熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

ユーラシアを考えること

2014年10月30日 | 政治・経済・社会
   杉山正明教授の「なぜ今ユーラシアか」を読んでいて、丁度、ロシアのことを勉強し始めていて、非常に、面白い論点に出合った思いで、感激している。
   ハルフォード・マッキンダーの「ハートランド論」の、ユーラシアを基点とした国際関係の地政学を援用しながらの理論展開だが、まず、バグダードから話し始めて、モンゴルを語り、ロシアをモンゴル帝国の後継者だとして、このロシアと台頭著しい中国、共にモンゴル帝国の遺産の中に生きた国だが、が組んだ時、正に、マッキンダー流のユーラシアの「ハートランド」の悪夢が蘇る。と述べているのに興味を感じたのである。

   大英帝国が世界に君臨していた頃、1904年に、イギリスの地理学者マッキンダーは、ユーラシア大陸(これを「世界島と」呼ぶ)中央部の大草原地帯こそ、長らく世界を動かしてきた「旧世界」の歴史の回転軸(pivot)をなすとして、これをユーラシアの「ハートランド」と名付けたのである。
   マッキンダーが、最も恐れたのは、強力な産業力を具えていた屈指の陸軍国ドイツ帝国が、ユーラシアの北半球(ハートランド)を押さえていたロシアと組むことだったと言う。
   既に、ドイツとロシアの台頭と激動、そして、破局を予期していたのかも知れない。

   しかし、いずれにしろ、多くのドイツ人が、以前からロシアに移住して重要な役割を果たしており、勇名を馳せたエカテリーナ女帝が生粋のドイツ人であったことを考えれば、必ずしも可能性がなかったわけではないのである。
   しかし、ヒットラーの東漸政策によって東欧やロシアに大移動した多くのドイツ人たちが、第二次世界大変後、大変な迫害にあって死地を彷徨うなど大変な苦難に遭遇したと言うから、国威発揚の民族移動は非常に危険なのである。

   もう一つ、マッキンダー説で興味を持ったのは、
   西欧諸国が海上に勢力を拡大したチューダー王朝の世紀は、同時にまたロシアがモスクワを起点としてシベリアに発展を遂げた時期でもあり、すなわち、喜望峰を経由する航海の発見と、それから東方のアジアを目指す騎馬冒険と言う、この二つの事件は、夫々別個のものではなく、両者が持つ政治的な意味の重大さについては、優劣付け難い程重要である。と言う考え方である。

   ルネサンス時代でさえ、西洋よりイスラム文化や中華文化の方が秀でていたとさえ言われており、産業革命時代でも、中国とインドの合計GDPは、西洋を凌駕して世界の過半を維持していたにも拘らず、その後の歴史観なり、文化文明観は、総て、西洋人の目を通したものが主体であったために、東洋蔑視の風潮が強く、客観的な史観なり文化文明観からスキューし過ぎていたキライがある。
   まして、遊牧民族であるモンゴル帝国の世界制覇などは勿論のこと、後進国と見做されていたロシアの東漸などは、殆ど無視されていたので、ユーラシア中央部が世界を動かすと言うマッキンダーの説は、極めて新鮮であると言えよう。

   マッキンダーのユーラシア・ハートランド説は、ともかく、杉山教授が指摘する如く、
   ロシア・中国・中東・中央アジアに限らず、世界の課題の多くは、なお古き大陸ユーラシアに集中している。
   東欧から東はまだ歴史の決着が着いていない。中東も中央アジアもそうである。
   そうした現在、マッキンダーが展開した地政学が今ここに再びよみがえる。と言うのもうなずける。
   

   ドイツの気象学者アルフレート・ヴェーゲナーの大陸移動説では、アフリカ大陸がピボットであったように、地政学では、ユーラシアのハートランドがピボットであり続けるかどうかは分からないが、ユーラシア、特に、ロシアやバグダードやアフガニスタンをメインにして、地政学的にこれからの世界情勢を考えてみるのも、大切なことかも知れないと思っている。
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ビザ取得、古書まつり、社会イノベーション2014

2014年10月29日 | 今日の日記
   ビザを発給してもらうために、朝一番に、ロシア大使館に向かった。
   申請ではないので、並ばずに、発給窓口に直行して、パスポートを受け取った。
   事前に、受領書を貰っていたので、それと交換に貰うのだが、取得は、後進国の銀行窓口によくあるような、ガラス窓で密閉された窓口から、金属製の箱型のトレイが目の前に出て来て、そこに受領書を入れると、その引き出しを引いて、代わりにパスポートを入れて押し出す。
   終始無言で、ヒューマンタッチの雰囲気全くなく、極めて簡潔。
   今まで、色々な国のビザを取ったが、単なるハンコを押しただけの簡素なものではなく、銀行券紙幣のように綺麗に印刷されたビザが、ページ一杯に張り付けられていて、中々立派なものである。

   その後、岩波のスーザン・ウッドフォード著「ケンブリッジ西洋美術の流れ」のシリーズ本が、古書まつりに出ていたので、欠本を補うために、神田神保町に向かった。
   先日行った時に、半分持っているのだが何巻が欠本なのか分からなかったので買わなかったのだが、今回行ってみたら、一部売り切れていて、結局、買えたのは、
   1 ギリシャ・ローマの美術
   7 20世紀の美術
   こんな場合は、既に廃版になっているので、ダブっても全巻見つけた時に買うべきだったと言うことである。

   もう、古書まつりも日が経っているので、引き上げた書店もあり、客もまばらで、大分見易くなっているので、そこは、本好きのサガ、結局、ちらちらワゴンを見ている間に、2冊買ってしまった。
   杉山正明著「ユーラシアの東西」日経
   植木雅俊著「思想としての法華経」岩波

   その後、渋谷に出て、東横線で、みなとみらいに直行した。
   日経BP社主催の「社会イノベーション2014」のコンファレンス聴講の為である。
   朝から開講されているので、午後のセッションからだったが、パシフィコ横浜のアネックスホールは、ほぼ満席に近い盛況であった。

   大和ハウス工業の樋口武男会長兼CEOの「創業者精神~アスフカケツの事業で社会の課題を解決する」が始まったところで、会場に入った。
   創業時代からの非常に興味深い逸話などを交えながら、劇的とも言うべき創業者の石橋信夫の経営哲学と大和ハウスの事業等について、熱っぽく語り続けた。

   
   
   大和ハウスは、石橋信夫が、戦時中にロシアで捕虜として抑留されて、極寒の地のシベリアの強制収容所で過酷な労働に苦しみながら九死に一生を得て、帰国後、創立した会社で、いわば、一代で築き上げたベンチャーである。
   それが、今や、連結で売り上げ2兆7千億円と言う巨大な事業体で、創業100年を越える巨大ゼネコン大手4社夫々のほぼ2倍の規模で、時価総額も、2倍以上で遥かにこれらを凌駕している。

   以前に、アベグレンの経営論を通して、総合家電や総合電機、あるいは、総合商社や総合建設すなわちゼネコンと言った、綜合と言う名のつく事業形態が日本の会社にとって如何に不都合かと言うことを論じたのだが、その件は、今回は、これ以上深追いは避けたい。

   しかし、大和ハウスは、1959年にプレハブ住宅で、住宅建設の常識を覆すなど、新規事業を立ち上げながら、事業のみならずビジネスモデルにおいても、挑戦に挑戦を重ねながら、イノベーターとしての経営革新に果敢に邁進してきた。
   今回、この大和ハウス・ウエイを、樋口CEOは、アスフカケツの頭文字で大和ハウスの事業を総括して、その事業の実像を語っていたが、最早、住宅産業の面影はなく、正に、豊かな環境づくりを企図した巨大事業体である。

   旧態依然として、ビジネスモデルを一歩も革新できなかった大手ゼネコンと、エネルギッシュなチャレンジ・スピリットを頑なに死守しながら、時代の潮流に果敢に挑戦し、独自の大和ハウス・ウェイを追求し続けてきた大和ハウスの躍進の秘密が、垣間見えた話を聞くことが出来たと思っている。

   次の「パネルディスカッション・・・人を幸せにする社会イノベーション」の「前半テーマ」ICTは、日経BPの河井保博氏の司会で、NEC,富士通、IBM,日立の担当者が、スマート・シティ構想などについて語っていた。
   何時も、感じていることだが、これらのICT企業の役割は、いくら素晴らしい高度な絵を描いても、あくまで黒衣であって、行政当局が、その気になってイニシャティブを取って推進しない限り、多少の進展があったとしても、中々前に進み辛い筈である。
   この後の「後半テーマ」暮らしは、積水ハウス、大和ハウス工業、三井不動産、セコムの担当者が登壇したのだが、同じような問題になるだろうと思って、中座した。


