熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

大晦日雑感・・・NHK紅白歌合戦の凋落

2007年12月31日 | 生活随想・趣味
   日本人であることをしみじみ感じるのは年末年始である。
   最近では、殆ど季節感など敏感に感じなくなったが、やはり、NHKの紅白歌合戦や除夜の鐘、元旦の正月風景などの醸し出す年末年始の雰囲気は、日本独特であろう。

   私が海外で一番年末年始を感じたのは、NHKの紅白歌合戦の海外放送であった。
   しかし、サンパウロでは、大晦日の昼前、それも真夏の日中であるから全くその気になれないし、ロンドンでは、大晦日の昼過ぎなので、これも雰囲気が大分違って面食らう。
   それでも、ブラジルの紅白放送は可なり早かったが、アメリカやヨーロッパでは遅く放映が始まったので、私が海外に居た頃は、相当長い間ビデオを録って送ってもらっていた。
   あの頃は、日本からの情報が少なかった所為もあり、紅白歌合戦の放送は、正に日本からの格好の便りでもあり楽しみでもあった。
   欧米の場合には、冬休みには海外などに旅行に出かけることが多かったが、正月二日から出勤なので、元旦に自宅にいることが比較的多かったのである。
   
   ところが、この3年間くらいは、大晦日恒例の”ベートーヴェンは凄い!”と言うタイトルのベートーヴェン全交響曲演奏会に出かけるので、紅白を見ることがなくなり、たとえ録画していても見なくなってしまった。
   大体、演歌や日本の歌を聞く機会が殆どないのだから興味を持てる筈もないのだが、娘達もあまり興味を示さなくなってきている。
   演歌に至っては、NHK以外はTVで放映することも殆どないし、レコード店でも、演歌コーナーがあるのかないのか、殆ど見かけることさえなくなっている感じである。
   (余談だが、家内に頼まれて探したのだが、山野楽器やヤマハ楽器などでさえ、まともな筝曲の楽譜やCDが殆どないのが不思議であった。別ジャンルと言う扱いのようだが、これは、シアリアスな問題である。)

   紅白歌合戦だが、色々趣向を凝らして努力をしているが、どんどん視聴率は落ちていると言う。
   いくら斬新な企画を取り入れても、手垢のついた紅白分かれての男女の歌合戦で、世につれ人につれ、どんどん世の中が変化しているにも拘わらず、単細胞のワンパターンを続けているのだから、人気のでる筈がない。
   それに、自分の聞きたいのは特定の歌手の筈で、硬軟、老若、それに色々なジャンルの歌手を糾合しての歌番組だから長く見続ける気にはなれないし、民放の裏番組以外にもBSやCSなど多くのチャネルがあり、それに、大晦日の楽しみは無尽蔵にあって選択肢が広がっているので、尚更、紅白に縛り付けるのは無理である。
   それに、前述した化石(?)のようになった演歌をいまだに中心に据えて番組を組んでおり、NHKの時代感覚を疑わざるを得ないが、誰に迎合しての歌番組なのであろうか。

   年末年始の日本の伝統も少しづつあやしくなり始めている。
   わが家のおせち料理も段々簡略化されてきており、又、年末年始のしきたりのようなものも、時代と言うか生活のテンポに合わなくなって来て省略するようになったし、とにかく、年末年始と言うけじめや季節感が少しづつ希薄になって来ている。
   もっとも、これによる不都合は何もないし、生活のリズムに合っているので、私自身は気にはしていない。

   今日は、2時からベートーヴェンは凄い!が始まる。
   岩城宏之氏の意思を継いで、今年は、小林研一郎氏が、一番から九番まで全曲振るとのことだが、第九の歓喜の歌が大晦日の除夜の鐘の頃になるので、終演は、元旦の朝一時頃となる。
   少し早く上野に出かけて、雑踏するアメ横の年末風景を味わって来ようかと思っている。
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年末の買い物客で賑わうショッピングセンター・・・地元商店が駆逐された後

2007年12月29日 | 政治・経済・社会
   千葉北部に広がる印旛沼の更に北に最近急速に開発の進む千葉ニュータウンがある。
   この中心にある北総鉄道の印西牧の原駅の周りに、巨大なショッピングセンターや大型郊外店舗が集積して、急速に景観を変えつつある。
   この駅も、回りにコスモス畑があるくらいで何もない寂しい所であったが、5年ほど前に、ジョイフル本田が巨大なショッピングセンターを作ってから急速に周囲の雰囲気が変わってしまったのである。
   時々、北総の田舎を抜けてクルマでこのジョイフル本田に来ることがあり、今日も娘夫婦の供をして、年末客で雑踏するあわただしい雰囲気を味わってきたのだが、良く考えてみると、最近、地元の小さな商店に行くことが殆どなくなってしまっているのに気がついた。

   ジョイフル本田は、茨城県土浦市から発したホームセンターだと思っていたが、その店舗の殆どは、ドーム球場2個分、6~7万㎡の規模の巨大ショッピングセンターで、住生活から住関連事業の殆どをカバーする巨大な流通企業であり、その規模の大きさにはビックリする。
   千葉ニュータウン店など、工事中にも何度か訪れており、こんな田舎のど真ん中に、こんな巨大な店を作ってやって行けるのかと思ったが、屋内は勿論、戸外にも巨大な駐車場を設営して、巨大な北総一体を商圏にして連日賑わっているという。
   この千葉ニュータウン店だが、
   生鮮食料品などを扱った食品部門だけでも、一寸したスーパーマッケト以上の規模があり、生活雑貨は勿論趣味の教材や文具、日常使う日用品の殆ど総て、インテリヤ関連商品から住居関連資材や材料、工事機械、それに、関連のスマイル本田では、巨大なショールームがあり住宅関連工事など一切を行う。ガーデンセンターや庭木花・庭園関連一切は勿論、ガソリンスタンドから食堂やレストラン等々、とにかく、家具以外の住関連商品は一切揃っていると言う大変なホームセンターなのである。
   
   この千葉ニュータウン店が開店した直後、友人の子息の結婚式で本田会長がたまたま同じテーブルに座っていたので色々経営について話を伺ったが、同業者からのマネージャーなど人材の引き抜きが大変だと語っていた。
   丁度、その頃、日経ビジネスが、ジョイフル本田を表紙にしてトップ記事で特集しており読んでいたので、「一年に一つしか売れない商品でも揃えるのが本田流ビジネスだと言うのは本当か」と聴いた記憶がある。
   聞くのは野暮で、こんなに巨大な店ならないものはないのが当たり前なのである。
   次男坊なので何でもやれたと言っていたが、あらゆる可能性を追求して果敢に流通革命を推進したのであろう、とにかく、最初の頃の店舗展開は色々問題はあったが、桁違いの発想で、とにかく、地方の一番店として、ゴボウ抜きで商圏を奪って君臨するあたりは、並みの経営者ではリスクが大きすぎて対応出来ないであろう。

   ところで、千葉北郊から北総にかけては、地元や独立系の園芸店やガーデンセンターなどが沢山あったが、今では、ケイヨーD2など大型店舗を残して、全部消えてなくなってしまった。
   プロの植木屋さんや工務店などが、ジョイフル本田で、花木や資材や道具などを調達していると言うから、既に、卸小売りのジャンル分け等もなくなってしまった。
   
   また、一般の商店だが、これらの地元の園芸店と同じで、殆どの商店は消えてなくなっているのに気がついた。
   例えば、電気店だが、秋葉原のチェーン店の出店さえ駆逐されてしまって、コジマやヤマダ電機等の大型量販店、それに、スーパーなどの電気売り場だけが残り、地元店でも家庭の小規模の電気・修理工事をやったり、工事下請けをやっている店舗が細々と商売を維持している程度である。
   目抜き通りにあった地元に長く続いていた歴史のある商店でも、一つ、二つと、資本の論理と時流の流れに乗れずに消えて行かざるを得ない。その後に、必ず、大型店や全国チェーンの店や営業所が取って代わる。
   ジョイフル本田で、プラスチック製の漬物石と桶が大小取り混ぜて並べられており、その横に、小さな鳥居が設定されて神棚や什器備品一切が売られていたが、誰が買うのか、例の一年に一つ売れる類の品かと思って見ていたが、これだけ、あらゆるものが揃って安く売られていると、一般の店が太刀打ちできる余地などある筈がない。
   それに、ここへ来れば、何でも揃うのである。

   住宅の場合でも、地元の工務店や小さな個人企業に頼んだ人たちは、修理しようにも、もう店がつぶれてしまって埒があかないと言う。
   小さな個人会社や独立店舗などは、設立時に地元との調整で、スーパーなどの中に店舗を構えたた店、全国展開のチェーン店や提携先になった会社、組合等連合組織を形成して共同仕入れなどをして競争力を維持している店舗、或いは、特別なブランドや暖簾など特色があって競争力のある店舗、等々何か強みがないと生きて行けなくなってしまった。
   これは、やはり、情報産業化社会への急速な進展によって、情報・通信・交通・流通等があまりにも便利になり過ぎて、地域コミュニティが崩壊してしまったことによる。
   それに、年末商戦を賑わせる歳暮も、サイバー商店のインターネットショッピングが多くなって、リアルな店での買い物が大幅ダウンだと言う。
   気の所為か、ショッピングセンターもスーパーも、年末客がどんどん減ってきているような気がしている。
   流通業界、小売業界は、ICT革命によって大きく様変わりしてしまったと言うことであろう。
   
