熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

鎌倉散策・・・江ノ電、そして、牡丹咲く長谷寺

2008年04月29日 | 生活随想・趣味
   娘家族が鎌倉へ移転したので鎌倉に出かけることが多くなった。
   銭洗い弁天に程近い佐助なので、観光客と反対側に向かって鎌倉駅に向かうのだが、駅の西側は、市役所を外れると静かな官庁(?)と住宅街となっていて、八幡宮のある観光客でごった返している小町通りなどとは全く雰囲気が違っていて面白い。
   店舗の雰囲気も様変わりで、駅からすぐ近くにgourmet and quality foodのスーパーKINOKUNIYAが店を構えていて、少し歩くと広々としたシックなスターバックスがあり今中庭の藤棚が美しい。
   昔、ロンドンの郊外のキューガーデンのすぐ駅の近くに住んでいたことがあり、観光客が沢山通り過ぎるのだが、その時間を過ぎると全く静かな住宅地に帰るのと良く似ていると思った。
   

   日中は、電車の好きな孫のお供をして江ノ電を藤沢まで往復したのだが、この電車は、京都の鞍馬へ行く叡電や嵐山へ行く嵐電と良く似た雰囲気で、マニアの人気が高いのか、沿線のあっちこっちで電車に向かってカメラを構えている人が結構多い。
   通勤通学が主体の都心へ乗り入れている私鉄と違って、これらの電車は昔懐かしい雰囲気で乗っていて楽しいのだが、これだと、前の仁左衛門が電車が好きで、何故特急などの速い電車の料金が高いのか分からないと言っていた気持ちが分かるような気がする。
   ウソか本当か知らないが、中国では、遅い列車の方が高いのだと、昔何かの本で読んだ記憶があるが、確かに、ヨーロッパを列車で旅をしているとそんな気がすることが幾度もある。
   しかし、日本の都会地では、最近のJRもスピードだけを優先して、窓も開けられないような殺風景で無味乾燥な列車旅が多くなってしまって、旅情を誘う雰囲気がいつの間にかどんどん消えてしまっている。

   夕刻、一人で引き返して江ノ電に乗って長谷まで出かけた。
   4時過ぎだと言うのに、まだ、観光客は長谷の大仏に向かって歩いていて、喧騒な車道を挟んだ細い歩道は銀座並みの込みようで中々前に進めない。
   大仏だけを仰ぎ見る為に来たのであるが、与謝野晶子が歌ったように確かに、この釈迦無牟尼(阿弥陀仏である)は美男におわす国宝仏で、奈良の大仏より優雅であり、新緑に燃える背後の小山をバックにして清々しい。大仏殿があるよりも、青天井で空を光背に聳えている方が良いと思う。
   参道入口だと御仏が下向き加減に見えて威厳に欠けるので、出来るだけ近付いて正面から見上げると優雅さも良く分かる。

   すぐに取って返して、長谷寺に向かった。何度も行っている奈良の長谷寺と観音がツインだと言うことであったので、長谷なら牡丹の花が美しいだろうと思ったのと、裏山に登って夕方の鎌倉の町並みを遠望しようと思ったからである。
   境内は非常に手入れ良く清潔に保たれていて、新緑の中の下草まで大切に保護されており、綺麗な小さな花が顔を覗かせていた。アメリカ人の男女の学生が地面に張り付いてデジカメを構えて花の写真を撮っている。

   山への登り道を歩いて行くと、先ほどの学生が下を見下ろして池を背後にして立つ地蔵菩薩を写していた。確かに、ブルーの池をバックにして、こじんまりした小さな四角の空間に囲われた地蔵菩薩は絵になるのだが、池のブルーは改修中のブルーシートで一寸興ざめであった。
   山で囲まれた鎌倉だが、海岸線に沿って少し平地が広がっていて、逗子の方角に向かって砂浜が延びている。
   高い建物がないので、木の間から見える鎌倉の町並みは単調で、下界を散策する時のような風情はないが、かなり大きな都市である。

   境内の池には、水際に真っ白な水芭蕉が咲いていて、その下を錦鯉が泳いでいる。湧き水か谷川の流れか澄み切った水が光っていて気持ちが良い。
   その池を囲むように牡丹苑が広がっていて、白い傘を差した綺麗な牡丹が咲き乱れている。
   殆ど咲ききっていて今一番綺麗な時かも知れない。
   ここの牡丹は、特別な種類はなさそうで、白、ピンク、赤の八重咲きが殆どであった。
   上野の東照宮の牡丹苑は、白い傘を適当に端折って牡丹を見せているが、ここの牡丹は、傘の数がやや多いような感じがして一寸目ざわりである。
   時間ぎりぎりの5時半まで居たので、寺の職員達は観光客が出たところから閉苑の看板を立てかけていたが、観光慣れするのもどうかと思った。東京より少し西に位置するので、まだ、陽が高いのである。
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東京都交響楽団定期公演・・・インバルのマーラー「千人の交響曲」

2008年04月28日 | クラシック音楽・オペラ
   今夜の東京文化会館は、新しく東京都交響楽団のプリンシパル・コンダクターとなったエリアフ・インバルの就任披露公演で、マーラーの「交響曲第8番千人の交響曲」が壮大なスケールで演奏され、会場が沸いた。
   都響とインバル・コンビでの千人の交響曲の演奏は三回目で、これまでもマーラーの交響曲では何度も共演しており珍しい話ではなさそうだが、私にとっては初めての経験であった。
   インバルの指揮については、随分前ヨーロッパに居た時、コンセルトヘボー響やロンドン響、フィルハーモニア響等の定期会員であった頃に、客演指揮者として聞いていた可能性があるが記憶にはない。
   しかし、今夜の素晴らしいマーラーに感激して、これからの都響が楽しみになって来た。

   ところで、この交響曲はCDは持っているがまだ演奏会では聴いたことがなく、やっと、ロンドンで、今は亡きジュゼッペ・シノーポリが、フィルハーモニアを振るという事で期待をしていたのだが、帰国せざるを得なくなって断念した苦い経験がある。ヨーロッパでも、それほど、演奏される機会がなかったような気がする。
   千人と言うのは、マーラー指揮で初演された時に、1030人の出演者で演奏され興行主が千人の交響曲と銘打ったらしいのだが、ソリスト8人と大編成のオーケストラと混声2組と児童合唱団で構成されるのだから何百人の出演者となる。
   今回の東京文化会館の都響のステージも、晋友会合唱団とNHK児童合唱団が幾重にも舞台後方を取り囲み、客席にも演奏者が配置されると言う大変な規模でのコンサートであった。

   この交響曲だが、ベートーヴェンが第9番「合唱つき」で交響曲に人間の声を加えると言うタブーを破ってから、マーラーは、「大地の歌」などで追随しているが、この曲は、謂わば壮大なオラトリオかカンタータと言った調子の交響曲である。
   本人自身が言っているが、「大宇宙が響き渡る様を想像して欲しい。もはや人間の声ではなく、運行する惑星であり太陽である。」と言うことで、これまでの交響曲は、総てこの序曲に過ぎないとまで言う途轍もない意気込みとスケールの作品なのである。

   2部構成で、第一部は中世のラテン語の精霊賛歌の詞を、第二部はゲーテのファウスト第二部の終景をテキストにしているので、前後で雰囲気が随分違っている。
   第一部は、ヴェルディのレクイエムも度肝を抜かすようなすごい迫力の壮大な宗教曲だが、第二部は、カンタータ風だけれど、マーラーの意図が、ファウストを下敷きにしたエロスの誕生賛歌であったから、実に美しい音楽が流れるなど私見だがオペラを聴いているような感じがした。
   途中のハープを伴った甘美な主題がヴァイオリンで奏される部分などマーラーの音楽でも最も美しい曲だと思うし、高みから聞えてくるグレートヒェンの歌声など天国からの音楽のようで感激的であった。
   しかし、マーラーの終曲に向かってぐいぐい上り詰めて行く圧倒的な高揚感は抜群である。

   72歳のインバルが、終曲に向かうと右向きに方向を代えて客席上部を見上げて少し客席側に顔を向けてタクトを振るので表情が見えるのだが、緊張と興奮で上気した顔に鬼気迫る気迫が漲っていて感動的でさえあった。
   私には音楽的な素養や知識が不足しているので、これまでの特に実演での多くの音楽鑑賞経験を経た勘と印象だけで直感的にコンサートの良し悪しを判断することしか出来ないのだが、今回は、ソリストも合唱団も日本屈指のプロ歌手と演奏集団であり、それに名にし負う都響をフル展開して、最良のものをマーラーの権威とも言うべきインバルが引き出したのであるから、本当に素晴らしい感動的な千人の交響曲を聴く事が出来て幸せであった。
   こう言う時は、上野の喫茶店で飲んでも、UCCのクリスタルマウンテンの珈琲も美味しいのである。

(追記)写真は、都響ホームページから借用。
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国立文楽劇場・・・桂川連理柵

2008年04月25日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   京都桂川で38歳の男性と14歳の少女との死体が見つかった。心中と見せかけた強盗の仕業だと言う説もあるが、心中物語として脚光を浴びて人形浄瑠璃になったのが、今国立文楽劇場で上演されている「桂川連理柵」である。
   この桂川だが、三川合流地帯で淀川に流れ込む川で、川下りで景勝美を楽しめる上流が保津川、嵐山あたりで大堰川、渡月橋の下流から合流地点までが桂川と名前を変える。丁度、桂離宮の裏側を流れる川が桂川だが、後は狭い平地を流れ下る。学生の頃、良く嵐山に出かけたので、何となく、この浄瑠璃の雰囲気は分かる。