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ホームベーカリーでパンを焼く

2014年10月28日 | 生活随想・趣味
   これまで、パン店やスーパーで、レーズン入りの食パンを買ってきて、朝食にしていたのだが、良いホームベーカリーが出ていると言うことなので、自分で焼いて見ることにした。
   随分前に、一度やってみたのだが、むらがあって、結構失敗続きであったので、止めてしまったことがある。

   丁度その少し前に、日本の某総理大臣が、訪英時に、サッチャー首相への手土産に、日本製のホームベーカリーを持って行ったと報じらていたが、いくら家電製品は世界一だと言っても、本場の英国に、不安定なパン焼き器を持って行くのが良かったのかどうかと考えてしまった。
   私の経験から、パン焼き器自体が、使い方によって、出来不出来がでる不安定状態で、材料や手順次第で、また、結果が違って来ると言うようなことであったから、私には、まだ、未完成の製品に思えて仕方がなかったのである。

   それは、ともかく、今回は、Panasonicの一番売れ筋のホームベーカリーを買って、指定のプレミアムパンミックスと言ったドライイースト付きの出来合いのパン粉セットを手配して、マニュアル通りに焼いて見た。
   ドライイーストを入れ忘れて、一度だけ失敗したが、レーズンパンが、パン屋並に、順調に焼けている。
   とりあえず、クルミやミックスナッツやブルーベリーなどを入れて焼いてみたが、全く失敗はない。

   
   慣れて来たので、自分自身で、取扱説明書に指定されている強力粉など材料一切を用意して、正に、マニュアル通りに、焼いて見たら、以前の市販のパンミックスよりも、出来が良い。
   当たり前のことだろうが、やっと、パン焼き機が、真面な電化製品になったのだと、私自身には思えたのである。

   焼き方を変えたり、水を牛乳やジュースに変えたり、好みの具材を加えるなど、自由にバリエーションを楽しめるようなので、色々試みてみようと思っている。
   夜寝る前にタイマーをセットしておけば、朝には、焼きたてのパンを楽しめるので、面白くなってきた。

   ところで、定期的に、アマゾンを通じて、UCCのブルーマウンテンブレンドを取っていたのだが、販売停止とかで、発送が止まってしまった。
   UCCは、ジャマイカに農場を持っていて何割かの値上げで切り抜けると言っていたので、多少の値上げは甘受したのだが、不作が影響したのであろうか。
   結局、keyコーヒーに切り替えて、ブルーマウンテンブレンドを続けることにした。

   以前に、コロンビアのクリスタルマウンテンを好んで飲んでいた時があるのだが、クセのないコーヒーが好きで、この頃は、ブルーマウンテンブレンドにしている。
   相変わらず、レーズンブレッドの食パンに、たっぷりとブルーべりジャムを乗せることと、コーヒーにブルーベリージャムを加えてフルーツ風味にして飲むと言う習慣は、ずっと続けている。
   いいのか悪いのか、ブルーベリーが、目に良いと言う説を信じているのである。

   昼夜の食事は、家内任せだが、朝食だけは、バカの一つ覚えのように、私自身のやり方を通している。
   
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国立演芸場・・・小三治の芸術祭寄席

2014年10月27日 | 落語・講談等演芸
   人間国宝の柳家小三治がトリを務める特別プログラムの寄席なので、売り出しと同時に、チケットはすぐに完売で、取得できなかった。
   ところが、開演10日前くらいであろうか、国立劇場のホームページを開いて他の寄席の予約を入れようとしたら、何故か、再び、この芸術祭寄席の消えていた「申し込む」の表示がオレンジ色に変わっていたので、喜んでクリックして取得した貴重なチケットだったのでである。

   小三治の出し物は、「長短」。
   幼なじみである気の長い長さんと、気の短かい短七との、どうにも噛み合わない愉快な会話が展開され、それを実に表情豊かに、話芸の頂点を極めた人間国宝が語るのであるから、面白くない訳がない。

   長さんが、のっそりとやって来て、鷹揚に語り始めたのは、夜中に小用のために起きて戸をあけて外を見たら星がなくて明るかったので明日は雨だろうと思ったら雨だったと言う話を、超スローテンポで語るので、短七は頭にくる。
   菓子を食わせたら、いつまでもくちゃくちゃやっていて、イラついた短七が、腐っちまうと、ひったくって一気に口へ放り込んでゴクン。
   極め付きは、煙草。
   のろのろキセルを使って吸い始めるのを見て、短七が、急ぐ時には、火をつける前にキセルをはたくくらいだと早業を披露する。
   ところが、はたいた火が、袂に入り込んだのを見ていた長さんが、怒るだろうな、怒らない、怒るだろうなと言いながら、短七が怒らないと言ったので、これも、超スローテンポで注意するので、袖を焼け焦がしてしまった短七はカンカン。
   怒ったではないか。やっぱり、教えないほうが良かった。

   気が長くてスローテンポの長さんと極めて短気な短七が、何故か、喧嘩一つしたことのない幼馴染の仲良し。
   お互いに惹かれあっている絶妙な人間関係が、この落語のよいところ。
   最後に、落語は、客を笑わせることで良しと考えていたが、このように気の長い人間と気の短い人間が仲良く生きている、この良さが分かってこそ、こんな話が語れるのだと言って、観客を喜ばせていた。
   しみじみと心に沁みる、人間としての幸せを噛みしめながら生きる喜びを語り継ぐ、それが落語だと言うことであろうか。
   

   ところで、この日、日頃身のまわり一切をアシスタントしている女性が病気で、一人で高田馬場の家を飛び出し舞台衣装を忘れて楽屋へ駆け込んで来たので、羽織は喜多八から、着物は小はぜから借りて登場したと言うことで、まくらは、この失敗談をひとくさり。
   この羽織は、文楽譲りとか。
   少し小さくて身に合わないので、登壇するとすぐに脱いで丁寧に畳み始めた。
   「袖たたみ」と言うたたみ方だと、ここ何十年も羽織をたたんだことはないのだが、若い頃に覚えたことは今でもやれると、懐かしそうに語った。
   何でも、自分で考えてやらないとバカになる。最近は、何事も、「マニュアル通り(この言葉、度忘れして、客席から声がかかった)」にやる若者の風潮を嘆いていた。

   この「長短」の噺の後、お囃子を制して、もう一つ、と師匠小さんとの話を語り始めた。
   弟子でありながら、小さんからは、何も教えてもらわなかった。他の落語家が聞きに行けば丁寧に教えていたのに、自分は、「聞いて盗め」とだけ言われ続けていたと言う。
   高座で語れば、「誰から教わったのだ」と小言を言われ、芸を盗んでは怒られて、一度「お前の落語は面白くない」と言われたことがある、と言う。

   ドイツのマイスターの修業も、マイスターの仕事を通して技を磨いたと言うことであるし、日本の古い職人や芸人の育て方も、師の技や芸を盗み取ると言う手法が優勢であったことを思えば、異常でもないのであろう。
   考えてみれば、弟子は、師匠にとって最大のライバルであるから、師匠は、獅子の親子と同じように、子獅子を千尋の谷そこに突き落として必死に這い上がってきて凌駕されることを一番恐れ、一番願っていたのではないかと思うのである。
   芸の道の奥深さは、分からないので、口幅ったい言い方をして失礼だが、そんな気がしている。
  
   もう少し、本格的な噺を聞きたいと思っていたのだが、小三治の豊かな人間性の片鱗に接した貴重な機会に出合えて幸せであった。
   
   
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神田古本まつり・・・衰退の一途

2014年10月26日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   昨年は行けなかったので、2年ぶりの神田古書まつりで、オープン2日目に出かけた。
   第一印象は、随分さびしく貧弱になってしまったなあと言う感じ。
   正に、紙媒体の出版の落日を象徴するような寂しさである。
   一頃は、三省堂の店内や裏出口の広場などにも古書店が溢れかえっていて、ブラスバンドの演奏でお祭りムードを盛り上げるなど結構イヴェントなどあって、すずらん通りの賑わないなどは、表通りの活況を圧倒していた程であった。
   

   休日は、大通の裏側のすずらん通りを埋め尽くしていた本や軽食などのカラフルなワゴンの雑踏が完全に消えてしまっていた。
   色々な出版社や新聞社、それに宗教団体などのワゴンには、珍しい本や特別出典の貴重な書籍や専門書などが即売されていて、楽しみであったのだが、完全に拍子抜けである。
   出版社自らの出店がなければ、ただの古書店の古本市に堕してしまう。