   ついでながら、ワインだが、私は主にネットショッピングで買っている。
   ヨーロッパで生活して、ミッシュラン店巡りをしていたので、多少ワインの心得があるので、特定のブランドにしてもインターネットで十分間に合う。
   大体、倉庫から直なので流通経費等コストが低いので安く、それに、品揃えが豊富であり、まず、今まで間違いがなかった。
   ところで、このジョイフル本田千葉ニュータウン店だが、綺麗なワインコーナーがあるが、成城石井ワインフェアーと言うことで、総て一括丸投げしている感じである。
   懇切丁寧にワインのことどもをパネルにして展示されているのだが、誰も係員がいないし客は全く寄り付いていなかった。
   最高4000円くらいで、大半1000円台のワインが主体だが、誰が飲むのか、一寸、ワインでも買っておくか、と言う一般的なお客さんであろうか。
   やはり、流通革命に意を用いた街の酒屋さんが一番良いのである。
   
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ブット元首相の暗殺・・・ブッシュ民主主義の悪夢

2007年12月28日 | 政治・経済・社会
   起こるべくして起こったブット元首相の暗殺を、昨夜、ニュヨーク・タイムズの電子版を読もうと思ってホームページを開いて知った。
   瞬間、マルコス時代のアキノ氏の暗殺を思い出したが、グローバルベースでのテロ活動が、益々過激さを加えていることに危機感を感じざるを得ない。

   今朝、米英のメディアの電子版を読もうと思ってページを開いて読み始めたが、一番、ピッタリ来た記事は、タイム誌に掲載されている元CIAのオフイサー・ロバート・ベア氏の「Bush's Democuracy Nightmare ブッシュ民主主義の悪夢」と言うコメンタリーであった。
   ”ベナジル・ブットの暗殺は、中東とイスラム世界の喉元に民主主義を押し込もうとしたブッシュ政権の誤った政策の苦い終焉である。
   9.11以来、彼の地において、平和裏に成功した選挙を行った国は一国もない。ガザでのハマスの勝利、レバノンでの膠着選挙、そして、イラクと今回のパキスタン、どの選挙も、ブッシュ政権が約束した安定と近代化と市民社会をもたらさなかった。”と言う書き出しで始まり、
   ”パキスタン、ガザ、レバノン、イラク、これらのどの地域にも共通する支配者は、持続し続ける戦争、終わりなき戦争、民主主義を毒する戦争である。”と続ける。

   パキスタンについては、
   今回、アメリカは、ムシャラフとブットを機が熟していないのに和解させようと急ぎ、ムシャラフに戒厳令の解除を強い、パキスタンでは決して人気がないのに戦争するためにムシャラフに厖大な金をつぎ込むなどして大混乱を巻き起こした責任がある。
   パキスタンには、そもそも、民主主義もなければテロとの戦争もないことをブッシュ政権は分かってさえいない。
   パキスタンの民主主義を理解するためには、元々この国はパキスタン人の為に一顧だにされず、イギリスによって便宜的に人工的に作られた非常に分裂した国だということを知らねばならない。
   パキスタンは、独立しても絶えず強力な軍事政権に支配されてきた。
   この国に民主主義が根付くのは、アフガニスタンであろうとカシミールであろうと国境問題が解決し、軍隊の政治介入が完全になくなった時で、それまでは、絶対に民主主義などあり得ないと言うのである。

   もっと辛辣なのは、ブット暗殺で強調されなければならないアイロニーは、9.11以降、実際にはなかった大量破壊兵器があると言ってイラクとアフガニスタンへの侵略戦争を正当化し、更に、イランとパキスタンの状態を一層悪化させておきながら、これらの国家が大量破壊兵器で間違いなしに我々の脅威となるといい続けていることだと言う。
   今回の首謀者も、アメリカは、即座に、ブットがアメリカ帝国主義者のエージェントだと見なしているアルカイダの反抗だとしているが、マンハッタンではなく、何千マイルも離れた前線で、ブットのように民主主義と近代化と合理主義のために犠牲となって戦ってくれるヒーローが居る以上、そう言っておれば気楽であろうとまで言う。

   これをサミュエル・ハンチントンの文明の衝突と言えば言えるかもしれないが、このブッシュ政権の中東での足掻きは、そもそも、文化文明が全く違うイスラム世界にたいして、民主主義、と言うよりも、アメリカ主義とも言うべきアメリカの利害によって色濃く偽装されたアメリカの価値観を押し付けようとしていることに起因している。
   確かに、アメリカの民主主義体制は、今日のドミナントな支配体制であり、共産主義の崩壊によって、現在考え得る可なり上等なシステムではあるが、歴史上から考えれば、ほんの一瞬の輝きにしか過ぎない。
   イスラム文明が世界を制覇した時代もあり、中国やインドが世界に冠たる文化文明大国として世界に君臨した時代もあり、このアメリカの民主主義体制が永遠であるとは思えない。

   横道にそれてしまったが、私自身は、ブッシュ政権の中東政策が間違いであって、一刻も早く、イラクは勿論中東から軍事的には撤退し、この地域での軍事的なオーバープレゼンスを避けて、自治を中東各国に任せるべきだと思う。
   そのためにも、イスラエルロビーに影響された中東政策から完全に脱却しなければならない。
   ブッシュ政権によるイラク支配、イスラエルよりのパレスチナ政策、レバノン・シリア、或いは、イラン、パキスタンなどへの介入政策など中東政策の悉くが、益々、中東諸国の反米感情を煽り国際テロ集団を激昂させて勢いづかせ、グローバルベースでの国際テロを拡大させ蔓延させている。
   パキスタンの治安が更に悪化すると、パキスタンの核兵器がテロ集団に流れる心配が起こるが、そうなると気違いに刃物で、その危険度は、非常に高くなる。
   ヒドラのように頭も組織も明確ではないテロ集団とどのように和解交渉を行うのか、全く雲を掴む様な話になりゲリラ戦法を取られると打つ手がなくなる。

   ところで、ベア氏は、最後に、アメリカが、今や、プラグマティックな大統領に回帰すべき潮時だと言う。
   1991年の湾岸戦争でイラクを支配した時に、先代ブッシュ大統領、ジェームス・ベーカー長官、ノーマン・シュワルツコップ司令官達は、イラクにアメリカ型の民主主義を押し付けても機能しないと悟ったことが正しかったと思っているからである。
   
   しかし、半世紀以上も前に、アーノルド・トインビーが、あれだけ世界に尽くしながら良く思われないのは、独善と偏見の強いアメリカ人は、現地の人々と溶け込まずに、自分たち自身の社会を作ろうとするからだと言っていたが、世界の警察だと言う意識もその現れかも知れない。
   
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海外は危険なのか?

2007年12月27日 | 政治・経済・社会
   年末年始で、日本人の海外ラッシュが始まっている。
   口絵の衝撃的な写真は、ビルマのヤンゴンで亡くなった長井健司さんのものだが、何度もTVで放映されたので御馴染みなっている。
   実に悲しい事件であり、意図した殺人事件である可能性が極めて高く、文明国である日本やアメリカは声高にビルマ政府を非難しているが、現実には、ジャーナリストがフリーパスで自由勝手にどこでも取材できる決まりも国際法規もないのが実情で、その危険については自己責任以外の何ものでもない。

   ロバート・キャパの一連の写真や沢田恭一のベトナム戦争時の写真など、戦争の悲劇を告発する素晴らしい写真は貴重な記念碑だが、二人ともインドシナで取材中に亡くなっている。
   あの香港を舞台にした映画「慕情」でも、ジェニファー・ジョーンズの恋人で従軍記者であったウイリアム・ホールデンが朝鮮戦争で取材中に帰らぬ人となっている。
   私が言いたいのは、戦争や内乱やテロ事件でのジャーナリストの取材は、戦争で戦う兵士と同じで、戦場に臨んでいると言う認識を持つのが当然だと言うことである。

   国境なき記者団やジャーナリストグループが、暴力を非難しカメラを持っていたのだからジャーナリストと分かっていた筈だと抗議していた。
   しかし、TVで放映されていたようにサンダル履きの普段着スタイルで道路をつかつかと歩きながら、銃器を構えて狙い撃ちする軍隊に泡を食って一般市民が悲鳴をあげて逃げ惑う混乱模様をビデオ撮影し続けているのだから、並みの政府でも見過ごすわけには行かない光景である。
   まして、アウンサン・スーチーさんを軟禁し続け、世界の世論など完全無視して、恐怖政治を敷いて国民を弾圧して続けている軍事政権であるから、人権などと言う観念そのものが欠如しており、人命尊重などと言う前に、邪魔者はすべて抹殺せよという価値観しかない筈である。
   それに、常軌を逸した非常事態宣言下である。

   ビルマ側は、観光ビザで入国したのが間違いで、取材するなら然るべき手続きを取れといっていたらしいが、勿論、許可される筈はなかろう。

   来年は、北京オリンピックだが、中国政府が一番恐れるのは、その時点で世界の目が中国に集中し、世界中のジャーナリストが参集するので、国内に混乱や不祥事が起こることである。
   治安維持と称して国内に強力な報道管制を敷き、不満分子による暴動やデモなどが起こらないように必死になって治安対策を図るはずである。
   選挙さえ認められていない民主主義には程遠い国であり、官僚の腐敗は極に達しており、地方格差については目を覆うばかりだと言う。 

   話が脇道にそれてしまったが、治安が良く安全で安心な日本と言う国に住んでいる日本人は、一歩外へ出ると全く別な世界が存在し、絶えず危険に曝されているのだと言うことが殆ど分かっていないと言うことを書くつもりであった。
   危険と言う前に、日本人の感覚でものを考えると間違ってしまう、日本での常識なり慣習が通じなくなってしまうと考えた方が早いかも知れない。
   横浜の男子学生がイランで誘拐され、若い女性がオーストラリアとタイで殺害されたと言うニュースが最近入ってきていたが、大体、日本の田舎を歩くようなつもりで一人旅をやっていたのだろうと思う。

