熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

イノベーションと経営(6)・・・フィルムからデジタル

2006年01月31日 | イノベーションと経営
   有楽町のビッグカメラのカメラ売場では、まだ、一年ほど前には、銀塩の一眼レフが真ん中の重要な場所にディスプレィされていたが、今では、売場の主流を占めているのは完全にデジタルカメラで、フィルム・カメラは隅に追いやられてしまった。

   昨年のニコンの撮影会では、アマチュア・ファンの大半は、まだ、フィルム・カメラで、講師の先生もデジタル・カメラ担当は一人だけで、他の先生は、従来どおりで、フィルム・カメラを前提に指導されていた。
   ところが、そのニコンが、フィルム・カメラの現役8機種の一眼レフ・カメラの内6機種の生産を中止して、最高級F6と普及機との2機種に絞ることにしてしまった。

   京セラが、コンタックスを諦め、さらに、コニカ・ミノルタが、カメラ業界とフィルム業界から撤収することになり、残るは、キヤノン等僅かしかフィルム・カメラを温存する会社がなくなるが、とにかく、フィルム・カメラは風前の灯火になってしまった。
   業界トップの富士フィルムまでもが、フィルム部門を縮小してリストラを始めたのである。

   NIKON F100等生産が中止となるので、ファンの駆け込み購入で、品薄や売り切れの為に価格が急騰しており、生産中止となるフィルム・カメラや往年の人気レンズ等が愛好家の注目を浴びていると言う。
   写真コンテストの応募作品の大半、病院での患部の撮影・記録、警察の鑑識等は、いまだにフィルム主体であり、デジタルは写真の色の深みも階調もフィルムには及ばないとプロはその芸術性と優秀性を強調するが、しかし、これはほんのひと時の過渡期の現象で、主客は完全に入れ替わっており、流れには竿をさせなくなってしまっている。
   一刻を争う報道写真やスポーツ写真は、デジタル化のお陰で瞬時に報道に活用されるようになった。
   デジタル・カメラの技術は日進月歩で、殆ど開発の頂点に達したフィルム・カメラやフィルムと違って、長足の進歩を遂げており、フィルムを凌駕し、更に進化するのは時間の問題である。
   そうなると、フィルム・カメラも、あのコロンビアが、有難い事に、ファンの為に今も細々と製造してくれているレコード・プレイヤーの様になるのであろうか。

   IT革命の波に乗ったデジタル化、それに、コンピューターの発展によって、カメラそのものが、コンピューターの記録媒体としてその周辺機器になり下がってしまった時から、フィルム・カメラの運命は決まってしまっていた。
   独立して成立していたカメラ業界が、崩壊してしまったのである。デジタル化の進行により、電機業界がカメラ製造に参入し、デジタル・カメラを使って全くの素人がプロ顔負けの写真を写し始め、それに、誰もが、携帯電話で、そこそこの写真を写して即刻転送出来る様になってしまった。
   素人がパソコンを使って、青い薔薇を作画出来るようになり、テクニックさえ身につければ、自由に写真を加工・編集出来て、思い通りのアルバムや本の作成などは思いのまま、それに、すぐ、インターネットを通じて何処にでも送信・転送可能である。
   フィルムからCCD等の半導体に記録媒体が変わっただけかも知れないが、この為に、産業の主役がカメラ会社から電機会社に移り、写真を、素人、即ち、普通のアマチュアの手の届く所まで身近にして、多くの活用の場を広げたデジタル化のインパクトは限りなく大きい。

   このフィルムからデジタルへのカメラの変遷は、馬車から自動車や汽車へ、水力や人力が、そして石炭や石油が電気に、真空管がトランジスターに変わったと同じ様なイノベーションであり、後戻りは絶対に有り得ないと言うことである。
   ここで大切なことは、イノベーションを追求して創業者利潤を得ることは、企業の発展にとっては大切なことであるが、逆に、イノベーションが生まれて、その産業の風向きが変わり趨勢が動き始めたら、過ぎ去った過去からは、出来るだけ早く撤収することが大切であると言うことである。
   製品のライフサイクルが短くなり、イノベーションの激しい今日においては、如何に、時期遅れとなった部門から経営資源を引き上げて、新しいイノベイティブな部門にシフトするかが、経営の要諦なのである。

   ウエルチではないが、このような衰退業種では、特に、市場でダントツの地位を占めていない限り、見切る必要があり、コニカ・ミノルタやニコンの決断は、遅きに失したと言わざるを得ない。ポラロイドが、デジカメにやられてしまったあの頃から、フィルムとフィルム・カメラの退潮は歴然として居た筈である。

   TVの世界においても、ブラウン管TVに固守した会社よりも、液晶やプラズマに資源を集中して開発を追及してきた会社の方が活力がある。
たとえ、デジタル製品でも、部品さえ集めれば誰でも製作出来て、すぐ、コモディティ化するような製品の場合は、古いテクノロジーからの撤収は早ければ早いほど良い。
   市場規模が縮小し始め、コスト競争が激しくなってくる産業には、特別な差別化要因がない限り、労多くして益なしである場合が多いのであるが、古い在来の製品と市場に拘ってチャンスを失する企業があまりにも多い。
   あのノキアなどは、ホンの少し前までは、タイヤや日用雑貨を売っていたはずだし、GEだって、電気製品からは殆ど撤収してしまって金融会社になってしまっており、創業何十年等と歴史を誇れる時代ではなくなってしまったのである。
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感動的な大長江の影像・・・ニコン竹田武史写真展

2006年01月30日 | 展覧会・展示会
   銀座のニコンサロンで、写真家竹田武史氏の「大長江~悠久の大河6300キロの旅」写真展が開かれている。
   同志社大で神学を学んだ31歳の若い写真家で、オーストラリアを放浪の旅をして感激したと言う。
日中共同研究プロジェクトで「長江文明の探求」の記録カメラマンとして参画し、語学研修のため貴州大に留学して、その後、長江全域の写真を撮り続けていると言う。

   源流から河口近くまで、何点か長江の写真はあるが、大半は、6300キロに亘る流域に住む人々の生活と風物・風景写真で、私などの知らない長江流域の姿が生々しく活写されている美しい写真には感動を覚える。
   ヒマラヤに源流を持つ長江は、まず、チベットを通過するので、5100メートルの高地に住むチベットの人々の生活を写している。

   この口絵の写真は、シャングリラ「素晴しい理想郷」と言う題名で、高原の寺院に光臨した活仏に会いに行く為に正装してイソイソト出かける女達の描写で、高山植物の咲く野を真っ青な高原の峰峰をバックにした実に美しい写真である。
   宗教と生活が一体になったチベット人の生活、このアニミズムに近いヤオヨロズが総て神である人々の生活を、実に優しく愛情を込めて描写している。
   大学で神学、それも一神教の峻厳なキリスト教と対峙しての勉強であった所為なのか、或いは、竹田氏自身のパーソナリティなのか分からないが、どの写真も素晴しく自然でそれに生活と文化が滲み出ている。
   竹田氏も言っているが、このチベットの人々の写真を見ていて、30年以上も前に、ボリビアやペルーのアンデスを歩いていた時に接したインディオの姿とそっくりなのでビックリした。
   アジアのモンゴロイド族が、ベーリング海を越えて、アラスカ、ロッキー、パナマ地峡を越えて、アンデスまでやって来て永住したことが痛いほど良く分かる。

   桃源郷に住む苗族などの少数民族やその生活の描写がまた素晴しい。
   幾重にも重なる緑滴る棚田、田園生活。
   三峡のダム建設、水郷地区の漢民族の生活、甍重なる中国の街並み、このあたりになると懐かしいおなじみの風景が展開されるが、文明の波で消えて行く運命にあり、探すのが大変だったと言う。
   超近代的な上海の描写が一寸異質だが、とにかく、大長江6300キロとは、大変な人類の文化圏を形成していることが良く分かる。

   もう随分前になるが、上海に行って、長江、即ち、揚子江の河口に出たが、全く海で河ではなかった。
   ブラジルのベレン、マナウスでアマゾンを見たが、この時も、対岸など見えなかったが、島国日本に住んでいると河まで、自分で決め込む悪い癖が出る。
   撮ったフィルムが1500本、膨大な写真の中から選んだ大長江の写真だが、同時に発売されている竹田氏の「大長江~アジアの原風景を求めて」と言う写真本が素晴しい。
この写真展に出品されている作品の多くが収録されている。
   NIKON F100で撮った写真が大半だと言うが、私のF100は、一寸かわいそうだと思ってしまった。
   
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平山郁夫シルクロード美術館展・・・玄奘三蔵への巡礼

2006年01月29日 | 展覧会・展示会
   1月30日まで、日本橋高島屋で「平山郁夫シルクロード美術館展」が開かれている。
   同じ階で、加賀100万石物産展が開かれているので、結構客が多く、パラシュート効果抜群である。

