては移り行いて過去となるが、同時にまた進歩も極まりがない、そういう風な感覚が同時に孔子の頭の中を流れていたという風に考えてこの言葉を読んでいるという。

   かく人間への楽観を中心として、人間の可能性を強く信じるとともに、そこには、人間の力ではどうすることもできないものも人間を見舞うことがある、そうした嘆きに対しても孔子は鈍感ではなかった。
   人知を超えた超自然の存在を認めていたのであろう、「天」という言葉で触れているが、天についても死についても殆ど語っていないのが興味深い。

   さて、この「逝くものは斯くの如きかな、昼夜を舎かず」は念頭にはあったが、殆ど深い考えはなくて、どちらかと言えば、運命肯定論者で、眼前に遭遇する運命に、無我夢中で大鉈を振るいながら生き抜いてきたような気がしている。

   先日、プラトンの「饗宴」のところで、生命について、死にゆくべき人間は死んでゆくが、「生む」ことによって生命を維持し続けると書いたが、死生観の違いというか、その差が面白い。
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吉川幸次郎「論語について」(1)

2024年10月13日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   もう60年ほど前のNHKラジオ放送や講演会録を集めた吉川幸次郎の「論語」に関する解説集だが、初心者にも分かり易い語り口なので嬉しい。
   丁度その頃、京大教授で講義をされていたはずで、経済学部の学生であったので、隣の文学部の教室に潜り込んで聴講すればよかったのに、と今になって思って後悔している。アメリカの時には、学際は普通で、自由に他学部の授業も取れたが、日本ではまだ厳格であった。
   別に経済学を専攻したことには後悔しているわけではないが、歳をとった今、文学部で学んでいた方が良かったかなあと思っている。

   さて、論語に関するレビューに入る前に、この本を読んでいて非常に興味を感じた論点に触れておきたい。
   それは、聖書と論語の思想対比である。
   吉川先生は、丁度その頃ベトナム戦争の時であったので、アメリカと中国を対比している。

   孔子が何よりも尊重したのは人間自体であったので、人間自体の可能性を信じた論語読者と人間も信じるがより多く神を信じる聖書読者の世界観の違いが顕著で戦争に影を落とした。
   中国人に言わせると、共産主義者のみならず他の主義者も、西洋人は今でも迷信に取りつかれている、キリスト教という迷信に取りつかれている、その点であれは文明人ではない、野蛮人である。西洋人というものはキリスト教みたいなものを信じているという点で、西洋文明に対して反感ないし軽蔑を持っている。それに対してアメリカの人たちにとっては、中国風の人道主義というものが人間の可能性に何よりも信頼を置く教えであることは、これまた非常に知られていない。というのである。

    今大陸中国とアメリカの間に深い対立があるが、これは二つの世界観の対立で、これらを話し合うこともなかったし、その違いをお互いに理解もしていなかった。戦争をする前に、そういう思想の話し合いをすることが必要ではないかと吉川先生は述べている。

   中国人の考え方について、教えられた感じで、西欧が強調する人権問題の視点がどうなのか、考えてしまった。
   現在の骨肉を争う熾烈な戦争は、キリスト教やユダヤ教やイスラム教など一神教地域の戦争で、人類を窮地に追い込んでいる。
   どうも、我々の考え方は、西洋の思想や情報知識にバイアスがかかっていて、時に、バランス感覚を欠く場合があるようである。
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ダロン・アセモグル :技術革新と不平等の1000年史

2024年10月10日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   原著の本題は、権力と進歩: 技術と繁栄をめぐる千年にわたる闘い
   (Power and Progress: Our Thousand-Year Struggle Over Technology and Prosperity)
   アセモグルの新著で、これまで、「国家はなぜ衰退するのか——権力・繁栄・貧困の起源 」と「自由の命運——国家、社会、そして狭い回廊 」を読んでレビューもしているが、非常に啓発される素晴らしい経済学者である。
   
   過去1千年の人類の技術革新の歴史とその社会への影響を分析して、技術革新における楽観的と悲観的との悲喜こもごのの展開を詳述している。そして、技術革新が、成長発展を齎すと同時に不平等を生み出し続けてきたが、技術革新の成果を人類の幸せのためにどう役立てるか、それは「経済的、社会的、政治的な選択」次第だとして、未来の道標を模索する。