   神保町以外の古書店の出店があったのかどうかは分からないが、主体は、神保町の古書店が、店前の歩道にワゴンを出して古書を並べているという感じで、その本の大半も、店内にあった本や店先のワゴンに並べてあったと思われる本を出店している感じで、私の良く行く書店など、何の新鮮味もなかった。
   尤も、神保町の交差点の岩波ホールのビルの東西の売り場は健在で、インフォメーションもあり賑わっており、今回は、靖国通り南側の古書店沿いの歩道とがメインになっている。

   結局、小一時間、一回りしただけで、国立演芸場に向かった。
   買った本は、
   セシル・デ・バンク著「シェイクスピア時代の舞台とその今昔」
   高階秀爾著「19・20世紀の美術 東と西の出会い」
   両方とも新古書。後者は、岩波の日本美術の流れの6で、買い忘れの補充である。
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中村喜和・和田春樹著「ロシア」

2014年10月25日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   最新のロシア関連本であろう、それに、中村喜和一橋大名誉教授と和田春樹東大名誉教授と言う日本におけるロシア学の権威の書物であるから、小冊子ながら、非常に微に入り細に入った歴史的な記述も多くて、非常に内容のある本である。
   しかし、世界歴史の旅の本で、モスクワ・ザンクトペテルブルク・キエフと言うタイトルが示すように、このロシアの三つの都の歴史と現在の姿を通じてロシアの歴史と社会を探る試みとして描かれている。
   したがって、どちらかと言うと、これらの都市の名所旧跡を巡りながら、歴史物語を語っており、故事来歴を重視したガイドブックに近い体裁を取って、ロシアの歴史と社会を描出しているのである。

   まず、名所旧跡を辿るとなると、どうしても壮大な教会など宗教関連建物が多くなる。
   しかし、一時、共産主義革命時には、宗教が否定された。
   そのあたりの関係が、歴史にどのような影を落としているのか、非常に興味を感じた。

   ロシアは、敬虔なギリシャ正教の国である。
   ウラジミール公が、988年、東ローマ帝国から皇帝の妹アンナを后に娶って、キリスト教を受け入れて以来、ロシアの歴史においては、ギリシャ正教が、極めて重要な役割を果たしており、政治経済社会の動向は勿論、ロシア文化においても、そのバックボーンを形成していたと言っても間違いではなかろう。
   ところが、ソ連時代には、「宗教はアヘンである」主義の遂行で、何百と言う修道院や聖堂が解体破壊され、対ナポレオン戦勝記念として建造された救世主キリスト聖堂を、レーニン像を頂いた「ソヴィエト宮殿」建設を意図して爆破されたと言う。
   ソ連崩壊後の宗教関係については、この本も先日の「ロシア・ロマノフ王朝の大地」にもほとんど触れられていないので不明だが、最近のテレビ放映などで見る限りにおいては、再び、ギリシャ正教が、ロシア国民生活の中に蘇って来たのであろうと思われる。
   熾烈を極めた第二次世界大戦や過酷な共産主義の辛酸を舐め尽くした忍従生活においても生き続けてきた宗教心、そして、辛くも残された聖堂や修道院などの歴史遺産が健在であったことを、多とすべきであろう。

   1980年の大阪万博の時に、ソ連館に、木造の素晴らしいキリスト教会の模型が展示されていたのを覚えているのだが、あの時、幽かに、「宗教はアヘン」と言っているが、芸術は別なのであろうか疑問を感じた。
   その後、スウェーデンで、木造の簡素で美しい木造寺院を見て感激したのだが、あの模型がどこにあるロシアの歴史遺産なのか、興味を持っている。
   壮大華麗な大聖堂も素晴らしいが、忍従に忍従を強いられ続けてきた多くの農奴たちが作り上げてきたロシアの遺産として、木片を重ねて作り上げた教会の方が、似つかわしい様に思うのである。

   この本を読んでいて、いくらか興味深い記述があった。
   造船づくりを学びたくて、自ら工員としてオランダで働いたと言うピョートル1世は、若い時から、外国人居留地のドイツ村に足しげく通って、ヨーロッパの先進技術に親しみ、側近の貴族を住まわせたと言う。

   ピュートル1世の協力者ニコライ・ペトローヴィッチは、オランダのライデン大で西洋流の教養を身につけ、道楽が演劇であったので、農奴劇団を作って、農奴の中から芝居や音楽の才能のあるものを選抜して芝居の一座やオーケストラを結成して、無料で公衆の娯楽に供したと言う。
   農奴劇団は、170を越えて存在していたとかで、これらが、マリインスキー劇場やボリショイ劇場の走りだと言うから面白い。
   イギリスのシェイクスピア劇団は、民衆から生まれた劇団だが、宮内大臣一座や国王一座としてお抱えになっており、日本の能の世界とよく似ていているのが面白い。


   トルストイの「戦争と平和」は、対ナポレオン戦争を描いた小説だが、その後を知らなかった。ロシアが勝利して、ナポレオン軍を追ってパリ入場を果たしたと言う。
   この時、ヨーロッパの国々に赴いた将校たちが、当地の社会制度や人々の暮らしを見て、如何にロシアが遅れているかに衝撃を受けて、その民主化気運が「デカブリスト」の運動に繋がったと言う。
   ピョートル大帝が、目的はスウェーデン対策であったにしろ、首都をザンクトペテルブルクに移して、ヨーロッパへの窓口としたのは、正解だったのであろう。

   ところで、ロシアの起こりは、今、ロシアと紛争を起こしているウクライナのキエフである。
   ところが、このキエフ公国を起こしたのはバイキングで、相当期間まで、大公や取り巻きは殆どスカンジナビア人であったようだし、それに、周りに隣接するモンゴルの襲来に苦しむなど、ロシアの基礎は、長い間、不安定であったようで、どうにか安定し始めたのは、14世紀初頭のモスクワでのイヴァン1世以降のようである。

   しかし、この本は写真も多くて楽しめるのだが、読んでいると、結構歴史の新しい、いわば、後進国とも言うべきロシアが、このような壮大な文化文明を残しているのに驚いてしまう。
   やはり、ロシアは、大国なのである。
  

   
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土肥恒之著「ロシア・ロマノフ王朝の大地」

2014年10月23日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   BRIC'sと騒がれながら、今や、その人気も下火になったが、ブラジル同様に、ロシアに関する出版物が、実に少なく、ガイドブックさえ、英仏や米国と比べれば、格段に少なくて、大書店でも、店によっては、ロシアのコーナーさえもない。

   私など、トルストイの「戦争と平和」やボロディンの「イーゴリ公」、ムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノフ」など映画やオペラやロシア芸術などでの印象がまずあって、幸い、経済学を専攻したので、マルクス経済学や共産主義経済の勉強を通じて、革命以降くらいの政治経済などを勉強したり、現在ロシアの動向などで得た知識などが先行していて、ロシアの全体像に対する纏まった理解には乏しかった。

   この本は、「興亡の世界史」シリーズの1巻で、ロマノフ王朝を主体にソ連崩壊までの時期のロシアの歴史を、非常に、ビビッドに活写した本であって、レーニンやスターリン時代の既述はやや淡白であり、7年前の出版なので、ロシア危機やプーチン政権の動向など現在ロシアについては、触れられてはいない。
   しかし、実際にロシア帝国を築き上げ、大国ロシアの勃興に大きく貢献したイヴァン雷帝、ピョートル大帝、エカテリーナ女帝、ニコライ皇帝などロマノフ王朝の政治経済社会動向を、農奴など国民生活をも含めて詳細に描いていて、ほぼ、ロシアの国家や国民性などが理解できて、非常に面白い。

   私が、ロシアについて、強烈に覚えているのは、”ウミレニエ”(感動)と言うロシア語である。
   もう、何十年も前に、「ライフ人間世界史」の「ロシア」で知った言葉で、自然、愛、音楽、芸術などなど、美しいものに接した時にロシア人の心に感情を呼び起こすあの強烈な「感動」で、このウミレニエを感じない人は、ロシア人にとっては、生ける屍も同然だと言うことである。
   聖歌、僧侶の式服、聖画像、薫香、建築など地上の美しさと、精神的な美しさに感動して、ビザンチンからそっくりギリシャ正教を取り入れたと言われているのだが、地上にこれ程壮麗で、これ程美しいものはないであろうと言う感動である。
   宮殿の豪華絢爛さ、ボリショイやマリインスキー劇場の壮麗さやそのオペラ・バレエの美しさ、エルミタージュの壮大華麗さなども、このロシア人のウミレニエの発露であろうか。