   平山郁夫画伯の砂漠を行くラクダのキャラバン隊を描いた大作が2点、ほかにシルクロードの人々や仏像の絵が展示されているが、大半は、平山夫妻で収集したシルクロード縁の土地の文化遺産、仏像をはじめ多くの彫刻、美術品、土器、装飾品、織物等々バリエーションに富んだ博物展であり、確かな目で見出した歴史的な文物が展示されている。
   2年前に、開館されて信州の「平山郁夫シルクロード美術館」の謂わば出開帳であろうか。
1万点以上も収集した中の一部を展示していると言うが、可なりの質とボリュームの展示会である。

   1971年に、初めての収集品、テヘランのハジババと言う骨董店で買ったラスター彩植物文大皿が飾られていて、平山夫人の筆で当時の経緯が説明書きされている。
   お金がなくなり帰国して送金して取得したものだと言う。平山画伯は、店の主人の絵を描き、その絵が店先にディスプレイされていた。
   平山氏が気に入ったガンダーラの仏像をはじめ、東は中国の俑やインドネシアの織物から、西はシリアの装飾品に至るまで、平山夫妻の美意識を通して集められた興味深い文物が展示されていて、今まで何度も見て来た平山画伯の絵ではない美術世界の別な面が覗けて興味深かった。

   昨年、三越で、「平成の洛中洛外」平山郁夫展を見たが、壮大な平安京を俯瞰した絵をはじめ、素晴しい京都や日本の風景画が展示されていて、シルクロードの終着点日本の絵を見ながら、平山画伯の日本回帰を感じた。
   平山氏の絵画展には、機会があれば殆ど出かけていて、出版物も読んでいるが、私は、何故か、平山氏は、玄奘三蔵を求めて旅を続けているような気がして仕方がない。
   
   平山氏は、広島で原爆を経験し九死に一生を得た被爆者であり、29歳の時に院展で「仏教伝来」で入賞し、2年後、やはり院展で「入涅槃幻想」で日本美術院賞・大観賞を受賞し特待に推挙されている。
焼失してしまった法隆寺の壁画の平山氏が模写した仏画を見たことがあるが、仏教との縁は極めて深く、平山氏のモチーフの中に仏教が首座を占めているような気がする。

   私は、2000年に完成した薬師寺の玄奘三蔵院伽藍の平山郁夫筆の「大唐西域壁画」を見に出かけた、伽藍の壁面3面を占める壮大な絵画である。
   それは、玄奘三蔵が歩いたであろう西域の峻厳な風景を壁面に再現した感動的な壁画である。

   修行が深まるにつれて教えに疑問を持った玄奘三蔵は、天竺に赴き、教義の原典に接し、かの地で直接高僧論師の解義を得るほかないと決心して、鎖国政策の国禁を冒して旅に出た。
   灼熱の太陽の照りつける砂漠や雪と氷に閉ざされた極寒の天山山脈を越え、何度も死に直面しながら、難行苦行の末インドについて、ナーランダー寺院で戒賢論師に師事して唯識教学を学び、インド各地の仏蹟を訪ね歩いた。
   仏像・仏舎利、サンスクリット語の仏教経典657部を携えて、同じ道を再び死を賭して唐に向かった。
   実に、通過した国は128カ国、3万キロ、17年の歳月を要したのである。
   帰国後も気を緩めることなく、死の直前まで経典の中国語への翻訳を続けたと言う。

   シルクロードと言うが、これは、ドイツ人地理学者リヒトホーフェンの造語Seidenstrassenが英訳されてSilk roadになった欧米人の概念で、中国の絹がヨーロッパに伝わった道筋であるが、日本から見ると、同じ道を逆方向にインドから西域を経て中国、日本に仏教が伝来した道・仏の道である。
   ヨーロッパ人のシルクロードは交易の道であるが、玄奘三蔵の仏教の道は人類の幸せを求めた真実の道である。
   平山郁夫氏のシルクロードは、祈りへの道、真実の追究への道であり、玄奘三蔵を求めての道であったのではないかと何時もそう思いながら絵を見ている。

   余談ながら、薬師寺は、私にとって思い出深い寺である。
   教養部の学生の頃、上野教授の美学の授業で薬師寺への美術鑑賞で出かけた時、その頃、まだ、若くて副住職であった高田好胤師が教授に教えを請うたといいながら懇切丁寧に案内してくれた。
   自分は男前なので罪が深いのだと学生を煙に巻きながら、東塔の裳腰をつけた三重塔を、天武天皇と持統天皇夫妻の愛の結晶だから美しいのだと解説していたのを思い出す。
   上野教授の美学の授業は、その頃、京都国立博物館で開催されていたルーブル展にも閉館後出かけるなど、楽しい授業が多くて、京都で学んだ価値は十分にあった。
   宮崎市定教授の中国の歴史や湯川秀樹教授の講演など聴いていた頃である。

   奈良に行くと西ノ京には必ず出かけて、薬師寺から唐招提寺への田舎道を歩いた。
   今でこそ、素晴しい伽藍が立ち並んで壮大な寺院に変わっているが、その頃は貧しいお寺で、訪れる人も少なくて、国宝の仏像も暗い建物の中でくすんでいた。
   西塔の柱跡の水溜りに、唯一残った東塔の景が寂しく写っていたのを思い出すが、大体、奈良の寺と言っても奈良公園近くの東大寺等一部の寺しか訪れる人が少なくて寂しかった。
   もう何十年も前のこと、和辻哲郎や亀井勝一郎の古寺巡礼を持って、美術愛好家が歴史散歩を楽しんでいた頃のことである。   
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日産のグローバル人材育成・・・志賀俊之COO

2006年01月28日 | 経営・ビジネス
   日経産業新聞主催、ヘイコンサルティング グループ協賛で、「グローバル時代の人材マネジメント~今、企業に求められるリーダーシップ育成~」と言うフォーラムが開催されて、日産自動車の志賀COOが、「グローバル時代の人材育成マネジメント」と言う演題で講演を行ったので聴講した。

   講演を聴いた最初の印象は、カルロス・ゴーンCEOが、パリに行き、日産の経営から少し距離を置いてから、多少企業経営が集団指導性に変わったのではないかと言うことであった。

   ところで、志賀COOは、日産の経営および人材育成について多くを語ったが、自身が指摘したように、カルロス・ゴーン氏が、「30歳でブラジル・ミシュランの社長になって以来、ずっと経営者を生産している「プロの経営者」」であることで、ゴーン氏が持ち込んだ日産の経営そのものが、グローバル時代の人材を育成したと言うことであろう。
   ゴーンCEOは、世界で最も厳しくて商才に長けたレバシリの血を受けたブラジル人で、フランスの超エリート校ポリテクに入学して、ECOLE DES MINES鉱業高等学院卒と言う最高の教育を受けて、ブラジル・ミシュラン社長でスタートした。
その後、米国に移り、アメリカミシュランの社長として厳しい試練を受けユニロイヤルの買収等完全に業績を建て直し、ルノーに入ってからはベルギー工場の再建等担当するなど、その間に培った最先端を行くグローバルビジネスでの経営手腕は群を抜いており、望み得る最高の経営者として日産にやって来たのである。
   生まれた環境、教育、キャリア、総ての面で、最高の資質を備えた天性のグローバル経営者としてである。

   元々、日本の製造業でも、最高の人材を集めて最高の車を作っていた日産であり、劣悪な経営と大企業病、極端な官僚化等過去の残滓に窒息状態で活路を見出し得なかっただけであったから、経営手法を変換しコーポレートカルチュアを革新すれば一挙に回復の余地は十分にあったのであろう。
   カルロス・ゴーンのたった2時間の社員に告ぐ演説が、日産社員の士気を一気に高揚させたと志賀COOが云っていることからも分かる。

   カルロス・ゴーン氏は、30人のスタッフを連れて来て日産社員の中に同化させてリバイバルプランを始動したと言う。
   日本人の企業文化を大切にしながら、企業目的とターゲットを高らかに歌い上げて最先端を行く経営手法を導入して優秀な日産社員の能力をフル回転させたのである。
   元々、グローバル企業である日産には、世界に通用するグローバル社員を作り出す以外には選択肢はないし、まさに、カルロス・ゴーンの経営そのものが、グローバル・マネジメント人材育成のオン・ザ・ジョブ・トレイニング場だったのである。
   極言すれば、ルノーとの提携は、副産物として、優秀な社員と技術を有する日産に、カルロス・ゴーン・ビジネス・スクールと言う途轍もない資産を持ち込んだのだと言っても過言ではなかろう。

   ところで、志賀COOは、講演で、エクゼクテイブ・リソース・マネジメントの中で、ダイバーシティ(多様性)の重要性を強調していた。
   より高い価値を創造するためには、色々な価値観を持った色々な背景を背負った人々による異質と多様性が重要であること、それが企業の活力を生む。
   このことは、数日前に、イノベーションと経営で触れたメディチ・インパクトに相通じる考え方で、創造性と豊かな発想を生むための基本的な手法であるが、企業社会は、異質をや多様性を排除する強力な力が働く厄介な組織でもある。