   技術革新の社会への影響については、二つの見方がある。技術革新楽観論と技術革新悲観論である。
   技術革新楽観論は、技術革新を進め、それを経済活動に広めることによって、その成果は、おのずと社会全体に均霑する。本書では「生産性バンドワゴン」と称して展開していて面白い。
   ネガティブな側面として、農法の改良は飛躍的な増産を実現したが農民には殆ど益しなかったとか、産業革命による工場制度の導入で生産性がアップし労働時間は延びたにもかかわらず、労働者の収入は約100年間上がらなかったとか、農法改良、産業革命などの技術革新によって成長発展を遂げたたにも拘らず、労働者には恩恵が及ばなかった。という。
   技術革新による「進歩」のはずが、逆に社会的不平等を増大させてきたという人類史上のパラドックスをどう解決するか、という問題である。

   さて、過去はともかく、現下のデジタル革命やAIによる技術革新はどうであろうか。
   技術革新の進展は驚異的で、デジタル技術と AI による仕事の変革は、我々の世界観を根本的に変えてしまった。
   ところが、世界中で、デジタル技術と人工知能は、過度の自動化、膨大なデータ収集、侵入的な監視、偽情報の拡散などによって、監視社会の強化、人権の侵害や民主主義を弱体化させるなどネガティブな側面を産む。
   しかし、我々が行う経済的、社会的、政治的な選択次第によって、この技術の進路を改変し、それを制御できる方法を見出し得る。として、
   テクノロジーの方向転換として、デジタル技術を作り直す、対抗勢力を再び作る、方向転換への施策を行う等々その方法を提言している。
   最先端の技術の進歩は、人類に力を与えるツールになる可能性が高いが、ただし、すべての主要な決定が、少数の傲慢な技術リーダーに、そして、経済格差を益々助長する権力者や支配階級の手に委ねられてはならない、ということであろう。

   要するに、技術革新が、人類を破滅に導くのも不平等を拡大するのも、「我々が行う経済的、社会的、政治的な選択次第」であって、その対策は、我々人間の英知にかかっていると言うことである。
   正論ではあろうが、我々人間の選択が正しく行われるのかどうか、それが問題である。
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納富 信留 著「プラトン哲学への旅: エロースとは何者か」(2)

2024年10月03日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   最後のソクラテスのエロース論だが、
   原書では、マンティネイア(Mantineia)のディオティマという女性に聴いた話ということで、ソクラテスとディオティマの問答を再現した形で展開されているようだが、この本では、「饗宴」に入り込んだ筆者が彼女から秘儀を聴く。

   難しいのだが、とりあえず、納富先生の説明を要約すると、次のとおり、
   エロースは、美しくも善くもなく、また醜くも悪くもない、死すべき者と不死なる者の間にいるもので、神ではなく神霊(ダイモーン)である。エロースは人間と神々の間に介在し、通訳・伝達・結合を担う数多くのダイモーンの一つである。
   エロースは、父ポロスと母ペニヤの間に生まれ、アプロディテのお供となった。
   エロースは、母から貧しさと欠乏を受け継ぎ、柔和で美しいという状態からほど遠く、硬直して乾いた裸足の放浪者である。父譲りの才能を発揮し、また美しい者・善い者を追い求める策士であり、勇敢で大胆で向こう見ずのところがあり、手強い狩人であり、常に策をめぐらし、知見の追求に熱心であり、生涯を通じて愛知者であるフィロソフォスであり、同時に比類なき魔術師・薬剤師・ソフィストである。
   エロースは死なき者でも滅ぶべき者でもなく、花咲き・生き・死にを繰り返す。しかし取得したものは絶えず溢れ出て消え失せるので、困窮することもなければ富裕になることもなく、智慧と無知の中間にい続ける。