   この物語は、
   信濃屋の娘お半(簔助)が、伊勢参りの帰り道、遠州からの商用から帰って来た隣の帯屋の長右衛門(勘十郎)に、石部の宿屋で偶然行き合わせた。夜中に、丁稚長吉(玉志)に迫られたので、長右衛門の部屋に逃げ込むのだが、あろうことか、親子ほども歳の違う二人は契ってしまう。これを知った長吉が腹いせに、長右衛門が遠州の殿様から研ぎに出す為に預かってきた正宗の中身を差し替えて盗み出す。
   最期に会いに来たお半が、死ぬ覚悟で書置きを残して去ったので、お半の妊娠と正宗の紛失で切羽詰った長右衛門は、後を追い、お半を背負って桂川の畔へ向かう。

   この間に、長右衛門を失脚させて跡を狙う義父繁斎(玉女)の後妻おとせ(紋豊)とその子儀兵衛(文司)や、夫をかばう女房お絹(紋寿)や慈悲深く理解を示す繁斎などの人情劇が展開されるのだが、一寸イカレタ丁稚長吉が、暗い話の中で、道化の役回りをコミカル・タッチで演じていて、一幅の清涼剤である。
   尤も、この一寸頭の弱い、しかし、悪智恵だけは働く色気づいた悪餓鬼が、この悲劇を引き起こす張本人になっているのが面白い。
   
   14歳のおぼこ娘を遣う簔助は、実に上手い。
   お半は、男と女のことなど全く知らずに、丁度、光源氏が紫の上を妻にしたように、愛しい長右衛門に抱きしめられて夢心地で一夜を過ごしたのあろう。世間を全く知らないままに、不義の子を身ごもったと言う罪の意識だけで死に急ぐ幼い、そして、健気で一途に長右衛門を思い続ける女を乙女の初々しさを残しながら、簔助は、情感豊かに演じている。
   酸いも辛いも知り尽くして死に急ぐ近松門左衛門の大坂女とは一寸違った、新鮮な関西女の和事の世界が展開されている。

   以前の写真を見ると、相手の長右衛門は、亡くなった玉男や文吾が遣っている。
   最近、簔助の相手は、弟子の勘十郎が演じているが、インタビューで、新しい相手役を得て、更に再考して挑戦して行きたいと言っており、これからの相手役は、玉男の弟子である玉女ではなく、勘十郎が演じるのであろう。
   勘十郎は、簔助のお半の左手を遣っていたので、玉男の長右衛門をつぶさに観察しており、動きのない時はじっとしており、瞬間瞬間で表情を出していて、それに倣ったと言う。大阪では、押しも押されもしない看板人形遣いで、拍手も多く、簔助のお半とピッタリ呼吸の合った素晴らしい舞台が感動を与える。
   風格と品を備えた勘十郎の長右衛門は流石で、お半が恋心を抱くのも当然であろう。おぼこい乙女に恋をするかどうかは別にして、歳に関係なく恋にのめり込む男の気持ちは分かる。  

   嶋大夫と宗助、綱大夫と清二郎の浄瑠璃と三味線が実に素晴らしく、極普通の庶民達の営みである筈の物語を、感動的な芸術の世界まで引き上げる。
   道行朧の桂川の、お半の英大夫、長右衛門の文字久大夫ほかの大夫・三味線の共演も悲しくも華やかな舞台を演出していて楽しい。

   ところで、連理と言う題名だが、これは、当然、玄宗皇帝と楊貴妃を描いた白居易の「長恨歌」の中の、最期の部分、「天にあっては願わくば比翼の鳥となり、地にあっては願わくは連理の枝とならん」と言うところから出ている。
   連理とは、地上から生えた二本の木の枝が絡み合っている様子を表しており、夫婦仲の良い状態を言うので、良く結婚式などで引用されるが、そう誓った玄宗と楊貴妃の恋も無残にも馬嵬で終幕を迎える。
   しかし、このお半と長右衛門の場合には、連理と言う言葉が似つかわしいのかどうかは、一寸疑問でもある。

   もっとそれ以前に、プラトンが、「饗宴」のなかで、人間は本来男女が隣り合わせの一体のアンドロギュノスであったが、神が、二つに分けてしまったので、元の身体になる為に、お互いの体が恋しくて恋をするのだと言っている。これが欧米人の男女感の基本だろうと思うが、最初、これを読んだ時には感激した。正に英語で言うBETTERHALFとは言いえて妙である。

(追記)写真は、国立文楽劇場のホームページから借用。
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歴博:第3展示室(近世)リニューアルオープン

2008年04月24日 | 展覧会・展示会
   佐倉城址にある国立歴史民族博物館には、第5展示室まであるが、近世・江戸時代を中心に扱っている第3展示室が、リニューアルされたと言うので見学に出かけた。
   何度も訪れておりながら、以前にどうであったのか覚えていないので、どのようにリニューアルされたのか分からないのだが、何となく見やすくなったと言うか、面白くなってきているような気はする。

   特に気がついたのは、やはりIT時代で、ディスプレィのタッチパネルで、展示物の画像などを興味に応じて拡大したりしながら色々な情報を得られることである。それに、資料や絵や写真などが、「めくり解説」形式のラミネートされた小冊子などで見ることが出来、身近に楽しめる情報量が増えたことである。
   寺子屋「れきはく」と言う畳敷きの寺子屋風の机が置かれたコーナーが新設されていて、子供たちが、机に座って古文書を見たり古いスゴロクで遊んだりしていて楽しんでいたが、これも新しい試みであろう。
   もう一つ奥に、「もの」からみる近世と言うミニ企画展示室が出来ていて、定期的にテーマを選んで、順繰りに期間限定で特別展示をするようで、今回は、「海を渡った漆器」で、主にヨーロッパの王朝などに輸出された豪華な漆器の家具調度が展示されていた。

   入室して最初に目を引くのはで、実に精巧かつ克明に美しく描かれた「江戸図屏風」で、日本橋や新橋、浅草と言った文字が書かれているので当時の様子が分かって面白い。これらの町並みと違って、品川など、全くの漁村に近い港だったことなど、新しい発見があって興味深い。
   最初の2室が、当時の世界地図を中心とした絵図・地図にみる近世、そして、アイヌ、オランダ、中国、琉球との関係を扱った国際社会のなかの近世日本と言う趣旨の展示で、国際社会との関わりから江戸時代を概説しているのも、やはり、グローバリゼーションの影響であろうか。

   隣の「都市の時代」のコーナーは、中央に、巨大な、しかし、実に精巧に作られた「江戸橋広小路模型」が設置されていて、当時の町並みや都市生活の様子、人々のざわめきなどが聞えてくるような素晴らしいディスプレィがなされている。
   その周りに、都市の仕組みや文化などの資料が展示されていて、江戸の人々の文化生活一つをとっても、歌舞伎や相撲、旅や園芸等など豊かな生活を送っていたことが分かって面白い。

   人とものの流れのコーナーでは、当時の人々の信仰や物見遊山のための旅の様子や、北前船等の模型を使っての物資の移動や交易の様子が展示されている。
   別のコーナーでは、からくり人形や和時計などの素晴らしい日本の工芸技術や浄瑠璃人形の頭の仕掛け、解体新書など、知識と技術や生活を楽しむ工夫などが展示されていて、鎖国ながらも民度の高い江戸文化が維持されていたことを紹介している。
   面白いのは、一揆や義民たちの活躍など社会に抵抗を示しながら世直しをした人々の姿も展示しており、中々、意欲的な展示であり、スケールの大きい展示の両国の江戸東京博物館とは一味違った、木目細かい歴博の展示も面白いし、非常に勉強になる。

   歴博は、水準から言っても素晴らしい博物館だとは思うが、目的が違うので、総合的な博物館である大英博物館と比べるのは酷だが、展示物が殆ど模型や模造品なので、融通が利く分、有り難味が違ってくる。
   ところが、別の展示室で、金光明最勝王経が、国宝と書いてあって模刻本と言う表示がなかった。本物なのかと聞いたが、説明員は分からないと言って、これは本物の国宝ですと言って、「宋版史記」のところへ案内して見せてくれた。
   尤も、本物の国宝と模刻の国宝と見分けがつく訳ではないので気にすることはないのかも知れないが、やはり、本物に越したことはない。

   ところで、博物館には、案外気の利いたレストランとか休憩や談笑を楽しめる喫茶室と言った施設がない場合が多い。
   歴博には、綺麗な庭に面した小さな食堂があるが、簡易食堂で、腹が減ったので昼食でも食べようかと言う程度の場所である。
   都会地から離れた隔離されたような田舎の城跡にある博物館だし、非常に良い自然環境の中にある博物館なのだから、多少、文化の香りを感じさせてくれるような憩える飲食施設があっても良いのではないかと思っている。
   もっと離れた田舎にある近くの川村美術館のレストランなど、雰囲気があって良く、お菓子と珈琲での憩いの時間も結構楽しめる。
   歴博の場合は、国立だからダメだと言わずに、家賃などは優遇して民間に委託すればよいのだから、募集してはどうであろうか。
   地元の人は別にして、この東京を離れた辺鄙な佐倉城址まで来て歴博を見学する人は、一日がかりで来ている筈だから、雰囲気の良い珈琲ショップや洒落たレストランでもあれば楽しめる筈である。