   ロンドンに住んでいた時、オペラやミュージカルなどが跳ねて帰る途中に、良くソーホーやウエストエンドの繁華街の怪しげなバーやナイトクラブに、キャーキャー嬌声をあげて入って行く若い日本女性観光客を見かけることがあった。
   一緒に居たイギリス人の友人が、危なくて見ておれないと言って眉を顰めていた。
   何でも見てやろうとか、地球の歩き方、と言った安易な外国へのアプローチが、安心安全な筈の欧米でも、日本人観光客の危険を増幅していると言えなくもない。
   駅前留学のNOVAでいくら異文化交流で英語を学んでも、外国そのものが分からなければ、どうしても自分の経験と勘、すなわち日本人的な感覚でものを考えようとするのでそれが邪魔をすることになる。
   どこも日本と同じだと考えて行動してしまうのである。
   自動小銃を構えて武装した兵士が立ち並ぶゲートを通って飛行機に乗ったこともあり、色々なことがあったが、注意に注意を重ねてきた。一泊以上した国が40カ国以上にもなる筈の私でさえ、いまだに、日本人そのものなのである。

   全く檻の中の動物のように、日本の航空機で飛び、日本系列のホテルに泊まり、日系のみやげ物店に行き、後は、バス旅行主体で殆ど自由行動のない雁字搦めのスケジュールのパック旅行なら安心なのであろうが、これでは外国旅行の意味がないと、一寸慣れてくると自分で動き始める、これが危ない。
   国際経験と国際感覚がなければ、よほどの動物的な勘と嗅覚の持ち主でない限り、平和で安全な国の住人・日本人には、外国での一人旅、一匹オオカミのビジネスは、無理なのである。
   年末年始の日本旅行者の海外ラッシュ、無事を祈るのみである。
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近代ヨーロッパの女像

2007年12月26日 | 生活随想・趣味
   ひょんなことから、ノエビアから、素晴らしい画集「女像JOZO」を頂いた。
   この本は、1994年に、ノエビアのメセナで、講談社から出版された美術書だが、ルネサンスあたりからアングルくらいまでの時代のヨーロッパ絵画に描かれた素晴らしい女性像、それも全体画像ではなくて、顔などの主要部分のみをB3サイズの大画面の撮り下ろし写真で集めた本格的な画集なのである。
   掲載作品の大半が、欧米の有名な美術館所収のものなので、その殆どを、私自身が実際に見ており、非常に興味深く鑑賞させて貰った。
   とにかく、美しい顔、美しい姿を画家達が追求し続けてきた多くの美の結晶が、191点集められているのである。

   一番最近に見たのは、イギリスのナショナル・ギャラリーにある諸作品だが、レオナルド・ダ・ヴィンチの「岩窟の聖母」のキリストに寄り添う天使の優しくて美しい横顔がこの本の表紙になっている。
   同じ絵の中の聖母マリアの画像もあるが、このように詳細をじっくり身近に眺めるとやはりダ・ヴィンチは素晴らしいと思う。
   この本のダ・ヴィンチの絵で、まだ見ていないのは、クラクフ美術館の「白貂を抱く婦人」だけだだが、残念ながらポーランドへは行く機会がなかった。

   ところで、長い間、ダ・ヴィンチの作品だとばかり思っていた「貴婦人の肖像」が、先年、ミラノのアンブロジアーナ美術館に行って、ジョヴァンニ・アンブロージオ・デ・プレディスの作品であることが分かった。
   この本でも、ダ・ヴィンチの作品と記載されている。最近になって、ダ・ヴィンチの作品ではないことが確認されたのであろう。
   イサベラ・デ・デスティの肖像のようだが、左を向いた横顔だけの小さな貴婦人像なのだが実に美しい作品で、ダ・ヴィンチ風の作品と言う注釈がついており、この美術館でも至宝扱いである。

   モナリザやゴヤの2点のマハ像など見慣れた絵画が、体の顔中心の上体だけと言う絵を見ると大分印象が違ってくるが、巻末の説明部分には、画像全体のモノクロ写真がついている。
   しかし、顔を強調した多くの画像を一挙に見るのだが、案外、私自身が美女だと思える女性が以外に少ないのにビックリしてしまった。
   やはり、美術館では、絵の中の全体像の中で、その女性像の魅力を感じ取っていたのであろうけれど、実際には、画家は美女を書くつもりはなかったのではないかと思う。

   今、六本木で展示されているフェルメールの絵画であるが、「牛乳を注ぐ女」は、1973年始めてアムステルダムに行った時に、アムステルダム国立美術館で見て感激して、それからフェルメール行脚が始まった。
   オランダに3年間、それに、ロンドンに5年間住んでいたので、この牛乳を注ぐ女を何度見たであろうか、フェルメールが殆ど動かなかったデルフトにもフェルメールの面影を求めて何度も出かけた。
   フェルメールの作品は30数点しか残っていないが、25以上の作品はどうにか見てまわったが、まだ、少し残っている。
   この本には、フェルメールは6点掲載されているが、やはり、素晴らしいのは、映画にもなった「青いターバンの少女」だが、映画では、ターバンではなくて、真珠の耳飾りの方に主題が動いているのが面白い。
   
   私は、ティツィアーノの絵が好きであった。
   この本には、「マグダラのマリア」と「鏡を見るヴィーナス」しか載っていないが、亀倉雄策氏と木島俊介教授の編集なので、その趣向が反映されているのであろうが、女像であって、美女ではないところに意味があるのかも知れない。

   私は写真を撮るので、絵画よりは彫刻の女像の方に興味がある。
   欧米の博物館や美術館は写真撮影を許可してくれるところが多いので、四方八方から沢山撮ったのは、ルーブルの「ミロのヴィーナス」と、ベルリン美術館の「ネフェルティティ胸像」、そして、ローマのボルゲーゼ美術館の大理石の男女ペアの彫刻などである。
   ネフェルティティ像など、紀元前1354年頃だと言うのだが、極彩色の色彩が残っていて実に瑞々しい美しい作品である。
   絵画の場合の写真は、撮る場所によって画像が歪むのと、画面が方向によって反射するので、あまり良い写真が撮れないのだが、思い出になるので、許可されれば撮る事にしている。
   後で見ると細部が分かったり、意外な発見をすることもあり面白い。
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欧米のクリスマス・イルミネーションの思い出

2007年12月25日 | 生活随想・趣味
   この口絵は、ニューヨークのロックフェラーセンターの今年のクリスマス飾である。
   GEの広報によると、電球3万個はすべてLEDで、電気は、背後のロックフェラープラザ45に設置された363枚の太陽電池による太陽発電で賄われていると言う。
   時代も変わったもので、やはり、地球温暖化の影響であろう。
   アメリカはブッシュ政権の方は煮え切らないが、民間や地方自治体など下からの環境保全運動が動き始めており、、クモよりも、頭はなくても自由に機能するヒドラの方が強い時代であるから、良い傾向なのであろう。

   バチカンのローマ法王ベネディクト16世が、サンピエトロ広場での恒例のクリスマスメッセージで、世界規模での環境破壊の深刻さについて警鐘を鳴らした。
   ところが、日本では、やはり、悲しいかな、体制派べったり業界シンパの人間もいるもので、最近、「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」とか言うペーパーバック本が売れているようだが、こと環境破壊問題、地球温暖化問題に限っては、誤解ウソ大いに結構で、行き過ぎくらいでないとダメであって、サステイナブルな地球環境保全運動には、迎合すれば迎合するほど良いと、私は考えている。

   ニューヨークには結構出かけているが、まだこのクリスマス飾は見たことがない。
   ロンドンのトラファルガー・スクウエアーの巨大なモミの木は、北欧から送られてくるようだが、この方は、私がロンドンに居た頃には、非常にシンプルでよかったと思っている。

   最近、わが千葉の郊外でも、民家の庭に場違いと思えるほどの派手なクリスマス飾が設えられて夜の雰囲気を変えている。
   不思議なもので、一軒がやり始めると次から次ぎに近所で広がり賑やかになる。
   悪くはないが、元々、キリスト教や欧米の風習に縁がない人達の飾りつけなので、商業ベースに乗って煽られたデコレーションなりイルミネーションなので、一寸首をかしげるような飾り付けもある。
   全く関係のない日本人が、クリスマスケーキを楽しむのなどもう日本の歳時記のようになってしまったが、キリスト教徒から見れば、欧米のオペラ劇場で演じられている和装の外人歌手のプッチーニの蝶々夫人のように見えている筈である。

   私が、民家の庭のクリスマス・イルミネーションが、美しいなあと始めて思ったのは、1972年にフィラデルフィアで、院生として勉強していた頃であった。
   大学のキャンパス近くやフィラデルフィア市内だけだったが、どこの家にも夫々趣向を凝らした飾り付けがなされていて夜になると美しく点灯されて夜の闇を輝かせていた。
   庭には、キリスト誕生の馬小屋の風景や色々な逸話を物語にしたセットなどの飾り付けがなされていて興味深かったのを覚えている。
   わがキャンパスの高層アパートの窓にも思い思いのイルミネーションをしている部屋もあった。
   勉強勉強と単純な生活に明け暮れていた頃でもあり、冷蔵庫の底を歩いているような極寒のフィラデルフィア生活でもあったので余計にクリスマスイルミネーションが印象的に映ったのかも知れない。