   さて、ロシアだが、9世紀後半に、スカンジナヴィアを本拠地とするヴァイキング、すなわち、ノルマン人が、キエフ公国を作って統治し、その後、13世紀に勃興したモンゴルに蹂躙されて、200年以上もの間、「タタールのくびき」に苦しみ続け、
   実際に、イヴァン三世が、ロシアを統一しモスクワ大公に即位したのは、1462年だと言うから、日本では、鎌倉幕府で義政の治世であり、実質、ロシア人によるロシアの歴史は、随分、新しい。
   その間に、モンゴル、ポーランド、スウェーデンなど強国に苦しめられ続けて来ており、強国ロシアとして君臨してきた時代は、非常に短いのである。

   私の興味は、やはり、ロシア経済の成長と停滞。
   ダレン・アセモグル&ジェイムズ・A・ロビンソンの「国家はなぜ衰退するのか」の第五章「収奪的制度のもとでの成長」で、収奪的制度のもとでも、経済は成長するが、その成長はいずれすぐに終息して、経済は一気に沈滞してしまうと言うプロセスを、ソ連を例にして語っていた。ことである。
   ソ連が、収奪的な経済制度のもとでも急速な経済成長を達成できたのは、ボリシェヴィキが、強力な中央集権国家を築き、それを利用して資源を工業に配分したから成長したのだが、この経済プロセスは、技術的変化を特徴としていなかったが故に長続きしなかった。
   と言うのである。
   この視点に興味を持って、この本を読んでいて、いくらか、これを示唆する記述があった。

   一つは、ニコライ1世時代に、ピヨートル・チャアダーエフが、「後進性の優位」を主張していて、ロシアが、ヨーロッパ諸国より遅れて歴史に登場したのは、先進国の経験や失敗に学ぶことが出来るから、ロシアの将来にとって有利だと議論を展開していたことである。
   これなどは、明治維新後や戦後の日本の高度成長や、近年の中印の快進撃を考えれば当然のことだが、正に、ロシアの歴史は、経済のみならず、文化文明においても、後進性ゆえのメリットが、大いに貢献しているのは間違いなかろう。
   尤も、スプートニクだけは、アメリカの心肝を根底から寒からしめた。

   もう一つの視点、何故、イノベイティブな発想を生み出す民間の活力を生かせなかったのかと言うことである。
   これについては、ニコライ2世時代に敏腕を振るい、日露戦争講和会議で小村寿太郎と渡り合ったセルゲイ・ヴィッテが、
   「イギリスでは、総てが個人の発意と企業心に委ねられており、国家は個人の活動を規制するだけ」だが、ロシアでは、それに頼る訳には行かず、
   「ロシアでは、官僚は個人の活動を方向づけるほかに、社会的経済的活動の多くの分野で、直接参加しなければならない」として、経済生活への国家干渉の手法を推し進めたと言うことである。
   尤も、ロシア自体が、歴史の初期から専制君主ツァーリによる絶対王政に支配された強力な全体主義国家体制を強いて来たのであるから、当然の帰結でもあり、このことが、
  レーニンによる共産主義体制への移行を容易にしたのであろうが、いずれにしろ、良かれ悪しかれ、ロシアの宿命であろう。

   モンゴル支配に拠るタタールのくびき、そして、勃興した帝政ロシアの巻き返しと、スェーデン領やシベリアへの版図拡大、その結果生まれた多民族国家の苦悩。
   現在、チェチェンやウクライナなどでの民族紛争の熾烈さを考えれば、ロシアの辿って来た道が平安無事な国家形成ではなかったことが良く分かって面白い。
   
   
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日本のナイトライフ異変・・・エコノミスト誌

2014年10月21日 | 政治・経済・社会
   ロンドン・エコノミストの電子版を見ていたら、
   「Nightlife in Japan Party on 」と言う記事で、安倍内閣の「ダンスクラブに関する法改正」や「カジノ解禁法案」の動向に触れて、
   Mr Abe’s recent moves on late-night dancing seems to signal that Japan is ready to loosen up a little.と、日本も、このあたりの施策を緩め始めるシグナルではないかと報じている。

   深夜にダンス等の遊興行為を行う営業に関しては新たに「特定遊興飲食店営業」(許可制)を新設すると言うことのようだが、今月、自民党の内閣部会が風営法改正案を了承し、政府は、10月中に閣議決定を行い、今国会にて法改正を行って、1年後を目途に施行される予定だと言う。
   堅い筈のイギリス誌でさえ、いまだに、米軍占領以降、ダンスホールは売春の温床となるとして深夜ダンスを禁止しており、日本を、深夜以降リズムに乗れないような驚くべき国だと揶揄しているのが興味深い。
   その禁止令を、安倍内閣は改正して、警官が街角を十分に監視できるような明るさを保っておれば、小時間、ダンス愛好家に踊るのを許そうと言うことだと言う。
   警察は、深夜にダンスに興じるような人の大抵は、薬物使用者( drug-takers)だと主張して、近年、益々頻繁にナイトクラブを訪れて監視を強めていると言うのだが、
   安倍内閣の方は、若者文化の華であるクールジャパン文化を推進する為にも(promoting the notion of “Cool Japan” in a celebration of youth culture)、
   法を改正すれば、2020年のオリンピックに向かって訪れる外人旅行客のお祭りムードを高められると考えている。The rule change should also raise the festive mood for foreign visitors ahead of the Tokyo Olympics in 2020.

   一方、景気浮揚を企図して、政府は、大都市で、巨大な豪華なカジノを解禁しようとしていることに触れて、
   主婦たちは、ギャンブルへの傾倒や家庭の貧困化に恐怖を感じており、与党の公明党も反対しているのだが、既に16兆円もの巨額を消費者から巻き上げているパチンコのことを考えれば、目を瞑るであろうと言うのが面白い。

   このエコノミスト誌の国イギリスでは、結構、公序良俗の維持や治安風紀に関しては厳しい国ではあるが、この方面では、日本と違って、違和感はない。
   ロンドンの街角の有名ホテルにカジノがあるし、ダンスホールも深夜以降も認められているようである。

   まず、ギャンブルに関しては、イギリスこそ、ギャンブルの本場と言うか故国と言っても良く、イギリス人は、何でも、すぐに「賭けようか」と口走る国民で、toto や bookmakerは日本では有名だが、
   私は、招待を受けてアスコットへ、2度シルクハット正装で出かけたが、女王陛下の入場で開始される最高のイヴェントの一つで、レース毎に毎回賭けるのだが、これなど、ギャンブルの粋を越えて、イギリス文化の華だと言っても過言ではなかろう。

   イギリス人の掛け好きだが、私は、ギルドホールで、毎年開かれる英国建設業協会の年次総会で垣間見た。
   ホワイトタイの最も上位の正装で参集する豪華な晩餐会で、エリザベス女王陛下の夫君であるフィリップ殿下の記念講演の最中に、仲間内だけではあるけれど、テーブル越しにシルクハットが回って来て、夫々、殿下のスピーチが何十何分で終わるか予想して、その時間と名前を書いて、何十ポンドかの札を入れて回し、最後に、最も近かった人が、取るのである。
   極めてハイランクのスピーカーながら、3回出て、同じことをやっていたので、もう、慣習なのであろう。

   ギャンブル好きのイギリスであるからこそ、殆どのスポーツが、イギリスで生まれ出でたのも不思議ではなかろう。
   海賊として、七つの海に暗躍して、世界制覇を実現した、正に、闘争スピリットの権化とも言うべきジョンブル魂のなせる業、ギャンブルなどは、人生を楽しむ為の極上の美酒と言うべき存在だとでも言えようか。

   さて、私自身は、パチンコもマージャンもやらないし、ラスベガスで、人並みにスロットを少しやった程度で、ギャンブルからは縁がない。
   しかし、公営ギャンブルは勿論、今回のカジノ開設にも異論はないし、ある程度の規制なりルール作りは必要だとは思うが、ギャンブルそのものにも殆ど違和感は感じていない。

   もう一方の深夜ダンスの解禁などは、当然だと思っている。
   文化文明や人類の進歩発展は、むしろ、人間の新しいものへのチャレンジ精神や競争・闘争スピリットあってこそだと思っているし、ルネサンスや日本の元禄文化が爛熟したのも、人間の遊び心を解放した故だと思う。
   いずれにしても、適度のコントロールやフェアへのルール作りは、必要だが、出来るだけ、人間の希求する心の叫びは解放すべきだと思っている。
   
   前述の法律については、良く知らずに論じているので、多々誤解があるかも知れないが、この記事だと、カジノは外人だけへの解放だと言うのだが、日本人にも開放することにこそ、意味があるのである。
   このような「ダンスクラブに関する法改正」や「カジノ解禁法案」ごときで、悪影響を受けるような日本人である筈がないと思っている。