   話は飛ぶが、私のグローバル・メネジメント人財の育成についての考え方は、資質のあるΠ(パイ)型人間、即ち、ダブル・メイジャー、少なくとも異質な2つの専門分野の教育を受けた人材(その一つはMBAが望ましい)に、厳しい海外経験と英語力、そして国際感覚を身につけさせることだと思っている。
それに、世界に通用する巾の広い教養人であれば望ましいと思うが、中々大変である。
   もっとも、いくらこのようなスタッフを育成しても、トップ・マネジメントに事の重要性を理解してこれ等の人財を活用する才覚がなければ意味がないと思う。

   当日、商社やメーカーなど日本の有名企業のグローバル人財育成プログラム等について討論されていたが、形だけで実質が何も伴っていないことが良く分かった。
   行き当たりばったり、ぶっつけ本番、と言うところであろうか。
   それなら、今、不況で殆どの会社で辞めてしまっている海外留学制度を復活させて、欧米、そして、進出国の大学院に人材を送り込むことが良いと思う。
   海外のトップクラスの人々と渡り合える人間を育成することである。


   
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初春大歌舞伎・・・坂田藤十郎の政岡

2006年01月27日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   坂田藤十郎の襲名披露の東京公演は昨日千秋楽を迎えて終わった。
   昔なら当然大坂の千両役者の江戸下りなのだが、時代が時代、世の中は変わってしまっている。

   今回の坂田藤十郎の舞台で重要なのは、やはり、政岡を演じた「伽羅先代萩」であろう。
   華やかな襲名披露の「口上」の後の舞台なのだが、お祭り気分を完全に払拭した坂田藤十郎の入魂の演技で客席を圧倒する。

   私は、大分前に雀右衛門、そして玉三郎の政岡を見ているが、後の玉三郎の政岡の記憶が鮮明に残っている。
   今回の舞台は、その歌右衛門、玉三郎と伝承されて来た従来のものとは違った演出で、御殿の場で、舞台の上手に、千松が八汐に殺害される時に主君鶴千代が避難する部屋が設置されていて、これが重要な役割を果たす。
   従来の舞台だと、政岡が鶴千代を正面から抱きしめて見えないようにするのだが、今回は、政岡が鶴千代を別室に誘導するのである。

   あえて、襲名披露公演に、東京で定番の舞台をさしおいて、藤十郎の為の伽羅先代萩を演目に選んだのも、先の片岡仁左衛門襲名披露公演の「助六」と同じ気負いと自信であろうか。
   仁左衛門の「華の人」で、この襲名公演で、お客さんが関西人の助六などしゃらくさいと言ってはると言う奥方の報告話が確か載っていたと思うが、私は、仁左衛門の粋で洒落た助六に感激してこれが本当の芸だと思った。
   そんな素晴しい舞台を、坂田藤十郎が伽羅先代萩で魅せてくれた。

   この舞台は、文楽に近いと言われているが、最初は、1777年の大坂中の芝居で歌舞伎として初演されて、翌年に京都で浄瑠璃化されたと言う。
   従って、現在の文楽は、江戸浄瑠璃の松貫四らによって歌舞伎から改作されたもので、いずれにしても、今回の舞台はオリジナル版に近いと言うことであろうか。

   昨年の5月に、国立劇場の文楽公演で、簔助の素晴しい政岡を観ている。
   浄瑠璃に合わせて演ずる人形の仕種が実にリアルで、千松の亡骸を「うしろぶり」でさし上げて号泣する政岡など堪らないほど胸に沁みる。
   それに、竹本住大夫の浄瑠璃が輪をかけて素晴しかった。
   今回、文楽と同じで、藤十郎は、飯炊きのところで米を砥ぐ時、三味線の音に合わせて左右にスイングしていたが、沈痛な中での一服の救いであった。
   浄瑠璃の語りが多くて台詞の少ない舞台なので、芸の確かさが大きな比重を占めていて、藤十郎の目の動きや仕種を注意して観ていたが、実に芸が細かい。

   幼い主君を暗殺から守る為に、茶の湯道具で飯炊きをするが、ひもじい思いをさせていて、庭の雀に親鳥が来て鳥かごの小雀に餌を与えるのを見て鶴千代は「おれもあのように早う飯がたべたい」と羨ましがる。
(文楽は、この後、チンが出て来て御膳のお下がりを食べるのを見て鶴千代はチンになりたいと言って政岡を困らせる)
   藤十郎の目に涙が溢れスッと下に流れ落ちる。
   何故、泣くのかと鶴千代に聞かれて飯が早く炊けるマジナイだと偽って笑う。
   顔で笑って心で泣いて、等と言うが、本当に藤十郎は、泣いて笑っている。

   八汐に実子千松が嬲り殺されるのを見て、主君鶴千代を急いで上手の部屋に入れて守護する。
   政岡は、わが子が懐剣で喉元を抉られていて断末魔の叫びをあげているのに、部屋の柱にもたれながら仁王立ち、涙を流さず動揺もせずに立っているが、懐剣を握り締めながら、微妙に表情を変えながら悲しみを堪えている。
   平静を装いながらぎりぎりのところで母親としての苦渋を滲ませる藤十郎の万感迫る演技である。

   この時の八汐を演じる梅玉だが、一番の憎まれ役ながら、何時もの颯爽とした立役とは違った雰囲気、しかし、風格があって悪だけの悪ではない役作りで実に上手い。
   以前に、団十郎と仁左衛門の八汐を観ているが、夫々の役者の個性が出ていて、伽羅先代萩を観る楽しみでもある。
   ところで、沖の井を演じた魁春も素晴しかったが、魁春の沖の井とは共演はあるが、梅玉とはないので、二人の息子を相手に政岡を歌右衛門が演じたらどう思ったであろうかと思うと面白い。

   何時も毒見をして、鶴千代の為に身代わりになって死ぬ覚悟を諭されている千松が、毒入りの饅頭を蹴って殺される。
   栄御前を送り出した藤十郎の政岡は、一人放心状態で佇む。この間が、長い。千松の亡骸に気がつくと、今までの鋼鉄のように忠義一途の忠臣政岡が、独りの母親に変わって千松の亡骸にかけ寄る。
   最初は、出羽奥州五十四郡の国の礎ぞや、出来しゃった、出来しゃったと言っているが、気が高ぶり始め、
「三千世界に子を持った親の心は皆一つ、子の可愛さに毒なもの食うなと云うて叱るのに、毒と見えたら試して死んでくれと云うような胴欲非道な母親がまたとひとりとあるものか。
武士の胤に生まれたは果報か因果かいじらしや、死ぬるを忠義と云う事はいつの世からの習わしぞ」
と必死と千松を抱きしめて天を仰いで号泣する。
藤十郎の顔は涙にかきくれて無茶苦茶になる。
   虚実皮膜、しかし、坂田藤十郎の芸は、それを超越している。
   役にのめり込みながら、客の琴線に触れて引き込む、そんな魔力が備わっているような気がして、何時も当事者のような気になってどっぷりと入り込んでしまう。

   足利家床下の場は、忠臣荒獅子男之助を豪快に演じた吉右衛門、ニヒルで風格のある底なしの悪を演出した幸四郎とも流石で、口上でも、大切な両翼で挨拶をしていた。

   特筆すべきは、栄御前を演じた片岡秀太郎の円熟した風格のある舞台で、坂田藤十郎と関西歌舞伎を支える重要な柱であることを感じさせた。
   扇雀の長男虎之介の初舞台だが、素晴しい最高のスタートとなったことは間違いない。
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中村メイコの笑劇場・・・泣き笑いの人生が爽やか

2006年01月26日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   中村メイコが、「五月蝿い五月晴れ」と言う本を書いた。
   読んでいて、メトロを乗り過ごしてセミナーに遅れてしまった。

   慌しい結婚式の後、母がくれたメモには、「初夜が明けたら、花嫁のほうが早く起きて、枕もとにきちっと座って、ご挨拶をするんですよ」と書いてあった。
   眠そうな顔をして新郎がお目覚め。
   「夕べはお疲れさまでございました」
   芸能界では、ひと仕事終えた後「お疲れさま」と相手を労うのはしきたり。思いをこめた一番の礼儀でした。
   「そういうこと世間様に言うなよ。・・・たいていは笑うよ。それに俺、あんまり疲れてないから大丈夫」

   そんな結婚で始まった中村メイコ、女優として何度も結婚シーンがあったが、頼んで結婚シーンを外してもらって、ウエディング・ドレスは、本番にしか着なかったと言う。

   小説家の父「中村正常さんの一日」で一緒に撮った写真が雑誌に載ったのが映画会社の目に留まって横山隆一の「フクちゃん」に映画デビュー、2歳半の中村メイコの名子役人生が始まった。
   漢字の面白さと奥深さを教えてくれたのは徳川夢声、英語の先生は古川ロッパ、遊びの先生はエノケン、撮影所におんぶして行ってくれるのは黒澤明助監督、天性の才能に磨きがかかり、超人気スターになった。