   人間は、美しきもの善きものを愛し永久に所有することを愛求し、そうしたエロースを熱心に追求し、熾烈な努力を示す者が進む道・採る行動は、肉体でも魂でも、調和した美しいものの中に、子供を産むことである。
   人間は肉体にも魂にも胚種を持っていて、一定の年頃になると生産することを欲求し、美しい者に対して強烈な昂奮を感じて求める。
   そうした出産の営みは、死すべきもの滅ぶべきものにとっては、滅びざるもの、永遠なるもの、不滅なるものとなるのであるから、愛の目的は不死である。エロースが、善きものが常に自分自身のものになることを求めている以上、善きものと共に不死を欲するのは必然である。
   死すべき本性は、永遠に存在し不死であることを、できる限り求めることであり、しかし、それは、生むという方法によってのみ可能で、古いものに代わって新しい別なものをつねに残していく新陳代謝であるからである。

   人間は、魂においても身ごもっており何かを生み出そうとする。芸術という生産は、已むに已まれぬ要求によって生み続けている。
   肉体の交わりが生み落とす子供にもまして、魂が生み出したものが重要である。徳ある生き方を送る人、芸術や学術を創造する人、法律を制定して国家の礎を築く人等々、彼らが生み出した子供たちは、人々に不滅の記憶を残し、永久の名声と幸福をを齎すと感じており、自分が生きた証であり、魂の生産である。

   さて、美の追求において、最初は美しい肉体を愛するが、
   その次には、魂における美こそ尊いものだという、心霊上の美を肉体上の美よりも価値の高いものだと考えるようになる。美しさとは、見た目の綺麗さをはるかに超えて、内面の、あるいは、行動や生き方のすばらしさである筈である。精神的な美であり、その経験によって芸術や文学を生み出し、共に生きていく論理につながる。
   次に感知すべきは、知識の美しさである。真理を探究し、学問に従事し研究してゆくと、純粋にそれを知りたいと思って学び、楽しいと感じる瞬間が訪れる。
   美しい様々な事柄から美しいもろもろの知識へ進み、美の全体を見渡す一つの知識という場所に立つ。これを観照して、その中で多くの美しく壮大な言語と思想とを、惜しみない知への愛において生み出してゆく。そこで力を得て成長し、まさにこのような美の中に一つの知識を見だすまで進んで行く。

   美とは、常に美しくあり、美しくなることも、なくなることもない。まさにそれ自体単一の相として常にある、そういった美であり、これが美のイデアと呼ばれる。この永遠、「常にある」とは、ずっと続くという意味ではなく、時間そのものを超えると言うことである。
   美を愛し求めるという道程は、実はこの終極に至るための道程であった。この美そのものを対象とするこの学びへたどり着き、最後に、まさに美であるところのものそれ自体を認識すること、美そのものを観照する時に、人間にとってその生が生きるに値するものとなる。というのである。

   このエロースへの道程の極致に近づく時、滅することも増すことも減ることもない真の美そのものを観得し、不死の境涯を体得して、人生に生き甲斐を感じる。と言うことであろうか。

   さて、ダイーモンのエロースが、何故、愛の象徴になったのかよく分からないが、
   人間は、美しきもの善きものを愛し永久に所有することを愛求して、調和した美しいものの中に、子供を産む。死すものである運命を甘受して、出産によって永遠の生命を維持しようとする。ということは良く分かる。
   肉体の愛による出産は、低次元の愛だと言うことであるが、愛し合う二人にとっては、最高の希求である。
   私など、高邁なソクラテスのエロース論はともかく、ファウストのように若返って、憧れのマドンナに再会して、このソクラテスのエロースの話を語り合えばどれだけ楽しいか、たわいない戯言を考えている。
   
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納富 信留 著「プラトン哲学への旅: エロースとは何者か」(1)

2024年09月30日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   プラトンの「饗宴」はまだ読んではいないのだが、手っ取り早くと思って、『饗宴』のなかに、語り手の「私」(「現代からの客人」)が列席し、ソクラテスら演説者たちと「愛(エロース)」をテーマに競演する、類を見ない教養新書 だというので手に取った。「愛(エロース)」と言うと、何となく色っぽい感じがするのだが、「哲学(フィロソフィア)」という言葉は「知(ソフィア)」を「愛し求める(フィレイン)」という意味の合成語であって、哲学=愛であることが説かれているという。 