(追記)口絵写真は、エコノミスト記事から借用。
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鎌倉長谷寺の秋の装い

2014年10月20日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   気持ちの良い秋の日が続いているので、陽気に誘われて、長谷寺に出かけた。
   バスだと、大仏前を通過するので、何時も、大仏観光客の賑わいで、バスが渋滞するのだが、秋のシーズンであるから、尚更である。

   まだ、菊花にも紅葉にも早いので、咲いている秋の花と言っても知れていて、最盛期の花は、シュウメイギクやホトトギスやツワブキくらいであろうか。
   
   
   
   
   

   何時も、書院の門前に、季節の草花の鉢植えが置かれているのだが、今日は、ダリアが数株置かれていた。
   ダリアはサツマイモの小型のような根茎で、毎年咲くので、千葉に居た時には、良く植えたが、中々豪華な花を咲かせて面白い。
   
   
   
   

   その鉢植えに誘われて、初めて、弁天窟に入った。
   弘法大師が、ここに参籠して、尊像を刻んだとされていて、壁面には、沢山の仏像が彫られている。
   窟内は暗くて、蝋燭の灯に仏像が微かに揺れていて幻想的である。
   鎌倉には、このような岩窟が結構あるようである。
   地蔵堂の前には、沢山の小さな石仏が並んでいて、供えられた秋の花に映えて、面白い雰囲気を醸し出している。
   
   
   
   

   境内の小さな池には、綺麗な緋鯉が放たれているのだが、魚そのものが非常にこじんまりとしていて、かなり敏捷である。
   慈照院前の心字池にも緋鯉が泳いでいるのだが、ここは、水が濁っていて、落ち葉などが水面に浮いているので、写真には向かない。
   かなり大きな金色の緋鯉が、金魚のように長いひれをくねらせながら泳いでいた。
   
   

   境内には、色々な花木や草花が植えられていて、ひっそりと咲いている風情が中々良い。
   鎌倉には、質実剛健と言うか豪壮な禅寺が多いのだが、季節の花木や草花で荘厳する寺院の佇まいも中々良いものである。
   
   
   
   
   
   
   

   後で、10月桜が咲いていたことを知ったのだが、残念ながら、気付かなかった。
   サザンカも咲き始めていたが、目立つほどではなかった。   

   長谷寺の手前に、對僊閣と言う戦前の意匠を残す和風旅館がある。
   高浜虚子がホトトギスの会を開き、与謝野晶子が宿泊した当時の雰囲気のままだと言うことで、中々雰囲気のある建物で、一寸した団体の観光客は、この前で説明を聞いている。
   今でも、現役とかで、一泊1万円もしないと言うので、泊まってみるのも面白いかも知れない。
   
   
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わが庭:秋色いよいよ深し

2014年10月19日 | わが庭の歳時記
   ドウダンツツジが少し色づき始めて来たが、モミジの紅葉には、まだ早い。
   今、綺麗に色づいているのは、アメリカハナミズキ。
   秋の穏やかな陽の光を浴びて輝くと、真っ赤に染まる葉もあれば、まだ、黄緑や緑を残した葉もあり、グラディエーションが美しい。
   来年咲く花や萼の蕾がすっくと立ち上がって、寒い冬を乗り切る構えで、自分を主張しているようで面白い。
   
   

   僅かに残っていた柿の葉も、色づいたと思ったらすぐに落ちてしまった。
   奈良の田舎で見た、美しく紅葉した優雅な柿の葉を思い出す。
   やはり、柿の葉寿司の故郷と言うことでもあろうか。
   

   庭木の足元で、ひっそりと地を這うように咲いているのが、ホトトギス。
   独特な形をした雰囲気のある花だが、日本原産だと言う。
   
   

   斑入りの大きな葉の間から、勢いよく茎を伸ばして、菊のような黄色い花を咲かせるのがツワブキ。
   千葉から移植した株が、少し大きくなって咲き始めた。
   園芸店で買った時には、小さな鉢植えで葉も5センチくらいで小さかったのだが、庭植えにして肥料が効くと、大きなどんぶり椀くらいの大きさになり、随分大きな株になった。
   
   
   
   秋と言えば、やはりバラ。
   千葉から持ち込んだ鉢植えバラで、手入れが多少悪かった所為か、花付きは思わしくないが、夫々、咲き始めた。
   京成バラ園も遠くなってしまったので、中々、行けなくなってしまったのが残念である。
   湘南にも、良いバラ園があるようだが、まだ、行く機会はない。
   
   
   
   
   
   
   千葉の庭には、モッコク、伽羅、アメリカハナミズキ、ピラカンサ、ムラサキシキブ、ネズミモチなどの実がついていたのだが、この鎌倉の庭では、伽羅だけは同じで、その他には、クロガネモチが、小さな実をたわわにつけているだけである。
   それに、取り残したキウイの実が、まだ、結構残っている。
   植栽が違うだけで、もう既に、広い庭に十分に植木が植わっており、これから、どうするか、好みの庭に、木の植え替えをするのも大変なので、このまま、しばらく様子を見ようと思っている。
   
   
   
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国立演芸場の中席落語

2014年10月18日 | 落語・講談等演芸
   久しぶりの国立演芸場である。
   事前にチケットを買うと、先日も喜多能楽堂での貴重なチケットをフイにしてしまったりするので、この日は、随分空席があり、直接劇場に出かけてチケットを買った。
   人気のわりには、私にとっては、結構、面白かった。

   トリの三遊亭歌司は、「紺屋高尾」。
   神田の紺屋の染物職人久蔵が、吉原で花魁道中を見て絶世の美女である高尾太夫に一目惚れして恋煩いで寝込むのだが、3年間一生懸命働いて、10両の金を貯めて三浦屋で初回を迎える。
   花魁に「今度はいつ来てくんなます」と訊ねられて感極まって、「ここに来るのに三年、必死になってお金を貯め、今度といったらまた三年後。」と正直に苦しい胸の内を吐露する。
   高尾は、ホロリの涙ぐみ、大名相手とは言えお金で枕を交わす卑しい身を、三年も思い詰めてくれるとはと、久蔵の至誠を感じてこの人なら間違いないと思って、自分は来年の三月十五日に年季が明けるから、その時女房にしてくんなますかと言う。
   実に爽やかな純愛物語だが、実際にあった噺のようで、ウィキペディアには、
   5代目 - 紺屋高尾。駄染高尾とも。神田お玉が池の紺屋九郎兵衛に嫁した。駄染めと呼ばれる量産染色で手拭を製造し、手拭は当時の遊び人の間で流行したと伝わる。のち3人の子を産み、80歳余まで生きたとされる。
   私は、こう言う話が好きなので、しみじみと語る歌司の話に聞き惚れていた。

   もう一つ面白かったのは、柳家はん治の「妻の旅行」。
   桂文枝の創作落語で、元々は大阪のおばはんをテーマにした話であろうが、とにかく口やかましくて、愚痴や嫌味など言葉の端々に茶々を入れてかき回し、気の休まる暇のない亭主が、妻が一週間旅行に出ると言うので、嬉しさを噛み殺して、心にもない小言を言ったと言う。
   これを聴き付けた息子がやって来て、何故、喜んで送り出してやらないのかと言うので、お前は読みが浅い、前にそう言ったら、普通なら一緒に行きたがり喜んで送り出してくれる筈なのに、何か悪いことを企んでいるのではないかと散々とっちめられたので、逆を言ったのだと言う。
   とにかく、江戸バージョンになっているものの、テレビから箸の上げ下ろしまでとやかく言う妻の小言や茶々、それに受け答えする亭主との頓珍漢の会話が、実に面白い。
   妻の旅行、鬼の居ないこの留守は、亭主にとっては至福の時なのであろう。
   三枝バージョンでは、妻が出かけて行ったので、喜んで羽を伸ばそうとした瞬間、ドアのチャイムがなって、誰かと思って出てみたら、妻が「一人行けない人ができたから、一緒に行こう」ということになり、これがサゲだと言う。
   はん治のサゲは何だったか忘れてしまったが、とにかく、狂言で言う「わわしい女」の落語版と言うところか、この夫婦の泣き笑いの日常が彷彿として非常に面白い。

   さて、いずれも、夫婦の物語だが、まず、最初は、直覚の愛、一目惚れである。
   久蔵も高尾も、第一感で、総てを決めている。
   私は、直覚の愛を信じる方で、いくら考えても、ヘタな考え休むに似たりと言う感じではないかと思っている。
   昔、ある老舗の女将さんから聞いた話だが、若い時に三高を選んで結婚したのだが、すぐに分かれたと言っていたのを思い出す。
   恋とか愛とかと言うのは、理屈抜きの人間の情ではないかと言う気がするのだが、どうであろうか。