   風雲急を告げる時勢、時代におもねることを拒否して作家を廃業して、妻に養えと言って何もしなかった父、久方ぶりに来た小説の仕事を勉強だからと言って中村メイコに執筆させた父。
   その「ママ横をむいてて」が、川端康成が帯を書いて出版、主演中村メイコで松竹映画になった。
   大人の役をやるのに質屋の暖簾をくぐる練習もしなければならないだろうと言ってメイコを質屋に行かせた元女優の母親。
   当時のモガ・モボを地で行ったような素晴しい両親に育てられたメイコの人生が実に爽やかに描かれている。

   当時流行のアルバイトに憧れて行った神田の雑誌社の編集長の吉行淳之介に初恋をした話。
   NHKの『お姉さんといっしょ』で、登場人物を独りで皆やって7色の声と騒がれ、東大が研究材料にした話。
   とにかく、想像を絶する泣き笑い人生が、胸を打つ。

   何の苦労もなく女優になった中村メイコが、三木のり平に不器用だのバカだの下手くそだの罵詈雑言の雨霰を降らせられて開眼した芸の道、それからは、森繁久弥であろうと小沢昭一であろうと、女房役が楽しくなったと言う。
   三木のり平の死には、身のよじれる悲しさ、惚れていたのかも知れないと言う。
   TVのさくらでは、小林亜星とのおじいちゃんおばあちゃんが実に良かった。

   感動を誘うのは、美空ひばりとの胸襟を開いた女の付き合い、二人の超天才の孤独と生き様が素晴しい。

   この本、中村および神津一家の人間模様が実に温かく克明に描かれていて、それだけ読んでも天才で稀有の役者人生を生きてきた中村メイコの爽やかな人生が浮かび上がってくる。
   
   私が実際に中村メイコの舞台を見たのは、TVでの「さくら」の続編で、同じおばあちゃんをやっていた。
   映画のメイコの記憶は殆どないが、TVでは、ずっと見続けている感じである。
   今もNHKの朝ドラ「風のハルカ」でナレーションをしていて、語り口は穏やかになったが、声は少しも変わっていない。
   悲しいときも嬉しいときも、何故か何時も何処かに居て、ずっと一緒に歩んできたような錯覚を覚える不思議な女優である。

   トットちゃんの黒柳徹子も、ユニークで型破りの子供時代を過ごしているが、この中村メイコや美空ひばりも、そして、並みの文筆家より遥かに格調の高い素晴しいエッセイを書き続けた大女優高峰秀子も、常人を超越した才能を持って生まれてきたといってしまえばそれまでだが、言うならば自学自習の才能開花である。
互換性の利くスペアパーツばかりを育成してきた没個性の文科省教育に一矢を報いていると思うがどうであろうか。
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ワビスケツバキにメジロ

2006年01月25日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   21日に降った雪が、まだ、庭に残っていて、所々花壇や芝生を覆っている。
   森や林に雪が残っているのか、良い天気になった所為なのか、メジロがわが庭を訪れて、ムラサキシキブやクチナシの残り実や、椿の花をつついている。
   6~7羽組になってやってきて、敏捷に木々を渡り飛ぶ。
   春に訪れる鶯と良く似た鳥だが、目の周りが白いのですぐに見分けがつく。
   入れ替わりに、大きなヒヨドリが来て、ツゲの黒い実をつついて食べている。

   わが庭には、今、ラッパ咲きで半開きの小さなワビスケツバキが咲いている。
   今咲いているのは、相模ワビスケ、白ワビスケ、一子ワビスケだけだが、もう少しすると他のワビスケツバキも咲き始めるが、紺ワビスケや黒ワビスケ等色の濃いワビスケは開花が遅い。
   ワビスケツバキの代表の太郎冠者(有楽)は、まだ咲かない。

   雄しべの葯が退化して変形し白くなったツバキをワビスケツバキと言うようだが、親の椿と比べて花が一回り小さく早咲きになると言う。
   花の大きさは4~5センチで小さく、花が咲くとすぐに落ちてしまう。
   ワビスケには2種類あって、太郎冠者の種から出来たものと、ヤブツバキの突然変異によるものとであるらしい。

   ワビスケツバキは、日本人好みの花で、欧米人には興味がなさそうである。
   欧米で品種改良された洋ツバキは、すべて中輪以上で、殆ど薔薇の花に似た豪華で華麗な花に変わってしまっている。
   イギリスの花好きの友人に清楚なワビスケツバキについて話をしたが、あまり興味を示さなかった。

   一重で小さくて、すぐに散ってしまうワビスケツバキ、日本人は、そこにワビサビ、詩情を感じるのであるが、何故、欧米人は薔薇のような花ばかり好きなのか。
   薔薇の品種改良に日本の野ばらまで使ったし、椿のみならず、日本の百合や皐月まで薔薇のように変えてしまった。

   緑とガーデンを愛するイギリス人だが、自然を捻じ伏せて造型した大陸ヨーロッパ人と違って、彼らの好んで開発した風景庭園や野生の風情を取り入れた今日のイングリッシュ・ガーデンを見ていると、他の欧米人と少し違うような気がしている。
   日本人の感覚が分かるのか、わが友は、盆栽に挑戦し始めた。
   日本の庭等の美しい英文の写真本を持っていくと喜んでくれて結構勉強している。
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幻のピアニスト・スヴャトスラフ・リヒテル・・・バシュメットが語る

2006年01月24日 | クラシック音楽・オペラ
   世界最高のビオラ奏者ユーリー・バシュメットが著した「バシュメット/夢の駅」と言う本を読んだ。
   ロシアの偉大な音楽家の生活などの逸話を鏤めた随想録的な自伝であるが、鉄のカーテン前後のロシアの音楽事情が具に語られていて面白い。

   何回か機会があったが、残念ながら、まだ、彼の演奏会に出かけたことがないのだが、語られているオイストラッフ、リヒテル、ロストロポーヴィッチ、ギレリス、コーガン、クレーメル、ギルギエフ等の演奏会には出かけていて、実際のその音楽を聴いているので大変興味深く読ませてもらった。

   知らなかったがバシュメットは、スビャトスラフ・リヒテル夫妻と極めて親しく交際していて、その20世紀最高のピアニスト・リヒテルについて多くを語っていて、それが実に興味深い。

   リヒテルの名声は世界に知れ渡っていたが、ソ連政府の政策によって許されず、初めて西の世界にお目見えしたのは、1960年、それも、隣のフィンランドだけで、既に45歳になっていて、正に、幻のピアニストであった。
   その年の晩秋にニューヨークに現れ、ニューヨークタイムズが、「来た、見た、勝った」と「世界で最も偉大なピアニスト」と報じた。

   日本には、10年遅れて1970年に来日した。
   確か、東京文化会館だったと思うが、リサイタルを聴きに行った。
   最後に、リヒテルを聴いたのは、1992年か3年で、ロンドンのサウスバンクであった。一度キャンセルされて、2度目に実現したのである。
   舞台は真っ暗で、リヒテルの前のピアノの鍵盤と楽譜だけにスポットライトがあたっていて、最初に東京で見た豪快なタッチの演奏とは違った、何か枯れたしみじみとした音色になっていたような気がする。
   1997年に、モスクワで亡くなっていて、ウクライナ生まれで実際はドイツ人でありながら最後まで亡命しなかった偉大なソ連のピアニストであった。

   バシュメットが、リヒテルから声をかけられたのは、学生オーケストラとのバッハの協奏曲を練習中に2回も、一緒にショスタコーヴィッチのソナタを演奏しないかと誘われた時だと言う。
   楽譜を持って来いと言われて、リヒテル家で練習が始まるのだが、リヒテルのテンポが遅すぎた。ショスタコーヴィッチのメトロノームは壊れていたのだが、楽譜どおりに弾くのかとリヒテルに聞かれたとか、しかし、リヒテルは、何度も演奏しているバシュメットの提案を聞いて素晴しい音楽を作り上げたと言う。
   リヒテルは、何時も、決して手抜きせず全力投球だったと言う。

   スイスで、世界最高のヴァイオリニストと信じているオイストラッフとベートヴェンのヴァイオリン・ソナタの演奏会があった時、スイスの反ソ感情のためオイストラッフのヴィザが下りないかったのでリヒテルはリサイタルも拒否したと言う。
   また、カメラ嫌いで有名で、カメラマンが入っていたので、パリの演奏会場から帰ってしまった。女性エージェントが水溜りに跪いて懇願したので会場に帰って演奏した。演奏後、カメラマンが観客に袋叩きになっているのを知り、リヒテルが助けた、そんな逸話もある。

   バシュメットを、カラヤンがベルリン・フィルの主席ビオラ奏者に迎えたい旨の申し出をソ連文化省に出したが、友好国でないので怒って、フランスで予定されているリヒテルとの演奏会で出国しなければならないのにをパスポートを取り上てしまった。
   リヒテルは、ソ連政府に、バシュメットの出国を拒否するのなら、この先2年間はモスクワで演奏しない、と抗議したので事なきを得たと言う。