   私が知っていたのは、ギリシャ喜劇詩人アリストパネスの話、人間がゼウスに真っ二つに分断されたという話である。
   かって人間は球形をしていて、手足が4本、顔や生殖器が2つあった。男性と女性、その2つに加えて、両性を具有するアンドロギュノスと呼ばれる男女の三種類が居て、それぞれが太陽、大地、月の子だった。その人間が、腕力が強くて傲慢で放埓のあまり、神々に戦いを挑んだので、怒ったゼウスは、人間を半分に切断して力を弱めておとなしくさせた。
   人間は、その頃の記憶から、自身の片割れを常に探し求め、抱擁してできるだけ一緒に居たいと欲し、その喜びを求めている。
   エロースとは、人間が「全体」という本性を要求するその統合者であり、治癒者なのだ。と言うことである。

   難しい話はともかく、アリストパネスは、パートナーが死んだら、別のパートナーを求めていくと言っているので、この人でなければならない掛け替えのない人、自分の本当の片割れを求めるというのではなく、また、個人と個人の愛が問題なのではなく、あくまで、種族の間で愛が成立することが説明されている。のである。
   エロースは、自分にはないもの、より美しくより素晴らしいものを希求するのであるから、求めるベターハーフは、自分より美しくて賢い者であってしかるべきだと言うことであろうか。
   自分の片割れだと言われると、一寸逡巡するが、これでホッとした。

   私は、一目ぼれというか、直覚の愛を信じている。
   この話とアリストパネスの愛とどんな関係があるのか分からないが、自分の片割れ、ベターハーフを探し求めるという話は、非常に面白いと思っている。

   議論は、美しい神エロースを讃嘆する弁論の競争から、美を求めるエロースの真理を語る哲学の吟味へ、美の賛美から愛の本質へと展開されていくのだが、
   途中で、脱線してしまったが、次にソクラテスのエロースについて考えたい。
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旅は道づれツタンカーメン 高峰 秀子; 松山 善三

2024年09月13日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   1980年6月に出版された 高峰 秀子と 松山 善三共著の『旅は道連れツタンカーメン』、もう、半世紀近く前のエジプト旅行の紀行記録であるから、古色蒼然とした昔の海外旅行の雰囲気がムンムン漂っていて、実に懐かしい。
   当時、私は、ブラジルで仕事をしていて、帰国したころで、直後に、文革が終わって門戸を開いた中国を訪れた激動の時代であったので、時代離れをしたエジプトの雰囲気が面白かった。
   アジアや欧州や南北アメリカなどには旅行経験があり、結構旅をしているのだが、残念ながら、アフリカ大陸には機会がなくて、エジプトには行ったことがない。
   ギリシャ・ローマの歴史に興味を持ち、世界史、特に、東西交渉史を意欲的に勉強してきたのだが、肝心の4大文明の発祥地のうち、訪れたのは黄河だけで、エジプト、メソポタミア、インドには行っていない。

   さて、この本のエジプト漫遊だが、歴史行脚にのめり込んで期待に胸を膨らませて感嘆頻りの夫君と、不本意ながら旅に出た妻との往復書簡風の旅行記。ちぐはぐ珍道中の雰囲気が、二人の夫婦生活での人間関係が増幅していて、非常に面白い。エジプト古王朝の歴史を追求して死生観を展開する善三と、バカでかいピラミッドを何のために作って人民を苦しめたのかという何事にも動じない秀子。スフィンクスは実在したが雌が居なかったので絶えてしまったという脚本家の善三を秀子は笑い飛ばす。冒頭から面白い。

   善三は、目的があってエジプトに行ったので、事前に知識情報を蓄えて理論武装しており、結構、旅日記に託して、エジプトの歴史や文化芸術、地理、国民性など詳細に書いていて、それなりにエジプト旅行記になっている。
   ギザのピラミッドからスタートして、アスワンハイダム、アブ・シンベル、王家の谷、ツタンカーメン、カイロ博物館、アレクサンドリアなど、中身の濃いエジプト旅行記である。
   一方、秀子は、行き当たりばったりの旅日記で、食べ物や出会った人々との交流や印象などじかの描写が多くて、エジプトのムンムンとした雰囲気を醸し出している。この旅日記を縦線にして、夫・ドッコイとの結婚話や子供をつくれなかった思いなど、人間秀子の生きざまを横線にして、随所に生身の心情を吐露していて味わい深い。
   善三の普通の旅行記に、秀子の温かい旅日記が、多彩な彩を添えていて面白い、そんな本である。