   後の話は、夫婦の問題だが、長く続いておれば、どこかに妥協なり、あいまいな空間が出来て均衡を保つのではないかと思う。
   落語には、このような夫婦間のすれ違い話が結構多くて面白いのだが、
   若かりし頃の馴れ初めが、どんなだったか、多分、初々しく恋を語った間柄ではなかったのではないかと思うと、益々、面白くなってくる。
   
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国立劇場・歌舞伎・・・通し狂言「双蝶々曲輪日記」

2014年10月16日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   先月の文楽に続いて、今月の国立劇場の歌舞伎も、「双蝶々曲輪日記」の通し狂言である。
   夫々の舞台も、完全な通し狂言ではないので、少し上演の場や段に、異同があって、文楽では非常に充実した舞台で観客を魅了した「橋本の段」が、歌舞伎では、抜けているのだが、逆に、冒頭の「新清水の場」が、上演されているので、最後の「引窓」の主人公である南方十次兵衛の若かりし頃の南与兵衛(染五郎)と女房お早となっている女郎藤屋都(芝雀)との関係や、お早と濡髪(幸四郎)とが旧知であることなどが良く分かって、面白い。
   とにかく、歌舞伎でも文楽でも、通し狂言での観劇の醍醐味は格別なのである。

   今回は、濡髪を演じる幸四郎の重厚な舞台が、最大の見ものであり、それに、器用に、南方十次兵衛と山崎屋与五郎と放駒長吉3役を演じ通す染五郎の進境著しい舞台を楽しめる。
   それに、引窓で熱演する母お幸の東蔵、長吉姉おせきの魁春、藤屋吾妻の高麗蔵と都の芝雀と言った女形の素晴らしさも忘れがたく、錦吾や友右衛門などのベテランと若さあふれる広太郎や廣松などのワキを固める助演陣の活躍で、素晴らしい舞台を作り出している。
   プチ悪党ながら間の抜けたコミカルタッチの演技で笑わせる、幇間佐渡七の宗之介や山崎屋番頭の松江が、中々、ユニークな舞台を務めていて、印象に残っている。

     何回か、このブログで、歌舞伎と文楽での「引窓」観劇印象記を記しているのだが、今回は、この場での南方十次兵衛の心境について、私の感じ方を記して見たい。
    やはり、十次兵衛の心境、特に、その転機となるシーンは、「母者人、何故物をお隠しなさいます。」と言う肺腑を抉るような母への言葉である。
   尤も、このセリフは、歌舞伎の独壇場で、文楽にはない。 

   私のブログを引用すると、
   2009年12月の三津五郎の舞台では、
   初手柄を立てて面目を施したい濡髪捕縛に、何やかやと抵抗する義母・妻の態度に不審を抱きながら、濡髪の人相書きを、爪に火を灯す思いで溜め込んだ小銭を差し出して、売ってくれと拝む義母を見て、真実を悟る十次兵衛の心情が、実に哀れで、胸を締め付ける。
   親子として何不自由なく暮らしていた筈の十次兵衛の心の中に、実子でない義理の息子としての悲しさが、隙間風のように流れ込む一瞬である。
   「なぜあなたはものをお隠しなさいます。私はあなたの子ではありませんか。」と言って腰の大小を抜いて前に差し出し、「丸腰なれば今までの南与兵衛。お望みならればあげましょう。」と人相書きを渡す。濡髪を逃がす決心をしたのである。

    2005年10月の菊五郎の舞台では、
    「母者人、何故物をお隠しなされます」と狼狽するお幸に語りかける菊五郎・与兵衛の本当の優しさが胸を打つ。これからが、もう人間与兵衛の死を懸けた全く迷いのない義理の母への限りなき愛が全開する、義理の弟への思いやりが「狐川を左へ取り」と河内への抜け道を二階に聞こえるように語る。
   菊五郎は、人間の肺腑を抉るような芝居も上手いが、このような人間性の機微に触れるような芝居を感動的に演じる舞台も素晴しい。

   この台詞について、吉右衛門や仁左衛門の舞台では、触れていないのだが、この「引窓」のテーマが、人としての義理と人情、その狭間に苦悶し泣く人物の活写だとするならば、一番、重要な位置に立つのは、義理の母と義理の兄弟に対峙する南方十次兵衛であろう。

   文楽では、
   二階から覗き見る濡髪長五郎が手水鉢の水に映るのを見て、鳥の粟を拾うように貯めた布施金を差し出して濡髪の似顔絵を買いたいと懇願する母を見て、総てを察した十次兵衛は、母に20年以前に大坂へ養子にやった御実子は堅固かと尋ねる。この言葉に気付かずに、必死に頼み込む母に、「ヘッェ是非もなや」と意を決して、大小を投げ出して、丸腰ならば町人に帰ったと言って、似顔絵を与える。
   それに対して、歌舞伎は、「お母さん、水臭いなあ。」と言う言葉が飛び出すのは、実子ではない、血が繋がっていない義理の息子であると言う現実を思い知らされた悲哀を、表現したかったからであろうか。

   確かに、最初は、十次兵衛は、傷ついたであろうが、そこは、大坂で放蕩三昧の生活を送っていて、遊女の都を嫁にして連れ帰った酸いも甘いも知り分けた人間であるから、我を忘れて涙一杯に人相書きを求める義母を見て、愛しさ百倍。
   母子の運命の総てを手中に収めている余裕と慈悲心が十次兵衛を目覚めさせて、やっと手に入れた郷代官の職を捨てる覚悟で、濡髪を助けて、義母嫁の慈悲に報いようとする。
   この義理と人情の板挟みに苦悶する十次兵衛を、染五郎は、実に丁寧に演じていて、感動的である。

   私自身は、この「引窓」の舞台は、実の母と子と言う人情が先行して、舞台が進行するにつれて義理がフローし、最後に、義理と人情が調和した芝居だと思っている。
   まず、長五郎が八幡の母を訪ねて来たのは、最後に母に会いたいと言う切実な思いであり、幼い時に養子に出して幸薄きわが子を助けたい一心の母の姿であり、夫の栄達手柄よりも二人を助けたいお早の人情一色で舞台が進行し、
   義理を感じた濡髪の説得で、濡髪捕縛で義子に手柄を立てさせるのが義母の道だと悟った母が引窓の紐で濡髪を縛る。
   最後は、引窓を引いて、「南無三宝夜が明けた、身共が役は夜の内ばかり。」と生き物を放つ放生会に託して、恩に着ずとも勝手にお往きあれと、濡髪を放免する。
   喜ぶ母嫁に見送られて濡髪は旅立つ、義理と人情の完結である。

   中秋の名月の前夜の煌々と輝く月の光が、引窓の開閉で、夜と昼を峻別し、
   十次兵衛の役目が夜だけで、昼は無役と言う設定が絡み合って、義理と人情の柵と呪縛を解くと言う、実に粋な物語である。
   
   この「引窓」で、一番平生を装い真っ当なのだ濡髪だが、4者4様の心の軌跡があり、夫々の立場に立って、自分ならどう思うか、考えて舞台を観ていると面白い。
   やはり、一番心に響くのは、母親お幸の心の軌跡であろうと思うが、最初に見たのは、人間国宝の田之助だったが、今回の東蔵も絶品で、この役を演じる役者は、老け役だが、年輪を重ねていて、誰も上手いといつも感激している。
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ロシア・ビザ申請、神田神保町&NRIフォーラム

2014年10月15日 | 今日の日記
   台風一過、昨日は良い天気だったが、今日は、朝から冷たい雨。
   ロシア入国ビザ申請のために、麻布のロシア大使館の領事部に出かけた。
   昔の狸穴のソ連大使館の雰囲気は変わっておらず、飯倉の交差点にも門前にも警備が立っていて、門は固く閉ざされていて近づきがたい。
   尤も、多少はオープンのUK大使館なども同じで、謂わば、日本国であっても日本ではないのだから、当然かも知れない。

   領事部、と言うよりも、ビザ申請窓口は、正門外れにある小さな一角で、ロビーと待合室2室で30平米くらいであろうか、窓口は2つ開かれていて、申請と会計兼旅券交付で、いずれも係官は、ロシア人であり流暢な日本語を話す。
   普通は、旅行代理店がビザ申請を代行するのだが、私は、昔取った杵柄で、このあたりの処理は慣れているので、自分でやることにしたのである。
   他の国の入国ビザ申請と違うのは、旅費一切を支払ったと言うバウチャーとロシア外務省へ登録済みの現地旅行会社の旅行確認書を提出することで、申請書類は、旅券や個人情報や上記の情報などを、ロシア大使館指定のフォームにオンラン入力すれば、作成できる。
   少し待ったが、後日、無事にビザを発給して貰えることになった。