   もう一つ余談ついでに言うと、小学校でも中学校でも、或いは、高校でも良いから、課外授業で、子供たちを、一日で良いから、この博物館で過ごさせて、日本の歴史を勉強させることを提案したい。
   大学入試に出ないからと言って必須科目の世界史を端折った高校のある日本国だから、無理とは思うが、自分の国の歴史を知らない次代の日本人をいくら育てても、美しい一等国にはならない。
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佐倉城址本丸跡の八重桜

2008年04月23日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   久しぶりに佐倉城址公園に出かけた。
   若葉が萌えて、新緑が際立って美しい季節で、特に起伏があってバリエーションに富んだ木々の鬱蒼と茂った林間に、芝生や池や畑などのオープンな空間が広がっているので、その変化が醸しだす風情は気分転換にも格好で、散策するのに実に良い。
   城址公園、特に、本丸広場の桜を見るためには、一寸、時期がずれてしまって遅かった。

   しかし、芝生の広場に張り出した一番大きな普賢象とややピンクの勝ったカンザンの2本だけが、今を盛りに咲き乱れていて、新緑に染まった周りを圧していた。
   その下では、7~8人の初老の男たちが、ブルーのシートを敷いて経済談義を楽しんでいて、少し離れて、ピクニックスタイルで訪れた老夫婦が午後のお茶とお菓子で憩っていた。
   広く広がった本丸跡のグラウンドには、幼児たちと戯れる若いお母さんが午後のやわらかな光を浴びて駆けていた。
   この広場は、周りが新緑の茂った城跡の土塁で囲まれた盆地のようなになっているので、遠くの自動車の音が聞えてくるくらいで、実に静かな空間を作っていた。

   ところで、この城址公園には、まだ、何本か桜の木が綺麗な花を咲かせている。
   八重桜では、白い花のショウザン、一重桜では、スルガダイニオイである。
   それに、少し盛りを過ぎてはいるが、緑色がかかったウコンがたわわに花房を保っている。
   やはり、あっちこっちで綺麗な樹形を保っているのは、普賢象で、これは、八重の美しい花の真ん中から蘂が2本突き出していて、普賢菩薩を乗せている象の鼻に似ているので、このような名前が付けられたと言う。
   東寺などあっちこっちで、白象に乗った普賢菩薩像を見ているが、何故か、その度毎に、この桜を思い出す。

   城址を里の方に下って行くと、姥ヶ池に出る。
   今は、睡蓮の葉で埋め尽くされていて、その合間を亀や蛙が頭をのぞかせている。
   亀頭がやや赤みがかった縞模様のある黒い小型の亀が甲羅干しをしていたが、母親亀の背中に小さな小亀が乗っていて、こんな爬虫類でも、哺乳類のように親子の関係があるのを見て興味深かった。

   池畔の柵に間から手を伸ばしてデジカメを構えているいる人が居たので、何をしているのかと聞いたら、トンボを観察しているのだと言う。
   どんなトンボかと聞いて、指し示す方を見るのだがいっこうにトンボなど見えない。
   大分してようやく気付いたら、池面から突き出した小さな枯れ枝の先に、長さ3~4センチ太さ1ミリあるかないかの糸の様なやや青みがかったトンボが止まっている。
   名前を聞いたが、メモが取れなかったので忘れてしまったが、10年以上もトンボの観察をしていて、天気が良くて絶好のトンボ観察日和だったので会社を休んで、トンボ観察に勤しんでいるのだと言う。

   何故か、カワセミの話になったのだが、表ではなく背後の佐倉城址外周の堀には、まだ、沢山飛んでいると言う。カワセミは鳴き声をあげて飛ぶので良く分かると言うのだが、それはそうであろう、普通の人には、金輪際気付かないような小さなトンボを追っかけて根気良く自然観察を続けている人だから、他の大きな生き物など、見つけるのは造作もないのであろう。
   熱心な人がいるものだと感心しながら、暫く、自然観察の面白さを教授頂いていたが、この佐倉近辺には、印旛沼が近いし、沢山の林や森の緑地が広がっていて自然の恵みがふんだんに残っている。

   その後、「伝統の桜草」展示をしている「くらしの植物苑」に出かけて沢山のサクラソウを見た。随分、サクラソウにも多くの種類があるものである。
   江戸時代末期に桜草の雛壇飾りが流行った様で、苑の片隅に、33鉢の桜草が、お雛様のように5段に飾り付けられていた。  
   観光客がちらほら、城址公園内の国立歴史民族博物館に来る人は比較的多いが、この辺まで足を伸ばす人は少ない。 
   
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円高:夏には1ドル90円・・・榊原英資教授

2008年04月22日 | 政治・経済・社会
   現在は極端な円安で、どこかでこの異常な為替レートは崩れる。
   夏に向かって、もう一度ドル安の局面が現れ1ドル90円程度に下落するであろうが、マーケットは往々にしてオーバーシュートするので80円になってもおかしくない。
   本日、日経ホールで開かれた「日経シニア・ライフ・シンポジウム」で、榊原英資教授は、こう言い切った。

   対ドルとの購買力平価においても、過去10年アメリカの物価上昇は年率2.5%だが日本は0%で、これを考えても30%もドルは減価している。
   大きく開いていた金利差が、アメリカの場合、サブプライム問題や経済不況回避策などの為に大幅に金利が引き下げられており、更なる引き下げによって1%台にまで下落すると予想されるので、殆ど、金利差がなくなってしまう。
   そして、更に、現状では、政府が為替介入出来ない状態に陥っている。

   これらの要因によって、今後円安局面に入ることは有り得ないと思われる。
   日本の政局不安定が、円安要因だとする見解もあるが、誰も日本の政治事情など考えていないし信頼もしていない。
   それよりも、アメリカ経済が不況局面に突入していることは間違いなく、実質的に金融崩壊に近い状態で大きく揺れており、夏にもう一度更にダウンする心配があるので、更に円高が進行する、と言うのである。

   ヨーロッパの場合は、インフレ不安があるため金利を引き下げられないので、対円に対してユーロが異常に高くなっているが、英国は既に金利を引き下げる方向に行っており、このような為替レートは何時までも続かないであろう、とも言う。

   ただし、為替レートの予測などは無理で、これは現時点で言えることであって、事情が変われば為替レートも変わるので、毎日為替予測を変えている。夏になって1ドルが90円に下落しなくても榊原の奴と言わないで欲しいと釘を刺す。
   確かに、ミスター円と言われて外為のエキスパートである筈の榊原先生の為替予測が当たったためしは、これまで、殆どない(?)ような気がする。

   株については、08/3期が企業業績のピークで、来年は減益となるので、下落する。
   世界経済の更なる悪化も考えられるので、円高株安が当分進行するであろう。
   ただし、シンガポールのSWFなどは、適当に下がれば日本株買いに向かうと言っており、日本株への投資は好機だと言う。

   興味深いのは、シニア・ライフに関するシンポジウムなので株投資について語り、自分はやっていないが、奥方の株投資に指南をしており、株が下落している時こそ、株を買う好機だと言う。
   絶対に潰れない一部上場の優良企業の株を、下落局面で下落の状況を見極めて買うのが一番良い。
   それに、売るだけ買うだけだと多くのリターンを期待できないので、売り買いを繰り返さないとダメである、と言う。

   ところで、投資に対するリターンだが、ハートフォード生命保険やフィデリティの報告では、日本株への投資は最低で、次ぎに悪いのが日本の債権だが、いずれにしろ殆ど利益が上がっておらず、外国株式などミックスした分散投資でやっとそれなりの益が出ていると言う状態のようである。

   株でも為替でも、上がり始めたり下がり始めたりした時に、皆より少し早く行動を取るべきで、皆が動き始めたらもうピークに達していてすぐ反転するので遅い。日経の記事になったら、もう遅いと言うことである。
   1997年のタイの為替暴落の時、ソロスに仕掛けたのかと聞いたら、1年前にバーツを売ったと言っていたと言うのだが、とにかく、日本のメディアの情報に頼っていてはダメなのである。

   ところで、余談だが、何時も思うことは、誰でも経済生活を送っているので、経済学が非常に易しい学問で誰でも理解できると言う幻想を持っていることである。
   これは、大いなる誤解で、経済学は、高邁な理論物理学等と同じ様に、いくら勉強しても中々理解出来ない程難しい学問で、サルでも分かる経済学だとか、1週間早分かり経済学だとかと言ったいい加減な本が店頭に並ぶと、これが売れると言うから不思議である。
   経営学も全く同じで、早い話、「不良債権の処理」と言う言葉だが、これを正しくと言わないまでも理解出来ている人は非常に少なく、したがって、毎日の日経の記事を理解する為にも相当の勉強と知識が必要である筈なのに、分かったつもりで読んでいる場合が、非常に多いと言うことである。

   さて、会場で、日経社員が、先月発刊された日経ヴェリタスのサンプルを配って宣伝に努めていたが、果たして役に立つのかどうか。
   私など、毎日の日経と毎週の日経ビジネス、それに、ネットの日経ネットPLUSを読むだけでも大変なのに、日経は、日経BPも含めてムヤミヤタラに紙媒体の新聞や雑誌を発刊しすぎると思う。
   日経は、一番IT化の波に遅れている出版社だと言う気がするのだが、どうであろうか。

(追記)椿は、月の輪。
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海外発の科学的成果がアメリカに如何に利益をもたらすのか

2008年04月21日 | イノベーションと経営
   中国やインドなどの低賃金国で生産される安いモノやサービスが、世界経済を潤している。
   同時に、これらの新興国の台頭により、中国人やインド人科学者が増加して、科学的な発明発見を生み出すコストもどんどん下がってきているが、この現象は、アメリカにとっては、非常に喜ばしいことである。
   いくら科学的発明や発見を行っても、これの国々では、このような科学的業績を実用化乃至企業化する能力がないので、ものづくりと同じ様に、科学的発明や発見を海外に安くアウトソーシングして、それを活用してアメリカで果実化すれば非常に安上がりにイノベーションを行える筈である。
   こんな記事が、最近のニューヨーク・タイムズに掲載されていた。(How Scientific Gains Abroad Pay Off in the U.S.)