   弘法ではないが、ヤマハ・ピアノを愛したリヒテルだが、ピアノはどんなものでも良く、自身をピアノに合わせるので、本番前のサウンドチェックも必要なかったと言う。
   ギドン・クレーメルも、グアルネリからストラディバリュースに変えたときも、いずれ、同じ音色になると言っていたが、超人とはそんなものであろう。

   一日の練習時間は平均5時間で、その日に消化できなければ次にその分プラスして練習する。ピアノの練習かパーティか仮想行列かゲームか悪ふざけなども好きでとにかく休むことがなかった。神々しいまでに美しいショパンのエチュードと言って変ホ短調練習曲を涙を流しながら弾いた。
   リヒテルに君言葉で話そうと言われたが、決してリヒテルに君と言えなかったバシュメットも素晴しい。

    死の直前、バシュメットは、リヒテルの希望で、奥方と3人で30キロ以下の速度で車を走らせながら、村の教会を2時間以上も回ってドライブしたと言う。
   別れ際、玄関口で、リヒテルは、バシュメットに別れの挨拶をするために、中々家の中に入らなかったので、もう一度戻って抱き合ったが、それが永久の別れになったと言う。
   
   とにかく、まだまだ、胸を打つ話が続くが、外国での演奏旅行中演奏会後にバシュメットに先約があって夕食を一緒に出来なかった時、ホテルに帰ったら部屋に行くと言って出て、朝の4時半に帰ったので起こすのは悪いと思って翌朝行ったら、リヒテルは6時まで寝ずに待っていたのだと言う話もあった。

   ところで、この偉大なリヒテルは、後に、ゲーンリフ・ネイガウスに師事するが、実際は、独学でピアニストとして大をなしたのである。作曲も、指揮も、そして、絵を描くこともすべて独学で、もし、これ等のどれかに専念していたら、ピアニストと同様の名声を博していたと言う程の実力があったのである。
   しかし、バシュメットに、何故、指揮をしないのかと聞かれて、ピアニストとしてもっと勉強しなければならないので時間がないと言ったと言う。

   私が思っていたように、リヒテルもオイストラッフもロストロポービッチもソ連でも大変偉大な音楽家であり、そのように遇されながらも、バカな政治に翻弄されながら数奇な人生を送っていたことを改めて知った。

   私の手元には、リヒテル等3人のレコードやCDが結構沢山ある。
   カラヤン指揮ベルリン・フィルでこれ等の3人が独奏するベートーヴェンの三重協奏曲があり、これを私は一番良く聴いたが、素晴しい遺産を残してくれたと思っている。

(追記)音楽関係の素晴しい本を出している「アルファベータ社」のこの本、小賀明子さんの訳も素晴しい良い本である。 2400円+税
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イノベーションと経営(5)・・・交差的なメディチ・インパクト その2

2006年01月23日 | イノベーションと経営
   メディチ・インパクトの著者F.ヨハンソンは、イノベーションを「方向的イノベーション」と「交差的イノベーション」に区別して、長期的な成功の為には両方とも必要だが、後者の方が遥かに強力で広範囲に広がるとしている。

   「方向性イノベーション」とは、ある製品を明確な次元に沿って、おおむね予想可能な段階を踏んで改良することで、例えば、企業が既存のプロセスを合理化して効率化を図ったり、ある都市で成功した政策プログラムを別の都市に合わせて調整したり、と言ったこと。
その結果は予測可能であり比較的短期間で達成できる。

   「交差的イノベーション」は、世界を新しい方向に向かって変えることで、方向的イノベーションほど多くの専門知識を必要としないので、思いもかけない人物によって成し遂げられることもあると言って、次の特徴を列記している。
   驚きや意外性に満ちている
   これまでにない新しい方向に飛躍する
   まったく新しい分野を拓く
   個人、チーム、企業等に自分の自由に出来る空間が広がる
   追随者を生む、イノベーターはリーダーになれる
   その後長期に渡って方向的イノベーションを生む源泉を提供する
   かってなかった形で影響を及ぼす

   早い話が、昔のソニーは、「交差的イノベーター」であったが、現在のソニーは「方向的イノベーター」に甘んじているので、業績が悪化していると言えば分かると思うが、言い過ぎであろうか。

   この交差的イノベーションは、メディチ時代のフィレンツェの様に異なる専門分野や文化が交差する場で、通常ではないようなアイディアが行き交い新しいアイディアが爆発的に湧き出している交差点で生まれるのである。
   近年は、人々の国境を越えての頻繁な移動、科学間の相互乗り入れや学際の進展、コンピューターの飛躍的発展等で、交差点はかってない勢いで増えていると言う。

   ヨハンソンは、革新的アイディアの足を引っ張る連想のバリアを壊す為の文化多様性を強調する。
伝統的な文化との繋がりを断ち切られた人や、複数の文化に徹底して曝された人は幅広い仮説について考慮できる強みを持ち、革新的イノベーションを行う確率が高い。
人種の坩堝であるアメリカにイノベーションが起こる確率が高いのもこの例で、複数の言語に堪能な人はそうでない人より創造性が豊かだ言う。

   面白いのは、教育が創造性の邪魔をする可能性があると言っていることである。
交差点でイノベーションをする人は、独学で専門知識を身につけた人、即ち、既成の教育にはない学び方で知識を得た人が多い。自分で自分を徹底的に鍛えてきた人だと言う。
   あの適者生存の法則を編み出したダーウインは、最初は医者や牧師を目指したのだが失敗して、地質学の研究にビーグル号に乗って世界を回った。
その途中にガラパゴス島に着いたのが幸いして、人類史上最も偉大な生物学者になったのであるが、「価値のあるものはすべて独学で学んだ」と言っている。

   そう言えば、20世紀最大の経営学者ピーター・ドラッカー先生は、ハンブルグ大学に入学してフランクフルト大学に編入して、そこで、国際法の博士号を取って、授業まで持って教えていたが、確か、一度も授業は受けずに図書館で勉強して、日中は、銀行員や記者として働いていた筈である。
   授業に出たのはケインズの講義くらいで、正に、ドラッカー先生こそ独学の人で、異文化と異文明の交差点ウイーンで生まれ育ち、イギリス、アメリカと移住して世界を股にかけて、自分自身で異文化の交差点を創造し続けてきた最高のイノベーターではなかったであろうか。

  (追記)余談ながら、何十年も前になるが、私がアメリカの大学院に行って最初にビックリしたのは、大学には、ハッキリした学部がなくて学際であったことである。
授業も、ビジネス・スクールでありながら、コアの専門学科は充実していたが、それ以外に全大学の授業が開放されていて単位が取得できて、ビジネスの授業にも多くの他のスクールの生徒が来ていた事であった。
   学部で評価するのは日本だけで、アメリカでは、学問の相互乗り入れは当たり前だったのである。
   
   口絵は、ブラジルの牧場。こんな世界もあるのです。
      
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雪景色の思い出・・・オランダの雪、アルプスの雪

2006年01月22日 | 海外生活と旅
   関西に生まれ育ったが、故郷を遠く離れて、その後、東京、アメリカ、ブラジル、オランダ、イギリスと渡り歩き、帰国後はずっと千葉に住んでいるので、雪深い所に住んだことがない。
   夜中に深々と雪が降って、今日のように天気が良くなって、翌日に美しい雪景色が目の前に展開されるとカメラを持って飛び出したくなる。

   昔、出張でサウジアラビアのリヤドで仕事をしていた時、異常気象で大雨が降った時のことを思い出した。
   この時、パートナーのアラビア人たちは、会社を休んで家族を引き連れ弁当を持って、大水で氾濫して激流する川を見物に出かけた。
   雨など殆ど降らない水不足の砂漠の民には、川自体が珍しくて、何時も見慣れた普通の谷底が俄か河川になって、それが氾濫して激流するのなどは滅多に見られない見ものなのである。
   何のことはない、泥水が凄い迫力で流れているだけなのだが、珍しいと言うことはそう言う事なのである。
   私の雪にたいする感覚も、これと同じかもしれない。

   フィラデルフィアやアムステルダムやロンドンも冬は寒い所だが、東京と同じで殆ど大雪の経験はない。
   しかし、一度だけ、アムステルダムで大雪が降って、珍しい経験をした。
この時は、娘に雪橇を買ってやったのだが、その時だけで、その後は一度も使わなかった。
   その年は、大変寒い年で、氷点下21度まで下がって家の中の水道管が破裂して水浸しになった。
   車は、各住宅の前庭に野外駐車なので、朝車に乗ろうとすると鍵穴が凍って開かないので苦労する。一度、熱湯をぶっ掛けて開けようとしたら、その熱湯が瞬時に凍り付いて益々困ったことがあった。