   その後、途中で昼食をとり、東京三菱UFJの貸金庫や郵貯に用事があったので、神田に立ち寄り、ついでに、何時もの習慣で、神保町を歩いた。
   買った本は、
   トニー・ワーグナー著「未来のイノベーターはどう育つのか」
   ケインズ学会編「ケインズは、≪今≫、なぜ必要か?」
   相変わらず、経営学と経済学の本だが、読みたいと思ったのだから仕方がない。

   ロシア大使館で時間を取って、神田神保町に立ち寄ったので、東京国際フォーラムの「NRI未来創発フォーラム」会場に着いたのは、1時間以上の遅れで、基調講演の後半であった。
   「創り拓く私たちの未来」と言うテーマで催された野村総研主催のフォーラムで、結構、格調高い問題提起で、好評のようである。

   私の聴講したのは、後半の「創り拓く、私たちの未来」と冠したパネルディスカッションで、モデレーターが、膳場貴子、パネリストが、石黒浩、田中浩也、古田敦也、金惺潤。
   膳場キャスターの司会は中々のもので、上手くパネリストの薀蓄を引き出しており、とにかく、パネリストが、その道のパリパリのエースであるから、興味深い話題に事欠かない。

   私が、興味を持った一点だけを述べれば、金氏の誘導で、アンドロイドの石黒阪大ロボット博士が、新しい発想なりイノベーションの生まれるきっかけとして、「一歩引いてみる」姿勢を強調していたことである。
   専門バカの習性か、問題を突き詰めて突き詰める程、暗礁に乗り上げて窮地に落ち込むのだが、一歩引くことによって、そして、引けば引くほど、繋がりが見えて来て視界が広がり、新しい発想が生まれると言うのである。
   したがって、最近では、哲学でも宗教でも、何でも読むし、石黒グループには、宗教家は勿論、あらゆる分野の専門家がいて、何でも聞けるのだと言う。
   新しい発想なり発見が出来なければ死ぬつもりでいたが、一歩引く法則にに気付いてからは、引くことに抵抗がなくなって、視野が広がっった、新しい発想なり発見が生まれなければ意味がないとも語っていた。
   この石黒教授の発想は、これまで、このブログで、メディチ・インパクト(メディチ・エフェクト)など、異文化異文明の遭遇、異分野の科学・技術・知の遭遇・爆発が、新しい知や発想、イノベーションを生み出すと言うことを、何度も論述してきたのだが、石黒グループそのものが、そのような集団であると言うのが、私には、新鮮な驚きであった。

   もう一つ、興味深かったのは、石黒研究室では、何でも、自分だけで新しい発想を生み出すと言っていた石黒教授の手法に対して、3Dプリンターを活用してファブラボで活躍している田中浩也慶大准教授の方は、広く人々の衆知を集めて新しい発想を生み出す共創、オープンイノベーション手法で、二人の手法は、対極にあるのではないかと、膳場キャスターが、問題提起していたことである。
   最後には、田中准教授は、最近では、すべて自分で考えなければならないと思っていると答えていたが、いずれも、アプローチの違いはあるが、新しい発想や発見は、周知の経験と知の融合爆発から生まれるのであるから、究極は、同じなのだろうと思う。

   また、田中准教授は、学生に何も教えていないが、沢山の失敗をすること、沢山の実験をして沢山失敗をすること、その環境を作っているのだと言っていたが、石黒教授の姿勢と言い、正に、今昔の感で、大学も凄く進歩したものだと思った。
   古田さんや金氏の話も含めて、非常に興味深い話を聞けて喜んでいる。
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映画「ふしぎな岬の物語」

2014年10月13日 | 映画
   懐かしい。実に、温かくて懐かしい。
   懐かしさが、心の中一杯に広がって、しみじみとした感慨に誘い込む。
   冒頭の岬の突端の波打ち際で絵を描く人物の描写から始まって、私のこの映画に感じた第一印象は、これであった。
   英題が、Cape Nostalgia 、ふしぎな岬の鄙びたコーヒー店を舞台にした感動的な物語である。

   小津安二郎の映画のように、ごく平凡な市井のストーリーを主題にした映画なのだが、正に、国際級の作品で、
   第38回モントリオール世界映画祭ワールドコンペティション部門に出品して、審査員特別賞グランプリとエキュメニカル審査員賞と言う快挙を遂げたのであるから、万国共通の感動と共感を呼ぶ秀作なのである。

   この映画は、高倉健の主演映画「あなたへ」の小説版の作者である森沢明夫が、浦賀水道を隔てた、三浦半島の久里浜港の対岸、房総の鋸南町元名1番地に実在する喫茶店「岬」をモデルにして著した小説『虹の岬の喫茶店』が、底本になっているので、玉木節子さん経営のこの岬のコーヒー店を訪れる人も多いと言う。

   「岬カフェ」は、一昔前の古風な雰囲気を醸し出したムードのある佇まいで、音楽はなかったが、古いレコードが立てかけてあり、土の香りがする色々な陶器のコーヒーカップが、懐かしい。
   店主・柏木悦子(吉永小百合)は、カフェの裏で"何でも屋"を営む甥の柏木浩司 ( 阿部寛)と小舟で対岸の小島に出かけて、湧き清水を汲んできてコーヒーを淹れるのだが、途中で、島の片隅にひっそりと咲く野の花を摘んできて、小さな陶器の花瓶に挿す。古風なコーヒーミルにたっぷりとコーヒー豆を注いで挽き、美味しくなあれ、美味しくなあれ、と囁きながら、ネルドリップで丁寧にコーヒーを淹れる。
   この悦子の祈りを込めた心づくしのコーヒーを楽しみに、岬の常連たちが集い、岬を訪れた旅人が立ち寄る。
   この映画は、これらの人たちと悦子の心の触れあいを、限りなき愛情を込めて描いた物語である。

   常連客に囲まれた悦子にとって最も大切な人物は、叔母悦子に思いを馳せながら親衛隊気取りで純粋一途の問題児である浩司で、その二人のふれ合いを支え続けている不動産会社の常連客のタニさん (笑福亭鶴瓶)も大切な人である。
   浩司にけしかけられて、純情一途に30年間憧れ続けて来た悦子に、大阪への転勤を迫られたタニさんは、特大の鯛を買ってきてカルパッチョを調理し、一世一代の大舞台・最後の晩餐に誘って、甲州ワインで乾杯しながら、恋心を吐露する。
   吉永小百合の優しさであろう、愛の告白をしようとシドロモドロのタニさんの姿を映しながら、カメラを外して、外で、首尾は如何にと覗き見している浩司にフォーカスして、しばらくして、部屋から出て来たタニさんが、照れ隠しかにっこりと笑って、大きなペケ印を両手で示すシーンを映して終っている。
   大阪への連絡船が、岬の沖を通過する時、カフェから飛び出してきて手を振る悦子の姿を遠望したタニさんが、必死に手を振りながら号泣する、悲しくも美しい恋の物語の終わりである。
   

   地元の秋祭りの日に、漁師の徳さん:竜崎徳三郎 (笹野高史)の娘・みどり(竹内結子)が、親に逆らって一緒になった男と別れて数年ぶりに帰郷する。
   素直になれない父娘だが、死期を迎えた徳さんは、みどりに看取られて逝き、生命保険証書を見て親不孝にみどりは泣き伏す。
   このみどりだが、ラストシーンで、島への小舟の上で、浩司の子供を身籠っていると告白し、悦子の祝福を受ける。

   他に、園芸を営む柴本孝夫(春風亭昇太)と恵利(小池栄子)の華やかな結婚式と田舎が嫌になって去る恵利、パーティで酔客に口説かれている悦子を助けようとする浩司が巻き起こす乱闘事件など面白い挿話が鏤められているのだが、
   これらを取り巻く、温かくて善意の人たち、牧師の鳴海 (中原丈雄)、住職の雲海 (石橋蓮司)、医者の冨田(米倉斉加年)、行吉先生(吉幾三)などの芸達者なベテラン脇役陣の活躍が、楽しい。
   また、ブラザーズ5(杉田二郎、堀内孝雄、ばんばひろふみ、高山巌、因幡晃)が、田舎のグループサウンド隊として、パーティなどで演奏して、彩を添えている。
   余談ながら、落語家の昇太は、いまだに独身の筈だが、結婚式でのハチャメチャ幸せ絶頂の花婿を演じ、結局、土下座して拝み倒しても逃げられてしまうのだが、どんな心境だったのであろうか。
   もう一つ、歌舞伎俳優の片岡亀蔵が、気弱なドロボー として登場して、しみじみとした味のある演技を披露していた。