ジョージ メイソン大学クリストファー・ヒル教授によると、
   「生産デザイン、マーケティング、ファイナンス等世界的に傑出した実力を誇るアメリカのイノベーターは、海外での科学的ノウハウを活用・転換することによって市場化して利益を叩きだす有史以来の絶好のチャンスを持つことになった。」と言うことになる。
   このポスト・サイエンス社会への移行は、アメリカの新製品やサービスを生み出そうとする企業家達にとって予期しないボーナスとなるとまで言っている。

   この説は、「アメリカは、自国で十分な科学者を教育することに失敗したので、この不足が、アメリカの国際競争力を著しく削ぐことになる。」と言われていた通説に対する反論として、昨秋ナショナル・アカデミー・オブ・サイエンスに掲載された。
   その後、どんどん、この意見に賛成する同調者が出てきている。
   科学的グローバリゼーションに対しても、モノと同じ様にアウトソーシングして、公式やアイデアから実験・試験に至るまでの科学的製品を生み出せば良く、新興国の安い科学者の生み出した発明・発見の果実だけを頂く努力をしさえすれば良いと言うのである。

   尤も、科学的知識は、子供の玩具や電気モーターのようなモノではないので、中国やインドのカタログから科学を買えば良いと言った時代は来ないであろうから、
   アメリカ企業は、外国の科学的情報や知識を買って、自分達のラボで活用する為には、それらが役に立つのかどうかを目利き出来る高度な科学者達を、高給で雇って自分たちで保有しておかなければならなくなるであろうと、アリゾナ州立大のダニエル・サレウィッツ氏は言う。
   アメリカが、世界最高の科学者を選択し保有し続けるホームであり続ける必要があり、一方、企業の方は、世界的な活躍を望む新興国の科学者達と激しい交渉に明け暮れることになるであろうと言うことである。

   科学的な発明・発見とは関係なく、何故アメリカが優位を保つことが出来るのかは、基礎科学と商業化されるイノベーションとの間に大きなギャップがあるからである。
   科学を商業化することが如何に難しいかと言うことであって、いくら中国やインドの科学者が増加しても、自分達の発明・発見の科学的果実を、実際のビジネスでの成功に結びつけることは容易には出来ないからである。
   
   ニュヨーク・タイムズの記事は、デジタル・ストレージのシーゲート・テクノロジーが、国家の補助金を得て育成されているシンガポールの技術者を使って安上がりで製品開発を進めているとレポートしている。
   また、昨年、巨大磁気抵抗効果でノーベル賞の物理学賞を得たアルベール・フェール(仏)やペーター・グリュンベルグ(独)の発明も、本国では商業化には何のインパクトも与えなかったが、シーゲートは、科学的論文や会議などで情報を得て、ヨーロッパ政府の資金提供を受けて実用化したのだが、それは、シーゲートの技術者達は、ノーベル賞学者とは違った材料で、違った温度で実現したと言う。
   外国の科学者達が、自分達の創造的な仕事の手助けをしてくれている、と言うのがシーゲートのマーク・リー副社長の言である。 

   ここで重要なポイントは、科学的発見・発明をイノベーションとして商業化することが如何に難しいことか、そして、商業化するためには、企業の能力や努力だけではなく経済社会体制等制度的な成熟が如何に大切か、と言うことであって、経済社会の知識情報産業化、そしてそのソフト化高度化において、アメリカがはるかに群を抜いている事実がこのことを如実に物語っている。

   しかし、ヒル教授が指摘するように、ポスト・サイエンス社会構想が、イノベーターにとって本当に意味のある正しい方法であるのかどうか、アメリカの優位を維持し続ける妙手であり続けるのであろうか、については私自身疑問に感じている。
   問題の指摘だけに止めるが、スタンフォード・グループのレポートにも記述されていたように、製造業等アメリカ産業のアウトソーシング、オフショアリング等への過度な移行によって、中長期的なアメリカ産業の競争力低下が危惧されているように、科学技術の分野においても、同じ様な問題が生じることは必定だからである。
   科学技術やものづくりを軽視して、自分だけ頂点に立って、世界経済の采配を振って果実のみを追求し続けるなどと言った論理が永続する筈はない。

(追記)椿は、天賜(てんし)。
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国立文楽劇場・・・住大夫と文雀の「競伊勢物語」

2008年04月20日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   在原業平と思しき人物を主人公にした伊勢物語を下敷きにした「競伊勢物語」が、国立文楽劇場で演じられており、後半の「春日村の段」の切で、竹本住大夫の哀切極まりない名調子が観衆に感動を与えている。
   一時間をオーバーする長丁場だが、衰えを見せない迫力で、文雀が、住大夫の語りは分かり易いとコメントしていたとおり、字幕や床本なしで観衆を人形の一挙手一投足に集中させ、ぐいぐい劇中に引きこみ金縛りのように呪縛するので、幕が閉まり始めて、やっと、浄瑠璃語りが住大夫であったことに気付く凄さである。
   この分かり易いと言う文雀の言葉は、住大夫の途轍もない芸の深さと卓越性を表現している言葉であって、人物描写から情景描写は勿論のこと、浄瑠璃の心を縦横に操り、作者の意図のみならず、ある意味ではそれ以上に、舞台の感興を増幅して観客を感動させるのである。
   大夫は投手、三味線は捕手、人形遣いは野手と住大夫は言っているが、ピッチャーが拙いと野球が面白くないのと同じで、いくら人形遣いが上手くても、大夫が下手だと人形浄瑠璃が無茶苦茶になり聴いておれないし分かり難い。(そんな時は、すぐ、字幕を見てしまう。)

   更に、今回の舞台では、井筒姫の身替りとなる信夫(玉英)の義母である小よしを人間国宝文雀が遣っており、玉男の後を継いだ玉女が演じる信夫の実の父紀有常の格調高い演技と呼応して、素晴らしい舞台を展開していて、大阪に来て鑑賞した甲斐は十二分にあった。
   
   在原業平は、天武天皇の曾孫、天城天皇の孫で、父も第一皇子であるから天皇家直流だが、祖父と父が、権力闘争に負けたために臣籍降下で在原姓になったのだが、天下随一の男前で歌も上手くて名うてのプレイボーイとかで、光源氏に良く似ている所為か、伊勢物語の主人公となる。
   ところで、妻の井筒姫は、紀有常の娘である筈だが、この文楽では、天皇のご落胤で有常が預かって育てたということになっていて、本当の実子は、野に下って陸奥に居た時に儲けた娘を足手纏いとなるので小よしに預けたのが信夫だとしていて、この話の悲劇のヒロインとなる。
   皇位継承争いで在原業平の首を差し出せと密命を受けた有常が、その身替りに信夫と夫の豆四郎(簔二郎)の首を差し出す決意をして、娘を返してくれと言って小よしを訪ねて来るのが、この舞台の主題であるから、最後に登場するだけで在原業平は殆どこの舞台では関係がない。
   
   この春日村の段で、鄙びた小よしの家に、華やかな供回りを引き連れた立派な駕籠が到着して有常が登場するのだが、陸奥で隣同士に暮らしていた太郎助だと分かって、小よしの出したはったい茶をすすりながらのしっぽりとした昔語りが、後半の悲惨な結末の前奏曲として中々素晴らしい。
   信夫を伊勢の斎宮として、夫の豆四郎を官位を与えて公家に取り立てると言われて喜こんで参内を祝う小よし、実の娘を殺さなければならない断腸の思いの有常、死を覚悟した信夫豆四郎若夫婦、夫々の思いを封じ込めた幕切れだが、
   身分が違うとして隔てる為に立てられた衝立を境にして、信夫が琴を弾きながら「妹背川」を歌い、それに合わせて何も知らない小よしが槌を打つ。
   横で在原業平の身代わりに切腹する夫豆四郎を信夫の視界から遮る為に、有常が、信夫の琴の片端を高く持ち上げるのだが、信夫は動転しながら横抱えで琴を引き続ける。

   有常の白刃が光ると、信夫は仰け反る。
   琴の音が止んでしまったので、衝立を蹴立てて飛び出た小よしの前には、若夫婦の無残な亡骸。
   「ヤアコリャ何で殺したのじゃこれがどこに立身出世、元の様にして返しや、・・・」と取り乱し、前後不覚に泣きゐたる
   有常涙押拭ひ 「二人が最期も四海のため」と語るも聞くも親と親

   住大夫の語りと錦糸の三味線が観衆を悲劇のどん底に引き込み、文雀の小よしと玉女の有常の人形が慟哭している。
   床本の記述は省略形で、ト書きもないし、読んだだけでは殆ど分からないしシチュエーションは伝わってこない。
   しかし、三業の協業による創造芸術である人形浄瑠璃は総てを語って余りあり、人々を感動の渦の中に引き入れる。
   