   善三の趣味というか意向で二人はアフガニスタンにも行っていて、旅行記を著しているのだが、なぜ、欧米ではなく中東なのか、
   秀子は、一人でパリに行って生活していた。

   高峰秀子の映画は、随分見た。
   高峰 秀子の「わたしの渡世日記 上下」も読んでレビューしているが、秀子の本は他にも結構読んでいて、稀有な体験をした偉大な名優なので、非常に含蓄がある中身の濃い本なので印象深かった。
   久しぶりに、高峰秀子文化を楽しんだ。
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10歳までに読みたい世界名作

2024年09月08日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   先日書いたように、3年生の孫娘に読書習慣を付けたくて、インターネットで本を検索していたら、「10歳までに読みたい世界名作」という恰好のタイトルが出てきた。ほかにも参考になる資料もあるのだろうが、学研の記事なので信用に値する。先に選択した「小学館 世界の名作」で、本を選んであるので、追加資料として、参考になればと思ったのである。

   口絵写真は、その第一期の8冊である。
   学研の説明では、「10歳までに読みたい世界名作」シリーズとは、
   時代を超えて世界中で読みつがれてきた名作。
長い間、読みつがれてきたということは、それだけたくさんの人々が、「これはおもしろい!」と太鼓判を押した証拠。そこには、生きるために必要なエッセンスがつめこまれています。

   それ以降で小学館のとダブっているのは、アルプスの少女 ハイジ、西遊記、ふしぎの国のアリス、シンドバッドの冒険、フランダースの犬、家なき子、十五少年漂流記
   ほかで私でもよく知っているのは、ロビンソン・クルーソー、巌窟王、三銃士、海底2万マイル、長くつ下のピッピ、宝島、などであろうか。
   
   これを見ていて気付いたのは、私の子供のころから、丁度、70年以上も前のことになるのだが、子供への推薦図書世界の名作のタイトルが、ほとんど変わっていないと言うことである。
   あの頃は、終戦の直後で日本は貧しくて学制や教育も激変期で、子供が世界の名作に勤しむと言った雰囲気はなかったと思うのだが、その後の印象だとしても、日本の教育が、それほどぶれていなかったと言うことであろうか。
   古典の揺るがぬ価値というべきか、子供の世界においても、良いものは良いのである。

   子供を取り巻く環境は激変して、子供の価値観も問題意識も感性も様変わりしてしまったが、世につれ人につれ、新世代の子供たちが、どのように世界の名作に対応するのか、興味津々である。
   
   
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孫娘に世界の名作を読ませよう

2024年09月02日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   先日日経を読んでいたら、子供が動画ばかり見ていて本を全く読まなくなって困っているという記事が掲載されていた。
   我家の3年生の孫娘も似たり寄ったりで、私のパソコンをハイジャックして、ゲーム感覚で動画を見ている。

   わが小学生の頃は、テレビもなければパソコンもなし、ナイナイ尽くしの貧しい生活を送っていたので、読書が恰好の遊びであり愉しみであったので、疑いもなく、本は子供の大切な友であった。

   さすれば、読書習慣がなくなり、動画やゲームで、パソコンやテレビ漬けの子供を、どうして、これらから引き離して、本を読ませるのか、容易なことではない。
   勿論、読む読まないにかかわらず、両親は、子供のために、結構色々な本を買って与えている。
   孫娘に、一冊何でも良いから本を選んで持ってくるように言ったら、小学館の世界の名作の「アンデルセン童話」を持ってきた。
   大型本で、個々の童話に応じて綺麗な挿絵が描かれていて、本文も簡略ながら本格的な翻訳であり、全く手抜きのない絵本と子供用単行本の中間の位置づけの本で、丁度、小学校中学年に頃合いの本である。