   ところが、私の記憶では、ヨーロッパに移り住んでからは、あまり、民家のクリスマス飾の記憶はない。
   オランダのアムステルダムでもイギリスのロンドンでも、アメリカのようにどこの家庭でもといった飾りつけはなく、あってもちらほらと言う感じで、ヨーロッパでは飾り付けをしないのかと思ったような記憶がある。

   しかし、街の中は結構クリスマスデコレーションには力を入れるようで、ロンドンなどリージェント・ストリートのイルミネーションは毎年趣向を凝らしており、何よりもショッピング・ストリートの名だたる店のショウウインドーの飾りつけは、人々の注目を集め楽しみにしている人が多い。
   ハムリーズの前には、子供たちが群れており、綺麗に飾り付けられた小舞台のようなショウウインドーの中で人形や動物のぬいぐるみたちが踊っていたのである。

   ところで、日本の年末年始の街頭風景だが、私が子供の頃はクリスマス前にはどこの街角からも派手なジングルベルの音楽ががなりたてており、年末には、秋葉原のアメ横のようなに賑わいがあったが、最近では、殆ど街全体がシラーットして季節感がなくなってしまった。
   時代はどんどん移っているのである。
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都会に住むか田舎に住むか・・・地方格差の拡大

2007年12月24日 | 生活随想・趣味
   本日、日経朝刊に「都市と地方の暮らし」調査が掲載されていた。
   町村住民の8割が格差があると認めていると言う。
   私は、これまで、世界中の色々な所を歩いて来たが、よくもこんな所で人が住んでいるなあと思うような経験をしたことがいくらでもあるのだが、住めば都とはよく言ったもので、やはり自分が住んでいるところが一番良いと思うのは正直な実感である。
   外国に居た時も、フィラデルフィアに住んでいた時にはフィラデルフィアが、サンパウロの時はサンパウロが、ロンドンの時はロンドンが、遠くから帰って来た時などは、我が家に着くとほっとして幸せを感じていた。
   帰巣本能とはそう言う事なのか、とにかく、マイホーム、マイホームタウンが一番良いのである。
      しかし、世の中がフラット化して、世界情報が自由に行き交い、あらゆる情報や知識が充満してくると生活や住環境などの格差が歴然としてきて、心中穏やかではなくなって来る。
   まして、自分たちが住んでいるところが、どんどん過疎化して寂れてくると、心配になってくる。
   一頃、忙しく全国を回って仕事をしていたことがあったが、行く度に、駅前の商店街が寂れ、殆ど日中でも人通りがなくなっている地方の可なり大きな都市を知っているが、仕事がないので人々が離れて行き年間1万人ずつ人口が減るのだと言っていた。
   東京に居ると、新宿や渋谷のように毎日人で溢れている光景が当たり前だと思う人が多いが、地方へ行くと殆ど人を見かけることがなく、県庁所在地の都市でも非常に人通りが少なくてその過疎さ加減にビックリすることがある。
   この辺の事情を全く知らない政治家や役人が日本の政治や行政を行っているのだから、地方格差の深刻さは殆ど分かっていないと思われる。

   いくら、その土地が良くても、産業が衰退して、魅力がなくなり、人口が自然減以上に減ってくると、その地方は疲弊する一方となる。
   農業政策の失敗で、地方の農家がどんどん衰退して行き、限界集落が多くなっていると言うから、昔のような農村風景は消滅してしまうのであろう。
   人と自然との溶け合った田舎の姿は、どんどん消えていってしまい、寅さんの世界のような懐かしい風景は昔語りとなってしまう。

   このままほって置けば、自然の法則で、便利な都会地にどんどん人口が集中して行き、地方格差が益々拡大して行くのは、避けられなくなってくる。
   地方が、魅力を取り戻すためには、どうすれば良いのか。
   私は、やはり、人間の生活基盤は仕事であるから、地方の産業が成り立つような国家政策を打つ以外に方法はないと思う。
   同時に、世界の国でも日本でも全く同じで、巨大企業など産業を呼び込むことが必須で、そのような政策地盤を構築することである。
   それには、極論かも知れないが、一番効果があると思える税制の活用以外にないと思っており、今の地方交付税や補助金の変わりに、活性化すべき地方の所得税など税金を極端に引き下げることである。
   一律と言う訳には行かないと思うが、北海道や沖縄などは、特別地区を設けてフリーゾーンにして法人所得税など特定の税金をゼロにするなど思い切った手を打つべきである。
   その政策が、抜群に魅力的で効果的でなければ中途半端に終わるので、えこひいきになるなどと姑息なことを言うと前に進まない。

   伊藤元重教授は、地方が活性化するために大切な視点が二つあると言う。
   一つは、あるものを活用することで、農業や観光などをもう一度見直して活性化する工夫をすること。もう一つは、同質的な発想から脱却することで、活性化の共通モデルや最適事例がある訳はないので、小規模でも独自色を出して成功する方法を編み出すことだと言うのである。
   世界に名だたる特産品を編み出したり世界有数の観光地になれるならいざ知らず、この程度の施策で地方が活性化するのなら、既に、地方自治体も手を打っている筈だし、逆に、つまらない観光事業に手を出して夕張のように街を潰してしまって財政再建団体となったり破産寸前の自治体となって事態を更に悪化させているケースも多い。
   もう、地方自治体独自の工夫や努力には限界が来ており、抜本的な国家的な規模での強力な政策の実施が求められているのである。

   私は、一線をひいてからは、関西に帰ろうと思って、京都か奈良に近いところで住居を探したことがある。
   しかし、勉強したいことも、し残した仕事も沢山あったし、何かことを起こそうとすれば、東京を離れたらダメだということが分かってきた。
   結局、その地方に、何か特別な関係なり思い入れなどがあれば別だが、何事をするにもチャンスの多い都会地、特に、首都圏に住む方が良いと考えて、千葉に住み続けることにしたのである。
   イギリスに永住権があったので、イギリス在住も考えたが、やはり、東京に何時でも簡単にアクセスできて身近に田園地帯が広がる田舎・トカイナカの千葉にも住み慣れたし、便利で特に不都合もないので移住することは止めた。
   ところで、口絵写真は、かぐやから撮った地球の出だが、このトカイナカからの夜空も、南米のアマゾンやパラグアイの漆黒の夜空の美しさには欠けるが、可なり美しいので満足している。
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ビル・エモットの論点・・・イラクへの派兵と長崎の原爆

2007年12月23日 | 政治・経済・社会
   エコノミストの前編集長で日本経済に非常にユニークな論調を展開してきたビル・エモットの新書「これから10年、新黄金時代の日本」を、積読だったので読んでみた。
   その中の日本に対する論調の中で、2点だけ付箋をつけた。
   一つは、小泉内閣当時にイラクへ自衛隊を派遣したことを、これは日本政府が、世界問題について、当たり前の役割を果たす、その新たな積極性を示す重要なシンボルとなったと高く評価していることである。
   もう一つは、広島への原爆投下は米国の言い分を認めたとしても、その投下が衝撃的な出来事であればこそ、その及ぼした影響を見て日本政府に考え方を変えさせるために猶予を与えるべきで、二度目の長崎への原爆投下は倫理的にも問題とすべきだと言うのである。
   
   まず最初の論点だが、最近では、当たり前の話題になってしまったが、日本では憲法第九条の戦争放棄が人類最高の美徳であるかのように考えられていて、長い間、この点を問題にして憲法改正を唱えることは、日本人の風上にも置けないと考えられてきたし、実質上タブーとして封印されてきたきらいがある。
   私自身は、まず、憲法解釈の問題よりも何よりも、どこの国も自衛権を持っていて、自分の国を自分自身で守れないような国は、国家ではないと思っている。
   したがって、何か国際問題がおきて国家が危機に瀕した時に、自分の国を自分で守るために自由に行動できないような制限のある憲法などどこか間違っているのであって、当然、自分自身で国家を守るための体制は備えておくべきだと思っている。

   一般的に言われているのは、悲しいけれど、これまで人類が辛酸を舐めてきた戦争の多くは、自衛のため、自国と自国民の尊厳を守るための戦争だという美名の下に行われてきたことは事実である。
   しかし、世界政府といった究極の法体制も整っておらず、ならず者国家が存在し、国際信義にもとるテロ行為が頻発するなど世界秩序が安定していないこの厳粛な世界において、果たして、自衛のための態勢なくして国際社会で名誉ある地位を築けるであろうか。
   自衛のための戦争と言う美名の下に戦争を行う危険があるから、一切の戦争を放棄するのだと言うのは、美徳のように聞えるが、そうではなく、自国民を自制心をなくしたその程度の国民であることを認めた極めて卑屈な、誇りも自尊心も放棄した悲しい考え方だと思う。

   まして、日本の場合には、日本人の殆どが、日米同盟によってアメリカに守って貰うののが当然だと思っており、それを疑問にも思っていないし、そのことが如何に屈辱的なことであるかを考えもしないし議論にもなったためしがない。
   核放棄を条件として世界を強請っている国と良く似ていると気付いていないのが脳天気である。
   アメリカには、同盟条約がなければ、日本を防衛する義務も、何の言われもないし、一度、某国が核攻撃を仕掛けてきた時には、アメリカ人自身は、自国の防衛に支障がなければ、東京や大阪の一つや二つ吹っ飛んでも何とも思わない筈である。