   この映画でもう一つ重要な挿話は、東京から虹を追いかけて、父親・大沢克彦(井浦新)と共に、少女・希美がカフェにやって来て、悦子の夫が描いた虹の絵を見つけて、これだと歓喜する。
   コーヒー淹れの呪文で"魔女"と呼ばれた悦子は、希美を抱きしめて、大丈夫と呪文を唱えることを教えて、母親を亡くしたショックを少女の心から優しく溶かす。
   この少女が、再び、大切な人が去って行く悲しみに沈んでいる悦子の前に現われて、知らないおじさんが現れて虹の絵の話をするのだと言うので、夫の写真を見せるとこの人だと言う。
   悦子は、少女に絵を託して持って帰らせる。

   この少女の登場は、幻想シーンとも言うべき設定で、最愛の夫のイメージが、この虹の絵に凝縮されていて、大切な人たちや、悦子を見守ってきた筈の命とも言うべき虹の絵を失って、悦子は茫然自失、コンロの火が燃え移るのを虚ろな目で凝視しながらも微動だにせず、岬カフェは、炎に包まれて燃え盛って行く。

   さて、悦子の夫だが、HPによると、
   ”悦子をこの地へと導いたのは、今は亡き最愛の夫だった。スケッチ旅行で偶然訪れた岬で、美しい虹と出会った夫は、虹の絵を悦子に遺した。ひとりぼっちになった悦子は、虹をつかむような気持ちで、虹の岬に移り住んだのだった。”と説明されている。
   原作の『虹の岬の喫茶店』を読んでいないので、よく分からないのだが、夫への思い入れが強かったために、タニさんにも靡かなかったし、浩司の気持ちにも応えられなかったのであろう。
   ドロボーにも、盗って行ったらと勧めた虹の絵だが、そばにある時には、気付かなかったのだが、いざ、絵が消えてしまうと、限りなき寂寥感に襲われて茫然自失。
   超能力を持った少女を登場させて、夫への思いを虹の絵に絡ませた現実・幻想綯い交ぜのストーリー展開が、興味深いところであろう。

   この映画、成島出監督 の作品だが 降旗康男監督作品とも違い、山田洋次監督作品とも違った現代劇だが、初めての企画作品だと言う吉永小百合が、ただの、映画俳優ではなかったと言うことを証明しているのであろう。
   メインテーマ 「望郷〜ふしぎな岬の物語〜」を弾く村治佳織のギターが、感動的である。

   
(追記)口絵写真は、公式HPより借用した。
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アリス・H・アムスデン著「帝国と経済発展」

2014年10月12日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   アメリカ政府は、第二次世界大戦後から1980年代までは、アフリカや中近東も含めて開発途上国にとっては、成長促進の救世主のような存在であった。
   アメリカは、第三世界が、その独自性を維持し、長年の経験に培われた自分達に最も適した経済政策を推進することに理解を示して、容認してきたお蔭で、成長を果たせたのである。
   ところが、レーガン時代に入ると、アメリカは、政策を転換し、自由放任主義(laissez-faire )の解釈を「貴方のやりたいやり方でやれ」から、「我々のやり方でやれ」に変更したので、開発途上国の成長は、一気にスローダウンして、経済格差が拡大し、経済不況を惹起してしまった。
   しかし、ワシントンの意向に抵抗して、独自のの経済政策を推進した東アジアの国々は、ブームを維持した。
   何故か。
   ここからが、アムスデンの本書のタイトル「帝国からの逃避――天国と地獄をめぐる発展途上世界の旅 Escape from Empire: The Developing World's Journey through Heaven and Hell 」である「帝国からの逃避」の核心部分で、アメリカ帝国の意向に逆らって、独自の道を進めば進むほど、経済発展すると言う厳粛なる事実の開陳となる。

   「帝国からの逃避」では、開発途上国が、最も自由に独自の政策を取れば取るほど、国家経済は、より早く発展する。
   従って、アメリカの最近の常軌を逸したフレキシビリティの欠如、すなわち、自分達の影響下に従うべく、ワシントンコンセンサス如きの一方的なルールや法体制や制度組織を押し付けたので、発展途上国の経済成長は、頓挫してしまった。
   しかし、自分たち自身で自分達独自の経済力を打ち立てて来た二大巨人中国とインドの挑戦を受けて、このアメリカの帝国主義的な単細胞的なドクトリンは、背景に押しやられつつあると言う。
   アメリカは、これまでの対外経済政策を改めて、地球温暖化など世界の問題の益々のグローバル化に対処するためにも、共同責任の下に、権力の共有意識を持つべきだと言うのである。

   アムスデンは、アメリカ帝国を、二期に分けて、第一帝国を戦後から1980年代まで、第二帝国を、その後のヴェトナムの残り火と日本との競争時代以降としていて、慈善的で政治的にも知恵のあった第一帝国時代を天国、絶対主義的でイデオロギーに凝り固まった第二帝国時代を地獄として、
   この二つの時代のアメリカの開発途上国に与えた影響と関係について言及して、アムスデンは、世界のみならずアメリカも、権力の新しい中枢が、第二帝国時の強権的なイデオロギーではなく、発展を促進した第一帝国時代の思慮深い政策に従えば、良くなることは間違いないのに、と言っているのである。
   20世紀の超大国であり覇権国家であったアメリカ、その帝国としての国家政策が現出した発展途上世界の天国と地獄の歴史的軌跡をめぐる旅を展開しながら、アムスデンは、「帝国からの逃避」こそが、発展途上国の成長ドライバーであったと言うのだが、それでは、世紀末から今日にかけてのアメリカの存在は、一体、何だったのであろうか。

   アムスデンは、アメリカ帝国のイデオロギー一辺倒の強権的絶対主義政策を批判しているのみならず、西洋諸国が後発国に課した植民地政策の悪辣さについても、強い調子で糾弾している。
   植民地主義が、如何に成長の芽を摘み取ったかは、常に独立を保った日本と、イングランドの王冠の下に徹頭徹尾搾取され続けてきたインドの繊維産業の推移を見れば一目瞭然だと言う。

   また、興味深いのは、第二次世界大戦後に、世界の近代産業の軌道に参入することに成功した国の総ては、戦前に製造業の経験を積んだ国だったと言って、宗主国や米国の援助やサポートなど一切無益だったと言うのである。
   更に、比較優位の誤謬についても言及し、代替工業化政策の推進こそ、国家の産業育成政策の根幹であり、その成功故に、輸出国家へとしての発展があったことを例証している。
   この成長の軌跡を地で行ったのが日本であり、これに追随したアジア諸国や中印の経済成長こそが、ワシントンコンセンサス無視の果実であったと言うのであるから、アメリカのレーガン以降の弱肉強食の市場原理優先の自由市場経済が、如何に不毛であったかを強調して余りある。
   このあたりの論陣の凄まじさは、IMFや世銀、米国政府の新興国に対する政策なり姿勢が、アメリカ帝国よりであって、被援助国にとって、如何に、悲劇であったかを論じて糾弾し続けているスティグリッツより、遥かに激しくて厳しい。

   さて、余談になるが、アムスデン説を取るまでもなく、例のTTPだが、所詮は、アメリカ帝国にとって、良しとする政策と言うことは疑いなかろう。
   TPPから疎外されるよりも、TPPに加入する方が、遥かに利点が大きいとは思われるが、
   以前に、ダニ・ロドリック著「グローバリゼーション・パラドックス」の書評で書いたのだが、スティグリッツの指摘により、要するに自由市場経済が拡大するだけであって、弱肉強食の市場原理が働くので、無防備では問題がある。その意味でも、ロドリックの見解に従って、はっきりと、日本の国民国家の国益を維持できるように、最善の努力を傾注して当たるべきで、好い加減な妥協をすべきではないと言うことである。

   ところで、興味深いのは、アメリカの裏庭だと言われ続けてきたラテンアメリカに対するアメリカの経済政策の失敗を、アジアと対比しながら言及していることである。
   中国が、アジアと言う金の卵を持っていると言ってアジアと連帯の将来性を述べているのだが、考え方によっては、非常に困難だとは思うが、アメリカの将来にとっても、膨大な資源と広大な市場を持つ対ラテンアメリカ経済外交政策を改めて、金の卵と化すことが、賢明な方針であろうと思う。
   アムスデンの指摘に拠れば、既に、アメリカの第二帝国は、中印の挑戦によって破綻しかかっているのであるから、アメリカも、もうこれ以上失うものはない筈なのである。


   
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