   オランダは低地で殆どフラットなので、雪が降ると全く雪で真っ白に埋まってしまう。
   しかし、風車や観光地のオモチャのような極彩色の民家が雪を頂く風情は実に美しい。
   30キロメートル以上一直線に続く大堤防の中の巨大なアイセル湖が完全に凍結して、人々が行き交い、帆を張った橇が湖上を滑ってゆく。

   しかし、このように寒い冬には、オランダ中の全部の運河が凍りついて繋がるので、全オランダ運河一周のスケートレースが開かれるので、全オランダが沸きに沸く。
   確か、優勝者のタイムは6時間少しだったように記憶しているが、真っ直ぐに繋がった運河ばかりではないので、陸に上がって橋を越えたり、とにかく、オランダの運河も色々あるのが分かって面白かった。
   アムステルダムの郊外のアムステルフェーンに住んでいたのだが、家のすぐ側に運河があって、家族はオランダ人に混じってスケートを楽しんでいた。

   雪の恐さを知ったのは、雪の日に、車を出して走り始めて途中でブレーキを踏んだら、車が半回転してしまった時である。
   オランダでは、雪が降りそうだと分かると、役所が車を出して事前に道路に塩を撒くので、冬季でも車はチェーンを付ける等と言った準備をせず普通に走っている。
この日は、途中から急に降り出して、それに、雪道を運転した経験がないので、急ブレーキをかければスリップすると言う初歩的なことさえ知らなかったので、平生どおりに走っていたのである。
   本来はビジーな道路だったが、休日で後続車がなかったので助かった。

   フィラデルフィアの冬も寒いが、東京と同じで雪は少なかったし、それに、ロンドンも雪は東京並みである。
   勿論、サンパウロには雪は降らないので、南米で雪を見たのは、ずっと南極に近いアルゼンチンのバリローチェやアンデスの山の中であった。

   旅の途中では随分雪景色を見た。
   やはり美しいのはヨーロッパ・アルプスの山々の雪景色である。
   一番最初に見たのは、スイスのベルンからヨッホまでケーブルで行ったユングフラウ、そして、シャモニーからモンブラン、最後は、マッターホルンであった。
   鉄道と登山電車で乗り継いだ旅であるが、私は写真だけだったが、家族は可能な時はスキーやスケートを楽しんでいた。
   マッターホルンなどは、観光客の大半はスキー客で、30畳以上もある大きなケーブルカーが一挙に多くの客を運び上げて、スキーヤー達は3000メートルの高地から一斉に飛び出して滑降して行く。

   寒い雪に凍てついた夜道を、舗道をほのかに照らすショウウインドーの輝きや外灯の滲んだ優しい光にホッとしながらホテルに向かって歩いていたあの頃のヨーロッパの街並を、時々思い出す。写真や絵画と重なって、あれは夢だったのかも知れないと思うこともある。
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原田泰治とクロアチア素朴派画家による懐かしい絵画の世界

2006年01月21日 | 展覧会・展示会
   1月29日まで、日本橋の三越で、「原田泰治とクロアチアの仲間たち展」が開催されている。
   原田泰治のクロアチアに関係する絵は、1987年に制作された100号の「ザグレブの昼下がり」と最近の「コウノトリの村」の2点だけで、他に4点のブラジルの大作と日本各地を描いた牧歌的で故郷への郷愁を無性に感じさせてくれる懐かしい絵の数々が展示されている。
   原田泰治の絵は、空を埋め尽くすことから描き始めて、少しづつ前に前進して来るが、瓦一枚、石垣一つでも同じものがなく、細部に渡って克明に描かれている。しかし、やはり、時に感動するのは、雲が微妙にアクセントを付けている空の何ともいえない美しい色である。
   ところで、今回は、旧ユーゴ戦争の疲弊から立ち直ったクロアチアの原田泰治の友人達・素朴派画家の沢山の絵が、同時に展示されていてこれがまた楽しい。

   原田泰治とクロアチアとの関わりは、1973年に朝日新聞の「ユーゴの素朴派」の記事で、当時は、サイケデリックアート全盛時代で、日本の田舎を描いた原田泰治の絵などに見向きもされなかった失意の時期だったと言う。
   観念的な前衛絵画や専門的な知識や技術を必要とするアカデミックな当時の絵画界とは違って、専門ではない画家が、他に仕事を持ちながら自分達の生活の中から、その生活の夢を絵筆に託して仕事の合間に絵を描き続けているユーゴの素朴派画家の紹介に、わが意を得て痛く感激して勇気付けられたのである。
   その頃英国で出版された「ナイーブアート世界辞典」で、日本の代表的な素朴派画家は、原田泰治、山下清や谷内六郎であると紹介されていると言う。

   原田泰治が新聞から切り抜いて大切に持っていたイワン・ラブジンの「私の故郷」をはじめ、8人のクロアチアの素朴派画家の絵が展示されている。
ヨーロッパのお伽話の絵本のような絵画や、古いヨーロッパの風俗や風物を色濃く残した懐かしい牧歌的な絵など見ていて楽しい。

   私が興味を持ったのは、何人かの画家が描いているガラス絵である。ガラス板をキャンバス代わりにして描かれた実に精巧な綺麗な絵画であった。
   ガラスに描かれた絵は、反対の裏側から鑑賞するのであるから、左右はさかさまであり、その上、絵の具を何層も重ね塗りをする場合には、本来なら一番最後に塗る部分は一番最初に描かなければならないので大変な技術が必要な筈なのだが、実に精巧で細密画を見ているような感じで全く違和感がなく美しいのである。
   ガラスに密閉されたようなものだから保存性が良く何百年も色あせしないと言うが、表面に凹凸がなく滑らかなので写真を見ているような感じで実に美しい。
   14世紀に東欧で始まり、キリストやマリア像をイコンのように描いていたようで、18世紀には、風景画や風俗画、肖像画にも使われるようになったと言われている。

   口絵のソフィア・ローレンの絵は、若手のユシップ・ゲネラリッチの絵だが、暗いリア王の世界のような空と真っ白に雪化粧した東欧の田舎をバックに、レースのドレスとつば広の帽子で正装したソフィア・ローレンが、ドラ猫を左手で抱えている何とも不思議な絵だが、これもガラス絵である。

   口絵のもう一つの絵は、原田泰治の「コウノトリの村」であるが、田舎の民家の屋根にコウノトリが巣を作っている。下では、農家の老婆が鶏に餌をやっている、何処にでもある東欧風景である。
   私は、チェコとハンガリーしか知らないが、クロアチアもスラブ系の強い旧ユーゴ南部と違ってオーストリア・ハンガリー帝国領のヨーロッパの国だったので、今回のクロアチアの仲間たちの絵も東欧と言ってもスラブ色はそれ程ないように思った。

   やはり素晴しい異国のムードを豊かに描いてくれる安野光雅とは一寸違った雰囲気ではあるが、原田泰治の外国の風景を描いた絵は、やはり、メルヘンチックでムードがあって素晴しい。
   私が住んでいたブラジルの絵が4点あったが、懐かしく感じながら見せてもらった。
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読書の楽しみ方・・・和田秀樹流大人の読書法

2006年01月20日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   心理学者として活躍中の和田秀樹氏が「大人のための読書法」と言う新書を出した。
   読書嫌いであった和田先生が何故読書の達人になったのか、それはアメリカ留学による必要に迫られたリーディング・アサインメント(授業前必須の読書宿題)の結果であるとして、有益な大人の読書法を開陳している。
   本の帯の見出しが、『速読よりはやく斜め読みより確実な本の読み方教えます』と言うことだが、本当かどうか、教えられることが結構あったので、私なりの感想を記してみたい。 

   私の経験から言えば、アメリカの大学院では、その日のテーマが決まっているので、その授業の始まる前に、学生は十分にテキストや参考資料等熟読して勉強し準備万端整ったと言う前提で授業に臨まなければならない。
   MBAコースの場合であるが、例えば、某大企業の労働争議のケース・スタディとなると、その争議について書かれた膨大なケース本のみならず、人事労務管理の専門書、労働法や労働争議の歴史や色々なケースを扱った関連参考書・参考資料等、時には、何百ページにも亘るリーディング・アサインメントが義務付けられる。  
   普通、最初の授業の時に、授業スケジュール一覧が渡されて、その中に、細部にわたって参考書やリーディング・アサインメントが、詳細に記載されていて、日本のように2冊や3冊の参考書で済む訳はなく、図書室に篭って膨大な資料をコピーしなければならないこともある。

   リーディング・アサインメントで読む本なり参考書は、全頁ではなく、当該テーマの勉強に必要な章なり部分だけであることに目をつけて、和田先生の指摘ポイントは、本を読む時に、完全主義者は前頁を読もうとするがこれは愚の骨頂であり、必要な所だけを抽出して読めばそれで十分であり、この方法が最適であると言うことである。