   世界の常識は、自分の国を守る態勢がなくて他国に防衛を頼っている国などある筈がないと言うことで、平和憲法を高く評価し自画自賛しているのは日本だけである。
   こんな国を、徹頭徹尾、見下してバカにしているのが国際世論であり、ビル・エモットのように、イラクへ平和部隊を派遣しただけで、やっと日本もまともな一人前の国になったのかと言われているのである。
   ヘンリー・キッシンジャーが、日本が、核兵器を保有し核武装の準備をしていないとするならばそれこそ驚きだと言っていた。核の平和利用が進み月衛星かぐやを打ち上げる国が、その気になれば、ロケットの先端に核弾頭をつければ良いだけだから、いとも簡単なのかも知れないが、そう言う事ではなく、世界に冠たる日本が、それなりの国防力を備えていなければ国家としての存続価値がないと言うことであろう。

   好い加減に、タブー意識を捨てて、日本の防衛のあるべき姿を正面から見据えて、日本の国際社会で世界市民としての名誉ある地位を追求すべきだと思う。
   私自身は、もとより武力に頼った国際問題の解決は避けるべきで、出来るだけ平和外交で処理すべく、日本のソフトパワーの涵養を国是とすべしと願っているが、
   何れにしろ、グローバリゼーションの進展や、地球温暖化など人類の緊急問題を解決するためにも、世界が結束して対処しないと解決しない問題が多く発生し、国のエゴにタガを嵌めざるを得なくなり、この点からの軍事問題に対する有効なカウンターベイリング・パワーが生まれてくるかも知れないという気がしている。

   第二点の長崎への原爆であるが、ビル・エモットは、一度、戦争が勃発すると、かねてから抱いていた倫理観や社会規範を忘れてしまい、それによって慎重さや調和に対する倫理規範が、中断され無視されるといいながらも、二度目の長崎への原爆投下は、全く必要のない人類として許されない非人間的行為だと糾弾している。
   私は、全く同感であるが、これまで、アメリカの友人たちに対して、機会あるごとに、広島も長崎の原爆も絶対に許せない、アメリカの罪は、ヒットラーやスターリンより遥かに悪辣な人類に対する最悪の罪であると言い続けてきた。
   
   余談だが、正しいと思うことを正々堂々と真正面から言うと欧米人は聞いてくれて、一目置いてくれるのを何度も経験している。
   日本人は、素晴らしい素質を持ちながら、沈黙は金といった文化で育っていて、シャイだと思われていると思っているが、欧米人、否、他のアジア人でも、自分の主張を持って発言しない人間は、馬鹿だと思っている。
   日本の外交を見ているとイライラするが、何も、恐れることはない、正々堂々と自論を展開すべきである。
   拠出金第二位の日本が、それなりの地位も発言権もない国連などは、屈辱の最たるものだが、六カ国協議での最低の地位と役割しかない日本の体たらくは、救い難いと言う他ない。
   
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国立劇場十二月文楽・・・新版歌祭文

2007年12月22日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   私が子供の頃、東海林太郎と言う歌手が直立不動の姿勢で「野崎参りへ 屋形船で参ろ お染久松 切ない恋に・・・」と歌っていた。
   この場面が、新版歌祭文 野崎村の段の幕切れで、久松は籠で土手道を、お染は屋形船に乗って川を下って大阪へ帰って行くところである。
   最後には、お染久松は心中を図るのだが、この時は、お染久松は、悲恋ではなく、在所の許婚お光が久松との結婚を諦めて尼になってしまい、許された恋路なので二人ともハッピーな筈である。

   ところで、この野崎参りは、落語にもなっていて、寝屋川を舟に乗って行く客(ここでは、喜ぃ公と一寸イカレタおっちょこちょいの清ぇやん)が、土手を歩く客に口喧嘩を売る話になっている。
   野崎観音で春と秋の無縁仏回向の法会が行われる祭礼時の野崎参りに、陸と川からお互いに口喧嘩をして勝てば運が向くという奇習・悪口祭があり、これを引いた話である。
   喜ぃ公の喧嘩指南を清ぇやんが上手くオウム返しに返せず、ハチャメチャの受け答えをする似ても似つかぬ馬鹿話で、桂枝雀の語りだと言う。

   今回の舞台は、「座摩社の段」と「野崎村の段」である。
   手代の小助(勘十郎)達に集金した売掛金の一貫五百目を騙し取られた丁稚久松(文司)が、養い親の久作(玉也)の元へ返される。
   久松の思いがけない帰宅で、久作が念願の許婚のお光(清之助)との結婚話を一挙に進める。病床のお光の母(玉英)も喜び、お光も有頂天になるが、そこへ、久松恋しさに、野崎参りに託けて、お染が、久松を訪ねてくる。
   一切を知ったお光が身を引いて尼僧姿の花嫁衣裳で登場し、お染久松の恋を許し、娘心配で後を追ってきたお染の母お勝(亀次)に伴われてお染たちは大坂へ帰って行く。

   今回の舞台での主役は、お染久松ではなく、お光で、前回は、簔助が遣っていて、非常に感動的な舞台を魅せて貰った。
   悪辣な小助に、主人の金を遊女狂いしてちょろまかしたによって連れ帰ったと言われて帰ってきた久松を迎えた久作は、黒谷本山への冥加金として貯めた金を小助に渡し、これ幸いと、お光との祝言を決心する。
   義父と母のために甲斐甲斐しく立ち働いていた田舎娘のお光の体全身から迸り出る嬉しさと恥じらいの表情を、清之助は実に丁寧に優しく遣う。
   こんなことなら今朝あたり髪を結うておこうものを・・・といそいそするのも、ほんのつかの間、お染が訪ねて来る。

   この口絵は、お光が手鏡をかざして戸口のお染を覗き見るシーンで、言葉つきと垢抜けした姿かたちで常々聞いているお染と悟り、これからお光の嫉妬心と狼狽ぶりが始まる。
   お光が許婚だと知らないお染が土産代わりにと渡した小金を投げつけたり箒で戸口を突付いたり、お光の嫉妬振りが意地らしいが、父と座敷に戻ってきた久松に当てこすり喧嘩を始めたので、さあさあ花嫁の用意をと父がお光を奥に誘う。
   間髪を居れずに、待ちかねたお染が、部屋に駆け込み久松にすがり付いて、添われぬ時は死ぬると言う誓詞どおり殺してと訴える。二人は死を決心する。

   久作が道理を説いて祝言することになるが、すべてを知り、二人が死ぬ覚悟で居ることを知ったお光は、島田まげを根から切って尼姿で出てくる。
   「何も言うて下さんすな。・・・嬉しかったのはたった半時、無理にわたしが添おうとすれば、死なしゃんすを知りながら、どうして杯がなりましょうぞいな。」
   久作も、久松も、世間の義理から祝言を挙げるようとし、お染も認めるが、お染久松は目配せして死ぬ覚悟を確認しており、久松を想うお光は、そのことを痛いほど身に沁みて知っている。自分さえ犠牲になればと身を引くお光のたった17歳の心意気と犠牲の心が胸を締め付ける。
   久松一途で、一直線のお染、しかし、愛するがゆえに諦めて、犠牲の中に一縷の救いと幽かな光明を見出そうとするお光の、世の中が移り変わっても色あせぬ美しい心が観客を魅了し続けて来たのであろう。
   死のうとするお染久松を、お光に感動して必死に止めようと説得する父久作。最後まで何も知らずに娘の祝言を願い喜んだ母が娘の変わった姿と来世を願った杯に気付いての嘆き。
   切羽詰って死のうとするお染久松に、三人ながら見殺す気か、サアサアサア・・・と迫る、竹本文字久大夫の浄瑠璃と野澤錦糸の三味線が感動を呼ぶ。

   このお染久松の心中は実話で、直ぐに歌祭文が現れた。
   しかし、このお光は、この新版歌祭文で登場した架空の人物であり、勿論、野崎村の話も作り話であるが、義理と情けと恩愛に泣く主人公を、田舎娘のお光に託した筆の冴は、さすがに近松半ニである。
   最初から最後まで、お光は、俗に言う田舎娘ではなく、折り目正しいしっかりとした娘として描き抜かれているのが素晴らしい。
   私は、清之助のお光が、実に初々しくて甲斐甲斐しい半面、堂々とした一人の女として舞台を張っている姿に感激して見ていた。美しい、そして、実に女らしい。

   この舞台で、もう一つ目を引いたのは、いけ好かない悪人小助を遣った勘十郎の芸である。
   今、人間国宝を除いて、立役と女形を最高の水準で遣える両刀使いは勘十郎であることは間違いないと思うが、この何とも言えない厭な小悪党を実に憎々しく演じていて、こんな奴が周りにも結構居るなあと嫌な気持ちを感じて見ていたのだが、芸とは、リアルで上手くやれば良いというものでもないのかも知れないと思った。

   
   

   
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カワセミの憩う千葉のトカイナカ

2007年12月21日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   午後の3時頃に、川辺に出かけると、時々、水面を勢いよく横切って飛んで行く鳥がいる。
   大抵は、カワセミかハクセキレイである。
   セキレイは、川面や岸辺の水際を器用に綱渡りしながら歩くが、カワセミは、岩や木、岸辺のどんなところでも川面が良く見えるところに留まる。
   どちらも小さいので、カワセミなどは、細い梢やブッシュの小枝などにも留まるが、枝が少したわむ程度で実に軽やかである。

   これまでは、川面に突き出た杭や岸辺の柵などに留まって川面を伺っていたが、この日のカワセミは、川面をミギヒダリと小刻みに草や小木の枝を移動しながら魚を捕っていた。
   素早く飛び去り、遠くに飛んで行くと、草叢に紛れて見失うので、動くのを待って後を追うのだが、近くに留まっているのは極短時間である。
   しかし、人間には比較的無頓着なので、運良く近くに止まると可なり近付いてシャッターを切れるのだが、如何せん小さな鳥で、川の対岸まで距離があるので、手持ちシャッターでは、中々シャープな写真が撮れない。