   世界名作全集の中から、適当な本を選んで読ませようと思って、インターネットでどんな本が良いか、どの会社の本が良いかなど検索を始めたが、どれも甲乙つけがたく、これという決定版はない。
   この小学館の本は、20年以上も前の出版だが、まずまずと思ったので、参考のために、「グリム童話」と「イソップ物語」を買って読ませたら、結構効果的であった。
   興味を持てば、一寸背伸びして岩波の少年文庫や本格的な世界文学作品に移行すれば良いので、とりあえず、3年生のうちは、このシリーズの中から適当な本を選んで、読ませることにした。
   とにかく、成功するかどうかわ分からないが、本を読む習慣をつけることである。
   子供時代の勉強の基礎は、なによりも読解力なので、その涵養のためにも、読書は必須である。

   一応、読むべき本がどんな本なのか、インターネットを叩いて検索した。
   学研が、「10歳までに読みたい世界名作」を発表している。30冊ほどで、先の小学館の本と重なっている本もあるが、参考として、これらの推薦図書から適当に追加すれば、十分だと言う気がしている。
   
   当然、日本の本も選ぶべきだが、録画していた「日本昔話」を見ており、多少の知識があるので、世界の名作の読書に目鼻がついてからにしようと思っている。
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プラトン:ソクラテスの弁明ほか

2024年08月30日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   先に、パルテノンについて書いた。
   倉庫の奥から、「プラトン ソクラテスの弁明ほか」を引っ張り出して、久しぶりにページを繰った。学生時代に読んだ旧版ではなく新しい中公クラシックスなのだが、それでも20年前の本、しかし、田中美知太郎訳で懐かしい。
   この本を9年ほど前に読んで、レビューしたのだが、感慨は全く変わっていないので、借用する。高邁な哲学理論は、さておくとして、とにかく、優しい語り口が嬉しい。

   「ソクラテスの弁明」は、ソクラテスが裁判にかけられて死刑を宣告させた一連の裁判の模様をプラトンが弁明風に展開したもので ある。
    ソクラテスの告発者は、反対派のアニュトスが、危険人物としてソクラテスを排除しようとして若いメレトスなど3人を直接の訴人に立てたもので、
   ソクラテスの罪状は、「国家の認める神々を認めず、別の新しいダイモンを祭るなど、青年に対して、有害な影響を与えている」と言うものであった。
   ソクラテスは、デルポイに出かけて神託を受け、自分より知恵のあるものがいるかと尋ねたら、巫女は、より知恵のあるものは誰もいないと答えた。
   この神託の理解に苦しんだソクラテスは、各界の代表的な知者たちを調べて歩いた結果、
   彼らも自分も、善美にかかわる重要事について何も知っていない。しかし、彼らは「知らないのに知っている、知っていると思っている」のに対して、自分は「知らないから、そのとおりに、また、知らないと思っている」。このちょっとした違いで、自分の方がより知者だということらしい。(無知の知)神ならぬ人間の望み得る精一杯の知なのだ。と悟る。
   ソクラテスは、政界はじめ高名な人物を相手にして問答しながら仔細に観察して、多くの人に知恵のある人物だと思われており、自分自身もそうだと思い込んでいる人物が、実はそうではないと言うことを、はっきり分からせてやろうと行脚し続け、ソクラテスに傾倒した若者たちにも、そうするように勧めた。
   こうした厳しい対話や詮索の結果、やり玉に挙がってコテンパンに論破されて遣り込められた人物たちが、ソクラテスはけしからんと腹を立て、多くの者たちからも、嫉妬や憎しみを受けることになった。