   完全主義者は、本も完璧に最後まで読まないと気がすまないので、無駄な部分も時間を取って読むので遅くなるが、今日のように本や情報が溢れている時代には、ジャンルを絞っても全てをカバーできる状態ではないから、『全部読む』と言う発想を捨てない限りやって行けない、と仰る。
   これには全く異存はないが、私の場合は、使い分けていて、仕事や勉強の為の読書には、必要な箇所を重点的に読む方法を取って、他の本は、残念ながら、ダメだなあと思いながらも最後まで読もうとする性向が強かった。
   従って、どちらかと言うと、完全主義者に近い方で、時間を無駄にしてきた口だが、膨大な本に囲まれて、ボツボツ人生もユーターンになり始めると、読みたい本が多くて時間が惜しくなり、並行読み、飛ばし読み、とにかく、多くの本を読みこなす方に方向転換してきた。

   もう一つ完全に読み通す理由があったのは、アマゾンのブックレビューに投稿していたからでもある。レビューするためには、著者への礼儀としても当然である。
   ところが、最近、私のレビューに対して何でも「いいえ」と打ち込む悪意の評価者が出たので、投稿を止めにして、このブログで読後の感想などを書くことにした。

   さて、和田先生のコメントで最も重要なことは、読書は、自分を高める為の道具や武器として使うべきもので、頭の中に知識を蓄えるのが理想である、と言うことである。
   知識が頭の中にあるものとすれば、情報は頭の外にあるもので、今のように情報で溢れている時代には、沢山の情報に触れることはそれ自体に価値がない。知識化を優先して、取り入れる情報は少なくする方が良い、と仰る。
   完全主義者からの脱却が鍵であり、良質な情報をキャッチして如何に知識化するかがポイントなのであろうが、正直な所、中々難しい。

   「本以外の情報源をどう活用するか」と言うことで、新聞や雑誌、TVラジオ、インターネット等について書かれているが、本に優る情報源はないと言う説には賛成である。情報発信者としては、他の手段に比べて本に一番注力を結集するからである。
   私は、昔から本一辺倒で、週刊誌は普通読まない。今定期購読しているのは日経からの日経ビジネス等、それに、FOREIGN AFFAIRS 程度で、月間総合誌や経済経営専門誌等は、必要に応じて買っている。
   昔、社長に、「新聞を読みませんね。」と言われて困ったことがあったが、その上、在勤や出張で海外にいると日本語の新聞へのアクセスが困難になる。今でこそ、アップツーデイトな情報には結構注意しているが、確かに、マトモナ書籍尊重主義で、新聞や雑誌などにあまり注意を払わなかった時期があった。

   日常の情報源は新聞とインターネットで十分である。
   アップツウデイトな経済経営関係は、野村證券のホームトレード・サービスで、日経関係の膨大な情報は言うに及ばず多岐に亘る貴重な情報が瞬時に手に入る。
   インターネットは、日本のメディアの他に、NEWYORK TIMES, WASHINGTON POST、WALL STREET J,FT,THE TIMES, INDEPENDENT,それに、THE ECONOMIST, BUSINESS WEEK, TIME, MEWSWEEK等の電子版を流し読みしている。
   それに、BBCやCNN,ABC,NBC等の放送関係の情報源も役に立つ。
   FTやECONOMISTは、最近、購読者専用となりブロックされて読めない記事が多くなったが、別に不都合はなく購読するほどのこともないので、読める所だけで満足している。
   しかし、日本の新聞や放送メディア等のインターネット・ページは、動画を含めても、何故、あんなに大衆迎合的で程度が低いのか不思議に思っている。
   
   もう一つ役に立つのは、メルマガで、日経関係の多くのもの、野口悠紀雄、大前研一と言った先生方のモノで、これが結構役に立っている。

   とにかく、情報の洪水、如何に優良な情報源にアクセスして、それを咀嚼して取り込み自分のものとして消化出来るか、日々の戦いの継続、これが現状である。
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個人投資家説明会(ミレアH)・・・対極のライブドア狂想曲

2006年01月19日 | 政治・経済・社会
   今日、帝国ホテルで、ノムラIR主催で、ミレアホールディングスの個人投資家説明会が、行われたので聴講した。
   石原邦夫取締役社長から「ミレアグループの現状と新中期計画」、そして、東京海上日動あんしん生命(株)の太田資暁取締役社長から「あんしん生命の成長戦略」についての説明があり、質疑応答を含めて1時間半で終了した。

   ミレアグループの長期目標は、業績の浮沈の激しい国内損保事業の比率を下げて、国内生保事業、金融及び一般事業、海外保険事業等の拡大に注力して保険のステージを拡大し、修正利益を約3倍にしてROEを8%以上にして世界トップクラスの保険グループを目指すことだと言う。
   成長性、収益性、健全性といった面で世界のトップクラスの保険グループを目指して、各ステイクホールダーに対して価値を提供し、社会的責任を果たし、ともに永続的に発展する会社を目指すことによって、株主にとって中長期的な企業価値の最大化を目指す、のだと言うのである。
   極めて真面目な個人投資家説明会であった。

   最近、大和やいちよし等の証券会社や金融関連、それに日経やロイターなどメディアも含めてあっちこっちで個人投資家説明会が開かれていて盛況であるが、各社、まちまちで個性が出ていて面白い。
   ノムラは、ドコモやミレアと言った優良な大企業のIRに力を入れているが、日経等は、東証1部からマザーズ等まちまちだが、東京IPOやブリッジサロン等は比較的新規上場の会社のIRが多いとか、特色があり、問題のライブドアなどのIR説明会を聞いたことがある。
   株式投資の参考として聞くのではなく、新規事業の立ち上げや優良企業の事業モデル等経営コンサルタントの仕事の参考にと思って聞いているのである。
レッドオーシャンと言うかオールドエコノミーと言うか伝統ある優良企業が、何故、あれほど業績が悪くて株価が低く、即ち、企業価値が低いのか、逆に、ニッチを追い求めたり、ブルーオーシャンの新規事業に船出したベンチャー志向の企業が、何故、あれほど成績が良いのか、教えられることが多い。

   ところで、ライブドア問題で引き金を引かれて、日本の株式市場が世界の非難を浴びているが、根本的な問題は、グローバル化した金融市場に対応するインフラも含めて株式市場システムの整備がなされていなかったことで、リスク管理意識の極端な欠如であろうか。
東証のIT関連トラブルは連続しており、不可抗力でもないのに市場を閉鎖するなど言語道断で、国際証券市場としての資格も能力も有していないことを示している。
   
   ライブドアの錬金術について非難されている。偽計取引、風説の流布、株式分割、粉飾決算などで株価を吊り上げて時価総額による企業価値を増して更にM&Aで成長拡大を計って来たことが。
   アメリカの場合は、ITバブルによって株価が異常に高騰して時価総額が巨大化したIT関連企業が、株式交換によって積極的にM&Aを繰り返して巨大企業化した例があった。
これは、バブルだが、しかし、ライブドアの場合は、故意に株価を吊り上げようと画策して、これに煽られた一般投資家人気に支えられて巨大化してきた。
   実態が脆弱な会社でこんなことが永遠に続くわけがないので結局粉飾に粉飾を重ねる等違法行為を続けざるを得なくなる。
これは、エンロンやワールドコム等アメリカでの証券不祥事で十分経験済みであり、日本には、アメリカで、とうの昔に終わっていたはずのITバブルがまだ残っていたと言うだけの話である。
   それに、実態が進みすぎていて、法体系の未整備が呼応して、更に事態が悪化してしまった。
   金儲けの為には違法行為すれすれ何をやっても良いと言ったライブドアの幹部のモラル欠如は御し難く、結局違法行為に踏み込んでしまったのだが、コーポレート・ガバナンスの欠如、中でも、コンプライアンスの欠如は酷すぎる。
   しかし、太平天国、安閑としていた日本の経済社会に一石を投じてイノベイティブな新しい波を起こしたライブドアの働きと言うか、動きについては、私は認めており、この波動は大切にすべきであると思っている。

   根本的な問題は、日本の法制度であろう。
   早稲田の上村達男教授が何時も言われているように、遵法精神希薄で話し合い優先の旧態已然たる日本社会に、ジョン・ウエインやピストルや保安官等の必要な恐いアメリカのような制度を導入・整備することなく、商法や証取法等法律だけを変えて近代化(?)を推し進めようとした日本の貧弱な司法・法体制に根本的な問題があるのではなかろうか。
   少なくとも、後追いでも、アメリカでエンロン直後にSOX法が施行されたように、迅速な対応が必須であろうと思っている。

   もう一つの問題は、経過せざるを得ない過程かも知れないが、一般個人投資家の対応で、今回の株価暴落と取引停止のために、信用取引で株取引をしていた個人投資家の損失が膨らんだと聞く。
   現実は、もう既に、株式市場の、特に個人投資家部門では、ミニバブルが始まっているのではなかろうか。
   「ヘッジファンドで増やす時代」などと言う本が売れていて、デリバティブや外為の証拠金取引がポピュラーになるなど、今後レバレッジを利かせて実力以上の取引をする素人の投資家が増えてきて、今回のライブドア問題のような事件が発生すると株価が乱高下して収拾がつかなくなる。
   「質」の良い所は質草が限度であること、歯止めがある。しかし、元も子も損する投機は、底がない。
   