   陽の光が反射する水面の反対側に回って、ジッと水面を眺めていたかと思うと、マッ逆さまに一直線に水の中に飛び込み、小魚を捕らえて、又小枝に戻って一気に飲み込む。
   川面を飛ぶのも早いが、魚を捕る時の素早さは、目にも止まらぬ早業と言うところで、飛び込んだと気付いた瞬間にもう外に飛び出している。
   水が澄んでいて良く見えるので、魚がどこにいるのか分かるのであろうが、反対側から見ている私には、きらきら光る水面しか見えない。

   カワセミのメスは、嘴の下の方が赤いと言うから、私の見たこの口絵写真のカワセミはオスである。
   カワセミは鮮やかな青い背中をしているが、実際は青ではなく、シャボン玉の表面の色のように光の加減で青く見える構造色だという。
   私には鮮やかなコバルトブルーに見えるのだが、確かに、カワセミを漢字で表示すれば翡翠と書くように、光加減によっては緑色のヒスイ色に見えることがある。
   しかし、頭から背中、羽が鮮やかなブルーで、特に背筋は明るいコバルトブルー、腹部は綺麗なオレンジ色で、足は真っ赤。それに、黒い目の前後は、オレンジ色でその後が白、あごの下の真っ白な模様が蝶ネクタイ、とにかく、神様がお創りになったデザインは実にユニークで美しいのである。

   今年は、何故か、引っ切り無しに庭に来て、ムラサキシキブの実を啄ばんでいたメジロが、最近一羽も訪れて来なくなった。何か異変があったのであろうか。
   ムラサキシキブを啄ばんでいるのは、大きなヒヨドリである。このヒヨドリだが、昔は山の中で見かける鳥のようだったが、今では、民家の庭を訪れる一番ポピュラーな鳥になっているが、小さなワビスケ椿の花に嘴を突っ込んで蜜を吸っている。
   このような留鳥は日本に住み着いているから良いとして、地球温暖化が進むと、北から飛んで来て私の庭を訪れる渡り鳥であるツグミやジョウビタキのような冬鳥は来なくなるのであろうか。

   年賀状の写真に、これまでは、主に椿などの花の写真を使っていたが、今年は、趣向を変えてカワセミに代えようかと思っている。
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悪化一方の地方医療をどうするのか

2007年12月20日 | 政治・経済・社会
   久しぶりに穏かで温かい日の午後、外出から戻ってまだ明るかったので庭に出て庭仕事を始めた。
   2週間ほど前に、同じ様に庭仕事をしていて、ブロックで手を挟んで小指を怪我したのであるが、それもどうにか落ち着いてきたからでもある。
   何故こんなことを書くかと言うと、先日、TVで全国の長生きの県別順位を発表していて、男の場合に東京が上位にランクされていたのだが、これは、医療制度が整っているからだと思ったからである。

   と言うのは、小指を怪我した当日、何時間経ってもどうしても血が止まらなかったので、土曜日の夜遅く、救急病院に行って手当てをして貰ったのである。
   電話を架けて行っても良いかと尋ねたら、今、手術中ではないので直ぐに来いと指示を受けたので、その言葉に甘えた。とにかく、地方格差の進行で無医村や、必要な医者や看護士のいない病院がどんどん増えているにも拘らず、私の場合には、トカイナカであるけれど、幸いにも至近距離に、大学付属病院があり、何時でも医療サービスを受けられる状態になっている。

   余談ながら、小指の傷だが、30センチ四方の重いコンクリート・ブロックに圧殺された形で、爪が離れただけだと思っていたのが、実際には、爪に肉がついたまま肉離れして浮いてしまっていたので、血が止まらず痛かったのである。
   江戸時代に、爪剥がしの拷問があったと言うのを思い出したが、飛び上がるほど痛くて、その痛さが5分間くらい止まらず、その後、血がぼたぼた落ち始めた。
   化膿しなければ良いがと言われて、破傷風の注射を打ち薬を貰って月曜日に来いと指示を受けて帰った。たとえ、小指でも、時間外に緊急医療サービスで専門家の手当てを受けられたのは幸せと言う外はない。

   話を元に戻すが、私など、海外が長く、世界各地を、それも時には文明にも文化にも程遠いところで過ごしたこともあり、あっちこっちで、大事には至らなかったが病気にかかって入院したり、色々な所で医療サービスを受けてきた。
   手術を受けたのは、東京なのが、不幸中の幸いでもあった。しかし、高血圧の薬を飲んで結構長いし、何れにしろ、十分な医療サービスが受けられなかったら、昔なら命を落としていても不思議ではなかったかも知れないと思っている。
   そう言う意味でも、医療施設に恵まれた東京人が長生きするのは当然だと思うのである。

   日本の場合には、国民皆保険と言うか、国民全員が、優良な医療サービスを受けられる制度が、世界的にも比較的良く整っていると思うのだが、欧米の場合には、医療の沙汰も金次第と言った状態である。健康保険の民営化は進んでいるが、金持ちは優良な医療サービスを享受できるが、貧しい人々にはその恩恵がとどかないケースが多い。
   今回の大統領選挙で、民主党が勝つと、それも、ヒラリー・クリントンだと、健康保険の大改革を行うであろう。アメリカでは、国民の数十%は保険に入っておらずまともな医療サービスなど受けたことがないのである。

   ところで、同じ千葉でも、まともな医療体制の整っていない市町村はいくらでもあり、私など、阪神間や、大阪、東京など便利な都市圏に暮らした経験しかないので、いざと言う時に、医療サービスを受けられないような所に住んでいたらどうしようかと思う。
   尤も、私の場合にも、海外出張途中、何度も傷みを堪えて回復を待ったことがあり、どうにかこうにか、自然に治ったり、医療サービスを受けられる所まで耐えて事なきを得たことがあり、人間の体の自然治癒力が可なりあることを経験して知ってはいる。
   しかし、一般的な地方格差の拡大以上に、医療格差はもっと深刻で益々拡大していると言うのは由々しき問題であり、抜本的な対策を取らないと大変なことになる。まず第一に、憲法第25条「すべて国民は健康にして文化的な生活を営む権利を有する」の条文に反する。

   
   政府の今のような対応なり考え方では、郵政民営化と同じで、益々、地方切捨てと言うことになろう。
   何故なら、郵便局は、政府の仕事であったから、全国津々浦々同じ質のユニバーサル・サービスが出来た訳だが、民営化と言うのは、自分自身で経済原則に基づいて収支を合わせて経営せよと言うのであるから、金にならない非効率な地方業務等は切り捨てよと言うことである。そうでなければ経営が成り立たないし、そのことは、地方の交通体制を壊滅させた国鉄の実例が如実に示している。
   民営化とか、私企業の経営とかと言うのは、鳴り物入りでCSRや経営モラルや企業倫理の高揚を声高に叫ばない限り、社会の厚生福利や国民の幸せの為に自動自立的に働くなどとは、経済原則で動く以上絶対にあり得ないのである。

   私は、政府が行っている地方交付金や補助金と同じで、政府自らが、地方に専門家を含めた医療システムを、行政命令で、交付ないし派遣すべきであると思う。
   地方大学の医学部出身の医者が殆ど東京など都会地へ出向いて地方に残らないと言われているが、こと医療に関しては、日本の場合は、経済原則を優先すると、益々、地方格差が拡大して取り返しがつかないことになる。
   あまりにも、程度の低い厚生労働省なので、言いたくはないが、敢えて邪道を言えば、医療制度こそ政府の介入をもっと強くして、強力な政策を打ってユニバーサルサービスを目指すべきだと思うのである。
   そうすれば、健康保険制度の抜本的解決も可なり図れると思われるのだが、どうであろうか。
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経団連の税制改革・・・法人所得税ダウン・環境税ノー

2007年12月19日 | 政治・経済・社会
   日本の法人所得税は、国際水準から見ても非常に高く、国際競争力を維持するためにも、法人税の実効税率を引き下げるべきである。
   法人所得の実行税率が、アメリカとほぼ同じ程度の40%前後だが、ヨーロッパの国々から比べると非常に高い水準で、日本への外国投資が異常に低水準なのは、この税金の高さが大きく影響している。
   逆に、付加価値税率は、世界最低の水準で、EU理事会指令に基づくヨーロッパ各国の15~25%と比べれば非常に低い。
   従って、法人所得税を引き下げ、消費税を引き上げることによって、直間比率を見直すなど、欧米並みに税制を正常化すべきである。
   こんなことを言ったか言わなかったか、税制については疎いので、経団連井上隆氏の新日本法規出版(株)でのセミナー「平成20年度税制改正の展望と今後のわが国税制のあり方」を聞いて、そう言っているように聞えた。

   もう一つ気になったのは、環境税に対してで、ガソリン価格と消費量の推移を示して、税の効果は極めて疑問だとして、環境税には反対だという。
   環境税をかけて石油価格が上がっても、消費には関係なくペナルティ効果はないと言うことなのであろうが、課税すれば、環境税の無い近隣諸国へ生産拠点が移動し、エネルギー効率の悪い生産が増大する懸念があるとのたまう。
   企業の社会的責任の追及を声高に叫び、CSRだCSRだと騒ぎ立てている経団連が、バカな発展途上国に出かけて公害を垂れ流してコストを削減するぞとヤクザまがいの脅迫をしているのである。日本で禁止されている事を、弱い国に行ってやるなどと言うのは言語道断だが、そんな気持ちで海外進出しているのか、その志の低さに呆れるが、これが経団連と言う団体だとすると、今後の発言に注意しなければならない。