   
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松本幸四郎の「ラ・マンチャの男」

2008年04月19日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   帝国劇場で松本幸四郎の「ラ・マンチャの男」が上演されている。
   10年ほど前に一度観て、今回は二回目の鑑賞だが、2時間休憩なしの舞台で、かなりテンポの速いメリハリの利いたミュージカルでもあり、結構楽しませてくれる。
   セルバンテスの「ドン・キホーテ」を底本にした物語だが、子供の頃にダイジェスト版を読んだ程度で、風車に突進して振り飛ばされるバカな気違い騎士の記憶しか残っていなかったが、もう何十年も前に、初めてマドリッドに言った時に、ホテルの前のスペイン広場に、やせ馬に乗った痩せ型長身のドン・キホーテとロバに乗った太っちょで小柄なサンチョ・パンサの銅像があったので、とうとうセルバンテスの国に来たのだと言う実感が何故か強烈に湧いてきたのを思い出す。

   このミュージカルだが、松本幸四郎の演技を楽しむと言うことに尽きるとしても、例のビクトル・ユーゴの「レ・ミゼラブル」と同じ様に、歌と踊り付きの大衆劇と言う初期の位置づけから大きく成長して芸術性を帯びた、更に、思想的な意味まで持ったミュージカルとして見ると面白い。
   セルバンテスが活躍したのは、無敵艦隊がエリザベス女王に駆逐されたとは言え、歴史上スペインが最も光り輝いていた頃で、文化文明の頂点からの視点であり、その面から見れば、結構、意味深な舞台となり、俄然興味が湧いてくる。

   騎士道物語を読みすぎて頭のおかしくなった郷士ドン・キホーテが、自ら憧れの伝説の騎士になったと思い込み、正義感に燃えて世直しの為に、遍歴の旅に出ると言う話を、何度も牢屋にぶち込まれていたセルバンテスが、セビリアの牢獄で発想したと言うのであるから、とことん、世相を風刺してカリカチュアに仕上げており、それを感じなければ、只の馬鹿話に終わってしまう。
   早い話、風車に突っ込んで飛ばされるドン・キホーテは、さしずめ、オランダを領有する為に攻め込むスペインそのもので、スペインの凋落を暗示していたのかも知れない。

   宗教裁判の為に牢獄に連れてこられたセルバンテス(幸四郎)が、牢名主(瑳川哲朗)に大切な原稿を取り上げようとされるので、それを避けるために、牢の中の泥棒、人殺し、売春婦などの犯罪人を役者に仕立てて、自分自らが劇中のドン・キホーテになって、模擬裁判を演じると言う趣向で話が展開する。
   当然、ここでは、原作に題材を取ったドン・キホーテの騎士物語りに対する幻想が展開されるのだが、重要な話の筋は、城と勘違いして入った宿屋の女中でパート・タイマーの売春婦アルドンサ(松たか子)を理想の女性・思い姫のドルネシアとして崇め奉る所に焦点が当てられている。
   ドン・キホーテのドルネシアへの思いがアンドルサの心の中に生き続けていて、ならず者のロバ追い達にズタズタに陵辱されたにも拘らず、遍歴に疲れて死の床にあるドン・キホーテの枕元で、元のドン・キホーテに戻って自分に与えてくれた輝かしい夢を取り戻して欲しいと哀願する。
   これに触発されて、ドン・キホーテの夢と情熱が蘇る。

   田舎の旅籠を城と思って宿屋の主人(瑳川哲朗)に騎士叙任式を執り行わせる騎士道精神へのこだわりなどは、ドルネシアへの崇拝と同じでドン・キホーテの幻想へのカリカチュアだが、これに、ドン・キホーテを正気に戻そうと悪戦苦闘する故郷の神父(石鍋多加史)やカラスコ医師(福井貴一)、アントニア(月影瞳)、家政婦(荒井洸子)、床屋(駒田一)などが入り乱れてのテンポの速い舞台展開なので、中々、話の筋が掴み難い。

   当時殆ど形骸化していたと言われている騎士道だが、優れた戦闘能力を持ち武勲を立てること、勇気や高潔さや誠実さを持って忠誠を尽くすこと、弱者を守ること、信仰を重んずること、等々多くの美徳と行動規範を備えるのみならず、騎士が身分として定着し宮廷文化として洗練されてくると、宮廷的愛(courtly love)、すなわち、高貴な貴婦人への絶対的な崇拝と献身が重要な意味を持ってきた。
   当然、この対象となる相手は、身近におれば問題ないのだが、君主の奥方であったり既婚者であったりする場合もあり、勿論、肉体的な愛ではなく、精神的な結びつきが大切だと言うことのようである。
   いずれにしろ、騎士たるドン・キホーテには、必然的に、思い姫ドルネシアが必要であり、特に、このラマンチャの男では、安宿の売春婦であるアルドンサを思い姫に祭り上げるのであるから、この辺の騎士道への入れ込み、幻想の強さを理解しないと只の気違いと勘違いして話の辻褄が合わなくなる。

   ところで、アルドンサとドルネシアを演じる松たか子だが、病床にすがり付いて「アルドンサ、アンドンサ・・・」と歌い出だす天使のような歌声が実に感動的で美しい。
   「ひばり」で見たあのはちきれるようなパンチの利いた素晴らしい演技を彷彿とさせるような舞台だが、結婚した所為かどうか分からないが、娘から一寸脱皮した女としての魅力が出てきて中々意欲的で素晴らしい。
   前回は、むんむんするような女の魅力全開のアルドンサの鳳蘭の舞台だったが、この時とはまた別な新鮮な感じのドルネシアに比重を移した松たか子の舞台であった。

   松本幸四郎の演技は、中々、素晴らしいバリトン張りの歌唱で、ロンドンのサドラーズ・ウェールズ劇場で「王様と私」の舞台を見ているが、歌舞伎よりも、ミュージカルや蜷川の「オテロ」の舞台の方が良いのではないかと思っている。
   特に台詞回しなど、歌舞伎の場合、特に、古典物での幸四郎は、独特な口の中にこもったような語り方をするのだが、西洋物の舞台の方が、はるかにストレートで発声法がしっかりしていて分かり易いような気がする。
   とにかく、世界に通用するミュージカル俳優は、松本幸四郎をおいて他に考えられないし、蜷川に、前回のRSC版「リア王」で、サー・ナイジェル・ホーソンより幸四郎の方が良かったのではなかったかと言わしめており、高麗屋のカンバンもあろうが、もう少し、洋ものの舞台に力を入れても良いように思う。

   前回、アントニアを歌っていた松本紀保が、幸四郎の演出助手としてミュージカル演出技術の継承を手がけているようだが、素晴らしいことである。
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四月大歌舞伎・・・勘三郎と玉三郎の「刺青奇遇」

2008年04月18日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   下総の行徳あたりの船着場だと言う、目と鼻の先が江戸である、そんな心寂しい舞台に、酌婦のお仲(玉三郎)が追手に追われて逃げ込んでくる。
   続いて博打打の手取りの半太郎(勘三郎)が現われて、岸辺に佇んで江戸の方を指して物思いに耽る。博打で喧嘩沙汰になり江戸を追われた身だが胸に去来するのは江戸のことばかり。
   身投げしたお仲を、半太郎が助けたことから、この底辺のどん底に生きる二人の儚くも悲しい、胸を締め付けるような切ない愛の物語が始まる。そんな人間のぎりぎりの情の世界を描いた長谷川伸の代表作を舞台にしたのが昼の部の最後の「刺青奇遇」である。

   売られ続けて地獄を見続けてきたお仲は、財布ぐるみの金を与えて立ち去ろうとする半太郎に、男は皆同じで目的は自分の身体だと思ってしなだれかかるが、半太郎は、自分を見損なうな、「娑婆の男を見直せ」と怒鳴って立ち去る。
   半太郎の心からの親切心に感動したお仲は必死になって半太郎を追う。
   自分の身体を走り抜けて行った男たちに幻滅していたお仲が、半太郎の男の心の美しさと誠に触れて激しい感激を覚えて、生まれて初めて男に惚れてしまったのである。
   
   半太郎は、後を追って来た追っかけ女房となったお仲と江戸の外れの南品川で暮らすが、ヤクザ稼業から足を洗ったものの博打を止められず、赤貧洗うが如しの貧乏暮らし。
   重病の床に就く死期を悟った瀕死の状態のお仲が、怒らないでくれ、一生のお願いだと言って、半太郎の右腕にサイコロの刺青を彫り、これを見る度に、賭博はいけないと死んだ女房が言っていたことを思い出してくれと語る。
   
   日本一好きな女に、せめても部屋を調度で飾って夢を持たせてあの世へ送りたいと思った半太郎は、金欲しさに最後の勝負に賭場に立つが、元手のない悲しさ、イカサマ・サイコロにすり替えて難癖をつけて金を得て、それを元手に大勝負に出ようとしたが、見つかって袋叩きに合う。
   賭場を仕切る鮫の政五郎(仁左衛門)が騒ぎも見咎めて登場、半太郎の妻への痛切な思いを知り、気に入って子分になれと勧めるが半太郎は拒絶する。
   政五郎は、自分の有り金を賭けるので勝負しようと言う。
   半太郎最後の勝負は、半太郎の勝ちとなり、金を握り締めて一目散にお仲のもとへ駆けて行く。