   カジノなどでのギャンブルは、欧米の場合は、負けっぷりが如何に立派かで評価されると言う。
イギリスのアスコットやケンタッキーのダービーでも、金儲けなどではなくスポーツとしての競馬を楽しむと言う。
   日本の場合は、賭けと言うと、丁半の世界で、まだまだ暗いイメージが付きまとう。
   個人投資家の活況は、日本経済にとっては良い事かもしれないが、煽るだけではなく健全な株式投資の教育も望まれる所であろうか。
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日英交流大坂歌舞伎展・・・早稲田大学演劇博物館

2006年01月18日 | 展覧会・展示会
   早稲田大学にフォーラム等で行くと、坪内逍遥の部屋のある演劇博物館を訪れる。
小さな博物館だが、日本古代から宝塚まで、日本の伝統芸術や舞台芸術に関する貴重な資料が展示されていていて、静かで穏やかな時間を楽しめるのが嬉しい。

   私のアメリカの母校ウォートン・スクールのあるペンシルヴェニア大学には、アンネンバーグ・シアターと言う劇場があって、何度か演劇を観に出かけた記憶があるが、早稲田も、坪内逍遥を生み、早稲田文学の牙城であるのだから、劇場があって新しい演劇の発信基地となっていても不思議ではないと思うのだが、日本は貧しいのであろうか。
   もっとも、ペンシルヴェニア大学には、何万人も入るフットボール・スタジアムがあったり、小型のスフインクスや巨大な古代エジプト時代のの立像が並ぶ大きな博物館等色々な文化施設があったが、やはり、大学そのものの成り立ちと存在意義が違うのかもしれない。

   12月から始まっていて、もう20日までしかないが、この早稲田大学演劇博物館で、「日英交流 大坂歌舞伎展ー上方役者絵と都市文化」が開かれている。
   昨年ロンドン訪問時に大英博物館で観た「KABUKI HEROS on the Osaka stage 1780-1830」の巡回展示で、会場の都合か、多少ディスプレーが違っているが、イギリスに現存する絵画や本など貴重な資料が展示されている。
   明治維新や戦後に二束三文で海外に移った素晴しい絵を見ていると、日本人のバカさ加減が痛いほど分かる。

   坂田藤十郎は、18世紀の初めまで活躍していたが、この展示は、そのずっと後の文化文政年間で、江戸文化の爛熟期であったが、大坂歌舞伎も、初代璃寛と三代目中村歌右衛門(芝翫)が熱狂的な人気を集めていた。
   この両雄は、仲が悪くて共演しなかったので、フアン達が架空の共演を想定して描かれた錦絵を競って買い集めたと言い、この展示会にも、その素晴しい絵が展示されている。
   仲違いを解消して共演することになったが、その直前に、璃寛が亡くなって、結局、フアンを満足させられなかったと言う。
   大坂歌舞伎の錦絵は、写楽の絵のようにデフォルメされていないので、実にリアルで美しい。

   ロンドンでは、坂田藤十郎の襲名を祝して、大英博物館の会場には、中村鴈治郎の舞台写真が沢山展示されていたが、この早稲田会場にも、藤十郎のミニ・コーナーがある。
   昨年9月に中村鴈治郎が、ロンドンでミニ公演を行ったが人気はどうであったであろうか。
   第三代中村歌右衛門は、3回江戸に下って、歌舞伎を演じて大変な好評を博したようだが、大坂歌舞伎の大名跡が、今では殆ど東京に移ってしまって寂しい限りである。
   もっともかく言う私も関西で歌舞伎を観たことがないのだから偉そうなことは言えない。

   ところで、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーのシェイクスピア展は、まだ、2月下旬まで、早稲田大学演劇博物館で開催されている。
   沢山の舞台写真を見ていると、20年ほど以前に、NHKで、BBC製作のシェイクスピア戯曲が連続放映されていたが、もう一度放映してくれないかと思う。
   
   
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イノベーションと経営(4)・・・青色ダイオード中村修二教授の提言

2006年01月17日 | イノベーションと経営
   本日、早稲田大学の井深大記念ホールで「早稲田大学先端科学・健康医療融合研究機構」主催の『早稲田の挑戦と「大学力」』と言うシンポジュームが開催された。
   医学部を持たない早稲田大学が、先端科学と健康医療を融合して最先端の生命科学を追及しようと革新的なプロジェクトを推進しているのだが、そのシンポジュームで、同機構の機構長でもある早稲田大学白井克彦総長の著書「大学力」を正面に据えて早稲田大学のあり方を検討するシンポジュームの第二部では、白井総長他田原総一朗氏等が参加したが、その前に、中村修二教授の特別講演があった。

   中村教授の講演は、演題なしのユニークな講演であったが、教授自身の青色ダイオード発見に絡む経験を中心にサンタバーバラでの学究生活や会社との訴訟問題で経験した日米の教育や司法制度の違い等について興味深い話を1時間に渡って語った。

   冒頭から日米の大学の在り方の差について語り始めた。
「日本では刑務所行きだが、アメリカでは、賄賂を貰う先生ほど優秀なのである。
金儲けがインセンティブになっていて、優秀な先生方は、2つや3つのベンチャーをやっており、良く出来る学生は、間違いなしにベンチャー企業を目指している。
大学の研究も産官協働が多く、学生達は、その中で、ベンチャー事業のあり方を学んで巣立ってゆく。
日本では、いまだに学生は大企業に就職して永遠のサラリーマンを目指している。」

   「日本では、技術系の社員が業績を上げると役が付くが、昇進によるマネジメントは文科系の仕事で、技術系は、そんな仕事はしたくなく研究を続けたいのである。
   青色ダイオードを発見した後、研究所の所長にと言われたが、ハンコを押すだけの仕事でバカになるので会社を辞めた。
   アメリカでは、社員の評価はお金であるが、日本では、皆一緒で、何のインセンティブもなかった。
   あの時、100万円でも貰っておれば辞めなかったかも知れない。」

   「諸悪の根源は、日本の入試制度で、これがガンであり、これをやめない限り日本の明日はない。
   日本でも、小学生の頃は、子供は理科が好きで、嬉々として野山でバッタやイナゴを追っかけているが、中学、高校と進むにつれて、入学試験の為に夢も希望も失ってしまう。
   アメリカでは、小学校の時に化学が好きなら、ずっと化学をやっていて、好きなことだけやれるので完全にストレスフリーで子供たちは嬉々としており、皆、自分がその道でNO.1だと思っている。
   小学生で、半導体レーダーの研究をしている子供が居て、あらゆる最新の論文を読むなど研究を続けている。
   全く役に立たないナンセンスな、丸暗記だけの超ウルトラ難関クイズに、うつつを抜かしていては、これ等に勝てるわけがない。」

   「大学入学試験を止めて、自由に大学に入れるようにすればよい。
   東大医学部に入りたい人間が何十万人居るかもしれないし、授業を受ける為にテントを張って何日も前から席を確保する為に待機するかも知れない。
   難しい試験をしてダメな者は落とせば良い。自然に身の程を知って止めて行き落着く筈である。」

   中村教授の議論は、極論のように聞こえるが、イノベーションを産む為の土壌について端的に語っている。   
   このブログでも以前に、日本の教育制度の問題についてまとめて書いたことがあるが、戦後の民主教育(?)が、日教組なのか文部省なのか知らないが、子供の個性や独創性等を自由に伸ばすことの出来ない悪平等型であったことは間違いないと思う。子供のかけっこで、皆が1等などと言う世界は、有り得ない筈なのである。

   田原総一朗氏の「世界の科学者に伍して何故青色ダイオードを発見できたのか」との質問に対して、中村教授は、「世界の大勢は総て同じA方向を向いて研究を続けていたが、自分は別なB方向の研究を目指したからだ」と答えた。
   当時日本の大企業は、東大の博士号を持った多くの研究者が居て、「押してダメなら引いてみろ」と言う極簡単な発想さえ出来ない、或いは、許されない閉塞状態にあったのだと言う。

   先日触れたメディチ効果のヨハンソンなど、もっと過激なことを言っているが、イノベーションとは、極論すると、過去の全否定、完全に新しい革新的なモノでなければならないのである。
   シュンペーターの創造的破壊も、過去を完全に破壊して創造しなければならないことを言っている。

   簡単に企業の成長の為には、差別化を推進して利潤を得る為にはイノベーションの追求が必須だと言うが、そんなイノベイティブな発想とアイデアを持った優秀な人材をどうして確保するのか。
   泥棒を捕まえて縄綯い・・・まず、日本の教育制度を、創造性と豊かな個性を育める様な、もっと自由な、そして、競争原理を導入して切磋琢磨できるようなモノに変革することが必要ではないであろうか。
   
(追)訴訟については、正義と悪のアメリカと、利益衡量の日本についての面白い話を聞いたが、中村修二著「ごめん」を読んでからコメントしたい。
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