   また、産業界は経団連自主行動計画により、CO2排出量90年比以下と言う目標を5年連続達成中で、更に、業界ごとの目標を上積みして努力強化していると言って環境自主行動計画を示しているのだが、90年の51,203万tに対して、例年51,000万tぎりぎり。11.9%生産増にも拘らず、技術革新などによって目標をクリヤーしており、2010年も目標を達成できると言うのだが、京都議定書の日本の削減目標はマイナス6%であり、自主目標などと大乗段に構えるのなら、10%以上は削減すべきであろう。
   もうこれだけで、京都議定書の約束が守れないことが分かる。

   先頃、来日したIPCCのパチャウリ議長が、日本も、ヨーロッパのように国家的な総量規制やキャアプ・アンド・トレード、環境税の導入など前向きに取り組んで欲しいと懇願していたが、要するに、環境問題で日本をリードするべき経団連が、現在のような消極的で頑な態度を取っている限り前に進むはずがない。

   「今後のわが国税制のあり方」と言うセッションで、井上隆氏が説明した部分で、気になったことを、これまで書いて来ただけだが、法人所得税が高いから外国資本が日本に投資しないと言う言い分にも疑問なしとしない。
   確かに、税制構成比の国際比較では、法人所得課税が、欧米の10%前後に比べて27.7%と異常に高いし、唯でさえ税金にセンシティブな欧米企業の最も気にする所で、大いに問題だと思われる。
   しかし、外資を嫌う日本人の性向や産業界の対応、政治や国家体制などトータルでの経済社会環境などが大きく外資の投資意欲を削いでおり、イギリスのようにウインブルドン現象大いに結構と外資に門戸を完全にオープンしない限り、今のように魅力がない状態では、多くを期待できないと思われる。
   現状を続ける限り、筋の悪いハゲタカファンドが跋扈し、産油国やBRIC’sなどの強大な国家ファンドが日本企業にM&Aを仕掛けてくる心配の方が大きいと考えられ、日本の経済社会体制をインフラごと改革して、良質な外資を受け入れられる態勢を整えずに、外資導入を騒いでも無理である。
   外資導入の為に法人所得税の引き下げと経団連は言うが、どうも”敵は本能寺”のような気がして仕方がない。
   

   
   
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食品偽装の対極にある販売可能期限厳守のクッキー会社(アメリカ)

2007年12月18日 | イノベーションと経営
   年初の不二家に始まり、ミートホープ、白い恋人、赤福、比内地鶏、船場吉兆、御福餅、それに、そうめん、名古屋コーチン、うなぎ、ブランド米、霜降り馬刺し等々、次から次へ食品偽装事件が発覚し、悲しいかな、清水寺の今年の一字は「偽」となった。
   しかし、国民は、「けしからん。政府は何をしているのだ!」と声高に騒ぐけれど、何れも騙されたという程度で、実際には命に別状がないので、至って反応は鈍い。

   本当は、もっと深刻なのは、自給率39%の日本の食糧安全保障の問題である。
   中国の食品の管理はなっていないと言って文句を言っているが、現実に黄河が断流するなど中国の水事情が極めて悪いことを考えれば、早晩、中国から食料の輸入は困難となり、アメリカからもオーストラリアからも十分に入らなくなってくるのも時間の問題である。入ってきても、異常な高値で買えなくなるであろう。
   現に、地球温暖化による気候条件が変化してあのオーストラリアのような旱魃や世界各地で起こっている飢饉等で食糧供給が悪化すると、真っ先に深刻なダメッジを受けるのは日本である。
   石油はなくても辛抱できるが、食料はそうは行かず、戦中戦後の悪夢が再び蘇って来る。

   アグネス・チャンが、この地球上において、24億の子供の内、11億の子供が飢餓線上で死地を彷徨いながら生活しているのだと言っていた。飽食天国日本では、考えられないことかも知れないが、我々の孫の時代にはそうならないとは言えない。
   国民年金も拉致家族の問題も極めて大切だが、バカな為政者の発言の揚げ足を取って、それを天下の御旗にして政争に明け暮れている日本の政治の貧困さ、それに、世界中の為政者や政治家が地球温暖化対策に目の色を変えて奔走しているのに、殆ど何の反応も示さない日本の政治家たちの志の低さお粗末さは、どこから来るのであろうか。

   今回、私が問題にしたかったのは、そんなことではなく、商品偽装に絡んで、アメリカの素晴らしいパンやケーキ、クッキーの製造販売会社である”ダンシング・ディア・ベイキング・カンパニー”の話である。
   これは、ドナ・フェン著「アルファドッグ・カンパニー」に紹介されている話で、この本は、中小企業だが、群れの先頭を行くリーダー犬Alpha dogsとも言うべき極めて革新的で創意工夫に富んだエクセレントカンパニーを紹介し、その成功の秘密が解き明かした非常に面白い経営学書である。
   興味深いのは、ローテクでオールドエコノミーに属する極在り来りの商売で業績を上げていることで、イノベーションとは何かを雄弁に物語っている。

   ボストンの主婦の素晴らしいクッキー造りから始まり、ナショナルブランドを目指してひた走り、ブランドの構築とブランドの価値の維持管理を徹底的に追求している会社である。
   販売店には、ブランドを良く理解するだけではなく、お互いに取り決めた短い販売可能期間を常に管理することを約束させて契約している。
   カタログ通販と小売り大手のウィリアム・ソノマから、売上の半分に相当する大量の糖蜜クローキークッキーを販売期限4ヶ月で売りたいと言う条件で発注があったが、ブランドを守るために添加物を加えるわけに行かず、新鮮さが保てるのは3週間であったので涙を飲んで断った。
   しかし、ソノマは、ダンシング・ディアとの取引にこだわり、オリジナルのジンジャーブレッド・ミックスを、求めてきたので、これは厄介な店頭販売期限の問題がないので、懸命に考えて中華風のスパイスパウダーを加えたクッキーミックスを生み出し、工夫に工夫を重ねてパッケージを造り、4日で仕上げて見本を持ち込んだ。これが休日限定の定番商品となり大量の取引に繋がったと言う。

   大手DSターゲットから、初の大口注文が入ったが、納品僅かに3週間前に、納品予定のクッキーを冷凍にして欲しいと指示が来た。
   ラベルには”新鮮さをお届け”と謳ってある。ラベルを張り替えて、パッケージが冷凍に耐えるかどうか試験もしなければならない。
   始めての大口取引を棒に振り、その後の取引をすべてふいにするのは分かっていたが、ダンシング・ディアには選択の余地がなかったので諦めた。
   3ヵ月後、この問題をすべて解決して冷凍に耐える商品を持って、ターゲットを訪れて、その後、取引が続いていると言う。

   松坂大輔のいる地元ボストンのレッド・ソックスは、ベーブ・ルース(バンビーノ)をヤンキースに放出してから、80年以上もワールドシリーズ優勝から遠ざかっており(これを「バンビーノの呪い」と言う)、幸運を呼び戻す為に、ダンシング・ディアは、レッドソックスを優勝させる為に、「バンビーノの呪いを解けクッキー」を焼いて売り出した。
   クッキー一個あたり5セントを地元NPO「キッズ・キャン・ドリーム基金」に寄付し、その1800ドルでホームレスの子供たちにバットやグラブを買い与えられたと言う。
   このような、大義名分ブランドが、企業にとって圧倒的な競争優位を作り出すケースもあるが、今度のレッドソックスの優勝でこのクッキーが売り出されたのかどうか。最近は強くなって優勝慣れしているので、既に、別の新ブランド・クッキーが売り出されているのかも知れない。
   これらは、ダンシング・ディアのエクセレントの一面だが、先ほど列記した日本の会社とどこか違っていることは事実であろう。
   

   
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米国:エリートと一般庶民との深刻な分断・・・ジョン・J・ハムレ氏

2007年12月17日 | 政治・経済・社会
   日経・CSIS共催シンポジウム「2008年米大統領選と日米関係の行方」で、クリントン時代の国防次官ジョン・J・ハムレ氏が、基調講演を行い、冒頭で、今アメリカではエリート層と一般庶民との間に深刻な分断が起こっていると語った。
   経済格差や宗教的な考え方等による国民の分断ではなく、言うならば、ニューヨークタイムズを読むアメリカ人と、マードックのFOXテレビを見ているアメリカ人との間の深刻な分断である。

   最近のアメリカは、外交の拙さに加えて軍事に力を入れすぎて、世界の国々から疎外さてて孤立状態にあることを危機と感じて、このグローバル時代の世界においてこそ、世界中から尊敬を勝ち得て賢明なるリーダーに成らなければならないとエリート達は考えている。
   しかし、一般庶民は、グローバリゼーションの進展で、安い中国製品等の台頭で職を奪われ生活が困窮し、多くの移民の流入で生活を脅かされ、そして、テロなど治安の悪化で安全でなくなるなど生活そのものに恐怖感を感じているので、強い大統領に守って貰いたいと希っている。
   誰が大統領に選ばれても、このアメリカ国民の分断について、正面から受け止めて解決を図らなければならないと言うのである。

   この分断と言う問題の根底にあるのは、経済的な問題に限って言えば、急速なグローバリゼーションの進展によるフラット化した経済社会そのものの変質にあると私は考えている。
   先進国と発展途上国との間に、新しい形の国際分業が成立してしまったからである。