   この舞台は、勘三郎、玉三郎、仁左衛門の3名優が対峙した最高の舞台だと思って感激して観ていた。
   ことに、玉三郎の名演は出色で、勘三郎が、それに触発されてその至芸を披露したと言う感じであり、これとは別に、本来ヤクザ稼業の親分に過ぎない筈の鮫の政五郎を、これほど男の中の男として格調高く演じ切った仁左衛門の役者としての芸の冴は流石である。

   勘三郎が、「娑婆の男を見直しやがれと説教する所で、大和屋さんの表情が借りてきた猫のようになって行く、ものすごくかわいい顔を見せるんです」と言っているが、冒頭から真のお仲になりきったこの玉三郎の入魂の演技が、勘三郎の芸に火をつけ限りなく触発するのであろう。
   死期を悟って半太郎に刺青を所望するお仲の表情は、儚く消えて行く薄倖の女のやるせない悲しみを秘めながら、実に健気で優しいし、半太郎への限りなき思いやりと愛情に満ちており、涙が零れるほど玉三郎の情の深い演技が胸を打つ。
   天性の役者である勘三郎の役者魂に点火すれば、勘三郎は、役者であるのか勘三郎であるのか忘れてしまって、半太郎になりきってしまって突っ走る。
   
   半太郎が、政五郎に問い詰められて、「世界一好きなのがお仲、二番目に好きなのが博打・・・」と涙を堪えながら語る時の表情は、恐らく勘三郎にしか出来ない芸であろう、ぎりぎりに切羽詰った人間の心の底から突き上げてくる激しいお仲への激情が肺腑を抉る。
   博打さえしなければ、お仲にとっては世界一素晴らしい筈の半太郎だが、人生最後の土壇場になっても、お仲を喜ばせる為に博打で金を捻出しようとする、そして、二番目に好きなのが博打だと言わざるを得ない半太郎が、あまりにも悲しく切ないが、底辺に生きる人間の生き様を活写することによって、人間の偉大さ、貴さを語る長谷川伸の心が感動を呼ぶ。
   
   蛇足ながら、望郷の念覚めやらぬ半太郎の故郷への思いが、半太郎の心の優しさ温かさを示しており、
   室生犀星の「ふるさとは遠きにありて思うもの そして 悲しく詠うもの・・・」を彷彿とさせるのだが、
   点景としてバックに、半太郎の実の両親を登場させて、人と人とのつながりの深さを暗示させているあたりの舞台の設定など細部への配慮は実に心にくいばかりである。
   
   
   
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市川團十郎著「團十郎の歌舞伎案内」

2008年04月17日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   市川團十郎が、青山学院大学文学部での集中講義「歌舞伎の伝統と美学」をベースにした「団十郎の歌舞伎案内」としてPHP新書を出版した。
   歴代の團十郎でたどる歌舞伎の歴史、
   歌舞伎のできるまでの歴史概説
   役者から見た歌舞伎の名作ウラ話 と言った3部構成になっていて、親しみやすい語り口調なので、非常に分かりやすく、内容も豊かで面白い。

   歌舞伎ができるまででは、ギリシャなど西洋演劇などとも比較しながらの薀蓄を傾けた日本のパーフォーマンス・アートの系譜について語り、歌舞伎の世界を浮き彫りにした歴史を展開していて興味深く、
   名作ウラ話は、実際に自分の演じている歌舞伎の世界を、役者(本人は俳優ではないと言う)團十郎として語っているのだから面白くない筈がない。
   しかし、私にとって興味深かったのは、歴代の團十郎の功績などを紐解きながら江戸歌舞伎の世界を語っている部分で、何時も、しっくりと行かなかった切った張ったのアウトローの舞台が何故江戸では人気が高いのか等を含めて歌舞伎の変遷を興味深く語っていることであった。

   江戸歌舞伎の勃興期が、関が原の戦いで勝利を収めた徳川家康が江戸に幕府を開いた頃と一致して、江戸は正に新首都としての建設ラッシュに沸きかえり、江戸市民の気質もハイテンションで喧嘩が三度の飯より好き、火事と喧嘩が江戸の華と言う時代であった。
   商売や行商に条件の良い場所を取る事が至上命令で、「場所取り」のために喧嘩が起こる。そこを上手く采配するのが、男伊達、侠客、地回りの衆で、こういう男伊達の集団の中にいた初代の市川團十郎の父・菰の十蔵が職業柄、芸能界との関係が深かったと言う。
   それに、初代は子宝に恵まれなかったので先祖の故郷でもある成田山に祈った結果、念願の息子・市川九蔵が生まれたので、神仏の加護には格別の思い入れがある。
   当時の江戸市民は、勇壮で強い主人公に憧れており、荒事、神が荒れることや御霊に対する恐怖心も強い。初代團十郎は、このような庶民の感情や美意識、そして信仰心を合体させた歌舞伎の舞台を作り上げたと言うのである。

   荒事の芝居は、強きを挫き弱きを助ける勧善懲悪の世界で、子供のように邪気のない心で御霊信仰をベースにして、江戸庶民に馴染みのある物語を脚色した荒唐無稽の舞台が多いが、これでも、作者達は辻褄を合わせるために苦労した筈だ言う。
   ところが、このような一本調子の見せる荒事歌舞伎の人気も、元禄を過ぎると下火になり、浄瑠璃のように物語性のしっかりした芸能が人気を博して来た。
   歌舞伎の世界では、今でも、自分たちは謙遜(?)して「偽」と言い能楽や人形浄瑠璃を「本業」と呼んでいると言う。
   秀吉が、千利休に切腹を命じてから茶道に興味を失って晩年気まぐれに能に入れ込んだのが、能楽生き残りの原因だと言うのが面白い。

   回り舞台が完成するなど劇場機構が発展し、四代目は芝居研究会をつくって勉強するなど、この頃には、舞台に座っているだけで客が満足する市川家の「格」を意識するようになった。
   七代目の時には、松羽目物が誕生し、歌舞伎18番が出来上がった。
   興味深いのは、明治に入ってからで、それまで江戸歌舞伎は、見た目が華やかで面白ければ物語の時代背景や辻褄などどうでも良い荒唐無稽な舞台であったが、文明開化で西洋の知識を吸収してきた重鎮達が、演劇が一国の文化程度の高さを表す重要な指標であると考えて、プレッシャーをかけたので、歌舞伎にも演劇改良運動が起こったことである。

   歌舞伎は、新しい時代において、何処から見ても誰が見ても恥ずかしくない、教育的な内容の高尚なものであるべきだと言うわけで、九代目は、その演劇改良の理念に則り、理屈っぽくて史実を忠実に描き、学者たちに時代考証させた内容の芝居を作り上げた。
   ところが、見得を切るのではなく「腹芸」を旨としたこの「活歴物」に対して、様式美溢れる、総てが誇張されている江戸歌舞伎に慣れた庶民からは、「何だ、これが歌舞伎か?」と総スカンだったと言うから面白い。

   私自身は、写真も趣味としているので、誇張された様式美のオンパレードで極彩色の江戸歌舞伎の世界、それも、最も美しい瞬間を凝縮フリーズした見得はそれなりに好きであるし興味を持っている。
   ところが、一方、私の舞台鑑賞は、どちらかと言えば、シェイクスピアの戯曲やオペラ鑑賞からスタートしているので、物語性の豊かな中身のあるパーフォーマンス・アートの方に親近感を感じており、歌舞伎でも、近松門左衛門の世界、関西の和事の舞台、そして、人形浄瑠璃の方が違和感が少ないことも事実である。
   
   
   
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久しぶりの関西・・・大阪・道頓堀界隈

2008年04月16日 | 生活随想・趣味
   大阪に行く時、国立文楽劇場で公演がある時には、日本橋のビジネスホテルに宿泊し、時間を調整して文楽を見ることにしている。
   東京の半蔵門の国立劇場とは違った、やはり、本拠地としての文楽座の雰囲気があり、周りから聞えてくる大阪弁が、文楽ムードを盛り上げてくれるのである。
   それに、2階にある入口へのエスカレーター横ロビーの文楽茶屋の古風な田舎家の佇まいや、その裏手にある文楽展示場、それに、エントランス・ホールの売店あたりの雰囲気からして既に何となく芝居小屋のムードが漂っていて中々感じが良い。
   その日は夜の部を見て、翌日、昼の部を見て東京に夜に帰ったのだが、前日雨が降っていたので何となく鬱陶しくて、久しぶりの大阪だったが芝居の後大阪の夜の街を歩くのを止めた。

   翌日は、昼の公演が11時からだったので、遅い朝食を近くの喫茶店で取って、宗右衛門町から道頓堀に出て難波駅あたりまで歩いてみた。
   夜の賑わいとは違って、朝の歓楽街は配達用のクルマや掃除人のせわしそうな動きだけが目立ち、雨戸やシャッターが閉められた店がずらりと並んでいるだけで人通りも少なく何となく侘しい。

   日本橋駅から難波駅まで、線路の上をナンバウォークと言う2筋の地下街が走っている。
   難波駅に近付くほど店舗の雰囲気が良くなる感じだが、私は、何時も、朝、ここにある英国屋と言う喫茶店で朝食をとる。俗に言うモーニング・サービスだが、かなり広くて室内装飾も落ち着いた雰囲気で、禁煙席がハッキリ分離しているので落ち着く。何よりも良いのは、クラシック音楽が流れていて、新聞などゆっくり読みながら憩えることで、ウエッヂウッドのストローベリー・カップで飲む珈琲の味も悪くはない。