   続いて、「クリトン」は、プラトンの友クリトンが、獄中のプラトンを訪ねて、必死になって脱獄を説得するのだが、ギリシャを愛するが故に悪法も法であり、それに従うのが正義だと突っぱねる感動的な対話を綴ったものである。 
   そして、さらに、「クリトン」で、
   ” 「大切にしなければならないのは、ただ生きるということではなくて、善く生きるということなのだ。」その「善く」というのは、「美しく」とか、「正しく」とかということと同じだ。”と言っており、アテナイ人に対する告発も容赦がない。
   ”世にもすぐれた人よ、君はアテナイ人であり、知と強さにおいて最も偉大な、最も名の聞こえた国の一員でありながら、金銭を出来るだけ多く得ようとか、評判や名誉のことばかりに汲々としていて、恥ずかしくないのか。知と真実のことには、そして魂を出来るだけすぐれたものにすることには無関心で、心を向けようとしないのか。”
   金と評判と名誉への志向と、知と真実と魂を優れたものとすることへの志向との、平明にまた力づよく語られたこの対比は、プラトン哲学の基底をなす明確な構図を形づくることになる。息のつづくかぎり哲学することを止めない。たとえ幾たび殺されようとも、決してこれ以外のことをすることはありえない。と、死刑判決を必然の成り行きとして見定めて、「死」でもって、彼が守り通した哲学を成就させたのである。  

   ソクラテスが毒盃を仰ぐ臨終での対話を綴った「パイドン」では、
   ”死に臨んで嘆き悲しむ人を君が見たら、それは、その人が知の求愛者(ピロソポス)ではなく、身体の求愛者(ピロソーマトス)だったことの十分な証拠ではないだろうか。そして、その同じ人は、金銭の求愛者でもあり、名誉の求愛者でもある。”
   自然万有を、「知の求愛者=善く生きる」の「精神」原理と、「身体の求愛者=ただ生きる」を導く「生き延び」原理によって、プラトン哲学における基本路線の構図の見取り図が完成するのだと言う。

   口絵写真は、私が、ニューヨークのメトロポリタン美術館で撮ったソクラテスが毒盃を仰ぐ寸前の絵の写真である。ソクラテスやプラトンの片鱗に触れて胸を熱くした青春時代を思い出しながら、長く佇んでいた。
   ところで、在学中に、まだ、田中美知太郎教授が、京大で教壇に立たれていたようだったのだが、文学部の教室に潜り込んで講義を聴かなかったのを残念に思っている。  
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「ニューヨーク・タイムズ」が見た第二次世界大戦 天皇制維持

2024年08月14日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   積読の本を整理していて、”「ニューヨーク・タイムズ」が見た第二次世界大戦 上下”を見つけた。   
   興味深い記事の連続で、読めば面白いのであろうが、日本の終戦時の記事が書いてある最終章の2件だけ読んでみた。
   8月15日に近づくと、どうしても、日本の終戦のことが思い出される。まだ、5歳であったが、かすかに、戦争の記憶が残っている。

   読んだ記事は、
   「1945年8月15日 日本降伏、戦争は終わった! 天皇、連合軍の支配を受け入れる マッカーサーが総司令官に」
   「忠実で善良な国民に告げる 天皇の詔勅(玉音放送)」である。

   この天皇陛下の詔勅については、テレビのドキュメントや映画などでさわりだけは聞いてはいるのだが、恥ずかしい話、全文を読んだことがなかったので、あらためて読了し、時流に迎合することなく、日本の使命と歩むべき道を正しく国民に告げているので、感激さえ覚えた。

   ところで、ポッダム宣言を受諾して無条件降伏して、大過なく終戦処理を終えて復興し、今日の日本があるのは、当時の日本国民にとって最も重要であったのは国体の維持であろうと思う。
   詔勅の後半の冒頭に、
   「帝国の国体は守られ、私は常に国民とともにあり、忠実で善良な国民の真心に信を置いている。(朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ)」と述べられている。
   この「帝国の国体は守られ、」と宣告できたのには根拠があったのである。
   
   この国体の維持について、先の15日の記事に触れていて、
   8月11日に、連合国を代表してバーンズ国務長官の名で日本政府の申入れに回答した覚書に、ポッダム宣言が日本の天皇の「君主」としての「特権を否定する」ことがないという理解のもとで、8月10日に日本から送られてきた降伏の申し出への返答として明記されている。
   バーンズ長官が実際に書いた文言は、日本国民の自由意思で選択された場合には天皇制度を残すことができるかもしれないが、天皇は東京にいる連合国軍最高司令官の権威の下に置かれ、正式かつ公の行動は総司令官の責任の下でなされるという内容であった。という。