   アメリカでは、ローテクやオールド・エコノミーに属する製造業では、どんどん崩壊の危機にあって市場から消えて行き、可なり高度なサービス業でも、中国やインドなどの発展途上国にアウトソーシングやオフショアリング出来る産業では、競争力がなくて大変な被害を受けている。
   たとえ、アメリカに残っているサービス業であろうとも、知的水準の低い、或いは、ローテクであるなど付加価値の低い産業での労働者は、要素価格均等化定理が働いて発展途上国の労働者並みの賃金しか得られないと言う厳粛な事実がある。

   貿易障壁などで、或いは、国際交易がスムーズでなかった頃には、ヒト、モノ、カネの移動が制限されていたが、今日のような瞬時に国際取引が成立する世界では、これらすべての要素が瞬時に平準化してしまう。
   従って、生活水準が高くて国民所得の高い先進国では、高度な技術や知的水準の高いサービスなどを生み出す付加価値の高い産業しか生き残れず、発展途上国でやれるような産業はイノベーションを追求しない限り駆逐されてしまい、知的水準の低い労働は報われなくなると言うことである。

   これはアメリカだけの問題ではなく、現に日本でも同じことが起こっており格差問題として深刻な課題となっている。
   一頃、この格差の拡大は、市場原理主義を取った小泉・竹中経済政策が元凶だと言われたが、どんな経済政策を取っても、WTOの方針に従って自由貿易政策を堅持している限り、遅かれ早かれ起こらざるを得ない現実なのである。

   今やインターネットで世界中が繋がれて、あらゆる知識や情報が瞬時に手に入るフラット化されたグローバリゼーションの世界では、如何に、ヒマラヤの山奥からでも、或いは、赤貧洗うが如くのインドの農村からでも、頭と創意工夫と敢闘精神さえあれば、インターネット一つで、欧米のトップ企業のオープンビジネスに参画して巨万を手にすることが出来るのである。
   日本では、今、子供の学力の低下が問題となっているが、益々知は力なりと言う知識情報社会化が進む世界において、このような世間知らずの軟弱な教育方針を採っている限り、格差解消どころか、先は非常に暗いとしか言えない。

   さて、アメリカの分断における問題だが、世界の趨勢が、情け容赦のない国際分業が進展していく以上、排除されつつある競争力を失った産業については、抜本的な構造改革など産業の再編成を行う以外に道はなかろう。
   駆逐されるに任せておけば、日本の食料需給率39%のように、国家の安全保障そのものを危機的な状態にまで追い込んでしまうことになる。
   また、途上国並みの技術や能力しか持っていない労働者については、再教育・再訓練を含めて、知識・技術をレベルアップするなど、より高い付加価値を生み出せる態勢をとることが大切であろうが、当面は、強力なセイフティネットを構築してフォローアップすることであろう。

   とにかく、ICT革命によって、世界の情報化とグローバリゼーションを引き起こしてリバイヤサンを目覚めさせてしまったアメリカが、自ら、自分自身を改革・革命せざるを得なくなったと言う厳粛な事実を理解しなければならなくなったということである。
   
   
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ブッシュの完全敗北・日本の追従・・・COP13バリ会議

2007年12月16日 | 地球温暖化・環境問題
   COP13バリ会議の最終局面で、アメリカのドブリアンスキー国務次官が、最終文書の中で、発展途上国の約束を明確に取り込むべきだと強く主張し、さらに、先進国が発展途上国に与える支援について、"measurable,reportable,and verifaiable" assistanceの文言を受け入れられないと発言するに至って、途上国の敵意が噴出し、批難ごうごうで、
   パプアニューギニアのケヴィン・コンラッド大使が、「アメリカがリードすることを期待している。もし、何らかの理由でその意思がないのなら、残りの我々に任せてくれ。邪魔するだけだったら、この会場からさっさと出て行ってくれ。」と発言すると会場が大変な騒ぎとなった。
   ブッシュ大統領が進展を妨げないと明言しながらも悉く反対にまわるアメリカに対して、腹に据えかねていた各国代表団の一致した気持ちで、アメリカの同盟国のどこの国もアメリカをサポートしなかった。

   これが、正に、歴史の転換点となり、国際世論の大きな流れをブロックすると如何にその代償が高くつくかをアメリカに知らしめた瞬間となり、南北が地球温暖化ガスの増加を阻止する為に協力しようと言う流れを作り出しCOP13のロードマップ合意に一挙に進展させたのである。

   結局、アメリカは方針を大転換して、ポーラ・ドブリアンスキー次官が、
   「我々は、新しいフレームワークを更に進展させる為にバリにやって来た。我々は、ビジョンを共有し、前進したいと思う。我々は、このバリにおいて成功を勝ち得たい。一致協力して前進しようではないか。」とフロアーから発言した。
   各国の代表達は、とうとう、合意が成立したことを知って感激して爆発的に反応し長い間賞賛の拍手が鳴り止まなかった。
      
   以上の報道は、ニューヨークタイムズとワシントンポストを一分纏めたものだが、これは、バリでの国連気候変動会議におけるアメリカの見方であろう。
   後者の記事の一部で、アメリカ同様に、COP13の趣旨に反対する道路上の障害物となっている国があるとして、ロシア、カナダ、日本、インドを名指ししており、日本については、コミットメントが少ないと批難している。
   この口絵のビラは、「削減目標の妨害をやめてくれ」と言うNPOのプロパガンダだが、ブッシュ、福田首相、カナダのハーパー首相の写真が掲載されており、日本が抵抗勢力であることを天下に知らしめたものである。
   政府は、仲介者の役割を果たしたと言って自画自賛しているが、京都議定書の当事国でありながら、経団連を筆頭に経済界から削減目標設定など地球温暖化対策に対して強い抵抗があり、政府も経産省と環境省との不協和音があり、更に日本政府の国家的な取り組みと政策遂行に対しては極めて消極的であることは、世界の世論、特に、ヨーロッパの人々は先刻承知で、来年の洞爺湖サミットの成功には、既に暗雲が漂っている。

   読売新聞の報道では、当初案にあった「先進国は、温暖化ガスを20年までに25-40%削減する」と言う文言などが削除され数値目標が消えたので、財界は非常に好意的に見ているとしているが、そこまで、日本人の誇りと心意気がダウンしてしまったのかと思うと悲しくなる。
   省エネなど努力に努力を重ねて、乾いた雑巾のようになってしまったので、更に厳しい規制を課されるとやっていけないと言う恐怖感があると言うのだが、イノベーション、イノベーションと叫び続ける日本が、これでは、未来が暗すぎるし、地球温暖化は、地獄の一丁目を通り越して奈落の底に突き進んでいるのである。
   
   ところで、福田総理が、「エコプロダクツ2007」を見学して、NEDOの鉄道駅の改札を通ると足の圧力で発電する装置に感心して、「なかなか日本も捨てたもんじゃない。民間が草の根でやるのが一番強い。」と言ったと言うが、NEDOは謂わば政府機関である。5000万人の年金の名寄せについて公約だとは知らなかったと言う総理だから仕方がないが、こと地球温暖化については、国家が強力なリーダーシップを取って抜本的対策に乗り出さねばならないことを忘れないで欲しい。
   経団連の反対を良いことに数値目標を体良く拒否して笑いものになったが、一頃のブレアのようにアメリカのスピッツに成り下がるのも程々にすべきであろう。
   

   ところで、イギリスの最高級紙「インディペンデント」の記事だが、ブッシュ大統領については徹底的に批判している。
   ”The world gets the better of Bush" と言うタイトルの社説で、
   「先週は、先週であった。そして、昨日は、ついに、世界が、ジョージ・ブッシュの単細胞の頭、近視眼的視点、自己利益にのみ腐心する考え方に飽き飽きしたことを天下に知らしめた正にその日となった。
   その瞬間は、灰燼や血痕に満ちたイラクや、グアンタナモ基地での拷問や国家的テロリズムの最中ではなく、インドネシアの神々の楽園において訪れたのであった。
   それは、気候変動で起こった――邪悪なテキサス男が、他の世界の国々や未来の世代の利益を犠牲にして自分の観念的な本能と石油塗れの執念を押し付けてきた正にその問題でである。」と言う書き出しで始まる激烈なものである。

   アメリカは、バリ会議において、他国の代表から、全く進歩がないと糾弾され敵意を受け続けて、ブッシュが名指しされて、あたかも、フセインやムガベのように嫌われ者扱いとなり、居ない方が上手く行くとまで言われたのである。
   アメリカは、それでも、反対を性懲りもなく続けていたが、パプア・ニューギニアなど187カ国の轟々たる非難によって、世界の世論に屈しなくてはならなくなったのである。

   アメリカは、国際交渉で、世界の国から阻害されて相手にされなくなると、今回のように、すぐに屈する。これは、ハイリゲンダムでのG8の時もそうだし、2年前のモントリオールでもそうだったと言う。
   イギリスのメディアなので、アメリカが、今回のバリ会議の総量規制などで反対してアメリカを助けるようにイギリス政府に働きかけており、イギリスもそれなりに考えていたようだがEUとの足並みを乱す訳にも行かなかったことなど報じている。

   ところで、アメリカでも、上院が地球温暖化規制を法制化に動きだし、28州でも果敢に対応が図られるなど、ブッシュ包囲網が急速に進んでいる。
   今回のバリ会議でも、ブッシュの任期がもう一年を切ったレイムダックなので、辞めるのだからほっておけといった諦めムードで、次のアメリカの大統領に期待する空気が濃厚であったようである。
   本当は、ブッシュの罪は、人類にとって、ヒットラーより酷いと言いたいのではないかと思ってイギリスの新聞を読んだが、他のヨーロッパではもっと酷い論調であろうと思う。
   

   
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