   法善寺横町の朝は、人通りが全くないが、既に、綺麗に水が打たれた石畳が光っていて感じが良く、横手の水かけ不動から漏れてくる線香の香りが清々しくて、夜の雰囲気とは様変わりである。
   このほんの数十メートルの細い路地である法善寺横町の雰囲気は、雑でガラの良いとは言えない極めて庶民的な道頓堀界隈の中でも特異なムードをかもし出している。
   苔むした水かけ不動に向かって手を合わせている婦人が居た。

   道頓堀通りにある「くいだおれ人形」の前で、観光客が代り番こに写真を撮っている。この口絵写真は、修学旅行の中学生たちで、経営不振で店仕舞いすると言うので急に人気が出た。
   入ったのかどうか記憶はないが、昔懐かしい和風の洋食屋で、食生活に革命が起きている今日、時代の流れについて行けなくなったのであろうか、庶民に愛され続けた老舗が消えて行く。
   ところで、このくいだおれ人形とくいだおれの商号に人気が出て引き取りたいと言うオファーが沢山来ているのだと言う。

   ところで、阪神が優勝したらファンが飛び込むと言う名所の戎橋の袂にある「かに道楽本店」の大きなかにの看板は相変わらず動いている。
   ところが、やはり、時代の流れか、その向かいの角には、いつの間にか、新しく、TSUTAYAが派手な店を構えている。
   千日前通りにはビッグカメラが大きな店舗を構えており、すぐ近くに日本橋の電気街が繋がっているので、何の不思議もないのだが、道頓堀も変わったなあ、と言うのが実感である。

   戎橋を渡って心斎橋筋に入る手前の橋の袂に、これも全く異質な建物だが、建築家の高松伸が建築学会賞を取った超近代的なキリンプラザ大阪が建っている。
   昔、高名な英国の建築家が見たいと言うので案内したので良く覚えているが、日本と言う国は、全くダボハゼのようで、都市計画や景観にたいする配慮など全く関係なく、どんな所でも、どんな建物でも建築許可を下ろしている不思議な国であると思った。

   この心斎橋筋を大丸とそごうのある心斎橋まで歩いた。
   開店前だったので、あっちこっちの店がシャッターを上げ始めた時間だったのだが、随分俗化したなあ、と言うのがこれも実感であった。
   途中で見た目ぼしい店はユニクロであったが、昔は、一寸、女性たちがおめかしして「シンブラ」するのが楽しみで、高級な店舗や老舗が店を張っていて、大変な賑わいであった。
   
   帰りには、心斎橋から裏通りを通って日本橋に向かったが、裏町には小さな店や飲み屋や飲食店などが犇いている感じであったが、心なしかシャッターを下ろして閉店した感じの建物もかなり見かけた。
   阪神阪急の強い大阪駅界隈は賑わっているようだが、やはり、大阪の地盤沈下は、否めないのかも知れない。
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歌舞伎:仁左衛門の弁慶と文楽:勘十郎の弁慶

2008年04月15日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   歌舞伎座での「四月大歌舞伎」の話題は、やはり、勘三郎、仁左衛門、玉三郎の共演であろうか。昼の部の「刺青奇偶」と、夜の部の「勧進帳」で、3人の揃い踏みが楽しめる。
   「刺青奇遇」の方は、夫々の持ち味を活かした舞台であったが、「勧進帳」の方は、一寸、興味深い面白い組み合わせの舞台が観られたと言う感じであろうか。
   勧進帳は、何度も観ている謂わばスタンダード・ナンバーなので、どうしてもこれまでに観た舞台が強烈な印象として残っていて、私にとっては、團十郎と菊五郎の舞台、幸四郎乃至吉右衛門と富十郎の舞台が、原像のように固定してしまっていて、これと比較して観てしまう。
   その意味では、今回の勧進帳は、華麗で流れるように美しい舞台ではあったが、やや、重厚さと精神性に欠けた見せる舞台に終始していたように思った。
   尤も、仁左衛門の弁慶には、襲名披露の時の助六のように、定番の江戸歌舞伎の伝統とは一寸違った、しかし、粋でダンディなハッとするような輝きがあり、新鮮な感動を与えてくれていて、それが、勘三郎や玉三郎の芸と上手くマッチしていたように思う。

   この勧進帳は、富樫が、義経と見破っておりながら、弁慶が主を打ち据えてまで尽くす忠義に心打たれて見逃すところが眼目だが、富樫の勘三郎は、父の先代勘三郎と違って途中で気付くやり方で演じていると言う。
   私自身は、富樫が、当初から殆ど100%疑いを抱きながら義経一行に対面し、勧進帳の読み上げや山伏問答の過程で襤褸を見つけてそれを暴く心算であったと思っている。
   そうでないと、弁慶が巻物を読み上げている時に、富樫が弁慶ににじり寄って勧進帳を見ようとするあの決定的な見得はあり得なかった筈である。
   従って、富樫の芸の最も重要な本質は、自分の命と引き換えに、何時如何にして義経主従の鉄の結束と忠義、そして、武士道の輝きに心打たれて見逃す気になったかと言う一点で、この心の琴線への振れを表現せずに、義経を見破る瞬間に関心が行くと舞台が死んでしまう。
   これは、弁慶の場合も同じで、富樫に見破られずに済む筈がないと思って決死の覚悟で危機を突破すべく臨戦態勢で勤めなければならず、チャンスはフィフテイ・フィフティ。
   見せ場を美しく型どおりに演じているだけでは、大一番の感動は伝わって来ない。

   大阪の国立文楽劇場で、桐竹勘十郎が、弁慶を遣って、豪快に演じている。
   普通は、人形浄瑠璃がオリジナルで歌舞伎の舞台に転じる場合が多いのだが、この勧進帳に限って、逆に、歌舞伎から明治期に文楽に移入している。
   ところで、興味深いのは、所々、歌舞伎の舞台とは少し違ったシーンがあることで、例えば、義経一行が安宅関に着いた時、関の役人達に門前払いを喰らって追い払われようとする。
   また、義経を呼び止めるのは、歌舞伎の場合には、番卒の耳打ちによるが、文楽の場合には、富樫本人が気付いて呼び戻す。
   それに、幕切れで、富樫は、弁慶には関係なく、義経が退場するのを見送ったらさっさと退場して行く。このあたりの脚色は、解釈の差を表していて面白い。
   歌舞伎の場合には、松羽目のワンシーンの同じ舞台で通すのだが、文楽では、義経一行が関を遠く離れて主従が安堵している所へ富樫達が追っかけてきて酒を進める場面は、背景が別の松羽目に転換して雰囲気を変える。

   文楽で良い所は、やはり、三業による分業で、弁慶の勘十郎や富樫の和生の素晴らしい人形遣いの芸に加え、弁慶の咲大夫、富樫の呂勢大夫の浄瑠璃の名調子と、鶴澤清治他の三味線の華麗なサウンドの世界が呼応して増幅した総合芸術としての凄さを実感できる事である。
   先ほど触れた富樫が鼻から義経を認識していたかどうかについては、番卒が山伏なら何であっても通行を許さぬと拒絶する所を、富樫が聞き止めて、勅命を持って日本六十余州を勧進する客僧を追い立てるのも心なしとして対面するのだが、
   和生の富樫は、あくまで自分の任務に忠実ながら最初から自分の使命を肝に銘じて対しており、義経しか見ていないので、義経を見送ってから退場したのである。
   義経主従の振る舞いに少しでも齟齬をきたせば、いくら安宅の関を通り抜けても奥州まで落ち延びるは不可能であることを悟っていたので、富樫は自分の首を賭けてでも、一行の鉄壁の主従の交わりに感じ入って武士の情けを発露したのであろう。最後まで、気を許さなかった和生の富樫がこれを物語っている。
   
   仁左衛門の酒の飲みっぷりや延年の舞、それに、花道の飛び六方も華麗で素晴らしかったが、人形があれだけ表情豊かに舞台狭しと演じ踊り、そして、六方を踏みながら走りぬけて行くのか、正に、感動的な勘十郎の弁慶であった。
   左手も足遣いも黒衣をとっての演技なので、華麗で実に激しい3人の人形遣いの一糸乱れぬ共演がつぶさに鑑賞出来て、これも文楽の楽しみであった。
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久しぶりの関西・・・奈良東大寺二月堂への道

2008年04月14日 | 生活随想・趣味
   文楽の昼の部が跳ねて、すぐ、地下駅にもぐり近鉄で奈良に向かった。
   大阪に出て2~3時間余裕が出ると、殆ど間違いなしに奈良へ向かって、奈良公園を通り抜けて東大寺の境内に入る。
   私の好きな散策の道は決まっていて、時間の余裕具合によって、立ち寄る所を変えてバリエーションを付けている。
   半日程度の時間があれば、薬師寺や唐招提寺を訪ねて西の京へ、もっと時間があれば法隆寺や、浄瑠璃寺、室生寺などを訪れたりするが、学生時代からだから、もう何十年にもなる。