   しかし、バーンズの回答は、もう少し曖昧だったようである。
   歴史的追跡の余裕がないので、ウィキペディアのその部分を引用させてもらうと、
   この「バーンズ回答」は、「降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為其の必要と認むる処置を執る連合軍最高司令官に従属(subject to)する」としながらも、「日本の政体は日本国民が自由に表明する意思のもとに決定される」というものであった。スティムソンによると、この回答の意図は、「天皇の権力は最高司令官に従属するものであると規定することによって、間接的に天皇の地位を認めたもの」であった。また、トルーマンは自身の日記に「彼らは天皇を守りたかった。我々は彼らに、彼を保持する方法を教えると伝えた。」と記している。

   結局、紆余曲折を経ながら、象徴天皇制として新憲法が制定されて今日に至っている。 
   立憲君主国イギリスとよく似た民主主義体制を取っているが、歴史的にも伝統を重んじる国であるためにも、安定した政体であろう。


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大統領選:ハリス対トランプ

2024年07月30日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   米大統領選は「ハリス対トランプ」で再始動、100日間の短期決戦となり接戦が予想されている。

   ハリスは、23日、ウィスコンシン州で遊説を開始し、黒人女性歌手ビヨンセさんの曲「フリーダム」(自由)が流れる中で登壇して、「私たちは未来のために戦う」と宣言して、トランプが「米国を暗い過去に戻そうとしている」と述べて対比を強調した。 
   私が注目したのは、この点で、先日、トランプが、すでに賞味期限切れになってしまったと述べた本旨でもある。トランプの「MAGA」など、アメリカ経済社会の後ろ向きへの逆転政策であって、益々、アメリカを窮地に追い込む。轟音を轟かせて大変革を遂げているグローバル世界に背を向けて、国際社会から隔離遊離を策して「アメリカ第一」を追求しても、時代の流れに逆行するだけである。

   興味深いのは、ハリスの「検察官対重罪犯」かという対決戦略で、
  ハリスは、元検察官という自らのキャリアに言及して、「女性を虐待する略奪者、消費者からだまし取るペテン師、自分の利益のために規則を破る詐欺師、あらゆる種類の加害者と私は対決した。だからドナルド・トランプのようなタイプを知っていると私が言う時、どうか話を聞いてほしい」と、大統領経験者として史上初めて重罪で有罪評決を受けたトランプと、犯罪者と対峙してきた元検事の姿を対比させた。 ことである。

   経済問題が最大の争点となろう。
   インフレに対するバイデン政権の対応の不手際がハリスの足を引っ張るであろうが、トランプの経済政策の悪さは、スティグリッツ教授の見解を紹介したのでここでは言及しない。
   注目したいのは、「中間層の強化」こそハリス政権を特徴付ける目標になると公約した。点で、これはトランプの対極にあるアメリカ経済の構造改革であり起死回生の経済政策で、これが実現できれば朗報となる。
  さらに選挙キャンペーンの中心と位置付ける有権者の経済的不安解消に向け、医療と育児、有給家族休暇の拡充に重点を置くアジェンダもアピールしており、福祉国家生活重視を推し進めるであろう。

   さて、問題は、ICT革命、AI時代の開花で選挙運動を妨害する偽情報の台頭である。
   しかし、フェイクニュースなど偽情報の最大の発信元はトランプで、トップメディアが、嘘八百口から出まかせの虚偽情報を2万回以上も発言したと報じたトランプの虚偽と欺瞞に満ちた偽情報の垂れ流しは、AIどころの比ではない。
   むしろ、恐ろしいのは、アメリカの覇権を認めず分断を策して政治経済社会の崩壊を目論む専制国家等敵対国からの偽情報操作であろう。

   まだ、民主党の副大統領候補も決定していないし、ハリスの戦略戦術も確定したわけでもないので、まだ、確たることは言えないが、攻撃主体のトランプが弁舌さわやかで知的水準の高いハリスに攻められて防戦に苦慮するはず、9月のテレビ討論会の丁々発止が愉しみである。
   アメリカの良識が、民主主義を堅持し続けることを祈りたい。


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