   この日は、迷うことなく東大寺の三月堂(法華堂)に向かった。道内の16体の御仏と対話するためである。
   私は、随分、世界のあっちこっちの彫刻など素晴らしい彫像をかなり見て歩いて来たが、ミケランジェロやロダンなどと比べても、日本の仏像彫刻の素晴らしさは一歩も劣っていないと思っている。
   特に、この小さな法華堂に安置されている不空羂索観音を筆頭とする12体の国宝、4体の重文、それに、その背後に安置されている良弁僧正の念持仏である秘仏の国宝・執金剛神像等の素晴らしさは群を抜いており、静まり返った薄暗い堂内での御仏との対話は、時空を超えて感動的な時間を与えてくれる。

   私の三月堂への道は決まっていて、雨の日も風の日も同じ道を歩いて行く。
   奈良県庁舎の横を北にとって知事公舎を右手に依水園に向かう。背後に優しい若草山の姿を背負って南大門が聳えている。
   正面を左折れして真っ直ぐに戒壇院に歩く。途中、左手に信楽の狸の置物のある蕎麦屋があり、程なく写真家の入江泰吉氏の旧宅があり、まだ、そのまま標札が掛かっている。戒壇院の急な階段の先に国宝四天王立像が安置されている御堂が見えるが、この日は時間がなかったので、正面を右折れして公園に入った。
   葉桜となって新緑の美しい公園越しに、正面に、巨大な大仏殿の大屋根が聳えている。鹿が草を食んでいる。何時もなら写生をしている素人画家達が居るのだが、この日は、全く人が居なく、最後に残った一本の八重の枝垂桜だけが光り輝いていた。

   大仏殿を右手に、礎石だけが残る講堂跡を左手にして歩いて行くと、大湯屋が右手に見える。このあたりは、全く、田舎の風情で田んぼもあり、急な小川の水音を聞きながら前方の高みに建つ二月堂の舞台を目指して歩を進めて行くと、一人の可愛い少女が犬を連れて坂道を下りて来た。
   宝珠院横を回りこんで小道に入ると、狭くなった坂道に建つ中性院の門の向こうに、二月堂の建物が聳えていて舞台を歩く観光客の姿が見える。
   この風景は、入江さんも写真に収めていて画家や写真家の格好の被写体だが、この口絵写真の場所である。
   私は、季節の移り変わりによって色彩豊かに変化する左手の白壁越しに顔を覗かせる花や紅葉などの変化を楽しみにしている。
   この日は、木蓮と椿の花が彩りを添えていた。

   良弁僧正で有名な良弁杉の後に二月堂の大舞台が聳え立っているが、上らずに、すぐ右隣の広場に面して翼を広げている法華堂に向かった。
   正面には、最近では珍しくなった中学生の修学旅行の集団が、ガイドの説明を聞いていた。
   私は、そのまま、法華堂に入ったが、狭い堂内は中学生で一杯であった。
   ガイドのオバサンの説明は、結構子供たちには新鮮だったようだが、私にとっては聞かずもがなの話でやかましいだけだが仕方がなく聞いていた。
   中学生達は、長野からだと言う。薬師寺や法隆寺は予定にない様であった。
   元関西人の私も、今は旅人である。

   5時を過ぎると、一斉に学生達は引き上げ、他の観光客も消えてしまったので、堂内は水を打ったように静まり返って、薄暗い狭い空間に御仏の群像が静かに語りかけてくれる。
   20分ほど、私は一人で御仏との対話を続けていたが、寺男が、堂の扉を閉めに入ってきた。
   不空羂索観音の宝冠が盗まれたと言うが、どうして盗まれたのか聞くと、何十年も前に、二月堂のお水取りのドサクサに、泥棒が仏像に梯子をかけて上って宝冠の宝石を外して持ち去ったのだと言う。
   あのモナ・リザでさえ、イタリアの設備工によって盗まれてイタリアに持ち帰れられたのであるから、無防備な堂内での盗難は至極簡単だったのであろう。
   質屋に入れたところを捕まえられたとか、罰当たりが居るものである。

   法華堂を後にして、少し夕日が強くなった東大寺の境内を真っ直ぐ大仏殿に向かって下り、大仏殿の右側を回り込んで、正面の参道を南大門に向かって歩いた。
   もう殆ど観光客も居なくなって参道に面したみやげ物店が店じまいを始めている。
   鹿たちが、せんべいを持った観光客を追っかけている。
   東大寺の夕暮れは静かである。

   私は、そのまま、奈良国立博物館の横を通り抜けて、興福寺横を近鉄奈良駅に向かった。
   時間があれば、興福寺境内でゆっくり時間を過ごして、奈良町を散策するのだが、夜のJALで伊丹から東京に帰るので、先を急いだ。
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日春展:時田麻弥さんの「瞳輝いて」

2008年04月12日 | 展覧会・展示会
   松屋で開催されていた日展の日本画部の春季展「日春展」を見に出かけた。
   目的は、知り合いの女流画家時田麻弥さんの猫の絵を拝見する為であったが、絵画鑑賞は私の趣味でもあるので、比較的空いていて静かな明るい会場であった所為もあり、じっくり見せて頂いた。
   洋画と違って日本画は、どうしても歴史と伝統があって固定観念が強いのか、紋切り型の作品が多くて、特に、委員や会員と言った重鎮や幹部画家にその嫌いが強く、ハッとするような斬新な絵は、一般の応募者の入選作品の方に多い感じがした。
   日本画と洋画の差が、技法や様式、或いは、オイル、墨や岩絵具と言った画材等の差にあるとしても、私には、最近では、画家の描こうとする主題やモチーフなどは、殆ど錯綜していて、作品によっては区別がつかなくなって来たような気がしている。

   私の場合には、欧米の有名な美術館で、美術のテキストに出てくるような洋画を見ることが多くて、日本画は、どうしても昔京都や奈良の古社寺を歩いて見た襖絵や屏風などの印象が強いので、コントラストが激しくて解釈に困ったのだが、最近、あっちこっちの地方の美術館や日本の絵画展で日本画の素晴らしい絵画を鑑賞しながら、やはり、山紫水明で季の移り変わりによって微妙に変化する日本の自然や風物などを描写した日本画に感興をそそられることが多くなってきた。
   歳の所為かも知れない。

   ところで、時田麻弥さんの猫の絵は、最近、連続して描き続けている一匹の母猫と二匹の子猫の群像(口絵写真は今回の日春展の入賞作品)である。
   暗いトーンで統一した画法は相変わらずだが、今回は、バックの赤紫の色調がやや明るさを増した分、画面全体に動きが出ている。

   題が「瞳輝いて」だが、時田さんの絵は、いわば、猫の肖像画と言った雰囲気で、実に丁寧に描かれているだけではなく、夫々の猫の個性と言うか、猫性が巧みに描かれていて、その中でも、目が口ほどにものを言っている。
   3匹の猫の目の表情は、同じ様に輝いていても、全く描写の仕方も違えば表情も違っていて、特に、正面前方に鎮座した母猫の目が印象的で、実に端正で気品があり威厳さえ感じさせているが、後方中央のもじゃもじゃとして顎鬚を蓄えた子猫はどこかヒョウキンでおっとりしているかと思えば、後方の黒っぽい横向きの子猫は野性的で目の輝きが動物的である。
   実際にこのように猫が並んで座ることはないであろう。従って、これは、時田さんの3匹揃っての目の輝きのコンポジションなのであろうが、人格を持った猫のように描かれているので、何か、自分の心を猫に見透かされているようで、一寸たじろいでしまう。

   猫の群像の中に、花が鏤められている。
   矢車草のようた形をした菊(?)の花が、母猫の目の輝きに呼応して線香花火の連続のように上に舞い上がっており、右端中央の蘭の花には一匹のカマキリが止まっており、母猫の右背後に大輪の菊花が描かれているが、時田さんの心象風景の表現であろうか。
   四季折々の花々、それに、一匹の昆虫が、猫たちへの思いを一番身近に増幅させてくれる客体となるのだと思うが、描写は、実に繊細である。
   これらの植物は、緑や赤や黄色に幽かに色づけされてはいるが、殆ど、色彩はかき消されていて、ダークブラウン基調の猫の色彩と同化していて、あくまで脇役で主張することはない。

   この日、大丸東京店で、「写真とは何か 20世紀の巨匠展」で、マン・レイやロバート・キャパ、ユージン・スミス等の素晴らしいモノクロ写真の世界を鑑賞して来た。
   時田さんの場合、いくらでも、美しい色彩を使って綺麗で印象的な絵を描くことは出来るであろうが、、この殆どモノクロの世界に近い、色彩を抑えた絵画でないと、時田さんの限りなき猫たちへの思い入れを表現出来ないのであろうと思った。
   先に猫の肖像画と言う表現をしたが、これら20世紀の巨匠達のモノクロ写真の人物写真を見ながらそんな気がしたのである。

   ところで、この日春展には、何点か猫を描いた絵画が展示されていた。
   「仔猫」は、黄色っぽい黄土色のバスケットの中に10匹の仔猫が思い思いの形でいる表情を描いた絵で、
   「あそぶ」は、洋風の庭園の高い花台の上にいるネズミを柱に伸び上がって捕まえようとする猫を描いた絵で、
   「猫とマフラー」は、黒いマフラーをした若い女性が後ろ向きに伸び上がった猫を横抱きにした絵で、
   「シロとクロ」は、白猫と黒猫を正面から描いた絵で、夫々、それなりに面白かったし、
    他にも画面に猫が描かれた絵があったが、しかし、猫の個性と猫の鳴き声まで聞えそうな臨場感と猫との対話を感じさせてくれる絵は、時田さんの「瞳輝いて」しかなかったと思っている。
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